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【家族論】

【家族という呪縛】

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私の知人が話してくれたことを、
そのまま書く。

家族とは、何か?

++++++++++++++++++

 もう15年ほど前になるだろうか。東京のM区に住んでいる友人(当時55歳くらい)がこう言っ
た。

 「親のめんどうなんて、もうコリゴリ。そのたいへんさを知っているから、私の息子や娘たちだ
けには、そういう思いをさせたくありません」と。

 当時はまだ、今のような介護制度もなかった。親の老後は、子どもたちがみるというのが、ま
だ常識(?)になっていた。そのため、その負担は、すべて、その子どもたちにのしかかってい
た。

 が、基本的には、この事情は、今も変わらない。

 先日、私の別の知人の母親が死んだ。享年、85歳だったという。しかしそれまでの10年間、
その知人は、母親の介護で、もがき、苦しんだ。それは壮絶な戦いだったという。

 「良好な親子関係があれば、まだ救われます。が、私と母は、そうではありませんでした」と。

 で、母親が死ぬころには、財産のほとんどを食いつぶした上、多額の借金まで、残ったとい
う。

 そこでその知人は、葬儀らしい葬儀もせず、(実際には、お金がなくて、できなかったのだが
……)、母親を見送った。が、これに、叔父、叔母たちが、猛反発! 「何という息子だ! 葬式
も満足にしないとは、何ごとか!」と。

 しかしその知人は、ひるまなかった。「お前らに、オレの苦しみがわかってたまるかア!」と。

 以後、その知人は、親類との縁も切ったという。

 その知人は、こう言った。

 「あのね、林さん、親子といっても、いろいろあるんですよ。それぞれの家庭によっても、事情
がちがう。ちがって当然です。

 外の人には、何でもなく見えるような家庭でも、その奥は深い。親子であるがゆえに、歴史も
ある。確執もある。

 私は、母のめんどうをみているとき、何がいやかって、親戚どもがあれこれ干渉してくること
ほど、いやなことはありませんでした。こちらの事情も知らないくせにね。

 それに家族の問題は、同じような問題をかかえた人でないと、理解できないものです。経験し
た人でないと、わからない。そのわからない人たちが、とやかく言ってくる。もう、うるさくて、たま
りませんでした。

 簡単な葬式ですましましたが、私には、あれで精一杯です。叔父は、『借金してでも、やれ』と
言いましたが、もう勘弁してほしいです」と。そして同じように、こう言った。「家族なんて、コリゴ
リです」と。

 家族って何だ!

 もう一度、それについて考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【家族意識】

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家族は大切なものだが、しかしそのあり方を
まちがえると、今度は、家族を苦しめる、責め具
として機能する。

今、「家族」という重圧感の中で、もがき、
苦しんでいる人は多い。

それを知る、第一歩。

それが善玉親意識と悪玉親意識である。

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●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書い
た。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識とい
う。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々……」とか
何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、10代目になったとする。が、大
きな問題が起きた。1人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」と言い出し
たのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろうか。父
親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう意味で、
家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉家族意
識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちがってい
るとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日本人は、江戸
時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(=特定の考え方の型)をもって
いる。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それは多分に
宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプの人に、「家制
度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった江戸時
代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代であってはい
けない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショックを受け
た経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボルンの校
外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つぎつぎと、新し
い家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。これが三番目の家
だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカリみたいだ」
と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショックを受
けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できないだろう
と思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだが、だいたい
において、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私のばあいも、そうい
うことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、最後に
遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。つまり彼ら
にしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこもちがわ
ない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念と同じ。どこも
ちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。田舎
のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。私が最初に
「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、親戚の人
たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気にしては
だめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中に入
りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、色濃く、
残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよりは、家どうし
の結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れを始め
る。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを発達心理学の
世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民族とい
うことになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜け
出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボーエン)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 個人
化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、60人
近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」にこだわる人も
いれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方的に、
そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君は、そうすべ
きだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもっていな
い。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自らを否定し
てしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うようなものであ
る。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体的成
長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内面化を
はばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親もいる。親に少
し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀打ち
できない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化を、さら
にはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか弱き
人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫ってく
る。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのではない。たいてい
の人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン(脳なし)。

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。いろい
ろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、ここに書い
た、「鮮明なちがい」ということになる。






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●日本の教育が遅れるとき 

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いまだに、「英語教育は必要ない」と
説く識者(?)がいるのには、驚く。

偏屈な民族主義にしがみついて、
「武士道こそ、日本が誇る
アイデンティティ」と説く識者(?)も
いる。

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●英語教育はムダ?

 D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。

「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。

つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅
行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」
と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日
本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育
 
これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、公
立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子
どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている
知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営者協会会
合の席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が
終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要は
ない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こう
いう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそ
うだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思
を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだわ
っているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。

ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わ
りには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの1次方程式や2次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには2次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営
む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学1年で1次方程式を学び、3年で2次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」
と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもた
ちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーション・「第三回学
習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こうい
う議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。

早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子
どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにク
ラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、
「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないの
か。それでほとんどの問題は解決する。

注※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示してい
るが、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校はその
ガイダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。

注※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在日
イギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。

「イギリスでは、1990年代半ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国
家の誇りが失われた認識があった。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、
現代社会はIT(情報技術)革命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値
の変化に直面しているが、これも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。

つまり子どもたちが急激に変化する世界で生活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対
応できる教育制度が必要と考えたからである」(長野県経営者協会会合の席で)と。

そして「当初は教師や教職員組合の抵抗にあったが、国民からの支持を得て、少しずつ理解
を得ることができた」とも。イギリスでの教育改革は、サッチャー首相の時代から、もう丸四年
になろうとしている(2001年11月)。





