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●子育て格言

●『深い川は静かに流れる』

 『深い川は静かに流れる』は、イギリスの格言。日本でも、『浅瀬に仇(あだ)波』という。つまり
思慮深い人は、静か。反対にそうでない人は、何かにつけてギャーギャーと騒ぎやすいという
意味。

 子どももそうで、その子どもが思慮深いかどうかは、目を見て判断する。思慮深い子どもの
目は、キラキラと輝き、静かに落ち着いている。会話をしていても、じっと相手を見据えるような
鋭さがある。が、そうでない子どもは、そうでない。

 私は先日、ある女性代議士の目をテレビで見ていて驚いた。その女性は何かのインタビュー
に答えていたのだが、その視線が空を見たまま、一秒間に数回というようなはやさで、左右、
上下にゆれていたのだ。それはまさに異常な視線だった。

その女性代議士は、毒舌家として有名で、言いたいことをズバズバ言うタイプの人だが、しかし
それは知性から出る言葉というより、もっと別のところから出る言葉ではないのか。私はそれを
疑った。これ以上のことはここには書けないが、そういうどこかメチャメチャな人ほど、マスコミ
の世界では受けるらしい。

 が、この時期、親というのは、外見的な派手さだけを見て、子どもを判断する傾向が強い。た
とえば本読みにしても、ペラペラと、それこそ立て板に水のように読む子どもほど、すばらしい
と評価する。しかし実際には、読みの深い子どもほど、一ページ読むごとに、挿絵を見たりし
て、考え込む様子を見せる。読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。

 これも子どもをみるとき、よく誤解されるが、「情報や知識の量」と、「思考力」は、別。まったく
別。モノ知りだから、頭のよい子どもということにはならない。子どもの頭のよさは、どれだけ考
える力があるかで判断する。同じように、反応がはやく、ペラペラと軽いことをしゃべるから、頭
のよい子どもということにはならない。

むしろこのタイプの子どもは、思考力が浅く、考えることそのものから逃げてしまう。何か、パズ
ルのような問題を与えてみると、それがわかる。考える前に、適当な答をつぎからつぎへと口
にする。そして最後は、「わからない」「できない」「もう、いや」とか言い出す。

 その「考える力」は、習慣によって生まれる。子どもが何かを考える様子を見せたら、できる
だけそっとしておく。そして何か新しい考えを口にしたら、「すばらしいわね」「おもしろいね」と、
それを前向きに引き出す。そういう姿勢が、子どもの考える力を伸ばす。


●不自然さは要注意

 子どもの動作や、言動で、どこか不自然さを感じたら、要注意。反応や歩き方、さらにはしぐ
さなど。「ふつう、子どもなら、こうするだろうな」と思うとき、子どもによっては、そうでない反応
を示すことがある。最近、経験した例をいくつかあげてみる。

○教室へ入ってくるやいなや、突然大声で、「先生、先週、ここにシャープペンシルは落ちてい
ませんでしたか!」と。「気がつかなかった」と答えると、大げさなジェスチャでその女の子(小
五)は、あたりをさがし始めた。しばらくすると、「先生、今日は、筆箱を忘れました」と。そこで
私が、「忘れたら忘れたで、最初からそう言えばいいのに」とたしなめると、さらに大きな声で、
「そんなことはありません!」と。そして授業中も、どうも納得できないというような様子で、とき
おり、あたりをさがすマネをしてみせる。私が「もういいから、忘れなさい」と言うと、「いえ、たし
かにここに置きました!」と。

○A君(小三男児)が、連絡ノートを忘れた。そこでまだ教室に残っていたB君(小三男児)にそ
れを渡して、「まだA君はそのあたりにいるはずだから、急いでもっていってあげて!」と叫ん
だ。が、B君はおもむろに腰をあげ、のんびりと自分のものを片づけたあと、ノソノソと歩き出し
た。それではまにあわない。そこで私が「いいから、走って!」と促すと、こちらをうらめしそうな
顔をして見るのみ。そしてゆっくりと教室の外に消えた。

○R子(小六)が教室に入ってきたので、いつものように肩をポンとたたいて、「こんにちは」と
言ったときのこと。何を思ったからR子は、いきなり私の腹に足蹴りをしてきた。「この、ヘンタイ
野郎!」と。ふつうの蹴りではない。R子は空手道場に通っていた。私はしばらく息もできない
状態で、その場にうずくまってしまった。そのときR子の顔を見ると、ぞっとするような冷たい目
をしていた。

 こうした「ふつうでない様子」を見たら、それを手がかりに、子どもの心の問題をさぐってみ
る。何かあるはずである。が、このとき大切なことは、そうした症状だけをみて、子どもを叱った
り、注意してはいけないということ。何か原因があるはずである。だからそれをさぐる。

たとえばシャープペンシルをさがした女の子は、異常とも言えるような親の過関心で心をゆが
めていた。B君は、いわゆる緩慢行動を示した。精神そのものが萎縮している子どもによく見ら
れる症状である。また私を足蹴りにした女の子は、そのころ父親から性的虐待を受けていた、
など。

 一方、心がまっすぐ伸びている子どもは、行動や言動が自然である。「すなお」という言い方
のほうがふさわしい。こちらの予想どおりに反応し、そして行動する。心を開いているから、や
さしくしてあげたり、親切にしてあげると、そのやさしさや親切が、スーッと子どもの心にしみて
いくのがわかる。そしてうれしそうにニコニコと笑ったりする。「おいで」と手を広げてあげると、
そのままこちらの胸に飛び込んでくる。そこであなたの子どもを観察してみてほしい。何人か子
どもが集まっているようなところで観察するとわかりやすい。もしあなたの子どもの行動や言動
が自然であればよい。しかしどこか不自然であれば、あなたの子育てのし方そのものを反省し
てみる。子どもではない。あなた自身の、だ。


●質素を旨(むね)とする

 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見
せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところで
する。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜ
いたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素という
のは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをで
きるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どもの
イスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、も
のを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通い
あう生活を、質素な生活という。

●うしろ姿を押し売りしない

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。

子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでや
った」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自
立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どう
して子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。

●死は厳粛に

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それ
がたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、
それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつか
うようになるかもしれない。

しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そういうあなたの姿から、生
きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれない」と書くのは、あくまでも
そうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判断するにせよ、その大前提
として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。


●一喜一憂しない

 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多く
の人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。

 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂
しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さ
あ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこ
まで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手
なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れること
ができるかということ。


●「今」を大切に

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努
力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝
かせて生きていくこと。

たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小学校教育は中学校へ入
学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのではない。こうした未来のため
に、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、「今」という時を、自分の
ものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、
精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、
豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づ
けば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人
生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だ
から、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえ
すが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。


●『休息を求めて疲れる』

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。
長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車
に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がつ
いた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの
一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って
休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはた
してしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれ
ば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間を
あとにずらせばよい。


●生きる源流を大切に

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、
解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が
助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私
は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができ
た。

不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きている
だけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみると
よい。それですべての問題は解決する。


●友を責めるな(中日新聞発表済み)

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。

友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子
どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子ども
は窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうする
か。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。

そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相
手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つ
まりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育て
の中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。

自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思
うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先
進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。


●仕事に誇りを

 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたの
お父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんし
か、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けな
してはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間
一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言って
いた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをそ
の母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。

「あんたのお父さんは、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところ
で、それが何になるのか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあって
も、プラスになることは、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこ
と、母親の指示にも、従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感
を与え、子どもを伸ばす。

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これに関連して、中日新聞掲載記事から
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●未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。

原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。

「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

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●逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。

あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいに
は、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園
の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべて
もって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐる
みのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その
目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の
立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと
きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ
ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい
う次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。


●守護霊にならない

 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊
んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親
は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たち
にも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに
服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自
立させる。


●同居は、出産前に

ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査を
してみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわか
った。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から
同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっ
ていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居し
たほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくあ
る。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)が
あきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「お
ばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみ
れば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろん
そうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。


●許して忘れる
 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われ
るようになった。うれしいことだ。

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もう、一〇年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
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●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。

が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、
春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そ
のものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれる
だけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい
た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種
はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」
というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおす
ようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、そ
れまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩
んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳
半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならな
い。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
 

●三種類の愛

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。

本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

 つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。

一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し
たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。

英語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、
また子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、ま
さに真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは
親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、
騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛
するようになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●見栄は、目つぶし

狭い世界に住んでいると、どうしても見栄をはる。だいたい、人間というのは、自分と対等の相
手を、気にする。言いかえると、今、自分がどんな人間を相手にしているかがわかれば、それ
があなたのレベルということになる。そこであなたは、どんなとき、どんな相手に見栄をはるか、
少しだけ頭の中に、思い浮かべてみてほしい。そしてその相手が、レベルの高い人であればよ
い。しかしレベルの低い人であれば、長い時間をかけて、あなたもそのレベルの低い人になる
から、注意する。

 もっとも、見栄などはっても、意味はない。もっと言えば、自分のない人ほど、見栄をはる。自
分をかざる。ごまかす。隠す。あなたのまわりにも、見栄をはる人は多いと思うが、そういう人
ほど、自分がない。あるいは心のさみしい、つまらない人とみてよい。

 実のところ、私の息子の一人が、O国から帰国後、しばらく、就職先が決まらなく、道路工事
の旗振りの仕事をしたことがある。「もっと楽な仕事があるだろう」と、私とワイフは息子にそう
言ったが、息子はこう言った。「こういうきびしい仕事をしておけば、あとはどんな仕事をしても、
楽になる」と。

私ができることと言えば、せいぜい日焼け止めクリームを、そっと用意してあげることでしかな
かった。そのときのことだ。息子はこう言った。「パパは、ぼくがこんな仕事をするのを恥ずかし
くないか?」と。

 私には、もう「恥ずかしい」という意識は、どこにもない。あるわけがない。だいたい、だれに
恥ずかしがらなければならないのか。近所の人にしても、親類にしても、私の生徒の親にして
も、私が相手にしなければならないレベルではない(失礼!)。私も小さな人間だが、そういう人
たちを、とっくの昔に超えている(失礼!)。そこで私は息子にこう言った。「がんばれるだけが
んばれ。だれかがお前を笑ったら、私がそいつを、たたきのめしてやる!」と。

 見栄を気にすると、自分の姿が見えなくなる。そして自分の子どもを見失う。見栄はめつぶ
し。わかりやすく言えば、「見栄など、クソ食らえ!」ということか。私は私で生きる。あなたはあ
なたで生きる。そういうわかりやすさが、私を光らせ、あなたを光らせる。つまるところ、生きる
ということは、いかに自分であるかで決まる。他人の目の中で生きれば生きるほど、自分を失
うことになる。はたから見ても、それほどつまらない人生はない。

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●ミルクは泣いてから与える

子育てはリズム。そのリズムが、子どものリズムと合っていればよし。そうでなければ、子ども
が親のリズムに合わせることができない以上、親が子どものリズムに合わせるしかない。

 たとえば赤ん坊が泣いてから、ミルクを与える親がいる。泣く前にミルクを与える親もいる。

 たとえば子どもが、「行きたい」とせがんでから、英語教室へ入れる親がいる。子どもが求め
る前に、英語教室へ入れる親がいる。

 たとえば子どもが、「もっと勉強したい」と言ってから、塾へ入れる親がいる。子どもが望む前
から、塾へ子どもを押し込む親がいる。

 こんな親がいた。あと少しで夏休みというときのこと。母親が分厚いパンフレットをもってき
て、こう言った。「先生、うちの子(小3男児)は、ああいうグズな子でしょ。だから夏休みの間、
洋上スクールへ入れようと思うのですが、どうでしょうか?」と。そこで私が、「本人は行きたが
っているのですか?」と聞くと、「いえね、先生、それで困っているのです。本人は、行きたくない
と言って、私を困らすのです」と。

 こうしたリズムは、一度できると、それがずっとつづく。一生つづくといっても、過言ではない。
親は、いつまでたっても、心配先行型の子育てをする。その結果、子どもはいつもそういう親
に、引き回されるだけ。自立心の弱い子どもになる。あるいは自分で自分を律することができ
ないから、どこか常識ハズレになりやすい。親から見れば、「グズな子」ということになる。

 そこでテスト。もしあなたの子どもが、ベッドで寝る直前になって、「明日の宿題をやっていな
い」と言ったとする。そのとき、あなたはどうするだろうか。

 子どもを起こし、宿題をいっしょに片づけてやる親もいる。あるいは反対に、「あなたが悪い
から、明日、学校で先生に叱られてきなさい」と言って、そのまま寝させる親もいる。これもリズ
ムで決まるが、もしあなたのリズムが、子どものそれと違っているようなら、今日からでも遅くな
いから、子どものリズムで歩いてみるとよい。方法は簡単。子どもを子どもとしてみるのではな
く、友として、その横を歩くようにすればよい。そしていつも「あなたは何をしてほしい」「あなた
は何をしたい」と静かに語りかければよい。

