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【子育て・新格言】

●名前は呼び捨て

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学校での教師の指導のし方が、大きく、変わっ
てきています。

生徒を、「〜〜さん」「〜〜君」と、「さん・君」
づけで呼ぶ。また教師が何かをしてほしいとき
には、「〜〜しなさい」という命令口調ではな
く、「〜〜してくれませんか?」「〜〜してはど
うでしょうか?」という、依頼型、提案型に
なってきている(静岡県)、など。

教師と生徒は平等……という考え方が基本に
あるようですが、そういう話を聞くと、「学校の
先生も、たいへんだなあ」と思ってしまいます。

今では、そこまで気をつかわねばならないのか、
と、です。

しかし、家庭では、もう少し、気楽に考えて
よいのではないでしょうか。いちいちたがいに
気をつかっていたら、それだけで気が疲れて
しまいますね。

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 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。
先日も神奈川県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してく
れた。

「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで私が
「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、たいへ
んなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中に
は、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。

しかし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさ
せればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほ
ど、生活力も身につき、忍耐力も養われる。そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言う
までもなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「〜〜さん」とか、「〜〜ちゃん」づけで呼ぶ親を
見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。

一見、子どもを大切にしているように見えるが、どこか違うような気がする。それで子どもに問
題がなければよいが、たいていは、そういう子どもにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も
大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしている。子どもが小さいうちならまだしも、やがて
親の手に負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子で
も、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあって
いる。

そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則は、子
どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を閉ざ
す。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」で
は、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒ではないか(「クレヨンしんちゃん」)。そ
れほど深刻な問題ではないかもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また
呼び捨てでよい。

【父親の皆さんへ】

たしかに今、教育や子育てのし方が、大きく変わりつつあります。こういう流れの中で、「今まで
のあなたの、父親としての子育て法は、まちがっていました」と、あまり人から言われると、自信
をなくしてしまいますよね。

心理学でいう、「役割混乱」的な不安感を覚える人も少なくありません。私も、いつだったか、エ
プロンをかけて、台所に立ったとき、言いようのない不安感を覚えたことがあります。それだけ
ではありません。「これからは男も、洗濯をしなければいけないのかなあ」「これからは男も、料
理をしなければいけないのかなあ」と考えただけで、憂うつになってしまったことも覚えていま
す。

(今は、平気で、それができるようになりましたが……。)

しかし子育てで重要なのは、実は、「一貫性」なのです。「あなたは、あなた。私は、私」という一
貫性です。

その一貫性があれば、あとは、子どものほうが、それを受け入れ、消化していきます。「うちの
オヤジは、化石のような頭をしているからなあ」とか、「オヤジは、封建時代の亡霊だよ」とか、
そんなふうに言いながら、納得していきます。

決して、理想的な父親になろうと、思わないこと。思う必要もありません。気負いが強すぎると、
かえって、子どもとの関係が、ギクシャクしてきてしまいます。機嫌をとったり、子どもにコビを
売ったりするようになります。

 無理をしてはいけません。

「ぼくが子どものころは、男は、料理や裁縫などしなかった」で、すませばよいのです。無理をし
て、料理をしたり、裁縫をしたりする必要はないのです。この問題は、これから先、何世代もか
けて、少しずつ修正されていけば、それでよいのです。

この問題は、母親である(あなた)にも、当てはまるかもしれません。あなたはあなたでよいの
です。ただし、居直りは、禁物。努力することだけは、忘れないように。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

(1)名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子ど
もはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」について
は、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。

(2)人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や
威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような
「核」攻撃は、タブー中のタブー。

(3)人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。
子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好まし
いものではない。

(4)自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけ
に、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。
もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。

(5)名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前は
すばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることか
ら、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、
高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を
大切にすることを学ぶ。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、
その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気
を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、
大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)逃避型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私
はプラス型と呼んでいる。また逃避型というのは、周囲に向かって反応することができず、引き
こもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多
い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうし
た反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体
験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育
て、親の拒否的な育児姿勢など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

 そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少し
いじめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の
情緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。

たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうし
た恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊ん
でいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の
情緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということ
を、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダというこ
とをわからせる、という方法で対処する。

ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状況で同じようにぐずるということであれば、
ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり方があまりひどいようであれば、スキンシ
ップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年より
よくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、
立ちなおりがむずかしくなる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラしている人がいる。「右脳教育がいい」という
話を聞くと、右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や
外からの情報に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母
親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせ
ようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。

「色彩感覚は、3歳までに決まるというから、あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の
絵の先生に習うと、その先生の個性が子どもに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。
今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあるので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないというこ
と。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えていない。そこで私が「お子さんは、
どう思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論
は出たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものが
ないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの
「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなた
がこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、3日置いて出す。このタイプの母親
ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。

だから3日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱
えるとよい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜ
い一週間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうも
のか。その親自身の全人格がそこに反映される。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●『ひまな子どもほど、忙しいと言う』

 『ひまな子どもほど、忙しいと言う』は、イギリスの格言。つまりひまで、時間をもてあましてい
る子どもほど、何かを言いつけたりすると、「忙しいからできない」を口実に、しない。

日本でも、昔から、『大工は、いそがしい大工に頼め』という。いそがしい大工は、それだけ仕
事から手を抜くかといえば、そうではない。反対にヒマそうな大工ほど、それだけよい仕事をし
てくれるのではと思いがちだが、実際には、しない。

 人はある緊張感に巻き込まれると、そのリズムで、仕事をするようになる。わかりやすく言え
ば、「活気」ということか。これは教師についても言える。毎日、忙しそうにキビキビと動いてい
る教師は、そのリズムの中で、どんどんと仕事をこなしていく。仕事ぶりもよい。しかし毎日ひま
そうな教師は、そのリズムで、どんどんと仕事をあと回しにしていく。そのため仕事から、できる
だけ手を抜こうとする。

 子どもを伸ばすコツは、言うなれば、こうした緊張感のあるリズムの中に、子どもを巻き込む
こと。そして子ども自身が、日々の生活をキビキビとこなしていくようであれば、よし。そうでなけ
れば、……と書いたが、この先がむずかしい。一度だらしなくなってしまった生活は、なかなか
もとには戻らない。

たとえば子どもに退行的な生活態度(約束や規則、目標が守れない。時間がルーズになる。生
活習慣が乱れる。だらしなくなる)が見られるようになると、それをなおすのは、容易ではない。
要は、そういう子どもにしないことだが、親が寝そべって、せんべいを食べながら、「あんたはし
っかりしてね」はない。結局は、親の心がまえの問題ということになる。

 そこであなた自身はどうか。毎日、メリハリのある生活を、キビキビとこなしているだろうか。
さらに月単位、年単位で、キビキビとこなしているだろうか。もしそうなら、そうした緊張感は、子
どもによい影響を与えているはずである。そうでなければ、そうでない。

 ふつうキビキビと目標をもって生活している子どもは、「忙しい」とは言わない。「時間がない」
という。だからこのイギリスの格言をもじると、こうなる。

 『忙しい子どもほど、時間がないと言う』と。さて、あなたの子どもはどうか。あなた自身はどう
か。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●肥満傾向は手の甲を見る

 もう三〇年前になるが、仕事で香港へ行くたびに、私は低周波治療器なるものを数台買って
きた。向こうでは五〜六万円のものだったが、日本へもってくると、一〇万円以上で売れた。日
本では針治療や、ハリ麻酔の研究にそれを使った。治療器と言っても、簡単な機械で、ぎょう
ぎょうしい外装とは別に、中身はがらんどうだった。

 その機械を日本でもできないかと考えていたとき、私は皮膚電気抵抗値という言葉を知っ
た。人間の体に微弱な電流(3V程度)を流すと、体の部位によって、抵抗値が違うというのだ。
測定はマイクロアンペア計ですればよい。このアンペア計が、当時、精度のよいもので、四〜
五〇〇〇円。あとはそれに整流体(一方向に電流を流すようにするもの)や抵抗体(電流を、
測定しやすい値に補正するもの)をつければ、それで皮膚電気抵抗値を測定できた。実に簡
単な装置だった。値段も、乾電池を含めても、五〇〇〇円前後だった。私はそれを使って、ハ
リ麻酔の研究をつづけた。

 が、やがてその皮膚電気抵抗値を応用して、体脂肪測定器ができるとは、思ってもみなかっ
た。脂肪分の多い人は、当然抵抗値が大きくなる。脂肪は電気を通さないからだ。一方、脂肪
の少ない人は、それだけ抵抗値が小さくなる。この値を補正すれば、「体脂肪率○○%」と表
示することができる。まちがいなく、私はそのとき皮膚電気抵抗値の研究では、最先端を走っ
ていた。もしそのとき、それに気づいていれば、億万長者になっていたと思う。人生には、そう
いう、つまり、あとで気がついてみるとわかるが、そのときは見逃してしまうチャンスというの
が、ときどきあるものだ。しかしこれは余談。

 その肥満。長い間、子どもの肥満を見ていて気づいたことがある。満四歳前後までは、乳幼
児期の肥満がつづいているが、それ以後、子どもの体形は、少年少女期に向かって、スリム
になっていく。そのとき、肥満傾向がつづく子どもは、手の甲の肉がぷっくりとふくれたような感
じになる。そうでない子どもは、そうでない。もう少し詳しく言うと、こうだ。

 手のひらをぐいとのばしてみる。すると五本の指の付け根に、指からのびる五本の腱が現れ
る。この腱の様子を見れば、子どもの肥満度をある程度、判断できる。

(肥満度一)子どもの肥満傾向が進むと、四肢の末端からその傾向がはっきりとわかるように
なる。たとえば手の甲(てのひらの部分の反対側)が、何となくぷっくりと張れたような感じにな
る。腱そのものが、わかりにくくなる。

(肥満度二)さらに肥満度が進むと、この腱がまったく見えなくなり、かわって、付け根のところ
に、えくぼが現れるようになる。

(肥満度三)さらに肥満度が進むと、手の甲全体が丸くふくらんだようになり、手を伸ばすと、甲
に深いえくぼが現れるようになる。この段階になると、肥満がだれの目にもわかるようになる。

 子どものばあい、肥満は大敵。(太る)→(運動不足になる)→(ますます太る)の悪循環に入
ると、肥満度は一挙に加速する。学習にも大きな影響が出てくる。これはあくまでも見た感じだ
が、脳へ行くべき血流が、どこかほかへ行くような感じになってしまう。そのため集中力や思考
力が弱くなる。

 こうした肥満傾向が見られたら、できるだけ初期の段階で、家庭の中から、食べ物を一掃す
るのがよい。思い切って捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、そうする。そういう「思
い」が、まちがった買い物習慣を改めさせる。このタイプの親ほど、「うちの子はそれほど食べ
ていません」とか、「食事には注意しています」とか言う。しかしその反面、家の中には、食べ物
がゴロゴロしているもの。基準そのものが、ふつうの家庭と大きくズレていることが多い。

 なおこの手の甲をみる肥満度検査法は、ここにも書いたように、満四歳児以下には応用でき
ない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、問題
は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせること」
「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。またそれ
が親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にというか、無意識の
まましてしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、お金
ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するようにな
る。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんとう)する。
たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れていくこともあるだろ
う。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎてしま
う。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言った。「ヒロシ、日
本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているね」と。「スポイル」というのは、「ドラ化して
いる」という意味だ。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、生活力
も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解できるようにな
る。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあなたの
子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。しかしそれを見て見ぬフリし
たり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたは家庭教育のあり方を、かなり反
省したほうがよい。子どもをかわいがるということは、どういうことなのか。子どもを育てるという
ことがどういうことなのか。それをもう一度、原点に返って考えなおしてみたほうがよい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●昼寝グセはガムで

 慢性的な睡眠不足とは別に、満五歳をすぎても、昼寝グセが残っているようなら、その時間、
ガムをかませるとよい。(だからといって、昼寝が悪いといっているのではない。もし気になるな
ら、ということ。)

 ここまで書いて気がついたが、本来人間は、生物学的に、昼寝をする習慣をもっているので
はないか。外国へ行っても、昼食後、昼寝する民族は多い。スペインに住んでいる知人も、少
し前メールで、こう教えてくれた。「このあたりでは、昼休みが長く、子どもたちは一度家へ帰っ
て、昼寝する。それで子どもたちも、夜一〇時をすぎても、通りで遊んでいる」と。日本の生活
習慣、あるいは常識が、そのまま世界の生活習慣の基準と考えるのは、正しくない。

 実のところ、私も五〇歳を過ぎるころから、昼寝をするようになった。毎日というわけではない
が、数日おきくらいにそうしている。そういう自分を振り返ってみると、昼寝は悪いものではない
と思うし、それが子どもにあっても、不思議ではない。むしろ現代生活のほうが、人間本来の生
活習慣をねじまげているのではないか?

