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●親意識(親意識が子育てをゆがめるとき)

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いまだに、「私は親だ」とがんばって
いる人がいる。

そういうのを親意識という。
しかし親意識ほど、おかしな
意識はない。

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●「私は親だ」というのが親意識 

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲れる。
それだけではない。親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。

上下意識のある関係、つまり命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係は生
まれない。ある母親は、子ども(小一)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向かって何てこと
を言うの!」と、本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、親子は平等だと言う
が、こういうときはどうしたらいいのか」と。

●互いに高い次元で認めあって平等

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。高い次元で認めあうことを
平等という。たとえ相手が幼児でも、そうする。こんなシーンがあった。

あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこと。たまたまその女優が、小さな
女の子(五歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女の子がフラッシュに驚いて、母親
のうしろに隠れた。そのときのことである。

母親は、女の子に懸命に笑顔で話しかけながら、そのままあとずさりして、家の中へ消えてし
まった。私はそのシーンを見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」と考えた。ある
いはあなたなら、どうするだろうか。

●子どもの気持ちを確かめる

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視点に
立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせるときでも、
「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。やめるときもそうだ。ある
いは子どもが学校で悪い成績をとってきて、落ち込んでいたとする。そういうときでも、子どもの
気持ちになって、子どもと同じ立場でそれを悩んであげる。それを平等という。

それがわからなければ夫と妻の立場で考えてみればよい。もしあなたという妻が、夫から、「お
前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われたら、あなたはそれに従うだろうか。
そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき夫が、「夫に向かって何だ、その態度
は!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。相手の視点に立って見るということは、
そういうことをいう。

●親意識の強い親

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。ある
いは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子どもの側から
みてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そうでない子どもも
いる。私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分では尊敬に値する人間と思っ
ているらしいが、誰もそんなふうには思っていない。人を尊敬するとかしないとかいうことは、も
っと別のところで決まる。要するに子どもに「バカ」と言われても、気にしないこと。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにしている。「私は
バカではない。大バカだ。まちがえるな」と。先日も私のことを「ジジイ」と言う子どもがいた。そ
こで私はその子どもにこう言ってやった。

「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と。するとその子どもは、「教えて、教えて」と。私はおも
むろにその子どもに顔をむけると、こう言った。「いいか、これはとても悪い言葉だ。お父さんや
先生に言ってはダメだよ。わかったね。……では、教えてあげよう。ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。
それからというもの、その子どもは私を見るたびに、私に向かって、「ビダンシ!」「ビダンシ!」
と言うようになった。

●子どもを抑え込んではいけな

 子どもの口が悪いのは、当たり前。奨励せよというわけではないが、それが言えないほどま
でに、子どもを押さえつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。このユーモアが、子ど
もの心を広くする。要するに、相手は子ども。本気で相手にしてはいけない。よく「友だち親子」
の是非が話題になる。「友だち親子はいいのか、悪いのか」と。

しかし子どもが友だちになりえるのは、子どもが中学生や高校生になってからだ。それまでは
友だちにすら、なりえない。もちろんそれまででも友だち的なつきあいができれば、それはすば
らしい。友だち親子、おおいに結構。どこが悪い? 親の権威だの威厳だのと言っている間
は、日本人は、封建時代の亡霊と決別することはできない。

 そうそうあのアメリカ人の女優のケースだが、日本人なら多分、こう言って子どもを前に押し
出すに違いない。「何をしているの。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとしなさい!」と。
こうした押しつけが、親子の間にミゾを作る。そしてそのミゾが、やがて親子断絶へとつなが
る。

 親意識などなくても、子育てで困ることは何もない。





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●権威主義

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はびこる権威主義。
その権威主義について原稿を書いたら、
先日、BLOGの書きこみに、こんなのがあった。

「日本には、権威主義は、もうないと思いますが。
はやし先生は、日本のどこをどのように見て、
権威主義的だと言うのでしょうか」と。

本当にそうだろうか?
そう考えてよいのだろうか?

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 権威主義というものが、どういうものか? それを示す、こんな記事がある。まずその記事を
そのまま、紹介する。あなたはこの記事を読んで、どこにどのように、その権威主義を感ずる
であろうか。

 その前に、その予備知識として、隣の韓国でこんな事件があったことを思いだしてほしい。何
でも、ソウル大学に、とんでもない教授がいて、インチキ論文で、世界中をだましたという事件
である。日本にも、藤木S一という、これまたどえらいインチキ考古学者がいたが、その藤木S
一の比ではない。

 だました相手は、世界。目標は、ノーベル賞。しかも、国家の英雄として!

 それについて、T報(韓国の新聞社)は、つぎのように報道する。

 「問題のU教授は、大学を罷免されることになるだろう。詐欺罪を適応されるかもしれない。
目下、政府内部でその処分を検討中。将来は、獣医くらいならできるだろうが、研究者としての
地位は、絶望的である」(06年1月)と。

 そのU教授は、韓国でも最高の科学者として認定され、毎年、3億円以上もの研究費が国か
ら支給されていたという。

 で、この記事のどこがどのように、権威主義的か、みなさんには、それがわかるだろうか。も
う一度、この記事をじっくりと読んでみてほしい。そこには、こう書いてある。

 「獣医くらいならできるかもしれないが……」と。

 この文章を読んだら、獣医をしている人は、どう感ずるだろうか。獣医といっても、相手が動
物というだけで、その責任の重大さという点では、人間を相手にする医師と、立場は何もちが
わない。

 しかしT報は、「獣医くらいなら」と言いきっている。実は、ここに、権威主義が隠されている。

 大学の研究者は、トップ。医師は、そのつぎ。その世界で、最下位に位置するのは、獣医、
と。しかも、だ。こういう記事を、そこらの一介の新聞記者程度の人間が書いているところが恐
ろしい。

 何というごう慢さ! つまりそのごう慢さの背景にあるのが、私が言う「権威主義」である。つ
まりその記者は、無意識のうちにも、人間の価値を、権威主義によって、格づけしている。そし
てその結果として、「獣医くらいならできるかもしれないが……」と。

 そう、この記事を読んだら、獣医をしている人は、怒るだろう。怒って、当然。獣医をしている
人は、そのインチキ学者と同レベル。あるいはそれ以下(?)ということになる。人間に上下は
ない。職業に上下はない。しかし韓国では、いまだにそういった上下意識が、ハバをきかせて
いる。

もう3年ほど前になるだろうか、 私も、ある研究者から、こんなことを言われたことがある。こ
の話は、当時、私のマガジンでも取りあげた。覚えている人も多いと思う。その研究者は、こう
言ってきた。

 「田舎のおばちゃん相手に、講演をして、何になるのか。あなたの書いているようなことは、お
ばちゃんたちを感動させることはできても、学問的には、一片の価値もない」と。

 ある都市の国立大学で、ある学部の学部長をしている人からの意見だった。何度もメール
で、議論を戦わせたあとでの意見だったので、私は、「世の中、そういうものだろうな」と、その
ときは、そう納得した。

 しかしこういう権威主義は、今でも、日本中にはびこっている。

 先日もあるオーディションを紹介する番組を見ていたら、こういうシーンが出てきた。何でも俳
優の世界にも、中央(東京や大阪)で活躍する、メジャー俳優と、地方から外に出られないマイ
ナー俳優というのがいるらしい。

 で、その俳優志望の若い女性は、俳優になるためのオーディションを受けた。結果は、最終
審査で不合格。1人の審査員(テレビによく顔を出す俳優)が、その若い女性にこう言った。「中
央で、(メジャー俳優として)活躍するのは、無理でしょうね」と。

 まるで「中央で活躍できないような俳優は、俳優ではない」というような言い方だった。しかし
それにしても、いやな言い方だった。

 総じて言えば、「権威主義」は、「格づけ(=ランク分け)」によって、成りたっている。もっと言
えば、上下意識。そしてその「上下」は、権力や、財力、知名度、家柄、団体での地位などによ
って決まる。大切なのは、「能力」なのだろうが、その能力まで、格づけによって決められてしま
う。

 数年前のことだが、ある野球チームの監督の妻と、ある演劇劇団の女座長をしている女性と
が、連日、マスコミの世界で、大激論を繰りかえしたことがある。発端は、監督の妻の、学歴詐
称事件だったように記憶している。

 そのときも、その監督の妻は、女座長をしている女性を批判して、こう言っていた。「私はメジ
ャーリーグの人間だが、あの人は、マイナーリーグの人間よ」と。このときも、まるで「マイナーリ
ーグの人間には、価値はない」というような言い方だった。

 一般論として、権威主義者というのは、独特の雰囲気をもっている。まず相手を、肩書きや地
位で判断する。そうした判断を、瞬時のうちにやってのける。そして自分より(目上の者?)に
は、必要以上にペコペコし、(目下の者?)には、尊大ぶった言い方や態度をする。

 そして平気で、こう言い切る。「男が上で、女が下」「夫が上で、妻が下」「親が上で、子が下」
と。つまりこうした意識が集合されて、「獣医くらいならできるかもしれないが……」という発想に
つながる。

 その象徴的人物が、あの水戸黄門である。それについて書いた記事(中日新聞掲載済み)
を、紹介する。

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●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢30人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」
と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていた
らしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。まったく通用しない。よい例があの
テレビドラマの『水戸黄門』である。今でもあの番組は、平均して20〜23%もの視聴率を稼い
でいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団
のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだ
のと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある
日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それ
でも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。

私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。相手が大学の教授であったりすると、「ハ
イハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたします」と言ったあと、私のような地位も肩書きも
ないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言ってもネ〜」と。しかもそういうことを、若い、それ
こそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうしているから、おかしい。つまりその
「無意識」なところが、日本人の特性そのものということになる。

 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明
しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキ
レツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶ
る。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。ウソだと思うなら、あなた
の周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威主義の人もいるだろう。そ
うでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、その親子関係はぎくしゃく
しているはずである。

ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、た
だニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。このこと
は「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから35年あまり。日本も変わったが、基本的に
は、今もつづいている。

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内容はダブりますが、同じような
内容で書いた原稿をいくつか、
ここに掲載しておきます。

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●価値観の衝突を防ぐにはどうするか

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じて
いるから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でも
このタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。

 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ
葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのド
ラマは視聴率を、20%以上も稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど
痛快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞
いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」
と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70歳)は、息
子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済にあ
ててしまった。

息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子のお金を使って
何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「たとえ親でも悪
いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことがあっても、子ども
に頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほ
とんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観
が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは
言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもし
れないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。

ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれな
いが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶっ
た分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツ
が入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方では
ない。ちなみに、小学生六年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さん
が、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親
なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝る
べきだヨ〜」と。これがこの日本の流れであり、もうその流れを変えることはできない。

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●権威主義は断絶のはじまり

 「私は親だ」というのが、親意識。この親意識が強いと、子どもはどうしても親の前でいい子ぶ
るようになる。もう少しわかりやすく言うと、仮面をかぶるようになる。その仮面をかぶった分だ
け、子どもの心は親から離れる。

 親子の間に亀裂を入れるものに、三つある。リズムの乱れと相互不信、それに価値観のズ
レ。このうち価値観のズレの一つが、ここでいう親の権威主義である。もともと権威というの
は、問答無用式に相手を従わせるための道具と考えてよい。「男が上で女が下」「夫が上で妻
が下」「親が上で子が下」と。

もっとも子どもも同じように権威主義的なものの考え方をするようになれば、それはそれで親子
関係はうまくいくかもしれない。が、これからは権威がものを言う世界ではない。またそういう時
代であってはならない。

 そこであなた(あなたの夫)が権威主義者かどうか見分ける簡単な方法がある。それには電
話のかけ方をみればよい。権威主義的なものの考え方を日常的にしている人は、無意識のう
ちにも人間の上下関係を判断するため、相手によって電話のかけ方がまるで違う。地位や肩
書きのある人には必要以上にペコペコし、自分より「下」と思われる人には、別人のように尊大
ぶったりいばってみせたりする。

このタイプの人は、先輩、後輩意識が強く、またプライドも強い。そのためそれを無視したり、
それに反したことをする人を、無礼だとか、失敬だとか言って非難する。もしあなたがそうなら、
一度あなたの価値観を、それが本当に正しいものかどうかを疑ってみたらよい。それはあなた
のためというより、あなたの子どものためと言ったほうがよいかもしれない。

 日本人は権威主義的なものの考え方を好む民族である。その典型的な例が、あの「水戸黄
門」である。側近のものが三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、周囲のもの
が皆頭をさげる。ああいうシーン見ると、たいていの日本人は「痛快!」と思う。しかしそれが痛
快と思う人ほど、あぶない。このタイプの人は心のどこかでそういう権威にあこがれを抱いてい
る人とみてよい。ご注意!

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【権威主義緒は、親子断絶のはじまり】
(「ファミリス」投稿原稿)

●親意識の背景に権威主義

 「私は親だ」という意識を「親意識」という。たとえば子どもに対して、「産んでやった」「育てて
やった」と考える人は多い。さらに子どもをモノのように考えている人さえいる。

ある女性(60歳)は私に会うとこう言った。「親なんてさみしいものですね。息子は横浜の嫁に
取られてしまいましたよ」と。息子が結婚して横浜に住んでいることを、その女性は「取られた」
というのだ。

日本人はこの親意識が、欧米の人とくらべても、ダントツに強い。長く続いた封建制度が、こう
した日本人独特の親意識を育てたとも考えられる。

●上下意識と権威主義

その親意識の背景にあるのが、上下意識。「親が上で、子が下」と。そしてその上下意識を支
えるのが権威主義。理由などない。「偉い人は偉い」と言うときの「偉い」が、それ。日本人はい
つしか、身分や肩書きで人の価値を判断するようになった。

ふつう権威主義的なものの考え方をする人は、自分のまわりでいつも、人間の上下関係を意
識する。「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」と。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩と
考える。そして自分より立場が上の人に向かっては、必要以上にペコペコし、そうでない人に
はいばってみせる。私のいとこ(男性)にもそういう人がいる。相手によって接し方が、別人のよ
うに変化するからおもしろい。

●親意識は親子を断絶させる

 この親意識が強ければ強いほど、子どもにとっては居心地の悪い世界になる。が、それだけ
ではすまない。子どもは親の前では仮面をかぶるようになり、そのかぶった分だけ、心を隠
す。親は親で子どもの心をつかめなくなる。そしてそれが互いの間に大きなキレツを入れる…
…。

昔は「控えおろう!」と、三つ葉葵の紋章か何かを見せれば、人はひれ伏したが、今はそういう
時代ではない。親が親風を吹かせば吹かすほど、子どもの心は親から離れる。ものの考え方
が県主義的な人は、あなたというより、あなたが育った環境を思い浮かべてみてほしい。あな
た自身もその権威主義的な家庭環境で育ったはずである。

そして今、あなた自身があなたと親の関係がどうなっているか、それを冷静に見つめてみてほ
しい。たいていはぎくしゃくしているはずである。たとえうまくいっている(?)としても、それはあ
なた自身も権威主義的なものの考え方にどっぷりとつかっているか、あるいは親に対して服従
的もしくは親離れできていないかのどちらかである。

●変わりつつある日本人の意識

 こうした私のものの考え方に対して、とくに男性の立場から、「父親の権威は必要だ」と反論
する人は多い。「父親は家の中でもデ〜ンとした存在感さえあればいい」と。いや、父親どころ
か、「夫の権威」にこだわる人さえいる。

今でも「女房や子ども食わせてやる」と暴言を吐く夫はいくらでもいる。が、こうしたものの考え
方は、これからの日本ではもう通用しない。そのひとつのあらわれというべきか、家事をまった
く手伝わない夫がまだ50%以上もいる一方(国立社会保障人口問題研究所調査・2000
年)、そうした夫に不満をもつ妻がふえている。

厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、全国家庭動向調査」(98年)によると、「家事、
育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・7%しかいない。この数値は、前回93年のとき
よりも、10ポイント近くも低くなっている(93年度は、60・6%)。今、日本人は、大きな転換期
にきているとみてよい。

●親は友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。「親には三つの役目がある。親は、ガイドとして子ど
もの前を歩く。保護者として子どものうしろを歩く。そして友として子どもの横を歩く」と。日本人
は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、友として横を歩くのがヘタ。ものの考え方が権威
主義的な人は、今日からでも遅くないから、子どもと一緒に横を歩いてみてほしい。今まで聞こ
えなかった子どもの声が聞こえてくるはずである。

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日本の常識、世界の非常識(中日新聞投稿済み)

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度とい
う(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」が
わからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひ
れ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪い
ことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国
宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そう言って居直った)と称して、手玉にして遊
ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族
は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人
だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論には
じゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマ
ザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)は、
かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪お
とうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってる
よ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くと
したら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておい
たよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと
温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%
の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と
いう考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++++++++++++++

 要するに、いまだに、日本人は、あの封建時代の亡霊を、ひきずっているということ。身分制
度という亡霊である。世の中には、その封建時代を美化し、たたえる人も少なくないが、本当に
そんな世界が理想の世界なのか、またあるべき世界なのか、もう一度、冷静に考えなおしてみ
てほしい。
(はやし浩司 権威主義 権威主義者 親子の亀裂 断絶)





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【人格の完成論(EQ論)】

【ボケと人格の後退】

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「あの人が……?」

++++++++++++++++++

50代、60代のころは、人一倍、
しっかり者に見えた女性。

そういう女性が70歳になるころから
急速にボケ始める。

そういう例は、多い。だからそういう
人の話をすると、たいていの人は

こう言って、驚く。
「エッ、あの人が……!」と。

+++++++++++++++++++

 私の義理の姉の母が、つい先日、亡くなった。数年前に聞いたときには、まだらボケというこ
とだった。しかし晩年は、かなりボケていた。とくにもの忘れがひどく、「サイフが盗まれた」と
か、「嫁が、財産を使い果たした」とか、そんなことを、よく口にしたという。

 その義理の姉の母は、私が知るかぎり、若いころは、しっかり者で、口達者。しゃきしゃきとし
た感じの人だった。もしそのころのその人のことを知ったら、みな、こう思うだろう。「この人だけ
は、ボケないな」と。

 しかしそんな人でも、ボケた。ボケたまま、亡くなった。

 で、私が知るかぎり、このタイプの人には、女性が多いということ。少なくとも、私が話に聞く
のは、女性ばかり。男性は、いない。男性のばあいは、ボケ始めると、がんこになったり、無口
になったり、引きこもったりする。

 そこでまず考えてみるのが、女性特有の多弁性。よくしゃべるから頭がよいとか、そうでない
から頭が悪いとか、そういうことは関係ない。そのことは、子どもの世界を見ればよくわかる。
よくしゃべる子どもイコール、頭のよい子ということにはならない。たとえばAD・HD児でも、女
児のばあいは、ふつうでない多弁性となって症状が現れることが多い。

 しゃべるといっても、その内容、である。いくつかの特徴がある。

(1)ペラペラと一方的に、間断なく、よくしゃべる。
(2)考えてからしゃべるというよりは、脳に飛来する情報をそのまま音声にかえているといった
ふう。
(3)言っていることの内容が浅い。こまごまとしたことを、つなげて話す。
(4)繰りかえしが多い。同じ内容のことを、繰りかえし、話す。
(5)相手の言うことを聞かない。聞いても上(うわ)の空。
(6)繊細で、微妙な会話ができない。
(7)視線が定まらない。ときに死んだ魚のような目つきになる。

 つまりその人の思考力と、多弁性は、関係ないということ。そのことは、その人の話している
内容を、よく吟味すれば、わかる。

(1)一貫性がない

 話している内容が、ポンポンと飛んでいくことがある。野菜の話をしていたかと思うと、「ああ、
そうだ」とか何とか言って、今度は、寺の話をし始めたりする。

(2)論理性がない

 「寒いから困った」「雪が降ったから困った」というようなことは言う。しかしなぜ今年はそうな
のかということまでは、考えない。原因として、このところの異常気象があり、さらには、地球の
温暖化の問題がある。そういう話題に切りかえようとすると、とたん、「私には、そういう話は、
むずかしいから、わからない」と逃げてしまう。

(3)情報、知識の欠落

 このタイプの人は、ほとんどといってよいほど、本を読まない。雑誌も読まない。テレビを見て
も、ただぼんやりと見ているだけ。そのことは、その人の周辺を観察すればわかる。本や雑誌
らしきものが、まったくない。新しい情報や知識を吸収しようという意欲そのものを、感じない。

(4)生活範囲の縮小

 自分の世界だけで、生きているといった感じになる。自己中心的で、ものの考え方が利己的
になる。そして年齢とともに、その世界を、どんどんと、小さくしていく。自分の損得に関係する
ことには、極端に敏感になったり、それ以外のことには、極端に鈍感になったりする。

(5)一般的なボケ症状

 こうした症状と並行して、一般的なボケ症状が現れるようになる。物忘れがひどくなったり、感
情が鈍麻したりするなど。被害妄想がひどくなることもある。

 以上、気がついたままを書いてみた。が、ボケることによる最大の問題は、(1)人格の後退
と、(2)人格の崩壊である。

 その人の人格の完成度は、「情動(こころ)の知能指数」、つまりEQによって測定される。そ
の「EQ」について、以前、書いた原稿を添付する。ボケるということは、人格の完成に向った動
きと、正反対の動きになると考えると、わかりやすい。

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 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

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●【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成)

+++++++++++++++++++++

ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて
考えてみたい。

それを診断テストにしたのが、
つぎである。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてあります。集計結果などは、H
Pのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。)

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(9)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(10)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

++++++++++++++++++++

●では、どうすればよいか?

