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●小児性愛

 NY氏(K大講師)が書いている、「小児性愛とは何か」という記事も、たいへんおもしろかった
(「月刊G・3月号」p104)。

 女性のことは知らない。しかし男性には、それぞれ、固有の(?)性的嗜好性がある。それに
気づいたのは、ある日、私にこんなことを言った男性がいたからだ。私がまだ24、5歳のころ
のことだった。

 従業員が、15人ほどの、電気工事店を経営していた男性だった。いわく、「オレは、尻の大
きな女性が好きだ。そういう女性に、顔を押しつぶしてもらうと、ゾクゾクと感ずる」と。

 ある程度の範囲でのことなら、私にも理解できる。たとえば女性のスカートの下をのぞいてみ
たいとか、風呂屋の番台ごしに、女湯のほうをのぞいてみたいとか、など。私にも、そういう嗜
好性がないわけではない。しかし「大きな女性の尻で、顔を押しつぶしてもらいたい」とは! そ
のときは、「本当?」と思うと同時に、「人、それぞれだな」と思った。

 で、やがて年をとるにつれて、私は、10人の男がいれば、それぞれの人に、10種類の性的
嗜好性があるということを知った。女性の汚れた下着に興奮する男もいれば、ムチで女性に打
たれると興奮する男もいる。

 この世界には、正常も異常も、ない。スタンダード(標準)もなければ、基準もない。同性愛に
しても、いまでは、それを問題にする人はいない。しょせん男と女の世界。たがいに合意の上
でなら、何をしてもよい。が、一つだけ、「困る」というのがある。

 小児性愛である。性嗜好障害の一つと考えられている。

 先日も、N県で、小学生の女の子が誘拐され、殺されるという事件が起きた。犯人は、前科
のある30代半ばの男だった。(その男が、小児性愛者だったと言っているのではない。誤解の
ないように!)どんな性的嗜好性をもとうが、それはその人の勝手だが、相手が、子どもという
点で、問題がある。許せない。

 その小児性愛者については、WHO(世界保健機関)の「国際疾病分類」(ICD−10)の定義
によれば、つぎのようであるという(参考、同・月刊G)。

(1)前思春期(通常13歳以下)に対して強烈な性的衝動を、
(2)少なくとも6か月以上もっていて、
(3)実際に性的行為におよび、
(4)この性衝動のために本人が苦悩している。

 この中で、とくに注意をひくのは、小児性愛者は、子どもに対しては、性的衝動を感ずること
はあっても、成人の女性とのセックスなどでは、満足できないという点である(同、NY氏)。つま
り完成された女性の肉体には、興味を示さないということか。

 ここで私は、「興味」という言葉を使ったが、本当は正しくないかもしれない。たとえば私は、こ
の年齢になっても、いまだに同性愛者の気持ちが、理解できない。少しでも私の中に、その傾
向があるなら、理解できるかもしれない。

 たとえば、よく知られた例に、「のぞき」がある。窃視症ともいう。入浴中の女性に、性的興奮
を覚えるというものだが、私にも、それがあることに、あるとき、気がついた。廊下を歩いてい
て、ふと、ワイフの入浴中の姿が見えたときのこと。私はそれまで感じたことがない、性的興奮
を覚えた。

 だから「のぞき」については、理解できる。「旅館で、女湯をのぞいたよ」と言う男がいたりして
も、それほど違和感を覚えない。(だからといって、それを許しているわけではない。誤解のな
いように!)が、同性愛については、頭をさかさまにしても、理解できない。

 つまりこの性的嗜好性の問題は、白黒の境界が、きわめてはっきりしているということ。興味
があるとかないとか、関心があるとかないとか、そういう問題ではない。ある人にはあり、ない
人には、まったくない。そういう意味でも、性嗜好性障害の問題は、ほかの精神障害とは区別
される、特異な問題と考えてよい。

 そこでつぎの問題は、こうした性嗜好性障害は、その人の自身の努力で、変えられるものか
ということ。たとえば私について言うなら、同性には性的関心をもたない。そういう私でも、何ら
かの訓練や指導によって、関心をもつことができるようになるのだろうか。

 私の印象では、それは不可能ではないか思う。あえて正直に告白すれば、大きな女性の尻
は、私には、グロテスク以外の、何ものでもない。そんな尻に顔を押しつぶされたら、性的に興
奮する前に、嫌悪感に耐えきれず、逃げ出してしまうだろう。相手が男なら、なおさらだ。想像
するだけで、ゾッとする。

 では、小児性愛はどうか。たしかに子どもには、汚れのない美しさがある。しかしそれは「心」
のことであって、「肉体」のことではない。だから子どもに、性的魅力を感ずるということは、私
のばあいは、ない。

 が、小児愛者たちは、一般的な男たちが、成人した女性の胸や陰部を見たときに感ずるよう
な性的快感を、子どもに感ずるという。このときも、「なぜ」「どうして」という質問は、意味はな
い。感ずるものは、感ずるのであって、どうしようもない。同性愛者が、同性に性的な関心をも
つことについて、「なぜ」「どうして」と質問するのと、同じである。

 反対に、ではなぜ、私を含めて、一般的な男たちが、女性の胸や陰部に、関心をもつのか。
それについて、「なぜ」「どうして」と聞かれても、困る。性的嗜好性というのは、そういうものであ
る。

 で、NY氏は、先のN県で起きた女児誘拐殺害事件について、記事の中で、犯人の再犯性に
ついて、詳しく書いている。が、結論から先に言えば、いくら刑罰を科しても、こうした性的嗜好
性は、変えられないということらしい。根が深いというか、原始的な本能に根ざしているためで
はないか。

 そのため、再犯性がきわめて高く、一度犯罪を犯したものは、刑期を終えたあとも、追跡観
察が必要ということになる。

 その小児性愛者の特徴としては、つぎの二つがあるという(同誌)。

(1)小児性愛者は、子ども自身が、それを望んでいると錯覚している。
(2)性的興奮を得る段階で、視覚的刺激による部分が大きい。

 ふつう、男というのは、視覚的刺激だけではなく、女性の声や雰囲気、様子などで性的な興
奮を覚える。しかし小児性愛者は、視覚的な刺激が優勢で、聴覚的な刺激などには、ほとんど
反応しないということらしい。NY氏は、こうした事実をふまえて、「(小児性愛者には)何らかの
動物的な本能が欠落しているためだと考えられる」と結論づけている。

 ただしNY氏も書いているように、小児性愛者イコール、小児わいせつではないということ。

 大半の人は、そうした性的嗜好性をもちながらも、ごくふつうの人として、ふつうの生活を営ん
でいる。結婚して、子どもをもうけているケースも、少なくない。嗜好性の強弱の問題というより
は、その人の自己管理能力の問題ということになる。

 私も、この幼児教育の世界に入るとき、時の幼稚園の園長から、「絶対に守るように」と、き
びしい掟(おきて)を、授けられた。それはどんなことがあっても、女児には、指1本、触れては
ならないという掟だった。

 頭(ほめるときに頭をさわる)と、手(握手など)をのぞいて、以来、35年になるが、私は今で
も、その掟を守っている。その当時から、(当時は、小児性愛という言葉はなかったが……)、
そうした問題が、子どもの世界で起きていたからではないか。園長は、それを知っていた。

 で、何かの事情があって、幼児(女児)を抱きあげるときは、100%、例外なく、近くにいる母
親の了解を求めてからにしている。さらに、女児にかぎらず、女子中学生や、高校生と面を向
って話すときは、かならずポケットに手を入れて話すようにしている。これは掟とはちがうが、気
がついてみたら、いつの間にか、そうなっていた。

 言うまでもなく、不要な誤解をされないためである。

 ただ、NY氏によれば、小児愛者の中には、同性愛者も少なくないという。かならずしも、相手
が異性とはかぎらない。成人の男が、男児に、性的な衝動を感ずるようなケースをいう。こうい
うケースは、同じ性嗜好性障害の中でも、重症だそうだ。

 私のばあいは、相手が男児なら、平気で、抱きあげたり、ときには、プロレスごっこをしたりす
る。(女児とは、もちろん、したことがない。)しかしこれからは、男児との接触も、してはいけな
いということになるのか? 

 最後に、一例だけだが、私には、こんな失敗がある。

 その子ども(小3女児)は、何かにつけて、私に、ベタベタと体をすりよせてきた。イスに座っ
て、雑誌を読んでいるようなときでも、私にとびついてきた。私は、すかさず、その子どもを手で
押して、私の体から、離した。

 で、ある日、かなりきつくその子どもを叱った。

 その子どものためというよりは、参観している親たちに、不要な誤解を与えないためである。
こうした誤解は、私のような仕事をしている者にとっては、決定的に、まずい。

 が、その子どもは、その日を境に、私の教室へこなくなった。そればかりか、ほかの子どもた
ちに、「あの林は、私にエッチなことをした」と言いふらし始めた。

 私は、そのとき、40歳代の半ばごろだったが、これには激怒した。まず、その子どもの親に
電話をした。つづいて、その子どもを、電話口に出した。そして年甲斐(がい)もなく、怒鳴りつ
けてやった。いくらうわさでも、この世界にも、許せることと、許せないことがある。

 で、今でも、ときどき、私に体をベタベタとする寄せてくる子どもがいる。しかし最初の段階で、
きっぱりと、「それは悪いことだ」と子どもに、話すようにしている。この話は、小児性愛とは関
係ないが……。

 ほかにも、窃視症(のぞき)のほか、露出狂、サド、マゾなどの性嗜好性障害がある。原因の
多くは、乳幼児期における、ゆがんだ性意識の形成にあるとされる。「障害」とまでは言えない
にしても、威圧的な母親をもったために、女性に対して恐怖心をもつようになる男児も、少なく
ない。

 大切なことは、親は、子どもに対しては、ほどよい親であるということ。そして子どもは、子ど
もの世界を通して、自然な形で、性意識をはぐくむのが、よい。私の結論は、そういうことにな
る。
(はやし浩司 小児性愛 性嗜好障害 性的嗜好性 性嗜好性 小児愛)

(付記)

日本のK首相は2月15日の閣僚懇談会で、再犯率の高い犯罪で懲役刑を受け、出所した人
物の居住地などの情報を、法務省から警察庁に提供するための体制づくりを急ぐよう、関係閣
僚に指示した。対象犯罪は、性犯罪に加え、放火、麻薬、暴力犯などを想定している。これを
受け、政府は16日、再犯防止に関する関係省庁の局長・審議官級の会議を開催する。(ヤフ
ー・ニュースより)




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●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残
している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

+++++++++++++++++++++

●私に夢、希望、目的

 そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。

 毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。

 私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れること。今は
(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに方法は、よくわから
ないが、このわからないときが、楽しい。)

 希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号までつづける
こと。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後のことは、考えてい
ない。

 毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこともある
のか!」と。

 しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐る。体力
と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノを毎日、書いている
と、それがよくわかる。

 数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボンヤリとし
てくる。

 ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断してしま
うのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐っても、自分
ではそれがわからない。

 「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。

 だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)




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●依存性の強い子ども

 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、相談があった。「何かにつけて、リズムが、ワンテン
ポ遅く、心配である」と。転載の許可がもらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親のEAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相談者
の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の母)の7人。

