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【親が過去を再現するとき】

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。

そのよい例が、受験時代。それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいて
いの親は言いようのない不安に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受
験勉強」ではない。受験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底に
ある。

それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日
も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期
末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと
思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には
穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 このS県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最難
関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。

……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思った
ら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働か
ない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。

親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわか
る。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」
と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。

これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、七八・
四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子
どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ
ならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろう
か。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷
静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあ
なたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しな
いためでもある。

受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。

【補記】

 「♪のんびり行こうよ、俺たちは……。焦ってみたとて、同じこと……」は、どこか、負け惜しみ
的(?)。本当は、急いで、まっすぐ、自分の道を走りたいのに、力が出し切れない。その環境
がない。だから、自分をなぐさめるために、「♪のんびり行こうよ……」と歌う(?)。

 そんな面もないわけではない。つまりこの歌は、自分の中のフラストレーション(欲求不満)
を、なだめるための歌かもしれない。

 しかし人生において大切なことは、立ち止まる勇気をもつことではないのか。立ち止まって、
自分を見つめなおす勇気をもつことではないのか。

 私がM物産という商社をやめた、そのきっかけの一つになったエピソードに、こんなのがあ
る。

+++++++++++++++++

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化するの
を、観察する。若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだった。

たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るなど。
あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。

一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方を大きく変えた
のは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。その
ときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、た
いていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころは
みなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。

しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあ
ったが、私を待つ人はだれもいなかった。そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、
横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。

それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、ど
の人もバカ(失礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、130〜
150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗
ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているう
ちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなってい
る格言である。

その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。が、
しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから35年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度成
長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような人
生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。

しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒ
マになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。

私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなこと
は、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔して
いるかもしれない。

そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をやめるき
っかけのひとつになったことは、まちがいない。

【補記2】

 やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。私は何度も、この歌と歌詞に救われまし
た。小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがとう。

 そうそうそのM石油。一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。学生時代の話ですが…
…。そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。ごめん!




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●「計画」と「実行」の間のハバ(善悪の幅) 

 このS県で、S大の大学生(夜間)が、殺人事件の容疑で、逮捕された。被疑者の大学生は、
事件については、黙秘しているという。だからこの段階では、「推定、無罪」という前提で、話を
進めるしかない。

 新聞報道によれば、その前日、被疑者は、偽名を使って、同ビルの一階にある医院を、訪問
している。またこの事件では、2人の女性が殺害されているが、その殺害事件が起きた前後
に、近所の人が、男が自転車に乗って、逃走したのを目撃している。

 その自転車のタイヤの跡と、被疑者のもっている自転車のタイヤの跡が一致している。しか
もその大学生には、当日のアリバイがない。

 つまり、状況証拠からすると、その大学生は、かなりクロに近いということになる。それで昨
日、その大学生は、容疑否認のまま、逮捕された。警察署長も談話で発表しているように、「こ
の事件は、かなりむずかしい事件になりそうだ」。

 ……私はこの事件を、新聞で読みながら、これからは、この種の凶悪事件は、増えるだろう
なと思った。凶悪事件というのは、ふつう、殺人、強盗、放火、強姦の4つをさす。

 この中でもここ10年、とくにふえているのが、強盗。

 平成6年に、2684件だったのが、平成15年には、7664件にまで、増加している(警察庁
統計)。(全体の犯罪件数では、約178万件から、290万件へと、ふえている。)

 しかし検挙数は、2100件(強盗、平成6年)から3855件(平成15年)と、検挙率でみるかぎ
り、さがっている。

 78%から、50%への低下である。わかりやすく言えば、10年前には、強盗事件は、ほとん
どが解決していたが、今は、半分ということ。

 これにくらべて、殺人事件について言えば、検挙率は、95%から94%に低下したにすぎな
い。アメリカでは、62%(01年)というから、まだまだ日本の警察も、がんばっているということ
になる。

 で、今では、だれが凶悪事件を起こしてもおかしくない時代になった。職種や学歴には関係な
い。名声や評判も、関係ない。大学の教授が、手鏡で女子高校生のスカートの下をのぞいた
り、衆議院議員が、女性に抱きついたりする。その延長線上に、今回の事件がある。

 同じ県の中で起きた事件ということで、このあたりでも、親たちは、その話題ばかり。「あのS
大学の学生がネエ……」と。

 ところで、こうした犯罪には、段階がある。これは私が考えた、『段階説』だが、こういうこと。

(第一段階)空想したり、夢想したりする。
(第二段階)具体的に計画したり、構想をねったりする。
(第三段階)行動に向けて、準備する。
(第四段階)具体的な行動を始める。
(第五段階)実行する。

 このうち、第一段階と第二段階は、どんな人でも、ある程度は、いろいろな場面で考える。私
も銀行の窓口の前に座って、時間を待つときは、いつでも、銀行強盗の方法を考える。それが
趣味になってしまった。

 しかしそれは考えるだけ。もしそれが悪いというなら、世にいる、推理小説家は、すべて職を
失うことになる。松本清張は、悪人ということになる。

 しかし(考える)ことと、(行動する)ことの間には、大きな距離がある。この距離感の広さが、
その人の理性のハバということになる。行動に移す前に、無数の倫理観や道徳観が、その間
に介入してくる。

 が、このところ、若い人を中心に、このハバが狭くなってきたように思う。つまりそれが、若い
人たちの凶悪事件がふえた、本当の理由ではないかと思う。もっとわかりやすく言えば、犯罪
そのものが、ゲーム化し、「思考」というブレーキがきかなくなっている(?)。

 たとえば私が子どものころは、万引きというのは、大罪だった。しかし今では、約20%の若
者たちは、何とも思っていないという(テレビ報道)。同じように、人の死についても、感覚が変
わってきているのかもしれない。

 もちろんだからといって、その大学生が犯人とはかぎらない。ひょっとしたら、事件の真相は、
こうかもしれない。

 たまたまその大学生は、知りあいになった女性に会いに行った。デートに誘うつもりだった。
しかし行ってみると、そのとき、すでにその女性と、もう1人の女性は殺されていた。そこでその
大学生は、あわてて現場から逃げた。自分は決定的に、不利な立場にいる。それでその大学
生は、事件について、黙秘している、と。

 新聞報道によると、すべてが状況証拠だけで、直接的な証拠はないという。これからの操作
がどう進展するか、注視したい。

【補記】

 この「思考と実行の間のハバ」について書いているとき、これは何も、悪行のことについてだ
けではないと、私は気がついた。

 たとえば近所の空き地に、ゴミが散乱していたとする。すると心の中で、「ゴミ拾いをしよう」と
考える。

 しかしそれを実際、行動に移して、実行するためには、かなりのふんぎりが必要である。「よう
し、やってやるぞ!」という、ふんぎりである、

 そのために大きなポリ袋を用意し、カニばさみを用意する。外は寒いので、それなりの覚悟も
必要である。

 考えてみれば、これも(ハバ)である。

 となると、このハバに作用する力は、二つあることになる。

 一つは、悪行に、ブレーキをかける、理性や道徳観や倫理観など。

 もう一つは、善行をふるいたたせる、理性や道徳観や倫理観など。

 前者を、(悪行をおさえるブレーキ)とするなら、後者は、(善行を推進するアクセル)というこ
とになる。

 これは大発見だ!

 私たちは、ともすれば、理性や道徳観や倫理観を、まとめて一つのものにして考える傾向が
ある。またそのように考えるのが、一般的である。

 しかしその中身はちがう。そしてここが重要だが、これらの二つの(ブレーキ)と(アクセル)
は、別々に人間の心に作用する。

 わかりやすく言えば、(ブレーキ)の強い人が、それだけ、一方で、善行を行うかというと、そう
いうことはない。悪いことはしないが、いいこともしないという人は、いくらでもいる。

 また(アクセル)に強い人が、それだけ、悪行をしないかというと、そういうこともない。いいこと
もするが、悪いことも同じようにするという人も、少なくない。

 そこでここでの大発見をまとめると、こうなる。

 理性にせよ、道徳観や倫理観にせよ、悪に対するブレーキとして働く理性や道徳観や倫理観
がある。

 一方、善に対するアクセルとして働く理性や道徳観や倫理観もある。

 これら二つは、これから先、子どもの理性、道徳観、倫理観を考えていくとき、分けて考える
必要がある。(新しい思想、ゲット!)
(はやし浩司 倫理 道徳 理性 ブレーキ論 アクセル論)






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●母性愛と、父性愛

 最近の研究によれば、母性愛にも、父性愛にも、ほとんど差がないことがわかってきた。そし
てそれが定説になってきている。

 以前は、母親には、父親にはない、母性愛があると考えられてきた。しかし実際には、母性
愛にせよ、父性愛にせよ、その人自身が、乳幼児期に受けた子育てによって、その人自身が
学習して身につけるものである。

 母性愛にせよ、父性愛にせよ、本能ではなく、学習によって身につくというわけである。とくに
最近は、ラ・マーズ法などの普及によって、夫(父親)の立会い分娩が一般化し、父親も、母親
と同じ母性愛をもつようになってきている。

 さらにこうした育児概念が浸透してくれば、母性愛と父性愛を分けて考えること自体、無意味
になってくるものと考えられる。

 男児も、人形遊びをしても、おかしくないし、またそれがゆがんだ「男像」をつくるということも
ない。ちなみに私の調査でも、男女の区別なく、約80%の子ども(年長児、年中児)が、日常
的に人形を手元においていることがわかっている。

 「親像」を形成を考えるときは、男女を区別してはならないし、またその必要はない。

 なお、ここに書いた、「子育ては本能ではない。学習によるもの」という意見は、子育ての根幹
にかかわる重要な問題である。すでにたびたび書いてきたので、以前、書いた原稿を、3作、
そのまま添付する。一部内容的に重複するが、許してほしい。
(はやし浩司 親像)

++++++++++++++++++

●ぬいぐるみで育つ母性

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。
しかもそれが、3〜5歳のときにわかる。

父性や母性が育っている子どもは、ぬいぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいとおし
いといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感動。
抱き方もぎこちない。

中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約8
0%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうちの約半数が「大好き」と答えている。

 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリ
アに限らず、欧米では、子どもの誕生日にペットを与えることが多い。

つまり子どものときから、動物との関(かか)わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を
通して、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、
父性や母性を学ぶ。そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを
勧める。

犬やネコが代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを
与える。やわらかい素材でできた、ぬくもりのあるものがよい。日本では、「男の子はぬいぐる
みでは遊ばないもの」と考えている人がいる。しかしこれは偏見。

こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐるみ
で遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、たとえ
ばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、その目的に
かなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのはここでいう人形ではない。

 なお日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも
偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。そのあらわれが、五月人形。弓矢を
もった武士が、力強い男の象徴になっている。

三百年後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかお
かしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。
「男は仕事(出世)、女は家庭」という、あの日本独特の男女差別意識も、この出世主義から生
まれた。

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、どこかほっとするようなぬくもりを感ずる。静
かな落ち着きがある。おだやかで、ものの考え方が常識的。それもぬいぐるみを抱かせてみ
ればわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、ス
ーッと頬(ほお)を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならな
い。言い換えると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。子育ては本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじめ
て、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っ
ているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親に
なるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。

【追記】

 最近では、母性と父性を分けて考えるのではなく、まとめて「養護性」という言葉を使う人がふ
えてきた。母性も、父性も、同種のものであり、分けて考える必要はないというのが、その基本
にある。
(はやし浩司 養護性 子育て 育児 ぬいぐるみ 母性 父性)


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あなたは気負いママ?

●気負いが強いと子育てで失敗しやすい

 「いい親子関係をつくらねばならない」「いい家庭をつくらねばならない」と、不幸にして不幸な
家庭に育った人ほど、その気負いが強い。しかしその気負いが強ければ強いほど、親も疲れ
るが子どもも疲れる。そのため結局は、子育てで失敗しやすい……。

●子育ては本能ではなく学習

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。たとえば一般論として、人工飼育され
た動物は、自分では子育てができない。「子育ての情報」、つまり「親像」が、脳にインプットさ
れていないからである。人間とて例外ではない。「親に育てられた」という経験があってはじめ
て、自分も親になったとき子育てができる。こんな例がある。

●娘をどの程度抱けばいいのか?