 話はそれたが、ガムをかむことには、いろいろな利点がある。頭がよくなる(サイエンス誌)と
いう説もあるが、これなどは、素人が考えても、納得できる。あごの運動が、脳の活動を活発
化する。ほかにあごの筋肉を鍛えるということもある。当然、咀嚼(そしゃく=かむ)力が鍛えら
れる。胃腸のためにも、よい、などなど。そんなわけで、子どもにはガムをかませるとよい。が、
これにはいくつか、コツがある。

(1)当然のことながら、菓子ガムは、避ける。
(2)ガムは、一枚与えて、最低でも三〇分は同じガムをかませる。つぎつぎと交換するのは避
ける。
(3)はげしい運動中は、ガムは避ける。息を吸い込んだとき、のどをつまらせる。
(4)子どもの口にあった適量にする。幼児のばあい、ふつうのガムの半分の量でよい、など。

ほかにガムを捨てるときの、マナーを最初に、しっかりと教えておくというのもある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほし
いものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤
解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。

物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のこ
ろは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万
円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、
満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめた
ほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育て
で、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからとい
って、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●よき友になる

 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、
ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いった
い何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日
本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関
係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」とい
う、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸び
やか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子
どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気
負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつく
る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●先輩をもつ
 あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理
をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消
する。

「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリット
はないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その
人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談して
みたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よく
したらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界に
は、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることが
ある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習さ
せると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間
という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見な
がら、勉強するということは、それなりに重要である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●指示は具体的に
 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこで
ある日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きなが
ら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。
(はやし浩司 子どもの指導 子供の指導 指導のし方)





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●子どもの進路について

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京都府にお住まいの、HUさん(母親)から、
こんな相談のメールが届いています。

みなさんと、いっしょに、この問題を、考えて
みたいと思います。

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【HUより、はやし浩司へ】

【 マガジンを読んでくださっていますか? 】:毎回、欠かさず読んでいる。
【 ホームページをご覧くださっていますか? 】:よく見る。
【 マガジンは、おもしろいですか? 】:
    たいへんおもしろい。
    たいへん、役立っている。
    共鳴するところが多い。

【 マガジンでは、どんなテーマを希望されますか? 】:
    子育てのノウハウ。
    親子の問題。
    受験問題。

【 これからもマガジンを購読してくださいますか? 】:毎回、必ず読む。
【 ご相談をお寄せください。(このままマガジンに掲載することもあります。あらかじめ、ご了解く
ださい。) 】:

 はじめまして、ある掲示板で、はやしさんのことを知る事ができ、いろいろ読ませていただい
ています。

 現在高3の娘と高1の息子を、子育て中です。

上の娘は何でも一人で考えてキチンとこなす子なのですが、下の息子は何をするのも慣れる
まで時間がかかるので、こちらもつい口出しをしてしまいます。母子でいつも大騒ぎしていま
す。主人が転勤族なので子供達も、転校続きでしたが、今まではお友達とそのお母さん方に恵
まれ、悩む事もあまり無く過ごせてきました

 しかし息子の高校受験からちょっと雲行きが怪しくなってきました。高校入学後、部活と通学
に精一杯で、勉強を一切しなくなってしまったのです。

 第一〜第四まで落ちてしまったので、すべり止めで入学した学校ですが、後ろを振り返ったら
何人もいない状態です。受験まで分からない事があると、私が教えていました。

 学生時代、私もそんなに賢かったわけではないので、一緒に勉強しました。これを高校へ入
ってからもやるべきかそれとも放っておくべきか、迷っています。

 娘の時は一切見ていません。
 息子は言われなければ夏休みも部活だけで何もしないでしょう。それをそばで見ないふりを
するのが、彼にとって良いのは分かっています。

 でも取り返しのつかないバカになってしまいそうで、不安です。おかしいですか? 笑ってしま
いますか? 私も書いていて笑ってしまいます。でも真剣です。

 学校は進学校で、受験指導なども真剣にやってくれていますが、息子の心には響かないよう
です。受験失敗の後、いろいろな葛藤があり、それも尾をひいているのかなとも思います。息
子は必死でやった、らしいですが、母親の私の目にはその様に映らなかった。

 でも息子の話を聞くうちにこの子の限界だったのかな、可愛そうだったなという気持ちになり
ました。

 お忙しそうですのでお返事は期待していません。

 何かの機会に高校生の扱い方みたいなことを書いていただけたらと思います。アホな母でし
た。

++++++++++++++++++++++はやし浩司

 子どもは、小学3、4年生を境に、急速に親離れを始め、そのころから、おとなになるため
の、心の準備を始めます。たいていは、不安と心配、孤独と期待の、入りまざった心の状態に
なります。

 「自分が餞別される」というのは、子どもにとっては、恐怖以外の何ものでもありません。それ
に将来に対する、不安もあります。相談を寄せてくださったHUさんも、若いころ、その時代に
は、そうだったと思いますが……。

 が、たいていの親は、それに気づかない。気づかないまま、つまり子離れできないまま、その
ままの関係を維持しようとします。「まだ、何とかなる」「こんなはずは、ない」と、です。

 しかし中学生ともなると、もう子どもは、子どもではない。言いかえると、子どものある部分
は、親の手の届かないところに、行ってしまっている……。子どもというのは、そういうもので
す。

 で、この時代に、夢と希望、それに目標をもっている子どもは、幸福です。その目標に向かっ
て、前に進むことができます。しかし現実には、夢や希望すらない子どものほうが、多いので
す。いろいろな調査結果からみても、夢や希望をもっている子どもは。全体の30%前後(小学
6年生レベル)。約70%の子どもは、毎日を、そこに毎日があるから過ごしているだけというよ
うな、過ごし方をしています。

 これが現実です。

 そこで、多くの親たちは、子どもを受験にかりたてます。

 しかしここで誤解してはいけないことは、目的(?)の学校に、合格することは、ここでいう「子
どもの目的」ではないということです。学歴社会という社会が、勝手につくりあげた(目的)にす
ぎないということです。学歴社会では、それなりのメリットもあり、「目的」となりえるかもしれませ
ん。しかし「学歴があるから、どうなの?」という部分がないまま、学歴を子どもに求めても、今
の子どもたちは、それには納得しないでしょう。

 夢や希望が、ベースにあり、その夢や希望を果たすために、学歴が必要ということなら、子ど
もも、それに納得するだろうということです。たとえば医者になりたいとか、建築士になりたいと
か、あるいは科学者になりたいとか、そういう夢や希望です。

 それがないまま、ただ「勉強しなさい」「いい大学に入りなさい」と、子どもを攻めたてても、子
どもはかえって、反発するだけだということです。

 現に今、地元の中学生にしても、約60%の子どもたちは、「勉強で苦労するくらいなら、部活
動を一生懸命して、推薦で、高校へ入ったほうがいい」「進学校はいやだ。勉強しなければなら
ないから」と考えています。ある中学校の校長が、こっそりと、私にそう話してくれました。

 私たちの世代と、HUさんたちの世代とは、大きく、ものの考え方がちがいます。同じように、
HUさんたちの世代と、HUさんの子どもの時代は、これまた大きく、ものの考え方がちがいま
す。昔のように、「学歴をぶらさげて……」という時代は、終わりつつあるということです。

 (だからといって、決して、学力、学問を否定しているわけではありません。どうか誤解のない
ように!)

 で、全体としてHUさんのメールを読んで感じたことは、今の段階では、もはやHUさんに、で
きることは、ほとんどないということです。あるとすれば、現状を受け入れ、HUさんの子どもを、
信ずるしかないということです。

 実は、私の息子の一人がそうでした。こんなことがあります。その息子は、自分のHPの中
で、「ぼくは、高校時代、落ちこぼれだった」と書いていますが、(私は、決して、そうは思ってい
ませんが……)、私には、自慢の息子です。人格的には、私よりはるかにすぐれた子どもで
す。

 そのエッセー(中日新聞掲載済み)を転載しておきます。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、
ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。

「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落
とされそうだから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもという
よりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹
いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生
も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「S
よ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【HUさんへ(2)】

 そんなわけで、二男は、中学3年から高校3年にかけて、勉強らしい勉強は、ほとんどしませ
んでした。それを許した背景には、いろいろな理由がありますが、私は、「二男は、生きていてく
れるだけでじゅうぶん」という、強い思いがありました。

 それについて書く前に、私は、二男を、二男が幼児のときから、尊敬していました。本当で
す。

 ある朝、いつものように職場の幼稚園へ行くと、園庭で二男が遊んでいました。みなが乗る三
輪車を、うしろから押しているのです。二男の押すその三輪車を待って、10人近い園児たち
が、列をつくって待っていました。

 毎朝、二男がそれをしているものですから、見るに見かねて、ある日、私は二男にこう言いま
した。「なあ、お前、たまには、お前がだれかに押してもらってはどうだ?」と。

 すると二男は、笑いながら、こう言いました。「パパ、ぼくは、そのほうが楽しい」と。幼児のと
きから、二男は、そういう子どもでした。

 何度も、マガジンで取りあげた原稿ですが、「生きていてくれるだけでいい」と思うようになった
背景について書いた原稿が、つぎの原稿です。(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。

その二人の息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手と
いう人が、魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男
は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年の
ときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのとき
も、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し
て忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。

ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の
読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将
来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてし
まう。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。

「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができ
るか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感
謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の
言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦し
んでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を
楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【HUさんへ(3)】

 もう一つ、たいへん気になるのは、「バカ」という言葉です。それについても、こんな原稿を書
いたことがあります。どうか、参考にしてください。(最近は、YR氏の書いた「バカのxx」という本
の影響でしょうか、バカという言葉が、たいへん安易に使われるようになりました。とても残念な
ことです。が、私は、もう少し、別の角度から、考えています。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフ
リをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強した
ほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親に
なればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味
が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ
一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人を
バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、
そのバカなことをしたことにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないと
きがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふ
れるようなときだ。

しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手にしてはいけな
い。そういう意味では、親子は対等ではない。が、バカな親というのは、それがちょうど反対に
なる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつ
けながら)、それを茶化してしまう。そして子どもに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かっ
て何よ!」と本気で相手にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子ども
が言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そうい
うこともふまえた上で考える。私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。し
かしそういうときは、こう言って反論する。

「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子
どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切である。
  
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。

価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えれ
ばよい。

たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの
懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがして
いる「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

「♪その人はどこにいる。私たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこに
いる」と。

それから三十年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだした。生のむなしさを
感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きること
そのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエール
はこう言う。

「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第五編四
節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。

もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画「フォレスト・
ガンプ」の中でも、フォレストの母は、こう言っている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋めつくす…。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に
生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。

言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も希望もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生きる意味などわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様でしか
ない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は、何も生まれ
ない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【HUさんへ(3)】

 信ずるということは、疑わないこと。あなたが疑ったとたん、あなたの子どもは、進むべき道
を、本当に、見失ってしまいます。

 そこであなたが今、すべきことは、そして、あなたの子どもに言うべきことは、こうです。

「どんなことがあっても、私はあなたの味方ですよ。どんな道をあなたが選んでも、私は、あな
たを支持しますからね」と。

 最後に、あなたの子どもは、決して、「バカ」ではありません。おかしいとも思いません。悲しい
とも思いません。すばらしいお子さんです。どうか、どうか、自分の子どもを、そういうふうに、考
えるのは、やめてください。

 今、あなたの子どもは、あなたが悩んでいる以上に悩み、苦しんでいます。外からは、それが
見えないだけです。ですからあなたがそんなことを言ったら、あなたの子どもは、どうしたらいい
のでしょうか。

 私も、M物産という会社をやめ、幼稚園の講師になったとき、母は、こう言いました。「浩ちゃ
ん、あんたは、道を誤ったア!」と。母は、ギャーギャーと電話口の向こうで、そう泣き叫びまし
た。

 そのあと私は、一週間の間、自分にこう言って聞かせなければなりませんでした。「浩司、死
んではだめだ」と。

 私は、母だけは、私を支えてくれると思ったのですが、それは、甘い幻想でした。が、もしあの
とき、母だけでも、私を支えてくれていたら、そののちの私の人生は、大きく変わっていただろう
と思います。

 今にして思えば、とても、残念なできごとでした。

 以上ですが、HUさんの何かの参考になれば、うれしいです。

 がんばりましょう! がんばるしかないのです。あとは「許して、忘れる」ですよ!
(はやし浩司 子どもの進路 子供の進路 進学指導 思春期の子供 子供の問題)





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●自分が嫌いな子どもたち

麻布台学校教育研究所(小中高校の退職校長や現職教員、教育委員会の元職員らが昭和五
十八年に設立した教育研究団体)が、このほど、こんな調査結果を発表した。

 「自分が好きか?」という質問に対して、

「自分が好きではない」と回答したのは

小学生・男子……23%
女子……31%
中学生・男子……50%
女子……63%

この結果をふまえて「中学生の半数以上が自己肯定感を持てないでいることがうかがえた」と
報告している。

 (調査は今年1月から2月にかけて、都内や神奈川県、神戸市の小学五年生400人と中学
二年生654人の合計1054人に実施されたという。05年7月)

 こうした調査結果を分析して、同報告書は、

「子供が自己肯定感をはぐくむうえで、(1)将来への夢や目標、希望をもてるか、(2)自分の
長所への自覚があるか、(3)自分の存在が他人のために役立っていること−の三つが大きな
要素となる」と分析している。

 ほかにも、同調査は、「キレる」「疲れる」についても、報告している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●この調査結果を読んで……

この調査結果を読んで、最近書いた自分の原稿を思い出した。
あちこちの学校で配布してもらっているレジュメの中に書いた文章である。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【心の抵抗力をつけるために……】

☆(子どもだしたいこと)と、(子どもが現実にしていること)は、一致していますか?