 脳ミソが機質的に変化してボケるというのは、これはどうしようもない。しかし機能的に変化し
てボケるという部分については、私たちの努力で、何とかなるのではないか。

 脳ミソの健康論は、何度も書くが、そういう点では、肉体の健康論と、よく似ている。日々の絶
え間ない運動が、肉体の健康を維持するように、日々の絶え間ない思考が、脳ミソの健康を維
持する。つまり、考えるということ。日々に新しいものに興味をもち、それにチャレンジしていくと
いうこと。

 補う程度では足りない。私の実感としては、年を取ればとるほど、脳ミソの底に、大きな穴が
あく。その穴から、容赦なく、知識や経験、技術や知恵、さらには人格までもが、下に落ちてい
く。だから、下に落ちていく以上のものを、私たちは日々の生活の中で、補給しなければならな
い。

 若いころは、さほど運動をしなくても、ある程度の健康を維持できる。しかし年を取ればとる
ほど、そういうわけにはいかない。運動のもつ重要さが、ます。しかもその運動は、きびしいも
のとなる。少しサボれば、その時点から、健康は、下り坂に向う。

 同じように、脳ミソの健康を維持するためには、若いとき以上に、脳ミソを鍛えなければなら
ない。方法は、簡単。

 考える。考えて、考えて、考え抜く。1つのヒントとして、フランスの哲学者のモンテーニュ(15
33〜92)は、こう書き残している。

「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)
と。これは私にとっては、座右の銘になっている。参考までに!
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)





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●不登校(学校恐怖症・学校拒否症)の問題

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栃木県に住んでいる、Yさんから、息子(小2)
の不登校についての相談があった。

この問題について、少し考えてみたい。

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【Yより、はやし浩司へ(1)】

小2の長男が二学期末に胃腸風邪になり、回復しても学校で嘔吐して早退ということを二度繰
り返しました。その時ピンと感じましたが、そのまま冬休みに入ったので、冬休みは家族でのん
びり楽しく過ごしました。

始業式は普通に登校できました。が、昨日、通常の登校をするため玄関で靴を履きそうになっ
たとたん、『気持ち悪い。吐きそう』と訴えたので欠席させました。

その後は元気で弟とケンカしたり、一日遊んでいました。が、学校は行きたくない。三日休みた
いとのことなので、三日休ませることにしました。

先生の本に書いてある不登校の前兆だと思うので『誰だって休みたい時はあるよ』と言いまし
た。長男は二年前に神経症を発しています。

小1の4月からプレイセラピーに通っています。かなり安定して小1の冬にまた神経症が悪化
し、しばらくして回復。その後2年生になり驚くほど毎日元気に過ごしていました。

セラピーも終了間近でした。ちょっと疲れが溜まっているのかもしれません。そして、冬は彼が
2歳の時に家庭不和があったのでトラウマになっているのではと思います。だから冬になるとこ
うした症状が出るのではとも思います。不登校というのはついに来たかという感じです。

夫と私は今はとても良い関係で、関係修復後は長男の事をよく語り合い、反省し、考えていま
した。現在、神経症は出ていないものの、三日休んで、次に登校すると言った月曜に登校でき
るかなというなという不安はあります。

約束だから登校だけはさせるべきか、休んで単身赴任の夫の元へ遊びに行ってしまうか、家
でのんびりするか、迷っています。

先生に学校は行くべきものという考えを捨てなさいとお叱りを受けそうですが、まだ小2。弟とケ
ンカばかりするし、一日家で見ているのはとてもしんどいです。勉強も根気よく教える事ができ
ません。

今まで二度メールさせていただいて、先生の的確なアドバイスにとても助けられました。今回
も、簡単で結構ですので、迷っている私にどうかアドバイスをお願いします。


【Yより、はやし浩司へ(2)】

はやし先生

子どもの不登校について相談しています、U市のYです。

相談している私がこう書くのも変ですが、先生とても大変だったのですね。お体はもう大丈夫で
すか?

今度は急に暖かくなり、なだれも心配ですね。

さて、私の息子(小2)についてですが、先生のアドバイスで学校恐怖症を疑ってみるようにとの
事だったので、先生のHPから学校恐怖症の部分を読んでみました。

まさにそうです。今、前兆期です。ほんとうにピッタリとパターンに当てはまるので、驚くほどで
す。

昨夜も登校すると言っていて、今朝も通常通り支度をし、ランドセルをしょって、部屋を出ようと
したとたん血の気が引いたようになり、トイレへ駆け込みました。

しばらくすると落ち着いて、自分で欠席を決め、今は顔色も良く元気です。
先生のおっしゃる通りです。

そこで質問なのですが、無理をせず休ませて、その後はどのようにしていったら良いでしょう
か?

先生は本にもHPにも前兆期での対応が大切だと書かれています。いかにこの時期をとらえる
かと。

本には悪いパターンが書いてありますが、前兆期に無理をさせず対処した場合、今後どのよう
に推移していくのでしょうか?

私達は夫婦で、子どもが真面目タイプでがんばりすぎていたこと、弟のようにもっと甘えたかっ
た、そして疲れ果ててしまったのだと考えています。

でも、ずっとこのままずるずると家にいるのではという不安でいっぱいです。
休んだ一週間が、一ヶ月のように長く感じます。

この先もこれが続くかという閉塞感、不安感でいっぱいです。

もともと神経症がある子なので、無理強いしても無駄、逆に悪化するというのはわかっていま
す。

どうにもならないと思っても、今の状況では落ち着けません。

先生、それでも、この手の話しはよく聞くことで、経験のある友人が何人かいます。
中には首に縄つけて引っ張っていき、それで乗り越えたという人が2、3人います。
その後、パニック期などに推移せず、それで解決したそうです。

やはり、子の性質や心にある原因によりけりなのでしょうか?
私はとても今の状況で子どもに無理に登校はさせられないけど、友人達には甘いと言われて
います。そうでない人が一人いるのが救いです。

なんだか、書いていてまとまりがつかなくなりました。
はやし先生、前兆期でゆっくり休んだ子が推移するパターン、今、私がどうやっていたらよい
か、またアドバイスくださると嬉しいです。

お返事は急ぎません。先生のお時間があるときにで結構です。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

それでは失礼します。

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【はやし浩司より、Yさんへ……】

 不登校といっても、心の問題がからむタイプもあれば、怠学といって、(なまけ心)がからむ問
題もあります。「首に縄つけて引っ張っていき、それで乗り越えたという人が2、3人います」とい
うのは、学校恐怖症のほうではなく、怠学のほうではないでしょうか。

 あくまでも子どもの症状を見て判断しますが、学校恐怖症と怠学のちがいについては、アメリ
カの内科医学会の判断基準を参考に、Yさんご自身が判断されたらよいかと思います。(詳しく
は、「はやし浩司のHP」→「タイプ別子どもの見方」→「学校恐怖症」を、ご覧になってください。
一部を、以下に抜粋しておきます。)

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TABLE 1 
Criteria for Differential Diagnosis of School Refusal and Truancy (学校拒否と、怠学の基準)
 

School refusal (学校拒否)Truancy (怠学)
Severe emotional distress about attending school; may include anxiety, temper tantrums, 
depression, or somatic symptoms.
学校に通うことについて、心配、不安、腹立たしさ、うつ、体の変調などの、苦痛が見られる。

Lack of excessive anxiety or fear about attending school. 
学校に通うことについて、大きな不安や恐れはない。

Parents are aware of absence; child often tries to persuade parents to allow him or her to 
stay home. 
両親がそれ気づいていて、子どもが、「行きたくない」と、親を説得する。

Child often attempts to conceal absence from parents. 
両親の知らないところで、勝手に学校へ行くのを、さぼったりする。

Absence of significant antisocial behaviors such as juvenile delinquency. 
少年非行などの、顕著な、反社会的行動をともなわない。

Frequent antisocial behavior, including delinquent and disruptive acts (e.g., lying, stealing), 
often in the company of antisocial peers. 
(ウソ、盗みなどの)反社会的行動をともなうことが多い。集団非行グループに属することが多
い。

During school hours, child usually stays home because it is considered a safe and secure 
environment. 
学校へ行く時間に、家にいることが多い。そのほうが安全と考えるからである。

During school hours, child frequently does not stay home . 
学校へ行く時間でも、家にいないことが、多い。

Child expresses willingness to do schoolwork and complies with completing work at home. 
子ども自身は、家庭で宿題をしたり、宿題をすることに応ずる。

Lack of interest in schoolwork and unwillingness to conform to academic and behavior 
expectations. 
学校の勉強そのものに興味を示さず、勉強するのをいやがる。

●アメリカ内科医学会は、「学校拒否症」の要因となる、不安障害(Anxiety disorders)として、
つぎのものをあげている。 

Separation anxiety (分離不安)
Anxiety disorder(不安障害)
Generalized anxiety disorder (不安障害全般)
Social phobia (社会恐怖症)
Simple phobia (孤立恐怖症)
Panic disorder (パニック障害)
Panic disorder with agoraphobia (広場恐怖症をともなうパニック障害)
Post-traumatic stress disorder (PTSD)
Agoraphobia(広場恐怖症) 
Mood disorders(気分障害) 
Major depression (うつ病)
Dysthymia(抑うつ症)

●また同じく、「学校拒否症」の要因となる、破滅行動障害(Disruptive behavior disorders)に
ついては、つぎのようなものをあげている(同)。 

Oppositional defiant disorder (反抗障害)
Conduct disorder (行為障害)
Attention-deficit/hyperactivity disorder (注意力散漫、過集中障害)
Disruptive behavior disorder,(破滅的行為障害) 
Other disorders(他の障害) 
Adjustment disorder (with depressed mood or anxiety) (うつをともなう、適応障害)
Learning disorder (学習障害)
Substance abuse 
Other

The evaluation should include interviews with the family and individual interviews with the 
child and parents. Assessment should include a complete medical history and physical 
examination, history of the onset and development of school refusal symptoms, associated 
stressors, school history, peer relationships, family functioning, psychiatric history, 
substance abuse history, and a mental status examination. Identification of specific factors 
responsible for school avoidance behaviors is important. Collaboration with school staff in 
regards to assessment and treatment is necessary for successful management (Table 5) . 

School personnel can provide additional information to aid in assessment, including review of 
attendance records, report cards, and psychoeducational evaluations. 
 
The School Refusal Assessment Scale includes a child, parent, and teacher form and is 
reported to have a high reliability and validity. 

学校拒否症の診断基準は、高い信頼性と、有効性が報告されています。
 
Several psychologic assessment tools (e.g., teacher and parent rating scales, self-report 
measures, clinician rating scales) have been developed to provide additional information 
about the child's general functioning at home and at school. These tools may be used by a 
physician, but because of time constraints, a school psychologist or mental health counselor 
should administer these scales whenever possible. Generalized scales (e.g., Child Behavior 
Checklist, 21 Teacher's Report Form 22 ) identify areas of difficulties. Specific rating scales 
assess for symptoms and severity of psychiatric problems, including anxiety and depression. 

Although these scales are used frequently in children with school refusal, their clinical 
usefulness in developing effective treatment strategies has not been demonstrated. 

More specific assessment scales to measure symptoms of school refusal have been 
developed recently. They provide functional and symptomatic assessment of refusal 
behaviors and therefore provide more valuable information. The School Refusal Assessment 
Scale (Table 6, online) 23 includes a child, parent, and teacher form and examines school 
refusal in correlation to negative and positive reinforcers. This scale has been reported to 
have high reliability and validity. 23,24 
 
TABLE 6 

Items from the School Refusal Assessment Scale-Revised 
学校拒否症の評価基準項目
 
Items from child version (子どもへの質問項目)

How often do you have bad feelings about going to school because you are afraid of 
something related to school (e.g., tests, school bus, teacher, fire alarm)? (1) 
何か学校に関係あることで、学校へ行くことで、気分が悪くなることが、どれだけしばしばありま
すか。(たとえばテスト、通学、先生、あるいは火災警報器など)

How often do you stay away from school because it is hard to speak with the other kids at 
school? (2) 
学校で、ほかの仲間と話すのがつらくて、学校を休むことが、どれくらいありますか。

How often do you feel you would rather be with your parents than go to school? (3)
学校へ行くより、家で両親といたいと思うことは、どれくらいありますか。 

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how often do you leave the 
house and do something fun? (4) 
(月曜日から金曜日までの)間で、あなたが学校へ行っていないとき、どれくらいしばしば、家を
離れたり、何かほかの楽しみをしますか。

How often do you stay away from school because you feel sad or depressed if you go? (1) 
学校へ行くと、悲しくなったり、落ちこんだりするので、どれくらいしばしば学校を休みますか。

How often do you stay away from school because you feel embarrassed in front of other 
people at school? (2) 
ほかの仲間のいるところだと、落ちつかないという理由で、どれくらいしばしば、学校を休みま
すか。

How often do you think about your parents or family when you are in school? (3) 
学校にいる間、どれくらいしばしば、両親や家族のことを考えますか。

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how often do you talk to or 
see other people (other than your family)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、学校を休んでいるとき、どれだけしばしば、(家族以外の)ほ
かの人と会ったり、話したりしますか。

How often do you feel worse at school (e.g., scared, nervous, sad) compared with how you 
feel at home with friends? (1) 
家で友といるときとくらべて、学校にいるときのほうが、より悪く感じますか。(たとえば恐れた
り、神経質になったり、悲しくなったりするなど)

How often do you stay away from school because you do not have many friends there? (2) 
学校には友だちがいないという理由で、どれほどしばしば学校を休みますか。

How much would you rather be with your family than go to school? (3) 
学校へ行くより、あなたの家族といっしょに家にいたいと、どれだけ強く感じますか。

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how much do you enjoy 
doing different things (e.g., being with friends, going places)? (4) 

(月曜日から金曜日までの間で)、あなたが学校にいないとき、(たとえば友だちといることや、
どこかへ行くことなどで)、あなたはどれだけ、違ったことを楽しみますか。

How often do you have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) when you think 
about school on Saturday and Sunday? (1) 

土曜日や日曜日に、学校のことを思うと、どれだけしばしば、あなたは学校に対して、悪い感
情をもちますか。

How often do you stay away from places in school (e.g., hallways, places where certain 
groups of people are) where you would have to talk to someone? (2) 
学校にいるとき、(通路や友が集まるところなど)、あなたがいるべきところから、あなたはどこ
か別の場所に、どれくらいしばしば離れて行きますか。

How much would you rather be taught by your parents at home than by your teacher at 
school? (3) 
学校の先生よりも、家で両親によって、むしろ教えられると、どれくらい強く感じますか。

How often do you refuse to go to school because you want to have fun outside of school? 
(4) 
学校の外で楽しみたいという理由で、どれくらいしばしば、学校へ行くのを拒絶しますか。

If you had fewer bad feelings (e.g., scared, nervous, sad) about school, would it be easier for 
you to go to school? (1) 
もし不愉快な感情(恐れ、神経質、悲しみなど)を学校に感じないなら、あなたにとって学校へ
行くことは、楽なことだと思いますか。

If it were easier for you to make new friends, would it be easier for you to go to school? (2) 
もしあなたが新しい友だちをつくることが、もっと簡単なら、学校へ行くのも楽になると、あなた
は思いますか。

Would it be easier for you to go to school if your parents went with you? (3) 
両親がいっしょに行ってくれるなら、学校へ行くことは、もっと楽になると思いますか。

Would it be easier for you to go to school if you could do more things you like to do after 
school hours (e.g., being with friends)? (4) 
放課後、もっといろいろなことができれば、あなたにとって学校へ行くのが、もっと楽になると、
思いますか。(たとえば友だちといっしょにいるなど。)

How much more do you have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) 
compared with other kids your age? (1) 
同年齢の仲間とくらべて、あなたはどれだけより多くの不愉快な感情(恐れ、神経質、悲しみ)
などを、もっていると思いますか。

How often do you stay away from people in school compared with other kids your age? (2) 
他の仲間たちと比べて、あなたはどれくらいしばしば、学校の中で、他の中間たちと離れてい
ますか。

Would you like to be home with your parents more than other kids your age would? (3) 
同年齢の他の仲間がそうであるよりも、あなたは家で、両親といたいと、あなたは思いますか。

Would you rather be doing fun things outside of school more than most kids your age? (4) 
同年齢の他の仲間たちがそうであるよりも、あなたは学校の外で、楽しいことをもっとしたいと
思っていますか。

Items from parent version (両親への質問項目)

How often does your child have bad feelings about going to school because he/she is afraid 
of something related to school (e.g., tests, school bus, teacher, fire alarm)? (1) 
学校へ行くことに関して、(たとえばテスト、通学、先生、火災警報器などで)、それがこわいな
どの理由で、悪い感情を、どれくらいしばしば、あなたの子どもは、もちますか。

How often does your child stay away from school because it is hard for him/her to speak 
with the other kids at school? (2) 
学校で友だちと話すのがいやで、どれくらいしばしばあなたの子どもは、学校を休みますか。

How often does your child feel he/she would rather be with you or your spouse than go to 
school? (3) 
学校へ行くより、あなたや、あなたの夫(妻)といっしょにいたいと、あなたの子どもは、いかにし
ばしば、思いますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how often does he/she 
leave the house and do something fun? (4) 
(月曜日から金曜日までで)、あなたの子どもが学校にいないとき、いかにしばしば、あなたの
子どもは家から出て、何か自分の好きなことをしますか。

How often does your child stay away from school because he/she will feel sad or depressed 
if he/she goes? (1) 
いかにしばしば、あなたの子どもは、学校へ行くとこわいとか、悲しいとかいう理由で、学校を
休みますか。

How often does your child stay away from school because he/she feels embarrassed in 
front of other people at school? (2) 
いかにしなしば、あなたの子どもは、学校で人の前で、どうしたらいいか、わからないという理
由で、学校を休みますか。

When your child is in school, how often does he/she think about you or your spouse or 
family? (3) 
あなたの子どもが学校にいるとき、いかにしばしばあなたの子どもは、あなたや、あなたの夫
(妻)もしくは家族のことを考えますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how often does he/she 
talk to or see other people (other than his/her family)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、あなたの子どもが学校を休んでいるとき、いかにしばしば、
(家族以外の)だれかと会ったり、話したりしますか。

How often does your child feel worse at school (e.g., scared, nervous, sad) compared with 
how he/she feels at home with friends? (1) 
家で友だちと会うときと比較して、あなたの子どもは、学校で友だちを会うことのほうを、いかに
しばしばいやがりますか。

How often does your child stay away from school because he/she does not have many 
friends there? (2) 
学校には、あまり友だちがいないという理由で、いかにしばしばあなたの子どもは、学校を休
みますか。

How much would your child rather be with his/her family than go to school? (3) 
あなたの子どもは、学校へ行くより、家にいたいと、どれだけ強く思っていますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how much does he/she 
enjoy doing different things (e.g., being with friends, going places)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、あなたの子どもが学校を休んでいるとき、あなたの子ども
は、どれくらい、(たとえばあなたの友だちといるか、どこかへでかけていくとかで)、あなたの子
どもは、ちがったことをしていますか。

How often does your child have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) when 
he/she thinks about school on Saturday and Sunday? (1) 
土曜日や日曜日など、学校のことを考えたりしたりして、あなたの子どもは、どれくらいしばし
ば、学校について(たとえば恐れを感じたり、神経質になったり、悲しんだりするなど)、悪い感
情をもちますか。