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●みんな、不安

子育てをしていて、不安でない人のほうが少ない。前提として、みんな、不安と考えてよい。つ
まり、不安なのは、あなただけではない。

 「うちの子は、ちゃんとおとなになれるかしら」「ひとりで、だいじょうぶかしら」「交通事故は?」
「けがは?」と。学校へ入れば、今度は「勉強は、だいじょうぶかしら」「いじめれれるのではな
いかしら」「不登校児になるのではないかしら」「落ちこぼれるのではないかしら」と。

さらに、このところ国際情勢もあやしくなってきた。経済情勢も悪い。子どもを取り巻く環境は、
悪化することはあっても、よくなることは何もない。「紫外線は?」「化学物質は?」「環境ホルモ
ンは?」などなど。その上、連日のように、暗い事件がつづく。コンビニの前を通ると、どうも素
性のよくないような若者が、たむろしている。「うちの子はだいじょうぶかしら?」と。

 こうした不安と戦う唯一の方法は、自分の子どもを信ずること。また信じられるように、親側
の心を整える。またそういう子どもに、子どもを育てる。「うちの子は、うちの子で、たくましく、何
とかやっていくだろう」という思いが、親の不安を解消する。が、それがないと、あとは、何をし
ても、その不安から解放されることはない。

 しかし、実のところ、自分の子どもを信ずることは楽ではない。簡単なことでもない。それ自体
が、子育ての大きな「柱」といってもよい。つまり子育ての目標のすべてが、ここに集約される。
しかし方法がないわけではない。

(1)子育てを楽しむ……「子どもを育てる」「育ててやる」と考えるのではなく、「子どもといっしょ
に、友として、人生を楽しむ」という視点で、子育てを組み立てる。私も長男が生まれたとき、
「いつかこの子と、会話ができるようになればいい」と本心からそう思った。

(2)「あなたはいい子」を口グセにする……いつも「あなたはいい子」を口グセにする。子どもと
いうのは不思議なもので、親の口グセどおりの子どもになる。長い時間をかけてそうなる。あな
たが「うちの子はグズだ」と思っていると、あなたの子どもは、そのグズな子どもになる。が、「い
い子」と思っていると、そのいい子になる。最初はウソでもよいから、そう言う。言いつづける。

(3)親子のパイプを大切にする……同じような不安を感じても、親子のパイプが太いうちは、い
っしょにそれを乗り越えることができる。助けあい、励ましあい、いたわりあい、なぐさめあう。そ
ういう意味で、家庭は、子どもにとっては、いこいの場、いやしの場とする。子どもがある程度、
大きくなったら、こまごまとしたしつけを、家庭の中ではしていはいけない。

(4)なるように任せる……子どもというのは、何とかしようと思っても、そうならないときは、なら
ない。しかし何もしなくても、自分の力で育っていくもの。自分のことならともかくも、親としては、
子ども自身の中に感ずる、子どもの運命に、任すしかない。さからってもムダ。流れを変えよう
としても、ムダ。あるがままを認め、そのあるがままの中から、子どもを引き出す。仮に子ども
が不登校児になっても、「まあ、そういうこともあるわね」「うちの子はうちの子」という思いが、
子どもの心を守る。あなた自身の心を守る。

(5)「今日」を維持する……大切なことは、こうした不安を感じたら、「今日」の状態をより悪くし
ないことだけを考えて、明日にそれをもっていく。その今日が無事なら、明日も無事。来週も、
来月も、来年も無事。今日があるように、明日も同じようにやってくる。決して不安になること
も、心配することもない。流れに静かに身を任せば、明日は必ずやってくる。自分のことならと
もかくも、子どものことではそうする。

(6)視野を広く、大きく……こうした不安は、視野がせまく、低くなったとき、倍加する。だからい
つも視野を広く、高くもつ。子育てをしていると、つぎからつぎへと、いろいろな問題が起きてく
る。しかしそのとき、そういう問題に、同じレベルで巻き込まれると、自分を見失ってしまう。こ
れはまずい。どんなばあいも、自分をできるだけ高い位置から見おろす。そのために、日ごろ
から、子育てについて考える習慣をなくしてはいけない。






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●惑星ロマン

●太陽系に10番目の惑星

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 この太陽系で、第10番目の惑星が見つかったそうだ。
 発見したのは、アメリカ・カルフォルニア工科大学の教授。
 1930年に、冥王星が発見されて以来の、「快挙」(中日新聞)
 だ、そうだ。

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 中日新聞は、つぎのように伝えている(05年7月30日)。

 「カリフォルニア工科大の天文学者、マイク・ブラウン教授らの研究チームは、29日、太陽系
で十番目となる「新惑星」を発見したと発表した。すでに国際天文学連合に申請しており、認め
られれば、1930年に冥王星が発見されて以来、75年ぶりの快挙となる。

 新惑星は、カイパーベルトと呼ばれる小惑星帯の中にあり、太陽の周りを楕円(だえん)を描
いて周回。最も外側では、太陽から地球の距離の97倍に当たる約150億キロに達し、冥王
星と比べても三倍以上も離れている。

 直径は、冥王星(約2300キロ)の1・5倍以上と推定。地球(約1万2700キロ)より小さい。
冥王星同様、岩と氷でできているとみられ、太陽を、560年かけて周回する。

 もう少しわかりやすく、データを、整理してみると、こうなる。

(1)直径は、約3450キロ(冥王星の、約1・5倍)以上。
(2)冥王星に似て、岩と氷でできている。
(3)太陽を、560年かけて周回する。
(4)他の惑星と軌道の傾きが、45度ちがう。
(5)長楕円を描いて、太陽系の中を、周回する。

 この第10番目の惑星発見の報道で、まっ先に思いだしたのが、シュメール人たちが書き残
した古文書。それについて詳しく書いているのが、ゼラリア・シッチンという人が著した、「謎の
惑星(ニビル)と火星超文明」(著・学研)という本。

それによれば、シュメールの古文書には、すでに第10番目の惑星のみならず、この太陽系が
生まれる過程が書いてあったという。年代的には、5500年ごろ前ということになるだろうか。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていたのか。そ
ういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹介しよう(要約)。

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、と。

 シュメール人が残した古文書によれば、地球と月は、ティアトマという惑星が、太陽系の外か
らやってきたニビルという惑星と衝突してできた、ということになる。

にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動説よりは、ずっと、どこか科学的であ
る。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができない天王星や海王星、さらには冥王星まで
シュメール人たちが知っていたとは!

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。肉眼で見えるのは、せい
ぜい土星まで。天王星や海王星などは、近代になって発見された。冥王星が発見されたの
は、ごく最近のことである。

 もちろん、今回発見された惑星X(「X」には、10番目という意味もある)が、シュメール人たち
が言った、「ニビル」のことだとはかぎらない。ただ類似点は、多い。

 とくに、太陽系内を、長楕円を描いて周回するという点。それに軌道の傾きが、45度、傾い
ているという点。

 シッチンは、つぎのような文書があることを証拠に、惑星ニビルも、他の惑星とは違った傾き
で、周回していたと説明する。

 惑星マルドゥク
 出現は水星
 30度上昇して木星
 天上の戦いの場に立つときは
 ニビル、と。

 意味がよくわからないが、シッチンの解釈によれば、こういうことだそうだ。

 「水星の位置に出現したニビルは、天弧(てんこ)を、30度上昇して、木星の位置に移動す
る。このような動きは、ニビルの軌道平面が、黄道面に対して、30度傾いているからこそ、可
能である」(同書(下)P204)。

 何とも、ロマンに満ちた話ではないか。おまけにシュメール人の伝説によれば、この惑星ニビ
ルこそが、我々地球人を生みだした知的生物が住んでいる星だという。少なくともシッチンは、
そう書いている。

 惑星Xは、はたしてその惑星ニビルなのか? 本当に知的生物が、住んでいるのだろうか?
 

 それを考えていると、暑い夏の夜も、結構、楽しくなる。

 ところで、この地球は、シュメールの古文書によれば、「第7番目の惑星」だそうだ(同、
(下)、P135)。

 シュメール人が残した円筒印章には、地球は、7つの点で表されている。(火星は、6角形の
星で表されている。)

 太陽を中心に、太陽から数えると、地球は、水星、金星……と、第3番目の惑星ということに
なる。

 しかし反対に外から、冥王星、天王星……と数えていくと、火星は、第6番目の惑星。地球
は、第7番目の惑星ということになる。視点そのものが、太陽系の外にあるのが、おもしろい。
その惑星の間を、ニビルは、長楕円の軌道上を周回していることになる。

 百歩譲って、シュメール人たちが、天王星、海王星、冥王星の存在をすでに知っていたという
だけでも、驚きである。そのあたりのことについて詳しく書くのは、またの機会にして、ともかく
も、今回の第10番目の惑星が発見されたというニュースは、謎とロマンに満ちた、楽しい話で
あることには、ちがいない。

+++++++++++

私が、シュメール人に興味を
もつようになったのは、実は
東洋医学の勉強をしていたと
きのことである。

シュメールでは、「神」のこと
を「ディンギル(dingir)」
と呼んでいた。

楔形文字で、「米」に似た文字を
書く。

同じく中国でも、「帝」のこと
を、甲骨文字で、「米」に似た
文字で書いていた。

今でも、「帝」は、「di」と発音
する。

ともに星(米は、星を意味する)
からきた人を意味する。

つまり文字の意味、発音、形の
三つが、たいへんよく似ている
ということ。

これは偶然の一致といってよいの
だろうか?

ちょうど2年前に書いた原稿を
そのまま、ここに転載する。

+++++++++++++++

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文
明を築いた、シュメール人には、ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、こ
この目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな変
化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、サ
ルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の二つのクレータ
ーがあることを知った。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描い
たような真円である。

 そこで二つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3.2センチ! 実際の直
径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数一〇万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセント
にすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレ
ーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、二つのクレーターである。

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
だ。

 この二つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の二つが、
合体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●夏の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにサルに知恵だけ
与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間は宇宙のカ
ビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自分の中で、
ウズを巻く。

 あさっても、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、どこまでも
明るい。

【補記・05年7月31日・記】

 同じような真円に近いクレーターが、たとえば、火星の衛星のフォボスにもある。それについ
ては、以前に書いた。

 私は、こうしたクレーターは、たとえば隕石の衝突のようなものでできたのではないと思う。つ
まり人工的なものだと思う。

 では、何のためか?

 私はある種の、推進装置ではないかと思っている。「推進装置」という言い方も、少しヘンだ
が、つまりこういうこと。

 このクレーターの中心部で、大きな爆発を起こす。するとクレーターそのものが、推進装置と
なって、月にせよ、フォボスにせよ、反対側にそれを動かす力となって、働く。

 いつか人類が、宇宙へ飛び出したとき、もっとも安全な宇宙船は、といえば、こうした隕石を
改造した宇宙船である。

 大きな隕石を、宇宙のどこからかもってきて、中をくりぬく。そしてその中に、居住空間をつく
る。

 そうすれば、有害な放射線や、こまかい隕石やゴミから、中に住む人類を保護することがで
きる。建造費も、安くすむ。適度な引力があれば、さらに住みやすい。

 で、そのとき、その隕石型宇宙船の推進装置として働くのが、ここでいうクレーター型の推進
装置である。この中央で、何らかの爆発を起こせば、その宇宙船は、その反作用で、反対側に
動き出す。どこか原始的な方法に見えるかもしれないが、もっとも、確実で、簡単な方法であ
る。

 ……以上、私の勝手な空想。夏の夜のロマンに、この話も加えてほしい。

(写真などは、楽天日記・05年7月31日付けに収録しておきました。
興味のある人は、どうか、そちらで見てください。)





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●管理・規則は家庭教育の敵

 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な
親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!)

