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●夫婦げんか

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やりたくてもしてしまうのが、夫婦げんか。
その夫婦げんかについて……。

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 夫婦げんかが、一定のワクの中に収まっている間は、よい。しかしそのワクを超えて、子ども
に恐怖心を与えたり、不安感を覚えさせるようであれば、夫婦げんかは、してはならない。

 「一定のワク」というのは、夫婦の愛情の範囲で、という意味である。もっとわかりやすく言え
ば、祭りのような夫婦げんかなら、それはそれとして、それほど問題はないということ。ときに夫
婦げんかも、生活のスパイスとして機能することもある。

 しかし一般論から言えば、「夫婦げんかは、子どもの人格形成に大きな影響を与える」(「臨
床心理学」日本文芸社)と考えてよい。とくにはげしい暴力や虐待をともなう夫婦げんかが、日
常的につづくときは、要注意。子どもの人格形成に与える影響は、甚大(じんだい)である。

 稲富正治氏は、夫婦げんかの、つぎのような子どもに対する影響を列挙している(「臨床心理
学」)。

(1)自分の評価が著しく、低くなる。
(2)見捨てられるのではないかという、不安感が強くなる。
(3)強迫行動に走りやすく、親と同じ依存症に陥りやすくなる、と説明した上、つぎのように書
いている。

 「子ども時代の自由を、じゅうぶん味わえずに成長し、早く、おとなのような物わかりのよさを
身につけてしまい、自分の存在意義を、他者の評価の中に見いだそうとするようになる。そうい
う人を、『アダルトチェルドレン』と呼ぶ」(同書)と。

 この中で、とくに注意をひくのが、「自分の存在意義を、他者の評価の中に見いだそうとする」
というところ。つまりこの部分だけを拾いあげるなら、「世間体を気にする人は、それだけ、不
幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい」ということになる。

 実際、子どもの世界でも、両親の愛情に包まれ、静かな環境で育てられた子どもは、どこ
か、どっしりと落ちついている。先生が、「おはよう」と声をかけても、「何だ」というような様子
で、ジロリと先生を見かえしたりする。

一方、不幸にして不幸な環境で育てられた子どもは、どこかセカセカして、落ちつきがない。愛
想はよく、人に取り入るのはうまいが、決して心を開かない。忠誠心は弱く、いつも心のどこか
で、損得の計算をしながら、行動する。

 私も、日常的に、両親の夫婦げんかを見て育った。戦後の混乱期ということもあった。私の
父は、台湾へ出兵し、そこで負傷した。「貫通銃創」という負傷である。弾(たま)が、2発も、腹
の中を通り抜けた。マラリヤも経験している。

 今から思うと、そのせいだと思う。やがて父は今で言うアルコール依存症になり、ついで、そ
れが数日おきの夫婦げんかとなっていった。

 そういう環境で育った私自身をみると、とくに自分に当てはまる傾向としては、「見捨てられる
のではないかという、不安感が強い」という部分である。子どものころは、そうだった。休みの日
になっても、つぎの日のことが心配で、あれこれと気をもんだのを覚えている。

 今でも、それはつづいている。悪夢と言えば、旅行先で、バスに乗り遅れる夢とか、そういう
夢ばかり。恐らくこの夢からは、生涯、解放されることはないだろう。

 だから夫婦げんかは、子どもに見せてはならない。たとえけんかをしていても、子どもの姿を
見たら、中断。話題を変える。そのときの感情に溺れて、自己管理能力まで失ってはいけな
い。(自己管理能力まで喪失するというのであれば、多重人格障害を疑ってみたほうがよい。)

 夫婦げんかについての相談があったので、それについて考えてみた。
(はやし浩司 夫婦げんか 夫婦喧嘩 子供への影響 アダルトチェルドレン)





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●親とのトラブル

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ある学校の先生が、親とのトラブル
で、悩んでいる。

トラブルといっても、その先生には
身に覚えのないトラブル。

教育現場は、私たちが思っているほ
ど、美しいものではない。

そこには、ありとあらゆる人間の欲
望が、ウズを巻いている。ホント!

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 昨夜、ある学校の先生(小学5年担任、女性)と、話す。電話で話す。いろいろと悩みは、尽
きないようだ。今、こんなことで、悩んでいるという。

 「ちょうど半年前のこと、何かのことで、その母親は、私に、『あなたは、それでも先生ですか
ア!』と言いました。数日おきに学校へ電話をしてきて、あれこれと言うのです。

 いわゆる教育ノイローゼというのですね。ささいな問題を取りあげては、ああでもない、こうで
もない、と。一方的にペラペラとしゃべるだけ。こちらの話など、何も聞かないのです。それであ
る日、私のほうがキレてしまい、何かあれば、直接学校のほうへ、おいでくださいませんかと言
ったのです。

 それに対して、その母親は、私に、『あなたは、それでも先生ですかア!』と。

 この世界にも、口に出していい言葉と、そうでない言葉があります。その母親は、口に出して
はいけない言葉を言ったのですね。それからは、私のほうも、心して、一線を引くようになりまし
た。

 が、その母親のほうは、それからことあるごとに、私の悪口を言い始めました。そこで先生
(=私)からのアドバイスにしたがい、ひたすら無視することにしました。やがてその母親は、先
生(=私)が言ったように、ほかの父母たちからも、孤立するようになりました。

 ところが、です。先日、また突然、電話がかかってきました。うちの学校では、自宅の電話番
号は教えないようにしているのですが、自宅へ、かかってきました。電話を受けた娘の話では、
泣き声だったそうです。そして、『先生、うちの子がいじめられている。何とかしてほしい』と。

 たまたまその日は、今度の研修会の準備やらで、帰宅が10時近くになっていました。娘から
そういう電話があったことは聞きましたが、10時も過ぎていたということで、その日は電話をし
ませんでした。

 翌朝、一番に電話をしてみましたが、留守でした。しかたないので、そのまま学校へ出勤。

 ところが昼近くになって、教頭から突然の呼びだし。あわてて校長室へ行ってみると、その母
親が、ものすごい剣幕で、そこにいました。驚いて、『どうしたのですか?』と聞くと、その母親
は、私を無視し、教頭に向って、こう怒鳴りました。『こんな教師は、即刻、辞めさせてくださ
い!』と。

 いろいろな親がいますが、実際には、こういう親も多いです。そしてこういう親にからまれる
と、神経がもちません。こういうときは、どうしたらいいのでしょうか?」と。

 ちょうど半年前、私がその先生にしたアドバイスは、つぎのようなものだった。

 まともでない親(失礼!)にからまれたときは、ひたすら無視する。ていねいに頭をさげて、
「すみません」とだけ言って、逃げる。こちらが反応すればするほど、相手は勢いづく。私の恩
師(元幼稚園理事長)は、かつて、こう教えてくれた。「林さん、そういうときは、『私がいたりま
せんでした。どうか許してください。これからも何かと、いたらない点があるかもしれませんが、
そのときは、よろしくご指導ください』と言って、頭をさげなさい。決して、親を怒らせてはいけま
せんよ」と。

そしてあとは時間が過ぎるのを待つ。時間が過ぎれば、やがてだれの目から見ても、その親
は、まともでないことがわかる。つまり孤立する。

 私は子どものころ、よくかんかをした。気が小さいくせに、そういうときになると、どういうわけ
か、肝(きも)っ玉がすわってしまう。が、年下のものや、女子とは、したことがない。だから、今
でも、けんかは、じょうず。攻め際(ぎわ)と、引き際を、よく心得ている。攻めるだけでは、けん
かには、勝てない。引くときは引く。そして相手を孤立させる。そうして最終的に、勝つ。

で、こういう親とのトラブルは、学校というワクに中で起きたときには、ただひたすら頭をさげ
て、逃げるのがよい。学習塾やおけいこ塾なら、親にやめてもらうこともできる。親のほうも、や
めることができる。しかし学校という場では、それができない。

 その先生は、精神的にかなり疲れているようだった。ときどき、「もう教師なんか、やめたい」
というようなことまで、言った。

 そして最後のアドバイスは、前回と同じ。私は、こう言った。

 「どこの世界にも、そういう人はいますよ。道理や理屈の通らない人たちです。育児ノイロー
ゼ、教育ノイローゼの人となると、ゴマンといます。ノイローゼそのものについての相談というこ
とであれば、話は別です。さらに40歳もすぎると、アルツハイマー型認知症の初期の、そのま
た初期症状の親が出てきます。がんこで、自分勝手。それに被害妄想をもちやすくなります。
そういう人にからまれたときの鉄則は、ただ一つ。『ただひたすら頭をさげ、あとは時間が過ぎ
るのを待つ』です。

 こわいのは、そういう事例が、いくつか重なったときです。先生自身の耐久性もあるでしょう
が、3つとか4つとか、重なったときです。さらにそういう親どうしが連携(れんけい)したときで
す。

 そうなると、もう、教育どころでは、なくなってしまいます。(私立)幼稚園でも、そのため、先生
が退職に追いこまれたり、あるいは、神経を病んでしまうことがあります。どこの幼稚園にも、1
人や2人、精神科か心療内科の世話になっている先生がいます。長期休職している先生も、い
ます。事情は学校も同じでしょうが、学校のばあい、まだ転校という方法がありますが、幼稚園
では、それもままなりません。だから退職ということになってしまうのです」と。

 ついでながら、その母親の子ども(小5、女児)は、学校では、いつもオドオドとしていて、元気
がないという。そのため、学校では、友だちの輪の中に入っていくことができず、結果として、い
じめを受けているように見えるのではないか、と。が、その原因はといえば、母親にあると、そ
の先生は言った。

 「多分、家の中でも、こまごまとしたことで、母親は、娘を叱ったり、説教したりしているのでし
ょうね。ときどき電話で話す程度の私でさえ、気がヘンになりそうですから、毎日接している子
どもとなると、影響を受けて、当然です。

 これは学校や子どもの問題というよりは、母親自身の問題だと思うのですが……」と。

 そういう事例は、多い。いつか、「母因性萎縮児」について書いた。(その原稿は、このあとに
添付。)母親自身が、子どもの伸びる芽を、つんでしまう。そして子どもの問題点を見つけて
は、「学校が悪い」「先生が悪い」と騒ぐ。もちろんそういうケースもあるだろうが、しかしまず疑
ってみるべきは、自分自身の育児姿勢ということになる。

 卑近な例だが、自分では、信号無視、駐車場では、駐車してはいけない場所で駐車。窓から
ゴミをポ捨てしておいて、「どうして、うちの子は、約束を守らないのでしょう」は、ない。

 ……まあ、こう書くからといって、決して先生の肩をもつわけではない。しかし、今、学校の先
生は、本当に忙しい。休み時間(空き時間)にしても、文科省の指導どおりなら、週1時間しか
ない(公立の小学校)。学校に問題をもちこむとしても、そういうことを理解して上で、したらよい
のでは……。いらぬお節介かもしれないが……。
 




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●低俗文化

 週刊文春、11月3日号には、「わが子に見せたくない、(タレント)(TV番組)、ワースト20」と
題して、つぎのような番組や、タレントが紹介されている。

 「子どもをもつ親、1000人に、『見せたくない番組』を3つと、『見せたくない芸能人』を3人、
あげてもらった」と記事にはある。それによれば……、

【見せたくない番組】

(1)ロンドンハーツ
(2)クレヨンしんちゃん
(3)キスだけじゃイヤッ!
(4)めちゃx2イケてるッ!
(5)水10!
(6)2時間サスペンスドラマ
(7)志村けんのバカ殿様
(8)ダウンタウンのガキの使いやあらへんて!!
(9)エンタの神様
(10)恋のから騒ぎ(以下、略)

【見せたくない芸能人】

(1)レイザーラモンHG
(2)ロンドンブーツ1号2号
(3)ダウンタウン
(4)カンニング・竹山隆範
(5)江頭2:50
(6)細木数子
(7)叶姉妹
(8)出川哲郎
(9)ナインティンナイン
(10)青木さやか
(10)島田紳助
(12)とんねるず・石橋貴明(以下、略)

 こうして並べてみると、改めて、「そうだろうな」と、納得する。なお、(見せたくない芸能人)の
中には、明石家さんま(14位)、みのもんた(31位)、北野武(19位)なども入っている。

  浜松市という地方都市に住んでいると、都会文化のもつ低俗さが、よくわかる。その一例
が、こうしたテレビ文化。

で、ここまではっきりとわかっているのに、どうしてこういう番組を、こうしたタレントたちを使っ
て、テレビ局は、全国に流すのだろう。流すなら、自分たちの世界だけにしたらよいではない
か。東京都なら東京都だけの範囲とか、大阪府なら大阪府だけの範囲とか。

 私もときどき、チャンネルをかえるとき、こういう番組やタレントを、かいま見ることがある。と
きに、あまりのお粗末さにあきれて、しばらく見つづけることもある。が、そのあと、いつも、こう
思う。「これが同じ日本人か?」「これが同じ人間か?」と。

 ワイフは、私にこう聞いた。「そういうことがわかっていて、どうしてこんな番組を、テレビ局
は、タレ流すの?」と。

 理由は、簡単。

 いくらビルは立派でも、いくら放送技術はすばらしくても、中で働く人間たちが低俗だからであ
る。哲学もポリシーも何も、ない。が、しかし本当の理由は、それを見る、視聴者自身の中にあ
る。

(1)思考からの逃避(考えることをしない)
(2)自己の優位性の確保(自分よりバカがいることを知り、安心する)
(3)現実逃避(現実から逃避する)
(4)情報と思考の混同(情報量を多くすることが、思考であると誤解する)
(5)享楽主義(その場だけの楽しみを求める)
(6)無責任な自己中心性(自分の利益だけ確保できればよいと思う)、など

 つまり低俗なテレビ文化があるから、人間が低俗になるのではなく、低俗文化を求める視聴
者がいるから、テレビ文化は、低俗になる。視聴率というのは、あくまでも、その結果でしかな
い。だからテレビ局をたたいても、意味はない。低俗な番組やタレントをたたいても、意味はな
い。

 現に、(見せたくない芸能人)に選ばれたからといって、そういうタレントたちが、小さくなるか
といえば、そういうことはない。週刊文春の記事の一部には、「x位は、光栄? フォー」とある。
つまりこういう形でも、選ばれれば、光栄、というのだ。

 ついで、記事の中には、こんな小見出しがある。「テレビは、子どもをバカにしている」と。

 私も、そう思う。記事の中で、評論家のA氏は、こう述べている。まったく同感なので、そのま
ま紹介させてもらう。

 「日本人が、羞恥心や分のわきまえを喪失し、愚劣に変質したのは、人格形成される子ども
の時期に、くだらないテレビ番組によって、『調教』された結果によるものです」と。

 そして記事の最後を、つぎのような文章で、しめくくっている。

 「アメリカでは、昨年のスーパーボールで、ジャネット・ジャクソンが、乳房を露出させた事件
で、中継局は、6000万円の罰金を命じられるなど、大問題に発展した。

 ひるがえって、日本のテレビには、子どもに対して大きな影響力をもつことを、一向に自覚し
ない現状がある」と。

 数年前に書いた原稿を、ここに添付します。

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子どもの心をテレビから守る法

暴力番組を考えるとき 
 
●まき散らされたゴミ

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり一面にゴ
ミをまき散らした……。

 『Bトル・Rワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこかの島で、
生徒どうしが殺しあうという映画である。これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、一五歳未
満の子どもの入場を規制した。

が、主演のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。監督のF
氏も、「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本当にそう
か?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間団
体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】13歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   17歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】17歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が1968年から始まっている。が、この日本では野放し。先日もビ
デオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。

子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」
母「お母さんは見ないからね」
子「ううん、ぼく一人でみるから……」
母「……」と。
見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁止のソ
フトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、見境なく撃ち殺
すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。が、そ
のため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人の理性と良
識ということになる。が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空
洞化している。

言いかえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。先のB氏のよう
な人が、外国政府やT都から、日本やT都を代表する「文化人」として、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。そういう
ものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)

●テレビづけの子どもたち

雑誌、「ファミリス」の調査によれば、小学3、4年生で45・7%の子どもが、また小学5、6年生
で59・3%の子どもが、それぞれ毎日2時間以上もテレビをみているという。

さらに小学3、4年生で71%の子どもが、また小学5、6年生で83・3%の子どもが、それぞれ
毎日1時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内100名の児童について調査・02
年)。

また2時間以上テレビゲームをしている子どもも、3、4年生で19・3%、5、6年生で41・
7%! これらのデータから、約6〜7割前後の子どもが、毎日3時間程度、テレビを見たり、テ
レビゲームをしていることがわかる。





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●少子、高齢化問題

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退職後は、のんびりと、老後生活を楽しみたい……
と思うのは、その人の勝手だが、それをよいことに、
何もしない、いわゆるヒマ老人が、多い。あまりにも
多い!

年金といっても、天から降ってくるわけではない。
みんな、われわれの血税なのだ。

ヒマ老人たちよ、その時間と労力を、もう少し、
社会に還元したらどうか? そういう努力を、して
みたらどうか?

このままでは、ヒマ老人たちは、ますます社会の
粗大ゴミになってしまうぞ!

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 現在、日本が支出している、社会保障給付金は、03年度でみても、約84兆2700億円!

 社会保障給付金というのは、医療、福祉、年金などの社会福祉分野で支払われる給付金の
総額をいう。

 そのうち「高齢者に支払われた年金、老人保健(医療分)、老人福祉サービスなどの給付金
の合計は、約59兆3200億円。全体の70・4%を占める。前年の69・9%からさらに拡大し、
はじめて7割を超えた」(「日本の論点」'06年度版)と。

 一方、これに対して、「03年度の児童、家族関係給付費(児童手当、児童福祉サービス、育
児休業給付、出産関係費)は、約3兆1600億円」(同)だそうだ。全体でみると、たったの3・
8%!

 つまり政府が、公的保険として支払う給付金の、70%を老人たちが使い、たったの3・8%だ
けが、児童手当などに使われているにすぎないということになる。

 といっても、ヒマ老人と呼ばれる老人たちは、一部の恵まれた老人たちである。わかりやすく
言えば、元官僚、元公務員の人たちだけ。たいはんの老人たちは、スズメの涙ほどの小額の
年金で、細々と、生計を営んでいる。

 しかしこんなバカげた公的保険制度を維持している国が、ほかに、どこにあるか。一例をあ
げて、考えてみよう。

 私がこの浜松市に移り住んだころ、浜松市の南東に、国鉄の車両検査場があった。今でも
ある。

 その職場では、毎日、5時ごろになると、こんな珍現象が起きていた。その職場で働く職員た
ちが、門の向こうで、門が開くのを集団になって待っているのである。その数は、100〜200
人。もっと多かったかもしれない。

 そして5時のサイレンとともに、門が開く。と、同時に、職員たちが、いっせいに、門を出て、家
路につく。

 その中の1人が、こんな話をしてくれた。「国鉄では、午前、1仕事。午後、1仕事と決まって
いる」と。

 「1仕事」というのは、車両1列車分の仕事ということだそうだ。その人は、ハンマーで、車輪を
たたいて回る仕事を受けもっていた。当時の新幹線は、1列車12車両ではなかったか(?)。
現在は、16車両だが、仮に16車両だとしても、その1仕事は、「30〜40分程度ですむ」との
ことだった。

 私が、「では、午前中に2列車入ってきたら、どうするのですか?」と聞くと、「1列車以上はし
てはならないことになっている」と。つまり余計な仕事をすると、それだけ、車両検査が、おろそ
かになるというわけである。

 しかしその計算によれば、午前、40分、午後、40分だけの仕事ということになる。そこでさら
に、私が、「そのほかの時間は、何をしているのですか?」と聞くと、「詰め所で、将棋をさした
り、タバコを吸ったりして、時間をつぶしている」と。

 が、さらに驚いたことに、その職場では、(当時の国鉄の職場では、どこも同じようなものだっ
たとあとで聞いたが)、入浴時間まで、労働時間の中に組みこまれていた。

 「4時ごろから入浴時間になっていて、5時には、仕事が終わる」と。

 その国鉄職員ばあい、退職金も、年金も、旧三公社五現業の中では、一番、よかった。それ
についても、こう説明してくれた。「国鉄だけは、退職日を、4月1日にしています。つまりほか
の職種よりも、勤労年数が、1年長くなるわけです」と。ほかの旧三公社五現業では、3月31
日をもって、退職日としていた。つまりこうして旧国鉄だけは、退職金と、それをもとにして計算
される年金を、かさあげしていた。

 そのおかげで、今でも、月額にして、30〜34万円程度の年金を、みな、受け取っている。し
かも当時は、満55歳で、定年。勤続年数よりも、年金生活年数のほうが長い人も多くなってき
た。これから先、ますます多くなる。

 結果、たまりにたまった旧国鉄債務だけでも、すでに20兆円を超えて、久しい。

 何も一人一人の旧国鉄職員の責任を追及しているわけではない。しかしこの旧国鉄職員の
(老後のあり方)の中に、日本の公的社会保障制度の欠陥の象徴を見る。

 もちろん中には、退職後も働きつづけている人もいる。何かのボランティア活動に参加してい
る人もいる。しかしたいはんは、ぜいたくな年金をよいことに、何もしないで過ごしている。退職
後、ただの一度も、仕事をしたことがないという人のほうが、多いのではないか?

 しかしこうした老人のために、70%もの給付金を使い、一方、これからの日本を支える子ど
もたちのために、たったの3・8%、とは! 私もすぐ、その老人の仲間入りをするわけだから、
本来なら、こういう制度を是認して、だまっていたほうがよい。しかしそれでは、今の若い人たち
に、あまりにも、申し訳ない。

 ちなみに、少子化の第一の理由は、経済的な理由による。「育児にお金がかかる」「学費に
お金がかかる」と。

 国立社会保障・人口研究所の調査(第12回出生動向基本調査)によれば、少子化の理由と
して、経済的な理由をあげている人が、

 25歳未満…… 81・0%
 25〜29歳……81・7%
 30〜34歳……75・5%、となっている。

 5年ほど前に、私は、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いたことがある。

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●大学生の親、貧乏ざかり

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を1人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7
000円(99年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまな
い。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。…
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は
子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。しかも、だ。日本の対G
NP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。

欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの10年間、
毎年4・5%前後で推移している。

大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大
きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金
を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつ
の奨学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世
界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。い
まだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている! 日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも
個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが
積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育てた
くない!」と。「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。

彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状
態はいまだに変わっていない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。
「こんなところで、孫を育てたくない」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。
(はやし浩司 少子化 少子高齢化 少子化の問題)





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●情報と思考

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情報と思考は、別。
もの知りな子どもイコール、頭がよいということ
にはならない。

たとえば掛け算の九九をペラペラと言ったからと
いって、その子どもは、頭がよい子どもとは言わない。
いわんや、算数ができる子どもとは、言わない。

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 もちろんテレビ番組の影響だが、子どもたちの世界でも、「IQサプリ」「知能サプリ」という言葉
が、日常的に使われるようになった。昔でいう、「トンチ」、あるいは「ダジャレ」と考えればよい。
いわゆる、脳みその体操のようなものだが、英語でいう、クイズとか、リドルも、それに含まれ
る。

 かたくなった脳みそを刺激するには、よい。体でいえば、今まで使ったことのない筋肉を動か
すようなもの。しかし誤解してはいけないのは、そういうことができるからといって、頭がよいと
いうことには、ならない。またそういう問題で訓練をしたからといって、頭がよくなるということで
もない。頭のよさは、論理性と分析力によって決まる。もっと言えば、論理性と分析力は、一
応、ひらめき思考とは、区別して考える。

 そのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 中に、つぎからつぎへと、パッパッと、言動が変化していく子どもがいる。言うことなすこと、ま
さに天衣無縫。ひらめきというか、勘がよいから、何かクイズのようなものを出したりすると、そ
の場でスイスイと解いてみせたりする。

 が、そういう子どもが頭がよいかというと、そういうことはない。トンチや、ダジャレがうまい子
どもイコール、頭がよいということではない。(もちろん中には、その両者をかね備えた子どもも
いるが……。)

 むしろ現実には、いわゆる頭のよい子どもというのは、静かで、落ちついている。どっしりとし
ている。私はよく、『子どもの頭のよさは、目つきを見て判断したらいい』と言う。このタイプの子
どもは、目つきが鋭い。何か問題を出しても、食い入るようにそれをじっと見つめる。

 もちろんこのタイプの子どもは、知能サプリ的な問題でも、スイスイと解くことができる。が、そ
の解き方も、論理的。理由を聞くと、ちゃんとした説明が返ってくる。

 で、私も、そういった番組を、ときどき見る。たまたま昨日(11・19)は、こんな問題が出され
ていた(「IQサプリ」)。

 四角い紙の真中に、小さい文字で、「つ」と書いてある。これを「失格」とするなら、「合格」は、
どんな紙に、どう書けばよいか、と。

 四角い紙の真中に「つ」が書いてあるから、「四角の中に、つ」、だから、「し(つ)かく」と。

 この方法で、「合格」を表現しようとすると、五角形の中に、「う」を書けばよいということにな
る。「五角形の中に、(う)だから、ご(う)かく」と。

 「なるほど」と思いたいが、しかし、これは論理の問題というよりは、まさにダジャレ。こうした
問題が、論理性と結びつくためには、そこに法則性がなければならない。が、その法則性は、
どこにもない。その法則性がないから、こうした問題には、発展性がない。もちろん実益もな
い。

 たとえばこうした問題を土台にして、(形)と(最小の文字)で、言葉を表現できるようにすれ
ば、それが論理性ということになる。

 三角と、(あ)で、「錯覚」
 四角と、(い)で、「鹿」
 五角と、(う)で、「誤解」とかなど。(少し苦しいかな……。)

 つまり、ダジャレは、どこまでもダジャレ。が、それよりも恐ろしいと思うのは、こうした意味の
ないダジャレが、いくら娯楽番組とはいえ、全国津々浦々に、放送されているということ。その
ために、日本人の何割かが、くだらないダジャレにつきあい、時間をムダにする。言いかえる
と、それまでの巨大メディアを使ってまで、こんなことを全国に知らせしめる必要があるのかと
いうこと。

 ケバケバしい舞台。チャラチャラした出演者たち。その出演者たちが、意味もなく、ギャーギ
ャーと騒いだり、笑ったりしている。知恵をみがく番組というのなら、それなりに知性を感ずる番
組でなければならない。が、おかしなことに、その知性を感じない。

私は、今の今も、多くの子どもたちを見ている。そういう子どもたちと比較しても、この種の番組
は、質というか、レベルが、2つも、3つも低い。つまりそれが、こうした番組のもつ限界というこ
とになる。

【補足】

●情報と思考力

 もの知りイコール、賢い人ということにはならない。つまりその人がもつ情報量と、賢さは、必
ずしも一致しない。たとえば幼稚園児が、掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、そ
の子どもは、頭のよい子ということにはならない。もちろん算数のできる子ということにはならな
い。

 しかし長い間、この日本では、もの知りな子どもイコール、優秀な子と考えられてきた。受験
勉強の内容そのものが、そうなっていた。一昔前までは、受験勉強といえば、明けても暮れて
も暗記、暗記また暗記の連続だった。

 さらにそれで勉強がよくできるからといって、人格的にすぐれた人物ということにはならない。
もっとわかりやすく言えば、有名大学を出たからとって、人格的にすぐれた人物ということには
ならない。

 しかし私が子どものころは、そうではなかった。学級委員と言えば、勉強がよくできる子ども
から選ばれたりした。勉強のできない子どもが、まれに学級委員に選ばれたりすると、先生
が、その選挙のやりなおしを命じたりしていた。

 話がそれたが、その子どものもつ情報量と、その子どもがもつ思考力とは、関係はない。(も
ちろん、中には、その両方を兼ね備えている子どももいる。あるいはその両方ともに、欠ける
子どももいる。)

 そこでさらに一歩、情報と思考について、考えてみる。

 情報というのは、ただ単なる知識にすぎない。その情報が、思考と結びつくためには、その情
報を、選択→加工→連続化しなければならない。最後にその情報を、論理的に組みあわせ
て、実生活に応用していく。それが思考である。

 これをまとめると、つぎのようになる。

(1)情報量(情報そのものの量)
(2)情報の選択力(必要な情報と、そうでない情報の選択)
(3)情報の加工力(情報を別の情報に加工する力)
(4)情報の連続性(バラバラになった情報を、たがいに結びつける)
(5)情報の応用性(情報を、実用的なことに結びつける)

 (1)の情報量をベースとするなら、(2)〜(5)が、思考力の分野ということになる。

 言うなれば、「IQサプリ」にせよ、「知能サプリ」にせよ、(1)の段階だけで、停止してしまって
いる。「だからどうなの?」という部分が、まるでない。ムダだとは思わないが、しかしその繰り
かえしだけでは、意味がない。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。情報と思考のちがいがわかってもらえれ
ば、うれしい。

++++++++++++++++++++++

知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと
言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができ
るということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話
をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったとき
のこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」
と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にして
しまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというの
は、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなこ
とをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱その
ものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子
どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になって
いる。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロン
ドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で
考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断ので
きる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)
と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含ま
れる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ)


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(949)

●心に残る人たち

 個性的な生き方をした人というのは、それなりに強く印象に残る。そしてそれを思い出す私た
ちに、何か、生きるためのヒントのようなものを与えてくれる。

 たとえば定年で退職をしたあと、山の中に山小屋を建てて、そこに移り住んだ人がいた。姉
が中学校のときに世話になった、Nという名前の学校の先生である。その人が、ことさら印象に
強く残っているのは、郷里へ帰るたびに、姉が、N先生の話をしたからではないか。

 「N先生が、畑を作って、自給自足の生活をしている」
 「半地下の貯蔵庫を作って、そこできのこの栽培をしている」
 「教え子たちを集めて、パーティを開いた」など。

 ここまで書いたところで、つぎつぎと、いろいろな人が頭の中に浮かんでは消えた。

 G社という出版社で編集長をしていた、S氏という名前の人は、がんの手術を受けたあと、一
度、元気になった。その元気になったとき、60歳になる少し前だったが、自動車の運転免許証
を手に入れた。車を買った。そしてこれは、あとから奥さんから聞いた話だが、毎週、ドライブ
を繰りかえし、なくなるまでの数年間、1年で、10万キロ近く、日本中を走りまわったという。

 またS社という、女性雑誌社に勤めていた、I氏という名前の人は、妻を病気でなくしたあと、
丸1年、南太平洋の小さな島に移り住み、そこで暮らしたという。一時は、行方不明になってし
まったということで、周囲の人たちはかなり心配した。が、1年後に、ひょっこりと、その島から
戻ってきた。そしてそのあとは、何ごともなかったかのような顔をして、10年近くも、S社の子会
社で、また、健康雑誌の編集長として活躍した。

 で、それからもう20年近くも過ぎた。山の中に山小屋を建てて住んだNという先生は、とっく
の昔に、なくなった。G社の編集長をしていたS氏も、なくなった。女性雑誌社に勤めていたI氏
は、私が知りあったとき、すでに50歳を過ぎていた。私が、25歳のときのことだった。だから
今、生きているとしても、80歳以上になっていると思う。

 I氏からは、あるときまでは、毎年、年賀状が届いた。が、それ以後、音信が途絶えた。住所
も変わった。

 そうそうG社という出版社に、Tさんという女性がいた。たいへん世話になった人である。その
Tさんは、G社を定年で退職したあとまもなく、大腸がんで、なくなってしまった。

 その葬式に出たときのこと。こんな話を聞いた。

 そのとき、私は、そのTさんにある仕事を頼んでいた。その仕事について、ある日の昼すぎ
に、電話がかかってきた。Tさんが病気だということは知っていた。が、意外と、明るい声だっ
た。Tさんは、いつものていねいな言い方で、私の頼んだ仕事ができなくなったということをわび
た。そして何度も何度も、「すみません」と言った。

 そのことを葬儀の席で、Tさんをよく知る人に話すと、その人は、こう言った。「そんなはずは
ない。Tさんが、あなたに電話をしたというときには、すでに昏睡状態だった。電話など、できる
ような状態ではなかった」と。

 おかしな話だなと、そのときは、そう思った。あるいはそういう状態のときでも、ふと、意識が
戻ることもあるそうだ。Tさんは、そういうとき、私に電話をかけてくれたのかもしれない。

 親類の人たちや、友人は別として、その生きザマが、印象に残る人もいれば、そうでない人も
いる。言うなれば、平凡は美徳だが、平凡な生活をした人は、あとに、何も残さない。だからと
いって、平凡な生活をすることが悪いというのではない。「私らしい生きザマ」とは言うが、しかし
それができる人は、幸せな人だ。

 たいていの人は、世間や家族、さらには親類などのしがらみに、がんじがらめになって、身動
きがとれないでいる。いまだに「家」を引きずっている人も、少なくない。そういう状況の中で、そ
の日、その日を、懸命に生きている。

 それにこうした個性的な生きザマを残した人にしても、私たちに何かを(残す)ために、そうし
たわけではない。私たちに何かを教えるために、そうしたわけでもない。結果として、私たち
が、勝手にそう思うだけである。

 ただ、こういうことは言える。

 それぞれの人は、それぞれの人生を懸命に生きているということ。悲しみや苦しみと戦いな
がら、懸命に生きているということ。その懸命に生きているという事実が、無数のドラマを生
み、そのドラマが、そのあとにつづく私たちに、ときに、大きな感動を残してくれるということ。

 で、かく言う私はどうなのかという問題が残る。

 ここ数か月以上、私は、「老人観察」なるものをしてきた。その結論というか、中間報告とし
て、ここで言えることは、私は、最後の最後まで、年齢など忘れて、がんばって生きてみようと
いうこと。

 ときに、「生活をコンパクトにしよう」とか、「老後や、死後に備えよう」などと考えたこともある
が、それはまちがっていた。エッセーの中で、そう書いたこともある。まだ、その迷いから完全
に抜けきったわけではないが、私は、そういう考え方を捨てた。……捨てようとしている。

 つまりそういう生きザマを、こうした人たちが、私に教えてくれているように思う。私たちはそ
の気にさえなれば、最後の最後まで、何かができる。それを教えてくれているように思う。

 N先生……私自身は一面識もないが、心の中では、いつも尊敬していた。
 S氏……そのS氏が、私にエッセーの書き方を教えてくれた。
 I氏……いっしょに健康雑誌を書いた。……I氏の実名を出してもよいだろう。I氏は、主婦と生
活社の編集長をしていた、井上清氏をいう。健康雑誌の名前は、『健康家族』という雑誌だっ
た。その名前を覚えている人も、多いと思う。

 そしてTさん。電話では、自分の病状のことは、何も言わなかった。それが今になって、私の
胸を熱くする。私は、そのTさんの葬儀には、最後の最後まで、つきあった。藤沢市の会館で葬
儀をし、そのあと、どこかの火葬場で、火葬にふされた。アメリカ軍の基地の近くで、ひっきりな
しに、飛行機の爆音が聞こえていた。私は、Tさんが火葬されている間、何度も何度も、その飛
行機を見送った。

 遠い昔のことのようでもあるし、つい先日のことのようにも思う。みなさん、私に生きる力を与
えてくれてありがとう。私も、あとにつづきます!