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●利他論

【相手を喜ばす】

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相手を喜ばすためには、何を、どうすればよいか。

よい思いをさせる。何か、ものをあげる。

しかしそのとき、何が一番重要かといって、
相手の、生きがいを知ることほど、重要な
ことはない。

相手の生きがいを知る。その生きがいに
なっていることを、助ける。ほめる。伸ばす。

それが相手を喜ばす。

私は、そのことを、子ども(生徒)を
教えていて、発見した。

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●生きがいを知る

 その相手を喜ばすためには、まず、その相手、つまりその人の生きがいが何であるかを知
る。その生きがいになっているものが何であるかわからないまま、何かをしてあげたり、ものを
あげたりしても、ほとんど、意味はない。

 たとえばゴルフをしたことがない人に、クラブをあげても意味はない。魚釣りをしたことがない
人に、釣竿をあげても意味はない。が、その人の生きがいを知るだけでは、足りない。

 子どもも、またしかり。

 サッカーの好きな子どもには、サッカーの話をする。ゲームの好きな子どもには、ゲームの話
をする。音楽の好きな子どもには、音楽の話をする。が、安易な迎合主義には、気をつけたほ
うがよい。

 私も、最近、こんな経験をした。

 ある人が、私に、一冊の本をくれた。「よい親子関係は、幼児期に決まる」(仮称)というタイト
ルの本だった。私が幼児教育に関心があるという程度のことは、その人は知っていた。しかし
私は、その本を、数ページ読んだだけで、そのまま本箱へしまってしまった。

 読むに耐えない内容の本だった。文章も稚拙(ちせつ)。その人はその人なりに、私を喜ばそ
うと、懸命に考えたにちがいない。そしてその本を選ぶために、書店で、それなりに苦労したに
ちがいない。

 しかし私には、とても、読むに耐えない内容の本だった! ……というようなこともある。

●生きがい

 しかし生きがいといっても、いろいろある。出世主義の人は、出世だけを、生きがいにしてい
る。名誉や地位を求めることだけに、夢中になっている人も、少なくない。

 さらに金儲けを生きがいにしている人もいる。明けても暮れても、考えていることといえば、お
金(マネー)のことばかり。

 そういう人を喜ばすのは、簡単なこと。出世することや、お金儲けにつながるようなことを、し
てあげればよい。そういう話をすればよい。が、それには限界がある。こちら側も、それに同調
できればよい。同調できなければ、こちら側のもつ主義主張と、その時点で、衝突する。頭の
中で、火花がバチバチと飛ぶ。

 出世することが、まちがっているというのではない。お金儲けをすることが、まちがっていると
いうのではない。しかし、それがどうだというのか? ……という疑問を感じてしまうと、同調で
きなくなってしまう。

 たとえばある人は、市内で寿司店を経営していた。味もよく、結構、繁盛していた。で、2代目
のその人は、郊外に、もう1店、支店をもった。が、これが当たった。その人は、こうして、2店
目、3店目……と、店の数をふやしていった。

 その人は、今、県外に、店を構えることに、夢中になっている。そしてその目標に向かって、
がんばっている。つまりそれがその人の生きがいになっている。

 しかしそれが、どうだというのか……?、と、考えてしまうと、その人を助ける気持ちなど、どう
してもわいてこない。あるいは、どうやって喜ばせばよいのか。

●人、それぞれ

 その人の価値は、その人が、何を生きがいにしているかで決まるといっても、過言ではない。
そういう意味では、(生きがい)というのは、崇高であればあるほど、よい。

 出世主義や、金儲けを生きがいにしている人もいる。しかしその一方で、ボランティア活動に
夢中になっている人もいる。学者や研究者のように、真理の探究に夢中になっている人もい
る。……といっても、名誉だけを先に追い求めている学者も、いないわけではないが……。

 さらに全国の山岳めぐりを生きがいにしている人もいれば、冒険を生きがいにしている人も
いる。本を書いたり、私のように、ものを書くのを生きがいにしている人もいる。さらに進んで、
文学や芸術の世界で、真理の探究を生きがいにしている人もいる。

 もちろん子育てを生きがいにしている人もいる。親孝行を、生きがいにしている人もいる。宗
教活動を生きがいにしている人もいる。

 人、さまざまだし、それぞれ。その相手を喜ばそうとしたら、その人が何を生きがいにしてい
るかを、知る。

●適当につきあう

 だからといって、先にも書いたように、こちら側にも、できることと、できないことがある。生き
がいというのは、私たち1人ひとりの、人生観、哲学と深く、かかわりあっている。

 いくら相手を喜ばすといっても、犯罪者に手を貸すわけにはいかない。カルト教の信者に手を
貸すわけにはいかない。

 そこで、私たちは、「適当につきあう」という方法で、こうした問題を回避する。盆暮れのつけ
届けにしても、当たり障(さわ)りのない、菓子や食べ物で、すますとかなど。相手が、それなり
に喜んでくれれば、それでよしとする。またその程度のつきあいで、すます。

 よい例が、年賀状である。

 中には、その年の信念や抱負を書いている人もいるが、たいはんは、決まり文句を、10年
一律のごとく書いている。不特定多数の人に、年賀状を出すには、そのほうが、よいのかもし
れない。無難。つまり、そういうつきあい方になる。

 が、そういうつきあい方に、どれほどの意味があるというのか? こういうのを、一般社会で
は、「虚礼」と呼ぶ。

●虚礼

 ある年齢までは、それもできるだろう。しかしある年齢をこえると、突然、虚礼のもつむなしさ
というか、無意味さが、わかるようになる。

 よい例が年賀状だが、ほかに、法事もある。葬式がある。結婚式がある。ごく最近も、私は、
ある親族の息子の結婚式に出た。その結婚式だが、「式」には、それなりの意味を感じた。
が、披露宴なるものには、どうか?