 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、
いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つ
まり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。

 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がい
る。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限につい
て。

 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切な
のは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもあ
る。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関
係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題な
のは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そう
なれば、ますます信頼関係は崩壊する。

 が、それだけではない。

 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪
の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処
のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちてい
く。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族
の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買った
ものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。

+++++++++++++++++++++++++
これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
ここに転載します。
++++++++++++++++++++++++++

親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない
 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者と
なり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そ
ういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほ
ど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ
来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配
者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。

「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。

三〇年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。こ
れはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではない
が、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、

 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、

 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型             ……一5%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。




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【常識の敵】

●幻想、幻惑、誤解、無知

 人の常識を狂わすものに、4つある。

 幻想、幻惑、誤解、無知。

(1)幻想

 幻想は、あらゆるものに、ついて回る。夢や希望も、基本的には、幻想と考えてよい。さらに
その幻想がふくらんだものが、妄想ということになる。

 夢や希望があるから、人は生きられる。目的も、そこから生まれる。だから大きな夢や希望
をもつことは、悪いことではない。大切なことは、どこまでが現実であり、どこから先が、幻想で
あるか、その一線をしっかりと心の中に引くことである。

 たとえば私は、今、UFOに関する本を、何冊か買ってきて読んでいる。しかしだからといっ
て、どこかのUFO教団のように集会に参加してみたいとか、あるいは交霊会よろしく、UFOと
のコンタクトを試みる会に、参加してみたいとは思わない。

 「ホホー」と楽しむのは、そのときだけ。本を閉じたとたん、UFOのことは忘れる。

(2)幻惑

 人間が勝手につくりあげた「関係」や「組織」の中で、精神的にしばられるということは、よくあ
る。私がよく取りあげる、『ダカラ論』も、その一つ。

 「親だから……」「家族だから……」「兄だから……」と。

 その相手との関係が良好であれば、『ダカラ論』も、うまく働く。幻惑といっても、たいていのば
あい、よりよき人間関係をつくる基盤となって働く。しかし、ひとたびその関係にヒビが入ると、
今度は、その人を苦しめる原因となってしまう。

 幻惑は、いわば両刃の剣ということになる。

 この幻惑が強く働くようになると、よいばあいも、悪いばあいも、常識の基準がわからなくな
る。

 「お前は長男だから、家のあとを継げ」と言われたとする。それを言う方にとっては、常識かも
しれないが、言われたほうにとっては、それが足かせになることもある。そして無理に家を飛び
出したりすると、自由を得るのと引きかえに、今度は、その幻惑に苦しむことになる。

 ある地方では、そうして家を飛び出した人を、「親捨て」と呼ぶ。そうでない地方の人には、た
だの言葉かもしれないが、その地方では、そうでない。一度、「親捨て」のレッテルを張られる
と、親戚、兄弟はもとより、近所の人たちからも、白い目で見られるようになるという。

(3)誤解

 あらゆる事実には、誤解が、ある。まず、そう疑ってかかってみてよい。この世の中には、誤
解のないものはない。知り尽くしたと思っても、その前には、まだ先がある。自分の歩いてきた
道を振りかえってみても、そこは穴ぼこだらけ。その空白部分から生まれるのが、誤解というこ
とになる。

 誤解から解放されるためには、どうすればよいのか。先日も、ある講演先からの帰り道、ふ
と、ワイフに、こう言った。

 「このところ、講演をしていても、以前のように自信たっぷりに、ものを話せなくなってしまっ
た」と。

 ワイフは、「年のせいよ」「元気がなくなってきたせいよ」とか言って、なぐさめてくれる。

 しかし本当のところは、自信がなくなってきた。たとえば5年前、10年前に話したことを思い
浮かべてみると、こんなふうに、思う。「よくまあ、あんなまちがいだらけのことを、堂々としゃべ
ったものだ!」と。

 そんなわけで、講演となると、どうしても、最大公約数的な部分だけを、遠慮がちに話すという
ことになってしまう。最近の私は、とくにそうだ。誤解のもつ恐ろしさというか、それを人に伝える
ことの恐ろしさというか、それがわかるようになった。

(4)無知

 無知は、それ自体が、罪悪である。無知であることを、居直ってはいけない。無知であること
に、無関心であってはいけない。

 無知であることを、もっと、人は、謙虚に恥じなければならない。それだけではない。無知は、
さらに大きな害毒を産む。

 が、その無知の中でも、一番警戒しなければならないのが、自分への無知。この(自分)とい
うのは、その自分を知れば知るほど、ますます、その自分がわからなくなる。よく「私のことは、
私が一番よく知っています」と言う人がいる。

 しかしそう言う人にかぎって、実は、自分のことが何もわかっていない。私はこのことを、子ど
もの世界を通して、知った。

 ある母親が、あるとき、こう言った。「うちの息子のことは、私が一番、よく知っています」と。

 しかしその母親は、何も、わかっていなかった。その子どもの心が、母親が原因で、病み始
めていることすえら、気づいていなかった。そこでやんわりと、それとなくそれを指摘すると、そ
の母親は、こう言った。

 「この子は、生まれつき、ああです」と。

 生まれつきそうなのだから、私の責任ではないと言いたかったのか。その母親は、「機質的
な問題」という言葉も使った。

 そこで「無知の知」という言葉が生まれた。「無知であることを知る」という意味である。ソクラ
テス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスにまつわる話という説もある。どちらにせ
よ、「私は何も知らないということを知ること」を、無知の知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 話が繰りかえしになってきたので、この話はここまでにしておく。要するに、無知であることを
居直ってはいけない。無知は、それ自体、罪悪である。
(はやし浩司 常識の敵 無知の知 幻想 幻惑 誤解 無知)

+++++++++++++++++

無知の知について書いた原稿があります
ので、ここに、掲載します。
文章が、少し(荒い)ですが、どうか
お許しください。

+++++++++++++++++

●生きることの意味

 生きることの意味について、考えた。

 その意味は、いくつかある。それらを分類すると、こうなる。

(4)人との触れあい
(5)自然とのかかわり
(6)未来への展望性

(1)の「人との触れあい」というときの「人」には、家族、兄弟、親類、友人、社会人、その他、も
ろもろのすべての人が含まれる。

 こうした人たちと、心豊かな関係を結ぶ。それが第一。

 つぎに(2)「自然とのかかわり」。この世に生きるということは、すなわち、この世とのかかわ
りをいう。五感で感ずる世界、すべてをいう。「自然」という言葉を私は使ったが、その世界とい
うのは、私たちの体や心を包む、すべての世界をいう。

 三つ目に、(3)「未来への展望性」。私たちがなぜ生きるかといえば、私たちの経験や知識
を、つぎの時代の人たちのために、生かすことである。子育ては、その中でも、もっとも身近
な、一つの例ということになる。が、それだけでは、足りない。

 今の「私」や、「あなた」が、なぜ心豊かに生きることができるかといえば、それはすなわち、
先人たちが、その経験や知識を私たちに、残してくれたからである。

「先人」といっても、100年前、1000年前の人たちをいうが、つまり、今度は、私たちが、それ
をつぎの世代のために残す。そうすることによって、つぎの世代が、さらに心豊かな人生を送る
ことができる。

 私たちは、数十万年という、まさに気が遠くなるほどの年月を経て、ここまで進化した。しかし
その進化は、ここで完成されたわけではない。言うなれば、まだその途中。あるいはやっと、大
きな山のふもとにたどりついたような状態かもしれない。

 しかし不完全で、未熟であることを、恥じることはない。大切なことは、不完全で、未熟である
ことを、自ら認めることである。決して、傲慢(ごうまん)になってはいけない。おごり高ぶっては
ない。

 私たちは、不完全で、未熟なのだ! それをすなおに認め、謙虚に反省する。そしてその上
で、自分のあるべき姿を、組みたてる。

 これからも人間は、うまくいけば、このあとも、何千年、何万年と生きていかれる。決して今
を、最高と思ってはいけない。頂点と思ってもいけない。さらに人間は、前へ前へと進む。

 しかし、この地球には、実にオメデタイ人がたくさんいる。

 まるで自分が、神や仏にでもなったかのように、ふるまう人たちである。しかしそんなことは、
ありえない。1000年後でも、1万年後でも、ありえない。ありえないことは、人間というより、地
球、地球というより、宇宙の歴史をみればわかる。あるいは、この宇宙の広大さをみれば、わ
かる。

 ……と考えていくと、生きる意味の中で、もっとも大切なのは、この三番目の「未来への展望
性」ということになる。

 もし私やあなたが、私だけの人生を生き、あなただけの人生を生きたとしたら、それはほとん
ど意味がない。ないことは、そういう生き方をした人をみれば、わかるはず。そういう生き方をし
て、死んだ人をみれば、わかるはず。彼らはいったい、何を残したか?

 つまりその「残す」部分に、生きる意味がある。

 悲しいかな、もっとはっきり言えば、私たちは、たとえていうなら、リレー競技で使う、バトンに
過ぎない。過去の人たちから受け取り、そしてそれを、つぎの世代の人たちに渡していく。それ
以上の意味はないし、またそれができれば、まさに御(おん)の字。じゅうぶん。たくさん。いや、
それを超えて、私たちは、いったい、何を望むのか。何を望むことができるのか。

 そこで私たちが、今、すべきことは、先人たちの経験や知識に、謙虚に耳を傾け、よりよい人
間関係をつくり、よりよい環境を、身のまわりにつくることである。

 もっとも、これは100年単位、1000年単位の話である。30年とか60年とかいう、一世代、
二世代単位の話ではない。身のまわりの、ささいな変化にだまされてはいけない。私たちが考
えるべきことは、「100年前の日本人より、より心豊かな生活ができるようになったか」というこ
と。「1000年前の人間より、より心豊かな生活ができるようになったか」ということ。そういう視
点で、ものを考える。

 若い人は、その年齢に達すると、いきおい、「生きる意味」を求める。私もそうだった。多分、
あなたもそうだったかもしれない。「なぜ、私は、ここにいるのか」「なぜ、私は、生きているの
か」と。

 しかしその答は、永遠に人間は、知ることはないだろう。が、もし、視点を変えて、「私はバト
ンだ」と思えば、その答は、何のことはない、すぐ私やあなたのそばにあることを知る。

 私やあなたは、今、ここにこうして生きている。少なくとも、この文章を読んでいる、あなたは、
ここにこうして生きている。もし生きる意味があるとするなら、今を懸命に生きて、そしてそれか
ら得られた知識や経験を、ほんの少しでもよいから、つぎの世代に伝えることである。

 いつか、その時期はわからないが、いつか、人間が、すべて神や仏のようになる日が、やっ
てくる。必ず、やってくる。1万年後か、10万年後か、それはわからない。しかしその日をめざ
して、私たちは、とにかく前に向って進む。進むしかない。それが「生きる意味」ということにな
る。

 このつづきは、もう少し、時期をおいてから考えてみたい。
(はやし浩司 生きる意味 意義 生きる目的)


●三つの自己中心性

 自己中心性は、それ自体が、精神の未発達を意味する。(精神の完成度は、他人への同調
性、他人との協調性、他人との調和性で知ることができる。自己中心性は、その反対側に位
置する。)

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の精神の完成度は、低いとみる。

 これについては、もう何度も書いてきたので、ここでは、その先を書く。

 この自己中心性は、(1)個人としての自己中心性、(2)民族としての自己中心性、(3)人間
としての自己中心性の三つに、分かれる。

 たとえば、「私が一番、すぐれている。他人は、みな、劣っている」と思うのは、(1)の個人とし
ての自己中心性をいう。つぎに「大和民族は、一番、すぐれている。他の民族は、みな、劣って
いる」と思うのは、(2)の民族としての自己中心性をいう。そして「人間が宇宙の中心にいる、
唯一の知的生物である」と思うのは、(3)の人間としての、自己中心性をいう。

 この中でも、一番、わかりやすいのは、(3)の人間としての、自己中心性である。

 しかし人間は、宇宙の中の、ゴミのような星に、かろうじてへばりついて生きている、つまり
は、(カビ)のような生物にすぎない。だれだったか、少し前、(地球に張りつく、がん細胞のよう
なもの)と表現した人もいる。

 (だからといって、人間がつまらない生物だと言っているのではない。誤解のないように!)

 たとえば、今、私たちの視点を、宇宙へ置いてみよう。すると、ものの見方が、一変する。

 この広大な宇宙には、無数の銀河系がある。そしてそれぞれの銀河系には、これまた無数
の星がある。その数は、浜松市の南にある、中田島砂丘にある、砂粒の数より多いといわれ
ている。(実際には、その数は、わからない?)