How often does your child stay away from places in school (e.g. hallways, places where 
certain groups of people are) where he/she would have to talk to someone? (2) いかにしばし
ばあなたの子どもは、学校の中で、ふつうならそういう場所に、いたいと思うようなところ、(たと
えば通路やあるグループなど)から、離れていますか。

How much would your child rather be taught by you or your spouse at home than by his/
her teacher at school? (3) 
あなたの子どもは、学校で先生に教えられるより、家で、あなたやあなたの夫(妻)から、いか
に多く、教えられていますか。

How often does your child refuse to go to school because he/she wants to have fun outside 
of school? (4) 
学校の外での楽しみたいというような理由で、いかにしばしばあなたの子どもは、学校へ行くの
を拒否しますか。

If your child had fewer bad feelings (e.g., scared, nervous, sad) about school, would it be 
easier for him/her to go to school? (1) 
もしあなたの子どもが、学校に対して、悪い感情(たとえば恐れ、神経質、悲しみなど)がなけ
れば、あなたの子どもが、学校へ行くことは、よりたやすくなると思いますか。

If it were easier for your child to make new friends, would it be easier for him/her to go to 
school? (2) 
もしあなたの子どもが、より簡単に友だちができるとしたら、あなたの子どもが学校へ行くの
は、もっと簡単になると思いますか。

Would it be easier for your child to go to school if you or your spouse went with him/her? 
(3) 
もしあなた、もしくは、あなたの夫(妻)が、子どもといっしょに行くなら、あなたの子どもにとっ
て、学校へ行くのが、もっと簡単になると思いますか。

Would it be easier for your child to go to school if he/she could do more things he/she likes 
to do after school hours (e.g., being with friends)? (4) 
もし放課後、あなたの子どもが、もっとほかのjことができたら、あなたの子どもにとって、学校
へ行くのが、もっと簡単になると、あなたは思いますか。

How much more does your child have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) 
compared with other kids his/her age? (1) 
ほかの同年齢の子どもと比較して、あなたの子どもは、どれくらい強く、学校に対して、(恐れ、
神経質。悲しみなど)の悪い感情をもっていますか。

How often does your child stay away from people in school compared with other kids his/
her age? (2) 
ほかの同年齢の子どもと比較して、あなたの子どもは、学校の中で、いかにしばしば、友だち
から遠ざかっていますか。

Would your child like to be home with you or your spouse more than other kids his/her age 
would? (3) 
ほかの同年齢の子どもより、あなたの子どもは、あなたや、あなたの夫(妻)といっしょに家に
いたがりますか。

Would your child rather be doing fun things outside of school more than most kids his/her 
age? (4) 
ほかの同年齢の子どもより、あなたの子どもは、学校の外で、もっと楽しいことをしたいと思っ
ていますか。
 

I = avoidance of stimuli that provoke negative affectivity; 
否定的行動のを引き起こす、刺激の回避
2 = escape from aversive social or evaluative situations;
嫌悪的な社会的もしくは評価的な状況からの逃避
 3 = pursuit of attention;
興味の追求
 4 = pursuit of tangible reinforcement. 
現実強化の追求
Adapted with permission from Kearney CA. Identifying the function of school refusal 
behavior: a revision of the School Refusal Assessment Scale. J Psychopathol Behav Assess 
2002;24:235-45. 
 

Treatment (治療)
The primary treatment goal for children with school refusal is early return to school. 
Physicians should avoid writing excuses for children to stay out of school unless a medical 
condition makes it necessary for them to stay home. Treatment also should address 
comorbid psychiatric problems, family dysfunction, and other contributing problems. 
Because children who refuse to go to school often present with physical symptoms, the 
physician may need to explain that the problem is a manifestation of psychologic distress 
rather than a sign of illness. A multimodal, collaborative team approach should include the 
physician, child, parents, school staff, and mental health professional. 

Treatment options include education and consultation, behavior strategies, family 
interventions, and possibly pharmacotherapy. Factors that have been proved effective for 
treatment improvement are parental involvement and exposure to school. 25,26 [Reference 
25--Evidence level B, uncontrolled trial] However, few controlled studies have evaluated the 
efficacy of most treatments. Treatment strategies must take into account the severity of 
symptoms, comorbid diagnosis, family dysfunction, and parental psychopathology. 

A range of empirically supported exposure-based treatment options are available in the 
management of school refusal. When a child is younger and displays minimal symptoms of 
fear, anxiety, and depression, working directly with parents and school personnel without 
direct intervention with the child may be sufficient treatment. If the child's difficulties 
include prolonged school absence, comorbid psychiatric diagnosis, and deficits in social skills, 
child therapy with parental and school staff involvement is indicated. 

BEHAVIOR INTERVENTIONS (行動介入)
Behavior approaches for the treatment of school refusal are primarily exposure-based 
treatments. 27 [Evidence level B, lower quality randomized controlled trial (RCT)] Studies 
have shown that exposure to feared objects or situations reduces fear and increases 
exposure attempts in adults. 28 These techniques have been used to treat children with 
phobias and school refusal. Behavior techniques focus on a child's behaviors rather than 
intrapsychic conflict and emphasize treatment in the context of the family and school. 

Behavior treatments include systematic desensitization (i.e., graded exposure to the school 
environment), relaxation training, emotive imagery, contingency management, and social 
skills training. Cognitive behavior therapy is a highly structured approach that includes 
specific instructions for children to help gradually increase their exposure to the school 
environment. In cognitive behavior therapy, children are encouraged to confront their fears 
and are taught how to modify negative thoughts. 

EDUCATIONAL-SUPPORT THERAPY (教育的サポートセラピー)

Traditional educational and supportive therapy has been shown to be as effective as 
behavior therapy for the management of school refusal. 29 [Evidence level B, lower quality 
RCT] Educational-support therapy is a combination of informational presentations and 
supportive psychotherapy. Children are encouraged to talk about their fears and identify 
differences between fear, anxiety, and phobias. Children are given information to help them 
overcome their fears about attending school. They are given written assignments that are 
discussed at follow-up sessions. Children keep a daily diary to describe their fears, thoughts, 
coping strategies, and feelings associated with their fears. Unlike cognitive behavior therapy, 
children do not receive specific instructions on how to confront their fears, nor do they 
receive positive reinforcement for school attendance. 
Child therapy involves individual sessions that incorporate relaxation training (to help the 
child when he or she approaches the school grounds or is questioned by peers), cognitive 
therapy (to reduce anxiety-provoking thoughts and provide coping statements), social skills 
training (to improve social competence and interactions with peers), anddesensitization (e.g., 
graded in vivo exposure, emotive imagery, systematic desensitization). 

PARENT-TEACHER INTERVENTIONS (親と教師の介在)

Parental involvement and caregiver training are critical factors in enhancing the 
effectiveness of behavior treatment. Behavior interventions appear to be equally effective 
with or without direct child involvement. 25 [Evidence level B, lower quality RCT] School 
attendance and child adjustment at post-treatment follow-up are the same for children 
who are treated with child therapy alone and for children whose parents and teachers are 
involved in treatment. 

Parent-teacher interventions include clinical sessions with parents and consultation with 
school personnel. Parents are given behavior-management strategies such as escorting the 
child to school, providing positive reinforcement for school attendance, and decreasing 
positive reinforcement for staying home (e.g., watching television while home from school). 

Parents also benefit from cognitive training to help reduce their own anxiety and 
understand their role in helping their children make effective changes. School consultation 
involves specific recommendations to school staff to prepare for the child's return, use of 
positive reinforcement, and academic, social, and emotional accommodations. 

PHARMACOLOGIC TREATMENT (薬物治療)

Pharmacologic treatment of school refusal should be used in conjunction with behavioral or 
psychotherapeutic interventions, not as the sole intervention. Interventions that help 
children develop skills to master their difficulties prevent a recurrence of symptoms after 
medication is discontinued. 

Very few double-blind, placebo-controlled studies have evaluated the use of 
psychopharmacologic agents in the treatment of school refusal, although several controlled 
studies are in progress. Problems with sample sizes, differences in comorbidity patterns, lack 
of control of adjunctive therapies, and differences in medication dosages have resulted in 
inconclusive data in trials of pharmacologic agents in the treatment of school refusal. 30,31 

Earlier studies of tricyclic antidepressants failed to show a replicable pattern of efficacy. 
Selective serotonin reuptake inhibitors (SSRIs) have replaced tricyclic antidepressants as 
the first-line pharmacologic treatment for anxiety disorders in children and adolescents. 

Although there are few controlled, double-blind studies of SSRI use in children, preliminary 
research suggests that SSRIs are effective and safe in the treatment of childhood anxiety 
disorders and depression. 32,33 [Reference 32--Evidence level B, nonrandomized study] 

Fluvoxamine (Luvox) and sertraline (Zoloft) have been approved for the treatment of 
obsessive compulsive disorder in children. SSRIs are being used clinically with more 
frequency to treat children with school refusal. Benzodiazepines have been used on a short-
term basis for children with severe school refusal. A benzodiazepine initially may be 
prescribed with an SSRI to target acute symptoms of anxiety; once the SSRI has had time 
to produce beneficial effects, the benzodiazepine should be discontinued. Side effects of 
benzodiazepines include sedation, irritability, behavior disinhibition, and cognitive impairment. 
Because of the side effects and risk of dependence, benzodiazepines should be used for 
only a few weeks. 34 

The author thanks John Smucny, M.D., for assistance in preparing the manuscript. The 
author indicates that she does not have any conflicts of interest. Sources of funding: none 
reported. 

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Yさんへ】

 前兆期は、すでにすぎています。そう考えてください。また「3日」とか何とか、時限を決めて、
子どもを追いつめるのは、かえって逆効果ですから、注意してください。これについては、すで
に前に書いたとおりです。
 
 で、学校恐怖症と怠学のもっとも簡単な見分け方としては、つぎのようなものがあります。

学校恐怖症の子どもは、学校へ行かない間、家の中に引きこもる傾向を示すのに対して、怠
学の子どもは、ほかに目的があって、学校をサボるということ。そのため、学校へ行かない間
は、平気で外出したりします。

 しかし「首に縄つけて……」というのは、恐ろしく乱暴な言い方ですね。怠学的な不登校児で
あれば、それなりに効果的(?)かと思いますが、学校恐怖症であれば、その一撃が、取り返し
のつかないトラウマ(心の傷)となって、心をキズつけてしまうことになりかねませんので、ご注
意ください。

 症状からして、午前中はひどく、午後は快方に向うという、日内変動が見られますので、やは
り学校恐怖症を疑ってみたほうがよいかと思います。だから前回も書きましたように、本人が
気分がよくなるのを待って、2、3時間目から登校をうながしてみるとか、午後からの登校をうな
がしてみるのがよいかと思います。

 Yさんが不安なのは、よくわかりますが、その不安感を、シャドウとして、子どもも感じ取ってし
まいますので、ご注意ください。親のピリピリ、イライラは、百害のもとです。

 お子さんの様子を見ていませんので、これ以上のことはよくわかりません。表情だけ、どこか
柔和で、何を考えているかわからないといった様子であれば、(つまり情意と表情の遊離現象
が見られるようであれば)、不登校は、かなり長期にわたると覚悟することです。「なおそう」と
考えるのではなく、「あなたは、つらいけど、よくがんばっているのよ」と、子どもを包むようにし
て対処します。

 こうした症状は、下の子どもが生まれたことによる、赤ちゃん返りがこじれて、起きるものと、
私は考えています。何%かの子どもがそうなります。(世間の人たちは、赤ちゃん返りを軽くみ
る傾向がありますが、決して、赤ちゃん返りを軽くみてはいけません。)かん黙症や、自閉症の
引き金を引いてしまうことも、珍しくありません。

 「お兄ちゃんだから……」という安易な『ダカラ論』をぶつけないこと。Yさんが住んでいる地域
のことをよく知っていますが、その地域は、そうした封建主義的なものの考え方が、いまだに根
強く残っているところです。注意してください。(このことは以前にも、書いたと思いますが……。
外の世界からそれを見ると、よくわかります。)

 「うちの子は、どうなるのだろう?」と不安になられる気持ちはよくわかりますが、今こそ、あな
たの真の愛情が試されるべきと考えて、つまり十字架を1つ背負うつもりで、この問題に対処し
てみてください。

 「まあ、いいわよ」とあなたが思えるようになったとき、(実際、今どき、不登校など、何でもな
い問題ですが)、不安は、あなたのほうから去っていきます。『不幸は、それを笑ったとき、向こ
うから去っていく。しかしそれを恐れたとき、不幸は、あなたを重荷となって苦しめる』というの
は、私が作った格言です。

 この問題の解決には、数か月単位の忍耐と努力が必要です。ここで症状をこじらせると、半
年から1年単位での不登校につながる危険性があります。心の休養を大切に。「気分転換」な
どと安易に考えて、子どもをあちこち引き回すのも避けてください。安静と安心感、それに心の
安定が、何よりも大切です。もし午後、1時間でも学校へ行くようなら、「よくがんばったね」とほ
めてあげてください。「もうあと1時間行こうね」などと、子どもを責めてはいけません。

 それ以上に症状がひどくなるようであれば、心療内科を訪れてみるという方法もありますが、
私は薬物治療については、疑問に思っています。どうか、慎重に!
(はやし浩司 不登校 学校恐怖症 学校拒否症 怠学 アメリカ内科医学会 米内科医学会
 診断基準 はやし浩司)
2007/09/25

【補記】

 それにしても、「首に縄つけてでも……」という言い方には、驚きました。今でも、そういう言い
方をする人がいるのですね。子どもの人格や人権を、いったい、どのように考えているのでしょ
うか。

 私はこの言葉の中に、恐ろしいほどの親意識、権威主義、それに上下意識を感じました。
と、同時に、それを口にする人たちは、学校神話、学歴信仰の盲信者という印象ももちました。
「子どもなど、親の意思でどうにでもなる」とでも、そういう人たちは考えているのでしょうか。

 あまりにも無知、無学、メチャメチャ! そしてあまりにも日本的! 逆の立場で、自分がそう
されたときのことを考えてみたらよいのです。ただ単なる(比喩(ひゆ))では、すまされません。

 だからといって、子どもを甘やかせとか、学校へは行かなくていいと言っているのではありま
せん。日ごろから、もっと子どもの心に耳を傾ける姿勢が、親側に育っていれば、こうした発想
は、出てこないはずです。あるいはひょっとしたら、こうした問題は起きなかったかもしれませ
ん。

 まさに原始的というか、後進国的というか。あまりにも心の問題を、安易に考えすぎているの
では! 子どもに何かをさせるときには、ある程度の強制力は必要かもしれません。が、それ
は子どもを見ながら判断します。相談してきたYさんのお子さんのケースでは、幼いころ神経症
を発症し、心は、疲れているはず。ボロボロかもしれません。

 私には、Yさんのお子さんの悲痛な叫び声が、聞こえてきます。表面的には元気でも、それ自
体が、仮面と考えてよいのではないでしょうか。

 こうしたケースでは、親が「学校へ行かせよう」とあせればあせるほど、その(あせり)が、子ど
もの心の中に、緊張感を作ってしまいます。つまり子どもの不登校の問題は、子どもの問題で
はなく、親の問題だということです。それに気づけば、あとは、時間が解決してくれます。

 夫が単身赴任で、同居していないとか……。この問題は、Yさんひとりで、解決できる問題で
もないように思います。子育ては、それだけ重労働だということ。加えて、Yさんひとりで対処し
ていると、Yさん自身が、育児ノイローゼになってしまうかもしれません。何とか、夫に、いっしょ
に住んでもらうわけにはいかないでしょうか。内政干渉ですみません!

++++++++++++++++++++++

ついでながら、「学校恐怖症」について書いた
記事(中日新聞掲載済み・2001年10月1日)
を、ここに添付しておきます。

この原稿は、あちこちの団体や個人に、無断で
転載、転用されています。やめてほしいですね、
こういうことは!

++++++++++++++++++++++

【子どもが学校恐怖症になるとき】

●四つの段階論 
 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。 
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 
(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。 
(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。

この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おのの
く)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じが
するため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうこ
とが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 
(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか 
 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親
はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪
化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)
●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取
り返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行
きたくないときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重く
ならなくてすむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にす
れば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうち
に、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考え
て、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈
をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)生活態度(部屋や服
装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様
子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいる
が、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。





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●不安を訴える、親たち

 寒さが緩んだ、ある日の午後。1人の母親が、私の教室へやってきた。M君、小学3年生の
母親である。「どうしましたか?」と聞くと、「ちょっとこちらの方へくる用事がありましたので…
…」と。

私「ハア、何か?」
母「実は、息子の進学の相談ですが、このままでいいのでしょうか?」
私「このままって……?」
母「一応、SS中学の受験を考えているんですが……」
私「はあ……。それで?」と。

 つまりM君の母親は、私の教室から、別の進学塾への移籍を考えていた。30年以上も、若
い母親たちに接していると、そうした心の変化は、雰囲気でわかる。

私「M君は、今、がんばっていますよ。成績も伸びてきたところですし、今は、自分で、5年生レ
ベルの学習をしています」
母「でも、国語が、苦手なんです」
私「国語、ですか?」
母「算数は、おかげで、クラスでもトップなのですが、国語の成績が、今イチなんです……」と。

 こうした押し問答がつづく。いつまでもつづく。

●よくなることしか考えない(?)

 こういうケースでは、親たちは、自分の子どもが、(今の状態)より、よくなることしか考えてい
ない。「やれば、もっとできるはず」と。

 しかし可能性としては、フィフティ・フィフティ。やり方をまちがえれば、成績は、さがる。が、そ
れですめば、まだよいほう。親の希望には際限がない。「B中学へでも入れれば……」と言って
いた親でも、その子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は、「せめてA中学へ……」と
言い出す。

 さらにそのA中学へ入れそうだとわかると、今度は、「もう少しがんばらせて、S中学へ……」
と言い出す。

 子どもがそうした親の期待に、従順に(?)、応じている間は、それなりに、親子関係も、うまく
いく。しかしそんなケースは、10に1つもない。理由は、簡単。

 こうした親の期待には、あるいは欲望と言ってもよいかもしれないが、それには、ここにも書
いたように、際限がない。が、それ以上に、『だからどうなの……?』という部分がない。「いい
中学へ入ったから、だからどうなの?」と。

それがないまま、子どもを追い立てても、子どもには、負担になるだけ。その(負担)が、やがて
親子関係を破壊する。

●過剰期待

 何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。それは
たとえて言うなら、馬の前にぶらさげられたニンジンのようなもの。いくら走っても、馬は、その
ニンジンを、自分のものにすることはできない。

 が、人間は馬ではない。やがてすぐ子どもは、それに気づく。こんな例がある。

 あるとき電話で、こんな相談をしてきた母親がいた。私の知らない人だった。

 「うちの子は、プリント学習を、毎日3枚することになっています。しかし2枚しかしません。3枚
目になると、とたんに、いやがります。どうすれば、3枚目を子どもにさせることができます
か?」と。

 プリント教材を売り物にしている教材会社があるようだ。

 で、私は、こう答えた。「では、2枚でやめることです」と。

 もしその子どもが、スイスイと3枚目をしたら、親は、きっと今度は、こう言い出すにちがいな
い。「明日からは、4枚しなさい」と。

 子どもも、それを知っている。だから、2枚目が終わったところで、しぶり始める……。

●自我の同一性

 わかりやすく言えば、(やりたいこと)と、(現実にしていること)が、一致している子どもは、表
情が明るい。伸びやか。それに安定感があって、情緒も落ちついている。

 しかしときとして、その(やりたいこと)と、(現実にしていること)が、遊離し始めることがある。
そうなると、子どもは、とたんにある種の緊張感に包まれる。これを心理学の世界でも、「同一
性の危機」という。

 ある講演会場でその話をしたとき、1人の母親が、そのあと、こんな質問をした。「それはどう
いう心理状態ですか?」と。予定外の質問だったので、少し戸惑ったが、私はこう答えた。

 「それはですねエ〜。たとえて言うなら、顔を見るのも、声を聞くのもいや。肌に触れられるの
もいやという男性と結婚した、女性の心の心のようなものではないでしょうか」と。

 あとで考えて、我ながら、名答だったと思った。

 もっとも、それほど深刻なケースではないにしても、同じ仕事でも、(自分で進んでする仕事)
と、(いやいやする仕事)では、能率はまったくちがう。とくに、自分が納得しない仕事を押しつ
けられたときは、そうだ。

 子どもも、そういう状態になる。親は、「いい中学へ入れ」と、せき立てる。しかし子どもには、
その意思がない。少しでも成績がさがったりすると、親は、「サッカーをやめなさい」「ゲーム
は、取りあげます」などと、子どもをおどす。とたん、それまでの親子関係は、崩壊する。