もしそうなら、それでよし。そうでなければ、子どもの心は、やがてバラバラになってしまいま
す。

大切なことは、子どもが、夢や希望をもち、目標に向って、まっすぐ進んでいくことです。

今回の講話では、どうすれば、子どもがその夢や希望をもち、目標に向ってまっすぐ、進むこと
ができるか、私の個人的な経験も踏まえて、話させていただきます。

☆今回は、子どもの(心づくり)に焦点を合わせて、話を進めさせていただきます。

どうか、よろしくお願いします。

●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、その
先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子ども
は、その抵抗力も強くなります。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもを伸ばす、18の物語】

●同一性の危機(1)

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。

●夢・希望・目的(2)

 夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。

●子どもの忍耐力(3)

 同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。

●同一性の崩壊(4)

 同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。

●顔のない自分(5)

 同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。

●校内暴力(6)

 暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。

●子どもの自殺(7)

 おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。 

●自虐的攻撃性(8)

 攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って
攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで
勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」と
いう場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポー
ツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。

●自我の同一性(9)
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。

●心の抵抗力(10)

 「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。

●夢や希望を育てる(11)

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。

●子どもを伸ばす三種の神器(12)

 子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

●役割混乱(13)

 子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。

●思考プロセス(回路)(14)

 しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。

●進学校と受験勉強(15)

 たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。

●これからはプロの時代(16)

 これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。

●大学生の問題(17)

 現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。

●自我の同一性と役割形成(18)

 子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。
(はやし浩司●同一性の危機(1)●夢・希望・目的(2)●子どもの忍耐力(3)●同一性の崩壊
(4)●顔のない自分(5)●校内暴力(6)●子どもの自殺(7)●自虐的攻撃性(8)●自我の同
一性(9)●心の抵抗力(10)はやし浩司●夢や希望を育てる●(11)●子どもを伸ばす三種
の神器(12)●役割混乱(13)●思考プロセス(回路)(14)●進学校と受験勉強(15)●これ
からはプロの時代(16)●大学生の問題(17)●自我の同一性と役割形成(18)はやし浩司)





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【親子の断絶が始まるとき】 

●最初は小さな亀裂

最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って…
…」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大き
くなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたく
ない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。

が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目を
そむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返
す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されてい
るはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほし
い。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休め
ているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。

しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げ
て行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休ま
る場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(学
外研・九八年報告)。

●断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。(1)権威主義、(2)相互不信、それに(3)リズムの乱
れ。

(1)権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考
える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。「子
どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のもと、
自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。

子どもについても、自分に都合のよいところしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押
しつける。一方、子どもは子どもで親の前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、
やがて心は離れる。

(2)相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配
だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなもの
だ。イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのが
ある。

つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを「す
ばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなけれ
ば、そうでなくなる。

(3)リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思
い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている
姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、

(1)あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。

しかし(2)子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、
要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということにもなりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語
する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そし
ておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。

子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよ
い子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話
をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかって
いるの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子
「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

●リズム論

子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ども
が三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは騒
音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきにミルクを与えることに
なっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの
口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親も
いる。

たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前に英
語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、なかな
か行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとなにな
ってからも、だ。

ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の
男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズム
を変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは
容易ではない。

●子どものうしろを歩く

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅
くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かな
い。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」
と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

※……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬
していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」
と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、七八・八%、「母親のようにな
りたくない」は、七一・五%であった。

この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた五五%の子ども
の中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、では残りの約
四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。この中には、「父親を何とも
思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」
という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったも
のと思われる。

(参考)
●親子の断絶診断テスト 

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育てを診
断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの
心の中を知るのが、このテスト。

(テストは、HPのほうで……)

++++++++++++++++++++

NEさんへ2】

 子どもは、親のリズムに合わせることはできません。となると、親のあなたのほうが、子ども
のリズムに合わせるしかないのです。

 リズムがあっていない……、それが今、起こりつつあるいろいろな問題の原因です。だから
一つの問題が解決しても、またつぎの問題が起きてきます。モグラたたきのモグラのようにで
す。

 ですからこの問題は、NEさんが、おっしゃっているように、「毎日イライラして怒るのかと思う
とウンザリ。楽しい夏休みにしてあげたくて色々な予定を入れています。どうなるのでしょ
う・・・。不安です」という視点では、解決しないということです。

 解決しないどころか、やがてS君のほうが、あなたから去っていきますよ。あと数年くらいで…
…。が、それだけでは、収まらない。まさに親子断絶の、一歩手前です。

 (もう一人の子どものほうも、油断してはいけません。あなたとS君の関係を横で見ながら、あ
なたの知らないところで、別の心をつくりあげているはずです。あなたは自分では、もう一人と
はうまくいっているはずと思っているかもしれませんが、それは疑ってみてください。)

 ですからアドバイスできることがあるとすれば、

(1)あきらめなさい。「うちの子は、まあ、こんなものよ」とあきらめなさい。
(2)くだらない親意識(悪玉親意識)など、もう捨てなさい。
(3)マイナス面ばかり見ないで、よい面を見たら、すかさず、ほめなさい。
(4)完ぺき主義を捨て、関心を、子どもから、ほかのことに向けなさい。

 チックが出てきたということは、かなり親子関係が、おかしくなっていることを示します。警戒
信号ととらえてください。

 リズム論について、もう1作、ここに添付しておきます。繰りかえしになりますが、今のNEさん
には、とても、重要なことです。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子育てリズム論】
●子どもの心を大切に
子どものうしろを歩こう
 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。

へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしてお
けいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子ども
で、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚す
る。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。

父「お前は、パパに何をしてほしいのか」
子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。

この段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのように聞かれ
ると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手
の気持ちを確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(32歳)は、こう言った。

「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。

別の男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズ
ムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるの
は容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。

もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子ど
もの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変
えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【NEさんへ3】

 もう一つは、親意識です。NEさん自身も、かなり親意識の強い家庭で、生まれ育っている可
能性が高いです。「親絶対教」の信者のような家庭です。

 くだらないから、本当にくだらないから、親意識(悪玉親意識)など、もう捨てなさい。親風を吹
かして、子どもを自分の支配下で何とかしようなどとは、考えないこと。もっと肩の力を抜いて、
子育てを楽しめばよいのです。

 こんな貴重ですばらしい時期は、もう2度とやってきませんよ。その時期を、NEさんは、ドタバ
タで、ムダにしている。私には、そんな気がします。

 何度も書いてきましたが、「親意識」の原稿も、添付しておきます。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【ああ親意識! されど親意識!】

●子どもの幸福に、嫉妬する親

 子どもの幸福に嫉妬する親は、少なくない。「親をさておいて、自分だけ、幸福になるとは、何
ごとか」と。「親不孝者は、地獄へ落ちる」と、子どもを脅す親もいる。

 もともと精神的に未熟な、依存性の強い親とみる。そういった未熟性に、日本に古来から伝
わる、独特の親意識が重なる。私が「悪玉親意識」と呼んでいるのが、それである。

 この嫉妬は、さまざまな形に、姿を変える。

 息子や娘に対して、攻撃的になる親。弱々しい親を演じ、同情を求める親。子どもにベタベタ
と依存しようとする親。そして子どもに対して、逆に服従的になり、言外に子どもに、「私(親)の
めんどうをみろ」と迫る親、など。

 これらのパターンが、複合化して現れることもある。貧しいフリをして、息子の同情をかい、そ
ういう方法で、いつも息子の財産(マネー)を、まきあげるなど。

 息子が、「母さん、生活はだいじょうぶか?」と、心配して電話をかけると、「心配しなくていい
よ。冷蔵庫には、先日買った、魚の缶詰が、まだ残っているからね」と。

●「産んでやった」と言う母親。「産んでいただきました」と答える子ども

 依存性の強い母親は、いつもどこかで、恩着せがましい子育てをする。無意識のうちにという
か、伝統的な子育て法を、そのまま踏襲する。

 このタイプの母親(父親も)は、子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」を、日常的に
口にすることで、子どもを束縛しようとする。

 一方、子どもは子どもで、それに答えて、「産んでいただきました」「育てていただきました」
と、言うようになる。

 相互にこうした依存関係ができたときには、親子関係も、それなりにうまくいく。たがいにベタ
ベタの親子関係をつづけながら、親は息子(娘)を、「できのいい孝行息子(娘)」と思うようにな
る。息子(娘)は、「私の母親(父親)は、すばらしい人だ」と思うようになる。

 が、もともとそれを支える人間的基盤は、弱い。軟弱。わかりやすく言えば、たがいに自立で
きない人間どうしが、たがいになぐさめあって生きているにすぎない。ちょっとしたことで、この
人間関係は、崩れやすい。

●親・絶対教

「親は絶対である」と、考える人は、多い。だれかが、ほんの少しだけ、その人の親を批判した
だけで、「(オレの)親の悪口を言うヤツは許さない」と、絶叫してみせたりする。

 それがどこかカルト的であるから、私は「親・絶対教」と呼んでいる。

 カルトだから、理由など、ない。根拠もない。「偉いから、偉い」というような考え方をする。そ
れに日本古来の先祖崇拝意識が重なることもある。

 このタイプの人に、そのカルト性を指摘しても、意味はない。反対に、「お前の考え方のほう
がおかしい」と、排斥されてしまう。相手の意見を聞く耳すら、もたない。と、同時に、それがそ
の人の人生観や哲学になっていることも多い。

 親・絶対教を否定するということは、その人の人生を否定することにもなる。だから、このタイ
プの人は、猛烈に反発する。

 「親の悪口を言うヤツは、許さない!」と。「お前ら、人間の道を踏みはずしている」と言った
人もいる。

 あたかもそう叫ぶことが、子どもとしての努めであるというような、行動をとる。

●犠牲心

 こうした親・絶対教の信者に共通するのは、「子育ては、親の犠牲の上に成りたっている」と
いう考え方である。「産んでやった」「育ててやった」という言い方は、そういうところから生まれ
る。

 さらにストレートに、「お前を大学へ出してやった」「高い月謝を払って、ピアノ教室へ通わせて
やった」と言う親さえいる。

 そこで問題は、なぜ、こうした犠牲心が生まれるかということ。もう少し正確には、犠牲的子育
て観が生れるかということ。

 本来、子どもというのは、一組の夫婦の愛の結晶として生れる。そしてその子どもが生れてき
た以上、その子どもを育て、最終的には、その子どもを自立させるのは、親の義務である。

 義務だ!

 その義務を放棄して、「産んでやった」「育ててやった」と言う。つまり、ここに日本型の子育て
の(おかしさ)が、集約されている。事実、英語には、そういう言い方、そのものがない。ないも
のは、ないのであって、どうしようも、ない。

●不幸な家族観

 日本独特の「家」制度は、同時に、個人の自立を、いつもどこかで犠牲にする。またその犠牲
の上に、「家」制度が、成りたっている。

 このことは、その「家」の跡取りとなった、長男をみれば、わかる。今でも、この日本には、「長
男だから……」「長女だから……」という、『ダカラ論』が、色濃く残っている。そのため、そのダ
カラ論にしばられ、悶々と過ごしている長男、長女は、いくらでもいる。

 こうした意識の背景にあるのは、親にしても、自分たちの愛の結晶としての子どもを産むとい
うよりは、自分を離れた(他者)、つまり(家)のために、子どもを作るという意識である。

 「本当は、産みたくなかったが、家のためにしかたないから、産んだ」と。

 ここまで極端なケースは、少ないかもしれないが、まったくないわけではない。が、中には、不
本意な結婚、不本意な出産をした人も多い。このタイプの人は、どうしても、ここでいう犠牲心
をもちやすい。

 「私は子どものために、自分の人生をムダにしている」「したいことも、できず、犠牲になって
いる」と。

 その理由は、人それぞれ。しかし結果として、親は、心のどこかで犠牲心をもってしまう。そし
てそれが、冒頭に書いた、嫉妬へと、いつしか変質する。

●父親の役割

 母子関係と、父子関係は、基本的には、同一ではない。それは母親は、子どもを妊娠し、出
産し、そのあと、乳を与え、命をはぐくむという特殊性のちがいといってもよい。

 一方、父親と子どもの関係は、あくまでも(精液一しずくの関係)でしかない。

 そこでどうしても母子関係は、特殊なものになりやすい。が、特殊であることがまちがっている
というのではない。たとえば人間が原点としてもつ基本的信頼関係は、良好な母子関係がって
はじめて、はぐくまれる。

 この母子関係が不全になると、子どもは、生涯にわたって、その後遺症をひきずることにな
る。

 こうした特殊な母子関係を修正し、調整していくのが、父親の役割ということになる。放ってお
くと、母子関係は、ベタベタの関係になってしまう。子どもは、ひ弱で、自立できない人間になっ
てしまう。

 父親は、そこで、子どもに狩のし方を教え、社会的ルールを教える。こうした操作を繰りかえ
しながら、子どもを、濃密な母子関係から切り離していく。

 この父親の役割があいまいになったとき、えてして母親は子どもを溺愛するようになる。それ
が相互依存関係をつくり、やがてベタベタの人間関係へと、発展していく。

●演歌歌手のK氏

 いつだったか、NHKのテレビ番組に、「母をxx」というのがあった。

 その中で、歌手のK氏は、涙まじりに、こう語っていた。

 「私の母は、女手一つで、私を育ててくれました。私は、その恩に報いたくて、東京に出て、歌
手になりました」と。

 K氏は、さかんに、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言っていた。それはそ
れだが、私は最初、「Kさんの母親は、すばらしい母親だ」と思った。しかし5〜10分も見てい
ると、ふと、心のどこかで疑念がわいてくるのがわかった。