 はっきり言えば、ただのバカ騒ぎ。私たちジジ、ババは、そういう披露宴の(飾り)でしかない。
そういうジジ、ババの1人として、私は、楽しむというよりは、じっと、それに耐えるしかなかっ
た。

 ここでいう(ある年齢)というのは、それをいう。若いころは、バカ騒ぎができたかもしれない。
しかし、今は、もうできない。

 年賀状にしても、10年1律、20年1律の文章を書いてくる人には、ここ数年、返事を書いて
いない。法事にしても、できるだけ、断るようにしている。

●孝行論

 で、もうひとつの例が、親孝行である。

 知人の中に、1人、猛烈なマザコンタイプの男性がいる。今年、60歳になるのではないか。
会うたびに、「母が……」「母が……」と言う。自分の母が年老いていくのが、よほど、つらいらし
い。

 そうした気持ちは、程度の差こそあれ、みな、もっている。私にも、理解できる。が、その知人
は、自分の母を喜ばすことだけが、生きがいのようでもある。庭先には、母のためにと、小さい
が、茶室まで、用意した。

 が、その一方で、親をうらみ、憎んでいる人も少なくない。親といっても、いろいろある。親子
関係も、さまざま。「自分がそうであるから」という理由だけで、それを相手に押しつけてはいけ
ない。

 その知人は、数か月おきに、母親を車椅子に乗せて、あちこちの温泉めぐりをしている。が、
ここで注意しなければならないのは、ではその知人が、すばらしいことをしているかと言えば、
そうとは言えない。

 その知人には妻がいたが、知人のマザコンぶりに耐え切れず、もう20年ほど前に、2人の子
どもを連れて、離婚している。その知人は、そのとき、自分の妻にこう言ったという。

 「親のめんどうをきちんとみられないような嫁は、この家から出て行け!」と。離婚劇の過程
で、嫁と姑(しゅとめ)のはげしい、葛藤(かっとう)もあったらしい。

 それにもうひとつ。

 そういう知人の孝行ぶりを、母親自身が、喜んでいるかどうかというと、これも疑わしい。私の
目には、たがいに、ただ、ベタベタの親子関係を、つづけているようにしか、見えない。

●再び、生きがい

 正直に告白する。

 私の現在の(生きがい)は、毎朝、こうして、エッセーを書くことである。ただ私は、もともと、そ
れほど、意思の強い男ではない。だから、自分で自分に、ノルマを課している。

 週3回の電子マガジンを発行するというノルマである。1回分を、A4サイズの原稿用紙(40x
36字)で、20枚以上と決めている。

 そうでもしないと、すぐだらしなくなってしまう。が、ノルマを課すことによって、自分で自分をお
いつめることができる。つまりそれが、こうしてものを書く、原動力になっている。

 で、そういう自分を喜ばすものは、何か?

 これまた正直に告白するが、読んでくれる人がいて、はじめて、文章は、文章としての、意味
をもつ。価値をもつ。

 読んでくれる人がいるということが、私には、大きな喜びを与える。

 もちろん中には、私の文章を読んで、怒っている人もいる。みながみな、私の意見に賛同し、
同調してくれているわけではない。で、それを知るひとつのバロメーターが、読者数ということに
なる。

 本で言えば、発行部数ということになる。

 私は毎回、マガジンを発行するたびに、読者がふえていくのを、何よりも楽しみにするように
なった。

●私は私

 これは私の話だが、それぞれの人には、それぞれ、何か、生きがいにしていることがあるは
ず。

 相手を喜ばすということは、まず、その生きがいが何であるかを知る。ただこの時点で、大切
なことは、それが何であれ、批評したり、批判したりしてはいけないということ。

 出世に情熱を注いでいる人がいても、金儲けに血眼(ちまなこ)になっている人がいても、
人、それぞれ。それぞれの人に合わせて、その人を喜ばすことを考えればよい。

 ゴルフが好きな人には、ゴルフの話をすればよい。魚釣りが好きな人には、魚釣りの話をす
ればよい。

 が、それができないとうのなら、適当につきあって、それですます。何も、こちらから対立して
いくことはない。喧嘩を売ることはない。

 ただお願いがあるとするなら、私にも私の(生きがい)がある。主義主張もある。たいしたもの
ではないが、哲学もある。

 そういう私の(生きざま)が気に食わないからといって、私の生きざまを批評したり、批判した
りしないでほしい。あなたがあなたであるように、私は私。あなたの(生きがい)を、私に押しつ
けないでほしい。

●相手を喜ばす

 相手を喜ばすということを考えていくと、結局は、それが自分の問題となって、はね返ってくる
のがわかる。相手の生きがいを知るということは、同時に、自分の生きがいが何であるかを知
ることになる。

 その(生きがい)が、ときには、たがいに衝突する。その衝突したとき、自分の生きざまが、よ
りはっきりとした輪郭(りんかく)をもって、目の前に現れてくる。それまで気がつかなかったもの
が、目の前に現れてくる。

 そして私は、自分にこう問う。

 「私は、いったい、何をしたいのだ!」と。ワイフも、ときどき、私にこう聞く。「あなたは、いった
い、何をしたいの?」と。

 実のところ、それがそこにあることはわかっている。しかし、どうしても(それ)がわからない。
先ほど、読者の数がふえることが、生きがいになっていると書いたが、それについても、「だか
らどうなの?」と問われると、返事のしようがない。

 そこでさらに掘りさげてみると、私のばあい、こうしてものを書きながら、何か新しいことを発
見したとき、そこに喜びを感ずるのを知る。頭の中でモヤモヤしていたものを、吐き出す。それ
は私にとっては、快感でしかない。

 で、あえて言えば、それが私にとっての(生きがい)ということにもなるし、(喜び)ということに
なる。

 さて、あなたにとっての(生きがい)とは何か。(喜び)とは何か。

 もしそれがわからなければ、あなたは、だれに、どうしてもらったとき、一番、うれしいか、そ
れを考えてみるとよい。その第1歩として、だれでもよい。だれかを頭の中に描きながら、その
人を喜ばすには、どうしたらよいか、それを考えてみたらよい。