 太陽という星は、その中の一つにすぎない。

 で、私たちが住む、この地球は、その太陽という星の、これまたチリのような惑星に過ぎな
い。

 これが現実である。疑いようもない、現実である。

 こういう現実を前にして、「人間が宇宙の中心にいる、唯一の知的生物である」と言うのは、
実にバカげている。

 で、こういう視点で、こんどは、民族としての自己中心性を考えてみる。……と、考えるまでも
なく、民族としての自己中心性は、実にバカげているのが、わかる。こんな小さな地球上で、大
和民族だの、韓民族だの、さらには、白人だの黒人だのと言っているほうが、おかしい。

 さらに、個人の自己中心性となると、バカげていて、話にならない。

 そこで話をもとにもどす。

 宇宙的視点から見ると、細菌とアメーバの知的レベルが、私たち人間には、同じに見えるよ
うに、人間とサルの間には、知的レベルの差は、まったくない。人間は、「自分たちはサルとは
違う」と思っているかもしれないが、まさにそれこそ、人間が、人間としてもっている自己中心性
にすぎない。

 人間としての完成度は、人間が、他の動物たちと、どの程度までの同調性、協調性、調和性
をもっているかで決まる。

たとえば森に一本の道を通すときでも、どの程度まで、そこに住む、ほかの動物たちの立場で
ものを考えることができるかで、その完成度が決まる。「ほかの動物たちのことは、知ったこと
か!」では、人間としての完成度は、きわめて低いということになる。

 さらに話を一歩進めると、こうなる。

 私たち人間は、バカである。アホである。どうしようもないほど、未熟で、未完成である。「万
物の霊長類」などというのは、とんでもない、うぬぼれ。その実体は、まさに畜生。ケダモノ。

 そういう視点で、私たちが自らを、謙虚な目で、見なおしてみる。たとえば人間としての、欠
陥、欠点、弱点、盲点、そして問題点を、洗いなおしてみる。少なくとも、私たち人間は、(完成
された動物)ではない。そういう視点で、自分を見つめてみる。

 つまりは、それこそが、人間としての自己中心性を打破するための、第一歩ということにな
る。

【追記】

 『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスに
まつわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないということを知ること」を、無知の
知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなことがあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーといいます」
と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャーではなく、カレン
ダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見ているんだ
ろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カレンダーも知ら
ないのオ?」と。

 私は、ま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣さの
中に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだって、無数
の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そしてその状態は、庭
に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのではない
か。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわない?
 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわないと思って
いる。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったとしても、
自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、気づいていない
からである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見ればよいと
いうこと。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、結局は、自分を知
ることの第一歩ということになる。
(はやし浩司 ソクラテス 無知の知)




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●意識のちがい

+++++++++++++++++

意識ほど、やっかいなものはない。
そこはまさに、映画「マトリックス」の世界。
一方の側から見ると、一方の側がまちがって見える。
しかしその相手の側から、今度は自分を見ると、
それまでの自分が、まちがって見える。

意識には、そういう側面がある。

+++++++++++++++++

 意識のちがいを知る、一番よい方法は、「裸」文化を知ることである。「裸」に対する意識ほ
ど、国によって、ちがうものはない。

 たとえば36年前、私はオーストラリアへ行って、それを知った。当時、向こうの女学生で、ブ
ラジャーをつけているものは、ほとんど、いなかった。薄い、それこそ乳首が見えそうなくらい薄
いシャツを着て、平気で、通りを歩いていた。

 今でこそ笑い話になるが、私にも、こんな経験がある。

 金沢での学生時代のこと。よく通訳のアルバイトをした。そんなあるとき、カナダ人だったと思
うが、一組の夫婦が、娘を連れて、金沢へやってきた。が、その娘が、今でいうタンクトップの
ような服を着ていた。年齢は、18歳くらいではなかったか。当時の日本の女性で、そんな服装
で街を歩く女性はいなかった。

 私は通訳をしながら、ときどき、歩けなくなってしまったのを、覚えている。目のやり場がない
というのは、そういうときの状態をいう。恥ずかしいなどというものではなかった。どうして私が
歩けなくなったかは、改めてここに書くまでもない。

 で、先週、イギリスのロンドンで、こんなことがあった。

 ある芸術家の呼びかけで、数千人の一般市民が、素っ裸で、ロンドンの街の中を行進したと
いう。男も女もない。写真でみるかぎり、老いも若きもない。欧米人が、日本人とはちがった裸
文化をもっているということは、若いころから知っていた。それを改めて、私は、思い知らされ
た。

 ……ということを書くのが、ここでの目的ではない。

 私たちは、それぞれのことがらについて、それぞれの意識をもっている。

 家族意識、夫婦意識、仕事意識、仲間意識など。「同じ人間だから、それほどちがわないだ
ろう」と思いたいが、こうした意識は、時代、国、地域によって、みな、ちがう。子育てに対する
意識とて、例外ではない。

 私たちが今もっている意識というのは、そういうもの。またそういう前提で考えないと、ときに
は、まちがった意識をもってしまう。そしてそのまちがった意識に、振りまわされてしまう。

 たまたま今夜も、数人の母親たちと、こんな会話をした。みな、小学生の子どもをもつ母親た
ちである。

 このところ、再び、受験戦争が過熱し始めている。夏休みに入って、子どもたちは、毎日、午
前と午後、計5時間の勉強をしているという。母親たちは、その話をした。「夏休みになったの
に、学校の勉強より、きびしいです」と。

 しかし意識というのは、こわい。

 どの親も、目が前にしかついていない。前だけしか見ない。見えない。子どもを伸ばす(?)こ
とだけしか考えていない。

 親として、それは当然かもしれないが、その一方で、子どもの心を破壊していることには、気
づいていない。どの母親も、「うちの子にかぎって……」「まさか……」と思っている。が、そうい
う受験競争の中で、キズつき、もがいている子どもは、多い。そしてそのうちの何割かの子ども
は、途中で、ドロップアウト。夜な夜な、コンビニの前で三角すわりをしながら、タバコを吸うよう
になるかもしれない。そういう危険性には、気づいていない。

 私は、ただ「慎重にしたほうがいいですよ」とだけ言ったが、どこまでわかってもらえたことや
ら? 子どもを決して、競走馬の馬のようにしてはいけない。時間はかかるかもしれないが、子
どものやる気をじょうずに育てながら、子ども自身がその目的に向かって進むようにする。

 が、それでも、だめなら……、つまり親の期待からはずれていくようなら、あとは、あきらめ
る。あきらめて、「まあ、うちの子はこんなもの」と、割り切る。子どもというのは不思議なもの
で、「まだ何とかなる」「こんなはすはない」と、親ががんばっている間は、伸びない。しかし親が
あきらめたとたん、そのあとしばらくしてから、伸び始める。

 私たちには、私たちの意識がある。子育てというのは、こういうものという意識。教育というの
は、こういうものという意識。しかしこうした意識は、決して、普遍的なものでもなければ、また
世界の標準でもない。

 日本人がもつ意識が、まちがっているとか、おかしいというのではない。ただ、ときには、そう
いう意識も、疑ってみる必要があるということ。方法は、簡単。

 「本当に大切なものは、何か」「その本当に大切なものを、守り育てていくためには、私たち
は、どうあるべきか」と、それを自分自身に問いかけてみる。

 もちろんこの日本には、歴然たる受験戦争がある。この受験戦争がなくなったら、日本の教
育そのものが、崩壊するかもしれない。

 しかしなぜ、こうした受験戦争があるかといえば、これまた歴然たる不公平社会がある。努力
し、能力のある人が、それなりの生活をするのは、しかたないことかもしれない。しかしそうでも
ない人たちが、一般庶民の何倍もの給料を手にして、楽をしている。人生の入り口で、たった
数日の試験で合格したというだけで、それが大きな差となって現れる。だから親たちは、自分
の子どもを、受験勉強に、しむける。「勉強しなさい!」と。

 が、そのときでも、心のどこかで、いつも「何が大切か」を考える。その小さなブレーキが、い
つかやがて子どもの心を守る。親子の絆(きずな)を守る。

 私はよくオーストラリアの友人たちと、子育てについて、話しあう。しかしいつも、その意識の
ちがいには、驚かされる。結論を先に言うと、彼らは、子どもを、生まれたときから、1人の独
立した人間とみて育てる。またそういう意識が強い。子どものできが悪くても、それを親の責任
と考える人は少ない。一方、日本では、親は、子どもを、自分のモノのように考える。だから子
どものできが悪かったりすると、それを親の責任と考える人が多い。

 こうした意識のちがいが積み重なって、結果的に、教育に対する考え方そのもののちがいと
なって現れる。

 それについて書いた原稿(中日新聞発表ずみ)が、つぎの原稿である。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは、家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ご
すということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え
られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。

日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの
語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

 意識のちがいというのは、そういうもの。
 




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【絶望論】

++++++++++++++++

人は、なぜ絶望するのか。
またその絶望から自分を
脱出させるためには、ど
うしたら、よいのか

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●限界状況

 「私はこういう人間だ」と、自分で思い描く自分。これを自己概念というが、その自己概念をも
とに、人は、一歩話を進めて、今度は、「私は、こういう人間でありたい」と思うようになる。しか
しそこにはいつも、(現実)というカベが立ちはだかる。

たとえば、いくらプロのシンガーになりたいと思っても、そこにいたる道は、けわしい。そこで多く
の人は、そういう夢や希望をもちながらも、いたるところにカベ(壁)を感じ、やがて自分の(限
界)を知る。

 こうした自分の置かれた状況を、限界状況というが、この限界状況に入ると、人は、さまざま
な選択をしながら、自分が崩壊するのを、食い止めようとする。

 わかりやすい例では、失恋がある。

 いくらこちらがその相手に好意をもっていても、相手が、「YES」と言わなければ、恋愛は成り
たたない。そこで相手が、「NO」と言ったとき、その人は、その相手との間に、越えがたいカベ
を感ずる。

 で、そのとき、もしそれがあなたなら、どういう反応を示すだろうか。

(1)「どうせ、あんな男、くだらない男よ」と、自分をなぐさめる。(=合理化)
(2)また別の男を、さがし始める。(=代用代償)
(3)いじけてしまって、引きこもってしまう。(=逃避)
(4)その男に似た、タレントや俳優を好きになる。(=置き換え)
(5)男のことは忘れて、さらに自分をみがく。(=補償)

 ほかにもいろいろあるだろう。愛と憎しみは紙一重というから、その相手を、今度はうらみつ
づけるようになるかもしれない。

 つまりこうして人は、そこにカベ(限界)を感じたとき、それによって、自分が崩壊するのを、防
ごうとする。これを心理学の世界でも、「防衛機制」という。

 しかし失恋くらいなら、それほど、その人には、大きな影響を与えない。ショックは大きいだろ
うが、それはある意味で、熱病のようなもの。だれしも経験するし、まただれしも、一度は、乗り
越えなければならないカベということになる。

 が、もう少し深刻なカベもある。自分の力では、乗り越えられないカベである。家族や友人の
死、大病、経済的破綻など。そういう重い(限界)をそこに感ずると、ここでいう防衛機制が働か
なくなる。

●現実の自分

ところでこの、(自己概念)に対して、(現実の自分)がある。この両者、つまり(自己概念)と(現
実の自分)が、一致していれば、精神は、きわめて安定した状態になることが知られている。

 私は若いころ、川の中で魚を釣っている人を見て、それを発見した。

 魚釣りの好きな人は、冷たい川の中でも、じっとがまんして、立って魚を釣っている。私は最
初、それがよく理解できなかった。「そんなことまでして、魚がほしいのか」と思ったこともある。
また、よく誤解されるが、そういうことができるからといって、その人が、忍耐力のある人という
ことにはならない。魚釣りをする人の中には、結構、短気な人が多い。

 (自分のしたいこと)をしているから、それができる。つまりその釣り人は、釣りをしながら、自
分で自分のしたいことをしながら、自分を、現実の自分と、一致させている。

 子どもの世界でも、同じことを経験する。自分のしたいことを、したいようにしている子ども
は、それがどんなことであれ、精神的には、きわめて安定している。

 が、そういう状態が、混乱するときがある。子どもの世界の話をしたので、子どもの世界で考
えてみよう。

 A君(小5)は、サッカーが好きだった。地域のクラブにも所属し、それなりに活躍していた。
が、いよいよ受験が押し迫ってきた。が、このところ成績が、おもわしくない。そこである日、A
君の母親は、A君にこう言った。

 「サッカークラブをやめて、塾へ入って勉強しなさい」と。とたん、A君は、パニック状態になっ
てしまった。が、母親は、A君の希望を、受けいれてくれなかった。「プロのサッカー選手になる
のは、東大へ入学することより、むずかしいのよ!」と。

 そこでA君は、泣く泣く、クラブをやめ、進学塾へ通うことにした。A君にしてみれば、(自分の
したいこと)が、できなくなったというだけの問題ではない。今度は、(したくないこと)を、押しつ
けられたことになる。

 言うなれば、見るのも、声を聞くのも、体に触れらるのもいや。そんな男と、なりゆきで結婚し
てしまった女性の心理に似ている。A君は、そういう状態になった。

●自己概念の喪失

 絶望感が強まると、脳の機能そのものが、変調してくる。たとえば人間の脳ミソの中でも、(や
る気)をつかさどるのは、辺縁系の中でも、帯状回という組織だそうだ(伊東正男氏、新井康允
氏ほか)。

この部分が、大脳からほどよい信号を受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的
には、帯状回が、モルヒネ様の物質を放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということ
か。つまり、大脳からのほどよい信号こそが、その人のやる気を決めるというわけである。

 が、うつ状態になると、帯状回そのものの働きを鈍らせ、さらにそれが悪循環となって、うつ
状態は、さらに進行する。

 うつ状態になったとき、こわいのは、思考力の低下に合わせて、脳の管理能力そのものまで
低下すること。自分で自分をコントロールできなくなる。かわって、ささいなことにこだわり、悶々
と悩んだりする。頭から離れなくなる。

 こうした現象、これを「固着」というが、こうした現象が起きると、正常な判断力ができなくなる
ばかりではなく、記憶力の低下、妄想性、集中力の欠如などが起きてくる。

 つまりこうしてますます客観的に自分を見ることができなくなってしまう。たとえばストレスがが
たまると、免疫細胞からサイトカインという物質が放出されるという。うつ状態でも、同じような
現象が起きることが、最近の研究でもわかってきた。

もう少し詳しく書くと、こうなる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えると、免疫細胞と言われる細胞が、サイトカインという特殊な物質を放
出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は、「う
つ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

●自分らしさ

 こうして自分を支えるものがなくなると、自分から、自分らしさが消える。他人の視点からすれ
ば、「その人らしさ」ということになる。子どもの世界では、(つかみどころ)ということになる。