一人の父親がこんな相談をしてきた。娘を抱いても、どの程度、どのように抱けばよいのか、
それがわからない、と。その人は「抱きグセがつくのでは……」と心配していたが、彼は、彼の
父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまりその人は父親というものがどうい
うものなのか、それがわかっていなかった。しかし問題はこのことではない。

●だれしも心にキズをもっている

 だれしも、と言うより、愛情豊かな家庭で、何不自由なく育った人のほうが少ない。そんなわ
けで多かれ少なかれ、だれしも、何らかのキズをもっている。問題は、そういうキズがあること
ではなく、そのキズに気づかないまま、それに振りまわされることである。よく知られた例として
は、子どもを虐待する親がいる。

このタイプの親というのは、その親自身も子どものころ、親に虐待されたという経験をもつこと
が多い。いや、かく言う私も団塊の世代で、貧困と混乱の中で幼児期を過ごしている。親たちも
食べていくだけで精一杯。いつもどこかで家庭的な温もりに飢えていた。そのためか今でも、
「家庭」への思いは人一倍強い。

が、悲しいことに、頭の中で想像するだけで、温かい家庭というのがどういうものか、本当のと
ころはわかっていない。だから自分の息子たちを育てながらも、いつもどこかでとまどってい
た。たとえば子どもたちに何かをしてやるたびに、よく心のどこかで、「しすぎたのではないか」
と後悔したり、「してやった」と恩着せがましく思ったりするなど、どこかチグハグなところがあっ
た。

 ただ人間のばあいは、たとえ不幸な家庭で育ったとしても、近くの人たちの子育てを見たり、
あるいは本や映画の中で擬似体験をすることで、自分の中に親像をつくることができる。だか
ら不幸な家庭に育ったからといって、必ずしも不幸になるというわけではない。

●つぎの世代に不幸を伝えない

 子どもに子どもの育て方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに子ども
を育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。これは子育ての基本だが、しかし
気負うことはない。あなたはあなただし、あなたの子どももいつかあなたを理解するようにな
る。そこで大切なことは、たとえあなたの過去が不幸なものであったとしても、それはそれとして
あなたの代で切り離し、つぎの世代にそれを伝えてはいけないということ。その努力だけは忘
れてはならない。

●肩の力を抜く

このテストで高得点だった人は、一度自分の過去を冷静に見つめてみるとよい。そして心のど
こかに何かわだかまりがあるなら、それが何であるかを知る。親とけんかばかりしていたとか、
家が貧しかったとか、そういうことでもわだかまりになることがある。この問題だけはそのわだ
かまりが何であるかがわかるだけでも、半分は解決したとみる。そのあと少し時間がかかるか
もしれないが、それで解決する。
(はやし浩司 親の気負い 気負い先行 気負いママ)

++++++++++++++++++++++

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた、父親がいた。「子
どもがそこにいても、どうやってかわいがればいいのかわからない」と訴えた、父親もいた。

あるいは子どもにまったく無関心な母親。まだ二歳の孫に、平気でものを投げつける祖父な
ど。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭に育って、いわゆる「親像」のない親とみる。

 ところで愛知県の犬山市にあるモンキーセンターには、頭のよいチンパンジーがいるそうだ。
人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押しながら、会話をするわけだ
が、そのチンパンジーが、98年の夏、妊娠した。

が、飼育係の人が心配したのは、そのことではない。「はたしてそのチンパンジーに、子育てが
できるかどうか」だった(中日新聞)。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな
い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る
のもいるという。いわんや、人間をや。

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で不完
全だと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、
猛烈な抗議が殺到する。先日もある雑誌で、「離婚家庭の子どもは……」と書いたら、その翌
日から、10本以上の電話が届いた。

たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければ
ならない。というのも、この問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上
は解決したとみるからである。

つまり「私にはそういう欠陥がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみる。それに人
間は、チンパンジーともちがう。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類の家族を見
ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自
分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくることができた。また別の人は、ある作家に傾
倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくることができた。

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。

もしあなたが、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、
あなたは今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばなら
ない。いや、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておかねばならない。

そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てがで
きるようになる。と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかってい
ても、なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育ての「努力目標」の一つと考えてほし
い。
(はやし浩司 母性愛 父性愛 子育て本能 学習)





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●適応(流動性知能)と完成(結晶性知能)

 30代、40代になると、知的好奇心が、急速に減退する。チャレンジ精神も、弱くなる。知的
能力の分野でも、加齢とともに、その適応能力が低下すると言われている。

 たとえば30代、40代をすぎると、新しいことを覚えても、頭に入らない。残らない。すぐ忘れ
てしまうという現象が起きる。

 新しい分野で、知的能力を高めていくことを、「流動性知能」という。

 一方、加齢とともに完成されていく能力がある。経験と苦労が、その人の知的能力を、さらに
高める。深める。ときに完成させる。こういう知的能力を、「結晶性知能」という。

 この結晶性知能については、年齢とは関係なく、ほどよい訓練と刺激で、老後になっても、進
歩しつづけると言われている。画家などの芸術家の中には、晩年になればなるほど、すばらし
い作品をしあげる人がいる。それがその一例といえる。

 で、私自身を振りかえってみたとき、たしかに流動性知能は、衰えてきたように感ずる。わか
りやすい例でいえば、MUSICに対する感覚である。同じ音楽のはずなのだが、最近の若い人
たちが聞くような音楽については、どうもついていけない。

 歌手の名前を聞いても、すぐ忘れる。もちろんメロディーも頭に残らない。好んで聞く音楽とい
えば、クラシック音楽であったり、70年代前後のポップであったりする。ビートルズは、何度聞
いてもあきないし、当時の映画音楽は、どれも、大好きである。

 その一方で、結晶性知能というのもある。若いときからみがいてきた能力が、晩年になって
光りだすというのが、それ。

 くだらないことだが、私は中学2年生のときに、ドイツ製のタイプライターを買ってもらった。当
時のお金で、1万6000円ほどした。(当時の大卒の初任給は、2万円前後だった。)小型のも
のだった。

 私はそれを毎日、たたいて、遊んだ。

 その結果、高校生になるころには、英語の教師よりも、速く、正確に、キーを叩くことができる
ようになった。一度、競争して、教師たちを負かしたことがある。

 そのこともあって、今でも、パソコンのキーボードを見たりすると、ゾクゾクとするような快感を
覚える。もちろんパソコンのキーボードをたたくのも、速い。言葉で話すよりも速く、キーボード
を使って文字を打つことができる。(もちろん文章の内容にも、よるが……。)

 その力が、今でも生きている。

 が、同世代の人の中には、若いころ、キーボード(タイプライター)に触れたことがない人も多
い。そういう人たちには、そうではないようだ。「キーボードを見ただけで、拒絶反応が起きる」と
言っている知人だっている。

 こうして考えてみると、若いときに、いろいろな経験をしておくことは、大切なことのようだ。何
が、どこで役にたつようになるかわからない。

 で、ここで二つの考え方が生まれる。

 30代、40代を過ぎたら、流動性知能のことはあまり気にしないで、結晶性知能のほうを伸
ばしたほうがよいという考え方。

 もう一つは、年齢に関係なく、流動性知能も、大切に伸ばしたほうがよいという考え方。

 私の印象では、40歳や50歳を過ぎると、とたんに時間が短くなるので、できれば結晶性知
能をより完成させたほうがよいのではないかと思う。今さら、若い人たちの聞くような音楽を聞
いて、同じように感動したところで、あまり意味はない。

 それよりも、今、歩いている道を、より先まで進んでみたい。「結晶」と言えるようなものになる
かどうかは別として、できるだけ、核心に近づいてみたい。残された時間は、それほど、長くな
い。

 が、一方で、ヒマなときには、やはり流動性知能を刺激していく必要もある。俗にいう、「専門
バカ」にならないためである。

 いつも新しい分野に興味をもち、チャレンジしていく。どうせ身につかないとはわかっていて
も、だ。「ほほう」「なるほど、そうか」という程度だけでもよいのでは(?)。無理をすることはな
い。

 その「専門バカ」で注意したいのは、その分野には、精通しているのだが、それ以外のこと
は、ほとんど知らない人というのは、多い。全体としてみると、どこか痴呆(ボケ)的(?)。

 子どもの世界でも、昼も夜も、野球なら野球しかしない子どもというのがいる。頭の中は、野
球一色。ゲームならゲームでもよい。その子どもだけを見ているとよくわからないが、全体の中
でくらべて見ると、どこかヘンという印象をもつ。

 で、かつてアメリカ人の友人がこう言った。彼は日本へ来る前に、アメリカの高校で、30年間
ほど、教師をしていた。いわく、

 「ヒロシ、どうして日本の中学校では、野球部の部員は、野球しかしないのか? 朝も夕方も
練習している。これではダメだ」と。

 そこで私が、「じゃあ、アメリカではどうなのか?」と聞くと、こう教えてくれた。

 「アメリカでは、野球もするが、週に1、2度は、音楽会へ行ったり、ピクニックに行ったりす
る。みんなで絵を描くこともある」と。

 つまりはバランスのとれた人間をつくるということか。そのバランスが、その子ども(人)の人
間味を味わい深いものにする。

 さてさて、今日のテーマ。何か、新しいことにチャレンジしてみよう。どうもこのところ、生活の
パターンが、単調になってきた。書いている文章も、マンネリ化してきたような気がする。

 真理の探究(=結晶化)もよいが、それだけでは、私は、偏屈(へんくつ)人間になってしまう。

【補記】

 私のばあいは、周期的に趣味が変化するのが、よいようだ。(だからといって、流動性知能が
すぐれていると言っているのではない。誤解のないように!)

 30〜40代のころは、数か月周期で変化した。そのため、まあ、ふつうの人がするようなこと
なら、ほぼ、すべてのことを経験してきた。

 園芸、畑作、ハーブ栽培、木工、大工、土木、作曲、焼き物、宝石、料理、絵画、釣り、ボー
ト、旅行、テニスなどなど。ひと通りマスターすると、急速に興味をなくして、つぎへと移動してい
く。

 著作の分野でも、東洋医学→学習教材→宗教論→教育→幼児教育へと、書くテーマが、5
〜8年単位で変化している。(今は、電子マガジン。)

 今は、もっぱらパソコンだが、これは流動性知能というより、結晶性知能によるもの。必要も
ないのに、いつもより高性能のパソコンを求めて、それで遊んでいる。この1か月だけでも、BL
OGや、アフィリエイトなどに挑戦した。(画廊も開いたぞ。今のところ、一枚も絵は売れていな
いが……。)

 もともと好奇心が旺盛だったということもある。いつも何かの刺激を求めている。それが結果
的にみると、よかったのではないか(?)。この成果は、もう少し先になってみないとわからない
が……。(肝心の脳ミソのほうが、少しボケ始めているような感じがするが……。ゾーッ!)
(はやし浩司 流動性知能 




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●活動性と離脱性(Nさんへ)

 私たちの存在そのものが、不可思議な奇跡の上に成りたっています。そんな感じです。

 見て、聞いて、感じて……。すべてが、幻想なのかもしれません。幻想を幻想とも知らず、そ
れを現実と思いこみ、生きている。

 死んで行く人は、静かですね。本当に、静かですね。「誰の死なれど、人の死に、わが胸痛
む」です。

 いろいろな人の言葉を集めてみました。
I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will inevitably 
come. And then - I go on to the next thing, whatever it is. One doesn't luckily have to 
bother about that. 
- Agatha Christie, "An Autobiography"

 アガサ・クリスティは、「私は、今、やがて呼び出しがかかる控え間の中で、借りきたりし時の
上に生きる。私はそれが何であれ、つぎの世界へと進む。だれも、幸運なことに、それに心を
煩わされることはない」と。

I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it takes place 
every day. 
- Albert Camus
 カミュは、「友よ、あなたにすごい秘密を話してやろう。最後の審判を待ってはっだめだ。毎日
が、その審判の日だ」

To the well-organized mind, death is but the next great adventure. 
- Albus Dumbledore
「よく統制された心には、死は、つぎの偉大な冒険にすぎない」

Even in the desolate wilderness, stars can still shine. 
- Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi 
「荒れ果てた荒野でも、星は、まだ光っている」

This existence of ours is as transient as autumn clouds. To watch the birth and death of 
beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of lightning in the sky. 
Rushing by,like a torrent down a steep mountain. 
―Buddah
ブッダは、「私たちの存在は、秋の雲のように、つかの間のもの。生きるものの誕生と死を見る
のは、ダンスの動きを見るようなもの。人生は、空の稲妻の光のようなもの。急な山を下る、流
れのように、過ぎていく」と。

+++++++++++++++++++++

 老後に向けての思考性には、2種類ありますよね。活動性と、離脱性です。「いつまでも元気
で生きよう。最後の最後まで」というのが、活動性。

 もう一つは、「老後に向けて、現世から引退し、死の準備もこめて、別の世界へと入ろう」とい
うのが、離脱性です。

 どちらをとるかは、それぞれの人の自由ですが、実存主義者や現実主義者は、前者をとりま
す。宗教に身を寄せる人は、多くは、好んで後者をとります。

 Nさんも、年齢的に(失礼!)、その選択期にさしかかっているのではないですか。他人や身
内の死をきっかけに、自分の内面世界を見ようとしている。もともと繊細な感覚をもっておられ
るようですから、それがさらに、ある意味で、研ぎすまされた形で、心に響くのかもしれません。

 私は、Nさんには、いつまでも活動的に生きてほしいと願っています。いえね、私にとって、本
当にさみしいのは、その人の「死」ではなく、その人の「美しさ」です。

 Nさんは、本当に美しかった。(今でも、そうですが……)、太陽の陽光をたっぷりと浴びなが
ら、幅広の白い帽子をゆるやかに風になびかせて、歩いておられましたね。

 あのころのNさんは、どこへ行ってしまったのかなあって、不謹慎かもしれませんが、そんなこ
とを先に考えてしまいます。私にとってのNさんは、あのときのNさんですから、あのまま、いつ
までもいつまでも、前に向って生きてほしいです。

 知っている人が死ぬと、それまでのその人の人生が、稲妻のように瞬間に過ぎ去ってしまっ
たかのように見えるかもしれません。が、実は、私たちの人生も、また、その稲妻そのものなの
ですね。

 だからもし、万が一、万が一ですよ、Nさんが、なくなってしまったとしても、私の心の中には、
Nさんが、いつまでも残ると思います。死の直前、病気で苦しんだNさんではなく、白い帽子を
かぶって、恥ずかしそうに、振りかえりながら笑っているNさんです。

 ブッダが言う、「空の稲妻の光」の中では、過去や現在を区別するほうが、おかしいのです。
みんな、つぎの瞬間には、「つぎの世界」(アガサ・クリスティ)へ行くのです。

 ね、生きるって、だから楽しいのです。すばらしいのです。その瞬間に、無数のドラマを経験
することができる。虚しいと感ずるのは、離脱性の強い人です。しかし私は、そうは思いませ
ん。

 瞬間なら瞬間でよいのです。その最後の最後まで、生きて生きて、生き抜いてやろうと考えれ
ばよいのです。だから、あまり人の死を深刻にとらえることはないですよ。

 だから冒頭に書いた詩は、こうつながります。

 「……我もまた、人の子なれば、それ故に問うことなかれ。誰がために、(あの弔いの)鐘は
鳴るなりと。鐘は、汝がために、鳴るなり」

 さあ、そんなわけで、元気を出して! 死んだ人のことは忘れて! その人の分まで、元気を
出して生きましょう!!