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【謎の扁桃体(核)】(思考と心のメカニズム)

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脳の中心部に、辺縁系という
組織がある。その中に扁桃体
という組織がある。「扁桃核」と
呼ぶ人もいる。

この扁桃体が、実は、人間が
人間らしくあるための、カギを
にぎっている(?)ということが、
最近の研究でわかってきた。

今までに、それについて書いた
原稿を集めてみた。

一部、重複する部分があるかも
しれないが、許してほしい。

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●思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方
診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。

 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力

 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分が
それぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというの
だ(伊藤正男氏)。たとえば……。

 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する

 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される
古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用を
コントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すの
は危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけ
ると、つぎのようになる。

 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情
報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方で
いう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に
思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。

もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、
帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い
人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のこと
をいう。が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切で
ある。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくという
わけである。 

 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一
部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では
「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(375)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えることを放棄する子どもたち

 「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によると
ころが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がな
いということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはい
る。おとなでも考える力のないおとなはいる。

 こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたとき
のこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三
個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言っ
た。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。

 一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄
なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべってい
るかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来す
る情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。

まれに気のきいたことを言うこともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。あるいは他人の
言ったことを受け売りしているだけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみ
ればわかる。目つきそのものが、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからと
いって、そういうタレントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言ってい
るのでもない。)

 そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざり
にされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにするこ
と」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進
める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親
で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生
によく質問するのですよ」と言う。)(田丸謙二先生、指摘)

その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評
価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。しかしこんなのは教
育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした指導を教育と思い込んでし
まったところにある。

 大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」
を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。ま
たそうでなければならない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさん
がボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになっ
て、人は手でそれを受け止める。

しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を
察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。
人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、
それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究で
は、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正
男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされ
るが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用す
るという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中に
あるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるとい
う(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されて
いる。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維
持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分
担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起
こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を
飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のメカニズム

*****************

少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。

*****************

 まず、数か月前に私が書いたエッセーを読んでみてほしい。この中で、私は「気持ちよさ」と
か、「ここちよさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、
余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返す
と、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、
みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。私の中には、私であって
私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。

先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になん
か帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まるつもりでい
た。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいの
か」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だ
から私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのも
のと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と
呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょう
ど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(た
いじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。その扁桃
体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究でわかってき
た。

もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に信号を送り、そ
れを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感に包まれるとい
うのだ。ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに五〇円のお金を渡したことが、扁桃体
に信号を送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひ
とつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を
経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私
は二三、四歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、
「教授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数十種類ほど発見されている。その麻薬様物
質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質
は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されるこ
とで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ず
るのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出す
るためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうし
て、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられて
いた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられた
こともある。しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維
持だけではなく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。

そうなると人間は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもっ
ていたということになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実
際、こんなことがある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別
としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもち
ろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。

たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突
然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何
か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そし
て誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人
間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた
信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということにな
る。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性
に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母
親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむとい
う内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病
院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。
が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふ
つうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人
のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書
いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働
きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反
応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」という
のも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によっ
て、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえば
ニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレ
スだと言われている。何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドと
いう物質が分泌される。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を
体の中で引き起こすことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづく
と、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与
える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまで
も「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレス
にさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。イギリスにも、『抑圧
は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があれば煮つめてみる
が、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるのがよい。そしてそれ
が、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が
重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、トカゲをつ
かまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてき
て、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう二〇年ほど前のことだが、一人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。

私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。よく見ると、
それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませ
る。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。
また別の日。

小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。
「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏ん
で、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。

要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。
さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することも
ある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する
能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。
昔、こう言った高校生がいた。

「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれば、ずっ
と住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環
境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もやさしくな
る。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される
が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入
ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結
果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを
渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れてい
る子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02−11−23)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数十万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚
そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返
す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、
よく出会う。たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれ
て、さまざまな感情をもつようになる。

よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。眠っている赤子が、何を思うのか、ニコ
ニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁
桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。確かに知的活動(大脳連合野の新新皮
質部)と、情動活動は、違う。たとえば一人の幼児を、皆の前でほめたとする。するとその幼児
は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その表情を観察してみると、それは知的な判
断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つまり本能的な部分によってそうしているこ
とがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく四〜六歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であること
がわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれなが
らにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正し
い。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもには
ならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわか
る。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、
それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新
生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやが
れ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していた
はずである。つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人で
あるという証拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この一、
二年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によ
っては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地
面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば一〇分もたたないうちに、無数の小さなアリが
集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかってい
るのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの
幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っている
だけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではな
いように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行
為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が
楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。

同じように、私はアリたちにも、同じような作用が働いているのではないかと思った。つまりアリ
たちは、ただ単に行動本能に従っているだけではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感
じているのではないか、と。またその喜びがあるからこそ、そういった重労働をすることができ
る、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅し
ていたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じている
に違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をする
ことができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪
なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。
私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし
私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物
にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。
自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って
行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02−8−3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 扁桃
体 扁桃核 善悪 性善説 性悪説 心のメカニズム)





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【権威主義】

+++++++++++++++

いまだに権威主義的なものの考え方をする人は、
多いですね。

しかも最近の傾向としては、その権威主義を
復活させようとする動きすらあります。

その種の本が、書店の店頭を飾り、
ベストセラーとなっています。

このままでよいのでしょうか?