●『だから、どうなの?』

 こんな例がある。もう15年近くも前のことだが、夏休みが終わったころ、2人の女子高校生
が、私のところにやってきた。そしてこう言った。2人とも、私の幼児教室のOBである。

 「先生、私たち、横浜のF大学に入ることにしました」と。

 声は明るかった。それにF大学なら、私も知っている。それで「よかったね」と。で、そのあとこ
んな会話をした。

私「ところで学部は……?」
子「……国際関係学部……です」
私「国際……カンケイ、学部……?」
子「そう……」
私「フ〜ン。ぼくは昔の人間だから、法学部とか経済部とかいうのはわかるが、その国際関係
学部っていうのは、何を勉強するところ?」
子「……私にも、わかりません」と。

 その2人の女子高校生たちは、「何を勉強するのか、わからない」と。当時は、「大学遊園地
論」が、あちこちで騒がれていた。だから私は、すぐこう思った。「この子たちも、大学へ入った
ら、遊ぶのだろうな」と。

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばす三種の神器といえば、(夢)、(希望)、(目的)である。この3つが、子どもを、
前向きに引っぱっていく。

 しかし今、その(夢)、(希望)、(目的)をもっている子どもは、少ない。いろいろな調査結果を
みても、小学校の高学年で、30%もいない。勉強にしても、親に言われるから、ただ勉強して
いるだけ……といった子どもが、ほとんど。

 で、よく誤解されるが、今どき、よい中学、よい高校、さらには、よい大学へ入るなどということ
は、夢でも、希望でも、目的でもない。親にとっては、そうかもしれないが、少なくとも、子どもに
は、そうではない。

 この数年だけでも、自ら、進学先の学校のレベルをさげる子どもが、どんどんとふえている。
「A高校なんか入って、勉強でしごかれるくらいなら、B高校で、のんびりと高校生活を楽しみた
い」と。「約60%の子ども(中学生)がそうですよ」と、HK市にある中学校の校長が、笑いなが
ら話してくれた(05年)。

 昔なら、「名門」というブランドにあこがれて、そこへ入ることを目標にした子どももいたかもし
れない。しかし今は、いない。また、そういう時代ではない。

●勉強しかしない子どもたち

 せっかく(いい中学)(いい高校)へ入っても、中退して自分の道を選ぶ子どもも、ふえている。
ここに例を書くまでもなく、あなたの周囲にも、1人や2人は、必ず、いるはず。

 むしろ勉強だけして、スイスイと、(いい中学)(いい高校)そして(いい大学)へと進学して子ど
もほど、どこか、ヘン(失礼!)。そういう子どもは、勉強しかしない。勉強しかできない。たしか
に成績はよいが、よい成績をとることが、その子どもにとっては、趣味のようなものになってい
る。

 頭の中は、偏差値という数字でいっぱい。もちろん弊害もある。

 このタイプの子どもは、人間の価値そのものすら、その(数字)で判断する。そこでおかしなこ
とだが、本当に、おかしなことだが、今の日本の教育システムの中では、人間的にも魅力があ
り、人格的にもすぐれた子どものほうが、むしろ、受験競争から、脱落していくという傾向がみ
られる。

 このことも、あなたの周囲を見渡してみれば、わかるはず。あなたの周囲にもいろいろな人
がいる。が、受験とは無縁の世界を生きてきた人ほど、心暖かく、人間味が豊かであることを、
あなたも知っているはず。

 もちろんだからといって教育を、否定しているのではない。つまりこうした弊害を、教育者自身
が、気がつき始めている。そしてそれに合わせて、教育制度、さらには受験制度そのものも、
変わり始めている。

●点数から人間性へ

 この静岡県でも、いろいろな試行錯誤があったが、全体として見ると、より内申書重視の入
試方法に変わってきている。欧米の例を参考にするなら、これは当然のことである。

 たとえばアメリカでは、いくら成績がよくても、その成績だけでは、有名大学には入れない。推
薦権をもつ、教師や学校の推薦がなければ、入れない。そしてその推薦するかどうかは、その
子どもの人格や人間性を見て、判断される。

 日本でも、最近、学歴不問という会社が現われつつある。入社試験でも、面接官は、こう聞
く。「君は、何ができるかね?」「君は、わが社に、何を貢献してくれるかね?」と。

 こうした話は、恩師のT教授(元東大・副総長)からも聞いたことがある。20年ほど前の話
で、今は、そういう学生も少なくなったと思うが、T教授は、こう言った。

 「林君、東大へ入ってくる学生の、3分の1は、頭がおかしいよ」と。そこで私が、どこがどうお
かしいですかと聞くと、T教授は、こう言った。

 「実験中にね、かんしゃく発作か何かを起こして、ビーカーなどの実験道具を床にたたきつけ
て、割ってしまうのがいる」「そこで親まで呼んで、自主退学を勧めるのだが、親のほうが、猛然
と拒否する」と。

 そうした反省もあって、そのあと、入試方法も、大きく変わった。学力テスト1本という入試方
法から、面接重視の入試方法へ、と。とくにそのT教授は、退官後、東京R大(私大)へ移り、東
京R大の入試方法そのものを変えてしまった。

 「参考書、辞書、持参は自由」というのが、その入試方法である。この入試方法は、そのあ
と、いろいろな世界で、大きな話題になったので、ご存知の方も多いと思う。

●不安の構造

 何ゆえに、親たちは、不安になるのか? とくに自分の子どもが受験期を迎えると、言いよう
のない不安感に襲われる。

 自分の子どもが選別されるという不安。子どもの将来への不安。が、それだけではない。日
本人には、体質として、明治以来の学歴信仰がしみついている。それに拍車をかけるように、
この日本には、不公平が蔓延(まんえん)している。

 そうした不公平を、親たちは、日々の生活を通して、いつも肌で感じている。

 だから親たちは、子どもを受験競争に駆り立てる。今の今でも、「勉強しなさい!」「うるさ
い!」の大乱闘を繰りかえしている親子は、多い。

 が、ここで注意しなければならないのは、不安に思っているのは、親だけということ。子ども
は、何も、不安に思っていない。もっと言えば、親が、自分の不安感を、子どもにぶつけている
だけ。

 こうした親は、一見、子ども思いの、よい親に見える。しかしその実、身勝手な愛(?)を、子
どもに押しつけているだけ。こういうのを、私は、「代償的愛」と呼んでいる。つまりは、愛もどき
の愛。それはたとえて言うなら、ストーカーが口にする「愛」に似ている。

 子どものことを考えているようで、結局は、子どものことなど、何も考えていない。どこまでも、
ジコチューな愛、ということになる。

●失敗してはじめて気づく親たち

 しかしどの親も、ほとんど例外なく、自分で失敗するまで、自分が失敗したと気づかない。だ
いたいどの親も、自分が失敗するなどとは、思っていない。

 だから親は、子どもを、「あなたはやればできるはず」「もっとできるはず」と、子どもを、追い
立てる。が、いつまでもこんな異常な状態がつづくはずはない。

 H市にS県でもナンバーワンと呼ばれる進学高校がある。その進学高校の教師が、私にこう
話してくれたことがある。

 「うちの高校でも、高校入学時にすでに、バーントアウト(燃え尽き症候群)している子どもが、
5%はいます。3年生で、20%はいます」と。

 有名大学となると、(こういう言葉は、本当に不愉快だが……)、もっと多い。「大学へは入っ
てはみたけれど……」と。

 が、その程度ですめばまだよいほう。引きこもりや、家庭内暴力、さらには、心そのものまで
ゆがめてしまう子どもも少なくない。

 が、親というのは、不思議なものだ。親子関係は完全に崩壊している。子どもも、「大学へは
入ってはみたけれど……」という状態になっている。しかしそれでも、他人の前では、「おかげ
で、いい大学へ入ることができました」と喜んでみせる。

 この段階で、失敗を認めるということは、親にしてみれば、自己否定につながる。世間的に
は、それだけは何としても避けたい。そうそうこう言っていた母親もいた。

 「毎日、毎晩、小5の娘と大乱闘です。しかし娘も、目的の中学へ入ってくれれば、そのとき私
の気持ちを理解し、私を許してくれるでしょう」と。

 が、残念ながら、それで親に感謝する子どもなど、ぜったいに、いない。

●変化する子どもたち

 進学塾へ入ったとたん、目つきの変わる子どもは、少なくない。何割か、あるいはそれ以上
の子どもがそうなる。

 親は、「自覚ができました」「緊張感ができました」と喜ぶ。が、それですむわけではない。受
験競争が長くつづけばつづくほど、そしてそれがはげしければはげしいほど、おかしな競争
心、おかしなエリート意識、そういったものが、子どもの心を粉々に破壊する。

 概して言えば、温もりのある子どもらしさが消え、心がドライになる。冷たくなる。点数だけで、
人を判断するようになる。それを指導する講師が、そういう姿勢だから、子どもの心など、生贄
(いけにえ)に差し出された子羊のようなもの。

 さらに言えば、指導する講師にしても、それだけ子どもの心を知った上で、指導しているかと
いえば、それは疑わしい。

 派手な宣伝、広告、チラシ……。そういったので発表される合格者数の裏で、いかに多くの
子どもたちが、もがき、苦しみ、自信をなくしていることか。ほとんどの親たちは、勝つことだけ
を考えて、負けることは考えていない。

 「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、子どもを受験競争に追い立てる。し
かし成功するか失敗するかということになれば、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしそのときになって、子どもの心を再び、取りもどそうとしても、もう遅い。一度こわれた心
を、もとにもどすには、その何倍もの努力と時間が必要となる。

●日本の特殊性

 日本がもつ構造的な異常さというのは、日本だけに住んでいる人には、理解できない。ある
いは、逆に、「欧米も、日本と似たようなもの」と思っている人も多い。

 しかし、ちがう。まったくちがう。5、6年前に書いた原稿(本で発表済み)の中から、一部を抜
粋して、紹介する(全文は、この原稿のあとに添付)。

 『つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で7
0校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先
が明記してあった。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒1人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち』。

●子どもを信じて伸ばす

 では、どうすればよいのか。現実に、この日本には、不公平が蔓延している。学歴制度もあ
り、受験競争もある。こうした現実に背を向ければ、そのまま外の世界へ、はじき飛ばされてし
まう。

 こんな笑い話(?)がある。東京に住んでいる、ある女性が話してくれた。

 「ある母親は、自分の子ども(小学生)を、近くの公園へ連れていった。そしてそこで生活して
いるホームレスの人たちを見せながら、こう言ったという。『あんたも、しっかりと勉強しなけれ
ば、ああいう人になるのよ』と」と。

 とんでもない指導だが、だれがこの話を聞いて、笑えるだろうか。その母親は、この日本で
は、まさに現実主義者ということになる。笑いたくても、笑えない。

 その一方で、今、この日本でも、価値観が、多様化してきている。そして「幸福」に対する考え
方も、変わってきている。そこで重要なことは、子ども自身が、自らの力で、自分の道を切り開
いていく力をもつようにすること。学歴などというものは、あとからついてくるもの。かりにどこの
大学を出ようとも、そこで(勉強)が終わるわけではない。

 むしろ本物の実力が試されるのは、社会へ出てからということになる。もちろん今でも、過去
の学歴にぶらさがり、のんべんだらりとした生活を送っている人は多い。悪しき学歴社会の、
亡霊のような人たちである。50代、60代以上の人に、とくに多い。

●夢から目標へ

 子どもには、子どもの夢がある。その夢をじょうずに育てながら、それを目標につなげていく。

 子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と。子どもが「バスの運
転手さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と。

 「夢」を育てる姿勢が子どもの中にあれば、(夢の内容は、そのつど変化するものだが…
…)、子どもは自分で伸びていく。

 もし子どもを伸ばす方法があるとするなら、それしかない。またそれが王道である。親にでき
ることがあるとするなら、その目標に向って進む子どもを、側面から支えること。イギリスの格
言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのが、あ
る。あとの判断は、子ども自身に任せるしかない。

 そのとき重要なことは、それがどんな道であろうが、子どもが選んだ道であれば、親は一歩
引き下がった状態で、子どもを支える。そしてそれが良好な親子関係を保つ、王道でもある。

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の講師になるという道を選んだとき、それを母に告
げると、母は電話口の向こうで泣き崩れてしまった。

 決して母を責めているのではない。母は母で、当時の常識に従って、そうしたにすぎない。し
かしあのとき、母だけでも、私を支えてくれていたら、その後の私の人生は、大きく変わっただ
ろうと思う。もっと自信をもって、私は、自分の道を進むことができただろうと思う。

 そういう私を支えてくれたのは、実は、オーストラリアの友人たちである。オーストラリアの友
人たちは、みな、「すばらしい選択だ」と言って、私を支えてくれた。つまり、こういうところにも、
意識のちがいがある。

 今でも、「幼稚園の講師?」と言って、吐き捨てる日本人は、多い。しかしそういう日本人を超
えるようにならないと、この日本はいつまでたっても、教育後進国。校舎や教師がいくら立派に
なっても、中身は旧態依然のまま(?)ということになる。

 つまりは、私たち1人ひとりが、そういう意識を変えていくしかない。

 冒頭にあげた母親とは、それで別れた。その母親との間には、越えがたいほど、遠い距離を
感じた。「どこからどう説明しようか」と考えているうちに、どうでもよくなってしまった。

 M君が私のところを去るのは、時間の問題だろう。しかしそれも卒業。

母「これからも、よろしくお願いします」
私「わかりました。おいでになる間は、一生懸命、教えさせていただきます」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が
多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を
超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われて
いる。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230ドイツ・マルク(日本
円で約14000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するま
で、最長27歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒1人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【受験期の親の不安】

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子どもが受験期を迎えると、親は、みな、
不安になる。

その不安の構造について……。

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●外的不安と内的不安

 子どもが受験期を迎えると、親たちは、言いようのない不安感に襲われる。まさに得体の知
れない不安感。「足元から体がすくわれるような不安感」「つかみどころのない不安感」「頭から
暗闇に包まれたかのような不安感」などなど。

 その不安感は、外的不安?と内的不安感に分けることができる。

 受験によって、子どもが選別されるという不安感、子どもの将来が見えないという不安感。受
験という制度から直接生まれる不安感を外的不安感とするなら、自分の中から、わき出てくる
不安感を、内的不安感という。

 その内的不安感。少しわかりにくい話なので、もう少し具体的に説明してみよう。

 親は、子育てをしながら、子どものそれぞれの年齢に応じて、自分の過去を再現する。それ
はたとえて言うなら、木の年輪のようなもの。親には親の年輪がしっかりと刻まれている。その
年輪を、一枚ずつはがすようにして、親は、自分の過去を再現する。

 たとえば子どもが5歳になると、親は自分が5歳のとき受けた子育てを、そのまま再現する。
子どもが10歳になると、親は自分が10歳のときに受けた子育てを、そのまま再現する。

 『子育ては本能ではなく、学習である』という意味は、そこにある。

 で、子どもが受験期を迎えると、親は、自分の受験期を、自分の中に再現する。それは意識
的な行為というよりは、無意識下の行為というほうが正しい。潜在意識の奥深くに刻まれた意
識を、そのまま再現する。

 そのとき、自分の内側からわき襷こって不安感を、内的不安感という。つまりは自分が受験
期に感じた不安感を、親は、そのまま子どもを育てながら、再現してしまう。「選別されるという
不安」「自分の将来はどうなるのだろうという不安」「自分が、本来の目的地でないところへ、勝
手に連れていかれてしまうのではないか」という不安。

 そうした不安感が、自分の子どもが受験期を迎えると、どっとやってくる。しかも皮肉なこと
に、はげしい受験競争をし、その競争の中で、いやな思いをした親ほど、その不安感が強い。
ある父親は、こう話してくれた。

 「私は、進学校で、いやな思いをしました。だから自分の息子にだけは、そういう思いをさせ
たくないと思いました。しかしそんな私でも、夜、仕事から帰ってくるとき、近くの進学塾の電気
が?こうこうとついているのを見るだけで、頭にカッと血がのぼるのを覚えました」と。

 こうして親たちは、不安のウズの中に巻きこまれていく。考えることは、子どもの受験のことば
かり。明けても暮れても、子どもの受験のことばかり。中にはそのままノイローゼ状態から、う
つ病になっていく人もいる。子どもの受験の話になると、とたんに興奮状態になる。多弁にな
る。そして一方的に、受験の話をペラペラと、いつまでも話しつづける。そういう人もいる。が、
弊害は、つづく。

 その人の価値観や人生観が、それでゆがむこともある。子どもの価値を、受験だけで判断す
る親も出てくる。

 「あの人は、子どもの教育に熱心だったのですがねエ。それがみなさい。その子どもといえ
ば、あのD中学ですってねエ」と。

 さも同情しているようなフリをしているだけで、その実、何も同情していない。が、その反対の
こともある。自分の子どもが受験に失敗した夜、知人に、こう電話をかけた母親もいた。

 「幼児のときから、英語教室や算数教室へ通わせましたが、すべてムダでした」と?

 つまり受験に失敗したことで、それまでの努力が、すべてムダだった、と。

 こうしたものの見方、考え方は、どこかおかしい。しかし、そのおかしさがわからないほどまで
に、その人の価値観や人生観がゆがむ。が、それだけでは、すまない。こういう状態になると、
たいてい、親子の間に大きなキレツ(亀裂)が入るようになる。そのまま親子断絶と進むケース
も少なくない。さらに、受験どころか、子どもが燃え尽きてしまったり、反対に非行に走るケース
もある。

 親は、そのときの状態を、最悪と思うかもしれないが、その最悪の下には、さらに最悪があ
る。これを私は「2番底」と呼んでいるが、親には、それがわからない。

 そこでもし、あなたが自分の子どもの教育のことで、不安感を覚えたら、それを黄信号と考え
て、(1)思いきって子育てから手を引く、(2)あきらめるという方法で、子育てから遠ざかるの
がよい。それは子どものためでもあるが、あなたという親自身のためでもある。

 ……実は、こういう話を、ある懇談会で話したら、そのあと、ある父親から猛烈な抗議の電話
がかかってきたことがある。「あんたは、他人の子どものことだから、好き勝手なことが言える
かもしれないが、あきらめろとは、何だ。失敬ではないか!」と。

 だから結局は、親たちは、自分で行きつくところまで行かないと、気がつかない。それは子育
てのもつ宿命のようなもので、自分の体に刻まれた年輪を変えることは、それほどまでにむず
かしい。よほどのことがないかぎり、不可能と言ってもよい。

 さて、今、あなたが感じている不安感は、外的不安感だろうか。それとも内的不安感だろう
か。ちょっと立ち止まって、一度、ここで考えてみたらどうだろうか。それがわかるだけでも、あ
なたの感じている不安は、半減するはずである。
(はやし浩司 子どもの受験 親の不安 子供の受験 不安心理 親の不安心理 内的不安 
外的不安 はやし浩司)







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【反面教師論】

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反面教師という言葉がある。
しかし反面教師は、本当に教師なのか。
教師たりえるのか。

それについて考えてみたい。

このテーマについて書くきっかけとなったのは、
ある母親が話してくれた、彼女の息子の話だった。

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●犬の叱り方

 ある母親が、仕事の休憩時間にこんな話をしてくれた。「息子に、犬を買い与えたのだが、そ
の叱り方を見ていて、驚きました」と。

 息子、つまり小学5年生のY君のことだが、そのY君は、犬を飼っている。飼い始めて、3年に
なる。「毎日、学校から帰ってくると、1時間は、その犬の世話をしているんですよ」とのこと。

 それについて、母親は、こう言った。「Yは、ときどき、はげしく犬を叱るのですが、その叱り方
を見て、驚きました。その口調、言い方、怒り方が、私、そっくりなのです。私は、私のいやな面
を見せつけられたようで、ショックを受けました」と。

 似たような経験は、私にも、ある。

 私は、高校生のとき、英語の教師のMが、大嫌いだった。Mのする授業は、何の楽しみもな
い、一方的な(詰めこみ方式)だった。その教師の授業になるたびに、私は重苦しい憂うつ感
に襲われた。

 その私が、結果的にみると、英語が得意になったのは、英語という科目が好きだったからと
いうよりは、内心では、「あんなMなんかに、負けてたまるか」と思ったからである。Mにバカに
されるのが、何よりもいやだった。が、Mには、それがわからない。ときどき私の名前をみなの
前で出して、「お前たちも、林のように、勉強しろ!」「こんな成績では、どうする!」とハッパを
かけたりしていた。