自分らしさ、それを「自我」というが、その自我の明確な子どもは、人格の(核)が、はっきりして
いる。外から見ても、わかりやすい。が、その自我があいまいになってくると、いわゆる(何を考
えているか、わからない子ども)といった、感じになる。

 ついでながら、自我というのは、「自己であるという強い認識」(「精神分析」河出書房新社版)
をいう。「これが私だ」という(核)をいう。

で、このタイプの子どもは、従順で、おとなしいが、それは見かけ。陰では。人の目を盗んで、こ
そこそと悪いことばかりする。さらにその状態が進むと、自我そのものが、崩壊することもあ
る。

こんな話を、あるドクターから、聞いた。診療内科医院を経営しているが、その横の建物で、ボ
ランティア活動のひとつとして、心に問題をもった人の世話をしている。

●Kという男性

 不登校児や、育児ノイローゼになったような母親たちが集まっている。その中に、こんな男性
(35歳)がいるという。その青年は、長い間、母親から、断続的に虐待を受けていた。

 その男性の名前を、Kとしておく。

 その活動の中では、みなが、力をあわせて昼食を作ることになっている。が、Kは、何もしな
い。みなが作業にかかる時間になると、トイレのとなりにある小さな部屋に隠れてしまう。

 そこでヘルパーが、つれもどしに行くと、その途中で、バタンと倒れてしまうという。わざと転ん
でみせるわけである。そこでヘルパーが、「そんなところで、わざところんでもだめ」と言うと、バ
ツが悪くなったのか、そのまま這って、大部屋までもどってきたという。

 「長い間、母親に虐待されたため、自我そのものが崩壊してしまったと考えるべきでしょう。約
束は守れない、目標は守れない、規則は守れない。その上、たいへんな怠け者。何か仕事を
させると、とたんにパニック状態になってしまいます。

 先日も、みんなでハイキングの行くということで、ポットから水筒にお茶を注がせたのですが、
それだけ、突然キレて、そのポットを割ってしまいました。『手がすべった』と、本人は言ってい
ましたが、それを見ていた人の話では、『わざとだった』と言うのです」と。

 同じような経験を、私は、飼っていた犬で経験している。

 その犬は、保健所で処分される寸前の犬だった。私たちがもらい受けたときは、小さなカゴに
入っていた。が、それまで、1週間とか、2週間とか、あるいはそれ以上の間、そのままの状態
だったようだ。

 人なつこく、愛くるしい犬だったが、だれにでもシッポを振り、番犬にはならなかった。それに
ほんの少しでもスキがあると、そのまま外へ出て行ってしまった。忠誠心は、ゼロ。約束も守ら
ない。だからしつけもできない。そんな状態で、その犬は、14、5歳まで生きて、昨年、死ん
だ。

 それだけ長く生き、私たちと生活をともにしたにもかかわらず、そんなわけで心の交流は、ほ
とんどできなかった。その犬の心は、最後の最後まで、閉じたままだった。だから私たち飼い主
にしても、ただ毎日、その犬の世話だけをしているという飼い方だった。かわいそうな犬だった
とは思うが、死んだとき、心のどこかで、ほっとしたのも、覚えている。

 話をもどすが、先のKという男性のばあい、「本来なら、自殺していたとしてもおかしくない状
態です」(ドクターの言葉)という。しかし彼は、自ら、その前に、自我を崩壊させてしまった。「い
つも意味のわからない笑みを浮かべています。ニコニコというのではなく、ニタニタ。あるいは、
ニヤニヤといった感じの笑みです」と。

●絶望

 自分を防衛することもできない。現実に適応することもできない。人格がバラバラになってし
まって、自分を統合することもできない。

 こうして人は、絶望という、深くて暗い穴の中に落ちていく。実は、私も、一度、経験している。
22、3歳のころである。幼稚園で講師として、働くようになって、しばらくのことだったと思う。

 いきさつはともかくも、そのときは、「死んではだめだ」と、毎日、自分に言ってきかせなけれ
ばならなかった。一度、こういう心理状態になると、ビルの窓の外を見ても、「ここから飛び降り
れば、それですべてが解決する」とか、そんなふうに考えるようになる。

 道を歩いていても、注意力そのものがなくなってしまう。車にぶつかれば、死んでしまうかもし
れない。「死にたい」とまでは思わなかったが、「死んでもいいや」という気持になった。「こちら
から車の中に飛びこものは、いやだが、向こうからぶつかってくるのなら、構わない」と。自暴
自棄というのは、そういう状態をいう。

 そのときの自分を、今、こうして振りかえってみると、いくつかの特徴があるのがわかる。あく
までも私のケースで考えてみる。

(1)防衛機制の停止。……いわゆる心理学でいう防衛機制(合理化、反動形成、同一視、代
償行動、逃避、補償などなど)の機能が、いっさい、働かなくなる。どこかへ逃げこみたいという
衝動(逃避)は、あったが、その逃げこむ場所すらなかった。だいたいにおいて、やる気そのも
のが、なくなってしまった。どんな食事をとっても、食べているというよりは、胃の中にモノをつっ
こんでいるという感じだった。

(2)現実感の喪失。……自分が何をしたいのか、何をしているのか、またどういう人間なの
か、さっぱりわからなくなってしまった。一応人前では、ふつうの人間を装うのだが、それが苦
痛だった。疲れた。人と会うことから生まれる疲労感は、相当なものだった。人と会っていない
ときは、ただボンヤリと天井をながめながら、寝ころんでいるしかなかった。

(3)現実への適応能力の喪失。……そのとき、すでに今のワイフと知りあっていたが、ただ交
際しているだけという状態だった。将来への展望性もなかったし、夢も希望もなかった。ただ毎
朝、起きたら、その日にやるべきことをこなすだけという感じだった。ときどきムラムラと、おか
しな怒りが自分の中にわいてきたこともある。今から思うと、かなり妄想的な怒りだったと思う。
何かに、カッとなって、八つ当たりしたこともある。

(4)管理能力の喪失。……ここにも書いたように、人格がバラバラになってしまった。一度、そ
の間に香港へ仕事に行ったことがある。そのとき、空港の手違いで、私の手荷物が、どこかへ
消えてしまった。空港職員は、あれこれあやまっていたが、私は、それが許せなかった。まるで
大金でも盗まれたかのように、怒り、怒鳴り散らしたのを覚えている。自分で自分をコントロー
ルできなくなってしまった。

全体としてみると、(自己概念)と、(現実自己)が、大きくかけ離れてしまい、そこに自分ではど
うすることもできないカベ(限界)ができてしまったことになる。そしてそのカベがあまりにも、大
きいため、戦うことすら、やめてしまった。

 つまり、それが「絶望」という状態ということになる。

●脱出

 が、そんな暗い日は、長くはつづかない。「死ぬことができなければ、生きるだけ」と、そんな
ふうに考えるようになった。ただ幸いなことに、(今でも、そうだが)、私の仕事は、幼児と接する
ことである。

 今から思うと、こういう職業(?)を選んで、本当によかったと思う。いつかどこかで、「天職」と
いう言葉を使ったが、幼児を教えるというのは、まさに、私にとっては、天職だった。

 朝、幼稚園の園庭に立つと、園児たちが、ワーッと集まってくる。そのエネルギーが、私を救
ってくれた。加えて、私は、私はもともと楽天的というよりは、無責任型。わかりやすく言えば、
どこかいいかげんなところがある。そういう自分が、やがて、心の中に、風を通してくれるように
なった。

 また今のワイフとの出会いも、よかった。当時の私を思い出しながら、今でもワイフは、ときど
き、こう言う。

 「あのときのあなたは、いつ死ぬかと、そればかりを心配していたわ。だから、私、あなたをほ
うっておけなかったの」と。

 つまり私たち夫婦は、愛情で結ばれた夫婦というよりは、自暴自棄になった私と、それを見る
にみかねて同情したワイフという関係でできた夫婦ということになる。しかしそういう意味では、
今のワイフには、感謝している。

 で、どうやって、その絶望から、はい出たか?

 それについてはよく覚えていないが、とにかくやるべきことは、した。ときに、自分の足を鉄の
ように重く感じたこともあるが、やるべきことはした。そのやるべきことをやりながら、少しずつ、
自分の調子を取りもどしていった。

 そうそう自分にこう言って聞かせたことがある。

 「どうせお前は、死ぬこともできない。意気地(いくじ)なしめ。だったら、あきらめて、生きるし
かないだろ」と。

 それともう一つは、つまり私の支えになってくれたのは、オーストラリアの友人たちであり、あ
の留学時代である。あの時代が、今でもそうだが、心の中の灯台として、いつも、私が進むべ
き道を示してくれた。

 私にとっては、つらくて苦しい時代だった。毎晩、ふとんの中にもぐると、ラジオの短波放送に
耳を傾けた。オーストラリアのABC国際放送が聞きながら、自分の心を休めた。

 そういう経験から、絶望から脱出するためには、こんなことは言えるのではないか。

(1)とにかく、朝起きたら、やるべきことを始める。あとのことは考えない。そしてそういう状態
を、1か月つづける。1か月でだめなら、2か月つづける。2か月でだめなら、3か月つづける。
こうして自分の調子を少しずつ、取りもどしていく。

 それができたら、

(2)少しずつ、自分をまわりに適応させていく。そういえば、そのころのことだったが、私は翻訳
のアルバイトもしていた。わずか数時間の仕事で、数日分の日当をもらえることもあった。そう
いうお金は、すべてその日のうちにワイフと使ってしまった。真夜中のドライブも、よくした。今
から思うとメチャメチャな生活だったが、それがどういうわけか、なつかしい。

 つまりそういう形で、自分の心や体をがんじがらめにしているクサリを、解き放つことも大切
かもしれない。『まず、心を解き放て! 体はあとからついてくる!』(アメリカの格言)ということ
か。つまり、

(3)あとは、自分のしたいことをする。自由きままに、生活する。それにまさる絶望のからの脱
出法は、ないのかもしれない。
(はやし浩司 絶望 絶望論 絶望からの脱出法 現実自己 絶望の心理 自己概念)

(追記)今は、昔とちがって、心療内科というのもでき、薬も著しく進歩している。心の変調を感
じたら、あまり深刻に考えずに、心療内科の門をくぐってみたらよい。私の時代には、「精神科
へ相談に行く」というだけでも、大きな抵抗感を覚えた。が、今は、そういう時代ではない。体の
病気と同じように、心だって、病気になることはある。絶望感を覚えたら、そういう視点でも、考
えてみるとよいのでは……。





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●子どもの知能

●マンネリは、知能発達の敵

「アレッ」と思う意外性が、知恵の発達をうながす。その瞬間、子どもの脳は、全開状態にな
る。そしてその意外性に対応していくことで、思考の柔軟性が生まれ、知能が発達する。このこ
とは、大脳生理学の分野でも、つぎのように説明される。

 人間の大脳には、約一〇〇億の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞は、約10万
個のシナプス(細い回線)をもっている。その数だけで、10の15乗、つまり1000兆本になる。
しかし遺伝子がこれらすべてを管理しているかといえば、そうではない。

遺伝子の中のDNAは、多くても、10の10乗程度といわれている。つまり脳のシナプスは、そ
れだけ柔軟性をもっていると同時に、その人個人の、置かれた環境、教育、努力によって影響
を受けるということになる。が、それだけではない。

 シナプスどうしが、複雑にからみあい、連絡しあうことによって、人間はより複雑な思考をする
ことができるようになる。たとえば脳の神経細胞の数は、生まれてから死ぬまでほとんど同じで
も、大脳皮質は成長にともなって厚くなる。

神経細胞自体がふえるわけではないのに、大脳皮質が厚くなるのは、細胞自体が大きくなり、
「樹状突起も複雑に分岐し、繁茂した状態になること。脳のほかの部分の成長にともなって、た
くさんの入力繊維が入ってくること。

グリアが増殖することによる」(新井康允氏)ためだそうだ。専門用語ばかりでわかりにくい
が、、要するに、それだけ回線が複雑になるということ。この回線をふやすのが、意外性であ
る。意外性が、新しい回線の発達をうながし、そしてその意外性を処理するために、回線どうし
がつながり始める……。

 そこで子どもには、いつも意外性のある環境を用意する。たとえば少し前、オーストラリア人
の夫婦が、私の家にホームステイしたことがある。そのときのこと。毎朝、まずそうな顔をして
朝食を食べていたので、半ば冗談のつもりで、「チョコレートでも出そうか?」と言うと、「オー、
イエス!」と。あいにくチョコレートがなかったので、ココアを出すと、彼らはそのココアと砂糖
を、あの白いご飯の上にかけ、さらにその上からミルクをかけて食べていた。

そのときのことだ。私は頭の中で、バチバチと、脳細胞がショートして火花を放つのを感じた。
それがここでいう「意外性」である。

 そこで具体的には、こうする。

(6)何でも体験させる……よく誤解されるが、「お金をかけろ」ということではない。ごく日常的な
ことで、いろいろ体験させる。郵便局へ行っても、切手を買わせ、それをハガキや封筒にはら
せる。電車に乗るときも、自分で切符を買わせるなど。コツは一歩退いた状態で、子どもに任
すようにする。