 「待てよ」と。

 「本当にK氏の母親は、すばらしい母親だったのか?」と。

 K氏は「すばらしい母親だ」と言っている。それはわかる。しかし、「産んでいただきました」「育
てていただきました」と、思わせたのは、実は、母親自身ではなかったのか、と。

 心理学でいう、「家族自我群」による束縛で、K氏をしばりあげたのは、実は母親自身であ
る、と。

 「女手ひとつ」だったということだから、苦労もあったのだろう。それはわかる。が、K氏の母親
は、そうした恩を、K氏に日常的に着せることで、母親としての自分の役目を果たそうとした
(?)。

 こうした例は、決して、珍しくない。日本人は、ごく当たり前のこととして、それを受けいれてし
まっている。よい例が、窪田聡という人が作詞した、あの『かあさんの歌』である。

 あれほどまでに、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はないと、私は思うのだが、日本人は、
こうした歌を、名曲として、受けいれてしまっている。

●家族自我群からの自立

 こうした問題を考えるとき、私たちは、どうしても親という立場だけで、ものを考えやすい。しか
し本当の問題は、このあと、子どもの側に起きる。

 「産んでいただきました」「育てていただきました」と、子どもの側が、それなりに、親に呼応し
ている間は、たがいの人間関係は、うまくいく。

 しかしその成長過程においても、子どもは、こうした家族自我群からの自立を目ざす。これを
「個人化」という。

 よく誤解されるが、個人化は、家族の否定ではない。家族との調和をいう。

 が、この個人化が、うまく進まないときがある。親の溺愛にはじまって、過干渉、過関心、そし
て過保護など。親の否定的な育児姿勢が、個人化を阻害することもある。家庭崩壊、育児拒
否、冷淡、無視、暴力、虐待なども、個人化を阻害する。

 この個人化が、うまく進まないとき、さまざまな弊害が起きる。

 その一つが「幻惑」(ボーエン)という現象である。

●幻惑

 本来、子どもが自立し始めたら、親は、自分自身も子離れを始めると同時に、子どももまたじ
ょうずに、親離れできるように仕向けなければならない。

 子離れということは、子ども自身に親離れさせることを意味する。

 「あなたは、あなたよ。あなたの人生は一度しかないから、思う存分、この広い世界をはばた
いてみなさい」と。

 子どもは、こうした親の姿勢を感じてはじめて、自分自身を自立させることができる。が、そ
れがないと、子どもは、その「幻惑」に苦しむことになる。

 親離れすることを、罪悪と考えるようになり、家族自我群の束縛と、個人化のはざまで、悩み
苦しむようになる。

 さらにその幻惑が進むと、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまい、さらには、自己否定
するようになってしまう。

 親自身が、息子や娘に、このレッテルを張ってしまうこともある。「このできそこない! 親不
孝者め!」と。

●伝統的子育て観

 子育ては本能ではなく、学習によって、決まる。そういう意味でも、子育ては、代々と、親から
子へと繰りかえされやすい。

 そこで日本型の子育ての特徴はといえば、常に子どもが、親、先祖、家に対して犠牲的にな
ることを、美徳としてきたところにある。

 ある母親は、息子夫婦が海外へ赴任している間に、息子の財産(土地)を、勝手に売却して
しまった。

 それについて息子が母親に抗議すると、その母親は、こう答えたという。

 「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースでは、親が口にする「先祖」というのは、「親」という自分自身のことをいう。まさ
か「親が、自分の息子の財産を使って、何が悪い!」とは言えない。だから「先祖」という言葉を
もちだす。

 それはそれとして、こうした伝統的子育て観が一方にあって、親は、子どもに犠牲を強いるよ
うになる。あるいはそれを強いながら、強いているという意識がないまま、強いる。

 こうして日本独特の子育て観は、代々と、親から子へと受け継がれる。今も、受け継がれて
いる。

●親子の確執

 親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。人間と人間の関係である。

 が、この親子関係が特殊性をおびるのは、ひとえに、文化でしかない。その文化が、親子関
係を特殊なものにする。

 だからといって、それが悪いと言うのではない。人間生活そのものが、その「文化」の上に成
りたっている。文化を否定すれば、人間は、原始の世界の動物に、逆戻りする。

 大切なことは、そういう人間関係に、どういう文化を乗せるかである。あるいはその基礎に、
どういう文化を置くかである。

 その文化に、ズレが生じたとき、親子の間に緊張感が高まり、それが、確執へとつながって
いく。しかも、親子であるがゆえに、その確執のミゾも深くなる。他人なら、たがいに、「はい、さ
ようなら」と別れることができる。しかし親子では、それができない。できないから、もがき、苦し
む。

 たとえば、日本人の多くは、「産んでもらった」、だから、「親のめんどうをみるのが当然」とい
う、相互依存関係をつくりやすい。

 しかしなぜそうなったかといえば、先に書いたように、そこには「家」制度がある。さらには、社
会保障制度の不備もある。最近になって、老人介護という言葉が使われるようになったが、私
が若いころには、そんな言葉すらなかった。

 子どもは親なしでは生きていかれない存在だが、老人もまた、子どもなしでは生きていかれ
ない存在であった。が、問題は、さらにつづく。

●欧米の例

 オーストラリアでもアメリカでも、親が老後の苦労を、子どもにかけないという姿勢が、社会制
度の中で定着している。またそういう社会的制度も、充実している。

 オーストラリアの南オーストラリア州でも、平均的なオーストラリア人は、つぎのような過程を
経て、人生を終える。

 結婚→子育て→子どもの独立→老後は市内のアパート(自分の家)→老人ホーム→死去、
と。

 日本の家族のように、複数世代が、同居するということは、まず、ない。興味深いのは、子ど
もが高校生くらいになると、親自身が、子どもの自立をうながすこと。同じ敷地の中に、バンガ
ローを建てて、そこへ子どもを住まわせる親も、少なくない。

 こうして親は親で、死ぬまで、自分の生活と、その生活する場(人生)を確保する。こどものた
めに自分の人生を犠牲にすることは、まず、ない。

 たとえば大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならな
いほど、少ない。たいていは奨学金を得たり、自ら借金をして通う。

 が、それでいて、人間関係が希薄かというと、そういうことはない。むしろいろいろな統計結果
をみても、手をかけ、金をかける日本の親子関係より、濃密なばあいが多い。

●親自身の自立性 

 あなたと親の関係はともかくも、今度は、あなたと子どもの関係において、あなたという親は、
いつも人間として自立することを念頭に置かねばならない。結局は、そこへすべての結論が、
行きつく。

 親としてではなく、一人の人間として、どう生きるかという問題である。

 その(生きる)部分に、(親意識)を混在させてしまうと、人生そのものが、わけのわからない
ものになってしまう。よくある例が、自分の生きがいを、子どもに託してしまう親である。

 明けても暮れても、考えることは、子育てのことばかり。自分の人生のすべてを、子育てにか
けてしまう。

 一度、こういう状態になると、そこから抜け出るのは、容易なことではない。それなりに親子関
係が順調なときは、それほど問題にはならない。しかしひとたびそれが崩れると、自己犠牲心
は、被害妄想に。愛情は、憎悪へと変身する。……しやすい。

 「親をさておいて、自分だけいい生活をしやがってエ!」と、息子に叫んだ母親がいた。
 「あんたは、だれのおかげで、日本語がしゃべれるようになったか、わかっているの!」と、娘
に叫んだ母親もいた。

 息子が家を新築したことに対して、「親の家を改築するのが、先だろう」と怒った、母親すら、
いた。

 ほかにも、息子が結婚して、郷里を離れたことについて、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母
親もいる。「息子を、嫁に取られてしまった。息子なんて、育てるもんじゃない」と、会う人ごとに
こぼしていた母親もいる。

 こうした親たちに共通する点はといえば、つまりは、自立できない、精神的に未完成な人間性
である。

●では、どうするか?

 今まで、こうしたケースを、私はたくさん経験している。経験したというよりは、多くの相談を受
けてきている。

 その結果というか、結論を先に言えば、こうした親たちを説得するのは、不可能ということ。
先にも書いたように、カルト化している。さらにそういった生きザマ自体が、その人の人生観の
骨格にもなっている。

 それを否定することは、その人自身の人生を否定することに等しい。だからそもそも、別の考
え方を受けいれようとしない。

 で、こういうケースでは、あきらめて、納得し、その上で、妥協して生きるしかない。

 そして自分の問題としては、心理学でいう「幻惑」から、できるだけはやく自分を解放する。

 親が子どもに対して、冷たく「縁を切る」とか、それに類することを口にしたときには、それを
悩むのではなく、「はい、そうですか」と割りきる。この割りきりが、あなた自身を幻惑から解放
する。

 幻惑にとりつかれ、悶々と悩むということは、あなた自身が、すでに親がもつ親意識を、引き
継いでいることを意味する。つまりあなた自身も、すでにマザコンであるということ。そのマザコ
ン性に気がつくことである。

 なぜ幻惑に苦しむかといえば、自分自身の中のマザコン性を、処理できないためと考えてよ
い。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【NEさんへ4】

 あなたのお子さん、S君は、すばらしい子どもですよ。あなたに好かれようと、懸命に、がんば
っているではありませんか。あなたには、それがわかりますか。

 「涙を流した後、『ごめんなさい』といってしまえば、次の行動では、けろっと忘れてまた同じこ
とをします。甘えて手を握ってきたり、(私はこれが生理的に許せないのですが)、怒るのも許す
のも、相性があるんだなと思います)という部分を、他人の目で、もう一度、読みなおしてみてく
ださい。

 生理的に許せないあなたのほうに、問題があるのですよ。わかりますか?

 もう一つアドバイスできることがあるとすれば、(わだかまり論)です。最後に、それを添付して
おきます。参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不安の原因は、わだかまり

 子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じように失敗するというのであれば、あなた自身
の中に潜む、「わだかまり」をさぐってみる。わだかまりは、あなたの心の奥に巣をつくり、あな
たを裏から操る。

 わだかまりがあるということが悪いのではない。ほとんどの人は、何らかのわだかまりをもっ
ている。わだかまりがあるということが悪いのではなく、その「ある」ことに気がつかないまま、そ
れに振り回されるのが悪い。

 望まない結婚であった。望まない子どもであった。妊娠中に大きな不安があった。実家とうま
くいっていない。不幸な家庭生活だった。生活苦がある。夫婦げんかが絶えない。夫婦関係が
ぎくしゃくしている、などなど。こうした「思い」が、わだかまりとなり、それが「子育ての不安」を
増大させる。

 ある母親は、小学一年生の男の子を、「イヤーッ!」と叫んで、手で払いのけていた。長い
間、その理由がわからなかったが、いろいろ振り返ってみると、望まない結婚が原因だったと
いうことがわかった。

 現在の夫(子どもの父親)は、その母親に対して、結婚前、執拗なストーカー行為を繰り返し
ていた。が、その母親は心のやさしい人だった。「実家に迷惑がかかってはいけない」「私ひと
りががまんすれば何とかなる」と考えて、その男と結婚した。が、そんな結婚だから、最初から
うまくいくはずがない。殺伐(さつばつ)とした結婚生活がつづいた。そこでその母親は、「子は
かすがいという。子どもをつくれば何とか、うまくいくだろう」と考えて、その男の子をもうけた。
子どもが「ママ!」とすりよってくるたびに、その母親は、無意識のまま、その男の子を払いの
けていたというわけである。

 こうしたわだかまりは、それに気がつくだけで、消えることはないが、おとなしくさせることはで
きる。そのあと少し時間はかかるが、やがて問題も解決する。そこで大切なことは、冒頭に書
いたように、いつも同じようなパターンで、同じように失敗するというのであれば、このわだかま
りを疑ってみる。何かあるはずである。
(はやし浩司 親子の確執 親子問題 ギクシャクする親子 子供への接し方)




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【子どもを勉強好きにさせるためには】

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。




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●子どものやる気

●マイナスのストローク

+++++++++++++++++++++

子どものやる気を引き出すには、
どうしたらよいのか。

一つの例を出して、考えてみる。

+++++++++++++++++++++
 
当時の記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を描かせよう
としたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。積み木遊びをし
たが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせようとしたが、『歌いたくな
い』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、一見お
だやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。ときにビリビリとそ
れを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」というのは、A
君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私はそれを母親に
説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸口すらわからないとい
うこと。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は……?」と
相談しつつ、私の説明を満足に聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱るだけ。「もっと、しっか
りしなさい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしいわ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。そし
てその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識というの
は、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識と言ったの
は、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。それにつ
いて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個人的無意識
である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世界
に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印された記
憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される意思による
ものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやすく言えば、この個人
的無意識が、その個人を、裏から操(あやつ)る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子どもは、
東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、いつも「子
どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。ある程度の設計図
をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれを子どもに、押しつけては
いけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子どもに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害する原
因となる。自我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期に、
自我の発達が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何をしても自信
がもてず、逃げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。ここでいうA君
が、まさに、そういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を使って、
つぎのような説明している。

 「条件づけには、(1)強化(きょうか)の原理と、(2)弱化(じゃくか)の原理がある」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働きか
け)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」と言ってほ
めたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはますます歌を歌いたが
るようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスのストロ
ークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになるという原理をい
う。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言って、け
なしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌を歌わなくなってし
まう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとなって作
用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の世界に蓄積さ
れ、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりにたっぷりと受けてい
るから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけて、逃げ腰になってしまっ
たのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らかに母親
が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わねばならない
のかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力をすることは当然と
しても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前に、母親の理解がなけ
れば、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさいとか言っ
ていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「ハア、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たいてい
は、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言葉を払いのけ
てしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う母親さえいる。昔、幼稚
園で働いていたときのことだ。「あんたは、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいで
す」と。つまり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子どもの
母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれにブレーキ
をかけてしまう。

こういった仕事というのは、報われることより、裏切られることのほうが、はるかに多い。いやな
思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした記憶が、私を裏から操っている? 「質
問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きくすることもない」「言われたことだけをしていれ
ばいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子どもは、常に
プラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、伸ばす。とくに乳幼
児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(はやし浩司 子どものやる気 子供のやる気 弱化の原理 強化の原理)





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【ジェンダー】

●男女の性差別(ジェンダー)

++++++++++++++++

男の子は、男の子らしく、女の子は
女の子らしくあるべき。

そんな時代錯誤的、逆行的な意見
が、またまた、台頭してきた。

男と女を差別することは、基本的
に、まちがっている。

もちろん生理的な違いというのは
ある。父親と母親との役割の違い
もある。

しかし「男」と「女」を区別する
必要は、まったくない。また、し
てはならない。

男女は、100%、同権であるべ
きである。どうして同権であって
はいけないのか?