 私はいつもこう考えていた。「私は教師になっても、あんな教師にだけはならない」「私が教師
になったら、あんなふうには教えない」と。

 が、である。

 その私が、このH市にやってきて、ある進学塾でアルバイト講師をするようになったときのこ
と。ある日、気がついてみると、私の教え方が、あの英語の教師、Mそっくりになのを知って、
驚いた。口調、言い方、怒り方など、すべてが、である。

 それだけではない、私も、生徒を、成績でしか、みていないことに気づいた。「お前もX君のよ
うに、勉強しろ!」「こんな成績では、どうする!」とか、何とか。

●反面教師という「教師」

 教師といっても、2種類、ある。手本としたい教師と、手本としたくない教師。手本としたい教
師のばあい、その教師のすばらしい面を見ながら、自分の人格や人間性を、その教師に、より
近づけようとする。

もう1つは、手本としたくない教師。その教師を批評、批判しながら、「私は、ああいう人間だけ
にはならない」「ああはなりたくない」と、自分の中で、その教師を否定していく。

 後者のような教師を、反面教師という。念のため、「日本語大辞典」(講談社版)をひくと、こう
ある。

「反面教師……否定的なことを示すことによって、肯定的なものをいっそう明らかにするのに役
立つこと」と。英語の格言も、併記してあった。

 One from bad example another can learn.(悪い例から、ものを学ぶこと)と。

 しかし反面教師が、本当に「教師」になりえるかというと、それは疑わしい。教師は教師。私の
例を見るまでもなく、長くつきあっていると、その(手本としたくない部分)まで、受けついでしま
う。影響を受けてしまう。

 その典型的な例が、「虐待」である。

●世代連鎖

 虐待は、世代連鎖しやすい。親が子どもを虐待すると、その子どももまた、親になったとき、
その子どもを虐待しやすい。それはよく知られた事実だが、その(子ども)に視点を置いて考え
てみると、興味深いことに気がつく。

 その子どもは、親から虐待を受けながら、心の中では、きっとこう思っているにちがいない。
「私は、こういう親だけにはならないぞ」と。意識しないまでも、内心では、親に、大きく反発して
いるにちがいない。

 つまりその子どもは、(虐待)されることについて、うらみ、のろっているはず。何よりも、そうし
た(虐待)を、恐れ、嫌っているはず。……こう簡単に決めつけてはいけないかもしれないが、
虐待されて、それを喜ぶ子どもはいない。

 が、その子どもが、親になったとたん、自分を超えた大きな力によって、今度は、自分で、自
分の子どもに、虐待を加えてしまう。

 その(虐待)に、ここでいう反面教師論をあてはめてみると、ピッタリとまではいかないが、反
面教師というのがどういうものかが、よく理解できる。

 虐待を受ける子どもにしてみれば、自分を虐待する親は、まさに反面教師ということになる。
が、その自分が、今度は、親になったとき、自分の親と同じことを繰りかえしてしまう。自分の
子どもに、虐待を加えてしまう。

●つっかい棒

 少し前に、私は、「つっかい棒」論を書いた。つっかい棒というのは、わかりやすく言えば、(自
分を支える気力)ということになる。

 たとえば目の前に、その反面教師がいたとする。その教師を見ながら、「私は、ああいう人間
だけにはなりたくない」と思ったとする。そして自分がその教師のようになることを、心の中で抵
抗する。

 その抵抗する力が、ここでいう(つっかい棒)ということになる。

 で、その(つっかい棒)がある間は、その人は、その人であることができる。しかしそのつっか
い棒は、それほど強靭(きょうじん)なものではない。とくに、その反面教師となっていた人が、
自分の前から消えたときには、そうである。同時に、そのつっかい棒も消える。

 自分を支える必要がないからである。が、ここで思わぬ弊害が現れる。

 そのつっかい棒がはずれたとたん、その反面教師としてきた人から受けた影響が、表に出て
きてしまう。たいていは、自分ではそれに気がつかない。気がつかないまま、「ああいう人間に
はなりたくない」と思った部分を、自分で再現してしまう。

 それが冒頭にあげた、Y君と犬の例であり、私と英語教師の例ということになる。虐待につい
ては、もう少し別の角度から考えなければならない面もあるが、おおまかに言えば、同じように
考えてよい。

●反面教師の限界

 つまり、これが反面教師の限界である。

 私たちは日々の生活をしながら、手本としたい人たちから、何かを学び、一方、手本としたく
ない人たちからも、何かを学ぶ。

 そのとき重要なことは、手本としたくない人たちを見たら、ただ批評や批判をするだけでは、
足りないということ。長くつきあえばつきあうほど、へたをすれば、その人の人格や人間性に、
染まってしまうということもある。「いやな人」「おかしな人」と思っていても、気がついてみると、
自分も、その人そっくりになっていた……というような経験は、ひょっとしたら、あなた自身にも、
1つや2つは、あるかもしれない。

 そこで反面教師と感ずる人と接するときには、いくつかの鉄則がある。

(1)批評、批判するだけでは、足りない

 その相手を、批評、批判することだけなら、だれにでもできる。しかしそれよりも重要なこと
は、自分の中に、それ以上の人格にせよ、人間性を、同時につくりあげていくこと。

 すこし話はそれるが、もう少し深刻な例では、こんなこともある。

 ある夫の妻が、あるカルト教団に入信してしまった。「修行」と称して、パートの仕事もやめ、
ほとんど毎日、その教団内部で過ごすようになった。それについて、夫は、あれこれ資料を集
め、妻にこう迫ったという。

 「お前が信仰している教団は、インチキ教団だ。わからないのか!」と。

 夫は、その教団を批判することによって、妻の信仰をやめさせようとした。が、妻は、それに
応じなかった。応じなかったばかりか、かえって夫婦の亀裂(きれつ)を大きくしてしまった。

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、こうした信者が生まれるのではない。カルト教団を
求める信者がいるから、カルト教団が生まれる。力をのばす。

 夫のした行為は、屋根にあがった妻に対して、ハシゴをはずすようなもの。そういうことをす
れば、かえって妻は、不安になるだけ。ますます信仰に埋没するようになる。

 そこで重要なことは、夫自身が、そのカルト教団にかわる、(心のより所)を用意すること、と
いうことになる。あるいはそのヒントを与える。「お前はまちがっている」と言うなら、それにかわ
る、何か別のものを用意しなければならない。

 そこでその夫は、それまでの自分のあり方を反省し……ということになったが、このつづき
は、また別のところで書くとして、同じように、反面教師を前にしたときには、「あなたはおかし
い」「あなたはまちがっている」と批判するだけでは、足りない。それにかわる、もっと大きな(自
分)を用意しなければならない。でないと、結局は、その反面教師そっくりの人間に、自分も、な
ってしまう。

(2)人を選ぶ

 いろいろな人と幅広く交際する……ということは、重要なこと、ということになっている。しかし
それにも、1つの原則がある。

 30代や40代の人には、まだひょっとしたらわからないかもしれない。しかし50代にもなる
と、自分にとって大切な人と、そうでない人の色分けが、ますますはっきりとしてくる。

 利益があるとか、ないとか、そういうことではない。学ぶべきものがある人かどうか、というこ
とである。中には、50代を過ぎて、ますます邪悪になっていく人もいる。そういう人と時間を共
にするというのは、まさに時間の無駄ということになる(?)。

 実は、この問題は、私にとっては、大きな問題だった。が、その結論を出してくれたのは、あ
るアメリカ人の青年が書いた、手記だった。その青年は、そのときHIVに感染し、エイズを発症
していた。余命は、1年と宣告されていた。

 その青年は、こう書いている。4年前に書いた原稿だが、それをそのまま、ここに転載する。

++++++++++++++++++

●人間関係

 エイズと戦っている1人の患者の手記を読んだ。10ページ足らずの英文の手記だった。アメ
リカに住む若い人が書いた手記なので、それほど内容的には深い文章ではなかった。が、そ
の中に、いくつか、はっと思うようなことが書いてあった。

たとえばエイズになって、だれが真の友で、だれがそうでないかがわかったとか、家族の大切
さが改めてわかったとか、など。が、その中でも、つぎのことを読んだときには、とくに強烈な印
象を受けた。こうあった。

「エイズが発病してからというもの、時間がたいへん貴重になった。意味のない人と、意味のな
い会話をすることが苦痛になった。そういう人とはすぐ別れる」と。

 私も50歳を過ぎてから、ときどき、同じように思うようになった。が、最初は、それは悪いこと
だと思った。だれとでもつきあい、だれとでも会話をする。それが大切で、人を、意味のある人
と、そうでない人に、区別をしてはいけない、と。

しかし本当の私は、別のほうに進み始めた。いつも心のどこかで、意味のある人と、そうでない
人を区別するようになってしまった。利益があるとか、ないとか、そういうことではない。が、そ
のことを思い知らされたのは、A氏(54歳)に出会ったときのことだ。

 ほぼ25年ぶりにA氏に会った。偶然、通りを歩いていて会った。で、会話がはずみ、一緒に
昼食でも食べようということになった。が、そのうち、会話がまったくかみあっていないことに、
私は気がついた。たがいに、どこか薄っぺらい会話で、つかみどころがない。

一通り家族や、仕事の話をしたのだが、それ以上に話が進まない。そこで聞くと、A氏はこう話
してくれた。

 「家での楽しみは、野球中継を見ること。休みは釣り。雨の日はパチンコ」と。「本や新聞は読
んでいるのか。インターネットはしているのか」と聞くと、「読んでいるのは、スポーツ新聞だけ。
インターネットはしていない」と。

A氏はA氏なりに自分の世界で、自分の仕事をしてきた。しかしその25年間で、そしてその仕
事を通して、A氏は何をつかんだというのか。

 だからといって、私が「何かをつかんだ人間」と言うつもりはない。おそらくA氏から見れば、
私はつまらない人間かもしれない。酒は飲まない。パチンコもしない。女遊びもしない。野球の
話すら、できない。そういう意味では人の心というのは、カガミのようなもの。私がA氏をつまら
ない人間と思っているなら、(決して「つまらない人」と思っているのではない。仮に、そう思った
とするならという話)、同じようにA氏も私をつまらない人間と思っているはず。

 が、私は正直に告白する。私はそのA氏と早く別れたかった。何かしら時間をムダにしている
ように感じだった。が、一方で、別の私がそれに抵抗した。「25年ぶりではないか」「友は大切
にしなければならない」と。が、それでも「ムダ」という思いが、心をふさいだ。私は懸命に、自分
にこう言って聞かせた。「お前は冷たい人間だ。ムダと思うのは、お前の冷酷さによるものだ」
と。

 しかし本当に私は冷たい人間なのか。「時間をムダにしている」と感ずることは、私が冷たい
からなのか。今でもそれはわからないが、私はあるがままに生きてみようと思う。ムダと思った
ら、ムダなのだ。そしてムダと思ったら、はやく別れればよい。……と考えていたところで、冒頭
の手記を読んだ。だから強烈な印象を受けた。

 その患者は、手記のあとがきによると、それから2年間の闘病生活のあと、なくなったという。
つまりその手記を書いたとき、自分の命がそれほど長くないことを知っていたはず。

私も50歳をすぎて、人生の終わりをそこに感ずるようになった。が、深刻さの度合いは、その
患者とくらべたら、はるかに低い。そういう患者が、「時間がたいへん貴重になった。意味のな
い人と、意味のない会話をすることが苦痛になった。そういう人とはすぐ別れる」と書いている。
その手記を読んだおかげで、私は私の生き方に自信をもったというか、「ああ、今のままでい
いのだ」と、思いなおすことができた。

 さて、私はこれから先、人間関係を整理する。たとえば今でも、表では、私の知人や友人のフ
リをしながら、うらで、敵対行為をしている人が、何人かいる。こうして書いたエッセーについて
も、いちいちアラを見つけては、「これはあの人のことだ」「ここに書いてあるのは、あんたのこ
とだ」と、告げ口をしている人がいる。私はそういう人でも、知人や友人ということで、今までは
つきあってきた。しかしもうやめる。

そういう人は、知人でも友人でもない。私はかつて一度だって、個人攻撃をするために、文を
利用したことなど、ない。それをしたら、私はおしまいとさえ思っている。いろいろな人のことは
書くが、それは別の目的で書いている。そんなことは、私のエッセーの全体を読んでもらえば、
すぐわかることではないか。

……と、少し話が脱線したが、このところ、「生きるとはどういうことか」と、またまたよく考えるよ
うになった。ムダが悪いわけではないが、私には今、ムダにできる時間など、どこにもない。そ
れだけは確かのように思う。
(02・9・14)

++++++++++++++++++

 要するに反面教師と思うような人とは、つきあわないということ。「反面教師」と、「教師」という
言葉を使うが、反面教師は決して、「教師」ではない。が、しかしそうはいかないばあいもある。

 職場での人間関係、さらには、親戚、さらには親子や兄弟関係など。こちらがつきあいたくな
くても、無数のしがらみに縛られて、それがままならないことがある。

 そういうときは、どうすればよいのか?

 実のところ、私にもよくわからないが、私のばあいは、「相手にしない」という方法で、対処して
いる。表面的な交際はしても、そこまで。それ以上、深入りはしないようにしている。

 さらに問題がこじれてきたようなときは、こうして文を書きながら、徹底的に、その人を自分の
中から消すようにしている。そういう形で、自分の心を守らないと、あっという間に、その人の心
が、私のほうに移動してきてしまう。今のところ、この方法は、私にととっては、うまく機能してい
るように思う。

 少し疲れてきたので、この話のつづきは、また別の機会に考えてみたい。なお内容的にボロ
ボロの原稿だが、後日、もう一度書き改めることを前提に、今は、このままにしておく。
(はやし浩司 反面教師論 反面教師 育児論 子育て論)





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【私論・自分のこと】

●ある読者からのメール

 一人のマガジン読者から、こんなメールが届いた。「乳がんです。進行しています。診断され
たあと、地獄のような数日を過ごしました」と。

 ショックだった。会ったことも、声を聞いたこともない人だったが、ショックだった。その日はた
またま休みだったが、そのため、遊びに行こうという気持ちが消えた。消えて、私は1日書斎に
座って、猛烈に原稿を書いた。

●55歳という節目

 私はもうすぐ55歳になる。昔で言えば、定年退職の年齢である。実際、近隣に住む人たちの
ほとんどは、その55歳で退職している。私はそういう人たちを若いときから見ているので、55
歳という年齢を、ひとつの節目のように考えてきた。だから……というわけではないが、何とな
く、私の人生がもうすぐ終わるような気がしてならない。この1年間、「あと1年」「あと半年」「あ
と数か月……」と思いながら、生きてきた。が、本当に来月、10月に、いよいよ私は、その55
歳になる。もちろん私には定年退職はない。引退もない。死ぬまで働くしかない。しかしその誕
生日が、私にとっては大きな節目になるような気がする。

●私は愚かな人間だった

 私は愚かだった。愚かな人間だった。若いころ、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。時間
というのが、かくも貴重なものだとは思ってもみなかった。その日、その日を、ただ楽しく過ごせ
ればよいと考えたこともある。今でこそ、偉そうに、多くの人の前に立ち、講演したりしている
が、もともと私はそんな器(うつわ)ではない。もしみなさんが、若いころの私を知ったら、おそら
くあきれて、私から去っていくだろう。そんな私が、大きく変わったのは、こんな事件があったか
らだ。

●母の一言で、どん底に!

 私はそのとき、幼稚園の講師をしていた。要するにモグリの講師だった。給料は2万円。大
卒の初任給が6〜7万円の時代だった。そこで私は園長に相談して、午後は自由にしてもらっ
た。自由にしてもらって、好き勝手なことをした。家庭教師、塾の講師、翻訳、通訳、貿易の代
行などなど。全体で、15〜20万円くらいは稼いでいただろうか。しかしそうして稼ぐ一方、郷里
から母がときどきやってきて、私から毎回、20万円単位で、お金をもって帰った。私は子どもと
して、それは当然のことと考えていた。が、そんなある夜。私はその母に電話をした。

 私は母にはずっと、幼稚園の講師をしている話は隠していた。今と違って、当時は、幼稚園
の教師でも、その社会的地位は、恐ろしく低かった。おかしな序列があって、大学の教授を頂
点に、その下に高校の教師、中学校の教師、そして小学校の教師と並んでいた。幼稚園の教
師など、番外だった。私はそのまた番外の講師だった。幼稚園の職員会議にも出させてもらえ
ないような身分だった。

 「すばらしい」と思って入った幼児教育の世界だったが、しばらく働いてみると、そうでないこと
がわかった。苦しかった。つらかった。そこで私は母だけは私をなぐさめてくれるだろうと思っ
て、母に電話をした。が、母の答は意外なものだった。私が「幼稚園で働いている」と告げる
と、母は、おおげさな泣き声をあげ、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア、誤ったア!」と、何度
も繰り返し言った。とたん、私は、どん底にたたきつけられた。最後の最後のところで私を支え
ていた、そのつっかい棒が、ガラガラと粉々になって飛び散っていくのを感じた。

●目が涙でうるんで……

 その夜、どうやって自分の部屋に帰ったか覚えていない。寒い冬の夜だったと思うが、カンカ
ンとカベにぶつかってこだまする自分の足音を聞きながら、「浩司、死んではだめだ。死んでは
だめだ」と、自分に言ってきかせて歩いた。

 部屋へ帰ると、つくりかけのプラモデルが、床に散乱していた。私はそのプラモデルをつくっ
て、気を紛らわそうとしたが、目が涙でうるんで、それができなかった。私は床に正座したまま、
何時間もそのまま時が流れるのを待った。いや、そのあとのことはよく覚えていない。一晩中
起きていたような気もするし、そのまま眠ってしまったような気もする。ただどういうわけか、あ
のプラモデルだけは、はっきりと脳裏に焼きついている。

●その夜を契機(けいき)に……

 振り返ってみると、その夜から、私は大きく変わったと思う。その夜をさかいに、タバコをやめ
た。酒もやめた。そして女遊びもやめた。もともとタバコや酒は好きではなかったから、「やめ
た」というほどのことではないかもしれない。しかしガールフレンドは、何人かいた。学生時代
に、大きな失恋を経験していたから、女性に対しては、どこかヤケッパチなところはあった。と
っかえ、ひっかえというほどではなかったかもしれないが、しかしそれに近い状態だった。1,2
度だけセックスをして別れた女性は、何人かいる。それにその夜以前の私は、小ずるい男だっ
た。もともと気が小さい人間なので、大きな悪(わる)はできなかったが、多少のごまかしをする
ことは、何でもなかった。平気だった。

 が、その夜を境に、私は自分でもおかしいと思うほど、クソまじめになった。どうして自分がそ
うなったかということはよくわからないが、事実、そうなった。私は、それ以後の自分について、
いくつか断言できることがある。

たとえば、人からお金やモノを借りたことはない。一度だけ10円を借りたことがあるが、それは
緊急の電話代がなかったからだ。もちろん借金など、したことがない。どんな支払いでも、1週
間以上、のばしたことはない。たとえ相手が月末でもよいと言っても、私は、その支払いを1週
間以内にすました。ゴミをそうでないところに、捨てたことはない。ツバを道路にはいたこともな
い。あるいはどこかで結果として、ひょっとしたらどこかで人をだましているかもしれないが、少
なくとも、意識にあるかぎり、人をだましたことはない。聞かれても黙っていることはあるが、ウ
ソをついたことはない。ただひたすら、まじめに、どこまでもまじめに生きるようになった。

●もっと早く自分を知るべきだった

 が、にもかかわらず、この後悔の念は、どこから生まれるのか。私はその夜を境に、自分が
大きく変わった。それはわかる。しかしその夜に、自分の中の自分がすべて清算されたわけで
はない。邪悪な醜い自分は、そのまま残った。今も残っている。かろうじてそういう自分が顔を
出さないのは、別の私が懸命にそれを抑えているからにほかならない。

しかしふと油断すると、それがすぐ顔を出す。そこで自分の過去を振り返ってみると、自分の中
のいやな自分というのは、子どものころから、その夜までにできたということがわかる。私はそ
れほど恵まれた環境で育っていない。戦後の混乱期ということもあった。その時代というのは、
まじめな人間が、どこかバカに見えるような時代だった。だから後悔する。私はもっと、はやい
時期に、自分の邪悪な醜い自分に気づくべきだった。

●猛烈に原稿を書いた

 私は頭の中で、懸命にその乳がんの女性のことを考えた。何という無力感。何という虚脱
感。それまでにもらったメールによると、上の子どもはまだ小学1年生だという。下の子ども
は、幼稚園児だという。子育てには心労はつきものだが、乳がんというのは、その心労の範囲
を超えている。「地獄のような……」という彼女の言い方に、すべてが集約されている。55歳に
なった私が、その人生の結末として、地獄を味わったとしても、それはそれとして納得できる。
仮に地獄だとしても、その地獄をつくったのは、私自身にほかならない。しかしそんな若い母親
が……!