+++++++++++++++++++++++

学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までしてい
る。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければならないという
ことがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)人より遅くても、気にしな
い。(4)いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣のことおし
ゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作品は完成していた。と
いった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

++++++++++++++++++++++++ 

 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母との同
居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性について考
えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念のた
め。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとんどのば
あい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうものであるかさえ、
わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子としてしまう。だから「あ
なたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意する。
洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを脱がせ、服を
着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさしだしたり
する。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようとする。子
どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子どもも、
考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、無意識のうち
に、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親というの
は、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子どもの依存性
にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがおばあち
ゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖してい
る。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本の子育て
は、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなっている。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を迎える
ことすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変わってきた
が……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子どもの自立と
いうことになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になることはあっても、益に
なることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、これもむ
ずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、その関
係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらない。兄弟、
夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当然と考えるように
なる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そしてたがいがが、その前提
で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて書いた原
稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

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●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバ
ッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中
に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。
そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、
その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声
を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をし
ていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれる
ような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あ
るいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがい
になっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を
書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こ
ういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてです
か」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配
で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、
反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあ
と母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケース
は今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの
園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親
は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて
逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だ
った。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今で
も、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイ
プの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこ
の子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成
そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える
側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が
遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイ
プの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、
ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけ
で育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪
をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとり
では何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だ
ちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠
ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れな
いなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そし
てその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動
面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA
君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ
行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけ
で、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくな
る。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にして
いるかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されるこ
とになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずに
だが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分で
させるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるに
しても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえ
て言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳
から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子
どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、
社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくな
る。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それは
ちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。
同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがた
いへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにな
らない。これは子どもを育てるときの常識である。

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 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれることがあ
る。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特定の
人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるということではな
い。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞う子ども
もいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。あるいは年齢
とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親のありがたみを、こ
とさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えてよい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受けて
育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。しかしこれ
は子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。それだけに、扱
い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、別居という
ところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きるとしても、マ
イナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、親は親として、好き
勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その内容
は、つぎのように分けて考える。

(1)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(2)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(3)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(4)無責任(責任ある行動ができない。)
(5)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(6)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(7)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(8)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(9)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自己管理
能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、スム
ーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ムラ(邑)」
社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の技法
も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それでもい
い」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いたように、相互に依
存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心地のよい世界である。今
でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることがある。「これこそ、まさに日本人
が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉しあうと
いうのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できないほど、濃密な
人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもないわけ
ではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっきりしない。日
本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な合理主義にも、抵抗を
感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がかか
える、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」あるい
は、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観を根
底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のような若い女性
には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、よい
のではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもになってい
ます」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、解
決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されていく。そ
ういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を考えてい
く。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そのあとということ
になる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、子ども
どうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞いてみるの
も、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別の子どもであるこ
とが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしまいました。
あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、うれしいです。(あるい
は、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構です。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、(満腹
症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じの子どもをい
います。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼児期か
ら、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもありません。ひょ
っとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもしれません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えてみられ
ては、いかがでしょうか。

(1)いつも満足げで、おっとりとしている。
(2)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(3)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(4)ほかの子どもに、追従的。
(5)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなことはしな
い。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほうがよいかもし
れません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなりできあがってしまって
いると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が出てくる
ことが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。柔和だが、ハキ
がない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この時期の
鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育ってきます。
そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の状態を維持しな
がら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父母は、
旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。「うちの子
は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、しかし
メリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押しつけない
ことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、何かと思うよ
うにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や期待を一枚ずつ、
はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこれしようと
考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなりかねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、三番底
があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできるようになった
わね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだかまりや、不信感が
あれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、いつまでた
っても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛的に、
自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分があるのかもしれ
ません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)というようであれば、この
気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接しているようであ
れば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもっている
人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちです。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみしさに耐
えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、自立できない、
ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置いて、
これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。





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子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。

母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」
母「手を見せなさい」
子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそうい
うウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困りま
す!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。

が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親
の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこ
ともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 もうあれから、30年近くになる。

ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。

そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりことこまか
に話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど
逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。
落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞い
た。

何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落としたとい
う金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことがたび
たび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、そのつ
ど、どこかつじつまが合わなかった。

そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えることにし
た。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑
うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。
「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな
 
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこ
んだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世
界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式の
ウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。


 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもを、追いやって
しまうことになるから注意する。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものウソ

【群馬県O市の、Hさんからの相談より】

+++++++++++++++++++++++

●子供の嘘とのつきあい方について、教えてください。

長女5才は、幼稚園での良いことは話しますが、自分のした悪いことはとくに話しません。です
から、長女の悪事(!?)については、友達の親御さんから聞くことが多いです。

たいがいは、お互い様のようですが、時々一方的に加害者の時があります。

(遊びの中でひとりの友達の背中をみんなではたいた、指図したのは長女……など)、相手の
あることなので親としては詳しく知りたく、話を聞こうとしますが、なかなか言いません。

 はじめは……何か幼稚園であったかな。
 次に……○○ちゃん(相手)と、どうかな。
 それでも言わないので、「○○ちゃんから、聴いたんだけど……」と。

 すると、少しずつ話し始めますが、全部言おうとしない。それでも問いつめると、今度は、△△
ちゃんがやれって言った。などと、人にかづける始末。さすがにこれは許せなくてここまでくる
と、強く叱ってしまいます。      

近所に住む祖母がそばにいると、長女が「何もやってない」と言っただけで、そうよね、と話は
そこで終わり。

長女が話さないのは、私たち親の受容が足りないからだと思いつつ、悪いことは隠せない、悪
いことは叱られて当然……と長女に分からせたくて、つい、つきつめて話そうとしてしまいます。

人のせいにするなんて、それがまかり通るなんて、ほっといたら良くないと思ってしまうのです。

今まで厳しく追及してきましたが、長女が口を割らないのは相変わらずです。(さすがに人のせ
いにすることはなくなりました。)私たちのやりかたは、逆効果? 祖母のように接するべき?

子供の言葉を信じること(受容)、でもさとすこと、なかなかうまくいきません。

幼児の自分を取り繕う嘘は、きびしく追求しないで聴いてあげるべきでしょうか。ケースバイケ
ースだとは思いますが、何か良いアドバイスがありましたらお願いします。

++++++++++++++++++++++

●子どもの世界

 子育てをしていると、つぎつぎと、問題が起きてくる。それは岸辺に打ち寄せる波のようでも
ある。小さな波がつづいたかと思うと、大きな波がやってくる。ときには、体をのみこむほど大き
な波がやってくることもある。

 で、そういうとき、つまり問題にぶつかるたびに、(当然のことだが)、親は、ときとして右往左
往し、混乱する。

 そこで重要なことは、そうした問題の一つ一つには、それなりに対処していかねばならない
が、もう少し大きな目で、問題解決のための思考プロセスを、頭の中に用意しておくということ
である。

 相談者の方は、子どものウソについて、悩んでいる。この時期、子どものウソは、珍しくない。
しかしこうした意図的なウソは、それほど大きな問題ではない。私たちおとなだって、日常的
に、ウソをついている。

 心配なウソとしては、妄想や、空想的虚言がある。それについては、すでに何度も書いてき
たので、それはそれとして、こうした問題は、つぎからつぎへとやってくる。私は、それを岸辺に
打ち寄せる波のようだという。

 そこで思考プロセスを、用意する。箇条書きにすると、こうなる。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
ものであるという前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない

株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

言葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、
なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言った
からといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言い
ながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。


●「核」攻撃は、禁物

子どもを叱っても、子どもの心の「核」にふれるようなことは、言ってはいけない。「やっぱり、あ
なたはダメな子ね」「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」などというのが、それ。
叱るときは、行為のどこがどのように悪かったかだけを、言う。具体的に、こまかく言う。が、子
どもの人格にかかわるようなことは言わない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意

「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。





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●悪性自己愛症候群

++++++++++++++++++++++

自己愛の三大特徴は、(1)極端な自己中心性、(2)
完ぺき主義、(3)他者の批判を許さない、ですね。

「自分は最高」と思う、その返す刀で、自分以外の
人の価値を認めません。歴代の独裁者たちに、その
例を見るまでもありません。

その自己愛が、さらに変質すると、ここでいう悪性
自己愛症候群と呼ばれる症状を見せるようになります。

こわいですよ〜、

++++++++++++++++++++++++

 小学生の少女を殺害するというような犯罪者に関して、「悪性自己愛症候群」という言葉が聞
かれる。

 自己愛者は、少なくない。一般論として、自己中心性が、極端なまでに肥大化し、「世界の中
心にいるのは私だけ」「私さえよければ、あとはかまわない」などと考えるようになるのを、自己
愛という。極端な完ぺき主義、他者の価値(人格)の否定なども、その中に含まれる。

 そうした自己愛が、さらに社会との隔絶などによって、独特の世界をつくることがある。多く
は、引きこもり(withdrawal)や、退却(retreat)をともなうことが多い。他者と良好な人間関係を
結べないためである。

 こうした状況が長くつづくと、性嗜好性障害のほか、倒錯的趣味や妄想性、空想的虚言性な
どが加速される。他者への暴力的攻撃性が出てくることもある。そうした症状を、総称して、
「悪性自己愛症候群」という。

 こうした悪性自己愛を防ぐためには、どうするか。

 言うまでもなく、他者との共鳴性を、大切にする。(他人の立場になって、他人の苦しみや悲し
みを共有することを、「共鳴性」という。)

ここ10年ほど、学校教育の現場でも、ボランティア活動の利点が見なおされてきているが、そ
うした活動、つまり損得を考えない他者への犠牲的行為、貢献をとおして、子どもに利他の心
を学ばせる。

 自分勝手で、わがままであるなど、子どもに利己的な様子が見られたら、「それは悪いこと」
と、はっきりと、さとしていく。言うまでもなく、利己と利他は、相反する、相克(そうこく)関係にあ
る。利己を修正するためには、利他的行動を子どもに求めるのが、もっとも有効である。

 さらに言えば、こうした利他性は、子どものばあい、(使いこむ)ことによって養われる。「子ど
もは使えば使うほど、よい子」という格言は、こうした背景から生まれた。ただしその時期は、
満4・5歳まで。この時期をすぎると、子どもは、親の指示に従わなくなる。

 この時期の家庭教育が、きわめて重要であることは、言うまでもない。
(はやし浩司 自己愛 自己愛者 悪性自己愛症候群 利己 利他 共鳴性)

(付記)

 「子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)」などと、もしあなたが考えているなら、それ
は、とんでもない誤解である。

 子どもは使う。家事でも、何でも、だ。「あなたがこれをしなければ、家族の皆が困るのだ」と
いう雰囲気を、家庭の中につくっていく。子どもを決して、王子様や王女様にしてはいけない。

 子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせることではない。子どもにいい思いをさせ
ることでもない。子どもに好き勝手なことをさせることでもない。

 子どもをかわいがるということは、子どもを、いつか、よき家庭人として、自立させることであ
る。そのために、親としてはつらいところだが、子どもは使って使って、使いまくる。そういう育
児姿勢の中から、子どもは社会性を身につけ、忍耐力を養う。そしてここでいう「利他の心」を
学ぶ。余計なことかもしれないが……。