+++++++++++++++

●権威

今でも、権威や権力をカサに着て、威張り散らす人は、少なくない。傍(はた)から見れば、バカ
げているのだが、当の本人には、そうではない。威張ることが、その人にとって、ステータスに
なっている。生きる哲学になっている。

 このタイプの人は、異常なほどまでに、上下意識にこだわる。たった1年でも先輩は、先輩、
後輩は後輩というような考え方をする。組織の中では、地位や、役職にこだわる。そして目上
の人(?)には、必要以上にペコペコし、目下の人(?)には、必要以上に、威張り散らす。

 こうした上下意識は、まさに封建時代の亡霊と考えてよい。その亡霊が、軍国主義時代にな
って、軍人たちによって、引き継がれた。そしてそれが、戦後は、政治家や官僚、さらには、会
社という組織の中で生き延びた。

 もっとも、今の若い人たちにこんな話をしても、理解できないかもしれない。威張るということ
が、どういうことかさえ知らない人も多い。いや、知らないなら知らないでも、かまわない。しかし
それも知らないまま、過去を美化してはいけない。安易な復古主義に陥っては、いけない。

 で、今でも、威張り散らす人は、少なくない。ときどき政治家の中に、そういう人を見かける。
胸を張り、ふんぞり返って歩いたりする。そしてことあるごとに、「無礼だ!」とか、「失敬だ」とか
言ったりする。こういうのを、私の世界では、「権威主義」と呼んでいる。いくつかの特徴があ
る。

(1)強い上下意識
(2)職業による差別意識
(3)男尊女卑思想
(4)見栄、体裁、世間体意識
(5)「偉い人」に代表される、偉人意識
(6)度を越した礼儀意識
(7)権威、権力への隷属意識

 ざっと思いつくまま書きあげたが、こうした権威主義は、そのまま民主主義の発展をさまたげ
る、「敵」と考えてよい。権威主義がはびこればはびこるほど、民主主義は、後退する。あるい
は、権威主義は、民主主義の完成度を知るためのバロメーターにもなる。

 よい例が、あの『水戸黄門』である。

 今でも、あのテレビ番組は、20%前後の視聴率を稼いでいるという。しかしそれは同時に、
日本の民主主義の未熟さを示していると考えてよい。三つ葉葵の紋章を見せただけで、まわり
の者たちは、地面に額(ひたい)をこすりつけて、それに答える。

 実にバカげた世界なのだが、日本人には、そうは思わない。そういう場面を、「痛快」と思う。
つまりそれだけ、ものの考え方が権威主義的というか、権威に対して、あこがれをいだいてい
る。

 実を言うと、私も、子どものころは、あの『水戸黄門』をよく見た。痛快に思ったこともある。し
かしあるときから、体が、それを受けつけなくなった。で、今は、見れば見るほど、バカらしく思
う。今の私なら、三つ葉葵の紋章を見せつけられても、多分、こういい返すだろう。

 「だから、それがどうしたというの?」と。

 もっとも、そんなことを江戸時代に言えば、そのまま首をはねられたにちがいない。私は、そ
れがバカげていると言う。

 が、ここで誤解しないでほしいのは、だからといって、こうした権威主義を否定しているのでは
ない。歴史の中のある過程では、こうした権威主義が必要な時代もあった。江戸時代も、そう
いう時代だったかもしれない。

 上下意識によって、社会秩序を維持することができる。またそれがあったからこそ、時の為
政者たちは、江戸時代という(時代)をつくることができた。が、それは同時に、多くの人たち
の、犠牲の上に成り立った時代とも言える。

 いかに多くの人たちが、その上下意識という意識の中で、押しつぶされたことか! その話
はまた別の機会に考えることにして、この上下意識を支えるのが、「権威」ということになる。

 「どうして上の者が上なのか?」「下の者が下なのか?」……それを説明するのが、権威とい
うことになる。

 「上だから、上」「下だから、下」と。

 この権威主義が家庭に入ると、「親が上で、子が下」「夫が上で、妻が下」「兄が上で、弟が
下」となる。理由など、ない。あるわけがない。

 しかし今、この権威主義が、再び、日本の社会の中に台頭し始めている。それについて書い
た本が、ベストセラーとなり、書店の店頭で、平積みにされている。中には、「武士道こそ、日本
人のアイデンティティ」と説く本もある。あるいは「英語教育不要論」を説く本もある。

 こうした復古主義を唱える人たちは、伝統とか文化、さらには「過去」を背負っているだけに、
強い。少なくとも未知の道を歩きつづける私たちより強い。

 しかし、権威主義など、クソ食らえ!

 それがわからなければ、韓国のあのN大統領を見ればよい。何を、ああまで威張っているか
と思うるほど、威張っている。悪しき儒教文明の亡霊を、そのまま引きずっている。多分、N大
統領自身は、それが大統領としてあるべき姿だと思っているかもしれない。が、冒頭にも書い
たように、傍から見れば、バカげている。

 私たちは、前に進もう。道なき道かもしれないが、前に進もう。自由と平等と、そして平和を求
めて、前に進もう!

+++++++++++++++++

2作、以前書いた原稿を添付します。
内容が、少しダブりますが、
お許しください。

若いころ(?)書いた原稿なので、
かなり過激な部分もあります。
あらかじめ、ご承知おきください。

+++++++++++++++++

●権威主義の象徴「水戸黄門」

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。

日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オース
トラリアの友人はこう言った。

「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、
欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して15年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。

「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。

一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の
仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像
以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先
祖の血筋を自慢した。

Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。ふつうの会話をしてい
ても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自
分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間に
ミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。

権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私
は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なもの
になる。そのため子どもは心を閉ざす。

Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるの
が一番よいが、それはできない。権威主義的であること自体が、その人の生きざまになってい
る。それを否定するということは、自分を否定することになる。が、これだけは言える。

もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義
は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●家族主義

 日本人は、古来より上下意識の強い国民である。男が上で女が下。夫が上で、妻が下。先
生が上で生徒が下、と。

たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という関係をつくる。そしてそれが組織の秩序とな
る。で、この秩序を支えるのが、権威。もともと上下関係には、理由などない。根拠もない。「偉
いものは偉い」という権威が、その関係を支える。日本人はこの権威に弱い。あるいはその権
威にあこがれを抱く。そのよい例が、「水戸黄門」。

水戸黄門の取り巻きが、葵の紋章を見せて、「控えおろう。これが目に入らぬか!」と一喝する
と、周囲の者が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう世界を「痛快だ」と思う。しか
し水戸黄門は絶対的な善玉だからよいようなものの、もし悪玉だったら、どうする。日本人のこ
とだから、それでも頭をさげるに違いない。実際、秀吉や家康といった圧政暴君たちが、この
日本では必要以上に美化され、英雄になっている!