 もっとも今は、医療も発達しているから、乳がんといっても、少しがんこな「できもの」程度のも
のかもしれない。深刻は深刻な病気だが、しかしそれほど深刻にならなくてもよいのかもしれな
い。私はそう思ったが、しかしその読者には、そういう安易なはげましをすることができなかっ
た。

今、私がなすべきことは、少しでもその深刻さを共有し、自分の苦しみとして分けもつことだ。だ
から私は遊びに行くのをやめた。やめて、一日中、書斎にこもって、猛烈に原稿を書いた。そう
することが、私にとって、その読者の気持ちを共有する、唯一の方法と思ったからだ。





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【希望論】

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希望があれば、生きていくことができる。
たとえ貧しくても、たとえ今は不幸でも……。

しかしその希望をなくしたら……。

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●近くのホームで……

 近くのグループ・ホームでヘルパーをしている女性から、こんな話を聞いた。「グループ・ホー
ム」というのは、ひとりでは生活できない老齢者たちが、グループになって共同生活をするとい
う施設をいう。個室をあてがわれ、三食つき。有料。

 1人の老人がいる。老人といっても、まだ70歳前。幼いころから、母親に虐待され、精神をゆ
がめている。その老人が、毎日、決まった時刻になると、帰りじたくを始めるという。小さなカバ
ンに、衣服や電気カミソリなどをつめ、服装を整えて、玄関に近い居間の椅子(いす)に座る。
そして毎日、同じセリフを言う。

 「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 じいちゃんというのは、その男性の祖父のことをいう。もう30年以上も前に他界し、この世に
はいない。そこでヘルパーが、「来るといいですね」「でも、今日も来ないかもね」と答えることに
しているという。
 
 不幸な男性である。母親に虐待され、精神は萎縮し、内閉した。そのままの状態で、つまり半
ば母親に監禁されたような状態で、70年近く、その母親と生活をともにした。

 2人、妹がいるが、1人は、東京に住んでいる。もう1人は、近くに住んでいるが、その母親の
めんどうをみている。「2人もめんどうをみれない」ということで、その男性をグループ・ホームに
入居させた。

 で、その男性は、日が暮れて、あたりが真っ暗になるまで、そのままの状態で、そこに座って
いるという。毎日のことなので、ヘルパーたちは、そのままにさせておくという。つまり、それが
その男性の希望ということになる。「いつか、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 人は、希望があれば、たとえ衣食住に不足があっても、生きていくことができる。しかしその
希望がなければ、生きていくことはできない。あのルーマニアの作家のゲオルギウは、こう書い
ている。

「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかって
いても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 ゲルニオウという人は、生涯のほとんどを、収容所や監獄で過ごした人である。

 もしその男性が、「じいちゃんが、もう来ない」ということを、本当に知ったとしたら、そのとき、
その男性は、最後に残された自分の希望を失うことになる。だからときどき、不用意な人が、
「あなたのじいちゃんは、死んでしまって、もうこの世にはいませんよ」と言っても、その男性は
それを信じない。

「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 その男性にやさしかったのは、祖父だけだったようだ。父親は、若くして、交通事故でなくなっ
ている。祖母もいたが、祖母は、家庭的な人とは、とても言えないような人だったようだ。毎日、
化粧ばかりしていたという。エプロンの上に、それが汚れるといけないからという理由で、もう一
枚、エプロンをかけるような人だったという。

で、その男性は、折につけ、「じいちゃんが、風呂で、体を洗ってくれた」「じいちゃんが、祭につ
れていってくれた」「じいちゃんが、ぜんざいを食べさせてくれた」と、そんなことを繰りかえし、繰
りかえし、口にした。

 かわいそうな男性だが、しかしその男性を不幸な男性と決めてかかってはいけない。その男
性は、まだ恵まれているほう。グループ・ホームといっても、毎月、11〜12万円前後の費用が
かかる。ほかに雑費や病気の治療代として、2〜5万円がかかる。そうした費用は、東京に住
んでいる妹夫婦が、負担している。

 その男性は、快適な老後生活を送っている。自由はないが、それは認知症という病気のせい
であって、だれのせいでもない。

 で、私はこの話を聞いて、こう思った。人は、どんなに年をとっても、またどんな境遇に置かれ
ても、希望を自らつくりながら生きていく。それがたとえかなわぬ希望であっても、その希望を
捨てることはできない。たとえ他人が、バカだアホだといっても、その希望を捨てることはできな
い。

 希望を捨てるということは、どんな人にとっても、死を意味する。たとえ体は生きていても、心
は死んでいることになる。その男性は、ひょっとしたら、祖父が死んで、もうこの世にいないこと
を、知っているのかもしれない。しかしそれを認めることはできない。認めたとき、その男性の
心は死ぬ。

 たぶん今日も、その男性は、その時刻になると、その場所で、来るはずもない(じいちゃん)を
待っているのだろう。そのさみしそうな姿が、私には、目に見える。
(はやし浩司 希望論 希望)


+++++++++++++++++++++++

ゲオルギウについて書いた原稿を、
いくつか、集めてみます。

+++++++++++++++++++++++

●春

 私のばあい、春は花粉症で始まり、花粉症で終わる。……以前は、そうだった。しかしこの八
年間、症状は、ほとんど消えた。最初の一週間だけ、つらい日がつづくが、それを過ぎると、花
粉症による症状が、消える。……消えるようになった。

 一時は、杉の木のない沖縄に移住を考えたほど。花粉症のつらさは、花粉症になったことの
ない人には、わからない。そう、何がつらいかといって、夜、安眠できないことほど、つらいこと
はない。短い期間ならともかくも、それが年によっては、二月のはじめから、五月になるまでつ
づく。そのうち、体のほうが参ってしまう。

 そういうわけで、以前は、春が嫌いだった。二月になると、気分まで憂うつになった。しかし今
は、違う。思う存分、春を楽しめるようになった。風のにおいや、土や木のにおい。それもわか
るようになった。ときどき以前の私を思い出しながら、わざと鼻の穴を大きくして、息を思いっき
り吸い込むことがある。どこか不安だが、くしゃみをすることもない。それを自分でたしかめな
がら、ほっとする。

 よく人生を季節にたとえる人がいる。青年時代が春なら、晩年時代は、冬というわけだ。この
たとえには、たしかに説得力がある。しかしふと立ち止まって考えてみると、どうもそうではない
ような気がする。

 どうして冬が晩年なのか。晩年が冬なのか。みながそう言うから、私もいつしかそう思うように
なったが、考えてみれば、これほど、おかしなたとえはない。人の一生は、八〇年。その八〇
年を、一年のサイクルにたとえるほうが、おかしい。もしこんなたとえが許されるなら、青年時代
は、沖縄、晩年時代は、北海道でもよい。あるいは青年時代は、富士山の三合目、晩年時代
は、九合目でもよい。

 さらに、だ。昔、オーストラリアの友人たちは、冬の寒い日にキャンプにでかけたりしていた。
今でこそ、冬でもキャンプをする人はふえたが、当時はそうではない。冬に冷房をかけるような
もの。私は、そんな違和感を覚えた。

 また同じ「冬」でも、オーストラリアでは、冬の間に牧草を育成する。乾燥した夏に備えるため
だ。まだある。砂漠の国や、赤道の国では、彼らが言うところの「涼しい夏」(日本でいう冬)の
ほうが、すばらしい季節ということになっている。そういうところに住む友人たちに、「ぼくの人生
は、冬だ」などと言おうものなら、反対に「すばらしいことだ」と言われてしまうかもしれない。

 が、日本では、春は若葉がふき出すから、青年時代ということになるのだが、何も、冬の間、
その木が死んでいるというわけではない。寒いから、休んでいるだけだ。……とまあ、そういう
言い方にこだわるのは、私が、晩年になりつつあるのを、認めたくないからだ。自分の人生
が、冬に象徴されるような、寒い人生になっているのを認めたくないからだ。

 しかし実際には、このところ、その晩年を認めることが、自分でも多くなった。若いときのよう
に、がむしゃらに働くということができなくなった。当然、収入は減り、その分、派手な生活が消
えた。世間にも相手にされなくなったし、活動範囲も狭くなった。それ以上に、「だからどうな
の?」という、迷いまかりが先に立つようになった。

 あとはこのまま、今までの人生を繰りかえしながら、やがて死を迎える……。「どう生きるか」
よりも、「どう死ぬか」を、考える。こう書くと、また「ジジ臭い」と言われそうだが、いまさら、「どう
生きるか」を考えるのも、正直言って、疲れた。さんざん考えてきたし、その結果、どうにもなら
なかった。「がんばれ」と自分にムチを打つこともあるが、この先、何をどうがんばったらよいの
か!

 本当なら、もう、すべてを投げ出し、どこか遠くへ行きたい。それが死ぬということなら、死ん
でもかまわない。そういう自分が、かろうじて自分でいられるのは、やはり家族がいるからだ。
今夜も、仕事の帰り道に、ワイフとこんな会話をした。

「もしこうして、ぼくを支えてくれるお前がいなかったら、ぼくは仕事などできないだろうね」
 「どうして?」
 「だって、仕事をしても、意味がないだろ……」
 「そんなこと、ないでしょ。みんなが、あなたを支えてくれるわ」
 「しかし、ぼくは疲れた。こんなこと、いつまでもしていても、同じことのような気がする」
 「同じって……?」
 「死ぬまで、同じことを繰りかえすなんて、ぼくにはできない」
 「同じじゃ、ないわ」
 「どうして?」
 「だって、五月には、二男が、セイジ(孫)をつれて、アメリカから帰ってくるのよ」
 「……」
 「新しい家族がふえるのよ。みんなで楽しく、旅行もできるじゃ、ない。今度は、そのセイジが
おとなになって、結婚するのよ。私は、ぜったい、その日まで生きているわ」

 セイジ……。と、考えたとたん、心の中が、ポーッと温かくなった。それは寒々とした冬景色の
中に、春の陽光がさしたような気分だった。

 「セイジを、日本の温泉に連れていってやろうか」
 「温泉なんて、喜ばないわ」
 「じゃあ、ディズニーランドに連れていってやろう」
 「まだ一歳になっていないのよ」
 「そうだな」と。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きていれ
ば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 私という人間には、単純なところがある。冬だと思えば、冬だと思ってしまう。しかしリンゴの
木を植えようと思えば、植える。そのつど、コロコロと考えが変わる。どこか一本、スジが通って
いない。あああ。

 どうであるにせよ、今は、春なのだ。それに乗じて、はしゃぐのも悪くない。おかげで、花粉症
も、ほとんど気にならなくなるほど、楽になった。今まで、春に憂うつになった分だけ、これから
は楽しむ。そう言えば、私の高校時代は、憂うつだった。今、その憂うつで失った部分を、取り
かえしてやろう。こんなところでグズグズしていても、始まらない。

 ようし、前に向かって、私は進むぞ! 今日から、また前に向かって、進むぞ! 負けるもの
か! 今は、春だ。人生の春だ! 
(03年03月07日)

【追記】「青春」という言葉に代表されるように、年齢と季節を重ねあわせるような言い方は、も
うしないぞ。そういう言葉が一方にあると、その言葉に生きザマそのものが、影響を受けてしま
う。人生に、春も、冬もない。元気よく生きている毎日が、春であり、夏なのだ!

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先の原稿を書いたら、読者の方から
メールをもらいました。SZさんという
方です。

それに対する返事が、つぎの原稿です。

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●SZさんへ、

今日、リンゴの木を植えることだ!

 このところ、反対に読者の方に励まされることが、多くなった。一生懸命、励ましているつもり
が、逆に私が励まされている? 今朝(三月一六日)も、SZさんから、そういうメールをもらっ
た。「先生は、リンゴの木を植えていますよ」と。三月一五日号のマガジンで、つぎのように書い
たことについて、だ。

「ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きていれ
ば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。」

 「二十五時」は、角川書店や筑摩書房から、文庫本で、翻訳出版されている。内容は、ヨハ
ン・モリッツという男の、収容所人生を書いたもの。あるときはユダヤ人として、強制収容所に。
またあるときは、ハンガリア人として、ルーマニア人キャンプに。また今度は、ドイツ人として、
ハンガリア人キャンプに送られる。そして最後は、ドイツの戦犯として、アメリカのキャンプに送
られる……。

 人間の尊厳というものが、たった一枚の紙切れで翻弄(ほんろう)される恐ろしさが、この本
のテーマになっている。それはまさに絶望の日々であった。が、その中で、モリッツは、「今日、
リンゴの木を植えることだ」と悟る。

 ゲオルギウは、こうも語っている。「いかなる不幸の中にも、幸福が潜んでいる。どこによいこ
とがあり、どこに悪いことがあるか、私たちはそれを知らないだけだ」(「第二のチャンス」)と。
たいへん参考になる。

 もっとも私が感じているような絶望感にせよ、閉塞(へいそく)感にせよ、ゲオルギウが感じた
であろう、絶望感や閉塞感とは、比較にならない。明日も、今日と同じようにやってくるだろう。
来年も、今年と同じようにやってくるだろう。そういう「私」と、明日さえわからなかったゲオルギ
ウとでは、不幸の内容そのものが、違う。程度が、違う。が、そのゲオルギウが、『どんなときで
も、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、
リンゴの木を植えることだ』と。

 私も、実はSZさんに励まされてはじめて、この言葉のもつ意味の重さが理解できた。「重さ」
というよりも、私自身の問題として、この言葉をとらえることができた。もちろんSZさんにそう励
まされたからといって、私には、リンゴの木を植えているという実感はない。ないが、「これから
も、最後の最後まで、前向きに生きよう」という意欲は生まれた。

SZさん、ありがとう! 近くそのハンガリーへ転勤でいかれるとか、どうかお体を大切に。ゲオ
ルギウ(Constantin Virgil Gheorgiu) は、ヨーロッパでは著名な作家ですから、また耳にされる
こともあると思います。「よろしく!」……と言うのもへんですが、私はそんなうような気持ちでい
ます。(ただし左翼作家ですから、少し、ご注意くださいね。)
(030316)


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もう1作、「希望論」について書いた原稿を
ここに添付します。

みなさん、元気で、がんばりましょう!

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【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

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 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

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ついでにもう1作……

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●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残
している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。
(はやし浩司 希望 希望論 孤独 孤独論 希望とは 生きる希望とは 絶望 絶望論 ゲオ
ルギウ はやし浩司 林檎の木 りんごの木 リンゴの木)



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●依存性の強い子ども

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 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、
相談があった。「何かにつけて、リズムが、ワ
ンテンポ遅く、心配である」と。転載の許可が
もらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親の
EAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相談
者の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の
母)の7人。

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学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までしてい
る。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければならないという
ことがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)人より遅くても、気にしな
い。(4)いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣のことおし
ゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作品は完成していた。と
いった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

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 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母との同
居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性について考
えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念のた
め。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとんどのば
あい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうものであるかさえ、
わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子としてしまう。だから「あ
なたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意する。
洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを脱がせ、服を
着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさしだしたり
する。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようとする。子
どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子どもも、
考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、無意識のうち
に、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親というの
は、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子どもの依存性
にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがおばあち
ゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖してい
る。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本の子育て
は、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなっている。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を迎える
ことすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変わってきた
が……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子どもの自立と
いうことになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になることはあっても、益に
なることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、これもむ
ずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、その関
係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらない。兄弟、
夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当然と考えるように
なる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そしてたがいがが、その前提
で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて書いた原
稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

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●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバ
ッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中
に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。
そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、
その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声
を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をし
ていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれる
ような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あ
るいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがい
になっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を
書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こ
ういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてです
か」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配
で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、
反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあ
と母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケース
は今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの
園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親
は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて
逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だ
った。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今で
も、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイ
プの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこ
の子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成
そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える
側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が
遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイ
プの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、
ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけ
で育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪
をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとり
では何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だ
ちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠
ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れな
いなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そし
てその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動
面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA
君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ
行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけ
で、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくな
る。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にして
いるかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されるこ
とになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずに
だが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分で
させるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるに
しても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえ
て言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳
から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子
どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、
社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくな
る。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それは
ちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。
同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがた
いへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにな
らない。これは子どもを育てるときの常識である。

++++++++++++++++

 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれることがあ
る。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特定の
人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるということではな
い。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞う子ども
もいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。あるいは年齢
とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親のありがたみを、こ
とさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えてよい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受けて
育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。しかしこれ
は子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。それだけに、扱
い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、別居という
ところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きるとしても、マ
イナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、親は親として、好き
勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その内容
は、つぎのように分けて考える。

(10)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(11)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(12)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(13)無責任(責任ある行動ができない。)
(14)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(15)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(16)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(17)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(18)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自己管理
能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、スム
ーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ムラ(邑)」
社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の技法
も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それでもい
い」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いたように、相互に依
存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心地のよい世界である。今
でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることがある。「これこそ、まさに日本人
が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉しあうと
いうのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できないほど、濃密な
人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもないわけ
ではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっきりしない。日
本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な合理主義にも、抵抗を
感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がかか
える、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」あるい
は、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観を根
底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のような若い女性
には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、よい
のではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもになってい
ます」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、解
決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されていく。そ
ういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を考えてい
く。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そのあとということ
になる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、子ども
どうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞いてみるの
も、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別の子どもであるこ
とが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしまいました。
あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、うれしいです。(あるい
は、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構です。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、(満腹
症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じの子どもをい
います。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼児期か
ら、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもありません。ひょ
っとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもしれません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えてみられ
ては、いかがでしょうか。

(6)いつも満足げで、おっとりとしている。
(7)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(8)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(9)ほかの子どもに、追従的。
(10)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなことはしな
い。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほうがよいかもし
れません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなりできあがってしまって
いると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が出てくる
ことが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。柔和だが、ハキ
がない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この時期の
鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育ってきます。
そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の状態を維持しな
がら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父母は、
旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。「うちの子
は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、しかし
メリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押しつけない
ことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、何かと思うよ
うにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や期待を一枚ずつ、
はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこれしようと
考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなりかねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、三番底
があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできるようになった
わね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだかまりや、不信感が
あれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、いつまでた
っても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛的に、
自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分があるのかもしれ
ません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)というようであれば、この
気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接しているようであ
れば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもっている
人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちです。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみしさに耐
えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、自立できない、
ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置いて、
これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。
(はやし浩司 子供の依存性 依存性の強い子供 甘えん坊 子どもの依存 親に依存する子
供 子供の自立 はやし浩司 子どもの自立 自立心 子供を自立させる)






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●依存性の強い子ども(2)

++++++++++++++++

千葉県のAさんより、
こんな相談が届いています。
掲載許可をいただいていますので、
この問題を少し考えてみます。

(Aさんへ……xxxxx@ybb.ne.jp
のメールアドレスがまちがっているためか、
何度も返信を試してみたのですが、
宛て先不明で送り返されて
きました。で、こうして楽天の
日記のほうに、返事を書いて
おきます。ご了解下さい。)

++++++++++++++++

【Aよりはやし浩司へ……】

はじめまして。3か月ほど前より、先生のホームページなどを愛読しています。
4歳6か月の長男について相談します。

長男は優しく思いやりがあり、弟のことも大好きで、大切にしてくれています。ウルトラマンが大
好きで、ウルトラマンみたいになりたいと、毎日戦いごっこや、習っている空手の練習をしてい
ます。

ここ3か月ほどで、少しずつたくましくなっているようです。

2歳ごろまで体が弱く、何回も入院しました。また、初めての育児だったので、私は神経質な心
配先行型の子育てをしていたように思います。

人見知りがひどかったのですが、人なつっこい子になりました。こだわりの強さも消えたように
思います。よい変化がみえますが、依然、とても依存心が強いのです。

この依存心の強さをこれから減らすことはできるでしょうか?
友達と遊ぶのは大好きですが、この年齢にもなったにもかかわらず、つるみたがります。「しつ
こいなあ」と思うこともしばしばです。