【補記】

 人はその成長とともに、「愛」を自分に対するもの(=自己愛)から、他人への愛(=対象愛)
へと転換していく。

 しかし乳幼児期に何らかの原因(多くは、愛情飢餓、欲求不満など)によって、その転換が、
遅れることがある。あるいは、内にこもったまま、外部に発展できなくなってしまう。

 自己愛者は、(自己)をすべての中心におき、自分を絶対化する。そのため完ぺき主義にお
ちいりやすく、自分の失敗はもちろん、他人からの批判、批評を許さない。批評、批判されただ
けで、混乱状態になる。

 日常的な行動としては、猪突猛進型。人の意見を聞かない。わがままで、自分勝手。しかし
当の本人は、そうは思っていない。「私が正しい」「私の正しさがわからないのは、それだけ、世
間の人たちが、愚かだから」と。

 自己愛者は、それでいて、他人の目を気にする。愛他的自己愛という言葉もある。他人の目
を意識したとたん、自分をよい人間に見せようと、見せかけの愛情を、ふりまいたりする。

 自己愛の中心にあるのが、幼児期の自己中心性。そのためフロイトは、自己愛者は、「リピド
ーが、自我の範囲にとどまって、他人に届かない状態」と考えた。つまりは、精神の未発達な
状態である、と。(これに対する、異説、反論は多いが……。)

 自己愛のことを、「ナルシズム」ともいう。ギリシア神話に出てくる、ナルキッソスに由来する。
自分の顔の美しさに自己陶酔してしまった男の話である。

 ほかに、自分の経歴や過去、さらに家柄に固執し、「私は絶対だ」と思うのも、変形自己愛者
と考えてよいのでは……? 日本には、まだ、このタイプの人が多い。
(はやし浩司 自己愛 対象愛 ナルシズム 自己陶酔 ナルキッソス)

++++++++++++++++++++++

●自己愛について

自分を大切にすることを、「自己愛」と誤解している人がいる。

 しかし自分を大切にすることと、「自分だけが大切な人間だ」と思うことは、別。自己愛は、も
ともと極端な自己中心性が肥大化して、そうなる。

 たとえば私の兄は、頭が半分ボケている。痴呆症というより、人格そのものが、崩壊し始めて
いる。

 だから、こんな奇妙な現象が起きている。

 兄は、いつも時計ばかりを見ている。そして夕方、5時ごろになると、台所へやってきて、わざ
と時計をのぞきこむしぐさをしてみせる。

 もちろん、家事など、いっさい手伝わない。時計をのぞきこむしぐさを見せるのは、「夕食はま
だか?」「早くつくれ!」というサインである。

 そこであわてて、ワイフは兄のために夕食を用意する。私たちは、いつも7時ごろ、食べる。

 で、用意し終わって、「さあ、どうぞ」とワイフが声をかけると、兄は、こう言う。「ごくろうさん」
と。

 「ありがとう」ではなく、「ごくろうさん」である。

 つまり夕食を用意するのは、私たちの義務ということになっている。これが自己中心性であ
る。兄は、自分のことしか考えていない。

 兄のばあいは、極端なケースだが、こうした自己中心性は、いろいろな場面で経験する。程
度の差こそあれ、だれにでもある。しかしあのフロイトは、こうした自己中心性は、人格の未発
達によるものと、位置づけている。

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度は、低いということになる。

 そこで最初の話にもどる。

 自分を大切にするといのは、高度な精神作用によるもの。自己の尊厳や自尊心をそれによ
って、守る。その人の自己中心性とは、まったく異質のものである。自分を大切にする人イコー
ル、自己愛者ということにはならない。

【付記】

 自己中心的な人が、自分の自己中心性に気づくことは、まず、ない。自己中心的であること
が、(ふつう)になっているからである。

 このタイプの人は、たとえば、いわゆる(ただ働き)をしない。利益につながらない労働は、損
と考える。たまに(ただ働き)をしてみせることはあるが、それは他人の目の中で、自己評価を
あげるためである。「こういう仕事をしてみせれば、みなは、私のことをすばらしい人間と思うだ
ろう」(愛他的自己愛、偽善)と。

 で、よく観察してみると、こうした自己中心性は、親から子へと、代々、連鎖しているのがわか
る。自己中心的な子どもがいたとする。そういうばあい、母親自身も、たいへん自己中心的で
ある。

 そんなわけで、子どもが自己中心的であっても、今度は、それに気づく母親は、まず、いな
い。母親自身が、子どもが(ただ働き)をしていたりすると、「そんなバカなことはやめなさい!」
とたしなめたりする。こんな例があった。

 ある高校生が、私にこう言った。「文化祭の実行委員をしているヤツらは、あほだ」と。理由を
聞くと、「そんなことをしていれば、受験勉強ができなくなる」と。そこで私が、「そんな話を聞い
たら、君のお母さんは、がっかりするだろうな」と言うと、「ママも、そう言っている」と。

 自己愛も、またしかり。

 そこで改めて、自己愛診断テスト。

【あなたは、自己愛者?】

(  )いつも自分が、(他人から見て)、いい人に思われていないと気がすまない。
(  )「ころんでも、ただでは起きない」が、一つの人生観になっている。
(  )完ぺき主義で、他人に重要な仕事を任すことができない。うるさ型。
(  )他人が自分より幸福だったり、裕福だったりすると、嫉妬しやすい。
(  )他人の悪口や、不幸な話、ゴシップ話を話したり、聞いたりするのが好き。
(  )他人に批評、批判されることを好まない。批判されると、激怒する。
(  )人の好き嫌いがはっきりしている。嫌いな人を、徹底的に排斥する。
(  )自分の利益につなげるため、その場だけをうまく、すりぬけることが多い。
(  )自分の思いどおりにならないと、気がすまない。自分勝手でわがまま。
(  )信じられるのは自分だけ。他人を信ずることができない。そのため孤独。

 10項目あげてみたが、半分以上あてはまれば、自己愛者の可能性が高い。言うまでもなく、
自己愛者は、自己を愛するのと引き換えに、かぎりない孤独の世界に身を置くことになる。

 「クリスマス・キャロル」の中に出てくる、スクルージーが、自己愛者の典型と考えてよい。




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●子どもが、突然、「学校へ行きたくない!」と言ったとき……

++++++++++++++++++++++

もし、あなたの子どもが、ある朝、突然、
「学校へ行きたくない!」と叫んだとしたら……。

そんなときのために、こんな原稿を書いて
みました。

H県にお住まいの、KMさんという方から、
子どもの不登校についての相談がありました。

「今日も、学校へ行きませんでした。不安です。
本当にこれでよいのでしょうか?」と。

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 子どもがある朝、突然、「学校へ行きたくない」と言ったら……。たいていの親は、その段階
で、混乱状態になる。狂乱状態になる人も多い。「うちの子は、このままダメになってしまう!」
と。(本当は、ダメにはならないのだが……。)

 「まさか、うちの子にかぎって!」という思い。「どうして、うちの子が!」という思い。「不登校で
はなく、一時の迷いでは?」「ズル休みでは?」などと、いろいろ考える。

 ある母親は、こう言った。「話には聞いていました。しかしまさかうちの子が、そうなるとは、夢
にも思っていませんでした」と。

 そこで親は、理由を聞く。「何か、理由があるはずだ」と。しかし子どもは、「行きたくない」と、
わめくだけ。が、親は、納得しない。「友だちがいじめるの?」「先生と何かあったの?」と。

 本当のところ、子どもにも、その理由がよくわかっていない。親がしつこく、「どうしたの?」「理
由を言いなさい!」と迫るから、しかたなしに、あれこれと理由らしきことを口にする。

 「X君が、意地悪をした」「先生が、こわい」と。その時点で、親の憎悪は、X君や、先生に向け
られる。

 が、子どもは、泣き叫ぶ。「行きたくない!」と。あるいは子どもは自分の部屋に逃げたり、ト
イレの中に入ったまま出てこなかったりする。まさに狂乱状態となる。

 ……こう書くからといって、決して親を責めているのではない。怠学とちがって、いわゆる「学
校恐怖症」は、心の奥底からわき起こってくる「恐怖感」が原因で、そうなる。子ども自身にも、
その理由がよくわかっていない。

 一方、親は、言いようのない不安と、恐怖感に襲われる。それは怒涛(どとう)のように、親
を、襲う。

 とくに進学、進級をひかえているときは、そうだ。理由は、いくつかある。

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(1)日本人独得のコース意識
 
 何かにつけて、日本人は、「型(パターン)」を作りやすい。茶道や華道、書道などに、その例
をみる。そしてその延長として、「人は、こうあるべきだ」という「型」まで作ってしまう。

 それを「コース意識」という。日本人の多くは、このコースからはずれることに、不安感や恐怖
感を覚える。『みなと渡れば怖くない』といい、同時に、『出るクギは打たれる』という。つまり自
分がコースからはずれることを恐れる一方で、同時に、コースからはずれていく人を、許さな
い。あるいは、さげすむ。

(2)学歴信仰
 
 わかりやすく言えば、江戸時代の士農工商の身分制度が、明治時代に入って、学歴制度に
置きかわった。いわゆる「学校出」は、極端に優遇された。また一般庶民は、尋常小学校を出
るだけで精一杯。上級学校へ進学することは、至難のわざだった。こうした状態が、終戦直前
までつづいた。

 明治時代の終わりですら、東京大学の学生のうち、約8割弱が、士族、あるいは華族で占め
られた。一部の特権階級だけが、大学へ進学できた。そして全国の県令(現在の県知事)のほ
とんどは、自治省出身者で占められた。

 (現在でも、全国の県知事の大半が、元中央官僚である。その名残は、今も生きている。)

 学歴に対する日本人独得の執着心は、そんなところから生まれた。

(3)不公平社会

 この日本では、人生の入り口で、一度(合格)すると、あとはトコロテン方式で、一生、安楽な
世界が保証される。そうでなければ、そうでない。そういった不公平感を、親たちは、日常の生
活の中で、敏感に感じ取っている。

 親たちをして、子どもの受験勉強にかりたてる、本当の理由は、ここにある。

たとえば今、公立学校における学力の低下を心配している親は多い。しかし親たちが心配して
いるのは、(学力の低下)ではない。自分の子どもが、受験競争で不利になるのを、心配してい
る。

(4)権威主義社会

 権威が崩れたとはいえ、この日本には、まだまだ権威主義が残っている。わかりやすく言え
ば、差別意識ということになる。そのよい例が、「水戸黄門」である。葵の紋章をかかげ、「ひか
えおろう!」と一喝すると、周囲のものたちは、みな、地面に頭をつけて、ひれふす。

 日本人には、痛快な場面だが、そのおかしさというか、こっけいさには、気づいていない。は
っきり言えば、バカげている。

 オーストラリアの友人は、ある日、私にこう聞いた。「ヒロシ、水戸黄門が、悪いことをしたらど
うなるのか?」と。そこで私が、「水戸黄門は、悪いことはしない」と言ったら、「それはおかしい」
と。

 欧米では、民主主義の歴史は、そのままこうした権威主義との戦いを意味した。

 が、この日本には、いまだに、「偉い人」という言葉が残っている。英語では、それにかわる言
葉として、「respected man」(尊敬される人)という言葉を使う。

 「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、大きな距離がある。日本では、ふつう、「偉い人」と
いうときは、地位や肩書きのある人をいう。英語国では、ふつう、「尊敬される人」というときは、
地位や肩書きは関係ない。

 今でも、大臣になったとたん、ふんぞりかえって歩く人は少なくない。(いますね、いまでも…
…。あごをひいて、腹を突き出し、握りこぶしをつくって、さも私は「大臣だ」というような顔をして
歩く人です。)

 さて、あなたはだいじょうぶか? 男が上で、女が下。夫が上で、妻が下。そして親が上で、
子が下と、あなたは考えていないだろうか。あの「水戸黄門」(テレビ番組)は、いまでも、20%
前後の視聴率を稼いでいるという。「おもしろい番組だ」と、何も考えないで見ている人ほど、権
威主義へのあこがれの強い人と見てよい。ご注意!