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【子どもと笑い】

●笑うと健康」裏づけ(組織刺激され血行増進)

 笑うと、血液の流れがよくなるそうだ。それだけではないと思うが、「笑うこと」には、不思議な
力がある。それは私自身が、幼児教育の場で、日常的に実感していることでもある。

今度、アメリカ・メリーランドのマイケル・ミラー医師らが、こんな発表をした。

いわく、「血管の内側にある組織が刺激を受けて、血液の流れがよくなることが、調査で明らか
になった。『笑いは健康にいい』との説が医学的にも裏づけられた形だ。なぜ笑うとこの組織が
活性化されるのかまでは突きとめられなかったが、同医師は『ストレスからくる血行障害のリス
ク、減らすことができる』と、笑いの効用を力説している」と。  
(時事通信・05年3月15日 )

+++++++++++++++++++++

教室での笑いについては、たびたび、書いてきた。

+++++++++++++++++++++

【今週の幼児教室から】

●笑えば、伸びる

 言いたいことを、言う。したいことを、する。これが幼児教室の基本である。おさえるのは、簡
単。その時期がきたら、少しずつ、しめていけばよい。

 今週は、(数)をテーマにした(月曜日クラス)。

 この時期は、(教えよう)(教えてやろう)という気持ちは、控えめに。大切なことは、子ども自
身が、数を好きになること。数を、楽しいと思うようになること。が、それ以上に、大切なことは、
子どもが、自信をもつこと。決して、おとなの優位性をおしつけてはいけない。

 7個のリンゴを、わざとまちがえて数えてみせる。すると子どもたちは、「ちがう、7個だ!」と
叫ぶ。そこで改めて、数えてみせる。そして「ああ、7個だったのかあ?」と、とぼけてみせる。

 が、その日は、それですんだわけではない。さらに、私を責めた子どもがいた。「あんた、先
生でしょ!」と。そこで私は、こう言ってやった。

 「君、まだ幼稚園児だろ。だったら、そんなにしっかりと勉強しなくていい。もっと、ぼんやりと
勉強しなさい。あのね、幼稚園児というのは、指をしゃぶって、おしりからプリプリと、出しながら
勉強するものだよ。わかっている?」と。

 すると子どもたちが、ワイワイと反発した。しかしその反発こそが、私のねらいでもある。

 「あのね、わかっていないな。勉強なんてものはね、適当にやればいいの。そんなにしっかり
やると、頭がへんになるよ!」と。

 すると子どもたちは、「ちがう、ちがう」と叫ぶ。つまりそうやって、子どもを、こちらのペースに
のせながら、指導していく。あとは、子ども自身がもつ、伸びる力に任せればよい。

 だいたいにおいて、子どもというのは、伸ばそうと思っても伸びるものではない。大切なこと
は、子ども自身がもつエネルギーを、うまく利用すること。それをうまく利用すれば、子どもは、
伸びる。

 さて、子どもを明るい子どもにするには、方法は、一つしかない。つまり、笑わせる。大声で、
笑わせる。それにまさる方法はない。だから私の教室では、子どもを笑わせることを、何よりも
大切にしている。1時間なら1時間、笑わせぱなしにすることも、珍しくない。

 笑うことにより、子どもの心は、開放される。前向きな、学習態度も、そこから生まれる。『笑
えば、伸びる』、それが私の、この35年間でつかんだ、幼児教育の真髄である。
(031029)

【追記】

 最近の研究では、ストレスと免疫系の関係などが指摘されているが、それと反対に、「笑い」
には、不思議な力が隠されている。これから先、大脳生理学の分野で、少しずつ、その「力」が
解明されていくだろうと思う。

+++++++++++++++++++++++

●私の実験教室「BW教室」

 幼児を教えるようになって、35年になる。この間、私は4つのことを、守った。(1)すべて授業
は公開し、親の参観をいつでも自由にした。(2)教材はすべて手作り。市販の教材は、いっさ
い使わなかった。(3)同じ授業をしなかった。(4)新聞広告、チラシ広告など、宣伝をしなかっ
た。

 まず(1)授業の公開は、口で言うほど、楽なことではない。公開することによって、教える側
は、手が抜けなくなる。教育というのは、手をかけようと思えばいくらでもかけられる。しかし手
を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。それこそプリントを配って、それだけですますこともでき
る。そこが教育のこわいところだが、楽でない理由は、それだけではない。

 授業を公開すれば、同時に子どもの問題点や能力が、そのまま他人にわかってしまう。とく
にこのころの時期というのは、親たちが神経質になっている時期でもあり、子どもどうしのささ
いなトラブルが大きな問題に発展することも珍しくない。教える側の私は、そういうとき、トコトン
神経をすり減らす。

 (2)の教材についてだが、私は一方で、無数の市販教材の制作にかかわってきた。しかしそ
ういう市販教材を、親たちに買わせたことは一度もない。授業で使ったこともない。出版社から
割引価格で仕入れて、親たちに買わせれば、それなりの利益もあったのだろうが、結果として
振り返ってみても、私はそういうことはしなかった。本もたくさん出版したが、売るにしても、希望
者の親のみ。しかも仕入れ値より安い値段で売ってきた。

(3)の「同じ授業をしない」については、二つの意味がある。年間を通して同じ授業をしないと
いう意味と、もう一つは、毎年、同じ授業をしないという意味である。

この10年は、何かと忙しく、時間がないため、年度ごとに同じ授業をするようになった部分もあ
るが、それでもできるだけ内容を変えるようにしている。ただその年の授業の中では、年間をと
おして同じ授業をしない。これには、さらに二つの意味がある。

 そういう形で子どもの心をひきつけておくということ。同じ授業をすれば、子どもはすぐあき
る。もう一つは、そうすることによって、子どもの知能を、あらゆる方向から刺激することができ
る。

 最後に(4)の宣伝については、こうしてインターネットで紹介すること自体、宣伝ということに
なるので、偉そうなことは言えない。それに毎年、親どうしの口コミ宣伝だけというのも、実のと
ころ限界がある。

ある年などは、1年間、生徒(年中児)はたったの3人のままだった。例年だと、親がほかの親
を誘ってくれたりして、生徒が少しずつふえるのだが、その年はどういうわけだかふえなかっ
た。

 私の実験教室の名前は、「BW(ビーダブル)教室」という。「ブレイン・ワーク(知能ワーク)」
の頭文字をとって、「BW」とした。「実験」という名前をつけたのは、ある時期、大きな問題のあ
る子どもだけを、私の方から頼んで、(そのため当然無料だったが)、来てもらったことによる。

私の教室は、いつも子どもたちの笑い声であふれている。「笑えば伸びる」が、私の教育モット
ーになっている。その中でも得意なのは、満四・五歳から満五・五歳までの、年中児である。興
味のある人は、一度訪れてみてほしい。ほかではまねできない、独自の教育を実践している。




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●子どもへの禁止命令 
 
 「〜〜をしてはダメ」「〜〜はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多け
れば多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、『無能な教師ほど、規
則を好む』というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」(失礼!)ということ
になる。

 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。

たとえば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていてい
い」。「騒ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。ま
た指しゃぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれな
いか?」と声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲト
ゲしくなった分だけ、子どもは心を閉ざす。

 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけで
はない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。イギリスにも、『楽しく学ぶ子どもは、もっとも
学ぶ』(Happy Learners Learn Best)というのがある。

心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈してい
るが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生
み出す。

 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性
があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以
前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。

 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子ど
もたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだ
が、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。

で、子どもたちを見ると、しかし一人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう四
年になるが、(というのも、この話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合
のときに考えたジョーク)、その子どもは、今、飛び級で二年上の子どもと一緒に勉強してい
る。反対に、頭のかたい子どもは、どうしても伸び悩む。
 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
 




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●約束・規則・目標

 約束、規則、目標は、日常生活の中では、別々のものとして、考えられている。しかし、共通
点がある。

 これら3つを守る人は、どれも守る。守らない人は、そのどれも守らない。約束は守るが、規
則は守らないとか、規則は守らないが、目標は守るという人は、いない。

 この3つは、その基底部で、密接につながっている。

 子どもをみていると、それがよくわかる。約束や規則をしっかりと守る子どもは、目標を定め
て、それに向かって、前に進む。

 しかし約束や規則が守れない子どもに、目標を定めて、それに向かって進めと教えても、た
いていは、ムダ。

 以前、N君という中学生がいた。そのN君。約束など、あってないようなものだった。守れない
というより、約束という言葉の意味さえわからないといったふうだった。

 たとえば教室の中にある戸だなを開けてはだめと指示したとする。そのときは、「うん、開けな
い」「約束する」と言う。

 しかし私がたとえばトイレへ行っている、ほんの少しの時間の間に、私の目を盗んで、戸だな
を開ける。「どうして約束を破ったの?」と聞くと、すかさず、「ごめん」という。そこでさらに「ごめ
んと言うのは簡単なことだよ。どうして開けたの?」と聞くと、「……ちょっと見てみたかっただ
け」と、ポツリという。

 自己管理能力がないという点で、人格の完成度のかなり低い子どもといる。しかし原因は、ど
うもそれではないようだった。

 実は、N君の母親も、約束を守らない人だった。そういう母親の影響を受けたとも考えられる
が、根はもっと、深い(?)。

 発達心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。その子ども(人)の、基本的
信頼関係は、生まれてすぐから、乳幼児期にかけて、母子の間で、構築される。

 何をしても許されるという(絶対的安心感)と、私は愛されているという(絶対的な満足感)が、
基本にあって、子どもは、母親に対して、絶対的な信頼関係を結ぶことができる。

 「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味である。

 この基本的信頼関係が、その子ども(人)の、精神力の「骨」をつくる。この「骨」があってはじ
めて、その子どもは、約束、規則、目標を守ることができるようになる。少し飛躍した意見に聞
こえるかもしれないが、私は、二匹の犬を飼ってみて、それを知った。

 それについて書いた原稿を、添付する。

++++++++++++++++++++++

【教育を通して自分を発見するとき】
 
●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、12年に
もなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決
して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っ
ている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心
を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり
人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬
だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。

感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのク
セがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるというこ
と。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、な
ど。

一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。
あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。

「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であっ
て、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題で
あることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。

たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。

「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」
「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は
自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅して
みるとよい。

++++++++++++++++++++++

 で、問題は、実は、子どもではない。私や、あなたは自身は、どうかということ。

 たとえばこの文章を読んでいるあなたは、約束や規則、それに目標を守れるかということ。ま
たそういう人であるかということ。あるいは反対に、どこかチャランポランで、いいかげんな人か
もしれない。約束や規則など、あってないようなもの。目標などは、シャツに書かれた文字のよ
うなもの。飾りにもならない。

 実は、子どものころの私は、かなりチャランポランの人間だったような気がする。すべてを戦
後のドサクサのせいにすることはできないが、当時は、そういう時代だった。(だから私の年代
の人間には、いいかげんな人間が多いのでは……?)