3つ子のたましい・・というのですが、先生が書かれていた移行期でもあります。何かよいアドバ
イスがあれば、教えていただきたくメールいたしました。

  ここ数か月先生のホームページなどを参考に、こどもへの対応を変えてきたところ、子ども
がよい方向へと変化してきました。どうもありがとうございます。育児とはやはり楽しいし、幸せ
だけど、むずかしくもありますね。(千葉県・A子、母親より)

【はやし浩司よりAさんへ……】

 多分に赤ちゃんがえりの症状が見られます。表面的な様子とは別に、心はいつも緊張状態
にあると考えて対処します。子どものばあい、(おとなもそうですが……)、嫉妬がからむと、心
はかなりゆがみます。

 赤ちゃんぽくなったりすることから、「赤ちゃんがえり」と言いますが、そのほか、攻撃的になっ
たり、服従的になったり、同情を買うようになったりします。依存性が強くなるのも、その1つで
す。(最近、ものの考え方が、破滅的になった子どもの例を知りました。)

 加えて、乳幼児期の、心配先行型の育児姿勢が、子どもに依存性をもたせてしまったのかも
しれません。手のかけすぎから、慢性的な過保護状態になったとも考えられます。

 しかしわざわざ相談のメールをくださったということから、Aさんには、お子さんの(依存性)
が、もっともよく目だつのかもしれません。で、もしそうなら、私は、やはり「赤ちゃんがえり」の、
一様態ではないかと思います。

 こういうケースのばあいは、いくつか鉄則があります。

(1)求めてきたときが与えどき

 子どもが何か、スキンシップのようなものを求めてきたら、すかさず、いとわず、さっと与える
ようにします。間をおくとよくありません。「あとでね……」とか、「今は、忙しいのよ……」などと
いうのも禁句です。さっと応じてあげます。ぐいと抱くだけでも効果的です。たいてい1〜2分
で、子どもは満足して、親から体をはずそうとします。コツは、子どもに安心感を与えるようにす
ることです。

 あまりひどいようであれば、下の子には悪いですが、もう一度、100%の愛情を、上の子に
向けます。

(2)スキンシップを濃厚に

 機会を見つけて、スキンシップを濃厚に与えます。ベタベタなスキンシップがよいわけではあ
りません。ぐいと力強く抱くとか、そういうことでよいのです。ポイント的に与えるのが、コツで
す。もし赤ちゃんがえりによる依存性なら、「なおす」ということは考えず、「時期を待つ」という方
法に切りかえるほうが、無難です。時期がくれば、自然と消えていくからです。ここで無理をす
ると、かえって症状をこじらせてしまいます。情緒を不安定にしたり、精神そのものをゆがめる
こともあります。赤ちゃんがえりを、決して、軽く考えてはいけません。

(3)食生活を調整する

 「情緒が不安定かな?」と感じたら、CA、MG、Kの多い食生活に切りかえます。わかりやすく
言えば、海産物を中心とした献立に切りかえます。白砂糖の多い、甘い食品や、リン酸が含ま
れた食品は、避けます。

 Aさんが、「しつこいなあ」と言われるほどですから、かなりしつこいのだろうと思いますが、し
かし決して短気を起こしてはいけません。お子さんはお子さんなりに、安心感を求めるために、
そういう行動に出ているのです。が、Aさんの微妙な心を、敏感に読み取って、心のどこかで不
安感を覚えているのです。

 ですから対処のし方をまちがえると、症状はこじれ、思わぬほうに、ことが進んでしまうかもし
れません。なお、「弟が大好きで……」という部分が気になります。そんなはずは、ないからで
す。心理学の世界にも、「反動形成」という言葉があります。少しだけ、注意して観察してみてく
ださい。ひょっとしたら、お子さんは、無意識のうちにも、仮面をかぶっているのかもしれませ
ん。

 反動形成についての原稿を、添付しておきます。

++++++++++++++++

【反動感情】

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。

心理学の世界には、「反動形成」という言葉がある。反動形成というのは、自分の心を抑圧す
ると、その反動から、正反対の自分を演ずるようになることをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうのが、それ。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。たとえば
牧師や教師など。ほかに、たとえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをす
るのも、それ。よく知られた例としては、上の子どもが、下の子どもに対して、思いやりのある、
やさしい兄(姉)を演ずるのがある。その反動形成に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(三四歳女性、当時)に会ったのは、私が四〇歳くらいのことだった。もともとは奈
良県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を
感じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘
を愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき
六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)という。が、離婚は
しなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もた
れつの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反動感情」である。
このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうとする。わかりやすく言え
ば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好きになることで、不快感を克服し
ようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。自分という「主
体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き(affection)」という状態を
つくるが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意でしかない。若い男女が、電
撃的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や社会
は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、「ストックホ
ルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になったような人が、そのテ
ロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意をいだくようになり、そのテロリ
ストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(四〇歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになった
ときのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でし
ょ?」と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦
に見えた。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないので
すか?」と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(四五歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらし
なかった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前
では、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副
会長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反
動感情で作られた愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたと
したら、ということだが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良
好な関係にあるフリをしているだけかもしれない。本当はあなたといっしょに、いたくない。いた
くないが、し方がないから、いっしょにいるだけ、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思
っているなら、その可能性は、ぐんと高くなる。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(一九七三年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人た
ちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質と
なった女性は、犯人と結婚までしたという。

※イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小二男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。そ
の子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われた
ら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につく
ることで、自分の心を防衛したと考えられる。
(はやし浩司 反動形成 子どもの心理)





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●帰宅拒否

+++++++++++++

W県に住む母親から、子どもの帰宅拒否
についての相談があった。

それについて考えているとき、私は、自分の
子ども時代を思い浮かべた。

私自身も、その帰宅拒否児だった。

++++++++++++++

 私自身が帰宅拒否児だったという認識は、当時の私には、なかった。そんな言葉すらなかっ
た。そういう子どもがいたとしても、親や教師は、「子どもだから、家に帰りたがるはず」「家が
いちばん、いいはず」という、安易な『ダカラ論』や『ハズ論』だけで、簡単に片づけていたと思
う。

 しかし今から思うと、私は、その帰宅拒否児だった。小学生のころも、一日とて、家にまっすぐ
帰ったことはなかった。回り道をして帰るのが日課になっていた。学校のそばにある城山公園
や、長良川、神社や寺などなど。幸いにと言うべきか、私が生まれ育ったM町は、昔からの和
紙の生産地で、そういう意味では、小さいが、変化に富んだ町だった。

 父も母も、そういう私を多分知りながら、放任してくれた。家に帰ってからも、毎晩、真っ暗に
なるまで、外で遊んだ。今となってみれば、悪いことばかりではなかったということになるが、だ
からといって、そういう環境を肯定してもらっては困る。私にかぎらず、子どもにとって、家庭の
中に居場所がないというのは、決して好ましい環境ではない。さまざまな心の後遺症を残す。

 で、この状態は、夏休みや冬休みになっても同じで、こうした休みになると、決まって、私は、
母の実家のある田舎へ行った。私にしてみれば、そちらのほうが故郷のようなものだった。思
い出の数は、母の実家でのほうが、はるかに多い。

 私の家には、私の居場所はなかった。「家」といっても、私の部屋すらなかった。町中の自転
車屋で、2階にある8畳間だけが、私たち兄弟3人の、寝床ということになっていた。学校の宿
題などは、その部屋の隅(すみ)に置かれた座卓の前でした。

 世の中には、さまざまな人がいる。故郷の自分の家に、たまらないほどの愛着を覚えている
人も多いだろう。しかし私は、自分のあの家が嫌いだった。今でこそ、「プライバシー」とか、「子
どもの人権」とかいう言葉があるが、それさえなかった。まったく、なかった。少なくとも私の親
たちには、貧しかったこともあるが、その知識すらなかった。

 ゆいいつ私が座って……という場所は、テレビの置いてある小さな部屋だった。が、その部
屋にしても、障子戸を隔てて、すぐ横が、店のある表から、台所やトイレのある裏へとつながっ
ている通路になっていた。家族や客が、いつもその通路を、歩いていた。

 こうして私は、今でいう、帰宅拒否児になっていったのだと思う。……といっても、それに気づ
いたのは、ごく最近になってからのことである。私にとっては、あの時代のあの生活が、いわゆ
るスタンダードで、そのため、私は自分では、ごくふつうの子どもだったと思っていた。ごくふつ
うの生活を送っていたと思っていた。

 しかし私はやはり、帰宅拒否児だった。いろいろな事実を総合してみると、どうやらそういうこ
とになる。というのも、帰宅拒否というのは、意識的な行為というよりは、無意識に近い状態で
繰りかえす行為だからである。しかも、自分という人間を、遠いところに視点を置き、客観的に
見てはじめて、それがわかる。

 で、さらに、こんなこともある。

 こうした帰宅拒否的な傾向は、子ども時代だけでは、終わらないということ。58歳になった、
今も残っている。何かいやなことがあると、自分の家でありながら、私は、その家からすぐ飛び
出したくなる。反対に、家に帰りたくなくなる。これは私のトラウマのようなものかもしれない。

 そういう状態になったとき、心のどこかで、自分の心が、子ども時代の私の心と、同調するの
がわかる。「思い出す」とか「再現」するとか、そういうことではない。それは実にあいまいな意
識である。モヤモヤとした意識というべきか。無意識に近い状態で、本屋へ寄ったり、いろいろ
な店に寄ったりして、時間をつぶす。

 が、それが楽しいわけではない。もっと言えば、本屋へ行きたいから本屋へ行くのではない。
いろいろな店に寄るのも、そうだ。

 そして結果として、帰宅時間が、ぐんと遅くなる。つまりそういう自分を見ながら、「私は、子ど
ものころ帰宅拒否児だった」ということを知る。が、悪いことばかりではない。

 私はそういう自分を知っているからこそ、自分の3人の息子たちには、そういう思いをさせな
かった。家を建てましするときも、まず最初に考えたのが、子ども部屋だった。自分がいやな思
いをした分だけ、息子たちには、そういう思いをさせたくなかった。それに今、そういう自分を知
っているからこそ、帰宅拒否児と呼ばれる子どもの心理状態が、たいへんよくわかる。

 そう、今でも、帰宅拒否児は、いくらでもいる。幼稚園や学校から、家に向かって帰りたがら
ない子どもたちである。幼稚園児だと、帰りの時刻になると、幼稚園の園舎のどこかに隠れて
しまう。逃げてしまう。グズグズし始める。小学生だと、寄り道が多くなったりする。無意味な道
草を食うこともある。

 親はそういう子どもを叱ったりするが、しかしどうして叱るのか? 叱ることができるのか?

 帰宅拒否というのは、そういう問題である。いくつかの原稿を添付する。

+++++++++++++++

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。「幼稚園で帰る時刻になると、うちの
子は、どこかへ行ってしまうのです。それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにき
てほしいと。どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。そこで皆でさがすのですが、お
かげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。

私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、
家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。幼児の
ばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれて、当
然、家庭の役割も変わってくる。また変わらねばならない。子どもは外の世界で疲れた心や、
キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければな
らない。が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。「子どもが外
の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』というのがある。つまり人というの
は、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるとい
うことを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡
単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関
係にある。しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこか
へ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。もう少
しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。毎日のように寄り道や回り道をしてくる。あるいは外出や外泊が多いということであれ
ば、この帰宅拒否を疑ってみる。

家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなこと
を避けるための行動をする。帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という
思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子ども
が明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということ
になる。
(はやし浩司 帰宅拒否 帰宅拒否児 道草 回り道 子供の道草)






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【赤ちゃん返り】

+++++++++++++++

赤ちゃん返りを決して、安易に
考えてはいけない。

赤ちゃん返りは、子どもの心を
本能的な部分で、ゆがめる。

あるいは、さまざまな情緒障害の
引き金を引くきっかけともなる。

+++++++++++++++

●ゆがんだ心

 赤ちゃん返りと呼ばれる、よく知られた現象が、子どもの世界には、ある。ところが、である。
いろいろな心理学の本を見ても、この「赤ちゃん返り」について書いた本が、ほとんどない。(私
は読んだことがない。)

 これほどまでに重要な現象について、それについて書いた本がないというのは、どういうこと
か。だいたいにおいて、文字すら、定まっていない。「赤ちゃん返り」なのか、それとも「赤ちゃん
帰り」なのか。

 私は、一度、子どもが大きくなって、また赤ちゃんの心理状態に戻るという意味で、「返り」と
いう文字を使っている。「返り咲き」の「返り」である。が、中には、「返り咲き」を、「帰り咲き」と
書く人もいる。

 となると、「赤ちゃん還り」でも、「赤ちゃん回り」でもよいことになる。しかし私はやはり、「赤ち
ゃん返り」が正しいと思う。現象的に考えると、そうなる。

 その赤ちゃん返りについて、昨日、「なおりますか?」と聞いてきた母親がいた。しかしこうし
た、つまり一度ゆがんだ心は、なおらない。そのまま一生、つづく。ただ、表面的には、わから
なくなる。そこで私は、「もぐる」という言葉を使う。

 こういう例が、ある。

●もぐる子どもの心

 下の子どもが生まれたことで、情緒が不安定になってしまった女の子(年中児)がいた。心の
緊張感が、取れなくなってしまった状態と考えるほうが正しい。このタイプの子どもの心は、い
つもある種の緊張状態にある。親に対して絶対的な安心感を覚えることができない。そのた
め、心が休まることがない。そこへ心配ごとや不安ごとが入ると、それを解消しようと、一気に
情緒が不安定になる。

 で、その女の子のばあい、たとえば幼稚園へ出かけるとき、あるいは、おけいこ塾へでかけ
るとき、決まってぐずったり、泣いたりした。が、一度、出かけてしまえば、ケロッとして、あとは
何ごともなかったかのようにすませてしまう。

 そういう姿を見て、その母親も、「二重人格者みたいです。なおるでしょうか?」と。

 そこでその女の子の幼稚園での様子を見ると、ごくふつうの、何も問題のない子どもに見え
た。その女の子が、家庭で、赤ちゃん返りを起こしているなどということは、幼稚園の保育士に
も、わからないだろう。

 が、この段階で、だれも、その女の子の赤ちゃん返りが(なおった)とは、思わない。その女の
子のもう1つの心は、別のところにある。あって、顔を出さないだけである。だから、(もぐる)と
いう言葉を、私は使う。

 こうした例は、多い。たとえば、いじけやすい子ども、くじけやすい子ども、ひがみやすい子ど
も、ねたみやすい子ども、すねやすい子どもなどがいる。そういう子どもでも、環境さえそうでな
ければ、そういった症状は出てこない。時と場合に応じて、そういった症状が外に出てくる。

●程度と症状はさまざま

 赤ちゃん返りも同じように考える。もっとも、その症状には、個人差と、程度の差がある。さら
に症状も、(1)ネチネチと赤ちゃんぽくなる退行型、(2)下の子に攻撃的になる攻撃型、(3)服
従的になる服従型、(4)ベタベタと甘えたりする依存型、(5)ものの考え方が破滅的になる破
滅型などに分類される。

 また同じ赤ちゃんぽくなる退行型にしても、しぐさや動作、ものの言い方まで赤ちゃんぽくなる
子どももいれば、ただその時々において、グズグズするだけの子どももいる。またいろいろなタ
イプが複合することも珍しくない。退行型に依存型が加わるケースは、よく観察される。だから
どの程度から赤ちゃん返りといい、またいわないかという判断は、むずかしい。

 さらにこの赤ちゃん返りが、そののち、さまざまな情緒障害(自閉傾向、かん黙症など)の引
き金を引くことになることもある。下の子が生まれたあと、心(情意)と表情が、遊離してしまっ
た子ども(年中・女児)もいた。その母親は、「外見からは、何を考えているか、さっぱりわかり
ません」と心配していた。何があっても、いつもニタニタというか、ニヤニヤと、意味のわからな
い笑みを浮かべていたからである。

 原因は、本能的な嫉妬心である。

●本能に根ざした嫉妬心

 ここで「本能的」というのは、本人には意識できない、さらに奥深いところで起こる現象という
意味である。だからそういう子どもを叱ったり、説教しても、意味がない。たとえば生後まもない
赤ちゃんは、エンゼル・スマイルに代表されるように、(かわいさ)を親にアピールすることによ
って、自分の生存をはかろうとする。

 つまりそれは赤ちゃんの意識的な行為というよりは、遺伝子そのものに組みこまれた。本能
的な行為と考えるとわかりやすい。もしこの段階で、親から見捨てられたら、子どもは生きてい
くことができない。つまり、人類は、とっくの昔に絶滅していたことになる。

 親から見て、かわいいから、親は子育てをする。そうでなければそうでない。

 下の子に、親の愛情を奪われたという危機感をいだいた子どもは、その(かわいさ)を、再現
することによって、もう一度、親の愛情を、すべて自分に取りもどそうとする。それが赤ちゃん返
りである。

 そのことは、赤ちゃん返りを起こしている子どもを見れば、わかる。

●NSさんのケース

 印象に残っている女の子に、NSさん(当時、年長児)がいた。そのNSさんは、教室でも、片
時も、母親から離れようとしなかった。母親のそばにいて、体をクネクネとくねらせながら、ネチ
ネチと甘えていた。

 「ウママア(ママ)、オウチイエ(おうちへ)、カイエリタイ〜(帰りたい)」と。

 それを見て母親はNSさんを強く叱ったりしたのだが、叱れば叱るほど、逆効果。NSさんの
症状は、ますますひどくなっていった。「おもらしは、毎晩のようにします」「月に、1、2度は、原
因不明の熱を出します」と、母親は言った。

 意識の世界で、自分の体温をコントロールすることはできない。だから私は、本能に近い、無
意識の世界によって、彼女はコントロールされていると判断した。ここで「本能的」というのは、
そういう意味である。

 そのため対処のし方も、症状の内容と程度に応じて、ちがう。症状が軽ければ、そのまま一
過性のものとして終わる。しかし重ければ、もう一度、100%の愛情を上の子に注ぎなおすと
ころから始める。親は、「上の子も下の子も平等です」と言うが、その「平等」が、上の子には、
不満なのだ。

 あとは1年単位で、様子をみる。この問題には、本能的な嫉妬心がからんでいるだけに、容
易には、なおらない。指導する側からすると、赤ちゃん返りを決して、安易に考えてはいけない
ということになる。

●なおそうと思わないこと

 さて、冒頭で相談してきた母親だが、「なおりますか?」と聞いた。私は、「なおらない」と答え
た。「なおそうと思わないことです」とも。しかしここで2つのことが言える。

 1つは、もぐったまま、そのままわからなくなってしまうということはある。とくに赤ちゃん返り
は、その時期特有の症状であり、その子どもが年齢的に成長し、自分を包む世界が変わってく
れば、下の子をそれほど意識しなくなる。そのため赤ちゃん返りという、あの特有の症状は、外
からはわからなくなる。

 もう1つは、こうした(心のゆがみ)は、別の形に姿を変えやすいということ。たとえばよく「上
の子どもは、下の子どもにくらべてケチ」と言われる。生活態度が、防衛的になるために、そう
なると考えるとわかりやすい。

 さらに上の子は、いじけやすくなったり、くじけやすくなったり、ひがみやすくなったり、ねたみ
やすくなったり、すねやすくなったりすることはある。そういう(心のゆがみ)に変化することはあ
る。

 ただここで誤解してはいけないのは、こうした(心のゆがみ)というのは、だれにでもあるとい
うこと。多かれ少なかれ、だれでにでも、ある。私も、あなたも、だ。だからそういう(ゆがみ)が
あるからといって、大げさに考えてはいけない。そういう(ゆがみ)を克服しながら生きていくの
が、人間ということにもなる。

 が、本来なら、そうならないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始めるのがよ
い。「ある日、突然、下の子が生まれた」というような状況をつくると、まずい。それがわからな
ければ、あなたの夫が、ある日突然、愛人を家の中に招き入れたようなケースを想像してみれ
ばよい。

 あなたは、果たして平静でいられるだろうか。あるいは夫が、「お前は愛人と、平等にかわい
がってやっている」と言っても、あなたはそれに納得するだろうか。下の子が生まれたときの、
上の子の心理は、それに近い。

 こうして考えていくと、もうおわかりかと思うが、「嫉妬」には、悪魔的な力がある。赤ちゃん返
りがこじれて攻撃的になると、上の子は、下の子を、殺す、あるいは殺す寸前までのことをす
る。それほどまでに、上の子の心をゆがめることもある。

 重ねて言うが、赤ちゃん返りを、決して安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 赤ちゃん返り 赤ちゃん帰り 赤ちゃんがえり)