 この権威主義は、教育にも暗い影を落としている。「大学の教授」というだけで、一も二もな
く、日本人は皆、頭をさげる。しかし実際には、大学の教員の世界は、完全に年功序列の世
界。「そこに人がいるから人事」が、長年慣行化している。

幼児教育の世界に限ってみても、実際幼児教育などしたこともないような教授が、その道の権
威者になっている。日本でも有名なA教授は、たった数か月間、幼児の心理を調査しただけ。
またN教授は、ラジオのトーク番組の中で、ふとこう口をすべらせている。「私は三人の孫で、
幼児教育を学びました」と。たった三人である! 

ある幼稚園で講演をしたときのこと。「S大学附属幼稚園」という名前がついていたので、「教授
たちは来ますか」と聞くと、そこの副園長がこっそりこう教えてくれた。「たまにね。来てもお客様
ですから」と。そういう教授でも、「教授」というだけで、皆、頭をさげる。

 家族主義というと、小市民的な生き方を連想する人は多い。99年の春、文部省がした調査
でも、「一番大切にすべきもの」として、約40%の人が、「家族」をあげている。が、これに対し
て、さっそくその夜、あるテレビの解説者が、「日本人は小市民的になった」と評した。

とんでもない。とんでもない誤解である。

家族主義は、新しい国家観、新しい愛国心にもつながる。昔の日本人は、国、つまり天皇制と
いう体制を守るために戦場に出かけたが、これからはもうそういう時代ではない。家族の集合
体としての「国」を考える。そしてもし戦争することがあるとするなら、私たちは「家族を守るため
に」戦う。愛国心も、そこから生まれる。

 日本は欧米化したとよく言われるが、それは表面的な部分だけ。日本は日本。しかも旧態依
然のまま。今でも日本は、世界から見ると、「わけのわからない国」ということになっている。欧
米化が必ずしもよいというわけではないが、世界の人に安心してつきあえってもらえる国民に
なるためには、欧米化は避けて通れない。

これからは「家族を大切にします」「一番大切なものは家族です」と、日本人も胸を張って言う時
代になった。家族主義は、決して恥ずかしいことではない。 





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●言葉による虐待

+++++++++++++++

言葉による虐待が、問題になって
います。

暴力による虐待も問題ですが、
言葉による虐待も、それ以上に
問題とすべきです。

+++++++++++++++

 虐待にも、いろいろある。暴力による、肉体的な虐待のほか、無視、冷淡、拒否的態度など。
しかしこれらと同列、それ以上に深刻に考えてよいのが、「言葉による虐待」である。

 ある母親と話していたときのこと。A子さん(小6)の弟(小3)のB君の話になった。そのとき、
B君の母親は、ふと、「Bは、バカだから」と口をすべらせた。どこかはき捨てるような言い方だ
った。

 いろいろな母親がいるが、自分の子どもを、「バカ」と呼ぶ親は少ない。その言葉が、ずっと
私の耳に残った。

 それから数年後。私はそのB君と、接する機会があった。夏休みになって、まもなくのことだ
った。が、私はB君を見て、驚いた。ナヨナヨしていて、まるでハキがない。オドオドしているとい
ったほうが正確かもしれない。

私が何かを言っても、「ママが、怒るから……」と、力ない声で言った。ときにブツブツと、ひとり
ごとを言い、何を言っているか、わからないこともあった。

 私は、A子さんを通して、B君のことを聞きだそうとした。しかしA子さんの言葉は、さらに衝撃
的だった。

私「B君も、もうすぐ中学生だね」
A「あんなヤツ、嫌い」
私「嫌いって……?」
A「あいつ、バカだもん」
私「でも、あなたの弟でしょ。いっしょに、遊ばないの?」

A「遊ばない」
私「どうして?」
A「私、Bなんて、大嫌い。Bがバカなのは、生まれつきよ」
私「生まれつきって、どうして、それが君にわかるの?」
A「ママが、いつも、そう言っている」と。

 A子さんの母親は、B君を産むとまもなく、離婚。現在の夫は、再婚した夫だった。その母親
にしてみれば、B君は、望まない子ども(unwantede child)だったかもしれない。あるいはその
前後の家庭騒動が、影響を与えたのかもしれない。こういうケースは、少なくない。

 つまり望まない結婚から、望まない子どもを産んだ。その結果として、その子どもに愛情を感
ずることができず、その子どもを、虐待するようになる。これは別のケースだが、「自分を捨て
た男にそっくりだったから……」という理由で、中学生の男の子を虐待していた母親もいた。

 言葉による虐待には、つぎのような特徴がある。

(6)日常的につづく。ささいなことで叱る、怒る。
(7)冷淡、無視、拒否的態度、否定的姿勢。
(8)「あなたはダメな子」式の、人格の否定。子どもへの不信感。
(9)親の命令的な口調、姿勢。子どもに向かっては、服従を強いる。
(10)神経質な過干渉。行動の制限。過関心。

 一方、親は(母親に多いが)、そうした自分の虐待を隠すために、人前では、むしろ子ども思
いの、よい親を演ずることが多い。ことさら子どもを愛していると言う。そして子どもに現れた症
状を正当化するため、「(子どもが萎縮しているのは)、生まれつき」という言葉をよく使う。「うち
の子が、ああなのは、生まれつきです」と。