 そういう自分に気づき、そういう自分をなおそうと考えたのは、大学生活も終わり、オーストラ
リアへ渡ったときのことだった。あの白人の世界では、ウソは、絶対、通用しない。嫌われると
いうより、一度、ウソをつくと、そのままのけ者にされてしまう。いわゆる日本式のいいかげんな
言い方や、あいまいな言い方すら通用しない。

 YESか、NOか……。そんな世界である。

 一方私は、生まれながらにして、どこかいいかげんな言い方をしながら、その場を逃れるとい
うようなことを平気でしていた。またそれが、私が生まれ育った地域では、ごくふつうのことだっ
た。

A「どこへ行くのかね?」
B「ちょっと、そこまで」
A「寄って、お茶でも飲んでいかないかね?」
B「結構です。今、飲んできたところですから」と。

 Aは、「どこへ行く?」と聞く。本当に知りたいから、そう聞いたのではない。これは会話を始め
るための、儀式のようなもの。ついで、Aは、Bをお茶に誘ってはいるが、これも本気ではない。
誘われたBも、それをよく知っている。またBは、「今、飲んできたところです」と答えているが、
これはウソ。Aも、それを知っている。知っていて、納得したフリをする。

 どうして日本人が、こうまでウソつきになったかについては、また別のところで考えるとして、
私は、そういう環境の中で、生まれ育った。加えて、関西商人の流れをくむ、その商人の家に
生まれ育った。

 ウソが当たり前の世界だった。またウソをつくことで、仕事をし、生活をしていた。

 が、それだけでもなかった。私の両親は、明けても暮れても、いがみあってばかりいた。はっ
きり言えば、「家庭」というものが、きわめて稀薄な環境だった。家庭の中に、私の居場所す
ら、なかった。かろうじて私の心を家庭につなぎとめたのは、祖父母が同居していたからにほ
かならない。

 酒を飲んで暴れる父にかわって、祖父が、私の父親がわりをしてくれた。つまりここでいう「基
本的信頼関係」というものを、私は、ほとんど築かないまま、少年期を迎え、おとなになった。

 で、その私は、今、自分でもおかしいと思えるほど、約束や規則、それに目標を守っている。
それはいわば、自分に対する、反動のようなものかもしれない。自分の中のいやな部分を消す
ために、そうしている。(実際、心理学の世界でも、こういうのを、「反動形成」と呼ぶ。本来の自
分とはちがった自分を、自分の中に、その反動として形成していくことをいう。)

そして、約束や規則を守らない人を見かけたりすると、言いようのない不快感を覚える。はっき
り言えば、嫌い。

 しかし本当の私は、チャランポランな人間である。自分でも、それがよくわかっている。乳幼
児期に一度形成された自分は、そんなに簡単には、変わらない。自分でそれに気づいたとして
も、変えるのは、容易なことではない。

 もう1人の自分がどこかにいて、そういう自分を、別の心の中に押しこめているだけ。しかしふ
と油断したようなときには、平気で顔を出す。そういう点では、忠誠心も弱い。一見、まじめな人
間に見えるかもしれないが、私は、決して、まじめな人間ではない。若いころは、ヤクザの世界
にあこがれたこともある。(ホント)

 そこでもう一歩、話を進めて、あなたの子どもを、約束や規則、それに目標を守れる子どもに
するのは、どうしたらよいかということを考えてみたい。

 考えるというより、もう結論は出ているようなものだが、ここに書いたように、生まれてからす
ぐ、子どもがまだ乳幼児のときに、母子の間で、基本的信頼関係を、しっかりと築いておくとい
うこと。

 子ども自身が絶対的な安心感のもてる家庭環境で、子どもを育てるということ。それが基本
にあって、子どもは、約束や規則、それに目標を守れる子どもになる。

 よく言われるが、子どもの基本的な性格は、生後直後から、1、2年の間に形成される。その
中でもとくに重要なのが、最初の、半年から1年である。

 この時期は、とくに、ていねいな子育てをする。親の濃密な愛情をたっぷりとかけ、子どもの
側からみて、自然な形でやすらげる、落ちつきのある家庭環境を大切にする。

 叱ったり、大声を出したりして、子どもに恐怖感を与えるようなことは、タブー中のタブー。「許
して忘れる」、何があっても、「許して忘れる」。その度量の深さが、その子どもを、好ましい子ど
もにする。



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●多重人格障害(解離性同一障害)

 数か月前、ある会合で、あるドクター(研究者)に会った。その席で、「多重人格障害」の話に
なった。

 そのドクターから、電話があり、「一度、来てみなさい」ということで、私は、1人の男性と会うこ
とができた。その男性は、そのドクターの患者の1人だった。年齢は、36歳。

 診断名は、そのドクターとの約束で、ここには、書けない。「あなたが、どう判断するかは、あ
なたの勝手ですが……」ということだった。

 私は、八畳ほどの広さのある部屋に案内された。そこにそのドクターと、その男性が対峙し
て、すでにすわっていた。そして、会話をしていた。私はその横で、その話を聞いた。

ド「ゴミ箱に、ごみは入れるよね」
男「ぼくじゃ、ない」
ド「でも、あのゴミには、あなたの名前が書いてあったよ」
男「犬が、捨てたかも」
ド「犬は、どこにもいないよ」と。

 その男性が、自分のもっていたゴミを、どこか捨ててはいけない場所に、捨てたらしい。が、
突然、男性の様子が変わる。

男「ぼくは、算数の問題ができない。ママが、怒る」
ド「今、ごみの話をしているんだよ」
男「90点取ったら、ママが、怒った」
ド「どうして、ゴミを、あんなところに捨てたのかな?」
男「ママが、ぼくをたたいた」と。

 その男性は、自分への追及をかわすためというよりは、別人格の人間になることで、その場
をのがれようとしていた。別人格になると、それ以外の人格のときにした行動を、忘れてしまう
らしい。

 あとでドクターに聞いた話によると、その男性には、4〜5種類の人格が同居していて、それ
がそのつど、スルスルと、境目なく変化していくということだった。興奮したときは、顔つきや、動
作のし方まで変わってしまうということだった。テストの点数の話をしていたときの男性は、10
歳前後の子どもだった。

 そして再び、ゴミの話。人格が、先の人格にもどったようだ。

ド「ゴミをあんなところに捨てたから、うちの看護婦たちも、困っていたよ」
男、突然、やさしい顔つきになって、「ごめんなさい」
ド「もう、してはいけないよ」
男「もう、しない」と。

 しかしこの男性にとっては、約束など、まったく意味がない。別人格になったときには、その約
束をしたという事実すら、忘れてしまう。ゴミを捨てるときの男性は、また別の男性である。

 ただ記憶が相互にまったく途絶えるかというと、どうも、そうではないようだ。部分的には、た
がいに記憶が重なるところもあるという。だから「解離性同一障害」ともいう。「ごめん」とあやま
ったとき、ゴミを捨てた自分とは別人格になりながらも、記憶のどこかで、「ゴミを捨てた」という
意識が残っていたことになる。

 その男性がそうなった原因は、母親の虐待ということだった。その男性の母親は、かなり性
格のはげしい人のようだった。怒りだすと、とことん、その男性を追いつめた。そういう育児姿
勢が、その男性を、そういう男性にした。

私「その母親に、そういう自覚はあるのですか?」
ド「それが、まったくないみたいですね。自分では、子ども思いの、いい母親だと思いこんでいる
みたいです」
私「いい母親?」
ド「その自覚のなさが、問題をこじらせているようです」と。

 ほんの30分ほどの経験だったが、私には、貴重な経験だった。本で読むのと、実際に、患
者に会ってみるのとでは、その衝撃度がちがう。私は、そのドクターに感謝しながら、部屋を出
た。

 (以上、この話は、かなりデフォルメして、記録する。)
(はやし浩司 多重人格 人格障害 解離性同一障害 二重人格)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どものウソ、一考

 子どものウソは、いわば、心の風穴のようなもの。子どもはウソをつくことで、教師や親の束
縛から、自分を解放させることができる。

 反対に、あまりにも厳格な家で育ちすぎてしまったため、自我の発育が遅れてしまったという
ケースは、少なくない。自立心がなくなり、ものの考え方が依存的になったりする。

 もっとも、ウソにもいろいろある。病的なウソとしてよく知られているのが、空想的虚言があ
る。コルサコフ症候群の患者や、統合失調症の患者も、独特のウソをつくことが知られてい
る。ほかに多重人格者は、それぞれの人格に移動したとき、別の人格のときの行動について、
「知らない」「私ではない」とウソをつく。

 しかしこれは何も、子どもの世界だけの話ではない。

 こんな話を聞いた。

 X氏は、まれに見る恐妻家。もともと静かで、おとなしい性格の人だったということもある。そ
のX氏は、20年近く、その恐妻のもとで、従順で、やさしく、まじめな夫を演じてきた。

 が、それが、限界にきた。限界というより、ある日、職場の若い女性に、ラブレターを書いた。
以前から、好意をいだいていた。

 ところが、である。予想に反して、その女性から、その男性に、返事が届いた。そこには、「私
も、あなたのことがずっと、好きでした」とあった。X氏は、その女性と妻の目を盗んでは、密会
を重ねていた。

 そのX氏、いわく。「妻に対して、秘密をもったことではじめて、私は、妻の束縛から開放され
たように感じました」と。

 不倫がよいわけではないが、そういう例もある。

 子どもにしても、親に適当にウソを言いながら、自立の道を模索する。一説によると、子ども
は、すでに満1歳前後からウソをつくようになるという。「ウソは絶対ダメ」式の育児姿勢は、決
して好ましいものではない。

 まあ、それが子どもらしいウソ(自己正当化のためのウソ、相手を喜ばすためのウソ、自分を
飾るためのウソ)などは、大目に見てやる。適当に説教はしても、問いつめたり、追いこんだり
は、しない。ウソを信じたフリをしながら、その場をやりすごすのも、子育てのコツということにな
る。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己愛性人格障害(B群)
Narcissistic personality

DSMーIV(第4版)「精神障害診断基準」によれば、「自己愛性人格障害」の診断基準は、つぎ
のようになっている。DSM−IVより、そのまま引用する。

++++++++++++++++++

誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、
成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。

以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。

(1)自己の重要性に関する誇大な感覚(例、業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにも
かかわらず、優れていると認められることを期待する)。

(2)限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。

(3)自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人たちに(または施設で)し
か理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。

(4)過剰な賞賛を求める。

(5)特権意識、つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由
なく期待する。

(6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利
用する。

(7)共感の欠如…他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしな
い。

(8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思いこむ。

(9)尊大で傲慢な行勤、または態度。

+++++++++++++++++

 自己中心性が極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」といい、さらに人格に障害と言える
ほどの変化をもたらした状態を、「自己愛性人格障害」という。

 私がテーマとして考えることができるのは、「自己愛」までで、そこから先は、精神医学の世界
の分野ということになる。

 しかしこのDSMーIV(第4版)「精神障害診断基準」を読んでいると、何かにつけて、参考に
なる。「なるほど」と思ったり、「そうだったのか」と思ったりする。ここに書かれたような傾向は、
だれにでもあるものであり、またそれが多くのばあい、その人の生活力の原点になっている。

 ただこうした診断基準を読むとき、何よりも注意しなければならないのは、「素人判断は禁
物」ということ。その判断は、あくまでも専門医に任せるべきである。「私に当てはまる……」と
思いこんで、悩んだりする必要はない。

 だれだって、(1)自分は重要だと思う。(2)理想の愛を求める。(3)自分は特別だと思う。
(4)みんなに賞賛されたい。(5)特権意識はもちたい。(6)他人を利用することは、しばしばあ
る。(7)無関心になって、わずらわしさから、逃れようとする。(8)嫉妬する。(9)傲慢になるこ
とはある、など。

 しかしこうした状態が過剰になり、良好な人間関係が結べなくなることがある。それを「障害」
という。

 だから、こうした傾向が自分の中に見られるようになったら、「要注意」と考えて、自分をコント
ロールすることは、重要なことである。なりゆきに任せて、どんどんと深みにはまるということ
は、さけたい。

 ついでながら、こうした人格障害の基礎は、乳幼児期から少年少女期までにかけて形成され
るという。そしてほとんどのばあい、薬物、入院などの処置によっても、ほとんど改善の効果は
みられないという。この時期の育児姿勢がいかに重要かが、これによっても、わかる。

 ほかにも、DSMーIV(第4版)「精神障害診断基準」は、つぎのような規定をしている。いくつ
かを拾ってみる。


(付記)

●知力と人格

 「自分が絶対、正しい」「自分の考えこそが、世界一である」「世の中のみなは、愚か者であ
る」「自分こそ、大切にされるべき人間である」「私は、それにふさわしい人としか、交際しない」
と。

 そうした思いが強すぎるあまり、他人と、良好な人間関係を結べなくなる。心を開くことができ
ないため、友人は少ない。いても、1人か2人。あるいはゼロ。

 こうした症状がみられたら、自己愛性人格障害者の特徴と考えてよい(参考、DSM−IV)。

 DSM−IVの診断基準によれば、つぎのような症状が見られたら、自己愛性人格障害の疑い
があるという(簡略版)。

(1)自己の重要性に対する誇大な感覚
(2)限りない成功、権力、才気などへの空想にとらわれている。
(3)自分が特別であり、特別であるという感覚が強い。
(4)過剰な賞賛を求める。
(5)特権意識が強く、自分の期待に自動的に従うよう求める。
(6)対人関係で、人を不当に利用する。
(7)共感の欠如。他人の気持ちを理解しようとしない。
(8)しばしば嫉妬する。嫉妬深い。
(9)尊大で傲慢な行動。または態度。