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●幼児の知的能力

+++++++++++++++++++++

4、5歳児の知的能力は、明らかに段階的に
発達する。

それを最初に構造化したのは、ピアジェ(ス
イスの心理学者)だが、それをもう少し、現
場の指導にあてはめて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

 ピアジェ(1896〜)は、4、5、6歳児について、つぎのように発達段階を分けている。

【4歳児】

 自分の性別を言う。
 見慣れた物事の名前を言う。
 3数字の反唱ができる。
 2本の直線の比較ができる。

【5歳児】

 2つのおもりの比較。
 見慣れた事物の名前を言う。
 文章の反唱(10音節)ができる。
 4つの硬貨の数え方ができる。
 2片によるはめ絵遊びができる。
 
【6歳児】

 文章の反唱(16音節分)ができる。
 2つの顔の美の比較ができる。
 身近な事物の用途による定義ができる。
 同時になされた3つの命令の実行ができる。
 自分の年齢を言う。
 午前と午後の区別ができる。
(以上、「心理学用語辞典」(かんき出版)より)

 全体としてみると、現代の子どもたちは、ピアジェの時代の子どもたちより、早熟的に発達段
階が、それぞれ早まっている。たとえば6歳児(幼稚園年長児)をみても、50年前には、文字
(ひらがな)の読み書きができた子どもは、5%前後※だったが、現在では、夏休み前の段階
で、約80%の子ども(私の調査では78%)が、ほぼ自由に、読み書きできるようになってい
る。

 (※私が幼稚園児のとき、1クラス40人前後の中で、文字の読み書きができる子どもは、2
人しかしなかった。それを根拠に、ここで5%とした。)

 こうしたピアジェの発達段階を、具体的に、指導要領としてまとめてみると、つぎのようにな
る。

【時的判断能力】

○昨日、明日が理解できるようになる……4歳児
○あさって、おとといが、理解できるようになる……5歳児
○今日が水曜日のとき、明日が木曜日、昨日が火曜日と、曜日を結びつけることができるよう
になる……6歳児

【空間的能力】

○平面上に描かれた地図を、地図として認識できるようになる……4歳児
○地図を見ながら、Aの家から一番遠い家、近い家が判断できるようになる……5歳児
○自分の家のまわりの、簡単な地図を描くことができるようになる……6歳児

【善悪の判断】

○マッチ遊びや、カッター遊びが悪いことだと理解できる……4歳児
○拾ったお金を使うことが悪いことだと、理解できる……5歳児
○ときとばあいによっては、親の禁止命令を破ることも許されるということが理解できるように
なる……6歳児

4歳児は、親や教師の命令に忠実な年齢ということになる。5、6歳児になると、たとえば、社会
的にどうなのかという判断が、入り込むようになる。「拾ったお金で、アイスを買って、公園でみ
んなに分けてあげました。いい子ですか、悪い子ですか」と聞くと、4歳児の大半は、「いい子」
と答える。が、5歳児となると、それが半々くらいになり、6歳児になると、ほぼ全員が「悪い子」
と答える。

【家族関係】

○家族の構成を理解できる。(父親、母親、兄、弟の区別)……4歳児
○父親の父親が、祖父という、2世代のつながりが理解できる……5歳児
○「妹の兄は、自分のこと」「父親の兄が、おじさん」が理解できる……6歳児

【位置関係】

○「右」「左」の感覚が、理解できる……4歳児
○「右の上」「右から3番目」が理解できる……5歳児
○「右から3列目の、上から2段目」が、指導によって理解できる……6歳児

【反復数字】

 まず指導者が、手をたたきながら、「6、3、8」と数字を唱え、それを子どもたちに復唱させ
る。

○4、5数字まで、即座に反復できる……4歳児
○5、6数字まで、即座に反復できる……5歳児
○7数字まで、即座に反復できる(ただし個人差あり)……6歳児

【計数能力】

○30までのものなら、数えることができる……4歳児
○100までのものなら、数えることができる……5歳児
○100を超えて、ものを数えることができる……6歳児

【季節感覚】

○春→夏→秋→冬の変化を理解できる……4歳児
○夏の行事、冬の行事の区別、判断ができる。「夏の果物」「秋の果物」が理解できる……5歳

○月ごとの行事が理解できる……6歳児

【金銭感覚】

○「10円と10円で20円」が理解できる……4歳児
○「30円と5円で、35円が理解できる」……5歳児
○「おつり」「お金が足りない」「あまる」が、理解できる……6歳児

5、6歳から小学2年生ごろまでに、おとながもっているような金銭感覚が、ほぼ完成する。「損
をした」「得をした」という感覚も、このころ、急速に発達する。

なお私のBW教室では、こうした学習を、44のテーマに分け、毎回ちがった角度から、学習、
レッスンをしている。
(はやし浩司 幼児の能力 幼児の学習 幼児の発達段階 知的能力の発達)





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【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

++++++++++++++++

人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

++++++++++++++++

 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいということでは
ない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくらでもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年生ごろになる
と、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成が遅れ、乳幼児期
の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)独特の幼児ぽい動作や言動。
(2)無責任で無秩序な行動や言動。
(3)しまりのない生活態度。
(4)自己管理能力の欠落。
(5)現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、できない。
自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしまう。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と過関
心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人格の核
形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ども」とい
う(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、YES・NOがは
っきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲気に流されて、周囲に迎
合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1)まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2)親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3)『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から
いくつかを選んで、ここに
添付します。

内容が少し脱線する部分があるかも
しれませんが、お許し下さい。

++++++++++++++++++

(1)【子どもの人格を認める】

●ストーカーする母親

 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居することに
なった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していたのが、娘の
実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも……」と考えていた
が、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家庭騒動
の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、珍しくない。し
かしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断りたいほど、本当にあっ
た話である。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)による
復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当たった!」
「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた人生を返せ!」と。
それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、はやく死んでしまえ!」
「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろってやる!」「親を不幸にした
ものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではない。

どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけで、○
○レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっているあんたを
見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、あれ、私が買ってあげ
たものよ。わかっているの!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が悪くな
ると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、フラフラする
わ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえるのに」「もう、長いこと
会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしくないわよ」「明日あたり、私の
通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

●自分勝手な愛

 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここでいう
代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛をいう。た
いていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、子どもを
利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのため、子ども
を、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろいろな例がある。

 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。息子は、
横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んでいることを、Aさ
んは、「取られた」というのだ。

 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンしてしまった。
断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原因ははげしい受験
勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男にも、受験期を迎えたが、
同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになったから、あんたはがんばるの
よ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟二人は、夫の実家に身を寄せ、そこ
から、ときどき学校に通っている。

 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息子から預
かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議すると、Cさんはこう
言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」と。Cさんは、息子
を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう話した。

「何かあるたびに、私のところへきては、10〜30万円単位のお金をもって帰りました。私の長
男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もって帰ったほどです。
いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今にいたるまで、1円も返してく
れません」と。

 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、Dさんは、長
男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてしまった。Dさんはいつ
も、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされる」と。たいした財産があっ
たわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけである。

 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子だから…
…」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカラ論は、ものの本
質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめることになる。「実家の
親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならないと思うだけで、気が重くなる」
などと訴える男性や女性はいくらでもいる。

さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返している家庭となる
と、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺してやる!」「お前らの前
で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅すら、いる。

 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫は学歴が
なくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とかいい大学へ入っ
てもらいたいです」と。

●子どもの依存性

 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人です
ら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した人だと、過去
の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。何に依存する
かはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子どもの依存性をみ
ているとわかる。

 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残っている子
どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の前でただ立っ
ているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」という意味そのもの
がわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、しまうように指示したのだが、
そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、そうすれば、家族のみながD君を助け
てくれるのだろう。

 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の汗。そう
いうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、D君がうまく片
づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、その日にかぎっ
て、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、教室へ飛び込んでき
て、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。

 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいことに気づく。
D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。そういうD君で
も、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、「うちの子は、生まれつ
きそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そこでさらに観察してみると、親自身
が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身の生き方の基本になっていることがわか
る。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、相互的なものだ、と。こういうことだ。

 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子どもの
依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそういう相互作用
が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題にしても、意味がな
い。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考えてよい。

……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それはそうで、こ
うした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の奥にもぐる。外から
は見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでいることが多い。しかしやが
て老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親たちに共通するのは、結局は、「自立
できない親」ということになる。

●子どもに依存する親たち

 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓着
すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本では、親にベタ
ベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を
親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐阜県の地方には、まだそう
いう風習が強く残っていた。今も残っている。

親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベタの親
子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価し、子どもは子
どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれかが親の悪口を言おうも
のなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを許さない。「親の悪口を言う人
は許さない!」と。

 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子どもの関係
ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するために、親を必要以
上に美化するので、それがわかる。

 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがも
つ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗っていて発見し
た。

●ロープウェイの中で

 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイに乗っ
た。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、五歳くらいの
男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは背中合わせに、会
話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに聞こえてきたのだ。)
その女性は、男の子にこう言っていた。

 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイチイモノ
(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言うこと聞いてくれ
たら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。
 
 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はその会話
を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいがっているように
見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつかいというか、もっと言
えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思いをさせるのが、祖母としての
努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすることで、祖母と孫の絆(きずな)も太くなる
と、錯覚しているようなフシがあった。

 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマスにせ
よ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考えている人は多
い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人は多い。しかし安
易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的に子どもの心をつか
むことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。

●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け

 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた子
どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつぎつぎとあ
なたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なことだが、それがい
つか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そしてそれまでにつく
りあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイクぐらい、買ってよこせ!」
「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメなの!」と。

 イギリスには、『子どもには釣竿を買ってあげるより、子どもと一緒に、魚釣りに行け』という
格言がある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、よい思い出を一緒
につくれという意味だが、少なくとも、子どもの心は、モノやお金では釣れない。それはさてお
き、その六〇歳の女性がしたことは、まさに、子どもを子どもあつかいすることにより、子どもを
釣ることだった。

 しかし問題はこのことではなく、なぜ日本人はこうした子育て観をもっているかということ。ま
た周囲の人たちも、「ほほえましい光景」と、なぜそれを容認してしまうかということ。ここの日本
型子育ての大きな問題が隠されている。

 それが、私がここでいう、「長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習性
(?)とからんでいる」ということになる。つまりこの日本では、江戸時代の昔から、あるいはそ
れ以前から、『女、子ども』という言い方をして、女性と子どもを、人間社会から切り離してき
た。私が子どものときですら、そうだった。

NHKの大河ドラマの『利家とまつ』あたりを見ていると、江戸時代でも結構女性の地位は高か
ったのだと思う人がいるかもしれないが、江戸時代には、女性が男性の仕事に口を出すなどと
いうことは、ありえなかった。とくに武家社会ではそうで、生活空間そのものが分離されていた。
日本はそういう時代を、何100年間も経験し、さらに不幸なことに、そういう時代を清算するこ
ともなく、現代にまで引きずっている。まさに『利家とまつ』がそのひとつ。いまだに封建時代の
圧制暴君たちが英雄視されている!

 が、戦後、女性の地位は急速に回復した。それはそれだが、しかし取り残されたものがひと
つある。それが『女、子ども』というときの、「子ども」である。

●日本独特の子ども観

 日本人の多くは、子どもを大切にするということは、子どもによい思いをさせることだと誤解し
ている。もう10年近くも前のことだが、一人の父親が私のところへやってきて、こう言った。「私
は忙しい。あなたの本など、読むヒマなどない。どうすればうちの子をいい子にすることができ
るのか。一口で言ってくれ。そのとおりにするから」と。
 私はしばらく考えてこう言った。「使うことです。子どもは使えば使うほど、いい子になります」
と。

 それから10年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、皮肉なこ
とに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生まれる。が、なぜ
か、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親はこう言った。「子ども
を使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子どもを使うことが、かわいそうという
のだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、それは言うまでもなく、「子どもを人間と
して認めていない」ことによる。私の考え方は、どこか矛盾しているかのように見えるかもしれ
ないが、その前に、こんなことを話しておきたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には3つの役目がある、と。ひとつはガイドとして、
子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そして3つ目は、友とし
て、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。
苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の強い国民で、た
った1年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、女が下、夫が上、
妻が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対等になるという発想その
ものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関係をつくりあげた。私がしば
しば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識に
は、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。これは子
どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親風を吹かすのは
よくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向かって何だ!」と怒鳴
り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。先日もある雑誌に、「父親
というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父親」と書いていた教育家がい
た。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、とんでもない考え方ということにな
るに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだから」と
いう「ダカラ論」、「親は〜〜のはず」「子どもは〜〜のはず」という「ハズ論」、あるいは「親は〜
〜すべき」「子は〜〜すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固定化してはいけない。固
定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのばあい、その人間関係をも破壊
する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめることになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということは、一見矛
盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」ということと、「子どもを
使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日本では、子どもをかわいがると
いうことは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせることだと思っている人が多い。そうで
あるなら、なおさら、矛盾しているように見える。しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子
どもを自立させること」という視点に立つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあなた
は、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった一度し
かない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。

つまりそういう形で、子どもの人生を子どもに、一度は手渡してこそ、親は親の務めを果たした
ことになる。安易な孝行論や、家意識で子どもをしばってはいけない。もちろんそのあと、子ど
もが自分で考え、親のめんどうをみるとか、家の心配をするというのであれば、それは子ども
の問題。子どもの勝手。しかし親は、それを子どもに求めてはいけない。期待したり、強要して
はいけない。あくまでも子どもの人生は、子どものもの。

 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみればよ
い。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている姿を見た
ら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするなら、あなたはよほ
ど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親ということになる。同じよう
に、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。仮にそれが美徳に見え
るとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日本という、極東の島国の中で、そう
思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立させるとい
うことは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つなら、子どもに社会
性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということだということがわかってく
る。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子どもを奴隷のように使えということで
は、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立できない親
ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状態を疑った。
ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であれ、ふつうではな
い。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話は聞いたことがある。そ
ういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点では、母親の心の奥で、嫉妬がか
らんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しかしそ
れはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係である。それだ
けに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決する問題ではな
い。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟が必要である。ある
いは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。その娘にしてみれば、母親
からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。

実際、親に、「産んでやったではないか」「育ててやったではないか」と言われると、子どもには
返す言葉がない。実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。しかしそれを言わ
れた子どもはどうするだろうか。反論できるだろうか。……もちろん反論できない。そういう子ど
もが反論できない言葉を、親が言うようでは、おしまい。あるいは言ってはならない。仮にそう
思ったとしても、この言葉だけは、最後の最後まで言ってはならない。言ったと同時に、それは
親としての敗北を認めたことになる。

が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を苦しめている。もっと
言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをしている。一方その娘
は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、ここ
までゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)がはっきり
していて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。
(02−9−14)※

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(2)【育児の一貫性】

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、一貫
性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

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信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じ
ようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと
安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の
基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用していく。し
かし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での信頼関係を築く
ことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だから
「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ど
もは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。
これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」を
いう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といっ
てもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

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 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいも
のがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人が
いる。A氏(60歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言
う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的で
あったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかなら
ない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、い
かにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どう
して子どもが育つかということになる。
(030623)
(はやし浩司 一貫性)

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(3)【子育て自由論】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦関係
が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。これを親
子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あのお父さ
んのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子どもは、
母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独立し
たものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊害に
なってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立そのものが、でき
なくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子どもは、その
家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親戚の
伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その男性を、
ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、父
の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた母を、
私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩んでいた
ことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめることは
できない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しかしどんな問題であ
るにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、苦しんだり、悩んだり
するようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、無意識
にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることがある。独立心の
旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」という。そ
ういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とした。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみし
いもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」と言
う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろんその母親は、
それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、とらえる。
自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いをもつ人
はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、過保
護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考えてみた
い。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。たと
えばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。英語教
室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができる子どもイコ
ール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという価値観を身につけて
しまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっくりそのま
ま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題にはな
らない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力がどんどんと
落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。塾はも
ちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようになってしまっ
た。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能力に
欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をなくすと、
おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかりやすく言うと、自
分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている(ボ
ーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにすること。足
並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化をおし進め
る。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たがいに
高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つようにする。この
一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」
と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離
れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」
(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前
ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず
子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいない
ところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こ
う書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見
せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみると
よい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみる
とよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関
係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろう
か。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子ど
もは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一
歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。つぎの
ような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問題として、家庭
教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり
「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになった
ら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼児性の持続」
は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どうか、この
点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 子供らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度)






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●子どもの神経症

●ある母親からの相談

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育児に悩む、母親から、こんな
相談があった。

++++++++++++++++

先日一度ご相談差し上げたNKと申します。一時は暴力的だった我が子も随分と落ち着いてき
ましたが、最近主人と私が、仲が悪いせいか、(1)指しゃぶり、爪噛みを始めた事。(ひどい時
は拳を口に入れ込んでウエッっと嗚咽する事も)、(2)先日友人の子どもがおっぱいをもらって
る姿を見て、突然おっぱいに異常に興味を示している事、(3)根気よく遊べない事(幼稚園な
どに遊ぶに行っても皆と同じ様に座っていれず、歩き回ってしまう)事、(4)笑顔が減ったような
気がする事。沢山のことが一気に起きてしまい、主人との事もあり、子どもにとってどう接した
らよいのかわからません。どうすることがベストなのでしょうか? よろしくご指導下さい。

【はやし浩司から、KT様へ】

 この問題は、一見、子どもの問題に見えますが、実は、母親である、KT様、あなた自身の問
題です。子どもが、あなたの心の状態を、忠実に、カガミのように映しだしているにすぎませ
ん。

 つまり心が不安定になっているのは、子どもの方ではなく、あなた自身のほうだということで
す。お子さんは、たしか、2歳でしたね。そんな子どもに、神経症による症状が、これだけ出て
いるのですから、反省すべきは、あなた自身のほうということになります。

 神経症については、(はやし浩司のHP)→(トップページ)→(はやし浩司の書斎)→(FORU
M)→(神経症)へと進んでください。今日、診断チェックシートを載せておきました。

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
から、おいでください。

 子どもの視点から見て、安心感のもてる家庭環境作りに、どうか、心がけてください。

 で、私からのアドバイス。あなたの子どもは、いつかすぐ、あなたのよき友だちになり、あなた
の苦しみや悲しみを、共有してくれます。あなたをなぐさめ、励ましてくれます。それを信じて、
今は、そのための基礎作りと考えてください。わかりますか? あなたは子どもを育てているの
ではないのです。将来の親友を育てているのです。

 今は、頼りなく、心もとないかもしれませんが、やがてたくましく成長します。それをどうか、信
じてください。あっという間に、そうなります。で、一番重要なことは、肩の力を抜いて、もっと子
育てを楽しむことです。方法は簡単です。あなた自身が、幼児に返ったつもりで、いっしょに、
人生を楽しめばよいのです。

 私も、ずいぶんと前のことですが、あるときから、生徒たちを前にして、「教えてやろう」という
気持は、捨てました。そのかわり、「いっしょに楽しんでやろう」と考えるようになりました。とた
ん、気も楽になりました。生徒たちの表情も、見ちがえるほど、明るくなりました。

 あなたの子どもの神経症(心身症)による症状は、少し時間がかかるかもしれませんが、そ
れで消えるはずです。2歳ということですから、ささいなことで、こうした症状を示すようになりま
すが、お母さんのあなたさえ、少しなおせば、症状も、すぐ消えます。(……こじらせれば、情緒
が不安定になるだけではなく、精神状態にも影響をおよぼすようになるかもしれません。どう
か、ご注意ください。)

 子どもの心が不安定と感じたら、(現在、かなり不安定のようですが……)、CA、MG、K分の
多い食生活に切りかえてみてください。わかりやすく言えば、海産物を中心とした献立に切りか
えます。

 白砂糖の多い食品をひかえ、カルシウム分をふやすだけでも、子どもの心は、かなり落ちつ
きます。ためしてみてください。


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子どもの神経症についての原稿を
ここに添付しておきます。

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 子どもの神経症(心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)は、ま
さに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑う。
 精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに
対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。
 身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻
尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、
喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。

一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面で
の神経症を黄信号ととらえて警戒する。
 行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に
現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関
心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。
  神経症が子どもに現れたら、子どもの側からみて、親の存在を感じないほどまでに、家庭環
境をゆるめる。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。子どもがひとりでぼんやりとで
きる時間と場所を大切にする。

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●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。

私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの子どもが
見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーや
ノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけでなおる」(「マザーリング」八一年7号)と
述べている。

効果がなくても、ダメもと。そうでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は
小食で困ります」は、ない。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということ
は、体重60キロの人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲
めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。





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