(5)代替コースがない

 この日本には、学校を離れて道はなく、学校以外に、道はない。つまりは、1本の道しか、許
されていない。

 しかしアメリカには、ホームスクールや、フリースクール、バウチャースクールなど、さまざまな
形のコースが用意されている。日本でも、高校へ行かなくても、大学検定試験(大検)に合格す
れば、大学の入学試験を受けられるしくみができてきている。

 しかし親の意識は、そこまで成熟していない。私が、「いいじゃないですか、子どもが行きたく
ないと言っているなら、学校など、行かなくても」などと言おうものなら、ほとんどの親は、目を白
黒させて驚く。

 本来なら、学校以外に、コースをいくつか用意しておくべきであった。しかし日本は、世界に名
だたる、管理国家。コースがふえればふえるほど、管理が、複雑になる。つまり官僚にしてみ
れば、教育支配が、それだけしにくくなる。

 で、学校以外に道はなく……、学校を離れて道はない……、となった。それが親の意識をが
んじがらめにしている。

(6)学校神話

 「学校神話」とはよく言ったもの。日本人は、「学校」に対して、神話的な絶対性を感じている。
「学校万能主義」も、そこから生まれた。今でも、子どもの世界で、何か問題が起きると、「学校
で……」と考える人は多い。

 家庭ですべきことまで、「教育は学校で……」と考える人は、もっと多い。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、私は、学校教育を否定しているのではない。
だれの目にも、公平で、良識ある教育は必要である。また明治以後、その学校教育が、日本
の発展の基盤になったことも事実である。

 しかし行きすぎた絶対性は、かえって弊害を生む。もっと言えば、カルト化する。私が子ども
のころには、子どもはもちろん、親ですら、学校の先生に逆らうことは、夢のまた夢。「学校の
先生が、こう言った」「教科書には、こう書いてある」と言えば、みな、それに従った。

 実際、子どもが不登校児になったときに見せる反応は、それまで信仰をつづけてきた人が、
その信仰を捨てるときの狂乱状態に似ている。

(7)日本人独特の依存性

 長くつづいた封建時代。それにつづく全体主義国家。そういう体制の中で、日本人は、日本
人独特の依存性を身につけてしまった。

 支配と服従。この両者が、相互にかみあって、独特の日本人の社会を形成した。

 たとえば学校教育にしても、つねに「お上」である、文部科学省(文部省)の言いなり。教科内
容から指導内容まで、すべて。PTAという組織はあるにはあるが、アメリカなどでみるPTAの
組織とは、まるで異質なもの。

 アメリカでは、公立の小学校ですら、PTAが相談して、勝手にカリキュラムを組んでいる。入
学時の年齢まで、自由に決められる。もちろん教師の人事権ももっている。が、日本のPTAは
……? みなさん、ご存知の通りである。

 こうした国への依存性が、学校教育を、窮屈(きゅうくつ)なものにしている。もっと言えば、
「子どもというのは、親が教育するもの」という意識がとぼしい。心のどこかで、「子どもは、国
に、教育してもらうもの」と考えている。

 「子どもが学校へ行きたくない」と叫んだとたん、親は、ハシゴをはずされたかのような不安感
を覚える。

+++++++++++++++

 かなり過激な意見を書いたが、ここまで書かないと、なぜ親が狂乱状態になるか、その理由
がわかってもらえない。だから書いた。先にも書いたように、だからといって、私は、学校教育
を否定しているのではない。

 大切なことは、こうした私たちの意識の奥深くに潜んで、私たちを操っている別の意識に気づ
くことである。それに気づけば、なぜ狂乱状態になるか、その理由がわかるはず。そしてそれ
がわかれば、狂乱状態にならないですむ。

 「学校恐怖症」については、たびたび書いてきたので、私のHPを見てほしい。子どもへの対
処方法も、そこに書いた。

 私の印象としては、「不登校を、もっと、気楽に考えたらよいのではないか」ということ。私の
息子の一人も、毎年、春先になると、不登校を繰りかえした。しかしそのときでも、私は、「無理
して行くことはないよ」と、息子の不登校を、かまえて考えることができた。

 それにはいろいろ理由があったが、しかし、もともと、学校というのは、そういうもの。そしてそ
う考えることによって、息子の不登校をそれ以上、こじらせることもなかった。

 多くの親たちは、最初の段階で、狂乱状態になる。この「狂乱状態」自体が、子どもの不登校
をこじらせることに、親たちは、気づいていない。

 先のトイレに逃げこんだ子ども(小2男児)のばあい、親は、ドライバーをもってきて、トイレの
ドアをはずしたという。それに対して、子どもは、まるで狂人のようにあばれて抵抗したという。

 相当なショックを子どもに与えたことになる。が、それではすまなかった。

 母親は、子どもを無理やり子どもを車に乗せると、そのまま学校へ。しかし子どもは車の支
柱に腕をまわし、車から離れようとしなかった。叫び声を聞きつけて、先生もかけつけてやって
きた。

 そのときの様子を、母親は、こう言う。「どこにあんな力があるのかと思われるような力で、車
にしがみついていました。先生と2人で体を離そうと思いましたが、ムダでした。

 で、その日はあきらめて、家に帰ることにしましたが、帰りの車の中では、息子は、もう鼻歌
を歌っていました」と。

 こういうことを繰りかえしながら、症状はこじれ、子どもは、ますますがんこになる。本来なら
数週間ですんだかもしれない不登校が、半年とか、1年にのびてしまう。

 では、どうして最初の段階で、親は、子どもに向かって、こう言えないのか。

 「そうよね。だれだって、ときには、学校へ行きたくないときもあるのよ。お母さんも、そうだっ
た。今日は、学校をサボって、2人で遊びに行こうね」と。

 その理由として、この原稿を書いた。

 くどいようだが、だからといって、私は、不登校を肯定しているのではない。「学校へなど、行
かなくてもいい」と言っているのではない。どうか、誤解のないように!




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●長寿と健康

 この日本には、100歳以上の老人が、2万4000人以上いるといわれている(04・厚生労働
省調べ)。

 しかし残念なことに、健康で自活している老人は、数%といわれている。ほとんどが、介護を
必要とする老人ばかり。大半が、寝たきり老人ともいわれている。

 まあ、私も100歳とまでは思っていないが、ギリギリまでは生きたい。ただし、家族には、迷
惑をかけないような状態で、である。

 そこで必要なのは、自己管理能力ということになる。健康の何割かは、その人の自己管理能
力によって決まる。で、ざっと周囲を見回してみても、暴飲暴食を繰りかえし、タバコを吸い、運
動もしないという老人は、みるからに不健康な様子をしている。

 白澤卓二(東京老人総合研究所)という人が、「月刊現代」(雑誌)の中で、百寿者(100歳以
上生きている老人)の共通点として、つぎの6か条をあげている。それをそのまま、ここに紹介
させてもらう。

(1)タバコを吸わない。
(2)飲酒は適量
(3)高学歴
(4)子どものころ、比較的裕福な家庭で育った
(5)性格特性については、男性が神経症的傾向、女性は外向性傾向。誠実性が高く、男女と
も、調和性は低い。
(6)身体機能、疾病などについては、白内障や骨粗しょう症、骨折は多数認められる一方、糖
尿病の離間率が非常に少ない。また動脈硬化の進行が、遅い。

 東洋医学では、つぎのように教える。以前、私が書いた原稿を、そのまま転載する。

++++++++++++++++++

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。

++++++++++++++++++

 ついでに、この上古天真論をテーマにして、書いた原稿を、
添付しておきます。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。

難解な文章だが、これを読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、
子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを
求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ
くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ
に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ
るほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。

子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に
順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気
調神大論篇)と。

おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまくいく
が、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、な
ど。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。

++++++++++++++++++

 ところで最近、年の功というか、若い親たちをみると、「ああ、この人は、このままだと、やが
て不健康になるぞ」とか、「この人は、年をとっても、健康のままだろうな」ということが、わかる
ようになった。

 ポイントは、肌。(肌しか、見えないが……。)漢方でいえば、肌肉(きにく)の様子ということに
なる。

 健康に注意している人は、その肌肉が、ひきしまり、ツヤがある。生き生きとした精彩を放っ
ている。

 が、そうでない人は、肌肉が、だらしなくたれさがっていて、どんよりとくすんでいる。漢方で言
えば、同じ白でも、ガイコツのような白さ、同じ黒でも、ススのような黒さということになる。

 それをもう少しまとめてみると、こうなる(はやし浩司著「目で見る漢方診断」より)。


(同じ、青い顔色でも……)
 草むしろのように、光沢を失った白っぽい、青色……死相
 カワセミのように、光沢のある青色……生きる症

(同じ、赤い顔色でも……)
 腐れ血のような、光沢のないどす黒い赤……死相
 雄鶏のトサカのように、光沢のある赤……生きる症

(同じ、黄色い顔色でも……)
 カラタチの熟した果実のように、光沢のない黄色……死相
 カニの卵を抱いた腹のように、光沢のある黄色……生きる症

(同じ、白い顔色でも……)
 ガイコツのように、光沢のない汚白色……死相
 豚の脂身のように、光沢のある白色……生きる症

(同じ、黒い顔色でも……)
 ススのように光沢のない、灰黒色……死相
 カラスの濡れ羽のように、光沢のある黒色……生きる症
  (以上、素問・五臓生成論編)


 で、やはり健康管理ということになるが、ここでまた、別の問題にぶつかってしまう。

 「長生きをして、それがどうなのか?」という問題である。

 そこで私は、「生きる」を、つぎの二つに分けて考える。(息る)と、(活きる)である。ともに「い
きる」と読む。

(1)息(いき)る……ただ生きているだけという生き方をいう。
(2)活(い)きる……自分で自分を活かしながら、活きる生き方をいう。

 だからといって、寝たきりの老人が、どうこうというのではない。みんな、最後の最後まで、天
寿をまっとうして生きることは、重要なことである。それはどんなことがあっても、否定してはい
けない。

 もしそれを否定してしまうと、「生命の限界」に、歯止めがかからなくなってしまう。端的に言え
ば、「生きる価値のないものは、死ねばよい」という、とんでもない発想に結びついてしまう危険
性がある。

 だから、人間は、最後の最後まで、生きる。たとえ息をするだけの人間になったとしても、生
きる。またそういう形で、まわりの私たちが、「生命の限界」を守ることは、重要なことである。

 が、こと、私自身のことになると、そうは思わない。先日も、私は、ワイフにこう言った。

 「もし、ぼくが寝たきりになったら、そっとそのままにしておいてほしい。風邪などをひいて、肺
炎にでもなれば、そのまま死ぬことができる。ムダな治療は、してほしくない」と。

 ワイフは、「わかったわ」とだけ言ったが、半分、うれしく、半分、さみしかった。

 生きる以上は、活きる。息ていいるだけでは、いけない。しかしこれはどこまでも、個人的なテ
ーマでしかない。私やあなたが、個人的な立場で、自分で考えて決めることである。
(はやし浩司 生きる 活きる 息る 上古天真論 八風の理 健康法)

【補記】

 日本語というのは、もともとは、単純な言語であったようだ。

 「かみ」というときは、「神」「髪」「上」「紙」などを意味する。共通するのは、「高貴なもの」「高
価なもの」という意味。つまり「高貴なもの」は、すべて「かみ」と言った?