 全体に虚栄心が強く、世間体を異常に気にして、自分を飾る。そして自分を批判したり、否定
したりする人に対しては、徹底した攻撃性をみせる(=自己愛型人間の特徴)。わかりやすく言
えば、心に余裕がない。

 そういう自分の欠点をカバーするため、このタイプの人は、人前では、人一倍、いい人ぶった
り、豪放にふるまったりする。大物ぶったり、寛大な様子を示すこともある。しかしそれらは計
算され、演技されたものである。

 しかし内面世界は、孤独。「頼れるのは自分だけ」「渡る世間は、鬼ばかり」「どうせ生きるの
も死ぬのも、ひとり」というような考え方をする。つまり猜疑心(さいぎしん)が強く、他人を信じな
い。……信じられない。それが冒頭にあげたような症状となって、外に現れる。

 こうした自己愛性人格障害は、加齢とともに、つまり頭のボケとともに、だれにでも、現れるも
のなのか。少なくとも、人は、年をとればとるほど、人格的に後退することはあっても、前進する
ことはない。

 そういう意味では、人間の知的能力と、精神的完成度は、密接に関連している? もちろん
知的能力がすぐれているから、精神の完成度も高いということではない。が、知的能力が低下
すると、それにあわせて精神の完成度も低くなるというのは、どうやら事実のようである。

 このことは、老人を観察していると、よくわかる。

 ある女性(60歳くらい)は、このところ、ますますがんこになってきた。融通がきかなくなってき
た。我が強くなってきた。だれかが何かのことでアドバイスをしても、その相手の話をじゅうぶん
聞く前に、即座に、それを否定してしまう。

A氏「お宅の角に、自動販売機を置いてみたらいかかでしょうか」
女性「だめです。近所に動販売機が、たくさんあります」
A氏「何か特徴のある商品なら、売れると思うのですが……」
女性「そんなものは、ありません」と。

 ふつうなら、「そうですねエ……」「どんなものが売れるでしょうかねエ……」という会話になる
ようなところで、そうなる。で、一度、そうなると、会話そのものが、途切れてしまう。

 このことをワイフに話すと、ワイフも、こう言った。

 「年をとると、住む世界が小さくなるということかしら……」と。

 そこで私なりに、加齢にともなう、知的能力と人格の低下の関係について、まとめてみた。

(1)理解力、洞察力の低下(相手の心が理解できない。)
(2)同調性、協調性の低下(相手の心に自分を合わせることができない。)
(3)融通性、柔軟性の低下(臨機応変に頭を切りかえることができない。)
(4)判断力、決断力の低下(どう結論を出したらよいのか、わからなくなる。)

 こうした能力の低下が、(がんこさ)や、(わがまま)となって、外に現れてくる。が、問題は、そ
して私たちにとって切実な問題は、ではどうすれば、それを防ぐことができるか、ということにな
る。

 恩師のT教授は、50歳を過ぎてから中国語の勉強を始め、60歳くらいのときに、中国のペ
キンで行われた学会で、中国語で、講演をしている。そういうまねは、私たちには、なかなかで
きないが、しかしそれに近いことなら、できる。

 そういう点では、何度も繰りかえすが、人格論は、健康論に似ている。毎日の運動をやめた
とたん、健康は、その時点から後退する。

 その人の人格も、毎日の鍛錬をやめたとたん。その時点から後退する。そのカギを握るの
が、知力の鍛錬ということになる。

 要するに、年をとればとるほど、頭を使うということか。覚えてもすぐ忘れてしまったりして、一
見、ムダなように見えるかもしれないが、それでも頭は使う。そういう姿勢が基本にあって、そ
の人の人格も、維持される。

 もう私のような年齢になると、たとえばテニスクラブに通っても、「いつか、大会で優勝して…
…」などという気持ちは、起きてこない。そういう野心は消える。

 同じように知力を使っても、「文芸賞をとって……」などという気持ちは、起きてこない。そうい
う野心も消える。

 ただ、少なくとも、息子たちには、迷惑をかけたくない。簡単に「ボケ老人の介護」とは言う
が、それがいかに心労をともなった、重労働であるか。それを知るからこそ、息子たちには、そ
ういう迷惑をかけたくない。

 だからこそ、ギリギリの、そのギリギリまで、自分の人格を維持したい。そのためにも、何の
役にたつということはないにしても、知力をみがいていきたい。

 ……と自分に言って聞かせて、この話は、ここでおしまい。これ以上のことを書く自信は、今
の私にはない。

(補記)

 ところで今、気がついたが、こんなことは言える。

 よく別のことで有名になった人たちが、何かの救済運動に借りだされて、その種の活動をして
みせることがある。

 貧しい国の難民の人たちを救う運動とか、戦争孤児の子どもたちを救うためのボランティア
活動とか、など。

 あれなどは、まさに偽善中の偽善。「中には、そうでない人もいるが……」と書きたいが、私
は、そのほとんどが、そうでないかと思っている。で、ああした有名人たちが、さも善人であるか
のような顔をして、自分の活動を誇示したり、あるいは、月刊誌や週刊誌を飾ったりするのを、
私は、どうしても許せない。

 若いときや、有名になる前から、そういう活動を始め、その実績があり、その結果として、そう
いう活動が紹介されるなら、話は別。そういった実績もないまま、ある日突然から、善人を演ず
るのは、本当に苦しんでいる人たちに対する冒涜(ぼうとく)であると同時に、まじめな気持ち
で、活動に取り組んでいる人たちに対しても、失敬というもの。

 心理学の世界にも、「愛他的自己愛」という言葉がある。「他人を愛するフリをして、自分がす
ぐれた人間であると、見せかけること」をいう。

 そうした団体としても、そういった有名人を起用して、自分たちの活動を誇示したいのだろう
が、もしそうなら、その団体そのものが、偽善団体と断言してよい。本当に苦しんでいる人を、
自分たちの名誉や利権のために、利用しているだけ。

 草の根で、親身になって活動している人もいるはず。人知れず、陰に隠れて、活動している
人もいるはず。またそういう人たちほど、目立たない。静か。ドロまるけ。そういう人たちからす
ると、こうした偽善ほど、腹立たしいものはない。どうして、そんなことがわからないのか。

 日本よ、日本人よ、もっと、みんなで力をあわせて、おとなになろう。偽善を見抜く力を養お
う!



++++++++++++++++++++++

●依存性人格障害 C群
Dependent personality

面倒をみてもらいたいという広範で過剰な欲求があり、そのために従属的で、しがみつく行動
をとり、分離に対する不安を感じる。成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。

以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)日常のことを決めるにも、他の人たちからありあまるほどの助言と保証がなければできな
い。

(2)自分の生活のほとんどの主要な領域で、他人に責任をとってもらうことを必要とする。

(3)支持または是認を失うことを恐れるために、他人の意見に反対を表明することが困難であ
る。
(注…懲罰に対する現実的な恐怖は含めない。)

(4)自分の考えで計画を始めたり、または物ごとを行うことが困難である。(動機または気力が
欠如しているというより、むしろ判断または能力に自信がないためである。)

(5)他人からの愛育および支持を得るためにやりすぎて、不快なことまで自分から進んでする
ほどである。

(6)自分で自分の面倒を見ることができないという誇張された恐怖のために、1人になると不
安、または無気力を感じる。

(7)綿密な関係が終わったときに、自分を世話し支えてくれる基になる別の関係を必死に求め
る。

(8)自分で自分の面倒を見ることになってしまうという恐怖に、非現実的なまでにとらわれてい
る。

++++++++++++++++++++

●演技性人格障害 B群
 Histronic personality

過度の情緒性と人の注意を引こうとする広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状
況で明らかになる。以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)自分が注目の的になっていない状況では楽しくない。

(2)他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的な、または挑発的な行動によって
特徴づけられる。

(3)浅薄で、すばやく変化する感情表出を示す。

(4)自分への関心を示すために、絶えず身体的外見を用いる。

(5)過度に印象派的な、内容の詳細がない話し方をする。

(6)自己演劇化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現を示す。

(7)被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。

(8)対人関係を実際以上に親密なものとみなす。

++++++++++++++++++++++

●強迫性人格障害 C群
Odsessive Compulsive personality

秩序、完璧主義、精神面および対人関係の統制にとらわれ、柔軟性、開放性、効率性が犠牲
にされる広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる以下の4つ(ま
たはそれ以上)によって示される。

(1)活動の主要点が見失われるまでに、細目、規則、一覧表、順序、構成、または予定表にと
らわれる。

(2)課題の達成を妨げるような完全主義を示す。(例…自分自身の過度に厳密な基準が満た
されないという理由で、1つの計画を完成させることが出来ない。)

(3)娯楽や友人関係を犠牲にしてまで、仕事と生産性に過剰にのめり込む。(明白な経済的必
要性では説明されない。)

(4)道徳、倫理、または価値観についての事柄に、過度に誠実で良心的かつ融通がきかな
い。(道徳的又は宗教的同一化では説明されない。)

(5)感傷的な意味のない物の場合でも、使い古した、または価値のない物を捨てることができ
ない。

(6)他人が自分のやるやり方どおりに従わない限り、仕事を任せることが出来ない、または一
緒に仕事をすることができない。

(7)自分のためにも他人のためにもけちな、お金の使い方をする。お金は将来の破局に備え
て蓄えておくべきものと思っている。

(8)堅苦しさと頑固さを示す。

++++++++++++++++++

 じっくりと読んで、自分を反省するための資料としたい。ホント!
(はやし浩司 人格障害 自己愛性人格障害 依存性人格障害 演技性人格障害 強迫性人
格障害)





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●環境

 子どもを包む環境が、その子どもの才能の発育に、大きな影響を与えることがある。(そうで
ないばあいも、あるが……)。

 そこで、環境によって大きく受ける才能と、そうでない才能を、私なりに分類してみた。

+++++++++++++++

(環境によって、大きく影響を受ける才能)

 音楽、絵画、文学(言語の発達)などの、美的、知的才能。

(環境によって、あまり影響を受けない才能)

 運動的、肉体的動作に関する才能。

(年齢によって、大きく影響を受ける才能)

 音感、楽器演奏、言葉の取得、美的感覚

++++++++++++++++

 この中で、「学習」に関するものは、読書習慣や研究姿勢などは、環境によって大きな影響を
受けると思われるが、学校教育という場が完備されているので、その輪郭(りんかく)は、明確
ではない。

 さらにその人の社会性は、(これを才能と呼んでよいかどうかは、わからないが……)、環境
によって、大きな影響を受けると思われる。よく知られた例に、フルグラム※の『すべては幼稚
園から始まった』がある。

 それについて書いた原稿を、掲載する。

+++++++++++++++++++++

●遊びが子どもの仕事

 「すべては幼稚園から始まった」という本の中で、「人生で必要な知識はすべて砂場で学ん
だ」と書いたのはロバート・フルグラムだが、それは当たらずとも、はずれてもいない。「当たら
ず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。オー
ストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。日本でいう砂場、つ
まりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また「はずれていない」と
いうのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につける。実は
この私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。……もっとも、それがわ
かるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまでは私の過去はただの過
去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。いわんや、自分という人間
が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり私という人間は、あの寺
の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリ
ンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んで
いた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。

しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で
起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけ
て、簡単に理解することができる。もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまです
んなりとは理解できなかっただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生
で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。

●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と
いう言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中にお
いて、従順な子どもにすることをいう。日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」
が基本になっている。その「民づくり」をすること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団
教育であると、先生も、そして親も誤解している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいこ
とをしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんば
って、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、な
ど。

そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくの
が、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能な
のである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅
れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、
わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に
も、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった
光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。

 こうした問題について書いたのが、つぎの原稿である。なおこの原稿は、P社の雑誌に発表
する予定でいたが、P社のほうから、ほかの原稿にしてほしいと言われたので、ボツになった経
緯がある。理由はよくわからないが……。今までここに書いたことと、内容的に少しダブルとこ
ろもあるが、許してほしい。

++++++++++++++++

●養殖される子どもたち

 岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一
人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。
「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。

原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵
琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年三〜四月に、
長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれ
はアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、た
き火がメラメラと急に燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。
小さな虫が机の上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそう
だ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。

カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをい
う。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団
の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え
方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風
景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それ
ぞれが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、
そのボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほか
の子どもたちは、そのボスの命令に従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮に
そういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い
出した。

 平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的
な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たち
の残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本
来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。

++++++++++++++++++++

 総じて言えば、今の子どもたちは、管理されすぎ。たとえば少し前、『砂場の守護霊』という言
葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守
護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。せっかく「砂
場」という恵まれた環境(?)の中にありながら、その場をつぶしてしまう。