(7)家の中に変化を求める……いつも家の様子や、もように変化をつける。イスや机、テーブ
ルの配置など。子どもが外から帰ってきたとき、「アレッ」と思うようにしむける。以前、こんな女
子中学生がいた。年がら年中、いつも自分の机とイスをもって、家の中を移動しているというの
だ。母親は、「ヤドカリみたいです」と笑っていたが、その子どもは、頭のよい子どもだった。ほ
かによく「転勤族の子どもは、頭がいい」と言う。それも、やはり、こうした環境の変化が、よい
方向に作用しているためと考えられる。

(8)どこへでも、連れていく……子どもは外へ出すにかぎる。そのときも、できるだけ歩くように
するとよい。車というのは便利だが、やはり汗をかきながら受ける刺激と、そうでない刺激に
は、大きな違いがある。たとえばテレビで見る、アメリカのグランドキャニオンと、実際に見るグ
ランドキャニオンとでは、受ける印象は、まったく違う。

(9)同じことを繰り返さない……これは親の努力目標ということになる。いつも違った刺激を与
えるようにする。食事でも、何でも。ある母親は、娘のために、一日とて同じ弁当をつくらなかっ
たという。その女性はやがて、日本を代表するような女流評論家になったが、母親のそういう
姿勢が、そういう女性をつくったとも考えられる。

(10)ユーモアを大切に……日本人は、欧米人とくらべても、ユーモアがたいへん少ない民族と
考えてよい。生真面目(きまじめ)といえば、まだ聞こえはよいが、その実、頭がカタイ? 子ど
もが、「お母さん、雨だよ!」と言ったら、「私が、飴(あめ)? なめてみてごらん?」くらいのジョ
ークは、いつも会話の中にあってほしい。

 あとは、子どもといっしょに、意外性を楽しめばよい。たまには、おもちゃのトラックをよく洗
い、その中に寿司を並べてもよい。たまには、料理を大きな皿に並べて、絵を描いてみてもよ
い。そういう意外性が、子どもを伸ばす。
(はやし浩司 遺伝子 DNA 子供を伸ばす)





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【ゲーム脳】

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ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

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最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲー
ム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」と
は、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)
という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、東
北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。この
ゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。
要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、もの
すごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到してい
る」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうし
てそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、
そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本
を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市
にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづ
けたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとん
どが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか?
 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性
からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。
「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強し
てからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などな
い。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのと
きは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつ
つ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中
になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論
理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判され
たりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。
教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピ
カチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー
状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえい
た。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間に
は、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と
空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだ
だけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだ
ろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまっ
た若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁
気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。
そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはな
く、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリ
スで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に
基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS
 WEB JAPANの記事より)。
(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」
と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、
M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、しているこ
ともある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人
たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているか
のようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみし
がっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別
の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けが
をしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのです
が、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切
れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取り
あげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガ
ラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。
そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやって
きた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。その
ときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化し
た。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。
イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割
り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N
社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無
表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづける
そうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをし
ていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに紹介す
る。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそ
のままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目
が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあ
ちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友
だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破った
り捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、
キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわ
からなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人
で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、う
つ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関
係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、
新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制に
し、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツという医師
が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たと
き、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに
着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらに
ある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられると
いう。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二
つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだ
と、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動その
ものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべ
ればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、
「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなり
に、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、こ
れから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとた
ん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言った
でしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑
制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食
べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そして
この前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくな
ってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケ
ーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一
説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそ
うである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適
齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したり
するということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力と
いったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。
その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激され
ることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容
易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にと
らえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに
40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前
の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、「活発型
の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」という言葉が、雑誌な
どに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、約30年前ということにな
る。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルM
RI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そ
のものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」という
のは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。
(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷のあ
る子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩司)



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●マインドコントロール

 心、つまり感情と思想を操作する……それがマインドコントロール。そのマインドコントロール
のこわいところは、その人の脳のCPU(中枢部分)に影響を与えるため、コントロールされなが
らも、その人自身は、それに気づかないところにある。

 さらにそのコントロールを解除しようとするためには、高度な知識と、高度な技法が必要とな
るということ。

 が、ふつう、コントロールから解除されると、その人自身が、かえって混乱状態におちいること
が多い。

 たとえばある人を、カルト教団から抜けさせたとする。が、そのあと、その人は、たいていの
ばあい、極度の精神不安状態になる。見るからに、ふつうでない状態になる。

 そのため、その人は、ふとしたきっかけで、またもとの教団にもどったり、同じような別の教団
に入信したりする。あるいは、頭の中では、「この教団はおかしい」と思っていても、極度の精
神不安状態になるのがこわくて、そのまま教団に残るケースも少なくない。

 ほとんどのカルト教団では、このマインドコントロールを、たくみに応用して、信者の心を操
(あやつ)る。方法としては、

(1)隔離……たいていは外の世界からの情報を遮断するため、隔離された場所で行う。
(2)反復……同じ文句を何度も繰りかえさせたりして、思考能力を喪失させる。
(3)飢餓……食事などを制限し、軽い飢餓状態にしたり、睡眠不足状態にする。
(4)注入……周囲のものたちが、同じ思想を何度も繰りかえし、思想を注入する。

(Fさんのケース)

 Fさん(女性・35歳)は、その教団に、24歳のときに入信。10年近く、活動をしていたが、そ
の教団が、社会的事件を起こし、脱会。夫や、家族の強い説得もあった。

 しかし脱会したあと、Fさんは、重度の虚脱感に襲われ、「私は、地獄へ落ちる」と、おびえて
暮らすようになった。現在は、心療内科で処方された薬をのんで、少しずつだが、自分を取りも
どしつつある。

(Y氏のケース)

 Y氏(男性・33歳)。入信時は不明だが、やはり教団内のごたごたに巻きこまれ、そのまま脱
会。その教団の中では、活動派として、活躍していた。しかしマインドコントロールから抜け出す
ことができず、同じようにして脱会した仲間たちと、別の教団を設立。現在は、九州北部を拠点
にして、同じような宗教活動をしている。

(U氏のケース)

 U氏(男性・28歳)の父親は、富山県でも、よく知られた、ある部品メーカーの社長をしてい
る。U氏は、狂信的な信仰団体として知られた、仏教系のE会に入信。社員はもちろんのこと、
外部からやってくる客にまで、入信を勧誘するようになった。それを知った父親が、激怒。U氏
は、そのまま家出。

 現在は、そのK会の修行道場にこもりきりになり、実家には、この数年、帰っていない。

 夫にせよ、妻にせよ、家族のものが、カルト教団に入信したりすると、その家庭は、その段階
で、崩壊する。基本的な部分で、たがいの価値観が、相容れられなくなる。家庭内騒動、ある
いは家庭内宗教戦争へと発展することも少なくない。

 ほとんどのケースでは、一度、その人がカルト教団に入信すると、その信仰に、(命をかけ
る)状態になる。そのため、信仰を、すべての価値に優先させるようになる。ある夫は、入信を
しぶる妻にこう言ったという。

 「この信仰を、オレといっしょにしないなら、離婚する。オレか、離婚か、どちらかを選べ」と。

 なお、このマインドコントロールと同じように使われる言葉に、「洗脳」という言葉がある。しか
し洗脳というのは、もともと、政治的思想を注入するために使われ始めた言葉で、宗教的洗脳
を意味する、マインドコントロールという言葉とは区別して考えるようになってきている。念のた
め。
(はやし浩司 マインドコントロール 洗脳 カルト)

(補足)

 学歴信仰も、カルトと考えてよい。ただふつうの信仰的意識とちがう点は、明治時代以来、国
策として、日本人の心の中に、しみこんでしまっていること。それだ代々、親から子へと引きつ
がれている。

 そのため、親子関係、さらには家族そのものを破壊しながらも、それに気づかない親は、多
い。子どもの受験勉強を、すべてのものに、優先させる。ある母親は、泣き叫んで勉強に抵抗
する子ども(小4)に向って、こう言ったという。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あんたも、私に感謝するときがくるのよ!」と。

 「いい学校(大学)へ入ったら、どうなのだ」という部分がないまま、子どもを受験勉強に駆りた
てても、意味がない。現在、確たる目的もないまま、大学へ入り、そのまま、宙ぶらりん(燃え尽
き、荷卸し、アパシー症候群)になってしまう子どもは、多い。大半がそうではないかと思われる
ほど、多い。

 が、その程度ですめば、まだよいほう。中には、精神そのものを病むようになる子どももい
る。

 受験勉強は、避けて通れない道かもしれないが、そんな危険性もあるということを知りなが
ら、子どもを指導することも大切。

(補足2)

 子どもの受験競争に狂奔する親は、一見、子どもを深く愛しているかのように見えるが、それ
は「愛」ではない。親自身の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだ
け。

 そういう愛を、代償的愛という。いわば愛もどきの愛。ストーカー行為を繰りかえすような人が
口にする「愛」に、共通している。相手がいくら迷惑だと訴えても、それには耳を貸さない。「自
分こそが、相手を一番、愛している」「相手には、自分が必要」「いつか、相手も自分の愛の深
さに気づいてくれる」と、勝手に思いこむ。思いこんで、相手を、追いかけまわす。 

 親をして、子どもの受験競争に駆りたてる原動力となっているのが、ここでいう、学歴信仰と
いうことになる。
(はやし浩司 学歴信仰 代償的愛 子供の受験競争 子どもの受験競争)





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●右脳教育

++++++++++++++++++++++

右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

++++++++++++++++++++++++

 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。

++++++++++++++++++++++++++

●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考
えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

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親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像
化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現
場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小
節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ
ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右
脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる
研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで
目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの
非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列
車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種
からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけ
で、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世
界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。
たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは
一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみ
る。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳
君殺害事件」を起こした少年である。彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されて
いる。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしま
うことができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、
この子を生んで」文藝春秋)。そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になっ
たとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技
術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの
は、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。まさに
それだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、
理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうし
た背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい
る。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当て
た子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。ある程度の計
算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかっ
た。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。1000円程度のも
のを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。母親は、S
君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそ
れはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教育する
ことによって、伸ばすことができること」を、才能という。が、それだけでは足りない。その方法
が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。またそれができるから、教育と
いう。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわること
で、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわ
り」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたな
い「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能と
なって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前
を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれ
ない。そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11−27)※
(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 
子供 才能とこだわり 思考のバランス)






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【官僚主義】

【日本の将来】

++++++++++++++++++

衆議院は解散された。
さあ、選挙!

今度の選挙は、郵政民営化選挙だと、
K首相は言う。

「郵政三事業の民営化は、構造改革の
要(かなめ)である」(T財務長官)と。

構造改革というのは、行政改革をいう。
行政改革というのは、言うまでもなく、
1940年からつづいた、官僚体制の是正に
ある。

遅れに遅れた、行政改革。だが、やるしかない。
やらなければ、日本に未来は、ない。
日本は、今、その正念場を迎えつつある。
(050816記)

++++++++++++++++++

●日本は官僚主義国家

 ほとんどの人は、日本は、民主主義国家だと思っている。世界に名だたる民主主義国家だと
思っている。

 しかし日本は、官僚主義国家である。外国の大学生が使うテキストには、「日本は、君主
(Royal)官僚主義国家(bureacratism)」となっている。英語で、「bureacratism」というときは、
「官僚独裁主義」という意味が含まれる。

 私はそのことを、1970年に、オーストラリアの大学へ行って、はじめて知った。それから、3
5年になるが、この状態は、いまだに変わっていない。この35年間においてですら、さらに、ひ
どくなった。

●官僚制度の効率性

 もともとこの官僚主義制度というは、フランスで生まれた。16世紀から17世紀にかけてで、
このときイギリスは、今でいう、「高度成長期」に入った。それを見たフランスは、何としても、イ
ギリスに追いつかねばならなかった。

 官僚制度というと、悪いことばかりではない。国が一つとなって、一つの目標に向って進むと
きには、たいへん効率のよう制度となって機能する。よい例が、1940年からの日本である。
いわゆる「1940年体制」というのが、それ。このときから、日本人は、すべて、国家管理のもと
に入ることになった。

 その結果、日本は、軍事官僚独裁の時代に入り、まさに一丸となって、戦争に向った。

 さらに戦後は、日本は、世界でも類をみないほどの、経済的発展を遂げた。その基盤となっ
たのが、官僚制度。つまり、官僚制度というのは、ヘビにたとえるなら、頭の部分ということにな
る。それにつづく体(=国民)は、その頭についていけばよい。

 しかしこの官僚制度そのものは、いわば、後進国の国家制度と考えてよい。どこかに目標が
あり、その目標に向って、「追いつけ、追い越せ」という状況では、たいへん効率よく、機能す
る。しかし、機能するのは、そこまで!