 しかし生まれたときから、その子どもが萎縮しているかどうかは、熟練した産婦人科医でもわ
からない。「生まれつき」という言葉を使う親は、それだけ卑怯(ひきょう)な親と考えてよい。

 結果、子どもは、大きく、二つのタイプに分かれる。(1)攻撃的に、反発するタイプ。(2)性格
が内閉し、萎縮するタイプ。

同じ兄弟でも、兄が萎縮し、弟が粗放化するというケースも、珍しくない。どちらにせよ、(ます
ます虐待する)→(症状が悪化する)の悪循環の中で、最終的には、行き着くところまで、行く。

 言葉による虐待は、肉体的な虐待とちがい、外からは、たいへんわかりにくい。母親自身も、
それを隠す。あるいは反対に、その反動形成として、むしろ子ども思いの、よい母親を演ずる
ことが多い。心理学の世界には、代理ミュンヒハウゼン症候群※という用語もある。

しかし冒頭にも書いたように、深刻さという点では、肉体的な虐待と同等に考えてよい。

 さらに深刻なのは、その背景に、子どもに対する、憎しみ、嫌悪感があること。こうした感情
が、姿を変えて、子どもを虐待する。つまりこうした感情を克服しないかぎり、言葉による虐待
は、解決しない。ついでに、B君の症状について、当時の記録を、ここに載せておく。

【B君、小6】(私の記録より)

 柔和で、おだやかな表情をしているが、ハキがない。すべてに自信がなさそうで、逃げ腰。
「どんなテレビを見ているの?」と聞くと、「ママが、怒る」と。そしてあとはブツブツとひとり言を
言い始める。意味がよくわからない。

緩慢行動、言葉のオウム返しもみられた。軽い自閉傾向も観察される。何をしたいとか、何を
しなければならないということが、わかっていないよう。

命令には従順に反応するが、自分では何もしようとしない。B君の書いた文字は、異常にきれ
いで、ていねい。最近ローマ字を覚えたらしく、こちらが求めもしないのに、自分からローマ字を
書いてみせてくれた。軽くほめてあげると、はじめてニッコリと笑った。

(注※)代理ミュンヒハウゼン症候群

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親が見せる一連の症候
群を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 はやし
浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 言葉の虐待 
言葉による虐待)

+++++++++++++

もう1作、これと関連した
原稿を掲載しておきます。

+++++++++++++

●器用でない心

 Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……ということができるほど、人間の
心は、器用にはできていない。

 こんな事件があった。

 ある母親は、表面的には、やさしく思いやりのある母親を演じながら、その裏で、当時、中学
生だった長男を虐待していた。冷酷、無視、冷淡、拒否的な育児態度など。暴力といっても、言
葉の暴力。それを毎日のように、長男に、浴びせかけていた。

 「お前なんか、早く死んでしまえ」
 「用なし」
「役立たず」
 「お前のような親不孝者は、地獄へ落ちる」と。

 こういうのを代理ミュンヒハウゼン症候群という。ミュンヘハウゼンというのは、18世紀にい
た、男爵の名前に由来する。「ホラ吹き男爵」としても、よく知られている。

このタイプの母親は、たとえば息子が病院へ入院したりすると、医師や看護婦の前では、神様
のようにやさしい母親を演じてみせたりする。背中をやさしくさすってみせたりする。そういうこと
が平気でできる。他人の視線を気にしたとたん、豹変する。

 で、その母親には、もう1人、娘がいた。

 長男とは、10歳近く年齢が離れていたせいもある。が、その娘が、30歳になるころから、母
親の態度が変わり始めた。娘氏はこう言う。

 「私が30歳になるころまでは、母とは割りと良好な人間関係でした。が、そのうち、母の私に
対する態度が変わってきたのを感じました。情け容赦ないというか、冷酷になりました」と。

 理由や事情は、いろいろあるのだろう。親でも、長男に対する育児姿勢と、二男に対する育
児姿勢が微妙にちがうということは、よくある。しかしそれはあくまでも、誤差の範囲。

 冒頭に書いたように、「Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……というこ
とができるほど、人間の心は、器用にはできていない」。母親にしても、長男に対する育児姿勢
と、娘に対する育児姿勢が、大きくちがうということは、ありえない。

 その母親は、長男を虐待しながら、やがてその一方で、娘を、まるで奴隷のように、使い始め
た。

 「私は結婚して、家を出た身分です。でも、そんな私に、ときどき、『うちにきて、庭掃除くらい
しなよ』などと、母は電話をかけてきます。

 そこで私が実家に帰ると、今度は、別人のようにしおらしい顔をして、『お前がいると、助か
る。ありがたいことだ』などと言います。母の心が、さっぱり理解できません」と。

 ここに書いた話は、新潟県に住んでいるUさんという女性からのメールを、まとめたものであ
る。

 しかしつぎのように考えると、その母親の心が理解できるのではないか。

 その母親は、長男や娘に対してですらも、心を開くことができない。新潟県という土地柄もあ
って、親意識、家父長意識が、ことさら強いのかもしれない。ものの考え方が、権威主義的。そ
の母親は、私がいう親・絶対教の信者かもしれない。

 その母親が、なぜ長男を虐待したかについては、わからない。しかしその虐待するという精
神構造が基礎にあって、今度は、娘を奴隷のように使うようになった。一見、バラバラに見える
育児姿勢だが、その精神構造までほりさげて考えると、それが一つの基盤につながっているの
がわかる。

 自分の支配下に入った長男は虐待し、自分の支配下に入らなかった娘については、同情・
依存という手段で、娘を自分の支配下におこうとした。こういうケースは、よくある。決して珍しく
ない。