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●ダジャレ文化

+++++++++++++++

まず、ダジャレと思考を区別しよう。
この日本では、ダジャレが、花盛り。
そのダジャレをもって、思考と、
みな、誤解している。

+++++++++++++++

 「はやし・ひろしが、パーになったら、ぱやし・ひろし」
 「はやし・ひろしが、貧乏になったら、はやし・せまし」
 「はやし・ひろしが、かけっこで、ビリになったら、おそし・ひろし」と。

 こういうのをダジャレという。言葉の遊びの一つだが、それはたとえて言うなら、脳ミソの表面
をかけめぐる、乱信号のようなもの。脳ミソのあちこちを刺激するには、それなりに効果がある
かもしれないが、思考とは、まったく異質のもの。

 思考には、論理性と、連続性と、普遍性がなければならない。

 論理性というのは、「法則的なつながり」(広辞苑)をいう。連続性というのは、「夕日は赤い」
「赤いのは、光の屈折によるもの」「屈折は、空気中のチリが原因で起こる」というように、その
論理が、つながっていることをいう。

 突発的に、「夜は暗い」「暗いから、さみしい」「さみしいのは、心の問題」と思いつくのは、思
考ではない。論理性も連続性もないからである。

 さらに思考が思考であるためには、普遍性がなければならない。「昨日と今日とでは、言うこ
とがまるでちがう」というのは、思考ではない。また「アメリカ人と日本人とでは、言うことがまる
でちがう」というのも、そうだ。

 今、この日本では、そのダジャレ文化が、花盛り。どこもかしこも、ダジャレ一色。そう言って
も過言ではない。

 テレビのダジャレ番組に始まって、日常生活のありとあらゆる分野に、そのダジャレが、入り
こんでいる。子どもの世界、教育の世界とて、例外ではない。親も子どもも、「思考する」という
ことそのものを、放棄してしまっている。そんなようにさえ感ずる。

 そもそも、「進学率の高い学校、イコール、いい学校」という発想そのものが、ダジャレ。あと
はすべてが、このダジャレを基盤にして、成りたっている。教育も、子育ても……。よい例が、
進学塾。

 進学塾の経営者と話をしていると、どこか狂信的でさえある。そう思うのは私だけかもしれな
いが、「いい大学を卒業することだけが、幸福への道」とさえ考えているフシすら、ある。もっと
言えば、「有名大学を出た人だけが、人間」と。

 そこはまさにダジャレの世界。しかし、そのダジャレに気づく人は少ない。たとえばテレビのダ
ジャレ番組を見て、ゲラゲラ笑う。ダジャレ・クイズ番組を見て、それが思考と錯覚する。思考と
ダジャレの区別すら、できない。できないまま、さらにダジャレの世界に、溺れてしまう。

 視点を変えて、この問題を考えてみよう。

 報道の自由という言葉がある。その報道の自由について、毎年、その自由度が、ある団体か
ら発表される。「国境なき記者団」(NGO)という団体がそれだが、その団体の調査によれば、
デンマークを1位として、フィンランド、アイスランド、アイルランド、オランダ……とつづく。

 日本は、世界でも37位。あのK国は、ビリ。「(K国には)、言論らしきものが存在しない」(同
NGO)、そうだ。

 報道の自由イコール、言論の自由。言論の自由イコール、思考力ということにはならないが、
しかしこの「37位」という数字に、私たち日本人は、もう少し謙虚に、耳を傾けるべきではない
だろうか。

 たとえばテレビのダジャレ番組を見る。そこではいつも、実に軽薄そうな若い男女が、意味の
ないダジャレを飛ばしあっている。「お前、バカか?」「おれは、バカや!」と。そして相手の頭
を、何かで、ポカンとたたいてみせる。

 しかしこういうのは、報道の自由とは言わない。つまりこの日本では、意味をもたないことを、
ギャーギャーと騒ぐ自由はあるが、それは本来の、報道の自由というものとは、異質のもので
あるということ。ひるがえって、K国についての報道番組を見る。

 首都P市でも、市民たちは、それなりに会話をしているようだ。最近の報道によれば、ハンバ
ーガーショップもできたそうだ。もちろん市民が読む新聞もあれば、テレビもラジオもある。恐ら
くK国の人たちは、自分たちは、(自由な人間)と思いこんでいるにちがいない。

 だからだれかが、K国の人たちに、「あなたがたの国は、報道の自由度では、ビリですよ」と
言っても、K国の人たちは、それを信じないだろう。あるいは反対に、こう反論するかもしれな
い。

 「くだらないダジャレを報道することが、報道の自由と言うのか。それがわからなければ、日
本のバラエティ番組を見ろ。見るからに軽薄そうなタレントたちが、ギャーギャーと騒いでいる
だけではないか」と。

 同じように、今、「日本は、37位」と言われても、ピンとこない人は多いのではないだろうか。
驚くなかれ、あの韓国は、日本を抜いて、34位という。つまりこと、報道の自由に関しては、韓
国のほうが、日本より進んでいる、と!

 しかしこのことも、「思考」というレベルから考えると、納得できる。「日本人は、自ら考える国
民か?」と問われれば、答は、「ノー」ではないか。そしてその傾向は、年々、ますます強くなっ
てきている(?)。つまり日本人は、ますます考えない国民になりつつある(?)。その結果の1
つが、国境なき記者団(NGO)の発表した、「37位」という数字ということになる。

 何だか話がこみいってきたが、要するに、ダジャレは思考ではないということ。そしてそのダ
ジャレを連発することを、言論の自由とは言わないということ。今、日本そのものが、そのダジ
ャレに包まれてしまっていて、何が思考で、何が思考でないかさえも、わからなくなってしまって
いるということ。

 そこで私たちがすべきことといえば、まず、ダジャレがどういうものであるかを知り、そのダジ
ャレを、思考と区別すること。すべては、そこから始まる。さらに思考をみがくのは、そのあと、
ということになる。

 でないと、日本人は、ますます考えない国民、つまりケータイをもったサルになってしまう。
(はやし浩司 思考 思考力 ダジャレ論 ダジャレ 国境なき記者団 報道の自由 言論の自
由)




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●運命

●ある姉妹の運命

+++++++++++++++++

それぞれの人には、それぞれ、
クモの糸のように、無数の
人間関係がからんでいる。

そしてそのクモの糸にからまれている
うちに、その人の人生がどうあるべきかが
決まってくる。

それを運命というなら、運命は、
だれにでもある。

+++++++++++++++++


 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

 大切なことは、どこでどう、その運命を受け入れ、どこでどう前向きに構えるかということ。…
…というほど大げさな問題ではないが、最近、こんなことがあった。ワイフの友人の問題だが、
それには、いろいろ考えさせられた。

それを話す前に、少し、説明しておきたいことがある。

子育ての世界には、「代償的過保護」という言葉がある。一見、過保護のように見えるが、過保
護ではない。過保護には、その背景に、深い親の愛情が見え隠れするが、代償的過保護に
は、それがない。

 子どもを自分の支配下において、子どもを自分の思いどおりにしたいというのが、代償的過
保護。つまりは、過保護もどきの過保護。もっと言えば、子どもを、親の心のすき間を埋めるた
めの、道具として利用する。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔する親たち。「子どものため」
と言いながら、何も、子どものことなど、考えていない。自分の不安や心配を解消するために、
子どもをして、受験勉強にかりたてる。あるいは自分が果たせなかった夢や希望を、子どもを
通して達成するために、子どもを利用する。それが、「代償的過保護」。

 この代償的過保護になる親には、共通のパターンがある。

(1)心のすき間、つまり精神的未熟さ、情緒的不安定さがある。
(2)いつも満たされない欲求不満をかかえている。
(3)「産んでやった」「育ててやった」を口ぐせにしやすい。
(4)子どもの自立、独立を阻止しようとする。自分から離れていくのを許さない。
(5)ベタベタの親子関係をつくりやすい。子どもに依存心をもたせやすい。
(6)自己愛的傾向が強く、ものの考え方が、自己中心的で、人格の完成度が低い。
(7)独得の子ども観をもっている。

 最後の「独得の子ども観」というのは、親にベタベタ甘える子どもほど、いい子で、かわいい
子と考えやすいことをさす。そして、子どもを大切にするということは、子どもにいい思いや、楽
をさせることと誤解する。

 Aさん(60歳、女性)は、まさに、そんなタイプの母親だった。虚栄心が強く、世間体を、異常
なまでに、気にした。その上、自分勝手でわがまま。2人の娘がいたが、その娘たちとは、はや
くから絶縁状態。顔を合わせることもあったが、会うたびに、Aさんは、娘たちに、「親不孝者
め!」とか、「地獄へ落ちるぞ!」とか言って、娘たちをおどした。Aさんは夫とは、その5年ほど
前に、死別していた。

 が、不幸は突然やってきた。不幸といっても、Aさん自身のことではない。娘たちの不幸であ
る。ある朝、Aさんは、脳梗塞を起こして、倒れてしまった。幸い、症状が軽く、運動マヒは残ら
なかった。しかし人格が、変ってしまった。「母は、まるで別人のように、無表情で、怒りっぽくな
った」(妹)とのこと。しかしそれは同時に、娘たちの苦しみのはじまりだった。

 2人の娘は、たがいにけんかをした。「あんたが長女だから、めんどうみろ」「あんたのほう
が、母にかわいがってもらったのだから、あんたが、めんどうをみろ」と。

 結局、生活費は妹夫婦が負担して、姉のほうが、Aさんのめんどうをみることになった。暗黙
の了解ということだったが、娘たちは、自分の人生をのろった。とくに姉のほうが、その負担を
大きく感じた。

 姉は、毎週のように妹の家に来て、グチを言った。そのグチが、ときには、1時間以上もつづ
くことがあった。姉は、介護ノイローゼから、うつ病の一歩手前という状態ではなかったか。

 夜眠れない。朝早く、目がさめてしまう。耳鳴りがひどい。食欲がない。血圧があがった。腰
が痛い。頭痛がする。吐き気がする、などなど。

 そして母親のささいなことを取りあげて、ああでもない、こうでもないと不平、不満を並べた。
たとえば、インスタントラーメンが、台所のシンクの穴につまっていた。洗面所のお湯が流しっ
ぱなしになっていた。パンが、戸だなの中で、腐っていた。植木鉢の花が、枯れてしまった、な
ど。

 そしてあれこれ理由を並べて、妹が出すお金では、足りないと不満を言った。「往復するだけ
でも、20キロはある。ガソリン代が高い」と。

 妹のほうは、言われるまま、そのつど、2万円とか3万円とか、払っていた。が、それが当たり
前になると、今度は、「時間が取られる」「夫の仕事が手伝えなくなった」「旅行に行けなくなっ
た」と、妹に訴えた。

 母親はまだ、そのとき、65歳になっていなかった。一応、身の回りのことは、自分でできるの
で、介護の認定審査も受けられなかった。姉は、母親を、グループ・ホームへ入れたいと言っ
た。が、月々の費用だけで、13万円。プラス、小遣い。

 が、ここで、事件が起きた。母親が、姉に、それまでは自分で隠しもっていた、銀行の通帳と
印鑑を、渡した。見ると、そこには、1000万円近い金額があった。夫、つまり姉妹の父親の生
命保険金も、それに含まれていた。姉は、「私が預かる」と言って、その通帳と印鑑を、自分の
ところへもっていってしまった。が、このことは、妹には、話さなかった。

 しかし、それは、やがて妹の知るところとなった。母親が、妹のほうへ、電話をした。その通帳
と印鑑の話をした。妹は、即、姉に電話をして、金額をたしかめた。が、姉は、「見ていない」
「計算していない」「300万円くらいかな」と、とぼけた。

 とたん、妹は、姉への不信感をもつようになった。それまでは姉の健康に気をつかっていた。
母親のめんどうをみない自分に恥じて、姉の言うままに、お金を出していた。その妹は、私の
ワイフにこう言った。

 「母も母ですが、姉も姉です。私たち姉妹は、母のおもちゃのようなものでした。ウソのかたま
りというか、何が本当で、そうでないのか、わからない人でした。私たちは、母に、いいように操
られていただけです。そういう自分に気がついて、母とは絶縁しましたが、姉まで、ウソつきと
知って、もう何を信じていいのか、わからなくなりました」と。そして、こう言ったという。

 「しばらくしてから、私の心の中に、大きな変化が起きたのがわかりました。姉に対して、平気
でウソをつくようになってしまったということです。たとえば毎週のように私の家までやってきて、
グチを言っていましたが、それに対して、私と夫は、居留守を使うようになりました。息子たちに
も、口裏をあわせさせています。

 電話機をナンバーディスプレイにして、姉からの電話を受けないようにしました。携帯電話の
番号も変えました。姉には、携帯電話はもうやめたと話してあります。

 で、姉が来そうな日には、わざと何か用をつくって、家にはいないようにしています。以前の私
なら、それだけでも、罪の意識をもったでしょうが、今は、もう、ありません」と。

 こうした現象は、シャドウ論で説明できる。

 人はだれしもある程度の「仮面(ペルソナ)」をかぶる。仮面をかぶって生きている。よい例
が、ショッピングセンターの女性である。いつもにこやかな笑みを絶やさない。しかしそれは仮
面。

 で、その仮面を仮面と気づいている間は、問題ない。しかし中には、その仮面を脱ぎ忘れてし
まう人がいる。仮面を仮面とわからなくなってしまう。そして自分を、「善人」と錯覚してしまう。

 ここに書いた、Aさんが、そうではなかったか。妹は、こう言う。「私の母は、他人の前では、ま
るで牧師か何かのように振る舞います。しかしその他人の目の届かないところでは、他人の悪
口ばかり。他人の不幸が、何よりも楽しい、といった感じの話し方をします」と。

 が、やがて、2人の娘たちと疎遠になると、Aさんは、その娘たちにも、まるで牧師のような振
る舞いをするようになったという。で、あるとき、妹が、Aさんにこう言ったという。「母さん、私
に、そんな手を使っても、無駄ですよ。私は、母さんが、本当は、どんな人かよくわかっていま
すから」と。

 しかしもうそのときには、Aさんには、妹の言った言葉を理解する能力がなかった。仮面が、
仮面であるとさえわからなくなっていた。

 が、仮面をかぶればかぶるほど、自分の中の邪悪な部分を、心のどこかに閉じこめようとす
る。意識的にそうすることもあるし、無意識的にそうすることもある。そしてその邪悪な部分に
ついては、あえて「私ではない」と、言い切ったりする。

 その一例として、反動形成がある。牧師が、ことさらセックスや不倫の話を嫌ってみせたりす
るのが、それ。よい人間を演じつづけていると、その反動として、邪悪なものを、おおげさに遠
ざけようとする。

 が、問題は、ここで終わるわけではない。

 こうして仮面をかぶることにより、その邪悪な部分が、心の奥に閉じこめられる。しかしそこで
その邪悪な部分が消えるわけではない。その邪悪な部分が、その人のシャドウ(影)となって、
その人をウラから、操ることがある。

 が、それはそれ。その人の勝手。実は、親がこうしたシャドウをもつと、そのシャドウを、子ど
もが引きついでしまうことがある。そういう例は、たいへん、多い。Aさんのケースで言うなら、姉
が、Aさんのシャドウを引きついでしまったことになる。妹は、こう言う。

 「姉も、私も、あれほど母を嫌っていたのに、その姉が、母そっくりの人間になっていったのに
は、驚きました。もちろん姉は、それに気づいていません。今でも、『私は、母とはちがう』と思っ
ているようです。しかし一歩退いてみると、つまり私から見ると、母と姉は、一卵双生児のように
よく似ています」と。

 ここまで書いて、私は、2つの話をしなければならない。ひとつは、「運命論」。冒頭に書いた
のが、それ。もうひとつは、「代償的過保護論」。これはそのつぎに書いた。

 まず運命論についてだが、姉が、心安くなるためには、運命を受けいれるしかない。が、現状
では、姉は、その運命を拒絶している。だから、つぎからつぎへと、問題が起きてくる。もっとも
これについては、私のワイフは、こう言う。

 「愛情の問題ではないかしら。その姉妹に、母親に対する愛情があれば、問題は、問題でな
くなってしまうはずよ」と。つまりその愛情が欠落しているから、母親の介護が重荷になるので
は、と。

 そこで、問題なのは、なぜ、その姉妹の愛情が消えてしまったかということ。その理由が、実
は、代償的過保護ということになる。Aさんは、もともと、娘たちを愛してはいなかった。口では、
「かわいがってやった」とよく言うそうだが、娘たちは、そうは思っていない。

 姉が結婚するときも、妹が結婚するときも、「スープが冷めない距離」を条件に出したという。
とくに妹のほうは、そのため、遠地に住む恋人と別れねばならなかったという。つまりAさんは、
姉妹の幸福よりも、自分の幸福を優先させた。それが長い時間をかけて、現在の親子関係
を、つくった。

私「今のままじゃあ、姉のほうも、たいへんだね」
ワ「要するに、2人とも、Aさん(母親)を、心の中では、うらんでいるのね」
私「そういうこと。が、うらめばうらむほど、母親のもつシャドウの呪縛のとりこになってしまう。ク
モの巣の糸にからまれるように、ね」
ワ「母親を嫌えば嫌うほど、母親のような人間になってしまうということ?」

私「そういうケースは、多いよ。本来なら、親子関係を清算するのがいいのだけれど、それはで
きないしね」
ワ「すべての原因は、Aさんにあるのよね。子育てそのものが、最初から、ゆがんでいた。Aさ
ん自身の生きザマにも、問題があったと思うわ」
私「ぼくも、そう思う。で、姉のほうもたいへんだろうけど、妹さんのほうは、これから先、もっと
たいへんだろうね。Aさんが死ぬまで、10年とか、20年も、この問題はつづくからね……」と。

 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

++++++++++++++++++

【補記】

 ここに書いた、Aさんというのは、架空の母親です。もともと、この話は、私の義姉から聞いた
ものです。その話をワイフが私にしたので、さらに詳しくということで、私が義姉に会って、内容
をたしかめてきました。

 一部、その人とわからないようにするため、説明不足の点もありますが、それはお許しくださ
い。義姉から、「Aさんがだれか、ぜったいにわからないように書いてね」と、強くクギを刺されて
います。

 なお、本文の中で、「代償的過保護」「シャドウ」という言葉を使いましたが、それは義姉との
会話の中で、私が、義姉に説明した部分です。「そういうのを、代償的過保護というのですよ」と
か、「シャドウとかいうのですよ」とか。

 それについても、どこか説明不足なところもありますが、この原稿は、また日を改めて、書き
なおしてみたいと思います。

【付記】

 ウソをつく人に会うと、こちらまで、ウソをつくことに抵抗感がなくなってしまう。そしてさらにそ
の人と、長く会っていると、ウソをつくことが平気になってしまう。

 こうしてウソつきのまわりには、ウソをつく人ばかりが集まるようになる。そして一趣、独特の
世界をつくるようになる。

 だから、ウソをつく人とは、できるだけ早く、別れたほうがよい。距離をおいたほうがよい。で
ないと、自分の人間性まで、腐ってしまう。長い時間をかけて、そうなる。

 親や、兄弟、親類、縁者のばあいは、そうは簡単ではないかもしれない。そこで重要なこと
は、ウソにはウソで返すのではなく、そのつど、自分と戦う必要がある。心して、正直、誠実を
つらぬく。

 実は、ここに書いた妹さん自身も、すでに、姉のウソの呪縛の虜(とりこ)になりつつある。居
留守を使ったり、ナンバーディスプレイの電話にしたり、さらには、「携帯電話はもうやめた」と
ウソをつくことなど。息子たちに、口裏をあわせるように指示することによって、今度は、息子た
ちが、その呪縛の虜になってしまう可能性もある。

 このままでは、妹さんのほうも、やがて、Aさんのシャドウに巻きこまれてしまう。もちろん妹さ
んも、それに気づいていないが……。ユングが説いた、シャドウ論の本当のこわさは、ここにあ
る。
(はやし浩司 代償的過保護 親の育児姿勢 シャドウ シャドウ論 兄弟の確執 親子の確
執)




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【子育て格言】

【子育てワンポイント】
 
●質素を旨(むね)とする

 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見
せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところで
する。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜ
いたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素という
のは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをで
きるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どもの
イスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、も
のを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通い
あう生活を、質素な生活という。

●うしろ姿を押し売りしない

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。
子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでや
った」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自
立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どう
して子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。

●死は厳粛に

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それ
がたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、
それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつか
うようになるかもしれない。しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そ
ういうあなたの姿から、生きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれな
い」と書くのは、あくまでもそうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判
断するにせよ、その大前提として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。

●一喜一憂しない

 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多く
の人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。
 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂
しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さ
あ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこ
まで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手
なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れること
ができるかということ。

●「今」を大切に

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努
力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝
かせて生きていくこと。たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小
学校教育は中学校へ入学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのでは
ない。こうした未来のために、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、
「今」という時を、自分のものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、
精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、
豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づ
けば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人
生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だ
から、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえ
すが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。

●『休息を求めて疲れる』

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。
長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車
に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がつ
いた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの
一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って
休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはた
してしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれ
ば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間を
あとにずらせばよい。

●生きる源流を大切に

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、
解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が
助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私
は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができ
た。不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きて
いるだけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにし、また一方で、親子のパ
イプを太くした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみると
よい。それですべての問題は解決する。

●モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほし
いものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤
解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。
物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のこ
ろは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万
円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、
満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめた
ほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育て
で、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからとい
って、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)

●よき友になる

 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、
ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いった
い何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日
本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関
係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」とい
う、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸び
やか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子
どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気
負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつく
る。

●先輩をもつ

 あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理
をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消
する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメ
リットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、
その人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談して
みたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。

●子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よく
したらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界に
は、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることが
ある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習さ
せると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間
という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見な
がら、勉強するということは、それなりに重要である。

●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこで
ある日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きなが
ら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。

●友を責めるな(中日新聞発表済み)

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。

●仕事に誇りを

 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたの
お父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんし
か、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けな
してはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間
一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言って
いた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをそ
の母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。「あんたのお父さん
は、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところで、それが何になる
のか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあっても、プラスになること
は、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこと、母親の指示にも、
従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感
を与え、子どもを伸ばす。

++++++++++++++++++++++
これに関連して、中日新聞掲載記事から
++++++++++++++++++++++

●未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。
原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。

たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定にな
る。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほか
の場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなく
て、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこ
のタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴があ
る。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子ど
もがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出るので、
区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の
立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと
きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ
ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい
う次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。

●守護霊にならない

 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊
んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。
 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親
は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たち
にも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに
服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自
立させる。

●同居は、出産前に

ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査を
してみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわか
った。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から
同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっ
ていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居し
たほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくあ
る。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)が
あきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「お
ばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみ
れば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろん
そうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●許して忘れる

 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われ
るようになった。うれしいことだ。

++++++++++++++++++++++
もう、10年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
++++++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校
を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女
房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい
た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種
はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」
というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおす
ようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なこと
をし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何
でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それがで
きたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
 


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●代償的愛

●三種類の愛

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。
一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し
たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語
では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また
子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに
真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは
親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、
騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛
するようになる。





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●管理・規則

●管理・規則は家庭教育の敵

 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な
親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!)

 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、
いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つ
まり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。

 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がい
る。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限につい
て。

 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切な
のは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもあ
る。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関
係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題な
のは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そう
なれば、ますます信頼関係は崩壊する。

 が、それだけではない。

 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪
の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処
のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちてい
く。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族
の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買った
ものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。

+++++++++++++++++++++++++
これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
ここに転載します。
++++++++++++++++++++++++++

親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者と
なり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そ
ういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほ
ど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ
来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配
者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに
「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そ
のものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……一二%
 就職                ……三四%
 専門学校              ……二八%
 大学・短大             ……二二%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……三三%
 目的追求型             ……二三%
 自由志向型             ……一五%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。
 




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●教育のおもしろさ

●自己嫌悪→自己否定→自暴自棄

+++++++++++++++++++

ときどき、私は、自分がいやになることがある。
いやになって、何もかも破壊したくなることがある。

死にたいと思うことさえある。しかしその勇気も
度胸もない。だから生きているだけ……?
そんなふうに感じることもある。

+++++++++++++++++++

 私は、ちょっとしたきっかけで、よく自己嫌悪に陥(おちい)る。が、そこで止まるわけではな
い。それが瞬間的に増幅されて、自己否定へとつながり、しばらくすると、今度は、何もかもい
やになる。何もかも、破壊したくなる。

 ただ幸いなことに、そうした状態になるのは、家の中だけ。外の世界や、仕事の世界では、な
らない。かろうじてだが、そういう意味では、自己管理能力が、まだしっかりしている。しかし私
のワイフこそ、えらい迷惑。そのため、離婚騒動など、毎年恒例。今では、「離婚」を考えるの
も、めんどうになった。

 こういう私のゆがんだ性格は、私が幼児のときに、心の中に作られた。今なら確信をもって、
そう断言することができる。私は、4、5歳のころから、両親の夫婦げんかを、数日おきに見て
育った。それが私の心のキズ(トラウマ)となった。

 そこで私は、多分、現実の世界から逃れるために、心の中にもうひとつ別の私をつくった。冒
頭に「破壊したくなる」と書いたが、それは、自暴自棄に近い状態をいう。たとえて言うなら、将
棋をさしていて、途中で、何かヘマをすると、駒を投げて投了するようなもの。まだ負けたと決
まっているわけでもないのに、先を悲観して、そうなってしまう。

 そういうときの私は、生きていることさえ、いやになる。が、自分で死ぬほどの勇気も度胸もな
い。だから家を飛び出したようなときには、内心では、「だれかが、車で自分をハネてくれれば
いい」などと思う。そう思いながら、道をトボトボと歩く。

 あえて言うなら、私のワイフは、私のことを愛してはいないと思う。ただ、今、いっしょに住んで
いるのは、心理学でいう、「共依存」のようなもの。ワイフにすれば、見るに見かねて、しかたな
いからいっしょに、いる、といった感じ。ワイフは、「そうでない」とよく言ってくれるが、私は、どう
しても自分の心を開くことができない。だから、そういう精神状態になると、ワイフも含めて、他
人を信ずることができない。

 さみしい男だと、自分でもわかっている。が、そういう私が、同時に、ワイフをも、さみしい思い
にさせている。それもわかっている。夫婦なのだから、たがいの心を全部開いて、ウソ隠しな
く、自分をさらけだす。その大切さはわかっているが、どうしても私には、できない。

 これはたとえて言うなら、過去の不倫や浮気を、どこまでさらけ出せるかという問題に似てい
る。過去に不倫や浮気をしたことがある夫や、妻は、それを今の妻や夫に、話すことができる
だろうか。許しを乞うためでもでも、よい。それを話すことができるだろうか。たがいに心を開く
ということには、そういうところまで、ウソ隠しなく話す……という意味まで含まれる。

 が、ここで重要なことは、こうした心理状態は、私という、どこか特殊な人間のことであって、
そのままそれが、みなに、当てはまるということではない。私はそういう点では、不幸にして不
幸な家庭に育った。親類の人たちは、子どものころの私を思い出して、こう言う。「浩ちゃんは、
いつも明るく、ニコニコ笑っていた」「愛想のいい子どもだった」と。

 しかしそれこそ、まさに捨て犬の根性。私はだれにでもシッポを振る、そんな子どもだった。
忠誠心は、ゼロ。いつも損得の計算ばかりしていた。そして結局は、だれにも心を開かなかっ
たし、開けなかった。本当の自分をさらけ出したくても、本当の自分がどこにいるかさえ、わか
らなかった。

 私の中に、もう1人の「私」ができたのは、そのころである。

 明るく人づきあいのよい私。が、それは仮面。人に好かれるための仮面。が、そうした生きザ
マは、猛烈なストレスを内へ内へとためこむ。それがあるとき、臨界点に達したとき、爆発す
る。それが冒頭に書いた、自己嫌悪である。

 ワイフはこう言う。「私たちは、いろいろなことをしてきたわ。ふつうの夫婦たちよりも、何倍
も、何倍も、濃密な思い出をもっているわ。どうしてあなたは、そういう思い出まで、否定してし
まうのよ」と。

 が、自暴自棄になった私には、それが理解できない。幸福だった日々のほうこそ、幻想のよ
うに思ってしまう。無価値で、無意味、と。だからそれらが破壊されてしまったとしても、おしいと
は思わない。そういう心境になる。つまり、その時点で、自ら死ぬことで、命を断ったとしても、
おしいとは思わない。自暴自棄という状態が極限まで進んだとき、そこにあるのは、自殺という
ことになる。

 が、おかしなことに、そういう状態になっても、もう1人の自分が消えるわけではない。もう1人
の自分、それを「正常な私」とするなら、その正常な私が、自暴自棄になった私に、ブレーキを
かける。「よせよせ、そんなことをして、何になるのだ」「もうやめろ」「お前はバカなことをしてい
る」と。

 しかしこの問題は、脳のCPU(中央演算装置)にかかわっている。だから、どちらが本当の私
で、どちらがニセの私なのか、わからなくなる。どちらも、本当の私ということになる。

 が、夫婦や家庭は、円満であるほうが、よい。けんかするより、仲がよいほうがよい。だから
結局は、もとのサヤに収まることになる。時間にすれば、半日か、1日程度か。たいてい私の
ほうが、「悪かった」「ごめんね」で終わる。

 で、こうして私の心のキズは、今日もつづく。明日も、つづく。このまま一生、つづく。心のキズ
というのは、そういうもの。そしてこうした心のキズをもっている人は、いくらでもいる。ほとんど
の人が、もっていると言っても過言ではない。だれしも、何らかのキズをもっている。

 そこで大切なことは、こうした心のキズがあることが問題ではなく、心のキズがあることに気づ
かないまま、同じ失敗を繰りかえすこと。それが問題。それに気づいたら、あとは、そのキズと
うまくつきあって生きていく。仲よく、つきあって生きていく。

 消そうとしたところで、心のキズなど、簡単に消えるものではない。

++++++++++++++++++

私はあるとき、自分が、捨て犬と同じ
根性をもっていることを知った。

それについて書いたのが、つぎの原稿
です。(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++

教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っ
ている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心
を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり
人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬
だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて
自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そ
のくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をか
ぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。

同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうも
ので、世代から世代へと伝播しやすい。が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大
半は解決する。

私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロー
ルすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をして
いるぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つま
り子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あな
たも一度自分の心の中を旅してみるとよい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学1年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃ
が、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇
の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私
にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は1行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私
は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がい
る。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っ
ても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、1日100万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でま
かせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても1日100万件とは! 