 同じように、「くさ」も、「草」から、「臭い」「腐る」と転じたのではないか? 「草は臭い」「腐ると
臭い」など。

 ここで取りあげた、「生きる」もそうだ。もともとは、ひょっとしたら、「息をしていることを、生き
る」と言ったのではないか。漢字が、中国から輸入されたのは、ずっとあとになってからのこと
である。

 つまり「いきる」というのは、「息」に「る」が、ついて、動詞化したとも考えられる。息をしている
状態を、生きている、と。大昔の日本人は、その人の息をみて、生きているか、死んでいるか
を判断したにちがいない。(多分?)

 で、私は、「生きる」を、「息る」と「活きる」に分けた。決して、ダジャレで分けたのではない。そ
れをわかってほしかった。




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●真・善・美

 教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。その基盤と
方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。

 今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。若い人たちは、
真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思っている。その価値がわ
からないどころか、その価値すら、否定する。

 しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。そしてその価値にひ
れ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。

 そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていればよし。そ
うでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。

 「私は何のために生きてきたのか?」と。

 そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。そのときを予想しながら、子ど
もの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。それが教育の目標。

+++++++++++++++++++++++++++

【補記】

 真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。ものを書き始め
たのが、40歳前後。それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くようになったの
は、そのあとである。

 現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づかなかっ
たのか。どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。

 今となっては、ただただ悔やまれる。本当に悔やまれる。もっと早くスタートしていれば、頭の
働きだって、まだよかったはず。どこかボケかけたような状態で、そしてこれから先、ますます
ボケていくような状態で、私に何が発見できるというのか。

 これは決して、おおげさに言っているのではない。本心から、そう思っている。

 だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・善・美の
追求を、今から始めてほしい。30代でも、20代でも、早すぎるということはない。

 今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。どんな本に目を通しても、出てくるのは、ため息
ばかり。「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。と、同時に、「後悔」のもつ恐
ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。

★読者のみなさんへ、

 つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。時間や健康、それに
脳ミソの働きには、かぎりがあります。余計なお節介かもしれませんが……。


(付記)

●真・善・美(2)

 ドライブをしながら、ワイフと、「真・善・美」について、話す。

 しかしそのとき、「真・美……」と言葉をつなげてしまったため、「善」という言葉が、思い浮か
んでこない。思い出せない。重要な言葉なのに……。

私「真・美……何だったかな?」
ワイフ「人生?」
私「ちがうよ。人間はね、最終的には、生きる目的を、そこに求めるようになるよ。真と、美と…
…。もう一つ、どうしても思い出せない」
ワイフ「ド忘れね」と。

 真理……科学者や研究者が探求する。
 美……芸術家が探究する。

 もう一つ……?

私「ああ、思い出した! 善だ! 善だよ!」と。

 善……宗教家が探求する。

私「お前は、何を探求するのかな?」
ワイフ「三つよ」
私「バカめ。そんな無茶苦茶な。一つだけでも、たいへんだよ。三つだなんて……! 欲張ると
ね、三兎(と)を追うものは、一兎も得られずになるよ。二兎でも、むずかしい……」と。

ワイフ「お金や財産ではないということよね」
私「そう、名誉でもない。真・善・美だ」
ワイフ「あなたは、何よ?」
私「ぼくは、お金もほしいし、名誉も地位もほしいし……。まあ、とっくの昔に、あきらめたけれど
ね。真と善の中間くらいかな?」
ワイフ「あら、中間って、あるの?」
私「つまりね、中途半端ってこと。中途半端でも、しかたないということ。みんな、そうだもの…
…」と。

 生活や精神状態にゆとりが生まれるようになると、人間は、この真・善・美の追求を始める。
……とまあ、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれないが、古今東西、多くの哲学者や芸
術家、それに宗教家がそう言っている。だから、私、ひとりくらいが反発しても、意味がない。

 で、ある程度までは、努力すれば、何とかなる。真・善・美のハシクレ程度までは、つかむこと
ができる。……と思う。先日も、ある公的な会館へ行ったら、その地域の老人たちが彫刻した
像が並んでいた。

 どれも、見るに耐えない、ヘタクソなものばかりだった。バランスの崩れた鳥、やたらと体の
一部だけが大きい仏像、笑っているか、泣いているかわからない能面など。

 しかし時間だけは、たっぷりとかけてあるのだろう。ていねいの上に、バカ(失礼!)がつくほ
ど、ていねいに、仕上げてあった。しかしそういう彫像を、だれが笑うことができるのか?

 私が書いていることだって、それほど、ちがわない。あるいは、それ以下。しかしその老人た
ちは、たしかに「美」を追求していた。「中には、1点くらいは、いいのがあるかも……?」と思っ
てみたが、なかった。

 私は、なぜだろうと考えた。

 指導者が悪い? NO!
 老人だから? NO!

 実は、きびしさがない。どれも年金生活者が、戯(たわむ)れで、作ったようなものばかり。や
がて私は、それに気がついた。

 追い込まれて、追い込まれて、さらに追い込まれて、絶壁に立たされて作ったようなきびしさ
がない。たとえて言うなら、ぬるま湯につかって、鼻歌でも歌いながら、像を作っている感じ。し
かし、それでは、もともと、真・善・美の追求など、土台、無理。

 それをワイフに話すと、ワイフは、「趣味ではだめなのね」と。

私「趣味程度では、ダメだろうね。たとえば善の追求にしても、釈迦は、『精進』(しょうじん)とい
う言葉を使っているよ。絶え間ない研鑽(けんさん)こそが、重要だ」と。

 健康と同じで、立ち止まった瞬間から、その人は、後退する。病気に向う。

ワイフ「真・善・美を手に入れたからといって、何か、いいことがあるの?」
私「さあてね、どうかな? キリストは、そのとき、真の自由を手に入れることができると説いて
いるよ」
ワイフ「それは、すばらしいものかしら?」
私「多分ね。ぼくには、わからないけど……」と。

 私の人生も、どうやら、その中途半端で終わりそうな雰囲気になってきた。知力も、体力も、
そして気力も鈍り始めてきている。人間性も、精神状態も、ボロボロ。性格はゆがんでいる。ま
さに、よいところ、なし。

私「あと一歩で指先が届きそうな気もするが、どうしてもその指先が届かない。そんな歯がゆさ
は、あるけれどね……」と。しかしこれは私の負け惜しみ。
(はやし浩司 真 善 美)

【補記】

 今回、体調を崩してみて気がついたが、健康と気力は、たしかに関係がある。知力とも関係
がある。

 体がどこか熱っぽいと、考えることすら、おっくうになる。実際には、原稿を書けなくなる。めん
どうというか、ものの考え方が、投げやり的になる。

 健康、つまり肉体的健康は、精神的健康の源泉ということにもなる。あのバーナード・ショー
も、こう書いている。

 『健全な肉体は、健全な精神の生産物である』(革命主義者たちのための格言)と。







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●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。楽しい。そう感ずる人は、多い。俗に
いう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。しかしそういう人が、本当に他人のことを
思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろう」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。自分をよく見せるために、他
人を愛しているフリをしてみせることをいう。しかしフリは、フリ。中身がない。仏教の世界にも、
末那識(まなしき)という言葉がある。無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽
善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエゴイズ
ムがある。表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。その人の心を、裏から
操る。そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちである。しか
しそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべきものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。どこ
までも自分勝手でわがまま。「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なの
は、私だけ。あとは、野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰りかえ
しになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしていた。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たまたま知りあ
いだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。町の中で、クラブ制の窯(か
ま)をもっていた。教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、あれ
よと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家として、全国に、
名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏なまま
のはず」「私が才能をみつけてやった」と。そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には1円もく
れない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。が、その
親切は、ある意味で、計算されたものだった。本当に親切であったから、Xさんは、その男性
を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な
陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身の才能と努力によるものだった。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。Xさんが、「恩知ら
ず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界では、末那識つまり、
自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、偽
善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。介護士の
資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いていた。も
ともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分のもの
にした。そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。またYさんを、非難しているわけでもな
い。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励まされた人は、多い。またYさんのような
親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見える。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。またそれを
生きがいにしていたわけでもない。Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えな
がら、介護の指導員として活動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほど、心地
よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんのところへ、ある日、夫が、夫の兄を連れてきた。Yさんの義兄ということになる。この義
兄は、身寄りがなく、それに脳梗塞(こうそく)による軽い障害もあった。トイレや風呂くらいは、
何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態だった。年齢は、73歳。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうちに、今度
は、義兄を虐待するようになった。風呂の中で、義兄が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、義兄に、バスタブを自分で洗わせた。義兄に対する、執拗な虐待が始ま
ったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日にな
りかけていたが、窓を、開けさせない。風呂に入らせない。義兄が腹痛や、頭痛を訴えても、病
院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をかぶってい
たことがわかったという。姉は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかないから
ね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、しかし
そこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉である。昔
風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。子どもを1
人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」としてみる。またさ
らには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活をする
のは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んでも墓の
中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。私たちは、ともすれば、「親だ
から、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。しかしこうした(ダカラ論)ほど、
あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も
……」「この人も……」というほど、多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。愛情が
基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分の
支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。しかし大きくちがう点は、代償的過
保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道具として、利用すること。子どもが、
自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に狂奔する母親た
ちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。人格さえ
認めていないことが多い。自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、子ども
の姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。子どもに対する偽善といっ
てもよい。勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくるわよ。S
S中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いているのよ。わか
っているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。偽善だらけといってもよい。教育システムそのものが、そうな
っている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育という原
点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。教育イコール、進
学。進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。今
でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。数年前も、関東地方を中心にし
た、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心的であ
るから、そうしているのではない。毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているため
に、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。どの私立中高校も、進学のための特別
クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不公平
感である。それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかく
も、偽善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考えてよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。文明という、つまりそれまでの人間が経験し
なかった、社会的変化が、人間をして、そうさせたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。スズメたちの世界は、実に単純、わ
かりやすい。礼節も文化もない。スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言っているの
ではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方で、
(人間らしさ)を追求してきた。偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間
がそれをもつようになったのは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。「私は私であるか」と問うてみ
るのもよい。「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うな
ら、「本当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、つい
で、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。悪もある。その悪が、ゴミのよう
に、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるのも、文明人の心構えの一つというこ
とになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末が悪
い。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(601)