++++++++++++++++

●仕事を失う女性たち

 女性は、子どもを産んで、みな、母親になる。が、母親になったとたん、女性は、それまでの
「顔」を失う。

 たとえば私の教室へ連れてくる母親たちを見てみよう。教室の横ですわっている母親を見れ
ば、ごくふつうの母親たちである。しかしそのうち、そのうちの何割かは、たいへんな経歴の持
ち主であることがわかる。

 国際線の元スチュワーデス。
 国体の元選手。
 元商品デザイナー。
 バイクの元女性テストライダー。
 女子短大の元講師、などなど。
 現時点において、そういう人たちが、「母親」をしている。

 話を聞いて、「ハア?」と、私のほうが、驚くほどである。そういう女性たちが、結婚し、子ども
をもうけることで、「仕事」から離れる。しかしそれから受ける、挫折感というか、中断感には、
相当なものがある。

 そう、それまでキャリアを生かして仕事をしていた女性が、結婚と同時に、その仕事をやめ、
家庭に入る。いくら納得した結婚であっても、だ。しかも職種の華々しさだけが、問題ではな
い。看護婦や幼稚園の教師をしていた人でも、その挫折感というか、中断感は、同じである。

 今、家庭に入り、それなりに幸福そうに見える女性でも、不完全燃焼のまま、悶々としている
女性は、多い。

 こうした女性も、ある意味で、役割混乱を起こしているのではないか。あるいはその心理状態
に近いのではないか。今、ふと、そう思った。

 私は、そういう母親たちに出会うたびに、「どうして?」と思ってしまう。「どうして、仕事をやめ
たのか?」ではなく、「どうして仕事をやめなければならないのか?」と。

●ジャンダー

肉体的な性差を「セックス」。社会的、文化的、伝統的な性差を「ジェンダー」という。もちろん男
女の間には、越えがたいセックスがある。それはそれとして、問題はジェンダー。

このジェンダーについては、それ自体、意味がなく、それから生まれる偏見と誤解をなくすの
が、今、世界の常識にもなっている。

 ただ生理学的に、男らしさ、女らしさを決めるのが、アンドロゲンというホルモンであること
は、よく知られている。

男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある
程度の性差があることも知られている。そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女
性的な遊びを求めるということはある。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的
でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)

 ただ子どものばあい、こうした性差が明確でなく、時期的に、男児が女児の遊びを求めたり、
女児が男児の遊びを求めたりすることは、よくある。

私も小学3年生くらいのとき、人形がほしくてたまらなかったことがある。そこで伯母に内緒で
作ってもらい、毎晩抱いて寝たことがある。だからといって、今、どうこうということはない。こうし
た現象は半年単位で、様子をみるのがよい。また同性愛者になるかならないかは、もっと本質
的な理由によるという。

 しかし現実には、男児の女児化は、著しい。世の中の人たちは、どういうところを見て、「男ら
しく……」「女らしく……」という言葉を使うのか、よくわからない。今では、幼稚園や小学校(低
学年児)でも、いじめられて泣くのは男の子。いじめて泣かすのは、女の子という図式が定着し
ている。

 腕白(わんぱく)で、昔風にたくましい男児となると、10人に1人とから2人しかいない。とくに
最近の男の子は、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 「男の子らしく」ということになれば、皮肉なことに、最近の女児のほうが、よっぽど(男のらし
い)。

●なぜ女性は、家庭に入るのか?

いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助(=夫の不随物)」程度にしか考えていない男性が多
いのは、驚きでしかない。

いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、2割近くもいる。

たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事
をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべき
だ」と答えた女性は、77%いる。が、その反面、「(男女の同権には)反対だ」と答えた女性も2
3%もいる!

 ある農村地域でこのジェンダーについて話したら、担当者(教育委員会課長)が、「そういう話
はまずいです。そうでなくても、どの家も、嫁の問題で頭をかかえているのだから」と。「夫が家
事をするというのも、現実的な話ではない」とも。この話に私は驚いた。

 それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻も
ふえている。「第2回、全国家庭動向調査」(厚生省・98年)によると、「家事、育児で夫に満足
している」と答えた妻は、52%しかいない。

この数値は、前回93年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93年度は、61%)。
「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、53%もいた。なお、アメリカでは
裁判闘争が多いのは事実だが、これは裁判制度の違いによるもの。(正解?)

 で、こうした(違い)は、外国の夫婦と比較してみると、すぐわかる。

 先月も、オーストラリア夫婦が、2組、我が家に、ホームステイをした。ちょうど1か月あまり滞
在していった。

 その夫婦。家事については、たがいに見事なほど、分担しているのがわかった。掃除や洗濯
はもちろんのこと、食後のあと片づけなどなど。日本の男性諸君のように、食後、デ〜ンと、テ
ーブルの前に座っている夫は、いない。

 食事が終わると、さっと立って、食器を洗い、それを拭いて、戸棚へしまう。しかも2人とも、夫
は、その地方では、著名なドクターたちである。

 そういう現実を見せつけられると、日本の男たちがもつ、基本的なおかしさというか、女性に
対する偏見を、強く感ずる。これは別のオーストラリア人男性の話だが、やはり我が家にホー
ムステイしたとき、洗濯をいつもしていたのは、夫のほうだった。

 で、私のワイフが見るに見かねて、それを手伝ったほどだが、その夫いわく、「オーストラリア
では、50%くらいの夫は、自分で洗濯をする」とのこと。「50%」という数字を聞いて、私は、心
のどこかで、ほっとしたのを覚えている。

 そうそう 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会
場になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七
〜八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿
をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

++++++++++++++++++

少しむずかしい話がつづきました
ので、以前、息子の一人に書いた
手紙を、そのままここに転載しま
す。

ジャンダーを考える、一つのヒン
トになれば、うれしいです。

++++++++++++++++++

●ジェンダーは、文化か?

 人間がつくりあげた文化というのは、こまかい(約束ごと)の集まりだよ。無数の(約束ごこと)
が、それぞれ複雑にからんで、文化をつくる。

 「有機的」といういい方は、どこかあいまいな言い方だが、しかし「生きている」という意味で、
文化は有機的にからんでいる。だから一面だけを見て、つまりそれが矛盾しているからといっ
て、それを否定してはいけない。

 トイレを例にあげて、考えてみよう。

 お前は、男女別のトイレしか知らないが、オーストラリアの列車では、おとな用と子ども用に分
かれている。足の長さが問題になるからね。

 それから日本では、公衆トイレのドアは、みな、閉まっている。しかしアメリカでは、使用してい
ないトイレは、開けておく慣わしになっている。

 少し前まで、イギリスでもオーストラリアでも、公衆トイレには、ドアはなかった。通路を歩くと、
みなが用を足している姿が、外から丸見えだった。

 この日本でも、トイレができたのは、江戸時代も、終わりになってからではないのかな。平安
時代には、天皇ですらも、廊下から庭先に向けて、小便をしていたというよ。女性たちは、部屋
の中に置かれた、(おまる)の中で、それをしていた。

 ぼくが子どものころでさえね、女性は、服(着物)を上にまくって、立ったままお尻を便器のほ
うに向けて、小便をしていたよ。そういう光景をよく見たし、何ら違和感もなかった。

 しかし無数の(約束ごと)が集合化してくると、そこに文化が生まれる。あるいはそれがときに
は、それが偏見になったり、誤解を生んだりする。セックスという言葉は、肉体的なちがいをさ
す言葉だが、ジェンダーというのは、そういった文化的な背景から生まれたちがいを意味する
言葉だよ。

 そういうジェンダー(文化的性差)も、生まれた。

 それが正しいとか、正しくないとかいう判断は、こういうケースのばあい、ほとんど、意味がな
い。男性がするネクタイにせよ、女性がはくスカートにせよ、「それはおかしい」と思うのは、そ
の人の勝手かもしれないが、否定してはいけない。

 もちろん個人的な立場で、それを批判するのは自由だけどね……。

 というのも、こうした文化というのは、ここにも書いたように、それぞれが、たがいに複雑に、
かつ有機的にからんでいる。そしてその結果として、今、ぼくたちがここに見る文化というもの
をつくりあげた。

 一つを否定すると、つまりは、別の多くの面で、さらに大きな問題が起きてくる。たとえば、「公
衆トイレの男女別はおかしい」と主張して、お前が、女性トイレに入ったとすると、どうなるか。
その結果は、お前にだって、想像できると思うよ。アメリカだったら、銃で射殺されるかもしれな
い……。

 とくにトイレの問題は、そこに「男」と「女」という問題がからんでくる。この問題は、人間の種族
保存本能とからんでくるだけに、やっかいな問題といってもよい。もしそこまで否定してしまう
と、結婚という制度そのものまで、おかしくなってしまう。

 子どもにせよ、「他人の子どもも、自分の子どもも、子どもは子ども。人類の共通の財産」な
どと考えられなくもないが、そこまで自分の魂を、昇華する(=もちあげる)ことができるようにな
るまでには、まだまだ時間がかかる。

 同じように、「男も女も、同じ。同じ、トイレを使えばいい」と考えられるようになるまでには、ま
だまだ時間もかかる。あらゆるジェンダーにまつわる問題が解決されてからのことだろうと、ぼ
くは、思う。

 しかしね、ぼくは最近、こうした不完全で、矛盾だらけの文化に、どこか愛着を感ずるようにな
ってきたよ。おもしろいというか、楽しいというか。

 たとえば映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいたからこそ、おもしろい映画になっ
た。もしあの映画の中に、ジャックとローズがいなければ、あの映画は、ただの、本当にただ
の、船の沈没映画でしかなかった。ちがうだろうか。

 つまりね、そのジャックとローズが、「男」と「女」というわけ。そしてその先に、公衆トイレがあ
るというわけ。

 高校生が、アメリカでは、アルバイトで、車を洗う。水着を着ている。お前は、それをおかしい
と思う。ぼくも、同じような疑問をもつことは多い。たとえば下着のシャツでホテルの中を歩くこと
はできない。しかしそのシャツに色をつけ、ガラを描き、Tシャツとしたとたん、ホテルの中を歩く
ことができる。

 同じ、シャツなのにね。

 つまりこれが、ぼくがいう、(無数の約束ごと)の一つというわけ。

 もちろんだからといって、こうした(約束ごと)は、普遍的なものでもなければ、絶対的なもので
はない。時代とともに、変りえるものだし、どんどん変っても、少しもおかしくない。国によって
も、ちがう。お前が言うように、「用足し・プライベートという二つの機能を分けた空間」にしても
よい。

 お前が、建築家なら、そういう提案をして、世に問うてみればよい。あとの判断は、大衆に任
せるしかないけどね。

 しかしね、ぼくには、こんな苦い経験がある。

 あるときね、男子トイレの大便ボックスに入っていたときのことだよ。ぼくが、K大学で学生だ
ったときのことだよ。

 そのボックスは、隣の女子用トイレと共同になっていた。つまりその一つだけが、女子用トイ
レに食いこむ形で、そこにあった。

 そのボックスにかがんでいるとね、その前のボックスに、一人の女子学生が入ってきた。トイ
レの壁の下のほうに、数センチ程度のすきまがあった。

 ぼくは、音を出すのはまずいと感じて、そのまま静かにしていた。何となく、遠慮したのだと思
う。

 ところがだよ、その女子学生は、うしろのボックスにぼくがいるとも知らず、ブリブリブー、グシ
ャグシャと、大便をし始めた。

 その臭いことと言ったらなかった。猛烈な悪臭が、壁の下のすき間から、容赦なく、ぼくのボッ
クスのほうに流れこんできた。ものすごい悪臭だった!