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前に
は、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこち
らのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明
が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がい
た。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは
超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。

『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。

そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこと
ではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこ
そ、ほめられるべきだ」と。

もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そ
ういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。

こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、
身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらい
のことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもを
もつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、
そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。

たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でし
なさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子
どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力するこ
とをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や
仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。





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●親意識

+++++++++++++++++

「うちの子は、口が悪くて困っています。
親を親とも、思わない。そういうときは、
そう対処したらいいですか」という相談は、
多い。

しかし子どもの口が悪いのは、当たり前。
一応叱りながらも、しかしそういうことを
言えないほどまでに、子どもをおさえこんで
しまってはいけない。

++++++++++++++++++ 

親意識が子育てをゆがめるとき

●「私は親だ」というのが親意識 

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲れる。
それだけではない。親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。

上下意識のある関係、つまり命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係は生
まれない。ある母親は、子ども(小1)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向かって何てこと
を言うの!」と、本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、親子は平等だと言う
が、こういうときはどうしたらいいのか」と。

●互いに高い次元で認めあって平等

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。高い次元で認めあうことを
平等という。たとえ相手が幼児でも、そうする。こんなシーンがあった。

あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこと。たまたまその女優が、小さな
女の子(5歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女の子がフラッシュに驚いて、母親
のうしろに隠れた。そのときのことである。母親は、女の子に懸命に笑顔で話しかけながら、そ
のままあとずさりして、家の中へ消えてしまった。

私はそのシーンを見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」と考えた。あるいはあな
たなら、どうするだろうか。

●子どもの気持ちを確かめる

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視点に
立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせるときでも、
「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。やめるときもそうだ。

あるいは子どもが学校で悪い成績をとってきて、落ち込んでいたとする。そういうときでも、子ど
もの気持ちになって、子どもと同じ立場でそれを悩んであげる。それを平等という。それがわか
らなければ夫と妻の立場で考えてみればよい。

もしあなたという妻が、夫から、「お前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われた
ら、あなたはそれに従うだろうか。そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき夫
が、「夫に向かって何だ、その態度は!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。相手
の視点に立って見るということは、そういうことをいう。

●親意識の強い親

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。ある
いは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子どもの側から
みてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そうでない子どもも
いる。

私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分では尊敬に値する人間と思ってい
るらしいが、誰もそんなふうには思っていない。人を尊敬するとかしないとかいうことは、もっと
別のところで決まる。要するに子どもに「バカ」と言われても、気にしないこと。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにしている。「私は
バカではない。大バカだ。まちがえるな」と。先日も私のことを「ジジイ」と言う子どもがいた。そ
こで私はその子どもにこう言ってやった。

「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と。するとその子どもは、「教えて、教えて」と。私はおも
むろにその子どもに顔をむけると、こう言った。

「いいか、これはとても悪い言葉だ。お父さんや先生に言ってはダメだよ。わかったね。……で
は、教えてあげよう。ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。それからというもの、その子どもは私を見るた
びに、私に向かって、「ビダンシ!」「ビダンシ!」と言うようになった。

●子どもを抑え込んではいけない

 子どもの口が悪いのは、当たり前。奨励せよというわけではないが、それが言えないほどま
でに、子どもを押さえつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。このユーモアが、子ど
もの心を広くする。

要するに、相手は子ども。本気で相手にしてはいけない。よく「友だち親子」の是非が話題にな
る。「友だち親子はいいのか、悪いのか」と。しかし子どもが友だちになりえるのは、子どもが中
学生や高校生になってからだ。それまでは友だちにすら、なりえない。

もちろんそれまででも友だち的なつきあいができれば、それはすばらしい。友だち親子、おお
いに結構。どこが悪い? 親の権威だの威厳だのと言っている間は、日本人は、封建時代の
亡霊と決別することはできない。

 そうそうあのアメリカ人の女優のケースだが、日本人なら多分、こう言って子どもを前に押し
出すに違いない。「何をしているの。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとしなさい!」と。
こうした押しつけが、親子の間にミゾを作る。そしてそのミゾが、やがて親子断絶へとつなが
る。

 親意識などなくても、子育てで困ることは何もない。

(付記)
●日本人特有の上下意識(家父長意識)

 親意識と同列に考えてよいのに、「兄意識」「姉意識」、さらには「しゅうと意識」「しゅうとめ意
識」などがある。「先輩意識」「後輩意識」のほか、夫婦の間では「夫意識」というのもある。上下
意識の強い人ほど、あらゆる場面で上下関係を作ろうとする。またそれがないと安心できな
い。上下関係を意識しながら生きること自体が、その人の人生観になっているケースもある。
日本型の出世主義も、こうした背景から生まれた。だからその上下意識を否定するようなこと
を言ったりしたりすると、このタイプの人は猛烈に反発する。「生意気だ」「失敬だ」「礼儀知らず
だ」と。

 なおこのタイプの人は、名誉や地位、肩書きを重んじ、権威に弱い。「立派」「偉い」という言
葉をよく使う。そんなわけで日ごろから、「私は兄だ」「夫だ」「先輩だ」などと、上下関係をよく口
にする人ほど、要注意。親意識が強く、それだけ子育てで失敗する危険性が高い。
(はやし浩司 日本人の上下意識 権威主義 家父長意識 先輩意識 先輩 後輩 上下関
係 はやし浩司)





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●日本語

●日本語の乱れ

+++++++++++++++++

たしかに、日本語が乱れている。
それはわかる。しかし……。

いろいろ議論されているが、どれも
どこか的をはずれているようにも、
感ずる。

本当に、日本語は乱れているのか?

+++++++++++++++++

 中学生レベルの国語力しかない学生が、国立大で   …… 6%
                   4年生私立大で……20%
                   短大で    ……35%

「大学生の日本語力が低下し、中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年制
私立大で20%、短大では35%にのぼることがわかった」というのだ。

調査したのは、独立行政法人「メディア教育開発センター」(千葉市)のON教授(コミュニケー
ション科学)ら。(注……04年度に入学した33大学・短大の学生約1万3000人を対象に、中
1から高3相当の問題を盛り込んだテストを行い、02年度に中高生に実施したテスト結果と照
らし合わせて、レベルを判定したという。)

たとえば「憂える」の意味を「喜ぶ」と思いこんでいる学生が多いなど、外国人留学生より劣る
実態で、授業に支障が出るケースもあるという。同教授は「入学後の日本語のリメディアル(や
り直し)教育が必要」と指摘する。

その結果、中学生レベルと判定された学生は、5年前に行われた調査と比較して、国立大が
0・3%から6%、私立大が6・8%から20%、短大が18・7%から35%と、数年間で大きく増
加していることが分かったという。

Yahoo・ニュースは、「テストでは『憂える』の意味を問う設問で、『中学生レベル」』と判定され
た学生の3人に2人が『うれしい』に音感が近いためか『喜ぶ』を選択。『大学生レベル』とされ
た学生の中でも正答率は50%にとどまり、文字通り"憂える"結果となった」と伝えている。

【問題の例】

 ☆露骨に
(1)ためらいがちに     (0%)
(2)おおげさに    (83.3%)
〔3〕あらわに     (16.7%)
(4)下品に         (0%)
(5)ひそかに        (0%)

 ☆憂える
(1)うとましく思う  (16.7%)
(2)たじろぐ        (0%)
(3)喜ぶ       (66.7%)
〔4〕心配する        (0%)
(5)進歩する     (16.7%)

 ☆懐柔する
(1)賄賂をもらう   (50.0%)
(2)気持ちを落ち着ける(33.3%)
(3)優しくいたわる  (16.7%)
〔4〕手なずける       (0%)
(5)抱きしめる       (0%)

(カッコ内は中学生レベルと判定された学生が回答した割合、〔 〕数字が正解)
 *小数点計算で合計は必ずしも100にならない
(以上、Yahoo ニュースより)

 私も、最近の子どもたちが口にする日本語には、かなり問題があると考えている。しかしそれ
は、個々の言葉の使われ方にあるのではなく、文全体として、問題があると考えている。数日
前にも、それについて書いた。「先生、終わったら、どうするのですか?」と言った子どもがいた
ので、私は、こう答えてやった。

「先生は、まだ終わらない。元気でピンピンしている。先生が終わったら、葬式でもしてくれれば
いい」と。

 こうした言い方の代表的なもののひとつに、「先生、オシッコ!」というのがある。「トイレへ行
きたい」と言うべきときでも、子どもたちは、「先生、オシッコ!」と言う。だから、すかさず、私
は、こう言う。「私は、オシッコではない。人間だア!」と。

 で、最初の話題。つまり国語力。

 「日本の論点」(04)は、「国語に関する世論調査」(04)の結果について、報告している。そ
して「誤った敬語を含む例文を、正しいと思う人が目立つ」と。

 たとえば……

 「先ほど、中村さんがお話しされたように、この本は、とても役にたちます」(まちがい)→正しく
は「お話しになったように」
 「先生が、お見えになります」(まちがい)→正しくは「先生が、見えます」
 「ご乗車できません」(まちがい)→正しくは「ご乗車になれません」
 
 しかしこうした議論を一巡すると、つまり、あれこれ議論をしつくすと、そこに、ふと、こんな疑
念がわいてくる。つまり、これは国語力の問題ではなく、日本語そのものがもつ、欠陥(けっか
ん)ではないか、と。

 たとえば英語で、「I go to Tokyo.」は、

 「私、東京、行く」
 「東京、私、行く」
 「東京、行く、私」と、どんな言い方をしても、意味が通じてしまう。私が住む浜松市では、こう
した言葉の間に、(ジャン)(ダニ)を入れる。たとえば、「私、東京、行く」は、「私、東京、行くジ
ャン」と。

 こうした言葉としての欠陥は、100年単位でみると、さらによくわかる。この日本では、たった
100年前に書かれた文章ですら、辞書なしでは、理解することができない。200年前、300年
前の文章となると、さらに、そうである。

 流動的というよりも、言葉としての一貫性が、まだ確立されていない。だから今の今も、日本
語は、乱れつづけている。

 で、問題は、それが悪いことなのかどうかということ。最近では、コンビニ言葉につづいて、オ
タク言葉、さらにはネット言葉というのも、生まれている。そしてそういう言葉が、表に出てきて、
日常会話の中でも使われるようになってきている。

 ためしに中学生たちが話している会話に、そっと耳を傾けてみるとよい。多分、あなたは、彼
らが、何を話しているか、その意味すらわからないのではないだろうか。たとえば、彼らは、こ
んな話し方をする。

「私、あいつにコクられて、いやだった。だって、フタマタよ。それをXXのヤツ、チクってね。あと
は、シュラバ。私には、ラブな人、ちゃんといるのよ。私、マッチョは嫌い。腹筋が、8つに分か
れている男なんて、サイテー。頭にきたから、デニルしてね。あとは、シカト……」と。

 ついでに、若い人たちの間で、よく使われる言葉について、調べてみた。私が中学生たちか
ら、直接、聞き取り調査したものである。

 コクル……告白する。
 デニル……デニーズ(レストラン)に行く。
 マクル……マクドナルドに行く。
 カリパク……借りたあと、返さないで、もっていること。
 パクル……盗む。
 シュラバ……自分のまずいところを見られること。
 フタマタ……浮気のこと。二人の異性とつきあうこと。
 チクル……告げ口をする。
 パシリ……下っ端のこと。子分的な人のこと。
 アリガチ……ありえること。
 シカト……無視する。
 ラブな人……好きな人。
 A(エイ)……手を握るつぎの段階。(つぎに、B、Cへと進む。)
 マッチョ……筋肉質の人。
 
  もっとも、今の若い人たちは、日常的に、そういう言葉、つまり、「テメエ、殺すぞ」式の言葉
を使っている。ドキッとする言い方だが、これも、ごく日常的な言い方で、特別な言い方ではな
い。が、その一方で、旧来型の日本語を知らないからといって、国語力が落ちていると判断す
るのも、どうかと思う。

 つまり言葉というのは、いつも大衆が先導して決めるもの。そしてその大衆は、いつも、若い
世代によって、先導される。つまり一部の学者が、おかしいと言うなら、それを言う学者のほう
が、おかしいということになる。「国語に関する世論調査」(04、ON教授ほか)でも、敬語の使
われ方を問題にしている。

 これについても、「敬語は、日本語の美しさを代表するものだから、守るべき」という意見と、
「敬語など、もうどうでもよいではないか」という意見の2つが、するどく対立している。私自身
は、めったに敬語など使わない。天皇についても、「天皇が浜松へ来た」と書くことはあっても、
「天皇陛下が、浜松へ、おいでになりました」と書いたことは、一度もない。

 敬意を表す、表さないということではなく、どこでどのように一線を引くか、それを考えるのが、
めんどうだからに過ぎない。いちいちそういうことを考えながら文を書くというのも、たいへん疲
れる。それに敬語の底流にあるのは、日本人独特の、上下意識。敬語を考えるときは、いつ
も、その上下関係を考えなければならない。だから敬語は、無視。大きな流れとしても、敬語
は、この先、消えゆく運命にある。

 だから「国語に関する世論調査」そのものが、どこか、おかしい。その調査では、「敬語の使
われ方がおかしいから、日本語が乱れている」というような結論を出したかったのかもしれな
い。しかし最近の若い人に言わせると、「今どき、敬語なんて……」ということになる。

 だから視点を変えてみたら、どうだろうか。つまりここにも書いたように、個々の言葉の使わ
れ方を問題とするのではなく、文全体として、的確に自分の意思を相手に伝えることができる
かどうかという視点で、である。その際、どんな言葉が使われようが、それは問題ではない。

 「今日、学校あった」(まちがい)→「今日、学校で、授業がありました」
 「これは、パパが建てた家」(まちがい)→「これはパパが、買った家」
 「これは、私の学校」(まちがい)→「これは、私が通っている学校」と。

 で、反対に、これを調査した、「メディア教育開発センター」のON教授に、こんなテストをして
みたら、どうだろうか。はたして、ON教授は、何点取れるだろうか?

【問題の例】

☆ムッチョ
(1)むっつりしているさま
(2)貯金がないこと
〔3〕筋肉がモリモリしているさま
(4)いやがっていること
(5)怒っている様子

☆コクル
(1)告発する
(2)忠告する
(3)密告する
〔4〕告白する
(5)納得する

☆カリパク
(1)食べ物の名前
(2)借りて返すこと
(3)カリカリと怒ること
(4)道路で座ってものを食べること
〔5〕借りて返さないこと

☆アリガチ
(1)ありがた迷惑
(2)ありがとう
〔3〕ありえること
(4)ありえないこと
(5)いらぬ節介のこと

☆フタマタ
(1)2つのことを同時にすること
(2)2人の人と、同時につきあうこと
〔3〕浮気すること
(4)2つの選択肢のこと
(5)いやなこと

☆シュラバ
(1)喧嘩すること
(2)がんばること
(3)ここ一番というとき
(4)苦労すること
〔5〕何か、まずいことがバレること

 日本語も、どんどんと変化している。もともと日本語という言語は、そういう言語であるというこ
と。調査では、「憂える」の意味を知らないことを問題にしているが、実際、若い人たちが使わ
ない言葉であれば、それもしかたないのではないか。

 さらに一言つけ加えるなら、私自身は、旧世代の人たちは、もう少し、若い人たちに、謙虚で
あるべきではないかと思っている。繰りかえしになるが、「自分たちは知っている。しかし今の
若い人たちは知らない。だから今の若い人たちは、おかしい」という論法自体が、おかしいとい
うことになる。どこかものの考え方が、復古主義的?

 ただし世の親たちに一言。

 高校入試にせよ、大学入試にせよ、そこで使われる入試問題は、こうしたどこか頭の古い、
旧世代の人たちによって作られている。だから、子どもの(進学)ということを考えるなら、体制
に迎合したほうがよい。そのほうが、あなたの子どももスイスイと、学歴社会を生きぬくことがで
きる。

 そのためにも、あなたの子どもには、ここに書いたように、正しい言葉で、かつ豊かな言葉で
話しかけるとよい。「テメエ、殺すぞ」ではなく、「あなたが、そうすれば、あなたは、私によって、
殺されますよ」と。

 なお、上から(3)(4)(5)(3)(3)(5)の、〔かっこ〕が正解。
(はやし浩司 国語力 日本人の国語力 表現力 敬語 日本語の乱れ はやし浩司 子供の
国語力 子どもの国語力)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●敬語と日本の文化論(フレキシブルな日本語?)
子どもに向かって、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言う人がいる。妻に向かっては、
「食わせてやる」とか「養ってやる」とか言う人がいる。Y氏(52歳)がそうだ。息子(27歳)と
娘(22歳)がいるが、子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言ってい
る。
さぞかし窮屈な家庭だろうと思いきや、Y氏の妻は妻で、「夫のおかげで生活できます」と言
っている。そのY氏の妻が私の家にやってきて、こう言った。「ウチのダンナなんか、冷蔵庫か
ら牛乳を出して飲んでも、それを冷蔵庫に戻すことすらしない。だから夏なんか、あっという間
に牛乳が腐ってしまう」と。
話を聞くと、Y氏は結婚して以来このかた、トイレ掃除はおろか、トイレットパーパーの差し替え
すらしたことがないという。家庭というのは、そういうものらしい。それでうまくいっているなら、
「あなたはまちがっている」などと言う必要はない。言ってはならない。

が、こういう人に限って、私に猛烈に反発してくる。「君は日本のよさまで否定するのか!」。Y
氏はこう言う。「日本では上の人を敬う。英語には敬語すらない。外国では、親でも先生でも、
『ヘイ、ユー』と言うではないか。そういう国が、本当に理想の国なのか」と。

 こういう人に出会うと、気が遠くなるほど、間に距離を感ずる。順に反論してみよう。人間の上
下意識を支えるのが、権威。「偉い人は偉い」という権威である。理由など、ない。日本人は、
平安の昔からこの権威を徹底的に叩き込まれている。「男は上、女は下」「親は上、子は下」と
いう、日本独特の男尊女卑思想や親意識もここから生まれた。こうした文化は、日本独特のも
のであることは認めるが、それが「日本のよさ」になるかどうかは別問題である。少なくとも、日
本を一歩外へ出た外国では、通用しない。

 次に敬語の問題。英語に敬語がないというのは、ウソ。「ユア・マジェスティ」とか「ハイ・エクセ
レンシー」とかいう言い方はある。「サー」という単語にしてもそうだ。日本語よりはるかに少な
いというだけだが、そのかわり、彼らはそれなりの人に対しては、ていねいな言い方をする。
仲間どうしだったら、「ハイ」かもしれないが、それなりの人には、たとえば「このようにお会いで
きる特権を、私の喜びとします」などいうような言い方をする。むしろ日本語に敬語が多いの
は、平安の昔から、きびしい身分制度をとってきたことによる。敬語があることを、必ずしも喜
んでばかりはおられない。

また敬語というのは、人間関係を飾る道具として使われる。あくまでも飾り。だから敬語を使う
から相手を尊敬しているということにもならない。使わないから尊敬していないということにもな
らない。私などいつも生徒に、「ジジイ」とか、「バカはやし」とか呼ばれている。しかしそのほう
が互いに心を開いているから、ストレートな人間関係を築くことができる。気も疲れない。

 最後に何も、アメリカや欧米が理想の国だとは思っていない。日本は日本だ。しかしここで大
切なことは、世界に理解される日本であるか否かということ。もし日本が今までのように、東洋
の島国でよいというのなら、それはそれで構わない。しかしそれでよくないというのなら、日本の
常識を外国へ押しつけるか、あるいは日本は世界の常識を受け入れるしかない。あるいは英
語の敬語を発明して、それをアメリカ人に押しつけるというのもよい考えだ。しかしそれができ
ないというのなら、日本を少しでも外国の常識に近づけるしかない。

私はそう考えるが、あなたは私の意見をどう思うか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)
日本語は、よい意味では、よりフレキシブル(=柔軟性のある)な言語ということになる。いろい
ろな言い方ができる。その点、反対に中国語などは、ガチガチしている。そんな印象を受ける。
たとえば「私はあなたを愛する」は、中国語では、「ウォー・アイ・ニー」となる。が、それだけ。

 しかし日本語のほうでは、「私ね、愛しているわ」「私は、愛しているよ」「ぼく、愛しているか
も」「ぼくさア、愛しているね」などと、いろいろな形で、微妙な表現ができる。

 敬語についても、そうで、これまたさまざまな言い方ができる。しかしそのさまざまな言い方が
できるという部分で、日本語は、より複雑になってしまった。そしてそれが、時をおいて、学者た
ちの間で、話題になったり、問題になったりするのでは?

 ところで、この文の中で、「君は日本のよさまで否定するのか!」と私は書いた。それを言っ
てきたのは、実は、女性である。当時は、まだ生々しい話だったので、「男性」とかえた。その
女性の年齢は、35歳くらいではなかったか。で、そのあと、その女性から、手紙まで届いた。し
かし内容は、支離滅裂。まるで文章になっていなかった。だから「返事を書くまでもない」と思
い、電話で返事をすることにした。

 しかし電話口に出た男性(その女性の夫)は、電話口で、ただ「すみません」「すみません」と
言うだけで、その女性には、電話をとりついでくれなかった。どういう事情になっていたのか、今
でもよくわからないが、多分、その男性(夫)も、その女性(妻)に手を焼いていたのかもしれな
い。
(はやし浩司 敬語 日本語 日本語の問題 言葉)





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●日本の教育

●教育界を吹きすさぶ、むなしい風(目標をなくした教育)

 できない子どもがふつうになっても、親は「効果があった」とは言わない。ふつうになればなっ
たで、親は「もっと……」と言う。できないままであれば、親は、「効果がなかった」とか、「あの先
生はダメな先生」とか言ったりする。できる子どもについても同じ。少しでも成績がさがったりす
ると、親は大騒ぎする。考えてみれば、こんなむなしい仕事はない。こうした現象は、算数の世
界でよく見られる。

 計算力というのは、訓練で伸びる。幼稚園児でも掛け算の九九を暗記したり、あるいは小学
一年生でも、計算を即座にしたりする子どもがいる。そういう子どもの親は、「うちの子どもは、
算数の力(=考える力)がある」と思う。しかし計算力と、算数の力は別。基本的な力がないと、
やがてメッキがはがれるように、算数の力は低下する。こういうとき教師は一番、苦労する。親
のきびしい視線を、子どもを通して痛いほど、感ずるからだ。

 教育、教育と言いながら、親の意識の中にも、「育てる」という意識がない。教育とは、勉強を
教えること。子どもの側では勉強をすること。そしてその目的はと言えば、「よい学校に入り、よ
い大学を出て、よい会社に入社するため」と考える。だからどうしてもそこに成績至上主義がは
びこる。成績がよければ善。成績が悪ければ悪、と。こうしたものの見方は明治時代以来、日
本の伝統的な教育観として定着している。あの夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも、職員会議の
席で一人の教師が、「我が校の実績も着実にあがってきております」と発言するシーンがある。
この場合、「実績」とは、大学への進学率をいう。

 私は一度、ある塾連盟の機関紙にこんな記事を書いたことがある。「何だかんだと言ったとこ
ろで、日本の教育の柱は人間選別ではないか。もしこの教育界から受験をはずしたら、塾な
ど、あっと言う間につぶれてしまうでしょ。学校教育だってあぶない。もし塾が本当の教育とや
らをしたいのなら、受験科目とは関係ない科目で、生徒を集めてみればいい」と。ふつうならあ
ちこちから反論が殺到するが、このときばかりは何も反応がなかった。塾教育そのものを、ま
っこうから否定したからだ。

 話をもとに戻すが、今のような教育体制を続ける限り、この教育界から、この「むなしさ」は消
えない。そしてこのむなしさがある以上、教師にやる気など、出てこない。だからいくら外部の
人間が教育改革を叫んでも、絵に描いた餅で終わってしまう。考えてみれば昔はよかった。教
育がわかりやすかった。進学率を高めることが、教育の目標だった。しかし今は、その目標が
ない。現場の教師たちが、何に向かって努力したらよいのか、それがわからなくなってしまっ
た。

へたに創意工夫をすれば、隣のクラスの父母から文句を言われる。「どうしてうちのクラス
では、してもらえないのか」と。そうそう毎日のように子どもたちを近くの公園へ連れていき、そ
こで授業をしていた先生がいた。しかし親たちの反対で、あっという間にやめになってしまっ
た。「そんなことすれば勉強が遅れる」と。

 創造力豊かな子どもを育てるといったところで、教師自身にそれが許されていないのに、どう
してそれができるというのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ごく最近(05年夏)でも、こんなことがあった。

 ある小学校に、オーストラリア人の英語教師が派遣されてやってきた。で、そのオーストラリ
ア人教師が、自分の生徒たちを、近くの公園へ連れて行こうとしたとき、教頭が、それにストッ
プをかけた。「授業は、教室でするように」と。

 そのオーストラリア人の教師は、私にこう言った。「野外授業は、オーストラリアでは、みなや
っている。当たり前の授業なのに、どうして日本では、だめなのか?」と。

 その学校には、その学校なりの、いろいろな事情や規則があったのだろう。「事故でもあった
らたいへん」と、その教頭は考えたのかもしれない。オーストラリア人の教師は、こう言った。
「オーストラリアの子どもたちの遊びを教えたかったのに……」と。

 だからといって、私は、全面的に、そのオーストラリア人の教師の言い分を認めたわけではな
い。日本人には、「土俵」という考え方がある。「土俵では、相撲のルールに従え」と。そこで私
はそのオーストラリア人の教師に、こう言った。「本当に自由な教育をしてみたいと思ったら、英
語教室を自分でつくり、生徒を自分で集めること。そこで好きなことをすればいい」と。

 この私の考え方は、少し、保守的かな?
(はやし浩司 教師の自由 教育の自由 教師のやる気 自由な教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の皮肉(教育の原点)

 家庭教育では、子どもは使えば使うほど、いい子になる。忍耐力も育つし、生活力もつく。そ
してその上、親の苦労のわかる子どもになる。

 子どもは突き放せば突き放すほど、自立する。「あなたの人生だから、あなたはあなたで、勝
手に生きなさい」という姿勢を、親がもてばもつほど、子どもはたくましくなる。

 子どもに期待をしなければしないほど、子どもは親の期待を超えた子どもになる。「私が老人
になっても、子どもたちにはめんどうをみてもらわない」と言う人がいるが、そういう人ほど、ま
た子どもたちの愛を一身に集めている。

 一方、家庭教育では、子どもは手をかければかけるほど、またお金をかければかけるほど、
ドラ息子化する。生活がルーズになり、自分勝手になる。

 子どもは溺愛すればするほど、わけのわからない子どもになってしまう。あるいは親に反発
する。そうでなければ超マザコンタイプの子どもになってしまう。

 子どもに期待をかければかけるほど、子どもはどんどんその期待からはずれ、親の望む方
向とは別の方向へ進んでしまう。あるいは親の過剰期待の中で、子どもは窒息してしまう。

 皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。親たちがよかれと思ってしていることが、かえって
裏目、裏目に出てしまう。なぜか。私はその理由の一つとして、人間には本来、いじってもよい
部分と、そうでない部分があるように思う。たとえば人間の自立に関する部分はいじってはいけ
ないし、いじればいじるほど、子どもの自立は遅れる。つまりそういう部分は、人間が「教育」を
意識する、ずっとはるか昔から人間に備わっていた「力」だと思う。庭にやってくるスズメにして
も、実にたくましい。犬の目を盗んでは、ドッグフードを盗んでいく。

 となると教育とは何か、ということになる。そこで一のヒントとして、スズメの話を続ける。この
スズメは、山バトがやってきても、まったく逃げない。しかしモズがやってくると一斉に逃げ出
す。モズは肉食だ。そこでスズメをよく観察してみると、「逃げる」という行動は、親から子へと
代々教え継がれていることがわかる。親鳥が逃げ出すと、間髪を入れず、子スズメたちが逃げ
出す。そしてやがて子スズメたちはモズがやってきたら、逃げるということを学習する。

 わかりやすく言えば、教育とは、先人の知識や経験を、子どもたちに生きる武器として与える
こと、ということになる。またその視点を忘れて、教育はありえないし、またその視点からはず
れた教育は教育ではありえない。たとえば歴史教育にしても、原爆の悲惨さを教えるのは教育
であっても、○○年△△条約成立などという年号を子どもに暗記させるのは、歴史教育ではな
い。教育がそういう視点に立ちかえったとき、教育が本来どうあるべきかがわかるのではない
だろうか。

 家庭教育は、あくまでもその一部に過ぎない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 今、このエッセーを読みかえしてみても、「まったく、そのとおり」と思う。そういえば、冬になっ
たというのに、ここ1、2年、そのモズが私の庭に来なくなった。どうでもよいことだが、ふと、
今、そう思った。

 また20年来つづけてきた、スズメの餌づけだが、それについては、今年から、やめた。鳥イ
ンフルエンザの問題もある。が、それ以上に、やってくるスズメの数が、あまりにも多くなりすぎ
た。昨年当たりは、数十羽ずつに分かれた群れが、ひっきりなしに私の庭にやってきていた。
 

 朝早く、1〜2キロの餌を庭にまいたり、餌台にのせるのだが、午前中には、それがきれいに
なくなってしまった。しかしこういう餌づけは、結局は、野鳥のためにはならないのでは……。野
鳥が、人間に依存するようになり、野鳥が野鳥でなくなってしまう。

 それがやっとわかった。それでやめた。私自身は鳥が大好きで、庭に鳥がいないと、さみし
いのだが……。
(はやし浩司 忍耐力 自立 子どもの自立 教育の原点 教育の目的)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●新学力観という、観点(役に立つ教育)

 「地面に立てたポールを利用して、太陽の高度を調べるにはどうしたらよいか。図解して説明
せよ」という問題がある。文部省が実施した「新学力テスト問題」の一つだが、中1年生での正
解率は、たったの10・4%。しかしこんなことは、教育が始まる以前から、人間には常識だっ
た。昔の人間は、皆、太陽の位置や影の長さで時刻を知った。今の子どもたちは、そんなこと
も知らないのかということにもなるし、裏を返せば、今の教育は一体、何を教えているのかとい
うことにもなる。

 教育の基本は、「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えるこ
と」ではないのか。そういう視点がないと、受験教育に代表されるように、教育がただ単なる点
数稼ぎのための道具にされてしまう。もっと言えば、教育が人間選別の道具にされてしまう。

ちなみに中学生にこう聞いてみればよい。「君たちは、なぜ勉強するか」と。大半の子どもたち
は、こう答える。「高校へ入るため」「大学へ入るため」と。親にしてもしかり。勉強をしない子ど
もを叱るとき、「そんなことでは、いい大学へ入れないぞ」と叱ることはあっても、「将来、必要な
知識が身につかないぞ」とは言わない。こうした教育がさらにいびつになると、幼稚園で掛け算
の九九を暗記させたり、漢字の読み書きを教えたりするようになる。

 一方、これは当然のことだが、子どもたちはその必要性を感じたとき、実に生き生きと自ら学
習し始める。私はときどき、「お金儲けごっこ」をするが、そのときもそうだ。それはこうして遊
ぶ。

 まず子どもたち(年長児)に、紙で作ったお金を渡す。そしてそれで折り紙を買わせる。大小
さまざまな大きさの折り紙があって、それぞれ値段が違う。子どもたちはその買った折り紙で、
いろいろなものを作る。絵を描く子どももいる。で、それができたら、今度はこちら(教師)が、そ
のできたものを買いあげてあげる。じょうずにできたのは、高い値段で。そうでないのは、低い
値段で。あとはこれを繰り返す。

ときどき、ほかの子どもが作ったものを、別の子どもに売ってあげることもある。20円で買いあ
げたものを、40円で売りつけたりすると、子どもたちは「ずるい、ずるい」と言うが、「これが資
本主義の原理だ」などと難しい言葉で言ってやると、たいてい静かになる。さらに慣れてくると、
子どもたちどうしで、ものの売買をし始めるようになる。

 こうした動機づけがあると、あとは放っておいても、子どもたちは自ら、足し算や引き算をする
ようになる。多い少ないの判断も、そして損得の判断もできるようになる。さらに「労働すること
の喜び」もわかるようになる。

 文部省の新学力観では、「知識の獲得量ではなく、自分で考え、表現する力を重視する」とい
うもの。私はこれには大賛成だが、ただし一言。こういう指導が全国一律になされるところに
も、問題がある。皆が同じように自分で考え、表現するようになったら、それこそ、この日本は
どうなる。そんなことも頭に入れておいてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 日本の教育は、全体としてみると、将来、その道の学者をめざす子どもたちにとっては、きわ
めて効率よく、かつ体系的にできている。理由は、わかりきっている。教科書が、その道の学
者たちによって、作られているからである。

 たとえば英語という科目にしても、将来、英語の文法学者になるには、たいへん効率よく、体
系的にできている。(最近は、こうした考え方が、大きく変わりつつあるが……。)

 しかし今、将来、学者になる、あるいはなりたいと言っている子どもは、いったい、何%いるの
か? 