●Independent Thinker

 恩師のT先生が、「Independent Thinker」という言葉を教えてくれた。「子どもの教育の柱
の一つである」と。

 訳すと、「独立した思想家」ということか。「思想家」というより、「自分でものを考える人」という
意味に近い(?)。

 それについて書いた原稿(中日新聞掲載済み)が、つぎの原稿。私は、この中で、「考えるこ
と」の重要性について、書いた。




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(思考と情報を混同するとき)

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その
園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。

あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、
少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊
もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある
子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のこ
とを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがん
でくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画
一的な子どもをつくるのが基本になっている。

もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。戦後、日本の教育は大きく変
わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教
育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。

ロンドン大学の故森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。
自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判
断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・98
年。T先生、指摘)と警告しているという。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含ま
れる。

+++++++++++++++++

 日本人ほど、依存性の強い国民は、少ないと言われている。裏をかえすと、日本人ほど、ind
ependentでない国民は、ないということになる。

 たとえばここ数日間、S武鉄道のX社長の話題が、巷(ちまた)をにぎわしている。X氏が、株
価の操作疑惑で、今日、東京地検に逮捕された(3・4)。

 それについて、テレビの報道陣が、埼玉県T市にあるS武鉄道の本社前に殺到した。そして
会社にやってくる社員たちに、つぎつぎとマイクを向けた。しかしだれひとりとて、自分の意見を
言う社員はいなかった。

 みな、「わかりません」「ノーコメント」「答えたくありません」と。

 地位や立場もあるのだろう。それはわかる。しかし大のおとなが、だれひとりとて、何も意見
を言わないというのは、いったい、どういうことなのだろうか。私はその光景を、見ながら、T先
生が指摘する、「independent thinker」の問題は、こんなところにもあると実感した。

 私たち日本人は、子どものときから、自分で考えて、自分で発言するという習慣そのものをも
っていない? 静かで、従順で、先生の言うことを、ハイハイとすなおに聞く子どもほど、よい子
どもとされてきた?

 つまりT先生の指摘する、「independent thinker」には、日本の教育の根幹にかかわる問
題を含んでいるということになる。言いかえると、いかにすれば日本の子どもたちを、「indepe
ndent thinker」にするかということを考えることが、日本の教育を変えていく大きな原動力に
なる。

 この「independent thinker」については、T先生の意見を、もっと詳しく聞いたうえで、これ
からも深く考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

以下は、「子どもの世界」最終回のために書いた原稿です。

++++++++++++++++++++++

●「生きる」とは「考える」こと

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新聞を届
けてくれる。聞き慣れたバイクの音だ。が、すぐには取りに行かない。いや、時々、こんな意地
悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ張ったらどうなる
か、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載109回。この間、2年半余り。「混迷の時代の子育て
論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸4年になる。しかし新聞にものを書くというのは、
丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。反応も分からな
い。だから正直いって、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」と怒っている人だっ
ているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果てのない
荒野だ。孤独といえば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界でもあった。書く
たびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくはないです
が、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると「しまった!」と思うことが
多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」ということは「考え
る」こと。「考える」ということは「書く」ことなのだ。わたしはその荒野をどこまでも歩いてみた
い。そしてその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴールには行き着けないかもしれ
ない。しかしそれでも私は歩いてみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないと分からない。大きな記事があ
ると、私の記事は外される。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと私は起きあが
る。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出ている朝は、そのまま読
み、出ていない朝は、そのまま、また床にもぐる。たいていそのころになると横の女房も目をさ
ます。そしていつも決まってこう言う。

「載ってる?」と。

その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうござ
いました。




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●さみしさ

 ある女性に、幼児の心理について、少し意見を書いたら、こう返事が届いた。

 「そういうことが書いてある本を紹介していただけますか?」と。

 何かのことで、子どもの教育にかかわっている女性である。

 私は、そのメールをもらって、何とも言えないさみしさに包まれた。「私の意見では、だめなの
か?」と。

 で、そのさみしい気持ちをこらえながら、「こうした知識は、私が、自分の35年という幼児教
育の経験の中からつかんだものです」と、返事を書いた。

 もちろんその人に、悪気があったわけではない。文面やHPから察するに、善良な女性らし
い。それに教育熱心というか、知識欲が旺盛というか……。

 本来なら、つまりもう少しアカデミックな生き方をするなら、公的な場所で論文を発表しなが
ら、自分の主張を通すのがよい。それがこの世界では、正当な道ということになっている。今で
は、数多くの、幼児教育学会がある。

 しかし私は、そういう世界には、若いときから、ほとんど関心がなかった。「幼児教育は母親
教育」と、自分に言って聞かせて活動したこともある。目が上ばかり向いている人もいるにはい
るが、しかし私の目は、いつも下ばかりを向いていた。

 それで、35年になった。

 で、あるときから、私は心に、こう決めた。「これからは、私を理解してくれる人のために原稿
を書こう」と。名誉や地位などというものには、ハナから興味はなかったし、いわんや権威など
というものは、私がもっとも嫌いなもの。

 しかし私ほど、最前線で、しかも下っ端で、幼児と接した教育者もいないだろうということ。今
でもときどき、自分のしていることに自信をなくすことがある。そういうときでも、私は自分にこう
言って聞かせて、自分を励ます。

 「経験の数では、私の右に出るものはいない」と。

 それが私の意見になった。

 だからその女性には、「いい本があったら、また紹介しますよ」と返事は書いたものの、実の
とこと、そんな本は知らない。読んだこともない。ずいぶんといいかげんな返事だなと思いつ
つ、その女性のことは忘れることにした。(ごめんなさい!)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

2年ほど前に書いた原稿を、
もう一度、ここに載せておきます。

+++++++++++++++++

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、30年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよう
に30年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から帰っ
てくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。

「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、80歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835〜1910)も、こう書いている。「人と同じことをしていると
感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。

私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、
今、思い返しても、何も残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜ま
で、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口300
万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある日、
だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。

「ここでの一日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなこと
を書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、
振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き
方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を生き
ることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと1年の人生と宣
告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生きることができる。

極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すと
も可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないとい
うこと。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++ 

●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっ
ている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の
老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿
をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と
思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、
「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人にな
っても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、そ
れは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だ
ったら、10年生きても、20年生きても、へたをすれば、たった1日を生きたくらいの価値にしか
ならない。

しかし「濃い人生」を送れば、1日を、ほかの人の何倍も長く生きることができる。仮に密度を1
0倍にすれば、たった1年を、10年分にして生きることができる。人生の長さというのは、「時
間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダに
していることか、ということになる。

私は今、満55歳になるところだが、そんな私でも、つまらないことで時間をムダにしたりする
と、「しまった!」と思うことがある。いわんや、70歳や80歳の老人たちをや! 私にはまだ知
りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その「山」があるのかないのかということも
わからない。が、あるらしいということだけはわかる。

いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそ
れが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだ
け先へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えら
れなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボ
ケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくこと
はできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私が
こう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だ
から空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生
だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)




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●子どもの中の「私」

++++++++++++++++++

母親というには、子どもの中に、自分のいやな面を
見たりすると、はげしく、子どもを叱るもの。

子どもは、母親の心を、そっくりそのまま受けついで
いるだけなのだが……。

たとえばいつも、「グズグズしないで!」と言って、
子どもを叱っていた、母親がいた。

その母親自身は、シャキシャキした人だったが、
本当は、グズグズした人だったかもしれない。

そういう自分がいやで、その母親は、シャキシャキした
人を演じていただけかもしれない。

だから、自分の子どもがグズグズしたりすると、
子どもをはげしく叱ったりした。

++++++++++++++++++

それについて書いたのがつぎの原稿ですが、
どうもうまくまとめることができませんでした。

いつか改めて、書きなおしてみたいと思います。
今日は、このままで、失礼します。

まとまりがなく、読みづらいかもしれませんが、
どうか、お許しください。

++++++++++++++++++

乳幼児期の子どもにとっては、母親がすべて。が、それだけではない。子どもは、この時期、母
親の心まで、自分の心にする。ものの考え方、習慣、感じ方はもちろんのこと、「心」そのもの
までも、だ。

 そんなわけで、母親自身が、自分の子どもの中に、自分の姿を見ることがある。意識して、そ
れを感ずることもあるが、そうでないときのほうが、多い。無意識の知覚と言ってもよい。この
無意識の知覚が、母親を狂わすことがある。

 母親は、無意識であるにせよ、子どもの中に、自分のよい面を発見したときは、それを喜
ぶ。「この子は、私に似て、おもしろい子ね」と。しかし子どもの中に、自分のいやな面を発見し
たときは、そうではない。子どもをはげしく叱る。

 自己嫌悪(けんお)という言葉がある。この自己嫌悪が肥大化すると、最終的には、自己否
定にまで進んでしまう。それを避けるため、母親は、子どもに攻撃的な態度で出ることがある。
具体的には、子どもをはげしく叱る。

「どうして、あなたは、こんなことができないの!」「どうして、あなたは、こんなことをするの!」
と。

 母親は、本当は自分の中のいやな面を叱っているのだが、それに気づいていない。気づいて
いないまま、子どもを叱る。

 わかりやすい例で考えてみよう。

 こんな相談をもらったことがある。このケースでは、母親は、自分のいやな面を、意識してい
た。

 「私は優柔不断な人間でした。いやなときも、いやとはっきりと言うことができませんでした。
今の夫と結婚するときも、そうでした。私は、流れに乗せられるまま、何となくという感じで、い
やいや結婚しました。

 そういう自分を、心のどこかで嫌っていたのだと思います。今の結婚生活には不満はありま
せんが、しかし心の中には、ポッカリと穴があいたままでした。

 で、私の10歳になる娘が、そういういやな面を見せるたびに、私は、必要以上に、娘をはげ
しく叱ってしまいます。グズグズしたり、はっきりとものを言わないときは、とくにそうです。その
場になると、つい、カーッとしてしまいます」と。

 母親教室で子育て相談を受けていたときに、聞いた話である。その10歳になる娘は、優柔
不断な子どもではない。母親のマネをしていただけである。

 こんな例もある。これは母親と子の間で起きた問題ではないが、同じように考えてよい。

 ある女性には、やや知恵遅れの妹がいた。3歳年下の妹だった。その女性は、その妹のこと
を、「恥ずかしいと思っていた」(母親の言葉)。

 ある日のこと。その女性は、母親に、妹を、めがねを買いにつれて行くよう頼まれた。その女
性は、しぶしぶながら、その妹をバスに乗せ、町にある、めがね屋に向かった。が、偶然にも、
そのバスに、学校の友人が何人か乗りこんできた。

 その女性は、妹とは席を離れた。が、それを見て、妹が、「お姉ちゃん」と言って、その女性の
あとを追いかけた。そのとき、その女性は、中学生だったという。

「私は、バスから飛び降りたいほど、恥ずかしかった」と言った。

 が、それから10数年。気がついてみると、その女性は、小学校の教員になっていた。私につ
ぎの話をしてくれたのは、そのころのことだった。

 「実は、私は、LD(学習障害児)の子どもを教えるのが苦手です。ふだんは、そんなに短気で
はないのですが、そういう子どもを相手にすると、『どうしてこんなことがわからないの!』と、つ
い、語気が荒くなってしまいます。