 その女子学生は、それから用を足して、出て行った。ぼくは、そのとき、「あんな臭いのをする
のは、どんなヤツだ」と思って、急いで、自分の用を足し、外へ出てみた。

 ぼくは、その女子学生を見て、ア然としたね。

 急いで廊下に出てみると、その女子学生はすました表情で、廊下を向こうに歩いていくところ
だった。

 で、なぜ唖然としたかって……?ハハハ。実は、その女子学生は、ぼくが好意をもっていた、
文学部のMさんだったからだよ。英文科の学生でね。ぼくが、デートを申し込む、寸前の女性
だった。

 いいかな、ここが文化なんだよ。ぼくは、その日以来、そのMさんには、別の印象をもってし
まった。顔を見るたびに、あの悪臭を思い出し、どうしてもそれ以上のアクションを起こすことが
できなくなってしまった。

 やっぱりね、公衆トイレは、男女別々のほうがいいよ。お前は、同じでも構わないと言うけど、
ぼくは、そうは、思わない。わかるかな、この気持ち。

 しかし問題意識をもつことは、とても重要だよ。またお前のエッセーに、あれこれコメントをつ
けてみるよ。

 そうそう社長には、あいさつをしたほうがいいよ。下から見ると、雲の上の人に見えるかもし
れないが、上から見ると、そういうふうに見られるのが、いやなものだよ。そういう気持は、今の
お前にはわからないかもしれないけど……。

 「ハロー、いつもお世話になっています」くらいは、言えばいいのさ。

 ではね。こちらは、明日から、凧祭り。にぎやかになるよ。

 Have a nice day!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男女共同参画事業

話が、少し脱線してきたが、もう少し、深刻な問題もある。

 男と女を区別するのは、その人の勝手だし、「男は、仕事、女は家事」と考えるのも、その人
の勝手。

 しかし、これからの日本では、現実問題として、そんなことを言っていることはできなくなる。

 言うまでもなく、少子化による労働力の不足である。そういう深刻な問題がある一方で、家
事、子育てを押しつけられた女性たちの悲鳴も、これまた大きい。

日本労働機構の調査によれば、専業主婦、就業主婦(被雇用主婦)にかかわらず、約80〜8
5%の女性が、「育児にストレスや不安を感じている」という。その中でも、「ひんぱんにある」と
答えた人が、30%前後もいる。

 子育ては重労働である。一瞬たりとも気が抜けない。動きのはげしい子どもをもつ親にとって
は、なおさらである。ちょっとした油断が、大事故につながるということも、少なくない。

 この問題を解決するための最善の方法は、男女共同参画事業の拡充である。男女のカベを
破り、ジェンダー(性差別)を解消する。はっきり言えば、夫に、もっと育児を負担させる。その
意識をもってもらう。その一方で、女性たちにも、仕事をしてもらう。

 そこで政府は、「2020年には、指導的立場になる女性が、30%前後になることを目標とす
る」(細田官房長官の私的懇談会)という方針を打ちだした。夫にその分だけ、家事、育児を負
担してもらおうというわけである。

(女性の社会進出によって、女性の負担を減らそうというのではなく、その分、男性にも、家事
や育児に、もっと目を向けてもらおうという考え方による。)しかしこの方針には、もう一つ、重
要な意味が隠されている。

 女性の負担を減らすことによって、現在進行中の少子化に歯止めをかけようというわけであ
る。言うまでもなく、少子化の最大の原因は、(母親の不安と心配)。その不安と心配が解消さ
れないかぎり、少子化に、歯止めをかけることができない。

 みんなで進めよう、男女共同参画事業! 日本のために! ……と少し、力んだところで、も
う少し、先を考えてみよう。

●役割混乱

 子どもは、成長するとともに、自分らしさを、つくりあげていく。

 わかりやすい例としては、「男の子らしさ」「女の子らしさ」がある。

 服装、ものの考え方、言い方など。つまりこうして自分のまわりに、男の子としての役割、女
の子としての役割を形成していく。これを「役割形成」という。
 
 こうした「役割」を感じたら、その役割にそって、親は、子どもを伸ばしていく。これが子どもを
伸ばすコツということになる。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「あら、そうね。すてきな仕事ね」と。
ついで、「じゃあ、今度、お庭をお花でいっぱいにしようね」などと言ってやるのがよい。

 こうして子どもは、身のまわりに、「お花屋さんらしさ」をつくっていく。自然と、植物に関する本
がふえていったりする。

 しかしこの役割が、混乱することがある。

 私のばあいだが、私は、高校2年の終わりまで、ずっと、継続的に、大工になるのが夢だっ
た。それがやがて、工学部志望となり、建築学科志望となった。しかし高校3年になるとき、担
任に、強引に、文学部コースへと、変えられてしまった。当時は、そういう時代だった。

 ここで私は、たいへんな混乱状態になってしまった。工学部から、文学部への大転身であ
る!

 当時の、つまり高校3年生当時の写真を見ると、私は、どの顔も、暗く沈んでいる。心理状態
も最悪だった。もし神様がいて、「お前を、若いころにもどしてやる」と言っても、私は、あの高
校3年生だけは、断る。私にとっては、それくらい、いやな時代だった。

 この役割混乱について、ある講演会で、話をさせてもらった。それについて、そのあと、ある
一人の男性が、こう聞いた。「役割混乱って、どういう心理状態でしょうかね?」と。

 私は、とっさの思いつきで、こう答えた。

 「いやな男性と、いやいや結婚して、毎日、その男性と、肌をこすりあわせているような心理
状態でしょうね」と。

 そう答えたあと、たいへん的をえた説明だと、自分では、そう思った。

 もしあなたなら、そういう結婚をしたら、どう思うだろうか。それでも、そういう状態を克服して、
何とか相手とうまくやっていこうと思うだろうか。それとも……。

役割混乱というのは、そういう状態をいう。決して、軽く考えてはいけない。

 ただし一言。よく「有名大学へ……」「有名高校へ……」と、子どもを追い立てている親がい
る。

 しかし有名大学や有名高校へ子どもを入れたからといって、その子どもの役割が確立するわ
けではない。「合格したから、どうなの?」という部分がないまま、子どもを大学へ送りこんでも、
意味はないということ。

 もう10年ほど前だろうか、こんなことがあった。

 2人の女子高校生が、私の家に遊びに来て、こう言った。

 「先生、私たち今度、SS大学に行くことになりました」と。

 関東地方では、かなり有名な大学である。そこで私が、「いいところへ入るね。で、学部は…
…?」と聞くと、すこしためらった様子で、「国際カンケイ学部……」と。

 そこでさらに、「何、その国際カンケイ学部って? 何を勉強するの?」と聞くと、二人とも、
「私たちにも、わかんない……」と。

 大学へ入っても、何を勉強するか、わからないというのだ!

 しかしその姿は、私自身の姿でもあった。私は高校を卒業すると、K大学の法学部(法学科)
に入った。しかしそこで役割混乱が収まったわけではない。そのあと、大学を卒業したあと、商
社へ入社したときも、役割混乱は、そのままだった。

 まさに(いやな女房と、いやいや結婚したような状態)だった。

 つまり(本当に私が進みたいコース)と、(現実に進みつつあるコース)の間には、大きなへだ
たりがあった。このへだたりが、私の精神状態を、かなり不安定にした。やがて、私は、幼稚園
で、自分の生きる道をみつけたが、その道とて、決して、楽な道ではなかった。

 ……ということで、子どもの役割形成と、役割混乱を、決して、安易に考えてはいけない。私
自身が、その恐ろしさを、いやというほど、経験している。

●幼児を見ると……

 満5歳を超えるあたりから、子どもたちは、急速に「性」への関心をもち始める。性器はもちろ
ん、性的行為についても、それらが何か特別な意味をもっていることを知る。

 男児が女児を意識し、女児が男児を意識するようにもなる。「男」と「女」を、区別することがで
きるようにもなる。もちろん父親が男であり、母親が女であることも知る。

 そのため、この時期、重要なことは、その「性」に対して、うしろめたさを持たせないようにする
こと。性について、ゆがんだ意識や、暗いイメージをもたせないようにすること。男と女の差別
意識(ジェンダー)については、もちろん、論外である。

 幼児教育では、「男はすぐれている」「女は賢い」といった教え方は、タブーである。「男は強
い」「女は弱い」も、タブーになりつつある。

子ども「先生は、どうしてチューするの?」
私「チューイ(注意)するのが、いやだからね」
子ども「注意のほうがいいよ」
私「注意しても、どうせ、君たちは、ぼくの言うことなど、聞かないだろ」
子ども「聞く、聞く、ちゃんと、聞く」
私「そう? だったら、チューはしないよ」と。

●ジェンダーは、なぜ生まれるのか?

 男と女。その間には、生理的な違いはある。その違いまで、乗り越えて、男と女が平等である
ということは、ありえない。「性欲」の問題が、そこにからんでくる……。

 ……と、考えるのも、最近は、どうかと思うようになった。

 フィンランドに留学している、オーストラリア人の女子学生がこんなことを話してくれた。

 彼女は、フィンランドで、建築学の勉強をしている。22歳である。いわく、「みな、サウナが大
好き。サウナでは、混浴が、ふつう。老若男女の区別はしない。タオルで肌を隠したりすること
もしない」と。

 そういう話を聞くと、「本当ですか?」と、何度も聞きかえさなければならないほど、日本人の
性意識には、独特のものがある。つまりフィンランドでは、30〜40歳の男性と、10〜20歳の
女性との混浴(サウナ)が、ごく日常的なこととして、公然となされているという。

 となると、(性意識)とは、何か? さらに(性差)とは、何か?

 文化論、遺伝子論、民族論などが、混在している。そしてそれぞれの人たちが、自分の立場
で、「ジェンダーは、おかしい」「ジャンダーは、必要だ」などと、説く。最近では、むしろ、「男は
仕事、女は家事という、日本民族がもつ独特のよさ(?)を、再確認しよう」と説く集団まで、現
れた。政治家の中にも、そういう考え方をする人は多い。

 その根底には、日本古来の、独特の男尊女卑思想がある。「男が上、女が下」という、あの
男尊女卑思想である。

 このところ、皇室の皇位継承問題もからんで、ジェンダー論が、にぎやかになってきた。昨日
の新聞(中日新聞)も、この問題について、特集記事を並べていた。

 で、私の結論。

 だいたいにおいて、男と女を、人間として区別するほうが、おかしい。まったく、おかしい。男
の子は、男の子らしく育てるとか、女の子は女の子らしく育てるという考え方、そのものも、おか
しい。

 そんなことは、当の子どもたちが、そのときどきの文化の中で決めていくことであって、社会
の問題でもなければ、教育の問題でもない。

 この問題で、もっとも重要なことは、男であるから、女であるからという理由だけで、人間的、
社会的差別を、人は、受けてはならないということ。すべては、その一点に、結論は集約され
る。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最後に、話はまったく関係ないが、『マディソン郡の橋』について
書いた原稿を添付します。

私が好きな原稿の一つです。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

女性がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(32歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。

「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」
(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生
命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日
に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしてい
たが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられない
のを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。

「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、
『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏の
ばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵を
かいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いた
が、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心を
ふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。

だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風の
ようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するとき
がくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを
原点として前に進む。

方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それで
また風は吹き始める。人生は動き始める。
(中日新聞東掲載済み)
(はやし浩司 ジェンダー)

【付記】

●「自民保守派が、ジェンダー否定」(中日新聞・05・07・26夕刊)

 世界的にみても、この分野で一番、遅れている日本で、さらに「ジェンダー否定」の動きが出
てきたというのは、たいへん興味深い。

 自民党保守派の人たちが、「男女共同参画社会はおかしい」と言い出した。新聞報道によれ
ば、「自民党の関連プロジェクトチームが、参画社会の基本計画の柱である、ジェンダーの否
定に乗り出した」(同新聞)とある。「ねらいは、男女共同参画社会基本法の改廃」である、と。

 いろいろな識者の意見が並べられている。

 男女の違いは、文化だ。いや違う、生物学的なものだ、などなど。「男は、男らしく、女は、女
らしくというのは、少しもおかしくない」という意見まで。

 「個」という観点を基本におけば、「男だから……」「女だから……」という、『ダカラ論』そのも
のが、まちがっている。日本人は、本当に、この『だから論』が好きなようだ。社会のみならず、
個人の生き方まで、この『ダカラ論』で決めてしまう。

 もう、そんな時代は、とっくの昔に終わったと、私は思っているが……。
(はやし浩司 男女の平等 共同参画社会 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男女共同参画社会VS父親の育児参加

 今度、H市の教職員組合支部の研修会で、講師をすることになった。あわせてテーマをもらっ
た。メールには、つぎのようにあった。

 「私たちの活動の重点は、男女共同参画社会の教育の在り方を見つけていくことです。現
在、私たちがおかれている職場環境、家庭環境もさることながら、学校教育、家庭教育におい
てどのようなことをしていくことが、これからの男女共同参画社会を築いていくことになるのか、
それを勉強していきたいと考えています。
 
先生は、主に、子育てについてご講演されることが多いかと思いますが、父親が積極的に子育
てに関わっていくことも今の時代大切なことだということをこの会の中でも、話してくださるので
はないかと期待しております」と。

 この中には、いくつかの重要なキーワードがある。

 (1)男女共同参画社会、(2)父親の積極的な育児参加など。

 私はこうした新しいテーマをもらうと、モリモリと元気がわいてくる。スリルや緊張感を覚える。
何というか、登山家が高い山を、目の前にしたときの気持ではないか。あるいはヨットで大海原
(うなばら)に出航するときの気持ではないか。どちらも私には経験のない世界だが、しかし私
は似ていると思う。あのニュートンは、こんな有名な言葉を残している。