●官僚制度の弊害

 その目標を達成してしまうと、今度は、官僚制度は、社会そのものを硬直化させてしまう。社
会システムそのものが、融通性をなくし、機動性をなくす。わかりやすく言えば、息苦しいほどま
での、管理国家。何をするにも、認可だの許可だの資格がいる。お役人にたてついたら、小さ
な食堂一つ、開くことができない。

しかし、なぜ社会は、硬直化するのか。

官僚が官僚であるための、第一の要件は、(1)権限と管轄、それに(2)情報のコントロールで
ある。

 権限、つまり利権と既得権にぶらさがり、管轄内のことはするが、それ以外のことは、いっさ
い、しない。また自分が手にした情報は、絶対に、外には、出さない。出すとしても、小出し。官
僚から情報を奪ったら、何も残らない。「情報こそ、命」と、豪語する官僚さえいえる。

 言うなれば、一般国民を、情報の外に置くことによって、自分たちは、特権の上に、あぐらを
かくことができる。無知な民ほど、あつかいやすいものはない。その一例が、官僚たちが作りに
作った、借金である。その額、驚くなかれ、すでに1000兆円に達している。

 日本の労働人口を約1億人として、その数で割れば、一人当たり、その借金額は、1000万
円。もしあなたの家族が、4人家族なら、4000万円ということになる。この額を、国家財政とい
う視点でみるなら、日本という国が1年間に稼ぐ額(=約42兆円)の、24倍の額ということにな
る。

 家計にたとえていうなら、年収420万円の人が、1億円の借金をかかえているのに、等しい。

●操作される情報

 こうした情報を、官僚たちは、自分たちの内部だけで管理し、決して、外には漏らさない。そう
いうしくみができてあがってしまっている。その結果、どうなったかといえば、国家公務員と地方
公務員の人件費だけで、38兆円。つまり国家税収、42兆円の、実に90%を、自分たちだけ
で、食いつぶしていることになる。

 もちろん給料は、最高!

 平成13年度の国民経済計算年報によれば、公務員の人件費は、1人あたり、1014万円
と、ダントツに高い。

 電気、ガス、水道などの公益団体で働く、いわゆる準公務員という人たちの人件費、795万
円が、それにつづく。

 当時「高級取り」で問題になった、民間の金融、銀行、保険業の行員ですら、人件費は、678
万円。

 これらの額を、あなたやあなたの夫が民間会社で働いて手にする額と、くらべてみるとよい。
おおかたの人は、300〜400万円のハズ。それよりも低賃金の人も、少なくない。

 が、官僚制度の本当の問題は、こうした財政の問題ではない。官僚制度が硬直化すればす
るほど、国そのもの、さらに国民そのものが、いわゆる「機動性」を失う。今の郵政事業のあり
方を見るまでもない。今どき、郵政事業の民営化は、常識ではないか。それを「過疎地の郵便
局を守れ」「離島の郵便局を守れ」と、理由にもならない理由をこじつけて、反対する。

 むしろ怒るべきは、過疎地や離島に住む人たちである。そういうときだけ、つごうのよいうよう
に、自分たちが利用される。あるいは過疎地や離島に住んでいる人たちで、1000万円以上も
の給料を手にしている人は、郵便局員をのぞいて、何%いるというのか? 

 同じような反対運動は、あの国鉄民営化のときも、起きた。しかし、それにかわって、バスが
走るようになった。私の住む近辺でも、H湖鉄道は廃止になると、さんざん脅された。が、今で
も、第3セクター方式で、ちゃんと電車は、走っている!

 が、私が、本当に危惧するのは、ここにも書いたように、「機動性」がなくなってしまったこと。
若い人たち自身から、(野生臭)が消えてしまったこと。大卒の人気就職業種のナンバーワン
が、公務員というのは、しかたないとしても、彼らから、(働いて、金を稼いで、生きる)という原
点そのものが、消えてしまった。

 もうつぎの原稿を書いてから、5年になる。今、読みなおしても、「古い」という感じが、まったく
しない。それをここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日本の将来を教育に見るとき】 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強で苦
労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさがすヒマも
ない。(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。

また別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは言われるま
ま、まじめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。人間は甘やかすと、ここまで
言うようになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことがある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。それはちょうど40年前
の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。あの国では誰もがギラギラとした脂汗
を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。若者とて例外ではない。タクシーの運
転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。そしてそれで白タク営業をする。料金はその場
で客と交渉して決める。そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、
それでお金をためる。さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼
ぐ。最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれてい
た。子どもたちとて例外ではない。私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行
った。そこでその磁石で金属片を集める。そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。それが結構、小
づかい稼ぎになった。父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。

が、今の日本にはそれはない。「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私
のところへやってきて、私とこんな会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、
私「君は何ができる?」、
学「翻訳ぐらいなら、何とか」、
私「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか書いてくれ
ば、仕事が回ってくるかもしれない」、
学「カッコ悪いからいやだ」、
私「なぜカッコ悪い?」、
学「恥ずかしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。「恥ずかしい」と言う。結局その
学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることになった。もちろ
んその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。言いかえると、今の日本の若者
たちを見れば、日本の未来がわかる。で、その未来。最近の経済指標を見るまでもない。結論
から先に言えば、お先まっ暗。

このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国になってしまう。いや、おおかた
の経済学者は、2015年前後には、日本は中国の経済圏にのみ込まれてしまうだろうと予想
している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。たとえばアメリカでは、今では日本
の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NBC)。どこの大学でも日本語を学ぶ学
生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハーバード大学)。

私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。そのツケを払うの
は、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことなのか。私たちが子ど
ものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとしている。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「21世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。日韓米仏4カ国の中高生を対象にし
た調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。現在の
自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで生きること」。学
校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で最
低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが2000年7月、東京、ソウル、ニューヨ
ーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約3700人を対象に実施。「21世紀は希望に満ち
た社会になる」と答えたのは、米国で85・7%、韓仏でも6割以上に達したが、日本は33・8%
と際立って低かった。自分への満足度では、米国では9割近くが「満足」と答えたが、日本は2
3・1%。学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは
弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽し
む」が61・5%と最も多く、米国は「地位と名誉」(40・6%)、フランスは「円満な家庭」(32・
4%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が20・2%だったの
に対し、米国は78・8%。「国のために貢献したい」でも、肯定は日本40・1%、米国七六・
四%と米国の方が高かった。ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利益
よりわが国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なこと
も浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。将来の夢や希
望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。1980年代からの傾向で、豊か
になったことに伴ったのだろう」と分析している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 この原稿が、マガジンに載るころには、選挙は、終わっている。しかしその結果がどうであ
れ、こうまで官僚制度が進んでしまった今、これから先、どうやって行政改革(=官僚制度の是
正)をしていくのだろう。あるいは、国民から消えてしまった、(野生臭)を、どうやってとりもどし
ていくのだろう。

 今もまた、私の頭の中に、尾崎豊の「♪卒業」が、聞こえてきた。このエッセーのしめくくりに、
その原稿(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●尾崎豊の「卒業」論
●若者たちの声なき抗議
学校以外に学校はなく、学校以外に道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、「卒業」の中でこ
う歌った。
「♪…チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間
は自由だ」と叫んでも、それはしくまれた自由に過ぎない。現実にはコースがあり、そのコース
に逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気
持ち」と表現した。

 宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢を
もてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。

しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがダメだというなら、彼らにはほかに、
どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎も
こう歌う。

「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなと
の争い」でもあった。実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるような
ニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な
衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は
そのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った…」と。もちろん窓ガラスを
壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだ
ろう。いや、その前にこういう若者の行為を、だれが「石もて、打てる」のか。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部)。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみ
るべきではないのか。
(はやし浩司 日本の将来 官僚主義 官僚主義国家 中高生の将来像)






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●兄弟の性格

++++++++++++++++

同じように(?)育てても、
第1子と末っ子では、性格も性質もちがう。

それについて……。

++++++++++++++++

 第1子と、末っ子の性格について。いろいろなことが言われているが、私なりに、それを、まと
めてみた。

【第1子の特徴】

(1)生活態度が防衛的
(2)仮面をかぶりやすく、ものわかりがよい。あるいは、反対にわがまま、自分勝手
(3)全体に、他人の意見に対して、受動的。比較的、おとなしい。
(4)完ぺき主義で、神経質
(5)まじめで、几帳面(きちょうめん)
(6)「兄だから……」「姉だから……」というプレッシャの中で、心をゆがめやすい。

【末っ子の特徴】

(1)生活態度が攻撃的
(2)したい放題で、無責任。比較的、伸びやか。
(3)全体に、他人の意見を無視し、自己主張が強い
(4)どこかズボラで、いいかげん
(5)自由気ままで、短気
(6)外交的な反面、気前よく、ものに執着しない。

 こうしたちがいは、もちろん親の養育姿勢の中で、つくられていく。第1子についていえば、親
は、どうしても神経質になりやすい。親のもつ不安や心配が、そのまま子育てに反映される。

 加えて「あなたはお兄ちゃんだから……」「お姉ちゃんだから……」という、『ダカラ論』の中
で、自らに、プレッシャをかけることが多い。そのため、仮面をかぶりやすく、心をゆがめやす
い。(子どもの表面的な様子に、だまされてはいけない。この時期、「ものわかりのよい子ども
ほど、心配」と覚えておくとよい。)

 ある女性(長女)だった女性は、こう書いてきた。

 「私は、親の目から見て、いい子であることだけを考えてきた。いつも、親に好かれることだけ
を考えていたよう。自分であって、自分でないような、そんな子ども時代だった」と。

 ここで「防衛的」と書いたのは、要するに、ケチだということ。下の子どもが生まれるまでは、
(すべて)が自分のものであった。が、下の子どもが生まれたことによって、それが、半減され
る。

 親から見れば、「平等」ということになるが、第1子にしてみれば、その平等ということに、納得
できない。嫉妬心や、ねたみ心は、こうして生まれる。その結果として、もちろんケチになる。

 ある男性(3子の中の二男)は、こう言った。

 「若いときから、兄のケチには、困ったものです。親戚や、兄弟が集まった席でも、自分では
1円も出しません。出そうともしません。そういう出費は、すべて私たち弟の役目だと思っている
のですね」と。

 こうした(ちがい)は、そのままその子どもの性質として定着してしまう。そのため、ほぼ、一
生、つづくと考えてよい。

 そういう(ちがい)をつくらないためには、つぎのことに注意したらよい。

(1)上、下の上下関係を、子どもの間につくらない。(子どもの名前は、名前で呼ぶ。)
(2)下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。下の子が生まれるのを、上の子が楽し
みにするようにしむける。
(3)上の子が生まれたとき、心のどこかで、下の子がいることを想定しながら、育てる。過度に
甘やかしたり、神経質にならないように、注意する。
(4)下の子が生まれても、突然、フィフティ、フィフティの平等にするのではなく、様子を見なが
ら、1、2年単位で、平等にもっていく。
(5)「あなたはお兄ちゃんだから……」という「ダカラ論」を、上の子に押しつけない。
(6)上の子がかぶる、仮面に注意する。ものわかりのよい兄、姉を演ずるようなら、かなり要
注意。反動形成として、親の前では、よい子ぶるケースは、たいへん多い。つまりその分だけ、
心をゆがめる。

 ほとんどの親は、「同じように育てても、兄弟、姉妹、みな、性格がちがいますね」と言う。しか
し本当は、同じように育てていない! 親が勝手に、そう思いこんでいるだけ。

 育て方のちがいが、ちがった性格の子どもをつくる。第1子と、末っ子のちがいも、その一つ
にすぎない。
(はやし浩司 第1子 末っ子 兄弟 姉妹 育て方 長男 長女 特徴)







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●共存と依存

●共存社会と依存性

 何をもって、「村(むら)」と定義するか。もともとは、「人が群(むら)がるところ」という意味か
ら、「村」という言葉が生まれたという説もある。

 現代では、「都会」と「田舎」というような、分け方をする。その「村」をあえて定義するなら、「人
の出入りの少ない、共存社会性の強い地域」ということになる。

 その村には、独特の、村意識がある。そうした村意識を、思いついたまま、まとめてみたの
が、つぎである。

(1)団結性……外部の者(よそ者)に対しては、集団、徒党を組んで対立する。
(2)閉鎖性……外部の文化、伝統を拒否し、内部の習慣、風習を優先させる。
(3)独善性……自分たちの村が最高であり、自分たちのしていることは正しいと思う。
(4)中心性……自分たちの村を中心にして、世界は、回っていると錯覚する。
(5)集団性……単独行動をしない。その一方で、仲間の単独行動を許さない。
(6)仮面性……無害なよそ者に対しては、親切で、やさしい。仮面をかぶる。
(7)依存性……相互依存性が強く、いつも、どこかで見返りを求めて行動する。
(8)詮索性……たがいにたがいの生活を、詮索しあう。干渉しあう。
(9)曖昧性……ものごとの白黒を、はっきりさせない生きザマこそ、大切と考える。
(10)虚言性……軽いウソなら、平気でつく。ウソをついているという意識すらない。