 理由が長い間、わかりませんでしたが、先生(私)の話を聞いて、はじめて、それがわかりま
した。そういう子どもを見ると、心のどこかで、自分の妹をダブらせてしまうのですね。実は、今
でも、私は、妹が大嫌いです。うらんでいます。結婚式のときも、妹さえ来なければと、心の中
で、どれだけ願ったかしれません」と。

 これらの例は、本人自身が、自分に気がついているケースである。だからまだ対処しやす
い。しかし意識していないばあいも、ある。ほとんどが、そうであるといっても、過言ではない。

 そこでたとえば、

(1)いつも、同じパターンで、子どもを叱ったり、嫌ったりする。
(2)いつも、同じパターンで、理由もなく早とちりして、子どもを叱ったりする。
(3)いつも子どもを叱るとき、言いようのないむなしさを覚える。

 ……というようなことがあれば、あなたの心の中に潜む、(こだわり)をさぐってみるとよい。何
か、あるはずである。

 あなたは、子どものいやな面を、嫌ったり、叱ったりしているのではない。実は、あなた自身
のいやな面を、子どもの中に見て、それを嫌ったり、叱ったりしている。

 こう考えていくと、「私」という存在は、本当に、やっかいな存在ということになる。私の中に
は、(私であって私である)部分というのは、ほとんど、ない。そのほとんどが、(私であって、私
でない部分)ということになる。

 私たちは、その(私であって私でない部分)に、いつも操(あやつら)られてしまう。

 いつか私は、「私」というのは、私たちの中にあって、ウリの白い種のように小さなものかもし
れないと書いたが、「これが私」と言える部分は、それくらい小さいものかもしれない。もっと言
えば、みな、(私であって私でないもの)を、「私」と信じこんでいるだけ。

 それがわからなければ、庭に遊ぶ、スズメたちを見ればよい。北海道に住むスズメも、沖縄
に住むスズメも、スズメはスズメ。まったく別々の行動をしながら、「スズメである」という範囲
を、超えることができない。

 言いかえると、人間も、「人間である」という範囲を超えることができない。そのひとつとして、
ここで、母親と子の関係について、書いてみた。私やあなたの中の、何割という部分は、実は、
あなた自身というよりは、あなたの親から受けついだものということ。

 それがまちがっているとか、おかしいとか、言っているのではない。それがあるからこそ、私
やあなたは、今、こうして子育てをすることができる。そしてそれが、うまく機能しているときに
は、問題は、ない。

 問題が起きるのは、ここにも書いたように、母親から子へと、本来なら、伝えてはいけないも
のまでが、伝わってしまったばあいである。

 それを知るのも、子育てをじょうずにするコツということになる。

【自己否定】

 自己嫌悪が極端なまでに肥大化すると、やがて、その人は、自分の存在すら否定するように
なる。最悪のケースとしては、自殺がある。

 その前の段階として、やる気をなくしたり、反対に粗放化したりする。何もかもいやになる。生
きていることさえ、いやになる。……そういった状態になる。死にたいから死ぬのではない。生
きることにまつわる苦しみから逃れるために、子どもは、(おとなも)、死を選ぶ。

 子どもに自己嫌悪的な様子が見られたら、要注意。たとえば「私は、ダメな人間だ」「つまらな
い人間だ」「生きていてもしかたない」「何も、おもしろくない」とか、言い出したら、注意する。

 さらに進むと、子どもは無力感、虚脱感に襲われるようになり、独特のなげやりな態度、緩慢
動作(妙にノロノロするなど)を見せるようになる。無責任で無目的な行動、無感動、無反応、
思考力の停止などが見られることもある。X君(中2)のばあいは、親や教師が何を話しかけて
も、ニタニタするようになった。(ニタニタというのは、心の状態が、変調したときに子どもがよく
見せる表情である。)

こうした様子が見られるようになったら、心を休ませることを、何よりも大切にする。ばあいによ
っては、勉強そのものも、あきらめたほうがよいということもある。

 子どもが見せる自己嫌悪を大げさに考える必要もないが、(というのも、思春期の子どもは、
よく自己嫌悪におちいるので……)、しかし軽くみるのも、よくない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●自己否定

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。

 自我意識の否定を、自己否定という。自己矛盾、劣等感、自己嫌悪、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己否定につながる。青春
期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。

が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまな心理的葛藤
を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったり、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的に
なること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行な
どがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。

Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分がつくって
きた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果
は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果とな
ってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。

このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことでは○○高校に入れない」式
の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識がなかった。くる日もくる日
も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題
ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふ
つうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、

(1)今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。
(2)今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書
いたように、
(3)一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つ
まりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、
さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思
うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナ
ス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪におとしいれる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。

一般論からすれば、「子どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好
ましいが、中学二年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時
期でもある。見えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまず
いている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っ
ても、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。

こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環境の変化(思い切って
転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげし
い自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、
かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。

子どもの成長を喜ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもし
れない。神奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。
えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをな
おそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスの
ストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。

「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。

こうした、やさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。





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●好子(こうし)と嫌子(けんし)

 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、
気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようにな
る。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。

 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪い
ことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避
けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」とい
う。

 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。た
とえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩
行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があった
からである。

たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかったとか、走る
のに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれない。

 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私
たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあって
いる。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。

 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。
この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこ
よさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであ
ることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。

 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がい
る。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言
葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう
教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。

 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えること
を考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はま
ちがっている。

 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題
ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのす
っきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?

 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツ
と暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。

 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の
中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。
 
 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オー
ストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛に
あふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で
生き延びることができた。

 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿
というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの
世界を総じてみればわかる。

 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中で
みると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことが
できる。

しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速に悪化
する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っていく年
齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。

 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても
気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさい
よ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づい
ていない。

 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではな
く、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許
されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あと
は負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないよう
にするだけで精一杯。

が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことになる。恐らく世界広しとい
えども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのはず。受験勉強をバリバ
リやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本では、リーダーになれな
い?

 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化し
てきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片
鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。

 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人
に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの
心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。

その好子を大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。
(はやし浩司 好子 嫌子 自己嫌悪 自己否定)





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【おごれる心】

●昇竜しだれ梅

浜松市の北部に、I町がある。そのI町のある、民家の農地に、「昇竜しだれ梅」が、咲いている
という。ワイフは、それを見たいと言った。

私「降竜しだれチンというのだったら、いつでも見せてあげるよ」
ワイフ「そういうのは、見たくないわ」
私「バイアグラを、半分だけ飲めば、昇竜しだれチンになるかもよ」
ワイフ「よけいに見たくないわ」と。

 このところ、こういう話題が多くなった。それをさして、ワイフが、「あなたの会話、このところ、
品が落ちてきたわね」と。

 そう言われては、(はやし浩司)の名前が泣く。すかさず「慢」の話をする。

●北伝仏教

 この話をする前に、書いておきたいことがある。

 私たちが今、仏教と称するものは、インドから、ガンダーラ(今のアフガニスタン)を経由して、
ヒマラヤ山脈の北部をとおって、中国へ入ってきたものをいう。「北伝仏教」とも言われる。その
間で、つまり日本まで伝わってくる間で、仏教は、無数の加工がほどこされてしまった。

 たとえば観音様が、インドでは男性だった観音様が、日本では女性に変身したり、日本の仏
像が、古代インドの衣服ではなく、ヘレニズム文化の影響を強く受けた、古代ギリシャの衣服を
着ているなど。日本でも、仏教最大の行事になっている、「盆」にしても、もともとはアフガニスタ
ン(ガンダーラ地方)の「ウラ・バン」から来ている。それが中国で、「盂蘭盆」となり、日本へ入
った。

 またほとんどの経典は、釈迦滅後、500〜800年を経てから、書き表されたものだという。
たとえば経典の中にも、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代にはまだ貨幣はなかったと
いうのが定説である。

 だからこれから書く、「慢」にしても、こうした教条的な表現そのものが、どこか中国語的。本
当に釈迦がそう言ったかどかということは、疑わしい。

●慢心

 で、それはさておき、仏教の『倶舎論(ぐしゃろん)』では、「慢」を、つぎの7つに分類してい
る。

(1)慢
(2)過慢
(3)慢過慢
(4)我慢
(5)増上慢
(6)卑下慢
(7)邪慢、と。

 「慢」は、「慢心」の「慢」。つまりうぬぼれのこと。人間のうぬぼれ方にも、いろいろあるという
こと。

 たとえば「私は、あいつよりすぐれている」と思うのが、「慢」ということになるが、自分より劣っ
ている人に対して、おごり高ぶることを、「慢」、同等のものに対して、おごり高ぶることを、「過
慢」、自分よりすぐれている人に対して、おごり高ぶることを、「慢過慢」という。

 わかりにくいのが、「我慢」。

 「我慢」というのは、自分だけが絶対と思い、自分だけが絶対正しいと思うことをいう。日本語
でいう「我慢」というときは、「忍耐力」を意味する。「我慢しなさい」というときは、「耐えなさい」と
意味になる。

 ちなみに「広辞苑」では、つぎのようになっている。

 「自分を偉く思い、他を軽んじること。我慢強し…忍耐力が強い。我慢者…我意をはる人」と。

 さらに仏教的な悟りの境地にも達していないのに、悟りを開いたかのようにして、おごり高ぶ
ることを、「増上慢」、すぐれた人に対して、ほんの少しだけ卑下してみせることを、「卑下慢」、
まちがった徳を、あたかも正しい徳であるかのように思いこみ、その徳をもって、おごり高ぶる
ことを、「邪慢」という。

 こうした教条的な分類法は、東洋医学(漢方)の世界でも、よく見られる。どこか言葉の遊び
のようにも思える。だからこの話は、釈迦が説いたというよりは、後の中国の学者たちが、つけ
加えたものと考えてよい。

 が、だからとって、意味がないとか、まちがっているというのではない。「慢心」こそ、私たち
が、もっとも避けなければならない感情のひとつである。それは正しい。

私たちは、何ごとについても、おごり高ぶったとたん、がけからころげ落ちるように、自分の姿
を見失ってしまう。

●慢心

 ところでこの『倶舎論』には、致命的な欠陥がある。「自分よりすぐれた人」「自分より劣ってい
る人」という、考え方が、それである。人間にすぐれた人も、そうでない人もいない。「すぐれた
人とは、どういう人を言うのか。法学的に定義づけろ」といわれたら、困ってしまう。

 あえて言うなら、より賢い人を、よりすぐれた人ということになる。そして賢い人と愚かな人が
いるとするなら、それを分けるカベは、その謙虚さにある。

つねにものごと謙虚に考える人のことを、賢い人という。しかし愚かな人には、それがわからな
い。昔から「利口な人からは、バカな人がわかるが、バカな人からは、利口な人がわからない」
という。

 賢い人からは、愚かな人がよくわかる。しかし愚かな人からは、賢い人がわからない。

 が、ここでも、また別の問題にぶつかる。賢い人、愚かな人といっても、それは、どこまでも相
対的な評価でしかない。上には上がいる。下には下がいる。それに分野がちがえば、さらにそ
の評価は、分かれる。しかし人間には、すぐれた人もいなければ、そうでない人もいない。