 『真理の大海は、すべてのものが未発見のまま、私の前に横たわっている』(ブリューター「ニ
ュートンの思い出」)

 新しい真理を求めて出発するということは、まさに大海に向けて出航することに等しい。ゾク
ゾクする。ワクワクする。

 ……と、長い前置きはここまでにして、男女共同参画社会について。要するに、男女平等と
いうこと。要するに、「性」にまつわる差別や、偏見を撤廃するということ。

 最初に思いついたのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデンの性教育協会
の、元会長である。そのベッテルグレン女史について書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++++

●男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏
見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益
を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったこと
を理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったくない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされ
た。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激
を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそ
のまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八
〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ
ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」と
いう考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。つまり「昔のままでいい」と。男性側
の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働
き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国
立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不
満をもつ妻もふえている。

「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一
九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家
事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。 

+++++++++++++++++++++
家庭とは、本当に天国か?
世の男たちは、そう思っているかもしれないが、
家庭に閉じ込められた女性たちの重圧感は、
相当なものである。それについて書いたのが
つぎの原稿です。
+++++++++++++++++++++

●家庭は兵舎

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。「育児
で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。が、最
大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。ある男性
は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なのか」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ
た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、
思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用
意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し
たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな
らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、一、二年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ
の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに
は、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、
本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。これも私の経験だが、私も若いころ
は、生徒たち(幼児、四〇〜一〇〇人)を連れて、季節ごとに、キャンプをしたり、クリスマス会
を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。が、三五歳を過ぎるころから、それが
できなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す
る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の
中における、自己愛の喪失を例にあげている。つまり一般世間から、隔離された状態に長くい
ると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪失するという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを
虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。その前の段階として、冷淡、無視、育
児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査によっても、約四〇%の母親たちが、
子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのがわかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を
数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」な
どの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」
「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あ
り」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%で
あったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ
と声をあげろ!」ということ。ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中
で、「おかしいのは私だけ」「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方を
する。そして自分で自分を責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも
言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること
を認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ
てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重
圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。
(030409)

●「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから
大半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なお
さらである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛であ
る。

Aさん(三四歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん
は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今
は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、
どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ
んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。
「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!

++++++++++++++++++++++

●男女共同参画基本法より

内閣府の「男女共同参画基本計画」では、つぎのようになっている。

★男女の人権の尊重

男女の個人としての尊厳を重んじましょう。男女の差別をなくし、「男」「女」である以前にひとり
の人間として能力を発揮できる機会を確保していきましょう。

★社会における制度又は慣行についての配慮

固定的な役割分担意識にとらわれず、男女が様々な活動ができるよう、社会の制度や慣行の
在り方を考えていきましょう。

★政策等の立案及び決定への共同参画

男女が、社会の対等なパートナーとして、いろいろな方針の決定に参画できるようにしましょ
う。

★家庭生活における活動と他の活動の両立

男女はともに家族の構成員。お互いに協力し、社会の支援も受け、家族としての役割を果たし
ながら、仕事をしたり、学習したり、地域活動をしたりできるようにしていきましょう。

★国際的協調

男女共同参画社会づくりのために、国際社会と共に歩むことも大切です。他の国々や国際機
関とも相互に協力して取り組んでいきましょう。

++++++++++++++++++++++++

こうした流れの中で、男女共同参画基本法が制定された。

●夫の暴力に対する対処(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)

殴ったり蹴ったりするなど、直接何らかの有形力を行使するもの。
刑法第204条の傷害や第208条の暴行に該当する違法な行為であり、たとえそれが配偶者間
で行われたとしても処罰の対象になります。
■平手でうつ 
■足でける
■身体を傷つける可能性のある物でなぐる
■げんこつでなぐる
■刃物などの凶器をからだにつきつける
■髪をひっぱる
■首をしめる
■腕をねじる
■引きずりまわす
■物をなげつける
====================
心無い言動等により、相手の心を傷つけるもの。
精神的な暴力については、その結果、 PTSD(外傷後ストレス障害)に至るなど、刑法上の傷
害とみなされるほどの精神障害に至れば、刑法上の傷害罪として処罰されることもあります。
■大声でどなる
■「誰のおかげで生活できるんだ」「かいしょうなし」などと言う
■実家や友人とつきあうのを制限したり、電話や手紙を細かくチェックしたりする
■何を言っても無視して口をきかない
■人の前でバカにしたり、命令するような口調でものを言ったりする
■大切にしているものをこわしたり、捨てたりする
■生活費を渡さない
■外で働くなと言ったり、仕事を辞めさせたりする
■子どもに危害を加えるといっておどす
■なぐるそぶりや、物をなげつけるふりをして、おどかす

====================
嫌がっているのに性的行為を強要する、中絶を強要する、避妊に協力しないといったもの。
■見たくないのにポルノビデオやポルノ雑誌をみせる
■いやがっているのに性行為を強要する
■中絶を強要する
■避妊に協力しない

+++++++++++++++++++++++++

【世の夫諸君へ】

 妻だから、ワイフだから……という甘えを捨てよう。夫婦とて、長い目で見れば、人間対人間
の関係。ちなみにオーストラリアあたりで、夫が妻に向かって、「おい、お茶!」などとでも言おう
ものなら、それだけで離婚事由になる。中に、日本人の離婚率は、アメリカより低いなどとうそ
ぶいている男がいるが、それは妻が夫に満足しているからではなく、がまんしているからにほ
かならない。これから先、女性の意識が高まるにつれて、日本の離婚率も、アメリカ並になる。
あるいはそれを超えるかも。世の夫諸君よ、今日からでも遅くないから、妻には、やさしく、微
笑作戦を展開しよう!

+++++++++++++++++++++++++

●家事をしない男たち

 特別な事情のある男は別として、五〇歳以上の男について言うなら、彼らは、掃除、料理、
洗濯などの家事を、ほとんどしない。この年代は、旧態依然の男尊女卑思想、あるいは男女
差別思想にこりかたまっている。中には、「男には威厳が必要だ」「夫は、一家の主(あるじ)
だ」「存在感があればよい」などと、居直っている男さえいる。

 しかしこんな意識は、バカげている。またそういう意識にしがみついたからといって、伝統を守
ることにはならない。

 少し前まで、あのアフガニスタンでは、女性は教育を受けることも、仕事につくことも許されな
かった。外出するときは、あのマスクで顔を隠さねばならなかった。そういう報道を見聞きする
と、日本人は、「私たちは違う」と胸を張る。「私たちの国は、先進国だ」と。しかし、本当にそう
か。本当にそう言いきってよいか。

 私の家の近くには、小さな空き地があり、そこは近所の老人たちの、かっこうの、たまり場に
なっている。天気のよい、おだやかな日には、いつも、七、八人の老人が集まっている。そうい
う風景を目にするようになって、もう一〇年以上になる。

 しかし、だ。男たちは、ただイスに座って、何やら話しているだけ。草を取ったり、竹を切った
り、畑の世話をしているのは、女性だけ。私はこの一〇年以上の間、男たちが、ゴミを集めた
り、掃除したりしている姿を、一度も見たことがない。

 見なれた光景とはいえ、いつも大きな違和感を覚える。少し前までは、「男も、何か仕事をす
ればいい」と思った。しかし最近は、「つまらない男たち」と思うになった。そういう男たちのやる
ことと言えば、せいぜい、竹やぶに生えてくる竹の子の管理だけ。見知らぬ人が竹やぶに入っ
てきて、竹の子を取ろうとすると、集会場の男たちがやってきて、あれこれ文句を言う。

 しかしこのたまり場は、まさに日本の社会を、象徴している。「社会」というより、「男と女の関
係」を、象徴している。しかし意識とは恐ろしい。おそらくそういう関係をつくりながらも、そのた
まり場の男はもちろん、女も、それをおかしいとは思っていない。……だろう。が、それは、ちょ
うど、少し前までのアフガニスタンの人たちが、自分たちの社会をおかしいと思わなかったの
と、同じ? あるいはどこがどう違うというのか。

●意識改革 

 こうした男たちや女たちの意識を変えることは、不可能に近い。意識というのは、それが無意
識であればなおさら、脳のCPU(中央演算装置)に関係する。それを変えるということは、それ
までの生きザマを否定することにもなる。たとえば「任侠(にんきょう)」とか、「義理人情」とか、
そういうものにこりかたまっている人に向かって、「これからはそういう時代ではありません」な
どと言おうものなら、その人は猛烈に反発する。へたをすれば、こちらの腹を刺してくるかもし
れない。

 指導でできることがあるとすれば、せいぜい、習慣として、「家事を男に手伝わせる」ことでし
かない。あるいは「そういう意識では、いけない」ということを、わからせることでしかない。ある
いは、そのほかに、どんな方法があるというのか。そのことは、自分のこととして考えてみれ
ば、わかる。

 私も、昔風の、きわめて男女差別のはげしい家庭環境で育った。小学時代は、女の子と遊ん
だ経験がない。家庭でも、私が台所へ入っただけで、母などは、「男がこんなところにいるもん
じゃない!」と私を叱った。だから高校を卒業するまで、洗濯や料理など、ほとんどしたことがな
かった。掃除といっても、せいぜい、自分の部屋の掃除程度。

 その私が大きく変わったのは、留学時代があったからだが、もし留学していなければ、今の
私はあの私のままだったと思う。そして今も、家事は、いっさいしないでいると思う。とくに山荘
のほうでは、掃除、料理、家事一般、ほとんどすべて私がしている。が、だからといって、私の
意識が変わったというのではない。家事をするといっても、どこか趣味的にしている感じがす
る。もっとわかりやすく言えば、おとなのままごとをしているような感じがする。地に足がついて
いない?

 つまり私という人間は、外見こそ変わったが、中身は、ほとんど変わっていない。今でもふと
油断をすると、心のどこかで、「男は仕事……」と考えてしまう。男女は平等といいながら、男と
しての気負いが消えたわけではない。そういう私を見て、ワイフは、ときどき、(今でも)、こう言
う。「あんたは、私たちに気をつかいすぎよ」と。

 ワイフが言う「気をつかいすぎ」というのは、私の気負いをいう。私はいつもどこかで、「家族を
支えていくのは、私の役目」と考えている。ときにそれが重圧となって、私を苦しめる。ワイフ
は、それを言う。

 かたい話がつづいたので、少し前に書いた原稿を掲載する。

+++++++++++++++++++++++

●真昼の怪奇

 Gというレストランに女房と入った。食事がほぼ終わりかけたとき、隣の席に、明らかに大学
生と思われる、若い男女が座った。そのときだ。

 やや太り気味の男は、イスにデンと座ったまま。恋人と思われる女が、かいがいしくも、水を
運んだり、ジュースを運んだり、スープを運んだりしていた。往復で、三度は行き来しただろう
か。私はただただそれを見て、あきれるばかり。

その間、男のほうは、メニューをのぞいたり、少し離れたところにあるプラズマテレビの画面を
ながめたりしているだけ。その女を手伝おうともしない。いや、そんな意識は、毛頭もないといっ
たふうだった。

 私はよほどその男に声をかけようと思った。そしてこう聞きたかった。「あなたはどういうつも
りですか?」と。

 日本では見慣れた光景かもしれない。そしてそういう光景を見ても、だれもおかしいとは思わ
ない。「そういう仕事は、女がするものだ」と、男は思っている。そして女自身も、「そういう仕事
は女がするものだ」と思っている。が、それこそ、まさに世界の非常識。そういう非常識が、日
常的にまかりとおっているところに、日本型の社会の問題がある。

 いや、その男女が、五〇歳代とか六〇歳代とかいうのなら、まだ話はわかる。しかしどうみて
も大学生。そういう若い男女が、いまだにその程度の意識しかもっていないとは!