 こうした「村」に生まれ、そこに長く住むと、心理学でいうところの、いわゆる自我そのものが、
押しつぶされてしまう。自我の確立が、できなくなってしまう。村社会の中では、「私は私」という
生き方をすると、それだけで、その村社会から、はじき飛ばされてしまう。現実には、不可能。

 私は、このことを、「村」の人たちと、会話をしていて、気がついた。彼らは、独特の言い方を
する。

(1)他人の口を借りる……「私はいいんですが、Aさんが、何と言うでしょうかねエ……」と。自
分の言いたいことを、他人の口を借りて言う。たとえば林の中に、1本の道をつける話が出たと
する。そのとき、その人自身は、道をつけてほしくないと思っている。そういうときは、こういう言
い方をする。

 「私は、道があっても、かまいませんが、しかしあのAさんが、何というでしょうかねエ。きっと
黙っていないと思いますよ」と。

 あるいは、自分が大きな仕事を押しつけられて困っているようなときは、こう言う。

 「息子たちが、私の体を心配してくれましてね。『オヤジには、その仕事は無理だ』と言うので
す。私はどうしたらいいでしょうかねエ」と。

(2)世間体を前面に出す……いつも他人の目を気にした言い方をする。「世間が許さない」「世
間が笑う」と。反対に、世間体を利用することもある。

 たとえば、自分の息子や娘に向って、何かをしてほしいときは、こう言う。「オレは、構わない
が、お前たちが、世間の笑いものになるだけだ」と。そして結局は、息子や娘を、自分の思いど
おりに、誘導してしまう。

 いわゆる「恥論」も、こうした世間体意識を背景にして、生まれる。たとえば私が住む山荘の
近くに、こんど、特別養護老人ホームができた。しかし地元の人たちには、すこぶる評判が悪
い。

 「老後の親のめんどうは、息子や娘がみるべきだ。そういう施設へ親を入れるのは、恥ずか
しいことだ」と。そして親は親で、そういう施設へ入ることを、「恥ずかしい」という。だからその施
設に入ってくる人というのは、別の地域に住む、町からの人が多い。

(3)古い因習論を前面に出す……当然のことながら、村社会ほど、封建時代の亡霊が生き残
っている。

 長子存続、家制度など。親子、夫婦、兄弟間の、上下意識も強い。江戸時代が終わって、す
でに150年近くもたつというのに、日本人がもつ意識というのは、それほど変わっていない。そ
れが村社会の中では、より強く残っている。

 こんな話を聞いた。

 78歳の父親が死んだときのこと。多額ではないが、借金を残して死んだ。その父親には、5
0歳になる娘と、48歳になる息子がいた。その娘が、「葬式費用を出すのは、男のお前の役目
だ」と言った。息子のほうは、「半々で出しあうのが、当たり前だ」と言った。

 もしこの段階で、父親がいくらかの財産を残していたら、会話の内容も、ちがっていただろう。
きっと、こうなっていたにちがいない。

 「私は姉だから、財産は私のものだ」と。「それはおかしい。兄弟だから、半々で分けあうの
が、当たり前だ」と。

 こうしてざっと考えてみると、村社会に住んでいる人ほど、「私」がない。「私は、こうだ」という
「私」がはっきりしない。それが悪いと言うのではない。村社会では、何よりも、たがいの共存性
が重要視される。その共存性がなければ、生きていかれない。

 たとえば田んぼの水取りがある。今でも、田んぼの水取りで、その時期になると、村どうしが
戦争状態になるところも、少なくない。話せば長くなるが、笑い話になるような珍劇まがいの話
も、私のところには、届いている。

 で、こうした共存性が、「私」を犠牲にする。長い時間をかけて、「私」を押しつぶしてしまう。だ
から村社会に住む人に向って、「あなた自身は、どう考えているのですか?」「あなた自身は、
どうしたいと思っているのですか?」と聞いても、あまり意味がない。そういうふうに考える習慣
そのものがない。

 が、人間のもつ意識というのは、あくまでも、相対的なもの。

 今度は、反対に、村社会に住む人から、都会に住む人をみると、こうしたものの見方が、18
0度、ひっくりかえる。それについては、また別の機会に考えることにして、つまりは、都会の人
からみると、田舎の人のものの考え方は、おかしいということになるし、反対に、田舎の人から
みると、都会の人のものの考え方は、おかしいということになる。

 私自身は、田舎で生まれ育ち、そのまま、外国へ出て、都会に住むようになったので、その
(ちがい)がよくわかる。その私だが、このところ、田舎に住む人たちと、会話をするのが、どう
も苦手。あの遠まわしで、イライラするような言い方が、どうも、私の体質になじまない。

 私自身は、「私は私」という生きザマをしっかりともっている人のほうが、話をしやすいのだが
……。
(はやし浩司 村意識 邑意識 共存社会 共存性)

++++++++++++++++++

ここまで書いて、「飛騨の昼茶漬け」の
話を思い出した。

その原稿を添付します。

++++++++++++++++++

●あなたは裁判官

(ケース)Aさん(四〇歳女性)は、Bさん(四五歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、
こう言った。

AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさい」と誘った
という。そこでAさんが、「食べてきたところです」と言って断ったところ、Bさんの夫がBさんに向
かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったという。

それに対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃな
い!」と反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に思ったというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直
な人だ。自分を飾ったり、偽ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けと
めた。

一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」があいさつ
言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではない。相手が
断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。

そのとき大切なことは、誘われたほうは、あいまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り
方をすると、かえって誘ったほうが困ってしまう。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」とい
う言葉がある。昼食は簡単にすますという習慣である。

恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出してもらえ
るなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件になった?

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。そういう習慣のある家庭では
何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私はそういう言い方はしない。

私ならまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやってくれないか」と聞く。ある
いはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり「すぐ食事の用意をしろ」
は、ない。

つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。Aさ
んは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受け
入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなけれ
ばならないAさんが、むしろBさんを責めている! 女性は夫の奴隷ではない!

私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、思想の違いを感
じたからだ。さて、あなたならこのケースをどう考えるだろうか。
(はやし浩司 都会 田舎 意識の違い)

+++++++++++++++

同じような原稿ですが、
別の機会に書いたものです。

+++++++++++++++

●飛騨の昼茶漬け

 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛
騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しかし
道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え
る。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さあ、
大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけにも
いかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使っている
かもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先
へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、聖徳太
子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ
もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ
に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ
について、日本人とオーストラリア人とでは、寛容度がまったく違うということを思い知らされ
た。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし
日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、
悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。

●私はウソつきだった

 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかも
しれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私
の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。

その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売で
は、ウソが当たり前。このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は
毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、そ
れですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言
う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には
変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接
しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているか
を考えてみてほしい。もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはい
けません」と、日常的に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけ
ない。……とまあ、大上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日
本人の子育てで、一番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。そして帰りぎ
わ、一〇万円のタクシー券を渡されたとする。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろう
か。

さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろうか。
私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直に
言えば、そういうことになる。つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つま
りそれは私自身の欠陥というより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなた
は、子どものころ、学校で、そして家庭で、どのような教育を受けただろうか。
(03−1−7)

【補記】日本人のこうした国民性は、長くつづいた封建制度の結果というのが、私の持論であ
る。今のK国のような時代が、300年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。「自分に
正直に生きる」ということそのものが、不可能だった。

それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。ただここで言えることは、決し
て、あの封建時代を美化してはいけないということ。もちろん歴史は歴史だから、それなりの評
価はしなくてはいけない。しかし美化すればするほど、日本人の精神構造は、後退する。
(はやし浩司 日本人の精神構造 封建時代の遺物)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●依存性

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするた
びに、「私も、年をとったからねエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何と
かしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(60歳)と、K国について話しあったが、その女性は、こう言った。「そのときになった
ら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだ
け。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が
結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と
違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好ん
で使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的で
あればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくこと
は、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個(=自我)の確立」。個人が個人とし
て確立していない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の全体主
義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界からみて、日本
や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が国際人の仲
間に入れない本当の理由は、ここにあるのでは?
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」の一
節)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++ 
  
●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人がそれ
に気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・リーブズが
主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら気づか
ない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おなかがす
いたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、もう40歳のと
きから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかしてくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会も国民
も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海外へ移住
した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで生まれた子ども(二
世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼んでいる。依存性が強い分だけ、
その社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って嫌う。そ
してそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と依存し、
子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のところで話
すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日本人は、大
きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。年配の人が多い。もう
一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期にある
とみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさわしいほど
の転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎにやってくるの
かは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時代であることも事実の
ようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかしてくれ言
葉)




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●育児ノイローゼ

●ターゲットの移動(育児ノイローゼ)

 自称、「私は育児ノイローゼです」という女性と、話をする。

 たしかに、そうだった。声も口調も、ハイテンポ。多弁だったが、どこか、とらえどころがなかっ
た。で、その女性は、「子育てが重荷でならない」と言った。しかし自分で、それと自覚している
なら、それほど、問題はない。こういうのを、精神医学の世界では、「病識」という。「私の頭は
おかしい」と思っている人は、病識がある、つまりそれほど、重症ではない。「私は正常」と思っ
ている人ほど、病識がない、つまり重症である。

 で、その人と話しをしていて、一つ、気づいたことがある。つぎからつぎへと、ターゲットが移
動していくということ。たとえば、こうだ。

 たとえばその子ども(8歳男児)に、何か問題が起きたとする。するとその母親は、異常なま
での思いすごしと、取り越し苦労を重ねながら、悶々と悩む。

 で、しばらくしてその問題が解決したとする。が、同時に、そのときから、今度は、別の問題で
悩み始める。これを(悩みの連鎖)という。もう少し、具体的に説明しよう。

 自分の子ども(ここに書いた人とは、関係ない)に、何かの知的障害がみられたとする。する
と、その母親は、子どもの知的障害に悩み、あちこちの施設を回る。そしてやっとのことで、そ
の子どもを、週3回、めんどうをみてくれる施設を探し当てたとする。

 ほっとしたのも、つかのま、今度は、その費用のことで悩み始める。で、実の母親(子どもの
祖母)に相談。かなりまとなった額を、援助してもらえることになった。で、費用の問題は解決し
たことになるのだが、今度は、施設への、送り迎えがたいへんと、悩み始める。

 こうしてその母親は、つぎからつぎへと問題をつくっては、解決し、解決するとまた、つぎの問
題をつくっては、悩む。あとは、これを繰りかえす。

 こうした(悩みの連鎖)の背景にあるものはといえば、要するに、子育てが負担だということ。
もっと言えば、子どもへの愛情そのものが、欠落している。公式の調査によっても、今、自分の
子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、7〜10%はいる。その母親も、そうだっ
た。

 実は、育児ノイローゼと言われる人たちを見ていると、同じような症状を感ずることが多い。
このタイプの母親たちは、本来なら、つまり基本的な部分で愛情さえしっかりしていれば、ノイロ
ーゼになるような問題ではないことで、悩んだり、苦しんだりしている。

 言いかえると、本来の問題をおおい隠しながら、「こういう問題がある」「ああいう問題もある」
と、悩んだり、苦しんだりしている。

 だから、たとえばあまり、くどくどと、母親が自分の悩みを訴えるときは、私は、こう言うように
している。

 「要するに、あなたは、子育てをしたくないということですね。だったら、正直に、そう言えばい
いのです。子どもが好きになれなかったら、好きではないと言えばいいのです。自分の心をご
まかしているから、悩んだり、苦しんだりするのです。いい母親ぶるから、悩んだり、苦しんだり
するのです。もっと、自分にすなおになることです」と。

 もちろん育児ノイローゼといっても、千差万別。家庭問題、夫婦問題、経済問題、家族の問
題、病気などがからんでくることもある。決して、一様ではない。

 しかし育児ノイローゼを訴える人たちに、共通して見られる症状として、こうした(悩みの連
鎖)があることも、事実。それに気づいたので、ここに書きとめておくことにする。
(はやし浩司 悩みの連鎖 育児ノイローゼ 病識 育児問題)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    
 
それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。

次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかっ
た。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、36歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。

そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの
米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。

「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭
に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見ら
れたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子ども
が間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。
(はやし浩司 育児ノイローゼ 症状 対処法)




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●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

++++++++++++++++

 子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のすき間を
埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うため
に、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。このタイプの親は、
自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。こうして
たがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴があ
る。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき愛ぶり
を、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロドロしてい
る。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。ある母親は、私にこ
う言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし概して言
えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいないかわから
ないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになる
よりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40歳の娘であったり
すると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見
逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザコン性も
また、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心のどこ
かで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、
自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。マザ
コンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心
の奥の内側の問題である。外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘した
りすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、
正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親は親で、子
どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、本尊
のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定するこ
とに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。マザ
コンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であってはならな
いのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すこ
とができない。

 そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこ
そ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。ある男性(映
画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、よいこ
とは、何もない。
(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。
(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘)




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●シャドウ

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望
が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの1面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

 少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文献 河出書
房新社「精神分析がわかる本」)
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