 恐らく仏教では、「悟りを開いた人」を、すぐれた人というのだろうが、この日本だけでも、「私
は悟った」と豪語している人は、ゴマンといる。大は巨大な宗教団体の長から、はては、田舎の
僧侶まで。しかしそういう人ほど、どこかおかしいのも、事実。常識はずれで、変人の人が多
い。そんな感じがする。

●悟りの境地など、ない

 人間そのものが、未完成な生物であるという前提に立つなら、「悟りの境地」という境地など、
ありえないことがわかる。「悟り」というのは、究極の精神状態をいう。しかしいくら「究極」といっ
ても、人間であるという範囲を超えることはできない。サルはどこまでいっても、サル。鳥はどこ
までいっても、鳥。人間も、どこまでいっても、人間。その限界を、人間は、超えることはできな
い。

 仮に悟りの境地に達したとしても、その時点で、人間のもつ精神状態が完成するわけではな
い。そこには、さらに先がある。

 それはたとえていうなら健康法に似ている。いくら究極の健康法を手にしたとしても、その人
の健康がそこで完成されるわけではない。その翌日からでも、だらしない生活をすれば、その
時点から、急速に、健康は、崩れ始める。

 それに加えて、老齢化の問題もある。肉体も衰えるが、知力も衰える。脳みその活動も、衰
える。

 歳のとり方をまちがえると、どんどんバカになっていくことさえ、ありえる。老人イコール、人格
者などという考え方は、幻想以外の、何ものでもない。

 さて話をもとにもどす。

●倶舎論(ぐしゃろん)

 こうした論法は、無知(?)、無学(?)な、信者を、僧侶の前に、ひれ伏させるには、まことに
もって、つごうのよい論法ということになる。もっとわかりやすく言えば、宗教的優越感をもって
いる人には、便利な論法ということになる。

 たとえばどこか生意気な信者(小僧や若僧でもよい)をつかまえて、「何を、増上慢なことをぬ
かすか!」と一喝すれば、それで相手をだまらすことができる。どこか権威主義的? どこか封
建主義的? たとえば僧侶の世界には、「縁無き衆生(しゅじょう)」という言葉がある。これは
仏法に縁のない、取るに足りない、あわれな連中という意味である。僧侶たちが、凡夫(一般
庶民)との間に、一線を引くときに、よくこの言葉を使う。

 そこで本当に、釈迦が、こんなことを説いたのだろうかというところまで、また舞いもどってし
まう。こうした分類をしたその背景に、その分類をした人の鼻もちならない傲慢さを、私は感じ
てしまう。言外で、「素人は口を出すな!」と言われているような気分になる。

 つまり私の印象では、この倶舎論は、後の中国の学者たちによる作文ではないかと思う。結
論は、そこへたどりつく。

 生意気、おおいに結構。増上慢、おおいに結構。幼児教育の世界では、子どもたちが、生意
気なのは、当たり前。いちいちそんなことを気にしていたら、教育そのものが成りたたない。む
しろ、この時期、生意気にさせながら、子どもを前に伸ばすという手法をよく使う。おとなの優位
性を押しつけ、子どもの伸びる芽をたたいていはいけない。

 相手が自分より劣っていると思ったら、それをのんでしまえばよい。その「のむ」という姿勢の
中に、その人の優越性がある。それこそがまさに、賢者のあるべき姿ということになる。幼児教
育について言えば、どうせ相手は、子どもなのである。

私「どうだ、品が落ちたか?」
ワイフ「あなたは、簡単なことを、むずかしく言っているだけよ」
私「負け惜しみか?」
ワイフ「あなたこそ、私に、おごり高ぶっているわよ」
私「そうかもしれないね」と。

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以前、こんな原稿を書きました。

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●臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。

この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一
方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やはりその悔しさを忘れないために熊のキモをな
めた」という故事から生まれた。

「目的を遂げるために長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。し
かし私はこの言葉を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、
世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。

言いかえると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころ
の自分を基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しなが
ら、自分の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層(?)の乗り物である。たとえ私はそう思ってい
なくても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで
万事休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなけれ
ばならない。

その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外側。側
溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければならな
い。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいてい
はグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。

VIPに扱ってもらうのは、それなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしている
と、いつか自分が自分でなくなってしまう。

が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。私が知っている人の中でも、有
名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を見失ってしまった人はいくらでも
いる。

そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなりたくないといつも思
っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということになる。もっと言えば、
人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければならない。

そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。

私は道路のスミを小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことがで
きる。つまりそれが私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。

私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロー」と怒鳴られることがある。しかしそのたび
に、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすようにしている。
(はやし浩司 倶舎論 慢心 慢 おごり)

【付記】

 「老人は青年をアホだと思うが、老人も青年をアホだと思う」と書いたのは、チャップマン(「す
べての阿呆」)だが、私は、老人でも、青年でもない。やじろべい(=つり合い人形)で言うなら、
その中心点あたりにいるような気がする。

 「私は青年の目から見てもアホだし、老人の目から見ても、アホだ」と。自分でもそれがよくわ
かっている。

 わかりやすく言えば、青年との間にも、老人との間にも、大きな隔(へだ)たりを感じてしまう。
つまりは、どっちつかず(?)。

 だから「青年がアホ」だとは思わないが、「青年時代の私はアホだった」とは、思う。そして「老
人がアホ」だとは思わないが、「これからの私はアホになるだろうな」とは、思う。


(参考)

 中元や歳暮の贈りものの縁起について、小学館の「国語大辞典」はつぎのように書いてい
る。

もともとは「中元」というのは、「三元の一つ。陰暦七月一五日の称。元来、中国の道教の説に
よる習俗であったが、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され、この日、半年生存の無事を祝
うとともに、仏に物を供え、死者の霊の冥幅を祈る。その時期の贈り物(を、中元という)」と。 




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●万引き

 中高校生の、約20%が、「万引きは、それほど悪いことではない」と考えているという。昨夜
のテレビの報道番組を見ていたら、そんな数字が、画面に出てきた。

 が、こうした問題を、子どもの側から論じても、あまり意味はない。子どもは、おとなのマネを
しているだけ。もっと言えば、親のマネをしているだけ。

 こう書くと、「私は万引きなど、したことがないからだいじょうぶ」とか、「子どもの前では、万引
きをしたことがないから、だいじょうぶ」と思う親がいるかもしれない。しかしそれは、誤解。

 子どもというのは、乳幼児期に、とくに母親から、(すべてのもの)を、受けつぐ。(すべてのも
の)、だ。

 そのとき、母親のもつ、習性まで、受けついでしまう。これが、こわい。

 その習性が、好ましいものであれば、問題はない。しかしそうでないときに、困る。

 たとえばあなたという母親が、信号が赤になっても、交差点を、突っ切って走るようなタイプの
女性だとしよう。あるいは、窓の外へ、平気で、タバコの吸い殻を捨てるような女性であったとし
よう。あるいは、駐車場でないところでも、平気で車を止めるような女性であったとしよう。

 少しでもスキがあれば、平気で小ズルイことが平気でできる。そんな女性であったとしよう。

 それがここでいう(習性)に含まれる。

 子どもは、母親のそういう習性を、そっくりそのまま、受けついでしまう。万引きをする、しない
は、あくまでも、その結果でしかない。

 だから、今日からでも遅くない。どんなささいなことでもよいから、社会のルールや規則を守ろ
う。子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことは関係ない。あなた自身の習性を、ま
ず作りなおす。

 そうした日ごろの努力が、やがてあなたの習性となり、それが子どもに伝わっていく。

 もっとわかりやすく言えば、日ごろから、あなたが社会のルールを平気で破りながら、子ども
に向かって、「万引きをしてはいけません」と教えても意味はない。こうした習性は、言葉や、説
教で、子どもに伝わるものではない。肌から肌へと、感性として、伝わる。

 ムードだ。雰囲気だ。

 いつか、私は「一事が万事論」を書いた。

 日々の生活が月となり、月々の生活が、年となり、それが積み重なって、あなたという人間が
できる。子どもがあなたから引き継ぐのは、その(あなた)である。

 だから今の今から、あなたは、自分にこう意って聞かせる。

 私は、ルールを守る。規則を守る。子どもが見ていても、見ていなくても、そういうこととは関
係なく、だ。

 そういう姿勢を、つまり習性として子どもが受けついだとき、その子どもは、こう言うようにな
る。「万引きをすることは、悪いことだ」と。

+++++++++++++++++

●日々の積み重ねが人格 
 人も50歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病がどっと表に出てくる。60歳を過ぎると、
その人の人格がどっと表に出てくる。

若いころは気力で、自分の人格をごまかすことができる。しかし歳をとると、その気力そのもの
が弱くなる。 
私の知人にこんな女性(80歳)がいる。その女性は近所では「仏様」と呼ばれていた。温厚な
顔立ちと、ていねいな人当たりで、そう呼ばれていた。が、このところ、どうも様子がおかしい。
近所を散歩しながら、他人の植木バチを勝手に持ちかえってくる。あるいは近所の人の悪口を
言いふらす。しかしその女性は昔から、そういう人だった。が、年齢とともに、そういう自分を隠
すできなくなった。  

で、その人格。むずかしいことではない。日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年と
なり、その人の人格となる。ウソをつかない。ルールを守る。ものを捨てない。そんな簡単なこ
とで、その人の人格は決まる。たとえば…。 
信号待ちで車が止まったときのこと。突然その車の右ドアがあいた。何ごとかと思って見ている
と、一人の男がごっそりとタバコの吸殻を道路へ捨てた。高級車だったが、顔を見ると、いかに
もそういうことをしそうな人だった。

また別の日。近くの書店へ入ろうとしたら、入り口をふさぐ形で、4WD車が駐車してあった。横
には駐車場があるにもかかわらず、だ。私はそういうことが平気でできる人が、どんな人か見
たくなった。見たくなってしばらく待っていると、それは女性だった。

しかしその女性も、いかにもそういうことをしそうな人だった。こういう人たちは、自分の身勝手
さと引き換えに、もっと大切なものをなくす。小さなわき道に入ることで、人生の真理から大きく
遠ざかる。 
 さてこの私のこと。私は若いころ、結構小ズルイ男だった。空き缶を道路に平気で捨てるよう
なタイプの男だった。どこかの塀の上に、捨てたこともある。そういう自分に気がつくのが遅か
った。だから今、歳をとるごとに、自分がこわくてならない。「今にボロが出る……」と。 
 ついでに……。こんな悲しい話もある。アルピニストの野口健氏がこう言った。

「登山家の中でも、アジア隊の評判は悪い。その中でも日本隊は最悪。ヒマラヤをゴミに山にし
ている。ヨーロッパの登山家は、タバコの吸殻さえもって帰るのに」(F誌〇〇年六月)と。

写真には酸素ボンベが写っていた。それには「二〇〇〇年H大学」とあった。 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●しつけは普遍

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。

しかもそれはその人が、幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、すで
にその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途中で変
わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴ
ミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果し
かない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりす
る。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。

してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときに
は、どこか心が不安定になる。不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教
えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは
普遍」という。
(はやし浩司 しつけ 人格 人格論)
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