 また日本の教育には、「子どもたちに実用的なことを教えるのは、悪」と考えているフシすら、
見受けられる。しかしどうして実用的であっては、いけないのか。アメリカでは、中学校の数学
の時間に、小切手の使い方を教えている。

 ここで「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えること」と教え
てくれたのは、オーストラリアのM大学で、教授をしている私の友人である。
(はやし浩司 日本の教育 実用的な教育 子どもの学力 子供の学力 新学力観)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●一つの暴論(教育革命論)

 これはあくまでも暴論だが、学校は午前中だけでやめたらいい。午後は、生徒の自由にす
る。そしてそれぞれの特性に合わせて、塾へ行けばいい。何も学習塾や受験塾だけが塾では
ない。ピアノ教室、料理教室、工作教室、釣り教室、水泳教室、フランス語教室、ダンス教室な
ど。学校の中に、塾を呼びこんでもいい。その分、月謝は割安にする。

 原則として文部省は、学校の運営管理だけに口を出す。教科書検定は廃止。一方、受験指
導は、それを「よし」とする、業者に任せればいい。生徒の答案用紙を採点するのは、しかたな
いとしても、順位をつけ、進学校へ割り振るなどという行為は、教育者を名乗る教師のする仕
事ではない。

 また学校の敷地の3分の1には、樹木を植えさせる。校庭には、緑の芝生をしきつめる。管
理は、授業の一つとして、子どもたちに任せる。また校舎は今後、完全なバリヤーフリー構造
にして、身体障害者や知的障害者を差別することなく入学させる。そして子どもたちどうしで、
互いにめんどうをみあう。

 教師のする仕事は、「教える」ことではなく、「引き出す」こと。子どもたちの特性を見極めな
がら、その特性に応じた指導をする。具体的には子どもの特性に応じたカリキュラムを組んで
あげる。読書が好きな子どもは、毎日でも読書ができるようにしてあげる。皆が皆、算数ができ
なくてもいい。算数ができない子どもは、算数ができる子どもを尊敬し、ピアノがひけない子ど
もは、ピアノがひける子どもを尊敬する。互いに皆が、それぞれの立場で相手を認め合う。

 そうそうA中学に優秀なスペイン語塾があれば、B中学やC中学からも、自由に越境受講で
きるようにすればいい。そうすればもっと多様性が広がる。また基礎学力(算数の基礎、読み
書きなどの基礎)については、単位制を導入して、義務教育機関中に終了すればよいとする。
クラス担任制度は廃止して、生徒の責任者制度を導入する。その責任者(教師)が、それぞれ
の子どもの指導について、責任をもって指導する。必要に応じて、一日中、行動をともにしても
よい。

 高校、大学も基本的には、子どもの多様性に合わせて、多様化する。高校や大学にスキー
学部があってもいいし、釣り学部があってもいい。文学部も、作家部、読書評論部などに分け
る。経済学部も、起業部、ベンチャービジネス部などに分ける。もちろん一方に、アカデミックな
学問を探求する学部があってもいい。哲学や数学の分野で、すぐれた才能を示す子どもにつ
いては、それはそれとして伸ばす。

 これは暴論だが、しかしもし実行したら、それはまさしく教育革命というにふさわしい。長い
間、鎖国と封建制度の中で苦しめられてきた子どもたちにとっては、まさに革命。自由を求め
た革命。が、あなたはそれでも今の教育制度がいいと思うか。もしそうならあなた自身の子ども
時代を思い浮かべてみてほしい。あなたは心の中で、どんな学校を求めていたかを、だ。力の
ない子どもの革命を助けるのは、あなたしかいない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 この原稿を書いてから、4年になる。が、実は、こうした(流れ)は、すでに世界の常識になり
つつある。ドイツやイタリアでは、学校外教育が、ますますさかんになりつつある。カナダでも、
そうだ。「教育は学校で」という発想そのものが、もう古い。

 ただしこの日本で、教育を自由化するには、1つの条件がある。まず、学歴社会を是正する
こと。それをしないで、自由化すれば、進学塾だけが、学校外教育ということになってしまう。
(はやし浩司 教育の自由化 学歴社会 教師の責任)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論)

 大学の教授は、高校の先生より、エライ。高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の
先生は、小学校の先生より、エライ。小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくと
も、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを
学歴信仰という。

 家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、息子のために学費を送り続ける。が、
肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤ
の催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。そしてそれが「親の務めだ」と思
う。こういうのを学歴信仰という。

 浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親
は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏に入ってくると、今度は「A高校。それが無理
なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には際限がないが、そういう思いが、誰にで
もある。こういうのを学歴信仰という。

 新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意はわからないが、文部大臣が、母校のA
高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と述べたとか(99年2月)。つまり「日本には
学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に立ったような人が、しかもその信仰の総
本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、そういう発言をするところに、日本のこ
っけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や
予備校に通わせない。もし本当にないのなら、成績に関係なく、東大の学生を入学させたらい
い。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。

 学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、それを死ぬほどほしがる。お金
と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と言ったところで、その日のお金に困
っている庶民には、説得力はない。私もある時期、自分の学歴にしがみついて生きていた。特
にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、私の教育論になど、誰も耳を傾け
てくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、いかに辛酸をなめさせられたことか。

 話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、その年から手話を教えるようになったと
言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理
由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。こういう姿勢、つまりその
子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、私は学校の本来、あ
るべき姿を見た。

反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが入学してきたら、教師や父母
は、どのように反応するだろうか。さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、学
歴信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、文部大臣ももう少し庶民の側におり
て、ものを考えてほしいと思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いた時点(01年)と今では、障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。1
5年ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、1人の身体に障害のある子どもを入学させよ
うとしたことがある。そのとき、「そういう子どもが入ってくると、子どもたちの勉強の進度にさし
さわりが出る」と、反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、報道されたので、覚えて
いる人も多いと思う。

 たった15年前には、日本はまだそういう国だった。が、今、そんな反対運動をすれば、反対
に、その親たちが袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、親たちの意識が、たしかに今、
変わりつつある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)





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●子育て格言


●わからぬフリをする(うちの子は、どうですか?)

 子どもの情緒障害、専門的には脳の機能的障害には、軽重の程度の差がある。重い場合
は別として、軽い場合には、ふつう児との境があいまいで、そのため指導が難しい。いろいろな
ケースがある。

たとえば自閉症にしても、それと明らかにわかる子どももいるが、「どこか心を開かない」「勝手
な行動をして、どうも心をつかめない」という程度の子どももいる。かん黙児にしても、外の世界
ではまったくしゃべらない子どももいれば、ふとしたきっかけで黙りこくってしまう子どももいる。
私にしても、それぞれ何10例もの子どもたちを直接指導してきたが、その私でもいまだに迷う
ことが多い。いや、判断を誤ることはまずないが、親に言うべきかどうかで迷う。「もし万が一に
もまちがっていたら……」という思いと、「治療法も用意しないまま、診断だけをくだすことはでき
ない」という、二つの思いの中で迷う。言えば言ったで、親に与える衝撃ははかり知れない。

 だから親は、子どもがどこか変わった症状を示したりすると、子どもを叱ったり説教したりす
る。「どうして静かに落ちつけないの」とか、「皆の前で、もっとハキハキ、しゃべりなさい」とか。
しかし脳の機能的障害というのは、そういうものではない。子ども自身がコントロールできな
い、脳の奥深い部分で起こる。そして次に親は、その矛先を、教師に向けてくる。「先生の指導
が悪いから、こうなったのだ」と。教師がやりきれない気持ちに襲われるのは、たいていこんな
ときだ。

 が、教師は知らぬふりをして教える。そういう知識はないという前提で、教える。少なくとも親
のほうから、「どうしてでしょうか?」という質問があるまで、そうする。……こう書くと、無責任な
教師のように思われるかもしれないが、教育には、はっきりとわからなくてもいいことは、山ほ
どある。あるいはわかっていても、わからないふりをして教えることは山ほどある。たとえば子
どもの知能や、家庭問題。性格や気質など。その子どもはそういう子どもなのだということを納
得した上で、教える。仮に情緒に問題があるとしても、ふつう児として自然に扱ったほうが、そ
の子どもにとってはよいということもある。意識すればするほど、逆効果になる。

 そうそう、教師が一番いやがる会話を教えよう。何がいやかって、親に、「うちの子、どうでし
ょうか」と聞かれることぐらい、いやなことはない。「うちの子、最近、いかがでしょうか」と聞く人
も多い。親というのは先生と顔を合わせると、たいていそう言うが、言われたほうは答えようが
ない。親は軽いあいさつのつもりでそう言うのだろうが、何をどの程度答えるべきか、その返答
に困ってしまう。私の場合、そういうふうに聞かれたら、たいてい、「おうちではいかがです
か?」と聞きなおすようにしている。そうすると、相手の聞きたいことがわかる。

私「おうちではいおかがですか」
親「最近、家の手伝いをしなくて困っています」
私「ああ、そのことですね」と。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 「問われるまで、答えない」……それが、教師の間の不文律にもなっている。いくら子どもに
問題があっても、教師の側から、それを指摘してはいけない。中には、それを正しく受け取って
くれる親もいるが、ほとんどの親は、その瞬間から、狂乱状態になってしまう。

 で、最近の教師の傾向としては、こういう言い方をするのが、通例になっている。「一度、専門
医に相談してみられてはいかがですか?」と。あとの判断は、親がすればよいという指導のし
方である。

 一見、無責任にみえる指導法だが、現状では、それもやむをえないのではないか。
(はやし浩司 子供の問題 育児の問題 子供の心の問題 教師の対処法)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●溺愛ママ・ブルース(溺愛は愛ではない)

 子どもを溺愛する親は、珍しくない。たいていは親側の情緒的欠陥が原因で、親は子どもを
溺愛するようになる。ある母親は、息子(小6)が、修学旅行に行った夜、一睡もせず泣き明か
した。また別の母親は、やはり息子(中3)が初恋をしたことについて、はげしい嫉妬心を燃や
した。

 こうしたケースで特徴的なことは、溺愛している母親は、それを「親の深い愛」と誤解している
点にある。ある母親は臆面もなく、こう言った。「息子(高1)の汚れた下着を見ていると、いと
おしくて、頬ずりしたくなります」と。つまりそうすることが、親の鏡というわけである。中に生きが
いのすべてを、子どもに注いでしまう人がいる。考えることといえば、明けても暮れても、子ども
のことばかり。毎月、子ども(幼稚園児)の成長記録を、小冊子にして発行している人もいる。
こういう人は、「子どもは私のすべて」と公言してはばからない。

 しかし溺愛は、「愛」ではない。代償的愛ともいう。つまり自己の支配欲を満たすために、子ど
もを愛する。あるいは自分の心のスキ間を埋めるために、子どもを愛する。つまりは親の身勝
手な愛に過ぎない。子どもを愛するということは、子どもが巣立っていくのを見守りながら、じっ
とそのさみしさに耐えることにほかならない。もっともこう書いたからといって、溺愛が悪いとい
うのではない。もちろん笑っているのでもない。

ただ私がここで言いたいことは、親が溺愛すればするほど、子どもの「核」形成が遅れるという
ことだ。核というのは、子どものつかみどころをいう。その年齢になると、その年齢にふさわしい
「つかみどころ」ができてくる。しかし親が溺愛したりすると、そのつかみどころがわからなくな
る。全体にその年齢に比して、幼い印象を与えるようになる。が、それだけではすまない。

 子どもはその年齢ごとに、ちょうど蝶がカラをぬぐようにしてカラをぬぎながら、成長を繰り返
す。しかしその段階で溺愛などが原因で、カラをぬがないと、そのツケはあとへあとへと回され
る。しかもあとになればなるほど、その衝撃は何10倍も大きくなる。はげしい家庭内暴力に
つながることもある。

「俺を、こんな俺にしたのは、オマエだ!」
「許して、お母さんが悪かったわ」と。

そうでなければ、そのまま子どもはマザコンタイプの子どもになっていく。30歳になっても、40
歳になっても、親離れできない。これは極端なケースだが、結婚してからも実家へ帰るたびに、
母親と風呂へ入ったり、一緒に寝ている男性がいた。そういうふうになる。

 自分自身の中に「溺愛」を感じたら、子育てから遠ざかる。しかしこれは簡単なことではない。
唯一方法があるとすれば、母親であることを忘れ、妻であることを忘れ、ついで女であることを
忘れ、一人の人間として、自分のしたいことをする。そしてその反射的効果として、子育てから
遠ざかる。もちろん自分自身に情緒的欠陥があれば、それと闘う。(以上、01年記「子育て雑
談」)
 
(補記)

 マザコンになるのは、何も男児だけとはかぎらない。女児も、マザコンになるケースは、多
い。しかも女児(女性)のマザコンのほうが、男児(男性)よりも、強烈になりやすい。女性のば
あい、実家に帰って、母親といっしょに風呂に入っても、だれも、おかしいと思わない。(男性だ
ったら、それだけで、大問題になるが……。)そういうスキをついて、女性は、男性よりも、より
強烈なマザコンになる。

 さらにファザコンというのも、ある。自分の父親を偶像化する。「オレのオヤジの悪口を言うヤ
ツは、許さない」と、公の場所で、叫んだ男性(50歳くらい)がいた。

 でき愛は、「愛」ではない。自分の心の欠陥を埋め合わせするために、親は、子どもをでき愛
するようになる。ご注意!
(はやし浩司 溺愛 でき愛 子どもの成長 子供の成長 子供の心の発達 心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●スポイルされる子どもたち(忍耐力のない子ども)

 アメリカ人の友人が、「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」という。わかり
やすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう
言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

 「ときどきホームスティをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対にアメリカへ、ホームスティしてきた高校生が、こう言って
驚いていた。「向こうでは、明らかに不良と思われるような高校生でも、家事だけは手伝ってい
た」と。

 日本人は、子どもを使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解している
ようなところがある。だから生活感がない。「水はどこからくるか」と、年長児たちに聞くと、「水
道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持っていってくれる」と。あるいは
「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「おとうさんが、やってくれるから
いい」と答えたりする。

 こんな話をある講演会で話したら、一人の母親がこう質問してきた。「何をやらせればいいの
ですか」と。話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの30分ですんでしまう。買物といっても、食材
は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。料理のときも、台所の周囲でうろうろされると、かえって
迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親がせんべいを口にして、
寝そべりながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと
動き回り、子どももそれに合わせて、キビキビとすべきことをすることをいう。たとえば次のよう
なとき、あなたの子どもはどういう反応を示すだろうか。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたが……。さっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかしそ知ら
ぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育をかなり反省したほうがよい。

 よく誤解されるが、子どもの忍耐力は、「いやなことをする力」をいう。台所の生ゴミを手で始
末できるとか、寒い夜に隣へ回覧版を届けることができるとか。一日中サッカーをしているか
ら、忍耐力があるということにはならない。その子どもは好きなことをしているだけである。その
忍耐力がないと、子どもは学習面でも伸び悩む。勉強するということには、どうしても苦痛がと
もなう。その苦痛が乗り越えられないからだ。またそれ以前の問題として、生活力が身につか
ない。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女子)がいた。話を聞くと、
「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないた
めにも、子どもは使って使って、使いまくる。子どもが2〜4歳のときが勝負で、それ以後にな
ると、このしつけはできなくなる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ここに書いたアメリカ人というのは、浜松市に住んでいた、R・ケリーという人だった。4、5年
前にアメリカへ帰っていった。で、一度、彼の家を訪問したことがある。すばらしい御殿のような
家だった。半地下室には、卓球ルームまで作ってあった。

 彼が日本へやってきたのは、52歳のとき。ある店で、ぼんやりと外をながめていたとき、私
の方から声をかけた。以来、10年近く、つきあった。

 すばらしいアメリカ人だった。彼の送別会には、300〜400人近い人たちが、ホテルに集ま
った。この原稿を読んでいるとき、それを思い出した。ここ1、2年、音信がないが、今ごろは、
どうしているだろうか? 


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●崩壊家庭の中で(ゆがむ子どもの心)

 荒れた自分の家を、得意げになって見せていた子ども(小3男児)がいた。敷きっぱなしにな
った破れたふとん。その周囲に散乱するティシュペーパー。割れた窓ガラス。汚れた台所に、
ゴミの山。一定の限界を超えると、子どもの心から「家庭」とのつながりが消える。ふつうなら、
「家庭の恥ずかしい部分は隠そう」という意識が働くが、そういう意識がない。当然、心も荒れ
る。ものの考え方が粗野になり、他人の心の動きに鈍感になる。

 いわゆる「家庭崩壊児」はこうして生まれる。家庭が本来あるべき家庭として、機能していな
い。こうした拒否的な環境で育った子どもは、心に深刻なキズを負うことがわかっている。こん
な子ども(高1男子)がいた。いわく、「台風で壊れる家を見ていると、楽しい」と。そこで私が
「本当に楽しいのか」と聞くと、「おもしろい」と。さらに「それが君の家だったら、どうするのだ」と
聞くと、「もっと楽しい」と。

 このタイプの子どもは、「世間に迷惑をかける」ということに、たいへん鈍感になる。真夜中に
マフラーをはずしたバイクを、バリバリとふかしても、それが悪いことだという意識がない。ある
いは路上にビンを叩きつけて割っても、それが悪いことだという意識がない。むしろ人に迷惑を
かけることを楽しむようなところがある。善悪を判断する中枢部分が、変調をきたしているため
と考えるとわかりやすい。仮に立ち直っても、その影響は一生続く。俗に言う、ヒネクレ症状と
いうのが、それである。

夫「こんなところに、サイフを置いてはダメだ」
妻「あんただって、この前、ここに置いたじゃ、ない」
夫「だから、ここに置いてはダメだ」
妻「自分だって、ここに置いたクセに、何よ!」 

 このところの不況で、程度の差こそあるが、このタイプの子どもがふえている。平気で自分の
家族や家庭の恥を口にするから、わかる。

「うちの父ちゃんね、毎晩、エロビデオを見てる」
「ママね、パパの稼ぎが少ないから、苦労してるよ」
「パパが本を投げつけて、ママが頭にけがをした」など。

 家庭崩壊を子どもに経験させてはいけない。これは子どもを妊娠したときからの、親の義務
のようなものだ。が、それでも……というのであれば、これはもう個人の問題ではないように思
う。福祉とか、福祉社会というのなら、老人や障害のある人に、こういうタイプの子どもたちも含
めるべきだと、私は思う。客観的に見て、そういう心配のある子どもは、行政による手厚い保
護が必要だ。親の理解と協力が期待できない以上、そうするしかない。

 家庭崩壊を経験した人は不幸だ。結婚しても、「よい家庭を作ろう」という気負いばかりが先
行して、結局は失敗しやすい。あるいは結婚そのものができない。子どもをつくっても、うまく子
育てができない。頭の中に「家庭像」や「親像」がないからだ。

繰り返すが、家庭崩壊だけは子どもに経験させてはいけない、……と思う。(以上、01年記
「子育て雑談」)

(付記)

 ……とは言っても、思うがままにならないのが、生活。だれが、自ら不幸になることを望むだ
ろうか。そんな人はいない。

 ただいくら貧しくても、「心」だけは、見失ってはいけない。とくに、子どもの前での、夫婦げん
かは、タブー中のタブー。はげしい夫婦げんかは、子どもに、極度の緊張感と恐怖感を与え
る。それが子どもの心にキズをつける。ときに、トラウマとなり、その子どもを生涯にわたって、
苦しめる。が、それだけではすまない。

 このトラウマには、副作用がある。

 やがて時間をかけて、親子関係を破壊する。世代連鎖する。そのトラウマが大きければ、そ
の子どもが多重人格性をもつこともある。激怒したようなときに、まったくの別の人格になってし
まったりする。

 幼児期においては、すねたり、ひがんだり、ぐずったりしやすくなる。人格の「核」形成が遅
れ、善悪の判断にうとくなることもある。

 子どもは、心安らかな家庭環境の中で、親の愛情をたっぷりと受けながら育つのがよい。何
度も書くが、絶対的な信頼関係、絶対的な安心感、この2つが子どもの心をはぐくむ二大要素
と考えてよい。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。
(はやし浩司 夫婦喧嘩 夫婦げんか 家庭崩壊 崩壊児 子供の心理 絶対的な安心感)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●信頼関係を大切に(先生の悪口はタブー)

 子どもの前では、先生の批判、悪口はタブー。子どもが悪口を言ったとしても、「あんたが悪
いからよ」と言ってすます。もし問題があるなら、それは子どものいないところで、また子どもと
は関係のない世界ですます。あなたが先生を批判したり、悪口を言ったら、子どもは学校で、
その先生に従わなくなる。私にはこんな経験がある。

 幼稚園で教えていたころ、まったく私の指示に従わない子ども(年長女児)がいた。ある日そ
の子どもに、「どうして言うことを聞かないのか」と聞くと、その子どもはこう答えた。「だって、先
生は、本物の先生ではないでしょ」と。この話には余談がある。

 このことを当時の園長に告げると、私はそれほど気にしていなかったのだが、その園長は激
怒して、その母親に即刻、電話をした。そしてこう怒鳴った。「何てことを子どもに教えているの
ですか! あなたがそんなこと言ったら、指導できないでしょ!」と。当時はまだこういう気骨の
ある園長が、あちこちにいた。

 「子どもにこの話は、先生には内緒よ」と言うことは、「先生にこの話をせよ」と言うのと同じ。
子どもが言った先生の悪口に、相槌を打つということは、あなたが先生の悪口を言ったのと同
じ。子どもは先生に、こう言う。「ママもこう言っていた」と。仮に子どもが言わなくても、先生に
はそれがわかる。どういう形であるにせよ、あなたの「思い」は、必ず先生に伝わる。子どもと
いうのは、自分の心を隠すことができない。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。
裏を返して言うと、子どもの前では、先生をたてる。「あなたの先生は、すばらしい先生よ」「先
生のような立派な先生に、あなたが教えてもらえて、とてもうれしいわ」と。

 教育は信頼関係で成り立つ。中には「お金(税金)を出しているのだから」という思いからか、
教育を自動販売機のように考えている人がいる。あるいは今では、先生より、特に幼稚園の先
生より、高学歴の人が多い。そういう人は、どうしても先生を下に見る。こういうものの考え方
は、その信頼関係を破壊する。教師だって人間だ。自分を信頼してくれる人には、その期待に
応えようとするし、そうでない人には、熱意そのものが沸いてこない。いくら相手が子どもとわか
っていても、時と場合によっては、「このヤロー」と思うこともある。そうなったら教育そのものが
成りたたない。

 たいへんきわどい話をしてしまったが、そうでなくても難しいのが最近の教育。親と教師が信
頼しないで、どうして教育ができるというのだろう。問題のある教師がいるのも事実だが、もし
そうであるなら、冒頭にも書いたように、子どもとは関係のない世界ですます。

一番よいのは、直接、その先生と交渉することだ。今の制度の中では、教育委員会に相談す
ると、どうしてもおおげさになってしまう。校長に訴えるとしても、校長は今、校長というよりは事
務長に近い。アメリカのように教師を選ぶ権利が親にあれば別だが、日本にはそれがない。な
い以上、やはり直接交渉がよい。勇気がいることだが、それが一番よい。……と私は思う。こ
れはあくまでも私個人の一意見だが。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 今でこそ、保育士というのは、一定の地位を確立しているが、35年前には、そうではなかっ
た。私が「幼稚園で働いている」と言っただけで、ほとんどの人は、「あの林は、頭がおかしい」
と言った。

 そんなわけで、私は、幼稚園の内部では、自分の過去を隠し、幼稚園の外では、自分の職
業を隠さねばならなかった。

 また保母というのは、「母」、つまり女性にかぎられていた。「保父」が生まれたのは、私が30
歳になったころ。現在の保育士という名称になったのは、さらにあとのことである。

 ここに書いた園長というのは、恩師の松下哲子先生をいう。すばらしい先生だった。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ズケズケ言う子どもたち(教師の威厳はどこに?)