 が、問題は、それで終わるわけではない。それについては、別の機会に考えてみる。

+++++++++++++++++++++

 しかし子どもの才能は、つくってつくれるものではない。無理をしてつくろうとしても、たいてい
失敗する。つまり『才能はつくるものではなく、見つけるもの』。それについて書いた原稿(中日
新聞掲載済み)が、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++++

●才能は見つけるもの

 子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作
ろうとすれば、たいてい失敗する。

 子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみ
るとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその
子どもの方向性である。

 つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある
女の子は、二歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、
その子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始め
た。

 こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとか
ける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。

 ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集
めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るもので
なければならない。

この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子どもを側面から支え
る。勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉強でつまずくと、その
ままズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見つけ、その才能を用
意してあげるのは、親の大切な役目ということになる。

+++++++++++++++++++++

 子どもの才能の発達については、(1)遺伝的要因説と、(2)環境的要因説がある。シュテル
ンという学者は、これら二つのものが、相互にからみあいながら、子どもの才能は決定づけら
れると説いた。

 これを「輻輳(ふくそう)説」という。「説」というほど、大げさなものではない。いわば常識。

 遺伝的なものもあれば、そうでないものもあり、かりに遺伝的にすぐれていても、環境が整わ
なければ、才能がしぼんでしまうということは、よくある。もちろんその反対もある。

 しかしシュテルンの説によれば、そこには、「限界(閾値)」というものがあるという。いくら遺伝
的要因による才能がすぐれていても、それを伸ばす環境が、ある程度備わっていなければ、そ
の才能を伸ばすのは、無理ということらしい。

 そういえば、私などは、小学3年生のときに、バイオリン教室に通わされた。音楽など、見た
ことも聞いたこともないない環境に生まれ育った、私が、である。聞くものといえば、祖父母が
好きだった浪曲が、歌舞伎とか、そんな類のものばかりだった。

 そんな私が、いきないバイオリン! 今から思えば、笑い話だが、では、その私に音楽の才
能がなかったかといえば、あったように思う。事実、私の3人の息子たちは、音楽とは無縁の
世界で仕事をしているが、その感性は、超一級である。(これはホント!)

 要するに、そのワクがあれば、よいということになる。それを用意するのは、親の役目という
ことになる。それを基盤にして、伸びるか伸びないかは、あくまでも、子どもの問題ということに
なる。
(はやし浩司 子どもの才能 子供の才能 環境的要因 遺伝的要因 環境 シュテルン)





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●幻惑作用

 おかしな親をもち、その幻惑(心理学でも、同じ言葉を使う)に苦しんでいる人は多い。

 息子や娘という立場で、見るに見かねて、やむにやまれず、親のめんどうをみているのに、
肝心の親は、「親孝行の息子をもって幸せだ」「親孝行の娘をもって幸せだ」と喜んで見せる。

 息子や娘の苦労や悲しみなど、みじんも理解でききない。理解しようともしない。

 一方、息子や娘のほうは、親であるという密着性(これを「家族自我群」という)に束縛され
て、身動きがとれない。もがく。苦しむ。こうした「親である」という幻想から生まれる、重圧感
を、「幻惑作用」という。

 そこである女性(55歳くらい。娘)は、自分の母親を、養護施設に入れようとした。負担があ
まりにも、大きかった。

 が、それに激怒したのが、ほかならぬ、母親。「この親不孝者め」「そんなところへ入れるな
ら、ワシを殺してからにしろ」と。

 滋賀県に住んでいるMさんから、そんな内容のメールをもらった。

 私は返事に、「人間にも、鳥と同じような刷り込み(インプリンティング)がありますから、それ
から自分を解放するのは、容易なことではありませんよ」と書いた。

 乳幼児期に、「親である」という逆意識が、徹底的に、つまり本能に近い状態で、子どもの脳
にきざまれてしまう。

 冷静に考えれば、親といっても、自分という人間を、この世に生み出した、一人の人間にすぎ
ないのだが、それ以上の意味を、「親」に付加してしまう。そしてそれがいつか、幻惑作用となっ
て、今度は、子どもを苦しめる。

 もっとも、親子関係が良好なら、まだ救われる。こうした問題は、発生しない。

 しかし世の中には、息子を奴隷のように使いながら、あるいは、息子の財産を、平気でまき
あげながら、平然としている親は、いくらでもいる。親にも、いろいろある。

 こうした相談を受けるたびに、私は、「日本もまだまだ、発展途上国だなあ」と思ってしまう。
親自身が、そうした自我群に甘え、その幻惑作用に気づくこともなく、子どもを縛りつける道具
として、利用している。

 もちろん大半の親子は、よい親子である。良好な人間関係を結んでいる。しかしそうであるか
らといって、問題が解決されているわけではない。地価にもぐっているだけである。

 あなたの代では、かろうじてだいじょうぶでも、つぎの代で顔を出すかもしれない。あなたの息
子や娘の結婚先の家族で、顔を出すかもしれない。

【Mさんへ】

 親の束縛から、身を解放するのは、容易なことではありません。親が死んで、何十年もたって
いるのに、「親だ」「親だ」と、がんばっている人は、いくらでもいます。私たちの心の中につくら
れた、親意識(これを私は「逆親意識」と呼んでいますが)、それを消すのは、容易なことではあ
りません。

 長く、暗い、悶々とした日々がつづきます。

 Mさんの母さんも、かなり親意識の強い方ですね。昔の言葉を使うなら、「親風を吹かす親」
ということになります。ものの考え方が、権威主義的で、「親のためなら、子は、犠牲になって当
然」と考えている(?)。息子や娘が、苦しんでいても、「親孝行な子どもだ」と喜ぶのです。

 いただいた文面から、そんな感じがしました。

 さらに悪いことに、Mさんを包む親戚の人たちが、みな、同じように考えているということで
す。「娘なら、親のめんどうをみるのが当たりまえ」「親を養護施設に入れるとは、何ごとか」と。

 これは容易な問題ではないようですね。あなたが戦うべき「敵」は、あなたの母親だけではな
いということです。

 では、どうするか?

 あなたの母親が要求することについては、その範囲で、やってやる。しかしそれ以上のことは
しないという姿勢に徹するしかないということです。

 朝、行ってみたら、母は、ふとんの中で死んでいましたという状態になっても、それはしかた
のないことです。だれも、Mさんの責任だと思わないだろうし、Mさんを責めることもないでしょ
う。

 あなた自身も、「私は親不孝者」と、自分を責めないこと。苦しまないこと。そういうふうに子ど
もを苦しめる親のほうが、実は、「子・不幸者」なのです。

 私も23歳の時から、実家に、収入の約半額を、送金しつづけてきました。それから受ける経
済的重圧感というよりは、社会的重圧感は、相当なものでした。そういう私のお金を使いなが
ら、私の母は、先祖からの財産がさもあるように見せかけて、生活していました。見栄っ張りの
人でした。(本当は、家計は火の車でしたが……。)

 まあ、今から思うと、かわいそうな人だったと思います。Mさんの母親と同じように、「私は、い
い孝行息子をもって幸せだ」が、口ぐせでした。

 大切なことは、こうした悪習に気づいたら、それは、私たちの代で止めることです。つぎの世
代の人たちには、同じような苦しみや悲しみを、与えないことです。この問題は、社会制度とも
結びついていますから、簡単には解決しないかもしれません。

 しかし私たちは私たちで、前向きに生きていく。今は、それしかないように思います。そのた
めに、私も戦います。どうか、また力を貸してください。いっしょに、この日本を変えていきましょ
う!
(はやし浩司 家族自我群 幻惑作用 親意識)




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●若者の意識

財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)が、高校生の意識調査をした。昨年(04)9月から1
2月にかけて、3か国35の高校で行い、3649人が回答した。

★国歌・国旗について

 「自分の国に誇りを持っているか」との設問に、「強く持っている」「やや持っている」と答えた
日本の高校生は、あわせて51%と、米中両国に比べ目立って低かった。

国旗、国歌を「誇らしい」と思う割合も、米中両国の半分以下。「国歌を歌えるか」との質問に
は、「歌える」と答えた日本の高校生は、66%にとどまり、三人に一人は、「少し歌える」「ほと
んど歌えない」と答えるなど、国旗国歌に抵抗感を植えつける自虐的教育(報告書の言葉)の
影響を懸念させる結果となった。

 こうした意識は国旗国歌への敬意などに表れ、「学校の式典で国歌吹奏や国旗掲揚されると
き、起立して威儀を正すか」との質問に、「起立して威儀を正す」と答えた日本人高校生は、米
中の半分以下の30%。

38%は「どちらでもよいことで、特別な態度はとらない」と答え、国際的な儀典の場で、日本の
若者の非礼が、批判を受ける下地となっていることをうかがわせた。

★将来、意欲について

 将来への希望を問う設問では、「将来は輝いている」「まあよいほうだが最高ではない」と答え
た割合は中国が80%と最も高く、日本は54%で最も悲観的であることがわかった。

さらに、勉強については「平日、学校以外でほとんど勉強しない」が45%(米15%、中8%)、
「授業中、よく寝たり、ぼうっとしたりする」も73%(米49%、中29%)と、学習意欲も米中に比
べて明らかに低いことが裏づけられた。

 生活面では「若いときはその時を楽しむべきだ」と答えた高校生の割合も、三カ国で最も高
かった。

★恋愛、家族について

 恋愛観では「純粋な恋愛をしたい」と考える割合は、九割と日本が最も高かった。しかし、結
婚後「家族のために犠牲になりたくない」も日本がトップ。将来「どんなことをしても親の面倒を
みたい」は三カ国で最も低く、逆に「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたい」が18%
と、米国9%、中国12%を大きく上回った。

(以上、報告書のまま)

++++++++++++++++++++

 いろいろ反論したいことはあるが、日本の高校生の実像を表していることは、事実。で、こう
した事実を並べて、財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)は、つぎのように結論づけてい
る。

 日本の高校生たちについて、「純愛で結婚したいが、家族の犠牲にはなりたくない。親の面
倒は、金で他人に見てもらいたいという自己中心的な恋愛観・家族観が浮かんでいる」と。
(はやし浩司 日本 青少年 青少年意識 高校生 意識 意識調査 国旗 国歌)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国旗、国歌について

 国旗はともかくも、国歌について言えば、それを歌うから愛国心があり、歌わないから愛国心
がないというふうに、決めつけてほしくない。

 私は、(あなたもそうだろうが……)、外国で、日本を思うときは、別の歌を歌う。「ふるさと」で
あり、「赤とんぼ」である。

●自虐的教育について

 この日本では、自国の歴史を冷静に反省することを、「自虐的教育」という。右翼的思想の人
が、左翼的傾向のある教育を批判するとき、好んで使う言葉である。

 「どうして?」と思うだけで、あとがつづかない。

●親のめんどう

 それだけ日本人の親子は、関係が、希薄ということ。親自身が、無意識のうちにも、親子の
関係を破壊している。そういう事実に気づいていない。

 子どもの夢、希望、目的をいっしょに、考え育てるというよりは、「勉強しなさい」「いい高校に
入りなさい」という、短絡的な教育観が、親子の関係を破壊していることに、いまだに、ほとんど
の親は気づいていない。

 「子どもが自己中心的だから」という結論は、どうかと思う。こういうところで、自己中心的とい
う言葉を、安易に使ってほしくない。家族の形態そのものも、ここ半世紀で大きく変わった。

ここに表れた「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたいが、18%」という数字は、数年
前の調査結果と、ほとんどちがっていない。

 よりよい親子関係を育てるためには、(ほどよい親)(暖かい無視)に心がける。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●愛国心について

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。欧米で見る「民主主義」とは、まった
く異質のものである。

 まさに官僚のトップは、やりたい放題。どうやりたい放題かということについては、今さらここ
に書くまでもない。マスコミでは、周期的にそうした話題を取りあげ、騒ぐが、いっこうに、そうし
た傾向が改まる様子はない。ますますその横暴さが、ひどくなるだけ!