 あとで女房とこんな会話をした。「家庭教育が問題だ」と。いや、教育というよりは、その男女
にしても、家庭の中で見慣れた光景を、そのレストランで繰り返しているにすぎない。教育とい
うよりは、私たち自身の意識の問題なのだ。先日も、ある講演先で、「家事を夫も手伝うべき
だ」というようなことを言ったら、ある男性から反論のメールが届いた。いわく、「男は仕事で疲
れて帰ってくる。その男が家に帰って、家事を手伝うというのは現実的ではない」と。

 しかし言いかえると、世の男たちは、仕事にかこつけて、何もしない。「仕事」はあくまでも、方
便。方便であることは、その若い男女を見ればわかる。大学生といえば、たがいに平等のは
ず。その大学生の段階で、男の側にはすでに家事を手伝うという意識すらない。きっとあのレ
ストランの男も、いつか仕事から帰ってくると、妻にこう言うようになるだろう。「オイ、お茶!」
と。妻を奴隷のようにあつかいながら、その意識すらもたない。それは仕事で疲れているとか、
いないとかいうこととは関係、ない。

 私はまさに、真昼の怪奇を見せつけられた思いで、そのレストランを出た。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●終わりに

 男と女の関係は、(1)育児(2)家庭、(3)社会の3者の中で、基本的に違う。違って当然であ
る。

 こうした(違い)を無視して、つまりいっしょくたににして、ジェンダーを論じても意味はない。

 たとえば育児の場においては、父親と母親の役割は、まったくと言ってよいほど、違う。母子
関係は、子どもの心をつくる基本であって、母子関係の不全は、そののち、その子どもの精神
の発育に、決定的ともいえるほど、大きな影響を与える。

 が、母子だけに、育児を任せればそれでよいかというと、そうでもない。

 今度は、そこに父親の役割が、介入していくる。子どもを産み、子どもに命を授けるのが、母
親の存在であるとするなら、社会性を教え、人間としての生きザマを教えるのが、父親の存在
ということになる。わかりやすく言えば、父親は、子どもを外の世界に連れ出し、狩のし方を教
える。

 もちろん家庭の中でも、ある程度の役割分担は、ある。しかしそれは『ダカラ論』によって生ま
れるものであってはならない。100世帯の家庭があれば、100種類の夫婦関係がある。どれ
もちがう。

 妻が外で働いて、夫が家事を分担したところで、何ら、おかしくない。それぞれの家庭が、そ
れぞれの事情の中で、決めていくことである。

 しかし男であるにせよ、女であるにせよ、一歩、外に出て、社会的人間として生きるときに
は、性による差別は、ぜったいにあってはいけない。

 その不快感は、差別されたものでないと、恐らく理解できないだろう。形こそ違うが、私は、学
生時代、オーストラリアで、人種差別なるものを経験している。その人種差別と同じにすること
はできないが、ジェンダーも、それと同列に考えてよい。差別される側が受けるショックは、差
別する側のものにとっては、理解できないものかもしれない。

 日本の女性たちが、男女同権を訴えるなら、その前提として、差別というものが、どういうも
のか知らねばならない。それを知らない女性に向って、ジェンダーを説いても、あまり意味はな
い。「私は、かわいい女よ」と、「女」であるという下位の立場に甘んじている女性に、ジェンダー
を説いても、あまり意味はない。

 ジェンダーを説くときには、こうした意識(男も女も)改革を、まず先行させなければならない。

 そうでなくても、欧米社会から見ると異端の国、日本。その日本が、「男女共同参画社会基本
法」を改廃するなどというのは、まさに愚の骨頂としか、言いようがない。

 日本の女性たちよ、目ざめよ! そしてもっと怒れ!

 以上、ジェンダーについて考えてみた。




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【学力】

+++++++++++++++++

「ゆとりある教育」が、今、見なおされ始めている。
再び、学力をつける教育への転換へと、日本の教育
は、大きくカジをきろうとしている。

しかし、学力をつけるだけで、よいのか。それで本当
に日本の将来は、よくなるのか?

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●学力の低下

 たしかに最近の子どもたちの学力は、低下している。改めて具体的データなど、出すまでもな
い。

 が、だからといって、最近の子どもたちが、その分だけ、以前の子どもたちより、劣っている
かというと、そうとは言えない。

 いわゆる(学校でする勉強)については、成績が落ちている。それは、事実。しかし今の子ど
もたちの世界は、以前とは比較にならないほど、多様化している。それに広くなっている。学校
で習う勉強だけが勉強という、そういう時代では、もうなくなった。

 もちろん、娯楽もかぎられていた。行動半径もかぎられていた。スポーツにしても、野球と相
撲だけ。それにプロレス。とくにプロレスの人気には、ものすごいものがあった。

 私の時代においてですら、つまり今から45年も前のことだが、学校でする勉強と、自宅で自
分がしていることとの間に、大きなギャップを感じたことがある。とくによく覚えているのは、音
楽について、である。

 学校ではバッハのミサ曲やシューベルトの歌曲を歌い、家では、西郷輝彦や舟木一夫の歌
謡曲を歌った。さらに(学校で与えられること)と、(自分のしたいこと)の間には、大きなギャッ
プを感じた。

 私は、飛行機に興味があった。将来の夢は、大工になることだった。しかしそういったことに
ついての勉強は、ほとんど、なかった。そういう時代の学力と、現在の学力を同一レベルで考
えることはできない。

 よく覚えているのは、中学2年のときに、三角関数を学んだこと。現在、三角関数は、高校2
年で学ぶことになっている。英語にしても、中学2年で、関係代名詞を学んだ記憶がある。が、
だからといって、当時の教育レベルが、今より高かったなどとは、だれも、思っていない。

 「おい、わかったか」「では、つぎ」式の詰めこみ教育……、毎日が、その連続だった。

 ただ今の時代と違っていたのは、教師による体罰などというものは、日常茶飯事。英語の教
師などは、剣道で使う竹刀(しない)を、いつも教室へもってきていた。その竹刀で、宿題をして
なかった子どもや、教師の質問に正しく答えられない子どもは、容赦なく、バシッ、バシッと頭を
たたかれた。頭から血を流した子どももいた。

 「古き、よき時代」などと言おうものなら、今の親たちに、袋だたきにあいそうだが、ともかく
も、私たちの時代は、そういう時代だった。

 が、今は、違う。当時の様子を、モノクロのスチール写真にたとえるなら、現在は、カラービデ
オの時代。まさに何でもござれの時代になった。それくらいの違いはある。

 そこで本来なら、教育も、もっと多様化すべきであった。しかし遅れること、30年? 40年?
 いまだに「基礎学力」とか何とかいうわけのわからないものが、大手を振って、教育界をのさ
ばり、歩いている。

 みながみな、その道の学者になるわけでもないだろうに……。

 そんな日本の教育の現状を書いたのが、つぎの原稿である。ただしこの原稿を書いたのは、
今から4年前の、2001年のはじめ。それから4年、その前後に、「総合的な学習」が始まり、
「学校5日制」も始まった。「ゆとり」の名のもとに、学習教科の3割削減も実施された。

 そういうことも念頭に入れながら、この原稿を読んでほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日本の教育レベル】

●日本の教育レベルは165カ国中、150位? 

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。

「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたも
のは、一つもない」と。

あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、165か国中、150位(99年)。

「アジアで日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新
潮)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(99年当時)。

ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本
の教育は世界最高水準にある」と思うのは勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では
小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った
母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。

いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」(※1)と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。

「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村
和雄氏)(※2)だそうだ。日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見た
アメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。

大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」
が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はも
ちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。

確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、
「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よりも
8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねば
ならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに15年以
上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイ
ツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。もちろん数学、英
語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もあ
る。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう
一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとの
こと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。
日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさ
に世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育
観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。よい例が、日本の総理
大臣だ。

●ヘラヘラする日本の首相

 G8だか何だか知らないが、日本の総理大臣は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる
(2000年春)。本当はそうではないのかもしれないが、私にはそう見える。一国の代表なのだ
から、通訳なしに日本のあるべき姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではない
のか。

が、そういう迫力はどこにもない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。そういう
総理大臣しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかならぬ、日本
の教育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも150位レベル? 政治も1
50位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。

※1……東京都教育委員会は、「都立高校マネジメントシステム検討委員会」を設置した(01
年6月)。これはともすれば経営感覚を無視しがちな学校運営者(校長)に、経営感覚をもって
もらおうという趣旨で設置されたものだが、具体的には、各学校に進学率などの数値目標を設
定させ、目標達成に向けた校内体制を整備させようというもの。

つまり進学率や高校への応募倍率、さらには定期考査の平均点などで、学校が評価されると
いう。またこれに呼応するかのように、東京都では「代々木ゼミナール」などの予備校での教員
研修を始めている(01年10月より)。

※2……京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであ
ったという。

調査は99年と2000年の4月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研究する大
学院生約130人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、25点満点で平均は、16・8
5点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部1年生で、22・94
点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。

さらに西村教授は四則演算だけを使う小学生レベルの問題でも調査したが、正解率は約五
九%と、東京の私立短大生なみでしかなかったという。

●学力は世界第五位※

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中学生の学
力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第5位。以下、オーストラ
リア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次いで第3
位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。

 ここで注意しなければならないのは、日本では、数学や理科にあてる時間数そのものが多い
ということ。たとえば中学校では週4〜5時間を数学の時間をあてている(静岡県公立中学
校)。アメリカのばあい、単位履修制を導入しているので、日本と単純には比較できないが、週
3〜4時間。さらにアメリカでもオーストラリアでも、ほとんどの学校では、小学一、二年の間
は、テキストすら使っていない。

●今の改革でだいじょうぶ?

また偏差値(日本……世界の平均点を500点としたとき、数学579点、理科550点)だけを
みて、学力を判断することはできない。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。

東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるの
は問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(48%)。「理科が好き」と答えた
割合は、韓国についでビリ2あった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強する学外学習
も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(95年)と比べて、テレビやビデオを見る時間
が、2・6時間から3・1時間にふえている。

同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第三回学習基本調査」によれば、次のよう
になっている(01年5月と6月に小、中、高校生約8700人について調査)。

学習時間が三〇分以下……小学生 40・3%
            中学生 30.7%
            高校生 37・1% 

家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……23・1%

 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていること
が、これらの調査でわかる。
(はやし浩司 日本の子供 学力 子供の学力 レベル)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●では、どうするか?

 では、どうするか? 批判ばかりしていても、始まらない。

 日本の教育を、明日に向けて救うためには、教育の自由化しかない。北海道の北端から、沖
縄の南端まで、金太郎アメのような教育をすることが、教育ではない。子どもの多様化に合わ
せて、教育も多様化する。

 つぎの原稿は、3年ほど前に書いた原稿だが、今でも、新鮮さを、まったく失っていない。内
容的に、先の原稿とダブる点があるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●公立小中学校・放課後補習について

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から
導入する方針をかためた(〇二年八月)。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、
全国でモデル校二〇〇〜三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を
行う」(読売新聞)という。「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一
石二鳥の効果をめざす」とも。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらい
だという。具体的には、つぎのようにするという。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、(1)授業の理解が遅れている児童、生徒
に対する補習を行う、(2)逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学
力に応じて指導するという。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗する。理由は、現場の教師なら、だれ
しも知っている。順に考えてみよう。

第五、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔か
ら「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、
子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子
どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、
なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためであ
る。

第六、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニ
ックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって
受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験
勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという
問題が、同時に起きてくる。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえない
でほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうし
てそういうウソをつく! 

新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく言えば、今まで小学四年
で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。しかし一方、私立の小中学校は、従来どおり
のカリキュラムで授業を進めている。不利か不利でないかということになれば、公立小中学校
の児童、生徒は、決定的に不利である。だから親たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東
京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませ
んよ」と。こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不
信感をいだき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる
天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中で
もダントツに多い。文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、
死ぬまで優雅な生活を送れる。……送っている。

そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆとり学習」など考えるほうがおかしい。この数年、
大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところにメスを入
れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。

ああ、私だって、この年齢になってはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死
ぬまで就職先と、年金が保証されている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいや
というほど、思い知らされている。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも
失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配
する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボ
ロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。

その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は
自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体に
カリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(ア
メリカ)。いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オースト
ラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しか
し検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけ
ないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後
の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもち
ろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。そういう現状が、
世界では、常識であるにもかかわらず、なぜ日本の文部科学省は、自由化には背を向け、自
由化をかくも恐れるのか? あるいは自分たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにも
こわいのか?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」と
いうよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育は
にっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教
育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校
の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強
などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。そ
の文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教育
学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。い
わんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう
言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受
験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の
学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方
向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふ
えた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」
(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。オースト
ラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数え
るほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人
もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。

(25)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(26)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(27)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(28)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(29)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(30)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(31)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(32)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといって
よいほど、受けない。

わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温床になってい
る。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教育を自由化
すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することになる。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師の
インターン制度を導入して、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父
母の教育補助制度を導入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、
こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。
で、ここにあげた(1)〜(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、
こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の
将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。
(02−8−28)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(注※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。

同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。

原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。
少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【追記】

 この原稿を書いてから、数年。この数年の間に、日本の教育事情は、大きく変わりつつあ
る。「自由化」とまではいかないにしても、とくに私立中学、私立高校における変化が、すさまじ
い。

 私たちが子どものころには、絶対的であったカリキュラムにしても、現在、それを順守してい
る学校は、ほとんどない。中1で、中2の教科内容にふみこんでみたり、あるいは前後を、その
つど、入れかえてみたりするという授業が、ごくふつうのこととしてなされるようになってきてい
る。

 教科書をほとんど使わず、それぞれの教師が用意したテキストを使って、自由に教育をして
いる学校も少なくない。補習用というよりは、受験用だが、しかしそういう意味での、自由化は、
たしかに進んでいる。

 入試問題の内容も、大きく様変わりしている。だいたいの学力は、学校が用意する内申書を
見て判断し、本番の入学試験では、(考える力)を試すという問題が多くなった。

 たとえば、「沼で、ザリガニをつかまえようと思います。どんな方法がありますか。ザリガニの
つかまえ方を、具体的に書いてください」(H市N高中等部入試問題・05年)、など。

 こうした傾向は、今後、さらに全国的に広がっていくものと思われる。

 だから、全世界共通の、つまりは、今まで私たちがイメージとしてもっている(学力の概念)
は、これから先、大きく変わってくる。先に書いたような、(学力の国際比較)そのおのが、それ
ほど、意味をもたなくなる。

 ある中国人の女性(北京出身)は、こう言った。「中国では、小学1年で、掛け算を教える。日
本は、2年で教える。中国の教育水準は、高い。日本の教育水準、低い、あるね」と。

 しかし今は、そういうことで、学力を比較する時代ではない。
(はやし浩司 学力 子供の学力 教育の自由化 何が学力か)
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