 「先生、口、臭いから、あっち向いていてよ。ああ、臭い臭い」と言った子ども(小6女子)がい
た。もともと多動性のある子どもだった。頭の回転はキリキリと早いが、一貫性がなく、ものの
考え方が浅い。幼児のころは、無頓着、無遠慮、無関心などの特徴も見られた。小学校の高
学年になってからは、症状も落ち着いてきたが、ズケズケとものを言うクセは残っていた。

 それはそれとして、私はそう言われたとき、喜んでいいのか不愉快に思っていいのか、一
瞬、迷った。そしてその子どもは、いい子なのか悪い子なのか、迷った。さらに私とよい関係に
あるのかそうでないのか、迷った。あえて私の判断はここには書かないでおくので、皆さんで判
断してほしい。ただ言えることは、こういうふうにものをズケズケと言う子どもが、ふえていると
いうこと。そしてそれを民主的になったと喜んでいいのか悪いのか、このところわからなくなって
きたということだ。

 口が悪いのは、しかたない。今時の子どもは皆そうで、先生に向かって、「ジジイ」とか「クソジ
ジイ」と言う子どもは、いくらでもいる。冗談だとわかっているから、それほど気にならない。問
題は、相手が気にしていること、あるいは気にしそうなことを、ズケズケと言う場合だ。しかもス
レスレのことを言い、またそれを言い合うことを、親しみの表れと誤解しているような場合だ。ど
こかテレビの低俗番組のお笑いタレントのようだが、今は、そうでない子どもをさがすほうがむ
ずかしい。

 最近の子どもは、先生に対して、畏敬の念をなくしたとよく言われる。それはその通りだが、
こういうとき子どもの側ばかりが問題になる。しかし教師の側にも問題がないのか。学校レベ
ル、あるいは教育委員会レベルでもみ消される、教師によるハレンチ事件は、あとを断たな
い。授業にしても、参観用の授業と普通の授業が、天と地ほど違うことを、子どもたちなら皆、
知っている。また教育、教育と言いながら、自分たちが選別されていることを、子どもたちは感
じ取っている。しかもこの傾向は、高学年、さらに中学校になるほど、強くなる。ズケズケともの
を言う子どもは、こういうスキ間をねらって生まれる。

私「臭いか?」
子「臭い」
私「そうか。ありがとう。このところ、女房もそれを教えてくれなくてね。君のおかげで、恥をかか
なくてすむ」
子「もうかいているでしょ」
私「そうだな。申し訳ない。これからも臭かったら、臭いと言ってよ。なおすから」 
子「わかりゃ、イーの。わかりゃア」

 私が子どものころは、そういうことを言いたくても言えなかった。回ってきた先生が、鼻クソを
ポタリと机の上に落としたこともある。しかし私は黙って、それをがまんするしかなかった。そう
いう時代がよかったのか悪かったのか、それも私にはわからない。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 管理能力という言葉がある。この管理能力には、行動の管理能力、精神の管理能力、情緒
の管理能力などがある。

 ここでいう「ズケズケ言う子ども」というのは、行動(言動)の管理能力に欠ける子どもというこ
とになる。言ってよいことと悪いことの判断にうとい子どもということになる。たとえば多動性の
ある子どもには、同時に、多弁性がよく見られる。このタイプの子どもは、相手の気持ちもかま
わず、言いたいことを、そのまま口にする。そのため、それによって相手がキズつくということ
が、よくある。

が、その一方で、こうした子どもには、ウラがない。つまりそれだけ、心の中が、わかりやすい。

 教師と生徒の間ではともかくも、親子や兄弟の間では、言いたいことを言うが、信頼関係の
原点である。それがないと、信頼関係そのものを、築くことができない。

 そこで重要なことは、(言うべきことは)言う。しかし自分の心の中で処理できるような、(言わ
なくてもよいこと)は言わない。そういう判断を的確にするということ。またそういう判断のできる
子どもにするということ。

 ただし一言。「アッ、風が吹いた」「カーテンが揺れた」式の、底の浅い、軽薄な言動について
は、そのつど、たしなめること。
(はやし浩司 子供の多弁性 多弁性 子どもの多弁性)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
 
●しつけの時期(だらしなくなる子ども) 
  
 4、5歳ごろに一度、決められたことに忠実になる時期がある。母親が花を切っていたりす
ると、「先生がねえ、お花、切っちゃダメって、言っていたよ」と。あるいは食事をしながらテレビ
を見ていたりすると、「パパは、この前、食べているときは、テレビを見てはダメと言ったじゃな
い」と。

この時期をうまく利用すると、しつけがしやすい。しかしそれが「頂点」。この時期の過ご
し方が悪いと、どういうわけだか、子どもはだらしなくなる。具体的には幼稚園児より、小学生。
小学生より中学生のほうが、概して、だらしない。学校の周囲を見ても、一番空き缶やゴミが多
いのが、中学校だ。

 先日も街中を歩いていたら、5、6人の男子高校生が飲んだ空き缶を、道路へポイと捨て
た。そこで私はこれ見よがしにその空き缶を拾って、近くのゴミ箱に入れてやった。すると高校
生たちはすっとんきょうな声を張りあげて、「イーヤーミィ」と声を合わせた。また別の日。どこか
の家のまん前で、犬に便をさせていた女子高校生がいたので、私が注意すると、こう言った。
「ここ、アンタの家?」と。

 理由は簡単だ。世間を知れば知るほど、まじめに生きるのがバカらしくなる。子どもたちは年
齢とともに、世間を広げ、それを知る。善か悪かといえば、この世の中、悪のほうがずっと多
い。そういう悪の中でうまく立ち回ることを、スレるというが、子どもたちは年齢とともに、ますま
すスレる。しかもこの傾向は都会ほど強い。そこで私は以前、こんな格言を考えたことがある。
「子どもは社会の縮図」と。

これは社会に4割の善があれば、子どもの中にも4割の善。社会に4割の悪があれば、子ども
の中にも4割の悪が育つという意味だ。社会を是正しないおいて、どうして子どもを是正できる
か。よい例が自然教育。おとなたちが一方でさんざん自然を破壊しておいて、子どもたちに向
かって、「自然を大切にしましょう」は、ない。少し話はそれるが、私は禁煙運動を精力的にして
きたが、息子の一人がどこかで喫煙を覚えたのを知って、その運動はやめた。自分の息子が
吸っているのに、他人に向かって、「タバコをやめましょう」は、ない。反論もあろうかと思うが、
私はそう考えた。

 一方、まじめな子どももいる。ある日一緒にバスを待っているとき、「ジュースを買って飲もう
か」と声をかけたら、「私はこれから夕食を食べるから、いい」と言って、断った女の子(小4)
がいた。そこで私は自分なりに、いつどのように子どもが分かれていくのか観察してみたことが
ある。子どもは、いつ頃からだらしなくなるか、と。その結果得た結論が、冒頭に書いた事実で
ある。4、5歳ごろ、である。

 この時期までにしつけをうまくして、それに合わせた思考回路をうまく作ってあげると、子ども
はまじめになる。一方、その時期をだらしなく過ぎると、子どもはだらしなくなる。ほかにもいろ
いろな要因があるが、そういうことだ。そして一度だらしなくなってしまうと、なおすのが大変難し
い。身についたシミのようなもので、なかなか落とせない。だからこそ、この時期のしつけが大
切なのだ。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ジュースを断った女の子については、よく覚えている。ただ、ここで(小4)と書いたが、(小3)
だったかもしれない。名前を、Aさんと言った。

 で、そのAさんと、それから10年くらいしてから、それについて話しあったことがある。そのと
きAさんは、オーストラリアの大学に留学していた。が、Aさんは、「覚えていません」と。「そんな
ことありましたア?」と。ケタケタと笑っていた。

 そのAさんが、私にこんなことを頼んだ。「いつか結婚するとき、結婚式に来てくれますか?」
と。私は、一も二もなく、「いいよ」とだけ、返事をした。つまり私は、Aさんを、子どものときか
ら、全幅に信頼していた。その信頼感は、あの自動販売機の前でできたものだと思っている。

 ただ残念なことに、Aさんは、そのままオーストラリアに居ついてしまった。今は、オーストラリ
ア人の男性と結婚して、パースに住んでいるという。
(はやし浩司 子どものしつけ まじめな子供 まじめな子ども)


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●肩書き人間(悪しき学歴人間)

 私のいとこの義父に、国の出先機関の長をしていたのがいる。死ぬまで、長の名札をぶらさ
げて生きていたような人で、本人が「自分は偉いのだ」と思うほど、世間は相手にしなかった。
葬式か
ら帰ってきた母は、こう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。

 老人が老人社会へ入るためには、過去の肩書きを捨てなければならない……らしい。過去
の肩書きにこだわっていると、周囲の者が近づかない。恐れ多いからではなく、そういう人とつ
きあっていると、疲れるから。が、こういう人たちにはそれがわからない。どこへ行っても、「私

尊敬されるべきだ」というような態度をとる。

 戦争をはさんで教育を受けた人たちというのは、とくにこの傾向が強い。「立派な社会人にな
る」ことイコール、善と、徹底的に叩きこまれている。ここで言う立派な社会人というのは、言う
までもなく「肩書きのある人間」をさす。あるいは「肩書きを見せただけで、相手がひれ伏す人
間」をさす。

 実際、この日本は肩書きのある人は、それだけで得をする。一方、肩書きのない人は、せっ
かくその力があっても、社会に埋もれてしまう。肩書きのある人は、それはそれでいいと思うか
もしれないが、一方でそうでない人を、いかに虐げているか、それを忘れてはならない。仮にあ
なたはいいとしても、あなたの子どもはどうだろうか。あるいはあなたの孫はどうだろうか。あな
たがもっているような肩書きを手にすることができるだろうか。

 人間の価値は、肩書きではなく、何をしたかによって決まる。こんなわかりきったことが、この
日本で住んで、生活しているとわからなくなる。先のいとこの義父も、同年齢の人と会うたび
に、「あなたは何をしていましたか」と聞いていた。よほどそのことが気になるらしく、自分より立
場が上だった人にはペコペコし、そうでない人に向かっては、胸を張った。年下の人に向かっ
ても、少しでもできが悪そうに見えたりすると、「君は、算数が何点ぐらいだったかね」と聞いて
いた。あるいは「こんなのは、簡単な計算で解けるよ。こんなのもわからないのかね」と言った
りした。

唯一の趣味といえば、新聞や雑誌への投書。毎日のようにせっこらせっこらと書いては、新聞
社や雑誌社へ送っていた。たいてい自画自賛で、読むに耐えない文章だったが、私の母は「偉
いもんだ」と言っては、その記事を人に見せていた。

 その人はその人で、懸命に生きてきたのだろう。彼とてその時代の価値観に染まっただけ
だ。かく言う私だって、私の生きた時代の流れに染まっている。彼がまちがっているということ
にもならないし、私が正しいということにもならない。あるいは次の世代の流れが正しいというこ
とにもならない。ただ私の立場で言えることは、こうした悪しき肩書き人間は、世界では通用し
ないということ。それだけではないが、それも含めて、こういう過去の流れをここで止めなけれ
ばならない。私のいとこの義父には悪いが、肩書きで自分の人生を見失ってはいけない。……
と私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 権威主義の人は、電話のかけ方をみればわかる。動物的なカンで(?)、相手が自分より
(上)か(下)かを判断する。そしてそれに応じて、電話のかけ方が、まるでちがう。(上)の人に
は、ペコペコし、(下)の人には、威張った言い方をする。

 こうした権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものを破壊する。親にとっては居心地のよ
い世界かもしれないが、子どもにとっては、そうではない。その居心地の悪さが、親子の間に、
キレツを入れる。

 これからは親の権威だけで、子どもをしばる時代ではない。またそれでは、子どもを指導する
ことはできない。
(はやし浩司 権威主義 肩書き人間 肩書きで生きる人)


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●超辛口教育論(子どもには本物を)

 音程がズレたような、チャラチャラしたジャリ歌手の歌う歌を、「名曲だ」と思い込んで、
CDやMDを聞き入っている若い人たちを見ると、「かわいそうだ」と思う。「あんな音楽しか知ら
ないのか」と思ってしまう。が、我が身を降り返れば、そうばかりは言っておれない。私たちも中
学生や高校生のときは、そういう歌手の歌う歌を、毎日のように聞いていた。

 今朝もテレビのチャンネルを入れると、タレントカップルの破局を大げさに報道していた。見
るからに知性のひとかけらも感じないようなカップルだが、そんなカップルの破局が、日本中の
ニュースになること自体、不思議なことだ。男のほうが名古屋駅を歩く様子が報道されたが、
報道陣に混じって、若い女性たちがキャーキャーと、声を張りあげていたのが印象的だった。
が、私たちだって、同じようなことをしていた。

 子ども時代、なかんずく幼児期には、本物を見せておく。画家をしている知人にそのことを話
すと、こう教えてくれた。「絵といっても、子どもを圧倒せんばかりの大きな絵がいい」と。食べ物
も、飲み物もだ。最近の子どもたちは、おいしい食べ物はと聞くと、ファーストフードのハンバー
グ。おいしい飲み物はと聞くと、自動販売機のジュースをあげる。しかしこうした食感覚にして
も、いかに不自然なことか。ニセモノばかり見たり、聞いたり、食べたりしていると、子どもは、
皆、そうなる。

 となると、私たちの時代はどうだったのかということになる。私自身もニセモノばかり見て育っ
た。いや、ニセモノしか、周囲になかった。当時はそういう時代だったように思う。5円で買うラ
ムネにしても、10円で買う駄菓子にしても、味はついていたが、それだけのものでしかなかっ
た。今から思うと、「どうしてあんなものばかり欲しがったのか」とさえ思う。

 かく言う私も、高校時代に口ずさんだ歌謡曲を聞くと、たまらないほどの懐かしさを覚える。た
だ私の場合、学生時代はずっと合唱団にいたし、その後も、ごく最近までパソコンミュージック
が趣味で、自分で作曲したりして、より高度な(?)音楽を楽しむことができた。そういう視点で
考えると、どこか損をしたような気分にもなる。人生は長いようで短いし、短いなら短いで、もっ
と本物に触れておけばよかったという気持ちだ。つまりニセモノに染まっていた時代の自分が、
何となく一方で、時間を無駄にしていたようにしか、思えない。

 さて、子どもたちはどうか。今、本物を見ているだろうか。あるいは本物とニセモノを見分ける
力は育っているだろうか。私はこれについては疑問だ。「たまごっち」というゲームに夢中になっ
ていても、小さな虫を見ただけで、キャーキャーと逃げ回る子どもはいくらでもいた。あるいは
「たまごっち」をしている子どもの横で、「殺せ、殺せ!」とはやしたてている子どもはいくらでも
いた。さらに「たまごっち」が終わったあと、本物の動物を育て始めたという話しは聞かない。果
たしてこのままで、いいのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本物を、いつどうやって見せていくか……。しかし実際には、子どもたちは、親が見せるより
も先に、テレビや雑誌などによって、ニセモノをニセモノと見抜けないまま、それを本物と思いこ
んでしまう。

 そこで大切なことは、「子どもに見せよう」「教えよう」と考えるのではなく、親自身が、自分で
本物を見ることではないだろうか。日々の生活の中で、いつも本物だけを見て、それを評価す
る。またそういう目を養っておく。これは子どものためというより、あなた自身のためでもある。

が、だからといって、子どもも本物を見るようになるとはかぎらない。イギリスの格言に、『水場
に馬を連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。最終的に、子
どもが自分の世界で、どういうものを見るかは、親の問題ではなく、子どもの問題ということに
なる。
(はやし浩司 本物 本物を見せる)


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●教育の裏の、人間ドラマ(女房が妊娠した!)

 ある日突然、一人の男が私の部屋に飛び込んできて、こう言った。「うちの女房が、妊娠し
た。どうしてくれる!」と。寝耳に水とは、まさにこのこと。私が驚いて戸惑っていると、その様子
から察知したのか、男は急に態度をやわらげ、「すまん、すまん。カマだ」と。話をよく聞くと、こ
うだった。

 私は「幼児教育は母親教育」という信念から、毎日のように母親教室を開いていた。しかしそ
れがよくなかった。その男の妻は、私の話を聞くたびに、家で「はやし先生が……」「はやし先
生が……」と言うようになってしまった。夫であるその男には、あまり愉快なことではなかったら
しい。で、そういう最中にその男と妻は、はげしい夫婦喧嘩をした。喧嘩をして、妻が家を飛び
出してしまった。その男は、妻が私のところに逃げたに違いないと思った。冒頭の話は、そのと
きの続きである。

 またこんなこともあった。ある日幼稚園の庭で園児を迎えていると、黒塗りの外車がスーッと
止まった。そして中から細身の紳士が飛び出し、ツカツカと私のところへやってきて、「貴様が、
はやしか!」と。ものすごい剣幕である。私が「そうです」と言うと、いきなり「このヤロウ!」と言
って、数発、殴りかかってきた。避ける間もなかった。気がつくと私は、地面にたたきつけられ
ていた。男はそのまま帰っていったが、私にはまったく身に覚えがなかった。かけつけたほか
の先生たちが、「どうしたの?」「どうしたの?」と。私は、ポカンとするしかなかった。

 すぐにその紳士が、A君という子ども(年長児)の父親であることがわかったが、そこで一人
の年配の先生が、「A君と何があったか話してごらん」と。私はA君のことを話した。

 「いやあ、A君がいつも忘れ物ばかりするから、昨日も電話して、もう少しけじめのある生活を
してくださいと言いました」と。するとその先生はパチンと手を叩いて、「それよ!」と言った。「け
じめ」という言葉が悪かったのだ、と。A君の母親は、その男の愛人だった。何気なく使った言
葉だが、その言葉が、A君の母親を大きくキズつけてしまっていた。

 ほかにB君という子ども(年長児)が、C君という子どもにいじめられていたから、C君の母親
に、それを注意したことがある。私は軽い気持ちで、「何か家庭で不満に思っていることがある
のではないですか」と言っただけなのだが、その父親が、名誉毀損だと騒ぎ始めた。そして何
回か抗議の電話がかかってきたあと、私を裁判所へ訴えるとまで言い出した。結局この事件
は、私が謝罪する形で決着したが、あと味の悪さだけは、いつまでも残った。

 こうした事件を通して、私は多少なりとも、利口になった。毎日開いていた母親教室は、週一
回にしたし、使う言葉も慎重になった。もう少し正直に言えば、子どもの教育のことで、出しゃば
るのをやめた。相手から聞かれるまで言わないという姿勢をもつようになった。教育、教育と言
いながら、その裏では、さまざまな人間のドラマが展開している。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 教育の世界には、『問われるまで、言うな』という大鉄則がある。わざわざ火中の栗を拾うよう
なことは、してはいけない、と。拾えば、大ヤケドをする。

 先日も、ある小学校で、校長と、こんな会話をした。その校長のほうから、こう言った。「あの
3年B組、金P先生という番組ね。あれほど、教育現場を混乱させている番組は、ありません
よ」と。

 「つまり親たちは、ああいう番組を見て、金P先生のような先生こそが、理想の先生だと思い
こんでしまう。そしてそれを現場の私たちに求めてきます。しかし実際には、教育は、そんな単
純な仕事ではありません」と。

 私も同感である。それはちょうど、ピストルをバンバンと撃ちあうようなシーンを見て、「刑事の
仕事というのは、そういうもの」と思いこむのに似ている。現実には、ありえない。もっと言え
ば、教育の世界は、無数の欲望が複雑にからみ、ドロドロしている。家庭の事情も、千差万
別。さらに子育てには、その親の人生観や哲学観がすべてからんでくる。

 一介の教師の、人生観や哲学観だけで、解決できるほど、子どもの世界の問題は、単純で
はない。


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●短気な子ども(引き金は引かない)

 短気な子ども、つまりすぐカッとなりやすい子どもというのは、確かにいる。しかしそういう表面
的な症状にだまされてはいけない。どんな人でも、短気なときは短気だし、そうでないときは、
そうでない。では、何がそうさせたり、そうさせなかったりするのか。

 子どもたちを観察してみると、こんなことがわかる。子どもたちはカッとなるときは、ほぼ条件
反射的にそうなるということ。何か気にさわることを言われたり、されたりすると、カッとなる。つ
まりある一定の分野で、いつも緊張感をもっている。そしてその緊張感を刺激されたとき、カッ
となる。たとえばある子どもが、「明日の宿題がやっていない」と、心のどこかで思い悩んでいた
とする。子どもはそのことを、心のわだかまりにしている。そういうとき、家族の誰かが「宿題は
やったの?」と声をかけると、それが引き金となって、子どもはカッとなる。「うるさい!」と。

 緊張感のない分野については、カッとなることはない。かなりはげしいことを言われても、子ど
もたちはそれを冗談ととらえる。心にまだ余裕があるからだ。わかりやすく言えば、短気な子ど
もはいつも短気というわけではないし、またそうでない子どもでも、痛いところに触れられるとカ
ッとなる。

 A子さん(年長児)は、母親が「ひらがなを書いてみようね」と言っただけで、別人のように急
変し、そして暴れた。ふつうの暴れ方ではない。母親に向かって手当たり次第にものを投げつ
けた。

 B君(小4)は、父親が何か疑いをかけるようなことを言うと、やはり急変した。「この貯金箱
のお金のことだが……」と。B君は、それだけで「自分が(盗んだと)疑われた」と思ってしまっ
た。父親はこう言った。「ふだんは静かで穏やかな様子なのですが、一度そういう状態になる
と、ピリピリとした雰囲気になります」と。 

 こうした緊張感は、親子の間、友だちどうしの間、さらには教師と子どもの関係にも生まれ
る。そしてそれが刺激されたとき、それぞれの立場で子どもは、カッとなる。ひどい場合には、
キレる。

 もっともこれだけで、子どもたちが「キレる」原因を、すべて説明することはできない。しかし大
半の子どもたちが、「勉強」という言葉に強い反応を示すのも事実で、親が「勉強しなさい」と言
っただけで、カッとなる子どもはいくらでもいる。つまりそれだけ「勉強」に対してわだかまりや、
あるいは緊張感をもっているということになる。あるいはそれ以前の段階として、抑うつ感をた
めこむ。

 子どもがカッとなったら、そんなわけで、子どもがどういう分野で、どういうように緊張感をもっ
ているかを判断する。もしそこに何らかのわだかまりを感ずることができたら、そのわだかまり
にはできるだけ、触れないようにする。要するに引き金を引かないようにする。(以上、01年記
「子育て雑談」)

(付記)

 情緒が不安定な子どもというのは、それだけいつも、心が緊張状態にあるとみる。その緊張
状態にあるところに、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一気に、情緒
が不安定になる。カッとなったり、グズッたりする。

 だから「うちの子は、情緒が不安定だ」と感じたら、何が、その子どもの心を緊張させている
かを、観察、判断する。
(はやし浩司 情緒 子どもの情緒 子供の情緒 情緒不安 情緒不安定)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ふえる睡眠障害(寝る前は興奮させない)

 年長児の子どもたち、10人に聞いてみた。「君たちは、恐い夢を見るか」と。すると、その
中で3人が、「見る!」と答えた。「死体の夢を見る」「ワニに食べられる夢を見る」「迷子になっ
た夢を見る」「ロボットに追いかけられる夢を見る」「誰かに食べられる夢を見る」など。

 この答には驚いた。私は幼児というのは、恐い夢を見ないものだとばかり思っていた。見るに
してもときどきで、しかも朝になれば忘れてしまうものだ、と。しかし子どもたちは、あたかもそ
の朝見た夢であるかのように、ワイワイと言って、それを説明してくれた。

 睡眠中というのは、本来、もっとも心身ともに、リラックスした状態になる。またそうでなければ
ならない。特に子どもの世界ではそうで、もしそうでないというのなら、どこかに問題がある。

 この話とは別に、睡眠障害になる子どもがふえている。「夜更かしする」「朝、起きられない」
「夜中に起きる」「なかなか寝つかない」など。夜驚症(夜中に狂人のようになって、大声をあげ
たり、暴れたりする)や、夢中遊行(ねぼけてフラフラとさまよい歩く)になる子どももいる。わか
りやすく言えば、静かに眠って、ぐっすり休んで、爽快な気分で朝を迎えることができない子ど
もがふえているということだ。私の実感では、約50%の子どもに、その傾向が見られる。恐
い夢を見る子どもを含めたら、もっと多いかもしれない。

 原因は、日中のストレスだとよく言われるが、私はもっと身近な問題にあると思う。これはあく
までも「思う」というレベルの話だが、その一つがテレビであり、テレビゲーム。

 子どもにとっては、睡眠前の数時間には、特別の意味がある。特に年少の子どもほどそう
で、この時間、子どもを興奮させたりすることは禁物。心を少しずつ落ち着かせ、やがて睡眠
へと導いていく。少なくともごく最近まで、人間は過去数10万年間、そうしてきた。が、それが
乱れた。子どもたちは寝る間際まで、テレビを見ている。テレビゲームをしている。

しかしこの時間帯に興奮させれば、その睡眠そのものが乱される。根拠はないが、こんなこと
は常識だ。幼稚園児でも、平均して午後八時半前後には床につく。しかし平日でも、幼児向け
番組は、午後5時〜7時台に集中している。午後七時〜九時台には、一応、おとな用とはなっ
ているが、
小学生でも見たがるような番組が、目白押しに並んでいる。こういうものを野放にしておいて、
「うちの子どもは、なかなか寝なくて困る」は、ない。

 子ども、特に幼児には、日没後は、静かな生活を大切にする。そして静かな眠りに入るため
の準備をさせる。そのために、一つの方法として、テレビのスイッチは切る。もちろんテレビゲ
ームなど、言語道断。眠る間際まで、「やっつけろ!」「殺せ!」「倒せ!」と叫んでいて、どうし
て静かな眠りに入ることができるのか。ある子ども(小5男児)は、真夜中にガバッと起きて、
テレビゲームをしていた(姉の話)。もちろんこういう症状が見られたら、即刻、子どもからゲー
ムを遠ざけるようにする。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 私も、最近は、午後8、9時以後は、ビデオ類などを見ないようにしている。この時間帯に一
度、脳ミソを興奮させると、そのまま、寝つかれなくなってしまう。そしてさらに一度、眠りそこね
てしまうと、今度は、午前0時過ぎまで、眠れなくなってしまう。(時には、午前2、3時まで寝つ
かれないこともある。)

 子どものばあいも、同じと考えてよいのでは……。とくに子どものばあいは、就眠儀式(ベッ
ド・タイム・ゲーム)のあり方に注意する。子どもは、眠る前、毎晩、同じこと(儀式)を繰りかえ
す。そのしつけに失敗すると、睡眠不足を引き起こし、さまざまな症状を見せるようになる。
(はやし浩司 子供の睡眠 睡眠不足 就眠儀式)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●塾ブルース(10%のニヒリズム)

 塾を開くのに、認可も許可もいらない。届出も必要ないし、資格もいらない。もしあなたさえそ
の気になれば、明日からだって塾は開ける。塾は通産省の職業区分では、サービス業になっ
ている。

 こう書くと、塾は簡単な商売だと思う人がいるかもしれない。事実その通りだが、それだけに
競争もはげしい。毎年雨後の竹の子のように塾は生まれ、そしてつぶれていく。10周年記念
ができる塾は、何割もない。さらに20周年、30周年記念ができる塾は、10パーセントも
ないのではないか。現在、ほとんどの個人塾はつぶれ、残っているのは、中、大手規模の進学
塾か、チエーン化された塾だ。

 塾は、通産省ではサービス業になっている。そのことは冒頭で述べたが、塾でしていること
は、教育ではない。指導である。中に「教育だ」とがんばっている塾教師がいるが、がんばらな
ければならないところに無理がある。少なくとも世間は、教育機関とは認めていない。

 その塾。毎年あちこちの私塾会に誘われて顔を出すが、酒が入り始めると、本音が出てく
る。おもしろいのは、むしろこちらのほうだ。昼間は「新学力観の問題点とは……」と論じていた
ような教師でも、「塾教師なんて……」と話し始める。そういうところで取材した話をここで書くの
も気が引けるが、たとえばこんなことを言う。「塾教師が教え子の結婚式に呼ばれることはまず
ないよ。いくら苦労した生徒でもね」とか、「中学が受かったとたん、ハイさよならね。あとは塾
へ来たことそのものを、隠す」とか。

 この世界には「10%のニヒリズム」という言葉がある。いくら「指導」に専念しても、全力投
球はしない。全力投球すれば、キズつくのは、結局は塾教師。どんなに専念しても、最後の
10%は自分のためにとっておく。生徒に裏切られても、キズつかないためだ。

 もっとも10%のニヒリズムを意識する教師は、まだ誠実なほうだ。たいていの塾教師はもっ
とドライ。「生計のため」と、はっきりと割りきっている。むしろこういう塾のほうがわかりやすい
し、今の世の中に受ける。手のこんだ料理よりも、ファーストフードのレストランの料理のほうが
おいしいと思う人は、いくらでもいる。

 おまけに塾教師には、当然と言えば当然だが、保障はまったくない。退職金もなければ、年
金もない。30年勤めても、ハクなどつかない。明日病気になって倒れれば、それで塾はおし
まい。収入もそれで途絶える。こういう世界から、学校の先生をながめると、本当に学校の先
生は恵まれていると思う。いろいろたいへんだろうとは思うが、それでも恵まれている。

そうそう学校の先生にそんなグチをぶつけた塾の教師がいる。そしたらその学校の先生は、こ
う言ったという。「くやしかったら、学校の教師になればよかったではないか」と。「私たちは教育
に生
きる。あんたたちは教育で生きる」(塾教師1氏談)とも。

 一見気楽な商売(?)に見える塾の世界だが、もの悲しいブルースは、毎日のように聞こえて
くる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本当に自由な教育というのは、「塾」でこそ、可能である。しかしその自由な教育をすれば、そ
の塾は、あっという間につぶれる。

 そこで本当に自由な教育をするためには、長い時間をかけて、塾教師は、コツコツと、信用と
実績をつみあげるしかない。いきなり自由な教育、というのは、土台、ムリ。反対の立場で考え
てみれば、それがわかる。

 ある日いきなり、あなたの近所に塾ができた。自由な教育をするという。そういう塾に、あなた
は、自分の子どもを預けるだろうか。預けることができるだろうか。子どもを預けるということ
は、親にとっても、それほどまでに覚悟のいることなのである。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●代償的過保護(自分のために子どもを愛する)

 過保護は過保護だが、親の支配欲を満たすためだけの過保護を、代償的過保護という。い
わば過保護モドキの過保護のことになるが、外見上は、一般の過保護とは区別がつきにくい。

 ふつう過保護には、そうするだけの理由、つまり心配の「種」がある。病気ばかりしていたか
ら、子どもを運動面や食事面で過保護にするなど。しかし代償的過保護には、それがない。こ
のタイプの親は、「親に甘えてくれる子どもがいい子ども」と、とらえる傾向がある。つまり子ども
を管理する一方、子どもには依存心をもたせる。そして結果として、子どもを自分の支配化に
置く。Tさんも、そんなタイプの母親だった。Tさんは、こう言った。

 「息子(27歳)の結婚相手は、私が選んであげます。ヘンな女にくっつかれると、財産を食
いつぶされますから」と。そして息子が好きになった女性との結婚に猛反対して、それをつぶし
てしまった。今でも息子の帰宅がちょっとでも遅れたりすると、それをくどくどと叱っている。

 Tさんが恐れているのは、子どもの自立だった。自立して自分から去っていくことだった。こん
なこともあった。息子が高校三年生のときである。息子が県外の大学に進学したいと言ったの
に対して、Tさんは、反対。そして私のところへ来て、こう頼んだ。「先生のところへ来週にでも
息子をよこしますから、よく説得してやってください。先生の言うことなら聞きますから」と。そし
て帰り際に、「今日、私がここへ来たことは内緒にしておいてくださいよ」と。

 このタイプの親に共通しているのは、他人に心を許さないこと。自分の子どもすら信じていな
い。言いかえると、自己中心性が強く、わがまま。その上、気が小さく、おくびょう。「自分」という
ものがあるようで、どこにもない。Tさんも、いつも世間体を気にしていた。「もっと自分の世界を
広くしないと」と、私は言いかけたが、やめた。Tさんは、そのとき、私よりも一〇歳も年上だっ
た。

 かつてアメリカの教育者が、日本人の子育て法を観察して、こう批判した。「日本人は、自分
の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無関心過ぎる」と。つまり子どもに依存心をも
たせながら、平気でいる、と。その結果かもしれないが、同年齢の子どもを比較しても、アメリカ
人の子どもは日本人の子どもよりも、一回りおとなびて見える。反対に日本人の子どもは、幼
稚っぽい。概して甘えん坊が多い。あの成人式にしても、大半の女の子は、親のスネをかじっ
て、美しい着物を着ているという。成人したという自覚すらない。キャーキャーと式場で騒ぐだ
け。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に帰結する。いろいろな考え方があると思うが、
「子どもをよき家庭人として自立させる」ということであれば、こうした代償的過保護は、百害あ
って一利なし。子育ての大敵と考える。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 代償的過保護 代償的愛 真の愛)

(付記)

 同じような意味で、私は、よく「代償的愛」という言葉を使う。いわば愛もどきの愛。ニセの愛
をいう。つまりは、親が自分の心のすき間(情緒不安、精神的欠陥)を埋めるために、子どもを
自分の支配下において、溺愛することをいう。

 これは一見、愛に見えるが、決して愛ではない。たとえて言うなら、ストーカーが見せる、身勝
手な愛に似ている。相手の迷惑もかえりみず、その相手にしつこく、つきまとう。ストーカー行為
を繰りかえす本人は、「愛しているから」と言うが、それは本来の愛とは、まったく異質のもので
ある。

 よくある例は、子どもの受験競争に狂奔する親。一見、子どものことを考えているようで、そ
の実、子どものことは、何も、考えていない。だから代償的愛という。
(はやし浩司 代償的愛 自分勝手な愛 身勝手な愛 溺愛 でき愛)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●親孝行の限界(育ててやったではないか)

 親をだます子どもはいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。だまして、子どもから
お金を巻き上げる。そうでない人には信じられないような話だが、実際にはある。そういう親を
もっている人に向かって、親孝行論を説いても、かえってその人を苦しめるだけだ。Hさん(4
0歳)も、その一人。

 「就職して以来、給料の何割かを、実家の母に送ってきました。母はいつも、『あんたの代わ
りに貯金しておいてやるから』とか、『あんたのかわりに故郷を守ってやるから』と言っていま
した。『先祖を供養せよ』と言って、間接的に、お金を要求してくることもありました。しかしお金
はすべて、自分のために使っていました」と。

 さらに悲劇は続く。Hさんが父親から譲り受けた土地の権利書を、言葉巧みに取りあげ、そ
のまま他人に売却してしまった。「もともと死んだ父の土地でしたが、実家を新築するにあたっ
て、私は2000万円、負担しました。そのお金と交換ということで、土地の権利書を受け取っ
たのです。権利書というのは、それです」と。