 国民や私たちは、そういう「日本」を、日常的に見ている。もちろん、若者たちも、だ。なのに、
それらをいっしょくたにして、どうして、「日本の若者たちには、愛国心がない」と言えるのか。

 ときどき、世界の人たちの愛国心が、アンケート調査される。しかし日本で、「愛国心」というと
きは、そこに「国」という文字を入れる。が、たとえば英語で、「愛国心」というのは、「ペイトリア
ズム」という。

 ペイトリアティズムというのは、もともとはギリシア語、さらにはラテン語で、「父なる大地を愛
する」という意味である。愛国心という日本語とは、意味がちがう。そういうちがいを、無視し
て、世界の若者のたちの意識を調査しても、意味はない。

++++++++++++++++++++

少し前に、愛国心について、書いた。

++++++++++++++++++++

●愛国心について考える
……ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら……。

 毎年8月15日になると、日本中から、「愛国心」という言葉が聞こえてくる。今朝の読売新聞
(02年・8月12日)を見ると、こんな記事があった。

「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・TK・東北大教授)のメンバーが執筆した「中学歴史教
科書」が、愛媛県で公立中学校でも採択されることになったという。採択(全会一致)を決めた
愛媛県教育委員会の井関和彦委員長は、つぎのように語っている。

 「国を愛する心を育て、多面的、多角的に歴史をとらえるという学習が可能だと判断した。戦
争賛美との指摘は言い過ぎで、きちんと読めば戦争を否定していることがわかる」(読売新聞)
と。

 日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば
中国や北朝鮮などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。

日本では、「愛国心」と、そこに「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オー
ストラリア人も、「国」など、考えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。こ
の単語は、ラテン語の「patriota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日
本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という
意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

●patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
●patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
●Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。こ
の戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは
愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。

ここに日本人と欧米人の、大きなズレがある。(ごまかしがある。)つまり体制あっての国と考え
る日本、民あっての体制と考える欧米との、基本的なズレといってもよい。が、こうしたズレを
知ってか知らずか、あるいはそのズレを巧みにすりかえて、日本の保守的な人たちは、「愛国
心は世界の常識だ」などと言ったりする。

たとえば私が「織田信長は暴君だった」と書いたことについて、「君は、日本の偉人を否定する
のか。あなたはそれでも日本人か。私は信長を尊敬している」と抗議してきた男性(四〇歳くら
い)がいた。

このタイプの人にしてみれば、国あっての民と考えるから、織田信長どころか、乃木希典(のぎ
まれすけ、明治時代の軍人)や、東条英機(とうじょうひでき・戦前の陸軍大将)さえも、「国を支
えてきた英雄」ということになる。

もちろん歴史は歴史だから、冷静にみなければならない。しかしそれと同時に、歴史を不必要
に美化したり、歪曲してはいけない。

先の大戦にしても、300万人もの日本人が死んだが、日本人は、同じく300万人もの外国人
を殺している。日本に、ただ一発もの爆弾が落とされたわけでもない。日本人が日本国内で、
ただ一人殺されたわけでもない。

しかし日本人は、進駐でも侵略でもよいが、ともかくも、外国へでかけていき300万人の外国
人を殺した。日本の政府は、「国のために戦った英霊」という言葉をよく使うが、では、その英
霊たちによって殺された外国人は、何かということになる。

こういう言葉は好きではないが、加害者とか被害者とかいうことになれば、日本は加害者であ
り、民を殺された朝鮮や中国、東南アジアは、被害者なのだ。そういう被害者の心を考えること
もなく、一方的に加害者の立場を美化するのは許されない。それがわからなければ、反対の
立場で考えてみればよい。

 ある日突然、K国の強大な軍隊が、日本へやってきた。日本の政府を解体し、かわって自分
たちの政府を置いた。つづいて日本語を禁止し、彼らのK国語を国語として義務づけた。日本
人が三人集まって、日本語を話せば、即、投獄、処刑。しかもK国軍は、彼らのいうところの首
領、金元首崇拝を強制し、その宗教施設への参拝を義務づけた。そればかりではない。

数10万人の日本人をK国へ強制連行し、K国の工場で働かせた。無論、それに抵抗するもの
は、容赦なく投獄、処刑。こうして闇から闇へと葬られた日本人は数知れない……。

 そういうK国の横暴さに耐えかねた一部の日本人が立ちあがった。そして戦いをしかけた。し
かしいかんせん、力が違いすぎる。戦えば戦うほど、犠牲者がふえた。が、そこへ強力な助っ
人が現れた。アメリカという助っ人である。アメリカは前々からK国を、「悪の枢軸(すうじく)」と
呼んでいた。そこでアメリカは、さらに強大な軍事力を使って、K国を、こなごなに粉砕した。日
本はそのときやっと、K国から解放された。

 が、ここで話が終わるわけではない。それから50年。いまだにK国は日本にわびることもな
く、「自分たちは正しいことをしただけ」「あの戦争はやむをえなかったもの」とうそぶいている。
そればかりか、日本を侵略した張本人たちを、「英霊」、つまり「国の英雄」として祭っている。
そういう事実を見せつけられたら、あなたはいったい、どう感ずるだろうか。

 私は繰り返すが、何も、日本を否定しているのではない。このままでは日本は、世界の孤児
どころか、アジアの孤児になってしまうと言っているのだ。つまりどこの国からも相手にされなく
なってしまう。今は、その経済力にものを言わせて、つまりお金をバラまくことで、何とか地位を
保っているが、お金では心買えない。お金ではキズついた心をいやすことはできない。日本の
経済力に陰(かげ)りが出てきた今なら、なおさらだ。

また仮に否定したところで、国が滅ぶわけではない。あのドイツは、戦後、徹底的にナチスドイ
ツを解体した。痕跡(こんせき)さえも残さなかった。そして世界に向かって反省し、自分たちの
非を謝罪した。

(これに対して、日本は実におかしなことだが、公式にはただの一度も自分たちの非を認め、
謝罪したことはない。)その結果、ドイツはドイツとして、今の今、ヨーロッパの中でさえ、EU(ヨ
ーロッパ連合)の宰主として、その地位を確保している。

 もうやめよう。こんな愚劣な議論は。私たち日本人は、まちがいを犯した。これは動かしがた
い事実であり、いくら正当化しようとしても、正当化できるものではない。また正当化すればす
るほど、日本は世界から孤立する。相手にされなくなる。それだけのことだ。

 最後に一言、つけ加えるなら、これからは「愛国心」というのではなく、「愛郷心」と言いかえた
らどうだろうか。「愛国心」とそこに「国」という文字を入れるから、話がおかしくなる。が、愛郷心
といえば、それに反対する人はいない。

私たちが住む国土を愛する。私たちが生活をする郷土を愛する。日本人が育ててきた、私た
ちの伝統と文化を愛する。それが愛郷心ということになる。「愛郷心」と言えば、私たちも子ども
に向かって、堂々と胸を張って言うことができる。「さあ、みなさん、私たちの郷土を愛しましょ
う! 私たちの伝統や文化を愛しましょう!」と。
(02−8−16)※

(注)こうしたものの見方を、自虐的史観というらしい。しかし私は何も、日本を否定しているの
ではない。日本を嫌っているのではない。日本の未来を心配しているから、そう書く。

 私たちおとなが、正義となる見本を見せないでおいて、どうして、子どもたちに向かって、「国
を愛せよ」と言うことができるだろうか。

 このところ連日のように、公務員や公職関係者の人事異動の記事が、新聞に載っている。今
は、そういう季節らしい。

 しかしよく見てほしい。みながみな、公職をたらい回しにしているだけ。わかりやすく言えば、
無数の天下り先を、転々としているだけ。日本は、まさに官僚王国。官僚天国。わかりやすく言
えば、日本人が愛国心というときは、「愛・官僚主義国家心」ということになる。

 ここに書いたことが、過激な意見だとは、自分でもわかっている。しかし、少しはショックを感
じてほしかったから、あえて、愛国心について書いた。

 ただ忘れないでほしいのは、私は、人一倍、日本の将来を心配している。日本に、もっとすば
らしい国になってほしいと、願っている。左翼でも、右翼でもない。そうした活動とは、そのどち
らとも、無縁である。集会に出たこともない。

 で、そういう思いを、何と言ったらよいのか。それを「愛郷心」というなら、その心だけは、だれ
にも負けない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(補記)

●Y神社問題、いろいろな意見

 週刊S潮、6月16日号は、「K首相、Y国神社参拝、私はこう考える」を特集している。いろい
ろな人が、投稿している。それらを、まとめてみる。(カッコ)内は、私のコメント。

★小N田氏(元陸軍少尉)

 国が靖国を護持しないというのなら、それは私たちに対する、借金を返さず、未納のままだと
いうことです。また別の施設をつくるということは、私たちに対する、裏切り行為です。

 (何も、Y神社を取り壊そうとか、護持しないでおこうとか、そんなことを言っているのではな
い。K首相の、Y神社参拝が、問題だと、言っているだけ。中国も韓国も、それを問題にしてい
るだけ。氏は、どうやらそのあたりを、誤解しているようである。)

 日本では、亡くなった人に対して、それ以上の罪を憎まないという習慣がある。しかし中国で
は、死んだあとでも、墓まであばかれてしまいます。その価値観を、われわれが、受けいれな
ければならないのでしょうか。

★城Y氏(作家)

 加害者と被害者は違う……戦争に賛成した人(=加害者)も、反対した人(=被害者)も、Y
神社にいっしょに、祀(まつ)られています。おそらく祀られている人の多くは、命令されること
で、そうせざるをえなかったので、同様に、被害者なのです。私自身も以前、Y神社に個人的に
よく参拝に行きました。

 (戦争に賛成した人は、加害者だということは、わかる。しかし反対した人が、被害者というの
は、どういう論理によるものなのか、私には、理解できない。本当の被害者は、日本人によって
殺された、外国の人たちではないのか?

 戦争に賛成する人は、いないはず。私は、そう信じたい。日本の国土に、だれかが侵略して
きて、一発でも爆弾を落としたというのなら、『戦争、賛成!』と叫ぶ人もいるだろう。しかし日本
の国土には、ただの一発も、爆弾が落とされたという事実はない。その事実がないまま、日本
は、外に向って、戦争を始めてしまった。

 また反対したから、被害者という論理も、私には理解できない。城Y氏は、『反対したにもかか
わらず、戦場に送り出され、殺された。だから被害者だ』と考えているようだが……。)

★H氏(歴史学者)

 K首相のY神社参拝は支持します。外国からしつこく言われて、やめるべきではありません。
……Y神社は、戦場で死んだ人だけをまつる神社です。……中国は、ホンネの部分では、K首
相に参拝をやめられると、困るんじゃないですか。責め道具がなくなりますから。要するに、中
国のいいがかりなんですから。参拝をやめるべきでじゃありません。

 (この論理で考えていくと、では、反対に、日本が、中国に逆のことをされても、日本は、文句
を言えないことになる。いつか、中国の大軍が、日本へやってきて、日本を占領したとしても、
日本は、それについて、文句を言えない。

 知りたくはない。見たくはない。そういう気持はよくわかるが、その日本軍が、戦地で、どんな
虐殺行為をしたかを、もう少し、冷静に知る必要があるのではないだろうか。

 先日も、テレビを見ていたら、80歳を過ぎた老人がこう言っていた。彼はフィリッピンのどこ
かの激戦地で、アメリカ軍と戦った経験がある。

 『私たちは、若い兵隊の肉を食って生き延びました。肉を食っておけば、その肉が私の体の
一部となって、その若者は、日本へ帰れると、おかしな論理をこじつけてね。現地の人を虐殺し
たかって? はっきり言いますが、みんな、しましたよ。虐殺していない兵隊など、いませんでし
た』と。

 その老人は、長く細い涙を流していた。それが戦争なのだ!)

★デープ・S氏(TVプロヂューサー)

 (K首相の)Y神社への参拝には、反対します。Y神社は、軍国主義を美化しているでしょう。1
4人が、分祀されれば、別ですが……。第二次対戦は、神道による侵略(戦争)そのものです。
神道は、戦争に利用されたんですからね。Y神社にある、『遊S館』なんて、戦争賛美、そのも
のじゃないですか。

 (アメリカ人のS氏が、ここまで堂々と意見を言ってのける。私は、むしろ、こうした言論の自
由が保障されている日本こそ、私の日本だと思う。日本も変わった。こういう事実こそを、中国
や韓国の人に、知ってもらいたい。よく言ってくれた、S氏。)

★徳O氏(ノンフィクション作家)

 日本が、目障りなだけ。

★橋M氏(作家)

 これは管轄の問題

★黒T氏(漫画家)

 困るのは中国

★池D女史(哲学者)

 霊魂観をまず示せ……K首相は、Y神社に参拝する理由を、戦死者を弔(とむら)うためと言
っているが、ウソである。本当は、死者をほっておくと、祟(たた)ると思っているからである。

 (私は、『祟(たた)る』という漢字があることを、ここではじめて知った。それにしても、祟ると
は……?)