 結果、親子の縁は切れた。ついで、親戚との縁も切れた。親戚の叔父や叔母は、表面的な
様子だけを見て、「親不孝者!」とHさんを責めている。無論、Hさんも苦しんでいる。「しかし母
親のことを悪く言うのは、もっとつらい」と。

 子どもは親から生まれる。それは事実だが、子どもの側から見ると、自分が生まれてはじめ
て、親がわかるにすぎない。つまり子どもは親を選べない。このHさんのケースでは、Hさんの
母親は自分の息子を、自分の所有物か何かのように考えているのがわかる。昔はこのタイプ
の親が多かった。しかし一方、子どもの側から見ると、「私は私」であって、決して親の所有物
ではない。親は「産んでやったことを感謝せよ」とか、「育ててやったことを感謝せよ」と言う。「こ
こまで大きくしてやったではないか」とも言う。しかし子どもの側から見ると、そういう親のものの
考え方は、重荷でしかない。

 自分の子どもにいい子になってほしかったら、まず自分がそのいい子になって、手本を子ど
もに見せる。これが親孝行の基本だが、こういうHさんのようなケースを見聞きすると、私には
もう言葉がない。もう少し古い世代の人は、「それでも親は親だから、親に頭をさげるべきだ」と
言う。しかしHさんという、一人の人間を中心に考えると、それもおかしい。Hさんもこう言う。
「私も二人の娘を育てていますが、育ててやっているという意識はどこかにあっても、娘たちに
はそれを言わないようにしています。それを言ったら、親として、おしまい。親として当然のこと
をしているだけです」と。

 いろいろ考えてはいるが、これ以上のことは、私にはわからない。ただ言えることは、このH
さんのケースを知って以来、私は安易に「親孝行」という言葉を使わなくなった。子育ても難しい
が、親孝行も、それと同じくらい難しい。とくに子どもが成人するころになると、それがつくづくと
わかるようになる。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 少し前のこと。まだ電話による相談を受けつけていたときのこと。数日おきに、あれこれと電
話をかけてくる母親がいた。

 「今日は、学校に呼び出された」「おかげで、パートの仕事ができなかった」
 「先日は、近所の看板を倒してしまった」「おかげで、その弁償をさせられた」
 「今日は、学校から電話がかかってきて、給食費を請求された」などなど。

 私はその電話を聞きながら、「その程度の問題なら、どこの家庭にもあるのになあ」と思って
いた。しかしそれを口にすることはできない。その母親は母親なりに、真剣に悩んでいた。

 が、ある日、気がついた。その母親は、子どものことをあれこれ問題にしているが、そうでは
ない、と。つまり、その母親にとっては、子育てそのものが、苦痛なのだ。子育てがいやだか
ら、あれこれ問題を自分で作って、それで悩んでいるだけ。あるいは結婚そのものに、問題が
あったのかもしれない。

 つまり大もとに1つの問題があり、それがあれこれ姿を変えて、その母親を悩ませていた。…
…というような例は多い。

 ここでいう「産んでやった」「育ててやった」と言う親も、そうである。どこかに犠牲的精神がとも
なうということは、すなわち、子育てがそれだけ苦痛であることを意味する。本来なら、親は、子
どもにこう言わねばならないはず。

 「おまえのおかげで、人生を楽しくすごすことができた。ありがとう」と。

 それがあるべき、子育ての本来の姿ということになる。
(はやし浩司 子育て 親の恩 恩着せがましい子育て)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●サトシ君(いじめ問題の陰で)

 サトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのサトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆(静岡県)にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、サトシ君の祖
母から聞
いた話だ。

 祖父はサトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。サトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とサトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。帰る道す
がら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、サトシ君は、「高校に合格しますように
と祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように祈らなか
ったか」と。そこでサトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「サトシ君」で呼ぶようになった。とても
呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、サトシ君のような子どもも
いる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと
判断する。愚かな人ばかりではない。サトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内の
K高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。サトシ君は、見るからに人格が違ってい
た。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐えない
と、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に
相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの訴えることに、とことん耳を傾けてやること
でしかない。子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあげることでし
かない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師にも、できることには限
界がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、 親や教師の務めではないかと、私は思う。
(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 人は、ドン底に落ちると、2つのタイプの人間に分かれる。そのときから、徹底した善人にな
るタイプと、徹底した悪人になるタイプである。どちらの道を選ぶかは、紙一重。

 そこまで深刻な問題ではないにせよ、子どもの世界でも、同じようなことが起きる。いじめを
受け、それをバネに、ここに書いたサトシ君のようになる子どもと、同じように、今度は反対に、
いじめる側に回る子どもである。「いじめられる前に、いじめてやれ」という考え方である。

 そういう意味では、いじめる側の子どもが、すべて「悪」とは言い切れない。(もちろんいじめ
は、悪いことだが……。)抑圧されたうっぷんが、長く蓄積されて、それがいじめに転化すると
いうことも、子どもの世界では、よくある。

 それにいじめる側は、それを(いじめ)と認識していないケースも、多い。軽い遊びか、ふざけ
のつもりで、それをする。しかしいじめられる側にとっては、そうではない。ちょっとした相手の
言動を、おおげさにとらえてしまう。そういうケースも、多い。

 さらに「A君がいじめる」と言うから、学校の先生に相談して、A君を近くから排除してもらう。
すると今度は、その子どもは、「B君がいじめる」と言い出す。そこでまた今度は、B君を近くか
ら排除してもらう。が、つぎに今度は、その子どもは、「学校の先生がいじめる」と言い出したり
する。そういうケースも、少なくない。

 これを「ターゲットの移動」という。つまりその子どもは、もっと大きな心の問題をかかえてい
て、それが原因で、学校へ行きたくないだけである。それがわからないから、親や先生は、子
どもの言うことに、振りまわされてしまう。そういうケースも、多い。

 ここに(いじめの問題)のむずかしさがある。
(はやし浩司 いじめ いじめの問題)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の「陰」の部分(作られる私たち)

 教育には教えて教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。前者を「陽」の部分とす
るなら、後者は「陰」の部分ということになる。たとえばこの日本で教育を受けていると、都会へ
出て、大企業に就職することが大切なことで、反対に、田舎に残り、農業をすることは、つまら
ないことだという意識を植えつけられてしまう。

さらに集団の中で、肩書きをもち、名誉や地位を得ることは大切なことであり、反対に集団から
離れて、一人で生きることは、変わり者のすることだという意識を植えつけられてしまう。これが
教育の「陰」の部分であり、そういう意識が大きな流れとなって、子どもたちの将来像を形づく
る。

 こうした教育の「陰」の部分は、外国の教育と比べてみると、それがよくわかる。たとえば軍事
政権が幅をきかせているような国では、当然のことながら、子どもたちは軍人になることイコー
ル、理想の未来像ととらえる。戦前の日本を例にとるまでもない。マルコス政権下のフィリッピ
ンもそうだったし、今のベトナムもそうだ。

一方、オーストラリアでは、自然保護団体の職員の地位が、日本のそれとは比較にならないほ
ど高いし、欧米では福祉団体の職員の地位が高い。この日本では、戦後、一貫して「金儲け」
イコール、善という社会観が定着している。私たち団塊の世代は、就職先といえば、一にも、二
にも、商社や銀行、あるいは大企業を考えた。

 教育されるのは、子どもたちばかりではない。親もまたそうで、たとえば子どもが不登校を起
こしたりすると、親ははげしい絶望感に襲われる。この日本では集団から離れることは、恐怖
以外、何物でもない。しかしそういう集団性とて、教育の「陰」の部分に過ぎない。幼児のときか
ら、幼稚園の先生は、こう言う。「(幼稚園を)休むと、遅れますから」と。かくして幼稚園や学校
は、行かねばならないところという無意識の意識を植えつけられる。そういう子どもが親にな
り、それを代々繰り返すうちに、今の日本ができた。

 問題は、いつどのような形で、その「陰」の部分に気づくか、だ。気づいた段階で、教育に対
する考え方が、一変する。「私は私だ」と思っているあなただって、「作られた私」を、あなたの
中に発見する。たとえば私の父は、「(天皇)陛下」という言葉を耳にしただけで、いつも体をブ
ルブルと震わせていた。その父とて、結局は戦前の教育で、そのように「作られた」だけなの
だ。

 さて、あなたはどうだろうか。あなた自身を冷静にながめてみてほしい。あなたの中に巣くう、
あなた自身の価値観を、ながめてみてほしい。あなたは今、子育てをしながら、どのような価値
観をもっているだろうか。そしてそれは、あなた自身が自分で考えて手にした価値観なのだろう
か。それとも、昔、いつかどこかで、植えつけられた価値観なのだろうか。ひょっとしたら、あな
たが「私の価値観だ」と思っている価値観は、その「陰」の部分によって作られた価値観かもし
れない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このところ、日本人の意識そのものが、大きく変わりつつある。旧来型の出世主義から、実
力主義へ。それに権威主義も、音をたてて崩れ始めている。そういう意味では、ここに書いた
ことは、実情には、合わなくなっているかもしれない。あくまでも、参考に。

Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●天下の大暴論(子ども知らずの教授たち)

 「子どもにはナイフを持たせろ。親が子どもを信頼している証(あかし)として」と書いた、評論
家がいた。あるいは「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子に
させろ」「子どもにやる気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみれば
いい」「夫婦喧嘩は子どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の
尊さを教えるために、お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた、大学の教授が
いる。ともに、日本を代表する(?)、著名な教育評論家であり、教授だ。

 こういう暴論を書くと、本は売れる。またそういう暴論を書かないと、本は売れない。しかし子
どもには、ナイフなど持たせるものではない。幼児教育の現場では、「マッチやカッターで、遊ん
ではいけません」と教える。またわざと子どもを迷子にすれば、それが子どもにわかったとき、
(わからなくても)、親子の信頼関係は、崩壊する。2、3日、家から追い出してみるとよいとい
う考えにしても、実際には実行不可能だ。もしあなたの子どもが、半日いなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。さらに夫婦喧嘩など、子ども
に見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするなら、話は別だが、そんな夫婦がどこにいる
だろうか。

 さて「命の尊さ」だが、命の尊さは、たとえば身の回りの生き物を通して教える。故人の遺骨
を見せるとは、何事か。私は死んでも、私の骨など、誰にも見せてほしくない。もし子どもに教
えるとするなら、それは教えるのではなく、たとえばペットの死などを、ていねいに弔うことで教
える。「死」があるから、「生」がある。「死の恐怖」があるから、「生きる喜び」がある。もしあな
たがペットの死骸を紙でまるめて、ゴミ箱にポイと捨てるようなことがあれば、子どもは、「死」と
いうものはそういうものだと思う。同時に「生」とはそういうものだと思う。が、もしあなたが死ん
だペットを、ていねいに弔い、その死を悲しめば、子どもは同時に、生きていることの尊さを学
ぶ。そしてそれが命の尊さを学ぶということにつながる。

 私はこういう評論家や教授は、実際には、子どもを教えていないのではないかと思う。もっと
はっきり言えば、どこかの研究室の奥で、子どもの世界を想像しながら原稿を書くから、こうい
う原稿になる。が、世間は、こういう評論家や教授の意見をありがたがる。そして心のどこかで
は「おかしい」と思いながらも、それに従ってしまう。

 暴論は確かにおもしろいが、こと子育てに関する限り、この種の暴論にはじゅうぶん注意した
ほうがよい。子育てに王道はないし、近道もない。流行もないし、時代性もない。あるわけがな
い。人間は、何10万年もの間、子育てを繰り返してきたし、その子育てが、ここ10年や1
00年ぐらいで、質的に変化したと考えるほうがおかしい。要するに子育ても、常識の範囲で
すればよいということになる。その常識があれば、子育てがゆがむということはない。(以上、
01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 暴論 教育の暴論)

(付記)

「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子にさせろ」「子どもにや
る気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみればいい」「夫婦喧嘩は子
どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の尊さを教えるために、
お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた大学の教授がいたというのは、事実で
ある。

 最近でも、日本を代表する、教育(幼児教育)者として、別の新しい本を書いている。しかしそ
の教授(現在は、元教授)の言っていることが、いかに暴論であるかは、ほんの少しだけ常識
を働かせてみれば、わかるはず。

しかしその本を読んだのがきっかけで、私も育児論を書く気になった。体中に充満した怒りを、
抑えることができなくなった。恐らくその教授は、肩書きはともかくも、実際には、子どもを指導
した経験がないのではないか。経験がほんの少しでもあれば、とても、そんな本は、書けない。

また「子どもには、ナイフをもたせろ」(A新聞社刊行の小冊子)と書いた評論家は、そのあと、
派手なパフォーマンスをいろいろしてみせた。が、その直後、中学校などで、ナイフ殺傷事件が
つづくと、その評論家は、自説をいつの間にか、ひっこめてしまった。

ときとして、こうした暴論が、社会をにぎわす。そのほうが、(受け)がよいからである。それを読
む親たちは、じゅうぶん、注意したほうが、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学級崩壊の陰で(学校教育相対論)

 「わしら昔は、学校へ行くのが楽しみだった。学校へ行けば、家の仕事はしなくてすんだから」
と。引佐町(静岡県)で石材屋をしているK氏は、そう言う。私にも、それに似た覚えがある。
たとえば学校の運動会や遠足が、何よりも楽しみだった。運動会には、巻き寿司を食べること
ができた。また当時は、学校で遠足に行くこと以外、旅行で町を出るということはまずなかっ
た。学校で出される給食のほうが、家の食事より、ずっとおいしかった。

 しかし今は違う。子どもにとっては、毎日が盆と正月のようなものだ。食べ物も豊富だし、家
族旅行も、そのつど、している。学校の外には、おもしろいものが、山のようにある。つまり相
対的に、学校の地位がさがった。と、同時に相対的に、学校がおもしろくなくなった。

 幼稚園児とて例外ではない。少しでも作業っぽい学習をさせようものなら、すぐ「つまんナ〜
イ」とか、「もっと、おもしろいの、ナ〜イ?」とか、言い出す。それでも無理に刺せようとすると、
勝手に席を離れて、どこかへ行ってしまう。あるいはほかの子どもを巻き込んで、騒ぎ始める。
最近の子どもは忍耐力がないとよく言われるが、ないと言えば、まったく、ない。

 誤解がないように言っておくが、子どもの忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。たとえ
ば台所の生ゴミを手で始末できるとか、寒い夜に隣の家に回覧版を届けることができるとか。
そういうことを平気でできる子どもを、忍耐力のある子どもという。一日中、サッカーをしている
からといって、忍耐力のある子どもということにはならない。その子どもは好きなことをしている
だけである。

 こうした子どもたちを取り巻く環境の変化に対して、学校教育は、それに応えていない。旧態
依然のまま、30年前、あるいは40年前の教育を繰り返している。子どもたちに「おもしろく
ない」とソッポを向かれても、「子どもたちのほうが、おかしい」と言わんばかりに、文部省も、そ
して学校の教師たちも、努力を怠ってきた。結果、これはあくまでも相対的な変化だが、学校
教育がつまらないものになった。K氏の時代には、学校へ行くのが楽しかったが、今は反対
だ。「明日は学校は休みです」と先生が言おうものなら、子どもたちは、大声で「バンザーイ!」
と叫ぶ。学校が休みになることについて、それを悲しむ子どもなど、まず、いない。

 これだけではないが、つまりほかにも、いろいろな要素がある。が、しかし私は、これが学級
崩壊の大きな原因の一つだと思う。それは自由を知った小鳥を、再び籠の中に押しこめるよう
なものだ。押しこめれば押しこめたで、子どもたちにはストレスがたまる。そしてそのストレス
が、形を変えて校内暴力やいじめに発展する。唯一、子どもをしめつける手段があるといえ
ば、受験でおどすことだが、今はその神通力も消えつつある。

 このままでは学校教育は、完全に崩壊する。あるいはその前に、学校の教師たちが皆、神
経症か何かで倒れてしまう。現在、学校がかかえる問題は、それくらい根が深い。(以上、01
年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いたあと、「ゆとり教育」が叫ばれるようになり、「総合的な学習」の時間がもう
けられるようになった。

 学校教育も、質的に大きく変動し始めた。今は、その過渡期にあると考えてよい。もちろん失
敗もあるだろうが、試行錯誤の段階と考えるべきではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●進学塾VS親(殺伐とした人間関係)

 進学塾の月謝は、平均して2万〜2万5000円(月刊「私塾界」)。しかしこの額では、決
してすまない。すまないことは、入塾してみると、わかる。入会金、教材費、光熱費、模擬テスト
代、補講費などが、「万」単位で、次々とかかってくる。しかも支払いは、銀行振り込み。大半の
進学塾は、そういう支払いをカモフラージュするためにか、「ガクヒ」という名目で引き落とす。

親が通帳を見ても、学校の「学費」なのか、塾の「学費」なのかわからないしくみになっている。
まだ、ある。どこの進学塾も、夏休みや冬休みの特訓を、定例コースにしている。そういう連絡
は小さな文字で生徒に連絡し、お金は前もって自動的に引き落とす。親が、「特訓授業を申し
込んだつもりはない」と抗議しても、あとの祭り。「今からではキャンセルできません」と言われ
るだけ。

 こうした進学塾のやり方は、ほぼどこの塾でも同じ。……とまあ、こう書くと、進学塾の悪どさ
ばかりが目立つが、もともと進学競争の底流では、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。「他
人を蹴落としてでも……」、あるいは、「他人に蹴落とされる前に……」と考えて、親は、子ども
を進学塾にやる。進学塾はそういう親の心理を、たくみに利用して、それを金儲けにつなげる。
現在ある進学塾の現実は、親と進学塾の、醜い闘いの結果ともいえる。塾経営者に言わせれ
ば、「親なんて、信用できない」ということになるし、親に言わせれば、「塾は必要悪」ということ
になる。もともと良好な人間関係が育つ土壌など、どこにも、ない。

 一方、塾には塾の存在意義があると説く人たちもいる。塾こそ、自由教育の砦であると説く人
たちである。事実、すばらしい教育を実践している塾もあるには、ある。しかしそういう塾でも、
「教育」と「受験指導」のジレンマの中で、もがき苦しんでいる。藤沢市在住の塾教師のI氏は、
「塾教育は、矛盾と錯覚の連続だ」と結論づけている。矛盾というのは、今言った、ジレンマをさ
す。錯覚というのは、「大切でないものを、あたかも大切なもであると、思いこんでいること」だ
そうだ。具体的には、受験教育そのものをさす。

 この進学塾業界も、かつてない不況に見舞われている。少子化に不況。それにエリートの凋
落に見られる価値観の変動。それに中高一貫教育に見られる、制度の改革など。そういう中、
したたかな進学塾は、対象学年を、より低年齢化させ、一方大学受験にまで触手をのばし始
めている。金集めを、さらに巧妙化させている。親たちは、そういう事実を知りながら、「この時
期だけだから」とあきらめる。進学塾は、さらにそれを逆手にとる。もうそこには、「教育」という
概念は、どこにもない。商売、だ。I氏はこうつなげる。

 「この世界では、経験など、一片の価値もありません。親に教育論を説いても無駄です。そも
そもそういうものを期待していない。生徒集めのチラシにしても、4色を使ったカラフルで、豪
華なものでないと、生徒は集まりません。そういう目でしか、教育をながめていないのですから」
と。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 進学塾 受験競争 受験の弊害)
 
(付記)

 この日本では、受験は避けては通れない。しかしやり方は、あるはず。そのやり方を考えるこ
となく、子どもたちをただ、競走馬のようしにて競争させることが、本当に(教育)なのか。私た
ちは、もう一度、冷静に、考えなおしてみる必要がある。

 たとえばアメリカでは、成績だけでは、有名な大学には入れない。そこで各学校や、指名され
た教師に、推薦権なるものが与えられる。その推薦を受けて、人格的にもすぐれた子どもが、
その有名大学へと進学していく。

 もちろんこの推薦権を濫用すれば、その推薦権が剥奪(はくだつ)されたりする。だから各学
校は、こぞって真剣に、どの子どもを推薦するかを、独自の立場で検討する。

 日本ではそれにかわるのが、内申書ということになる。が、その大前提として、教師自身に、
子どもを見る目がなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育も適当に!(やり過ぎは、かえって……?)

 当初は喜んでくれた父母も、それが長く続くと、当たり前になる。そしてそれを前提として、父
兄はものを考えるようになる。教育というのは、そういうものだが、問題はそのあとに起こる。
やがて教師はその重圧と多忙から、ふつうの状態に戻ろうとする。しかし父母はそれを許してく
れない。いろいろな例がある。

 ある教師は子ども(小3男児)が、掛け算がまだ苦手なことを知って、毎日授業が終わると、
その子どもを残して、九九を教えた。掛け算でつまづくと、割り算ができなくなり、この二つでつ
まづくと、その子どもは算数がまったくといってよいほど、できなくなる。

 で、やっとのことで掛け算の九九を覚えたころには、割り算の授業は終わっていた。そこで今
度はその教師は、割り算の特訓をしたが、やっとその割り算ができるようになったころには…
…、あとはこの繰り返し。こういうケースでは、子ども自身も、先生の努力を評価しない。子ども
は先生の特訓を「バツ」ととらえる。「できないから、先生はぼくにバツを与えているのだ」と。適
当にしておかないと、かえって子どもを苦しめることになる。

 親は親で、掛け算ができるようになると、「もっと……」と、先生に期待する。そしてその期待
が要求に変わり、要求に答えるのが、教師の努めだと考えるようになる。が、教師とて人間。
聖人ではない。スーパーマンでもない。生徒といっても、30人もいる。できることにも限界が
ある。そこでそういう子どもから手を引こうとすると、親は、「何という教師だ!」となる。

 以前、熱血教師という言葉がもてはやされた。武田T也が扮する、金P先生という人気番組が
あった。しかし教育に携わったことがある人なら、誰でもわかることだが、あれはドラマ。ピス
トルをふりかざして、バンバン撃ち合う、刑事ドラマの類だと思えばよい。あんなことは現実に
は、ありえない。もし金P先生のような先生がいたら、その先生はあっという間に、身も心もズ
タズタにされてしまう。現実の世界は、もっと毒々しい。

 私も教師になりたてのころは、親のウソに、さんざん引き回された。すでによその幼稚園へ入
園届けを出したあとに、「今の担任の指導についていけません。先生のほうから、クラス替えの
ことで、園長にお口添えいただけないでしょうか」と。こんなこともあった。

 明らかに過保護児特有の症状を見せている子どもがいた。原因は、おばあちゃんだったが、
その日は、たまたま母親が、迎えに来ていた。そこでその母親に、「少し、おばあちゃんから離
したほうがいいですよ」と言ってしまった。が、この一言が、そのあと大問題になってしまった。

 ほぼ一か月後、再び母親に会うと、母親は別人のようにやつれた形相をしていた。そしてこう

った。「先生、あれから大変だったのですよ。祖父母と別居か、さもなくば離婚かということにな
りまして、結局、祖父母も別居に同意してくれました」と。

私の一言が、それまでくすぶり続けていた嫁・姑戦争に火をつけた形になってしまったが、こう
いうケースは日常茶飯事。適当にすますところはすます。教育には、そんな面も必要だ。(以
上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 それぞれの家庭には、外からは見えない、複雑な問題がある。100の家庭があれば、それ
ぞれの家庭がかかえる問題は、100種類、ある。そういう家庭の中へ、独断と偏見だけで、一
介の教師が、土足であがりこんでいってよいものか。私が見た、金P先生の番組の中には、金
P先生が、その子どもの親と、その子どもの家で、酒を飲みながら、子どもの教育について論じ
あうシーンがあった。いかにもテレビドラマといった感じのシーンだったが、しかし現実には、そ
んなことはありえない。また、教師たるもの、そこまでしてはいけない。

 教師の本分は、学校という場で、教育をすることである。その点、カナダでの学校教育は、徹
底している。教師は、教室の中で、自分のする教育には、全責任を負う。しかし生徒が一歩、
教室を出たら、何が起きても、それはもうその教師の責任ではない。そのため、学校側は、教
師の住所はもちろん、電話番号すら、教えない。

 日本の病院の中における、医療制度を思い浮かべてみればよい。医師が、それぞれの家庭
にあがりこんで、健康について、患者と議論するなどということがありえるだろうか。もしそんな
ことをすれば、病院における医療行為そのものに、さしさわりが出るようになる。

 今、学校の教師たちは、本当に、いそがしい。そのため、肝心の教育そのものが、おろそか
になる傾向さえ見られる。が、だれも、それでよいとは、思わない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●受験に狂奔する親たち(学歴信仰の陰で)

 「期末試験のころになると、お粥しかのどを通りません」と言った親がいた。「進学塾の光々と
した明かりを見ただけで、頭の中にカッと血がのぼります」と言った親もいた。さらに「子どもが
寝そべってテレビを見ていたりすると、それだけで子どもがダメになっていくようで、不安でなり
ません」と訴えた親もいた。自分の子どもが選別されていくというのは、親にとって恐怖以外、
何物でもない。こういう親を、一体、誰が笑うことができるか。

 ある親は子どもの塾通いのために、免許を取り、軽自動車まで買いそろえた。また別の親
は、子どものテストで採点ミスがあったりすると、学校まで乗り込んでいって、それを訂正させて
いた。子どものために、子ども部屋を増築したり、コピー機を買い入れたりする親になると、い
くらでもいる。ふつうは質素な生活をしていても、子どもの教育のこととなると、惜しみなくお金
を使う親も多い。30万円もする英会話教材をそろえたり、40万円もする百科事典をそろえ
たりするなど。休みのたびに、外国へホームスティさせる親もいる。

 念のために申し添えるなら、こういう親を、私は批判しているのではない。それぞれの親に
は、それぞれの思いというものがあり、その思いをこめて、親は、子どもを育てる。私のような
立場の者が、とやかく言う問題ではない。教育の世界には、「内政不干渉」という大原則があ
る。しかも教育というのは、まさにその人の人生観そのもの。他人が「まちがっている」とか、
「おかしい」などと言うほうが、まちがっている。

 しかしこれだけは言える。自分の意思でそうしていると思っている人でも、結局はもっと大きな
力によって動かされているに過ぎないということ。そしてその力とは何かと言えば、自分の心の
奥底に潜む、無意識の意識であるということ。ある女の子(小5)は、首にお守りをさげてい
た。私が不用意にそれに手をかけ、「これは何?」と聞いたときのことである。その女の子はギ
ャーッと、ものすごい声を出して私の手をはらいのけた。そしてこう言った。「汚(けが)れるか
ら、よして!」と。私は「ごめん、ごめん」とあやまったが、その女の子をそうさせたのは、その無
意識の意識である。つまりそれと同じことが、教育の世界でも起きている!

私「あなたは、本当に自分の意思で、子どもに勉強をさせているのですか」
親「私の意思です。勉強は必要だと考えるし、それを子どもにさせるのは、正しいことです」
私「誰かにそう操られていると、考えたことはありませんか」
親「ありません。あくまでも私の意思です」と。

 私は同じような会話を、いつか、どこかで、カルト教団の信者としたことがある。彼らもまた、
自分たちが絶対に正しいという信念のもと、自分の意思で動いていると主張してやまなかっ
た。学歴信仰が信仰と言われるゆえんは、そこにある。 (以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 教育カルト 学歴信仰 教育のカルト性)

(付記)

 「私はカルトとは無縁」と思っている人でも、無数のカルト的信仰をもっている。その1つが、
学歴信仰ということになる。が、ほとんどの親たちは、学歴信仰が何であるかもわからないま
ま、それを信仰している。信仰しているという自覚すら、ない。

 さらに信仰であるがゆえに、その人から、そのカルト性を抜くのは、容易なことではない。中
には、学歴そのものを、本尊か何かのように、大切にしている人もいる。そういう人から、学歴
信仰を抜くと、かえってその人は、大混乱を起こす。精神不安になる人さえいる。その前に、猛
反発する。私に向って、「あなたにとっては、他人の子どもだから、何とでも言える。自分の子ど
もに向って、同じことが言えるか!」と、食ってかかってきた父親さえいる。

 私が、その子どもの父親に、「受験勉強はあきらめたほうがよい」とアドバイスしたときのこと
である。その子どもは、過負担が原因で、燃え尽きる一歩、手前にいた。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●恐るべき集団性(思考回路の形成)

 80〜90%の子ども(年長児から小2児)が、「ポケモン」にはまった(99年春)。その前
は、やはり同じくらいの子どもが、「たまごっち」にはまった。この原稿を書いているとき(99年
3月)には、「だんご3兄弟」という、たわいもない歌が、子どもたちの世界を支配し始めてい
る。

 私たちの時代にも、フラフープや、ダッコチャンが、流行したことがある。そういう時代を知っ
ているから、今の時代だけが特殊だとは思わない。しかしどこか違う。私たちは流行にハマり
ながらも、流行は流行として、現実の世界との間に、一線を引いていた。……引くことができ
た。しかし今は、違う。

子どもたちは流行にハマりながら、現実と空想の間の垣根をとっぱらってしまう。そして現実の
世界に、空想、あるいは空想の世界に、現実を持ち込んでしまう。あるいは空想の世界に、逃
げ込んでしまう。そういう子どもが少数派であれば、まだいい。互いにブレーキをかけることが
できる。しかしそれが全体となったとき、ブレーキをかける人間がいなくなってしまう。子どもた
ちは暴走するまま、仮想現実の世界に入り込んでしまう。

 「超能力がほしい。そういう力があれば、ビルを吹き飛ばすことができる」と言った子ども(中
1)がいた。そこで私が、「吹き飛ばしたいと思うのは、君の勝手だが、それが君の家だった
ら、どうするのだ」と聞くと、「ぼくの家は、だいじょうぶ。超能力で守るから」と。ずいぶんと身勝
手な考え方だが、そう答える子どもは真剣だ。真剣にそういう「力」があることを、信じている。
信じた上で、自分の論理を組み立てる。が、問題はここから始まる。

 脳には思考回路というものがある。人間は自分の思考回路に従って、ものを考えるという傾
向がある。たとえばかつて和歌山市で、「ヒ素中毒事件」というのがあった。誰が犯人かは知ら
ないが、犯人は「ヒ素でものごとを解決する」という手法を見につけた人物であることには、まち
がいない。ヒ素と遠い距離にある人には、想像もつかない。が、その犯人は、ヒ素と、近い距離
にあった。……と思う。ほかにたとえば私は物を書くのが仕事だから、何か問題があれば、文
を書くことによって解決しようとする。つまりそれぞれ自分の思考回路に従っているにすぎな
い。

 一度、仮想現実の世界でものごとを考えるくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そ
の思考回路に沿ってものごとを考えようとする。あるいは問題を解決しようとする。これがこわ
い。たとえば幼児期に論理的なものの考え方を見つけた子どもは、ものの考え方が論理的に
なる。そうでない子どもは、そうでない。つまりこの時期に、仮想現実の世界でものごとを考え
るくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そういう世界でものごとを考えようとする。そし
てそれが、いつカルト(狂信)へと発展するかもしれない。

 私は子どもたちの流行を見ながら、それを心から心配している。(以上、01年記「子育て雑
談」) 

(付記)

 この日本では、テレビゲームを批評したり、批判したりすると、たいへんなことになる。猛烈な
抗議の嵐がわき起こる。珍現象といえば、珍現象。しかも抗議してくるのは、20代を中心とし
た若者たちである。

 ゲームの世界にハマっている若者たちにすれば、そのゲームが批評されたり、批判されたり
するということは、自分を否定されるのと同じということになる(?)。だから猛烈に反発する
(?)。私のほうは、親切心で、「ゲームには、あぶない部分もありますから、注意したほうがい
いですよ」「とくに子どもに与えるゲームには、注意したほうがいいですよ」と言っているだけで
ある。が、それに対して、反発とは!

 私の息子の友人などは、ゲームにはまりすぎて(?)、現在、おかしくなってしまった青年すら
いる。精神病院に入退院を繰りかえしながら、もう3か月になるという。そういう事実があること
も、忘れてはいけない。


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●国家論(よき家庭人)

 欧米の子育ての柱は、「自立したよき家庭人を作る」こと。このことについては、もう何度も書
いたが、「家庭人」と言うと、日本人は、すぐ「小市民的な生き方」を連想する。しかし家庭人イ
コール、小市民ではない。

 たとえば戦争が起きたとする。そして他国が日本を侵略してきたとする。そのとき日本人は、
「国のために戦う」と言うかもしれない。しかし欧米人は、「家族を守るために戦う」と言う。あの
ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」でも、最後のシーンの中で、主人公のアメリカ人は、
「(国のためではなく)、マリアのためになら死ねる」と叫んで、機関銃を撃ち続ける。

 「国」という言葉が出たので、もう少しつけ加えるなら、日本人は「国があっての国民」と考え
る。一方、欧米人は、「家族を守るために、その集合体としての国がある」と考える。もう少し具
体的には、戦前の日本では、「国」というのは、「天皇」をさしていた。(今も、そう考えている人
は多い。)つまり私たち国民は、あくまでも天皇の臣下に過ぎない、と。

しかし欧米人にとっては、国というのは、あくまでも一つの単位に過ぎない。オーストラリアの友
人とこんな会話をしたことがある。「君たちは北からインドネシア軍が攻めてきたら、どうする
か」と聞いたときのことである。彼はこう言った。「故郷のスコットランドへ家族を連れて逃げる」
と。そこで「国を守らないのか」と聞くと、「オーストラリア人が横一列になって手をつないでも、
オーストラリアの端から端まで、カバーできない。どうやって守ることができるのか」と。彼らが
国を意識するとすれば、それは思い出のしみこんだ国土をさす。日本人のように、抽象的な概
念としての「国」を想定しない。

 こうした国民意識の違いは、そのまま教育の場にも反映される。日本は明治以来、「国(=天
皇)のための国民づくり」が、教育の柱になっている。今もそうだ。国が栄えれば、国民も自動
的に豊かになれる。あるいは企業が栄えれば、社員も自動的に豊かになれる。宗教団体の中
にも、そう考える教団は多い。教団が栄えれば、信者も自動的に幸福になれる、と。さらに県レ
ベル、市町村レベルでも、そう考える人も多い。つまり教育は、常にそういう視点、言いかえる
なら全体主義的な視点で、子どもをとらえてきたし、今もとらえている。しかし、こんな考え方
が、21世紀に通用するはずがない。

 「よき家庭人」というのは、まさに個人主義的な生き方そのものを象徴する。また子どもにそう
教えたからといって、それは決して、子どもに「小さくまとまれ」と教えるのでもない。「よき家庭
人」というのは、「まず自分を大切にせよ」と教えることをいう。そしてその視点で、社会を考え、
国を考え、また社会や国がどうあるべきか考えよと教えることをいう。繰り返すが、国や社会が
あるから、あなたがいるのではない。あなたがいるから、国や社会がある。そういう視点の基
本となるのが、ここでいう「自立したよき家庭人」という考え方なのである。(以上、01年記「子
育て雑談」)

(付記)

 家族主義を主張する人たちが、ここ5、6年の間に、急速にふえてきた。99年前後には、ど
んな調査をみても、30〜40%だったのが、最近では、80%以上の人が、家族主義を唱える
ようになった。日本人の意識が、革命的に変化しつつあることを示す。

 考えてみれば、当然のこと。今までの出生主義、権威主義のほうが、まちがっている。幸福な
どというものは、遠くにあるのではない。私たちの身のまわりに、じっと息をひそめて、そこにあ
る。それに私たちは、気がつき始めた。

 そのため、これまた当然のように、「国」に対する考え方も、変わってくる。今までは、「国あっ
ての民」と考えた。しかしこれからは、「民あっての国」と考える。つまり日本人も、やっと、民主
主義の意味がわかるようになった。

 こうした(流れ)に対して、もちろん抵抗勢力もある。旧態依然の考え方に、固執している人も
いる。決して、年配の人たちばかりではない。が、ここで重要なことは、こうした(流れ)を、私た
ちは、守ることはあっても、決して、後退させてはならないということ。

 国、民、そして国の基本法である憲法のあり方は、その結果として、自然に決まる。
(はやし浩司 国家論 民主主義 民主主義論 家族主義)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●進学塾の合格発表(子どもは宣伝のダシ)

 今年も新聞紙2面を使って、高校入学試験合格者の名前が、発表された。ただし新聞社自
身がそうしたのではない。どこかの進学塾が、それをした。

いわく「今年度、S塾出身の合格者」と。その下にはすぐ、「ここに名前をあげた子どもは、中途
退会者を含まず。模擬試験だけを受けた人を含まず」とある。つまり「正規の(?)塾生の名前
だけだ」と。その進学塾としては、精一杯の良心(?)を演出したつもりなのだろう。以前は、模
擬試験だけに参加した子どもまで合格者に並べて、世間のひんしゅくを買った進学塾がたくさ
んあった。

 しかし、こういうことが堂々とできるところに、問題がある。いくら言論や出版の自由があると
はいえ、そこには教育に携わる者の、一片の良識が感じられない。たとえば合格者名を発表
するぐいらいなら、不合格者名も発表すべきでないか。あるいは、その人数だけでもいい。どこ
の病院が、治療成功者の名前など、新聞紙上で発表するだろうか。もう少し、身近な問題で考
えてみよう。

 仮にあなたに10人の生徒がいたとしよう。そしてそのうち、7人が合格し、3人が落ちたと
しよう。そういうときあなたは合格した子どもに向かって、「よくやったね、おめでとう」と言うこと
はできても、祝賀会など開けるものではない。祝賀会など開けば、残りの3人がキズつくだけ。

もともと受験指導というのは、一人の生徒を合格させれば、別のどこかで1人の生徒を不
合格にさせるだけだ。その底辺では、毒々しい、人間の醜い欲望が渦巻いている。そういうこと
も考えると、ますます祝賀会など、できなくなる。

 もし本当に合格者を祝いたいのなら、こっそりとすればいい。その進学塾がこうして、大々的
に新聞紙上で、合格者の名前を発表するのには、もっと別の意図がある。つまり宣伝である。
「うちの塾は、これだけの合格者を出している。もし受験を考えるなら、うちへ来い」と。わかり
やすく言えば、名前を出された子どもは、宣伝のダシに使われたに過ぎない。ダシになる子ど
もも子どもだが、そういうふうに子どもをダシにしながら、みじんも恥じない進学塾も進学塾だ。
そうまでして、お金を稼ぎたいのか!

 まだある。進学塾は、A高校、S高校など、静岡県下の主だった、進学高の合格者だけを発
表していたが、こういう形で、世間が必死になって忘れようとしている高校の序列を見せつけて
いる。

こういう高校を受験して不合格になった子どももかわいそうだが、そういう序列を見せつ
けられて、不愉快に感じている親や子どもは、その10倍はいる。進学塾にとっては、序列の
低い高校など、高校ではないのだ。まだある。こうして進学校に入り、名前を出してもらった子
どもは喜びながら、ゆがんだエリート意識を植えつけられる。「ぼくたちは、ほかの人間とは違
うのだ」と。皆が皆、そうなるとは思わないが、子どもがそうなる危険性は高い。

 どこをどう考えても、そんなわけで、こういう進学塾の合格者発表は、異常である。こういう宣
伝がなくなったとき、日本の教育は正常になる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 4年前には、かなり過激なことを書いていた……と、自分でも、そう思う。しかし進学塾のあく
どさは、私自身も20代のころ、その進学塾で講師をしていたことがあるので、よく知っている。
で、その当時の印象があまりにもよくなかったので、今でも、その印象を、心からぬぐい去るこ
とができない。

 しかし今では、ふつうの私立高校などが、進学塾から講師を招いて、教育指導を受ける時代
になった。つまり高校自体が、進学塾化している。

 しかしここで誤解していけないことは、進学塾があるから進学競争が過熱しているのではない
ということ。それを求める親や子どもたちがいるから、過熱する。そしてなぜ過熱するかといえ
ば、そこに不公平社会があるからである。親たちは、日々の生活をとおして、その不公平さを、
肌で感じている。

 そのことは今の中国をみれば、わかる。拡大する貧富の格差の中で、進学競争は、今の今
も、過熱の一途をたどっている。つまりこの不公平社会が是正されないかぎり、進学競争もま
た、是正されない。

 もちろん努力した人や、がんばった人たちが、それなりによい生活をするのは、当然である。
しかし今のこの日本では、そうではない。ないことは、あなたの周囲を見れば、わかる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●去り際の美学(わだかまりをつくらず)

 教育には入り口と出口がある。学校でいえば、入学式と卒業式がある。この二つの行事がい
かに大切なものであるか、それは教育をしてみると、わかる。まず入学式だが、そこで教師が
生徒や父母に与える、第一印象は、その後の教育のあり方全般にわたって、大きな影響を与
える。反対にこのときに「わだかまり」をつくると、それを取り除くのに、何倍もの努力とエネル
ギーを、必要とする。

 もう一つは卒業式だ。この卒業式のやり方をまちがえると、これまた大きな「わだかまり」をつ
くってしまう。「どうせ別れるのだから、どうでもいいではないか」と思う人がいるかもしれない
が、そうはいかない。不愉快な別れ方をすると、自分の人生そのものを無駄にしたような感じ
てしまう。もともと教師というのは、どんな立場の教師であれ、自分の時間を切り売りしているよ
うなところがある。仮に4年間、教えた子どもがいたとしよう。そうすると教師というのは、「あ
あ、自分の人生の20分の1は、この子どもとともに過ごしたのだ」と考える。

 これは教師側の意見だが、しかし問題は、父母のほうにある。いくら教師側がそう思っていて
も、父母の中には、机を蹴っ飛ばすようにして去っていく人がいる。それぞれ、いろいろな思い
があってそうするのだろうが、しかしこういう別れ方は、その後の人間関係を完全に破壊する。

ある塾の教師はこう言った。「何が頭へ来るかといってですね、小さな紙切れ一枚、あるいは
電話一本で、『やめます』と言ってくるケースですよ」と。「中には、月末の最後の授業のあと、
つかつかと私のところへやってきて、『今日でやめます』と言ってくる子どももいます。まだある。
『今度、B塾へ行くことになったけど、そちらがおもしろくなかったら、また戻ってきます』と言うの
もいる」と。

塾教師にとっては、「やめる」というのは、「クビを切られる」ことと同じである。それが親にはわ
からない。親にとっては塾というのは、どこまでも自動販売機。それに近い存在。私も「形」は、
塾という形で子どもの指導をしているから、その教師の気持ちはよく理解できる。
 
昔から「初めよければ、終わりよし。終わりがよければ、すべてよし」と言う。私の場合、相手
が幼児だから、よけいにそうなのだろうが、100人教えて、10年後に連絡を取り合ってい
る生徒は、1人ぐらいなものではないか。20年後となると、さらに少ない。もちろん連絡を取
り合っていないからといって、人間関係が消えたというわけではない。最近では、教え子たち
が、息子や娘を連れて、私のところへ来てくれる。

 さて私の場合だが、去り際の美学というのを、常に考えている。いくら頭にきても、あるいは
内心では不愉快に思っていても、きれいに別れるようにしている。人生は長いようで短い。人
の出会いも、多いようで少ない。こちらにもいろいろな「思い」はあるが、別れたとたん、その子
どものことはすべて、忘れるようにしている。そういう形で、自分の心を整理したり、あるいは掃
除したりして、また次の子どもを迎えるようにしている。 (以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 私も若いころは、紙切れ一枚でやめていく生徒がいたりすると、がく然とした。今でもそういう
生徒がいないわけではない。それに今でも、そういう気持、つまりがく然とする気持ちが、消え
たわけではない。

 が、この世界はそういう世界であると、ずいぶんと前に、割り切った。不愉快な思いをするだ
け損だし、不愉快な思いをしたところで、その生徒がもどってくるわけではない。だから不愉快
な思いをするといっても、その瞬間だけ。あとは忘れる。何もかも忘れる。その生徒の思い出
も、名前も。つまりそうして、私は、自分の心を守る。

Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●一流大学は出たけれど……(ゆがんだエリート意識)

 こんなエピソードが、新聞に載っていた。ある東大の学生が、就職試験で落ちた。それについ
てその学生が、「どうして私をとらないのか」と聞いたら、その試験担当の社員はこう答えたとい
う。「君は、もっとも一緒に仕事をしたくないタイプの人間だから」と。

 学歴さえあれば何とかなる時代は、もう終わった。あるいは学歴をひけらかして生きる時代
は、もう終わった。この私にもこんな経験がある。もう20年以上も前のことだが、私は小さな
翻訳事務所を出していた。そこでのこと。時々、外部の人に仕事を頼んだことがあるが、4年
制の英文科を出た人は、まったく役にたたなかった。むしろ外国で数年、遊んできた人のほう
が、ずっと役にたった。実戦力もあった。通訳についても同じ。

 こう書くからといって、教育を否定しているのではない。私が否定しているのは、立身出世主
義のために利用される教育だ。学歴させ身につけておけば、社会的地位や名誉、さらには富
を手にすることができるという考えだ。こういう考えで、教育が利用されたら、たまらない。

 私の同年齢で、T大やK大を出た人が何人かいる。一緒に仕事をしてきた人も多い。たとえ
ばあの出版社のS社にしてもG社にしても、東大や筑波大の社員がゴロゴロしている。大半が
そうであると言っても過言ではない。ただ救いなのは、そういう人たちでも、ごくふつうの社員と
して、仕事をしているということだ。特別のエリート意識を感じさせる人はいない。世間を「下」に
見ているということもない。大企業か中小企業かの違いを除けば、私の町にある会社の社員
と、区別がつかない。

 高い学歴があるなら、あるでいい。しかし人間は、その中身。その中身で決まる。そういう意
味で、大学を卒業したら、知識や学力(学ぶ力)だけを残して、一度、学歴を捨ててみることが
大切ではないか。あるいは学歴そのものを忘れてしまう。そして一度、裸になったところからス
タートする。

 日本のエリートは、エリートはエリートでも、何かが欠けている。冷たいというか、ドライという
か、どこか人間味が薄い。ものごとをソツなく、合理的にできるが、万事、事務的。その理由を
すべて受験勉強にもっていくことはできないが、私は、あの受験勉強が大きな影響を与えてい
ると思う。勝てば勝ったで、へんなエリート意識をもつし、敗れれば敗れたで、へんな挫折感と
劣等感を植えつけられる。どちらにころんでも、それは人間が本来もっているはずの、「やさし
さ」とは、相容れないものだ。
もちろん子どもたちには罪はないが、問題は子どもたちのCPU(中央演算装置)が狂っている
ため、子ども自身が自分の「狂い」に気がつかないことだ。それが本来の人間の姿であり、ま
たそれが当然だと思いこんでしまう。そしてそのままそれを、次の世代に伝えてしまう。そして
冒頭に述べたような大学生を作ってしまう。つまり「勉強ができれば、社会は自分を優遇すべ
きだ」という、実に鼻持ちならぬゆがんだ、エリート意識をもってしまう。  (以上、01年記「子
育て雑談」)  

(付記)

 中国には、「小皇帝」と呼ばれる子どもたちがいるそうだ。裕福な家庭に生まれ育ち、勉強し
か、しない。勉強しか、できない。勉強だけがすべてで、家庭の中では、皇帝のように振る舞っ
ている子どもたちである。

 先日もそういう子どもがテレビ(NHK)で紹介されていたが、まさに「皇帝」といった感じだっ
た。自分は学校から帰ってくると、デンとソファに座っているだけ。そこへ母親や父親が、かし
づくようにして、お菓子や果物をとどける。

 ……実にこっけいなシーンだったが、20年前、30年前には、この日本でも、同じようなシー
ンが、あちこちの家庭でも見られた。中国は、そういう点では、日本の20年、30年前を再現し
ているのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●幼稚園児のかけ算(見かけの力)

 幼稚園児でもかけ算の九九を、ペラペラとソラで言うことができる子どもがいる。同じように足
し算や引き算を、スラスラすることができる子どもがいる。あるいは本をスラスラと読むことがで
きる子どもや、漢字を読み書きできる子どもがいる。そういう子どもを見ると、「優秀な子ども」
と思いがちだが、本当にそうか。私にはこんな経験がある。

 ある日のこと。年長児になったばかりのTさんが、本をもってきて、それをスラスラと読んでみ
せた。そこで私は別の本を渡し、「これを読んでみてごらん」と言うと、Tさんは、その本もスラス
ラと読み始めた。私はTさんをほめたが、しかしすぐ、それがまちがいであることに気がつい
た。私が「どんな話だったの?」と聞くと、Tさんは、「わかんない」と。そこでさらに「クマさんはど
こへ行ったのかな?」と聞くと、それも「わかんない」と。Tさんは、文字を音に変えていただけだ
った。

 ついでに言うと、読みの深い子どもは、むしろ一文ずつ意味を考えながら読んだり、挿し絵を

て考えながら読む。子どもにとって大切な「力」というのは、そういう力のことをいう。が、親たち
はそれがわからない。わからないから、いわゆる見かけの力でも、それが力だと思いこんでし
まう。幼児ばかりではない。この傾向は大学へ入るまで続く。

子(小5)「分数の割り算ができるよ」
私「ほう、それはすごいね。それは小学6年生が、勉強するところだよ。どうやってやるの?」
子「分数をひっくり返して、かければいい」
私「なるほど。でもさ、どうしてそうすればいいの?」
子「わかんない」

 話を少し戻すが、計算力は訓練によって伸びる。できない子どもはできないが、しかしそうで
ないなら、訓練によって伸びる。少しずつでも毎日すれば、効果的だ。しかし計算力は計算力。
それだけのものであって、それ以上のものではない。が、問題はここから始まる。

多くの親は、そういう表面的な力(?)を見て、自分の子どもは算数が得意だと思う。そしてそ
れを前提にして、子どもの勉強を組み立てる。そして少しでもその力に陰りが見えたりすると、
無理をする。あるいは新たな学習を強要する。そして一度こういう状態になると、親にも子ども
にも、安らかな日々はもうない。山のようなワーク。転々と移り変わる教育方針。そしてお決ま
りの塾めぐ
り。

 こういうケースでは、最終的に行きつくところまで行かないと、親は気づかない。子どもが多少
できるようになればなったで、親の意識はさらに先へ行く。一度できたものの考え方、つまり子
育ての筋道というのは、そんなに簡単に変えられるものではない。「小さいころは、もっとでき
た」「うちの子は、やればできるはず」「こんなはずは、ない。何かのまちがいだ」を繰り返しなが
ら、行きつくところまで、行きつく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 子どもに、見かけの力をつけることは、それほどむずかしいことではない。説明すると長くな
るが、しかしそれをすると、今度は、子どもに、依存性ができてしまう。

 家庭教育の柱は、「よき家庭人として、子どもを自立させること」だが、同じように、教育の柱
は、「子どもの心に灯をともし、その能力を引き出すこと」。

 そのためには、ある時期がきたら、子どもを自立させなければならない。「こんな先生に習うく
らいなら、自分で勉強したほうが、まし」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。そういう
方向に、子どもを、誘導していく。

 それに見かけの力は、いわばメッキのようなもの。やがてすぐはがれてしまう。子どもの本当
の力は、子ども自身が、自ら自分の力を引き出そうとしたときに発揮される。時間はかかる
が、そういう力を、ていねいに育てていく。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ドラ息子(N君の場合)

 生意気で、教師を教師と思わないような生徒がいる。態度もおうへいで、ふてぶてしい。その
くせわがまま。おとなの世界そのものを、なめきっている。こちらからあいさつをしても、「フン」
と横を向いたりする。概してこのタイプの子どもは頭がいい。何かを教えようとしても、「そんな
の知ってっらア」と、吐き捨てたりする。

 その分、生活を楽しんでいるかと思いきや、不平、不満だらけ。何かにつけて、「たいくつだ」
「つまらない」「もっと、おもしろいことはないか」「何かほしい」「何かしてよ」を繰り返す。口をと
がらせて、露骨に不快感を表現することも多い。いわゆるドラ息子だが、N君(小三)も、そんな
タイプの子どもだった。

 両親は共働きだったが、同居している祖父母に、N君は溺愛された。恐らく幼児期において
は、蝶よ花よとかわいがられ、何一つ家事の手伝いはしなかったのだろう。使った道具を片づ
けさせようとしても、両手を下へくるりと巻いて、それを見おろすだけ。片づけようという意識そ
のものが、ない。ほかの子どもの使った道具について、「一緒に片づけてよ」と指示しようもの
なら、「何で、ぼくがしなきゃア、いかんよオ!」と、大声で抗議したりする。 

 こういう生徒と対峙すると、相当気の長い教師でも、頭にくる。大のおとなが、どうしてこんな
子どもを相手にしなければならないなかとさえ、考えたりする。いや、自分がなさけなくなる。
「教育なんて、やっておられるかア!」という気分にすら、なる(失礼!)。

 しかし問題はそのことではなく、親自身に、その自覚がまったくないことだ。親は自分の子ど
もしか見ていない。N君が一人息子だったこともある。教師というのは、それぞれの子どもを比
較しながら、その子どもの位置づけをすることができるが、親にはそれができない。そういう
「問題のある子」でありながらも、それに気づくことがない。せいぜい私が言えることは、「もっと
家事を手伝わせなければいけない」という程度のことでしか、ない。が、それとて、この年齢
になると、手遅れ。だから自然と口が、重くなる。

 そのN君は、小学4年生になるとき、私の手を離れたが、彼の将来を予測することは、そん
なに難しいことではない。このタイプの子どもはいくらでもいる。私も、何10例と経験してき
た。で、その予測。まずこのタイプの子どもは、やがてすぐに家の中でも、手がつけられなくな
る。親は、そういうわがままな態度に手を焼くが、体力的にも、もう追いつけない。「うるせエ!」
とすごまれただけで、震えあがってしまう。そして親の期待と夢はことごとくつぶされ、結果的に
は、「人様に迷惑さえかけなければ……」というレベルまで、落ちる。

勉強については、そこそこにはできるようになるが、あくまでも「そこそこ」。本人も、自尊心と現
実のギャップで悩むのだろうが、しかし自分自身に原因を求めない。おとなになってからも、社
会や世間、あるいは親を逆恨みしながら、不平、不満タラタラの人生を送る。要はそういう子ど
もにしないこと。そういうことを知ってもらいため、私はこの原稿を書いた。(以上、01年記「子
育て雑談」)

(付記)

 教えていて一番、虚しさを感ずるのは、いわゆる、ドラ娘、ドラ息子に接したときである。この
タイプの子どもは、たとえば料理人が、丹精(たんせい)こめて作った料理を、食い散らすような
ことを平気でする。いくらお金のためとはいえ、がまんするにも限度がある。

 そこで私のばあいは、(つまりBW教室では)、小学生以上の子どもについては、紹介のある
人以外は、入塾を認めていない。実際には、小学生になってから入ってくる子どもは、ほとん
ど、いない。

 こうしたドラ息子、ドラ娘になるかどうかの分かれ道は、年中児から年長児にかけてある。つ
まりこの時期の指導が、きわめて重要。

 で、今、この原稿を読みなおしながら、なぜN君はN君のようになってしまったかについて考え
ている。が、そのN君は、たしか、小学2、3年のときに、私のところにやってきたのではなかっ
たか。決して責任のがれをするわけではないが、私のところへきたときには、すでに、手のほ
どこしようがないほどのドラ息子になっていた。

 それにこのN君の話は、今からもう10年以上も前の話である。なぜ4年前に、そのN君のこ
とを書いたのか、よくわからない。多分、何か、いやなことがあって、そのうさ晴らしのために、
この原稿を書いたのだと思う。自分の生徒のことを、こうして悪く書くのは、私のやり方ではな
い。それに今、読みかえしても、どうも、あと味が悪い。

 削除することも考えたが、これも、私の(一部)。このままこの原稿を、ここに残しておくことに
する。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●「女」になる子どもたち(これも時代の流れ?) 

 女子の性体験は、16歳がピークだという。それはそれとして、その子どもがセックスを経験
しているかどうかは、男の教師なら、すぐわかる。「男を見る目つき」そのものが、ほかの子ど
もと違う。ものの言い方や考え方が、「男」をなめた感じになる。「今度のテストは、がんばった
か?」「フフフ、いいじゃん、どうでも……フフフ」と。

 Tさん(中3)が、大きく変化したのは、中学2年の夏ごろだった。ある日爪を見ると、マニキ
ュアをしたあとがついていた。眉にソリを入れ、しかもかすかだが口紅をしていることもわかっ
た。Tさんは、明らかに「おとなの世界」で遊び始めていた。どういう形で遊んでいるかは、私に
はわからなかったが、携帯電話を始終大切そうに持ち歩いていたから、そういう方面で遊んで
いることは、察しがついた。

 こう書くとTさんのことを、不良(?)と思う人がいるかもしれないが、そういうことはまったく、な
い。頭もよかったし、勉強もまあまあできた。家庭もごくふつうだった。いや、両親が別々に外
車を乗り回していたから、平均的な家庭よりもずっと裕福だったかもしれない。いつかTさん
が、「おやじのマンション」と言ったのを覚えている。父親はマンション経営もしていた。そのTさ
ん、性格も明るく、何かにつけて、大声でよく笑った。

 が、この種の問題は、止めて止められるものではないし、親に言えば、かえってやっかいなこ
とになってしまう。男の「カン」だけで、子どもの指導はできない。そこで私は何度かTさんに、ア
ドバイスを試みた。「同年齢の男の子とつきあったら」と。しかしTさんは、同年齢の男子を、「ガ
キんちょ」と呼んだ上、「あんなガキんちょたち、つまんない」と。そしてこの傾向は、Tさんが中
学3年生になるころには、もっと激しくなった。まさに遊びまくっているといった感じになった。

もうそのころになると、筆箱の中の指輪類を隠そうともしなかった。私が「これは何だ?」と、
指輪の一つをつまんで声をかけると、「いいじゃん」と、あやしげな目つきで、それを私の手
からパッと取り返したりした。もしその場だけのやり取りを見た人がいたら、どこかのスナッ
クか、バーでの男と女の会話だと思ったかもしれない。私自身がドキッとするほど、Tさんの
目つきは「女」のそれになっていた。

 こういうケースを、あなたならどう考えるだろうか。またどうTさんを、どう指導したらいいと考え
るだろうか。あるいは、そもそも指導する必要があるのだろうか。ないのだろうか。男と女で
は、判断のしかたも違うだろう。ある人(女性)は、「親のほうから相談があるまで、放っておくし
かないわね」と言った。また別の人(女性)は、「それも時代の流れでしょうか」と笑った。私は男
だから、もう少しシビアな見方をするが、正直言って、まったくわからない。ただ言えることは、T
さんは今、高校2年生だが、今は何ごともなかったかのように、ごくふつうの学生として、学校
に通っている、ということだ。いやいや、男と女の関係などというのは、もともとそういうものかも
しれない。セックスを楽しむことを、悪と決めてかかるのも、正しくないのかもしれない。

それぞれの子どもは、それぞれの方法で、おとなになっていく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 少し前だが、道で、男子高校生の落としたサイフを拾ったことがある。中を見ると、その学生
証のほかに、コンドームが2つ、入っていた。

 それを見て、そのサイフを交番へ届けるのが、バカ臭くなった。それでそのサイフを、落ちて
いたところの近くにあった自動販売機の上に、のせた。

 今は、そういう時代である。で、この話を、私の生徒(当時、女子高校生)にしたら、その生徒
は、こう言った。

 「先生、あのね、放課後の教室って、ラブホテルみたいよ」と。「学校の先生は、何も注意しな
いのか?」と聞くと、「だって、先生はこないもん」と。

 こういう問題でカリカリする、私のほうが、おかしいということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●臭い街(相対性理論)
 
 アインシュタインは、相対性理論を唱えた。そんな高尚な理論ではないが、反対の立場で見
ると、ものの価値観が180度変わるということはよくある。

 引佐郡引佐町のT村に住んでいる婦人が、こう教えてくれた。「町の空気は臭いですね」「先
日もアクトタワー(駅前の高層ビル)へ行ったのですが、通路を歩いているだけで、吐き気を覚
えました。食堂からの臭いがあちこちからしてきて、気持ちが悪くなりました」と。

 こういう感覚は町の中に住んでいる人には、当然のことながら、わからない。それに慣れてし
まっているからだ。そういう意味で、「慣れ」というのは、こわい。自分たちのまわりの様子がわ
からなくなる。そしてそれを前提として、ものごとを考えるようになる。

 そのアクトタワーだが、建設費だけでも2000億円とも、3000億円とも言われている。
あの東京の国立劇場が400億円で建設されているから、いかに莫大な額かが、それでわか
る。で、このことを市の役人に話すと、その役人は笑ってこう話してくれた。「はやしさん、そんな
ものじゃ、ありませんよ」と。もっとお金がかかったというのだ。「土地代は別ですから」と。

 さらに、そのアクトタワー。人の通りもまばらで、楽器博物館にしても、閑古鳥が鳴いている。
「音楽の町にふさわしい建物を」と意気込んで建てられたものの、地下に大小、二つのホール
があるにすぎない。建設費を床面積で割ると、百万円の札束を敷きつめたほどのコストがかか
っているという。

 何となくグチになってしまったが、私が言いたいのは別のことだ。町の人間が「町」を考える
と、こういう町づくりになってしまう。そこで私はふと、こんなことを考えた。T村の住人が町づくり
を考えたら、どんな町を作るか、と。彼らがまず真っ先に考えるのは、「臭くない町」だろうと思
う。

具体的には、田舎の様子をそのまま町へ持ちこむ。土や緑をそのまま町へもちこむ。ちょう
ど町の建設業者が、村の土手や小川を、灰色のコンクリートで埋めつくすように、その反対の
立場で、町を土や緑で埋めつくす。互いにそのほうが、居心地がいいからだ。と、考えると、日
本の社会は、実に都会優先にできていると思う。町の価値観が田舎へ来ることはあっても、田
舎の価値観が、町へ入ることはまず、ない。都会らしい田舎づくりをすることはあっても、田舎
らしい都会づくりをすることは、まず、ない。

先の臭いにしても、都会の人が田舎へやってきて、「おいしい空気ですね」と言うことはあって
も、田舎の人が町へやってきて、「臭いですね」とは、言えない。心の中でそう思っても、それを
口に出して言えない。田舎の人がせいぜいできることと言えば、口をタオルでおさえ、顔をしか
めながら、その場から急ぎ足で立ち去ることでしかない。

 町の人は、自分たちはいい生活をしていると思うのは勝手だが、一度、田舎の人の目で、自
分を見てみるとよい。ものの価値観がひっくりかえるということはよくあるし、新しいものの見方
ができるようになるかもしれない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 都会優先型の社会構造そのものに問題がある。行政にせよ、文化にせよ、すべてが都会側
から一方的に、地方へ流れてくる。反対に、地方から、都会にそれらが向うことは、めったに、
ない。が、こればかりは、いかんともしがたい。