★江M氏(野球解説者)

 日本人よ目を覚ませ……総理のY神社参拝には、賛成に決まっているでしょう。

★野D氏(評論家)

 Kさんは、やめなさい。……ここで参拝を取りやめたとしても、中国側は、自分たちの主張に
沿っと思うだけで、中国の日本に対する評価が変わるわけではない。

★佐T氏(元外務官僚)

 外務官僚は、腹を切れ。……今年8月に総理がY神社を訪問すれば、おそらくこれまでで、
最大規模の反日攻勢が起こるでしょう。

★長S川女史(S大学教授)

 日本を滅ぼしてはならない。

★木D氏(哲学者)

 私は反対です。私は、昭和3年生まれで、満州で育ちましたので、Y神社参拝に中国や韓国
の人が、嫌悪感を抱くのが、よくわかるのです。日本人が戦争でやったことは、決してほめられ
ることではないのです。満州でも、かなりのことをしていました。

 多くの民を殺し、略奪し、搾取していたのです。私が小学生のとき、日本人の巡査が、クーリ
ーと呼ばれる中国人の労働者を、サーベルで殴ったり、蹴とばしているのを目撃しました。そ
のときのことが目について、離れません。

 K首相がY神社を参拝すれば、当時のつらく苦しい記憶を、(中国の古い世代の人たちは)、
必ず、思い出してしまうでしょう。

 K首相は、『罪を憎んで、人を憎まず』と言いますが、支配された側の中国や韓国の人たちの
気持ちを、そんな簡単な言葉で、すませてよいものでしょうか。

(以上、日本人の投稿者、11人の中で、この木D氏のみ1人が、K首相のY神社に反対してい
る。しかも、相手の立場で、ものを言っている。)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 以下、「靖国を外交カードにせよ」(弘K氏)、「なぜ、今ごろ、揉(も)めるのか」(佐T氏)、など
という、どこかトンチンカンな、意見がつづく。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 結局21人の識者の中で、K首相のY神社参拝に反対しているのは、D氏(アメリカ人)と、木
D氏(哲学者)、「参拝していいのは、せいぜい都知事まで」(森M氏)、「皮肉をこめて、首相の
Y神社は賛成」(小Z女史)の、4人だけということになった。つまり20%。

 これが日本の現状であり、現実である。20%という数字は、そのまま日本人の世論を表して
いる数字と見てよい。

さらに中には、「日本人の敵は日本人」(石D氏)などと、「Y神社参拝に反対する日本人こそ
が、日本人の本物の敵である」と説く人もいる。

 となると、私は、日本人の敵なのか?

 ほかにも「K首相は、英霊を冒涜している」(田J女史)、「小泉首相よ、説明が足りねえよ」
(大S氏)、「中国の思う壷」(佐N氏)など。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 実のところ、私は、この「20%」という数字に、少なからず、ショックを受けている。これではま
るで、戦前のあの、日本がした戦争は、正しかったと、日本が、世界に向って公言しているよう
なものである。

 もしそうなら、反対に、日本が日本がしたことと同じことを、中国や韓国の人にされても、日本
人は、文句を言えないことになる。つまりそういう口実を、彼らに与えてしまうことになる。

 私は、1967年に、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った。ソウルのミョンドン(一番の
繁華街)でさえ、通りの中央に、まだ裸電球がつりさげられていた時代である。その韓国から見
た、日本は、まるで異質の日本だった。

 私は、韓国へ渡ってすぐ、「日本の教科書はまちがっていない。しかしすべてを教えていな
い」と実感した。それについて、帰国後、多くの人は、「あの林は、韓国に洗脳された」と言っ
た。しかし洗脳されているのは、本当は、どちらなのか?

 私が印象としてもつことは、これら残りの80%の人たちは、現在の反日感情を基本に、K首
相のY神社問題を考えているように思う。

 たしかに、今の中国や韓国の人たちの反日感情というか、意識を思い浮かべると、あまりに
も露骨であるがゆえに、不快ですら、ある。その不快感を基本に、K首相のY神社問題を考え
ている?
 
 しかし私にはもう一つ、特殊な事情がある。親類の中には、あの7xx部隊の教授だった人が
いる。さらにA級戦犯として、処刑されている人もいる。K首相のY神社参拝問題を考えるとき
は、そうした事実が、いつも、重く私の心の上に、のしかかってくる。

 その上で、私は、まさに少数派の意見として、あえて言う。

 「戦争は、被害者の立場で考えよう」と。

 そういう視点を、心のどこかに置かないと、日本は、進むべき日本の道を見失うのではない
か。が、それでも、「日本は、正しかった」と主張するなら、今の今でも構わないから、在日アメ
リカ軍に対して、ゲリラ戦でもしかけたらよい。

 Y神社問題とからめて、「日本を滅ぼしてはならない」と説く、長S川女史(S大学教授)、さら
には、「なぜ、今ごろもめるのか」と説く、佐T女史。自分たちの無関心、不勉強をタナにあげ
て、堂々と、K首相によるY神社参拝を支持している。

 今さら言うまでもないが、戦前の日本は、アメリカ軍の原爆によって、「滅びた」ではないか。
そして、この問題は、何も、「今ごろ、もめている」のではない。私が韓国へ行った1967年当
時ですら、韓国では、日本への反日感情は、燃えさかっていた!

 いろいろまだ書きたいことはあるが、この問題はここまで。

 悲しいかな、日本は、戦後、一貫して、各国に対して、戦争責任を認めていない。「責任」とい
う言葉を使うと、その責任は、天皇にまで、およんでしまう。そのため、「賠償」という言葉を使
わず、「補償」もしくは、「経済援助」という形で、つまりは、ナーナーですませてしまった。

 今、そのツケが、回ってきたということ。そしてそのツケが、K首相による、Y神社参拝問題に
集約されているということ。

 もし戦後、バックに、アメリカ軍による駐留がなければ、日本は、まちがいなく、毛沢東中国、
李承晩韓国、金日成K国によって、繰りかえし、報復戦争を受けていたはず。今の今でも、K
国は、日本への報復戦争を、もくろんでいる。「日本人は、平和を愛する民族」だとか、「平和を
守ったのは私たちだ」などと言うのは、その人の勝手だが、世界は、そんなに甘くない。

 勇ましい、民族主義、好戦争はさておき、みなさん、ここはもっと、冷静に考えよう!






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●子どもの希望

 今度(05年)、浜松市の男女共同参画推進協会が、子どもたちの意識調査をした。それによ
ると、結果は、つぎのようであった(協会の広報「あい」より)。

○男子のなりたい職業(小学生)

 サッカー選手
 プロ野球選手 
 パン屋
 お笑い芸人
 医者

○男子のなりたい職業(中学生)

 コンピュータ関係
 医療関係
 建築関係
 プロスポーツ選手
 カメラマン
 公務員
 漫画家

++++++++++++++++++

○女子のなりたい職業(小学生)

 パティシエ
 保育士
 美容師
 教師
 トリマー
 ネイルアート

○女子のなりたい職業(中学生)

 デザイナー
 保育士
 薬剤師
 教師
 歯科衛生士
 パティシエ
 トリマー
 美容師
 アニメ関係

++++++++++++++++++

 この中に出てくる、「パティシエ」というのは、フランス語で、「菓子職人」をいう。ふつう「ケーキ
屋さん」をいう。

 もっとも、こうした将来に対する希望をもっている子どもは、小学生で、82〜85%。中学生
で、78〜77%だそうだ(同、調査)。残りの子どもたちは、「将来、どんな仕事をしたいか考え
たことがない」そうだ。

 そういう子どもたちは、ただ漠然(ばくぜん)と、学校へ通っているだけ?

 ……ということでは、いろいろな問題が起きてくる。昔とちがって、いい高校、いい大学へ入る
ことは、今では、ステータスでも何でもない。ただ「勉強しなさい」と追いまくられた子どもほど、
高校や大学へ入ったとたん、目標を見失う。わかりやすく言えば、宙ぶらりんになる。

 燃え尽き症候群や、荷おろし症候群に、おちいる子どもも出てくる。

 が、それだけではない。こうした子どもは、夢や目標がないから、誘惑にも弱くなる。ちょっと
したきっかけで、悪の道に入ったりする。もともと勉強する目的をもっていないから、当然といえ
ば、当然。大学へ入ったあとは、ただひたすら、遊ぶ。

 (これについては、役割形成論、役割混乱論で詳しく書いた。)

 で、順に、子どもの希望について、考えてみよう。

 「お笑い芸人」「公務員」「トリマー」というのが、ユニークなところ。そう言えば、ワイフの友人
で、50歳をすぎてから、そのトリマーを始めて、大成功している人がいる。最初は、自宅で、近
所の犬やネコのトリマーをしていたのだそうだ。

 が、今では……! 「たった4、5年で、そうなったのよ」とワイフは言っているが、私もトリマー
をすればよかった……というのは、ねたみかも?

 これからの日本では、どんな職業が、よい職業で、またどんな職業が、そうでないか、それ
が、ますますわかりにくくなってくるだろう。「お金を稼ぐ」というのは、あくまでも手段。大切なこ
とは、そのお金で、いかに自分の人生を充実させるか、だ。

 職業についての上下意識、つまりは身分制度は、さらに崩壊する。だいたいにおいて、職業
に、上下意識があるということ自体、バカげている。今でも、50歳以上の人には、そういうバカ
げた意識が残っていて、ときどき、「○○(職業名)のくせに」とか、「ロクな仕事もしていないくせ
に」という言葉を、聞く。

 ただ、「お笑い芸人」について、一言。もともと、そのレベルの人が、そのレベルの「芸」をして
も、おかしくも何ともない。人を笑わすというのは、最高に知的な「芸」である。その「知力」をみ
がくのは、たいへんなこと。もともとアホな人(失礼!)が、アホなことをしても、人は笑わない。
ときに、見ているだけで、「同じ人間か?」と、さみしくなることさえ、ある。

 パティシエや、ネイルアートをめざすくらいなら、どうして、彫刻家や画家をめざさないのか…
…と考えるのは、ヤボなことかも。日本には、そういう人を生かし、育てていく土壌そのものが
ない。

 子どもたちの意識調査を読んで、そんなことを考えた。
(050323)
(はやし浩司 子供の夢 希望 希望職業 子どもの夢 意識調査 職業 希望する職業)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「基礎学力」という亡霊

 教育界の伝家の宝刀、それが「基礎学力」という名前の亡霊。この一言を提示されると、この
日本では、まさに泣く子も黙る。

 しかし基礎学力とは何か。まだ文字を読めない民や、まじないや、占いに人生を託していた
明治のはじめならいざ知らず、今は、そういう時代でもない。

 読み、書き、ある程度の算術を、昔は、「基礎学力」といった。それはわかる。しかし一次方
程式や二次方程式が、どうして基礎学力なのか。いまだに、私は、それがわからない。

 もちろん、それを理解し、将来、数学者や科学者になるという目的をもっている子どもは、
別。理科系の大学へ入って、そこで何かの計算に使うというのであれば、別。

 しかしその能力に不足し、四苦八苦しながら、悩んだり苦しんだりしている子どもを見ている
と、私は、ふと、こう思ってしまう。「なぜ、こんな勉強で、子どもを苦しめなければならないの
か」「こういう子どもは、時間を、もっと別のことに使ったほうがいいのにな」と。

 オーストラリアのグラマースクール(全寮制の小・中・高一貫校)などでは、子ども、1人ひとり
に合わせて、カリキュラムを組んでくれる。水泳が得意な子どもは、毎日水泳のレッスンが受け
られるように、木工が好きな子どもは、毎日、木工ができるように、と。

 それが世界の常識で、日本のように、北海道から沖縄まで、まるで金太郎飴のアメのよう
に、一律一斉授業をするほうが、おかしい。おかしいものは、おかしいのであって、それ以外
に、何とも言いようがない。

 子どもの多様性にあわせて、教育も、多様化すべきときにきているし。いわゆる基礎学力に
こだわる理由は、もうない。

 大切なことは、何度も書くが、自分で考えて、自分で道を切り開いていく力である。その力さえ
あれば、子どもは、おとなになってからも、自分の力で、自分で伸びていく。概して言えば、日本
人は、学校を卒業すると同時に、大学であれ、高校であれ、「これで勉強は終わった」と考えや
すい。

 つまりそういうふうに、「終わった」と思わせてしまうところに、日本の教育の最大の欠陥があ
る。

 今でもこの「基礎学力」という言葉を使って、子どもの学力を問題にする人は多い。もしこの
言葉を言いかえるとしたら、たとえば基礎常識、基礎思考力、基礎共鳴力、基礎人間関係、基
礎判断力などと言えばよい。

 で、最近は、「子どもの学力が低下している」と、よく話題になる。たしかにそのとおりである。

 たとえば今では、掛け算の九九が使いこなせない中学生や、分数の計算ができない大学生
など、珍しくも、何ともない。しかしそれが子どもの問題ではなく、教育システムの問題である。
もっと言えば、子どもを教える教師の情熱の問題である。

 では、どうすれば教師の情熱を絶やさず、燃やしつづけることができるのか。わかりやすく言
えば、どうすれば教師のやる気を引きだすことができるかということになる。

 私は方法としては、つぎの3つを考える。

(1)教育の自由化(教師の自由裁量範囲の増大)
(2)教育以外の雑務からの解放
(3)絶壁化(職場環境のきびしさ)

 ここでいう「絶壁化」というのは、極端なケースとしては、5年ごと、あるいは3年ごとの、雇用
契約の更新性などがある。(これは極端な話に聞こえるかもしれないが、欧米では、常識。)

 誤解してはいけないのは、「基礎学力の低下」は、あくまでも、「結果」であるということ。「原
因」を正さないでおいて、「結果」ばかり問題にしても、意味はない。いわんや、あたかも子ども
自身に問題があるような言い方には、私は、どうしても、納得できない。

 なお、もう一言、つけ加えるなら、親たちは、子どもの学力の低下など、心配していない。親た
ちが心配しているのは、自分の子どもが、この受験競争社会で、より不利になることを、心配し
ている。それを誤解してはいけない。
(はやし浩司 基礎学力)




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