 しかし何も問題意識をもたないのと、問題意識をもつのとでは、ものの考え方が変わってく
る。ときには、田舎の中に自分の視点を置いて、ものを考えることも重要なことだと、私は思
う。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●笑わない子どもたち(萎縮する心)

 子どもというのは皆、大声で笑うもの……と考えているなら、それはまちがいだ。今、大声で
笑えない子どもが、ふえている。10人に2、3人はいる。皆がドッと笑うようなときでも、顔を
そむけてクックッと笑ったりする。原因はいろいろあるが、それだけ心がゆがんでいるとみる。

 まず第一に、過干渉。威圧的な子育て、権威主義的な子育てが日常化すると、子どもの心は
内閉する。次に育児拒否。家庭崩壊や暴力的なしつけが原因で、内閉することもある。最近で
は、「機能不全型家庭」がふえている。家庭が本来果たすべき機能そのものが、欠落している
家庭だ。母親がパチンコに狂う、父親が仕事人間で、家庭を顧みないなど。生活が混乱してい
て、秩序そのものがない。朝食、夕食といっても、時間もめちゃくちゃで、しかも「食」としての形
がない。テーブルの上に、食べかけのパンがころがっているだけ、というように。子どもは満た
されない愛情への欲求不満から、自分の心を傷つける。情緒や精神状態そのものが不安定
になることも珍しくない。

 神経症や脳の機能的障害が原因となることもある。自閉傾向やかん黙傾向のある子ども
は、心のそのものにマクがかかったようになり、いわゆる「何を考えているかわからない子ど
も」になる。自閉傾向のある子どもは、自分の世界に陶酔してしまうので、意思の疎通そのも
のができなくなる。こちらからの働きかけに反応して笑うこともあるが、それが突然であったり、
あるいは場違いなほどおおげさであったりする。ギャーギャーと、勝手に騒ぐこともある。また
かん黙傾向のある子どもは、いつももう一つの心が、別のどこかにあるような感じになる。いつ
も柔和な笑みを浮かべたまま、それでいてまったく話さない。

 子どもは笑わせる。何でもないようなことだが、子どもは大声で笑うことによって、心を開放さ
せる。裏を返して言うと、大声で笑うだけでも、子どもの心がまっすぐ伸びているという証拠だ。
そこでいよいよ本論だが、あなたの子どもはどうだろうか。幼稚園や小学校での様子はどうだ
ろうか。先生の話を聞きながら、大声で笑っているだろうか。それとも笑っていないだろうか。
笑うことはないしにしても、大声で反論したり自分の意見を言っているだろうか。それとも静か
だろうか。

 もしあなたの子どもが静かで、大声で笑うこともないようであれば、あなたは家庭教育のあり
かたを、おおいに反省してみる必要がある。中には「子どもというのは、生まれながらにそうい
う性質は決まっている」と考える人がいるが、それはとんでもない誤解である。子どもは(おとな
も)、生まれながらにして、大声で笑ったり、話したりすることのほうが、自然な姿だ。

 繰りかえすが、幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときは、従順でおとなしい子ども

すなおな子どもとは、言わない。自分の思っていることを、ハキハキと言うことができる子どもを
すなおな子どもという。これも誤解がないように。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 『笑えば、伸びる』……それが私の指導法の柱にもなっている。笑うことには、不思議な力が
ある。その(力)は、大脳生理学の分野でも、近年になってつぎつぎと証明されつつある。

 また「学習」という分野においても、笑うことによって、子どもの中に、前向きな姿勢が生まれ
てくる。私は、ときには、1時間中、幼児たちを笑わせつづけることがある。大声で、ゲラゲラ笑
わせつづける。

 コツがある。

 子どもを笑わせようとしても、あまり意味がない。それでは、子どもは、笑わない。私自身が、
とことん、楽しむ。楽しんで笑う。そのウズの中に、子どもを巻きこんでいく。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●養殖される子どもたち(牙を抜かれる子ども)

 岐阜県の長良川。その長良川の鮎に異変が起きて、久しい。その鮎を見続けてきた1人の
老人は、こう言った。「鮎が縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住む、N氏である。「最近
の鮎は水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。原因というより理由は、養殖。この
20年、長良川を泳ぐ鮎の大半は、稚魚の時代に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられた鮎だ。
体長が数センチになったところで、毎年3〜4月に、長良川に放流されている。人工飼育とい
う不自然な飼育環境が、こういう鮎を生んだ。しかしこれは鮎という魚の話。実はこれと同じ現
象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッチボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、焚
き火が予想以上に燃えあがったとき、「こわい!」と逃げてきた男子がいた。小さな虫が机の
上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では、大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組み合いの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。カプセル化というのは、家族の中だけでしか通
用しない価値観の中で生きることだ。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるい
は他人に心を許さない。カルト教団の信者のように、その内部ではわきあいあいと仲がよい。
「私たちは正しい」という信念のもと、返す刀で、他人には「あなたはまちがっている」と言い切
る。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
どうしの悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭から抑えつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。嘘だと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風景
を観察してみればいい。最近の子どもはみんな、仲がいい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それぞ
れが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そ
のボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほか
の子どもたちは、そのボスの命令に従って砂の山を作ったり、あるいは水を運んでダムを作っ
たりした。もしそういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、
そいつを追い出したりした。

 平和で、のどかに泳ぎ回る鮎。見方によっては、縄張りを争う鮎より、ずっといい。理想的な
社会だ。すばらしい。すべての鮎がそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間どもの傲
慢な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでいいのか。それが鮎の本来の姿
なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ときどき、わんぱくで、たくましい子どもをみかける。30年前には、まだそういう子どもが多か
ったが、今では、そういう子どもは、むしろ少数派。そのため、集団の中では、目立ち、そのた
め、ほかの父母からは、白い目で見られること多い。

 しかし子どもというのは、ADHD児が見せるような多動性は別として、わんぱくで、自己主張
が強ければ強いほど、あとあと、伸びる。たくましく成長していく。このタイプの子どもは、集団
からはみ出るという理由だけで、決して抑えこんでしまってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●カプセル家族(心のさみしい人たち)

 自分の価値観だけで生きる家族、それがカプセル家族。言葉の上では、それで説明できる
が、その言葉の裏には、とてつもないほど巨大な問題が隠されている。しかしここでいうカプセ
ル家族は、どこかの国の、どこかの町の、ある特殊な家族をいうのではない。あなたの周囲に
もいくらでもあるし、あなた自身の家族がそうである可能性は高い。

 核家族は核家族だが、カプセル家族は、他人の価値観を認めない。心を開かない。ものの
考え方が独善的で、排他的。「私は正しい」という確信のもと、相手に向かっては「まちがってい
る」と断言する。いろいろなタイプがある。子どもを溺愛しながら、「これが親の深い愛だ」と、錯
覚している人。子どもの受験戦争に狂奔しながら、「これが教育だ」と、誤解している人。子ども
を自分の欲求不満のはけ口にしながら、「私は子どものよき理解者だ」と、うぬぼれている人。
いろいろあるが、もとはと言えば、現代社会が生み出した、さみしい犠牲者たちだ。

 考えてみれば、この世の中。生きているのは、自分一人だけ。明日、隣人がお金に困って
も、あなたはその人を助けない。そういう思いが、あなたを孤独にする。あなたとて明日、病気
で倒れれば、万事休す。そういう思いが、あなたの家族をカプセル化する。愛することができる
のは、自分の子どもだけ。学歴は人生のパスポート。学歴さえあれば、何だって手に入る。家
族だけが信じられる相手。他人は誰も信じられない。そうそう一つ、忘れた。お金だ。お金。お
金さえあれば何だってできる。地位や名誉があれば、もっといい。

 カプセル家族には、社会も国もいらない。選挙に行くことすら、バカバカしいと思っている。も
ちろん社会奉仕などというものは、時間の無駄。上辺ではいろいろなことを言いながら、自分
の損になることは何もしない。その上、幸福感も相対的なもので、他人が自分より幸福になる
のを許さない。あるいは反対に、他人が不幸になればなるほど、自分が幸福になったと感ず
る。自分こそが、絶対、正しい。

 今、日本では、家族のカプセル化が、急速に進んでいる。田舎よりも都会。しかも皮肉なこと
に、地位の高い人、収入の多い人、学歴の高い人ほど、それが進んでいる。こういう人たち
は、「自分こそが社会のリーダーだ」と思いこんでいる。あるいは「世間も自分たちに見習うべ
きだ」と考えている。結果、この日本がこれからどうなるか。

 私に見える日本の将来は、殺伐とした砂漠のような世界だ。空気はかわき、心を潤す緑はど
こにもない。人はますます功利的でドライになる。なりながら、それが当たり前だと思う。あとは
この悪循環。

 私はこのことを、田舎に住むようになってはじめて、わかった。田舎に住むようになって、人
間というのは、本来、もっともっと不完全で、もっともっと温かいものだということを知った。そし
てこれはたいへんショックなことだったが、自分自身が、そのカプセル家族になっていたことを
知った。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このエッセーについては、いろいろ書き改めたい点もあるが、このままで……。カプセル家族
だから、選挙に行かないということはない。この点については、まちがっていると思う。ただ自
分の住む世界がカプセル化すると、ものの考え方が、独善的になったり、ひとりよがりになった
りする。そういう意味で、つまりその返す刀で、相手を、全面的に否定したりしやすくなる。

 だから……、こう書くと、手前味噌のようでつらいが、もしあなたに子どもと接する機会があっ
たら、どんどんと子どもと接したらよいと思う。子どもは、あなたの進むべき道を、正してくれる。
子どもには、そういう力がある。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●単身赴任(夫婦像は、学習によって身につく) 
 
 単身赴任ほど、非人間的な職場環境はないと思うだが、最近ではそれを歓迎する夫婦もふ
えている。ある妻は、夫の単身赴任が決まったとき、友人に、「ヤッター!」と喜んで見せたとい
う。現実にはそういう夫婦もいる。

 この夫婦像というのは、子ども時代に形成される。しかも本能ではなく、学習によって形成さ
れる。だからもしあなたが、将来、あなたの子どもに「あなたが望むような家庭」を築いてほしい
と願っているなら、今、その家庭がどういう家庭であるかを、しっかりと見せておかねばならな
い。いや、見せるだけでは足りない。しっかりと身にしみこませておく。そういう経験があっては
じめて、あなたの子どもは将来、「あなたが望むような家庭」を、自然と築くことができるように
なる。

 夫婦像も同じ。夫婦が子どもに見せるものがあるとするなら、それは互いに思いやり合い、
気づかい合い、そしていたわり合う姿だ。そういう姿を日常的に見ながら、子どもは自分の中
に夫婦像を作っていく。

 ところで以前、私はこんな本を目にした。ほかの教育者の書いた本を批判するのは、あまり
好きではないが、そこにはこうあった。いわく、「夫婦喧嘩は子どもに見せるとよい。意見の対
立があることを教えるのに、絶好の機会だ」と。日本でも著名な教育者で、これが彼の持論で
もあるから、こう書くと、名前がわかってしまうかもしれない。しかし、夫婦で哲学論争でもする
なら話しは別だが、子どもに夫婦喧嘩など見せるものではない。……と言っても、夫婦喧嘩は
時と場所を選ばず起きるものだから、見せたくなくても見せてしまうかもしれない。それはともか
くとして、やり方をまちがえると、この夫婦喧嘩は子どもを限りなく不安にする。そしてこの不安
が、子どもの心をゆがめる。私はこの教育者は、子ども知らずの教育者だと判断した。

 さて本論。欧米では、そもそも単身赴任など、考えられない。そんなものを命じられれば、ふ
つうの人ならその会社をやめてしまうだろう。あるいは反対に会社が訴えられるかもしれない。
が、日本人というのは、そういうことが平気で(?)できる。ではなぜそれができるかと言えば、
そういう夫婦像を、すでにどこかで見ているからである。ひょっとしたら、その人の父親がそうで
あったかもしれない。あるいは単身赴任ではなくても、その人の父親が仕事人間や会社人間で
あったりして、家庭を顧みない人であったかもしれない。ともかくも、夫の仕事のために家庭が
犠牲になることは、当然だという家庭で育ってきた。そういう背景があるから、冒頭で述べたよ
うな妻が生まれる……。

 私個人のことを言えば、私は田舎町の自転車屋で生まれ、そして育った。だから夫婦が別々
に住んで、別々に暮らすということが信じられないというより、そういう情報そのものが、頭の中
にない。だから私の意見は、ある意味で一方的なものかもしれない。あるいは現実離れしてい
るかもしれない。そういうことも考えながら、この文を読んでほしい。私が正しいという自信が、
実のところ、私にも、ない。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 単身赴任 離婚 離婚の影響)

(付記)

 4年前に書いたこのエッセーを読みながら、私は、心のどこかで、小さな違和感を覚える。た
とえば夫婦であっても、「ダカラ論」にしばられるのは、正しくないのではないかというふうに、こ
のところ考えることが多くなった。離婚についても、それを悪いことと決めてかかる必要は、まっ
たくない。

 ただ子どもに関していえば、離婚というより、離婚にまつわる家庭内騒動が、子どもの心に大
きな影響を与える。離婚するにしても、子どもとは関係のない世界で、淡々とするのが、よい。

 単身赴任については、ここに書いたとおりだと、今でも、思っている。アメリカなどでは、入社
と同時に、そういった問題も含めて、会社と契約書をかわすところが多い。その段階で、転勤
を断ることもできる。日本でも、そういう会社がふえてきたと聞いている。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●先輩・後輩(根強く残る封建制度) 
 
 晴れわたった午後の一日。青い空に白いユニフォームが光る。今日もグランドで、中学校の
野球部の少年たちが、練習をしている。のどかな光景だ。時折、カーン、カーンというボールを
打つ音が聞こえてくる。

 が、それはあくまでも表面。この野球部に限らず、たいていの運動部は、徹底した「上下関
係」で成り立っている。たとえばテニス部。一年生は玉拾いだけ。二年生になってやっとラケット
をもたせてもらうことができ、試合に出られるようになるのは、三年生になってから。それまで
はいくら力があっても、試合には出られないという「オキテ」になっている。

 さらにすさましいのが、柔道部や剣道部。さらに野球部など。野球部に至っては、入部時に、
「先生に殴られても文句を言いません」という誓約書を書かせるところがある。私はこうした指
導について、とやかく言わない。今時の子どもを指導するには、それなりの「抑え」がないと、
指導できない。それに親も子どもも、そのやり方に納得しているのだから、私のような部外
者がとやかく言っても始まらない。

 問題はこうした封建意識が、学校の教育現場に微妙に「影」を落としているということだ。ある
いは先生たちのものの考え方に、影響を与えているということだ。幼稚園教育にしても、たいて
いどこの幼稚園も、徹底した年功序列制度を敷いている。古参の先生が、それぞれ派閥をつく
り、若い先生をその配下におさめているところもある。新米の先生が、古参の先生の指導を批
判するなどということは、この世界ではありえない。実はこの私も、幼稚園で働くようになってか
ら、何度、古参の先生に殴られたり、ひっぱたかれたりしたことか。(この話は、ホントだぞ!)

 そしてこうした古臭い体質は、子どもへと受け継がれていく。それはまさに「教えずして教え
る」という、教育のダークサイド。子どもたちもまた、いつしか先生と同じようなものの考え方を
するようになる。いわゆる封建意識の世代伝播がこうしてなされていく。

 私はN教組という組織について、ほとんど知識をもっていない。もっていないが、「左翼」とい
う言葉からは、民主、平等、博愛というイメージを連想する。上下意識のない、平和な世界だ。
日教組というのは、その左翼ではなかったのか。このことをインターネット仲間の一人に相談す
ると、こう教えてくれた。彼自身も、九州のある高校で教壇に立っている。いわく、「マルクス・レ
ーニン主義と言っても、組織の内部には徹底した上下関係がありますよ」と。この彼の一言だ
けをもって、すべてを判断することはできないが、そういう意見もある。つまり、左翼思想イコー
ル、必ずしも封建意識の打破ということには、ならないようだ。

 何でもかんでも外国がいいというわけではないが、欧米には「先輩、後輩」という言葉にあた
る単語そのものが、ない。そういうことも考えると、日本人の平等意識は、100年は遅れて
いるのではないか……と、私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 「上下意識など、クソ食らえ」。人間に上も下も、あるわけがない。そこを原点として、すべて
の人間関係を改めて、考えなおしてみる。つまり私たちが求める民主主義は、そこから始ま
る。言いかえると、この上下意識が残っているかぎり、日本には、真の民主主義は、訪れな
い。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●指で鼻をさす(教育のダークサイド)

 子どもたち(小学生)は、「自分」を表すとき、指で鼻先を押さえる。欧米では、親指で自分の
胸を押さえる。そこで私はいつごろから、子どもたちが自分の鼻を押さえるようになるかを調べ
てみた。「調べた」というのもおおげさだが、授業の途中で、子どもたちにどうするかを聞いてみ
た。

結果、年長児ではほぼ全員。年中児でも、ほぼ全員。年少児になると、何割かは鼻先を押
さえるが、ウロウロと迷う子どもが多いということがわかった。そんなことで、こういう習慣は、四
歳から五歳ぐらいにかけてできるということがわかった。つまりこの時期、子どもたちは誰に教
えてもらうわけでもなく、いつの間にか、そういう習慣に染まっていく。

 私は何も、ここでジェスチャについて書くつもりはない。私が言いたいのは、教育には、常に
「教えずして教える」という、ダークサイドの部分があるということだ。これはジェスチャという、ど
うでもいいようなことだが、ものの考え方や道筋、思考回路などといったものも、実はこのダー
クサイドの部分でできる。

しかもその影響は、当然のことながら、幼児期ほど、大きい。この時期に論理的なものの考え
方を見つけた子どもは、ずっと論理的なものの考え方ができるいようになるし、そうでない子ど
もは、そうでない。そればかりではない。この時期に、人生観や価値観の基本までできる。異
性観や夫婦像といったものまで、この時期に完成される。少なくとも、それ以後、大きく変化す
るということはない。そのことはあなた自身を静かに観察してみれば、わかる。

 たとえば私は、今、いろいろなことを考え、こうして文を書いているが、基本的なものの考え方
が、幼児期以後、変わったという記憶がない。途中で大きく変化したということは、ないのだ。
今の私は、幼児期の私であり、その幼児期の私が、今の私になっている。それはちょうど金太
郎飴のようなもので、私の人生は、どこで切っても、「私」にほかならない。幼児期に桃太郎だ
った私が、途中で金太郎になるなどということは、ありえない。

 もうわかっていただけると思うが、幼児教育の重要性は、実はここにある。この時期に作られ
る「私」は、一生、「私」の基本になる。あるはその時期にできた方向性に従うだけである。中に
は幼児教育イコール、幼稚教育と考えている人がいるが、それはとんでもない誤解である。

 ……と書いたところで、今、ふと、別のことが頭の中を横切った。実は今、ある男の子(小二)
のことが気になっている。彼は男の子なのだが、言い方、ものごしが、女の子っぽいというよ
り、その女の子を通り越して、同性愛者ぽい。まちがいを指摘したりすると、「イヤーン」と甘
ったるい声を出したりする。いくら注意してもなおらない。で、私が悩んでいることは、このことで
はなく、それを親に言うべきかどうかということだ。もうこの傾向は、ここ1年以上続いている。
なおそうとしてもなおるものではないし、さりとて放置しておくわけにもいかない。放置しておけ
ば、彼はひょっとしたら、一生、そのままになるだろう。近く、結論を出すつもりでいる。(以上、
01年記「子育て雑談」)

(付記)

 教えずして教えてしまうこと。実は、これがこわい。ユングも、「シャドウ」という言葉を使って、
それを説明した。

 たとえばあなたが、本当は邪悪な人間であったとする。その邪悪さをおおいかくして、善人ぶ
っていたとする。そのときその邪悪さが、その人のシャドウとなる。子どもは、あなたの近くにい
るため、そのシャドウをそのまま引き継いでしまう。

 要するに、ウソやインチキ、ごまかしや仮面で、いくら善人ぶっても、子どもはだませないとい
うこと。子どもは、あなたのすべてを見ている。

 そういう意味で、子育ては怖いぞ〜オ!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●書くという仕事(私の墓石)

 私も若いころ、自分をなかなか認めてくれない世間を逆恨みしたことがある。「世間には人を
見る目がない」「世間はバカだ」と。しかし今になってみれば、これほど甘ったれた考え方は、な
い。私が世間を認めていないのに、どうして世間が私を認めてくれるだろうか。あるいは自分
自身が、他人を受け入れるほどまでに「成熟した世間の一員」ではないのに、どうしてそれを世
間に求めることができるだろうか。

 今でも時々、暇になると、原稿を書いて、あちこちの出版社に送っている。どうせ出版されなく
ても、ダメもと。そんなゆとりがあるから、送り返されてきても、何とも思わない。つまりそうされ
ることに、免疫性ができた。しかし若いころはそうではなかった。送り返してきた出版社を、心
底恨んだ。のろった。はげしい失望感と絶望感に襲われたこともある。「貴殿の原稿は、当社
の企画には合致せず、今回は出版を見合させていただきます」などという、いんぎん無礼な手
紙をもらったりすると、それを震える手で握りつぶしたりした。

 もっともそういうときに感じた悔しさが、それ以後のバネになっているから、それはそれで無駄
ではなかった。「チクショウ」という思いが、次の仕事に結びついていった。が、その私も51歳。
著書も、売れない本ばかりだが、20冊を超えた。ペンネームで書いた本も加えると、
30冊以上になる。子ども向けの百科事典や、雑誌の企画、編集もてがけてきた。今はまだ、
その途中だから、ここで結論を述べることもできないが、書くには書いたが、それだけのことだ
ということだ。地位や名声を手にしたわけではない。本を書くと、お金が儲かるだろうと思う人が
いるが、実際には、1冊書いて、30万から50万円。書くエネルギーや、出版までのエネル
ギーを考えると、これほど非効率な仕事はない。趣味か副業のように考えないと、とてもできな
い。

 さて最近、60歳になった人から、こんな相談をもらった。経歴だけは立派な人だ。いわく、
「本を書きたい」と。「ついては手伝ってほしい」と。一時は手伝う気にはなったが、しかし途中
で、できなくなってしまった。私が手伝えば、それは私の本になってしまう。どうしても随所に、私
の思想が入り込んでしまう。ちょうど盗作と逆の現象が、ここで起きてしまう。私は「漏作だ」と
笑ったが、それはそれで、私にとっては都合が悪い。私の書いた本など、トイレットペーパーに
もならないかもしれないが、しかしそれはまさに「私の人生」そのもの。いつかどこかで、私の本
が、逆に盗作したと思われるかもしれない。

 で、最近はこう考えるようになった。「本は私の墓石だ」と。私は無神論者だし、自分の著述
活動を通して、日本の仏教にも疑念を抱くようになってしまった。そうそう宗教論の本も5冊、
書いた。だから、自分が今、ここでこうして生きているという「あかし」を、何とか今、ここにとど
めておきたいと思う。一度、私のような人生観をもつと、あとは毎日が孤独との闘いのようなも
のだ。その孤独と闘うために書く。書くしかない。そういう意味で、今の私には、もうあの世間の
目は、ない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 先日、近くにある陶芸教室をのぞいてみた。骨つぼを作りたいからである。が、もちろん、そ
んなことは言わなかった。そこであれこれ説明をしてくれた先生は、さかんにお茶碗を自分で
作ると楽しいですよ」と言った。が、茶碗なら、ショッピングセンターで買ったほうが、ずっと安
い。使い勝手もよい。

 私は、骨つぼが作りたいのだ! 自分の骨を入れる骨つぼ、である。

 もちろん1個だけでよい。最初で、最後の、1個だけでよい。だから陶芸教室に、何年も通う
必要はない。

 「いえ、自分で作りたいものがありますので、それ1個だけを作ればいいのです」と言うと、そ
の先生は、「ぞれじゃあ……」と言ったまま、黙ってしまった。「それじゃあ、入会できません」と
言いたかったのだろうか。それとも、「それゃじゃあ、進歩しません」と言いたかったのだろう
か。

 デザインは、決まっている。球形で、その球形の上に、無数の思い出をいろいろなモチーフ
(装飾)を使って飾る。色は、白を基調にして、淡いパステルカラー風。

 「ロクロを使うのではなく、縄文時代の土器のように、粘土のヒモをクルクルとまきながら作り
たいです」と説明すると、先生も、少しは納得してくれたよう。「そういう作り方でよければ、その
指導します」と言ってくれた。

 来年の春になったら、入会しようと思っている。



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●天国論

+++++++++++++++++

宗教の話の中には、よく天国とか、極楽とか
いう言葉が出てくる。

その反対の世界になっているのが、地獄、と。

しかし私が考える天国には、天国しかなく、
あるのは、天国だけ。地獄など、ない。

その天国について、考えてみた。
もし、本当にあるとするなら、の話だが……。

++++++++++++++++++

 天国には、天国しかない。地獄など、どこにもない。だから死んだ人は、みな、天国へ行く。
善人も、悪人も、みんな、だ。

 が、それでは、不公平と思う人がいるかもしれない。それに善人と悪人は、どうやっていっしょ
に暮らすのかという疑問をもつ人もいるだろう。しかし心配は、ご無用! ここで、私が考える、
天国の構造について、説明してみる。

 天国には、天国しかない。あるのは、天国だけ。死んだ人は、一度、みな、天国へ入る。が、
ここで善人は、そのまま。そのままの状態で、天国で、心豊かな、楽しい生活ができる。しかし
悪人は、そうではない。悪人だった人は、その悪の程度に応じて、乳幼児、幼児、少年・少女
へと、姿を変える。

 とんでもない極悪人だった人は、赤ん坊に、ということになる。つまりそのときから、それぞれ
の人は、自分の人生を、適切な時期からやりなおす。

 仮にあなたが、そのとんでもない悪人、つまり凶悪な犯罪者だったとしよう。するとあなたは
天国へ入ったとたん、赤ん坊になる。まだ目の視線も定まらない、赤ん坊である。

 その赤ん坊の状態から、その天国で、育てられる。天使のような慈愛に満ちた両親と、家族
に包まれて、育てられる。

 あるいはあなたが、小ずるい詐欺師であったとしよう。するとあなたは天国へ入ったとたん、
乳幼児になる。やっとヨチヨチ歩き始めた乳幼児である。で、そのときも、あなたは、天使のよ
うな慈愛に満ちた両親と家族に包まれて、育てられる。

 わかりやすく言えば、現世で、どんな悪人であっても、もう一度、新しくあなたは、天国で育て
なおされるということ。つまり生まれながらの悪人はいない。生まれたあとの、育てられた環境
や教育によって、悪人は悪人になっていく。その人自身には、責任は、ない。そのことは、生ま
れたばかりの赤ん坊を見れば、わかる。赤ん坊に、善人も悪人もいない。

 善人になるか、悪人になるかは、運と確率の問題。波にうまくのった人は、善人になり、のれ
なかった人は、ズルズルと悪人になっていく。

 天国は、それまでに寛容にできている。またそうであるから、天国という。仮にもし天国が、長
生きをしたジジババ様だけの世界になってしまったら、何と、味気なく、つまらないものになって
しまうことか。あるいは頭のボケた、ジジババ様ばかりになったら、もっとつまらない。

 だから天国には、実際には、いろいろな年代の人たちがいる。赤ん坊もいれば、少年、少女
もいる。もちろん、おとなもいる。もう一つ、例をあげて考えてみよう。

 ある男性は、ふとしたきっかけで暴力団に入った。そこで貸し金の取り立てをするようになっ
た。もしそんな男性でも、運とチャンスに恵まれていたら、そこまで心をゆがめることはなかっ
ただろう。子どものころ、その男性の両親は離婚。そのまま多額の借金を踏み倒して、どこか
へ蒸発してしまった。つまりそのとき、暴力団に入るかもしれないという素地が、その男性にで
きてしまった。

 その男性は、最終的には銀行強盗をし、ピストルを撃ちまわしたところで、警官に射殺されて
しまった。そしてそのあと、天国へやってきた。

 しかしだれが、その男性を責めることができるだろうか。もしその男性が、望ましい環境の中
で、あるべき両親の慈愛を受け、幸福に育てられたとしたら、そういう事件は、起こさなかった
はず。もし神や仏が、その男性を地獄へ落すと言ったら、私は、こう言って抗議してやる。「そ
の男性には、罪はない」「その男性は、現世で、さんざんつらい思いやさみしい思いをした」「も
うじゅうぶんではないか」と。

 そこで、その男性は、天国では、赤ん坊の時代から、自分の人生をやりなおすことになる。も
ちろんそれまでの過去は、すべて記憶から消される。だからその男性は、なぜ自分が赤ん坊
であるかということすら知らないまま、自愛に満ちた両親と家族の中で、育てられる。

 こうして天国には、善人のみが、住むようになる。かつての悪人が、赤ん坊や、幼児の姿に
変えて天国へ入ってくれば、天国の住人たちは、その赤ん坊や幼児の親を、自ら、買って出
る。そしてその赤ん坊や、幼児を育てる。自分の子どものようにして育てる。

 そしてこうして育てられた子どもたちは、やがて天国という場で、おとなになる。慈愛に満ち
た、やさしくて親切な、おとなになる。高い道徳と理性、それに知性を兼ね備えた、おとなにな
る。

 これが天国の、本当の姿である。だから俗世間でいうような、地獄など、ない。

 ……ということを、逆に考えることはできないだろうか。つまりこの私たちの住む世界こそが、
その天国である、と。そうすれば、ここでいう天国論が、ずっと現実味をおびてくる。

 たとえば私は、今日も、年中児から中学3年生まで、教えた。教えながら、いろいろな話をし
た。もちろん勉強をみるのが私の仕事だから、それはそれで、きちんとした。

 そういう子どもたちをながめていると、生まれながらの善人もいなければ、もちろん生まれな
がらの悪人もいないことが、よくわかる。教育だけですべてをカバーすることはできないが、し
かし教育によるところも大きい。子どもが、悪人の道に入りそうになったら、その少し前から、
その子どもの教育を、組たてなおす。つまり、こうしてこの世界を、善人で満たしていく。

 そしてもしそれが、この世界でできるようになれば、この世界こそが、天国ということになる。
私たちが最終的にめざす世界とは、そういう世界をいう。そしてそれこそが、まさにユートピアと
いうことになるのではないだろうか。

実のところ、死んでからあとの世界については、私たちは、何もわからないのだから……。

(付記)

 この天国論は、夢を見て、思いついた。数日前だが、私はこんな夢を見た。

 私がある断崖絶壁の淵(ふち)にやってきたとき、そこに黒い、大きなドアがあった。みなにつ
られて中へ入ってみると、その中は、明るい広場になっていた。その広場のあちこちに、円陣
をえがいて、多くの人たちが集まっていた。

 みると、それぞれのグループが、ちょうどハイキングで食事でもしているかのように、円陣をえ
がき、みなが、幼児や子どもたちを囲んで笑っていた。

 そこで私が、「ここはどこですか?」と聞くと、みなが、笑ってこう言った。「ここは天国です」と。

 さらに私が、「あの子どもたちは、どういう子どもたちですか?」と聞くと、みなが、こう説明して
くれた。「不幸な生活をした人たちを、もう一度、みんなで育てなおしてあげているのです」と。つ
まり、その子どもたちは、かつては、悪人だったというわけである。

 おかしな夢だったが、その夢にヒントを得て、この天国論を書いてみた。つまり天国は、天
国。天国しかない。あるのは、天国だけ。地獄など、あるはずもない。 
(はやし浩司 天国論 天国と地獄)
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