 さらにその原因はといえば、母親自身の精神的欠陥、あるいは情緒的未熟性によるものと
考えてよい。

 私はUさんに、つぎのような返事を書いた。

 「とてもかわいそうだと思いますが、あなたのお母さんは、子どもを愛せないタイプの女性の
ようですね。あるいは子どもにすら、心を開くことができない。不幸にして不幸な過去(幼児期)
を背負った方だと思います。

 で、虐待の直接的な原因ですが、たとえば望まない結婚であったとか、望まない子どもだった
とか、そういうことがあるのかもしれません。

 さらにその原因は、ここにも書いたように、お母さん自身の不幸な生い立ちがあるのかもしれ
ません。

 ともかくも、今、あなたのお母さんは、あなたの兄に対しては、攻撃的に虐待し、そしてあなた
自身に対しては、依存し、同情を求めながら、あなたを支配下におこうとしています。

 こういうケースは、多いです。そこにも、ここにもあるというほど、多いです。

 先日も、埼玉県の女性から、こんなメールをもらいました。『母は、私の前では、数歩、歩くの
も苦しそうな様子を見せますが、私がいないところでは、スタスタと歩いています。駅で母がスタ
スタと歩いているのを見かけたときは、別人かと思うほど、驚きました』と。

 つまり埼玉県のその女性の母親は、弱々しい老人を演ずることで、その女性を、自分の支配
下におこうとしたのですね。

 実は、代理ミュンヒハウゼン症候群を示す親というのは、もともと子どもも含めて、他人と良
好な人間関係を結べない人と考えてよいのではないでしょうか。それが変質して、そうなる? 
私はそう考えています。

 もう少し、この問題については、別の角度から深く考えてみたいですが、ともかくも、そのよう
に考えていくと、あなたも、あなたのお母さんの心理状態が理解できるのではないでしょうか。

 そういう意味では、あなたのお母さんは、心のさみしい、かわいそうな人ということになります」
と。

 ……と書きながら、こんな問題もある。

 実は、その代理ミュンヒハウゼン症候群だが、一方で、義父母を虐待しながら、世間的に
は、やはり神様のように演じている女性(嫁)もいるということ。

 しかし虐待されている義父母は、その女性(嫁)が、こわくて、それを他人に話すこともできな
い。

 そんな事例も、私のところには、伝わってきている。とても、恐ろしい話ではないか? ホン
ト!
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群)





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●戦陣訓

++++++++++++++++++

その後の軍国主義をとばし、
いまだに武士道なるものを
美化する人が多いのには、
驚かされる。

武士道を説く人は、その武士道が、
戦時中、「戦陣訓(せんじんくん)」と
して、いかに多くの犠牲者を
生み出したことか。

それを忘れてはならない。

+++++++++++++++++

 明治時代、天皇は、軍の最高指揮官であった。その天皇が、明治15年(1882)に、陸海軍
のすべてに下した「勅諭(訓諭)」が、『軍人勅諭』である。

 陸海軍の兵士は、(1)忠節、(2)礼儀、(3)武勇、(4)信義、(5)質素を守るべしとし、その
一方で、天皇への絶対服従、天皇の神格化をはかった。

 もちろんその原型は、武士道なるものにあったことは、言うまでもない。わかりやすく言えば、
武士道が、そのまま明治天皇のもとで、軍人勅諭になった。そしてそれが、やがて、あの東條
英機によって、昭和16年(1941)、『戦陣訓』として、補足された。

『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず』という、あの戦陣訓である。

 この戦陣訓のおかげで、日本兵たちは、最後の一兵まで、玉砕(ぎょくさい)を強いられた。
日本は、いくら勝ち目のない、無駄な戦いであるとわかっていても、敵の捕虜になることを許さ
なかった。

 武士道なるものを美化する人たちは、同時に、その武士道なるものが、明治、大正、そして
昭和の時代に、どう利用されていったかも知らねばならない。つまりそうした負の側面を見るこ
となく、一方的に、武士道なるものを称えることは、危険なことでもある。

 はっきり言おう。

 武士道なるものは、日本人が誇らなければならないような規範でも、心のより所でも、なんで
もない。ただの官僚道、ただの軍人道。それがわからなければ、あなた自身の祖先を、静かに
思いやることだ。

 あなたの祖先のたいはんは、農民であり、町民だったはず。刀をもった為政者たちに虐(しい
た)げられた、物言わぬ従順な民だったはず。その「民」が、どうして今、武士道なのか?

 忘れてならないのは、あの江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど
の、暗黒かつ圧制の時代だった。現在のK国と、それほど、ちがわない。その時代を支えたの
が、武士道ということになる。が、それを忘れて、「武士道」「武士道」と、題目のように唱える。
私には、そういう人たちの気が、理解できない。

 さらに悲しいことに、日本という国は、いまだかって、あの封建時代、さらには、それにつづく
軍国主義時代という時代を、その(歴史の流れ)の中で、一度たりとも清算していない。反省も
していない。別に中国や韓国の肩をもつわけではないが、事実は事実だから、これはどうしよ
うもない。

 幸か不幸か、(私は、それでよかったと思っているが)、戦後、日本は、アメリカ型ではあるに
せよ、西洋文明を受けいれてしまった。自由、平等、平和、そして民主主義。そしてそれまでの
儒教文明とは、決別した。

 少し前にも書いたが、私たち日本人が進むべき道は、前にある。うしろではない。その前に
ある道は、道なき道かもしれないが、それでも前にある。道に迷ったからといって、今さら、うし
ろに戻ることは許されない。

 もちろん歴史は歴史だから、それなりの理解をすることは必要である。江戸時代には、武士
道なるものにも、それなりの存在意義があったかもしれない。しかしそれは日本人が、全体とし
てつくりあげた、規範でもなければ、心のより所ではなかったはず。どうしてそんな武士道なる
ものを、現代の今、私たち日本人のルーツとして、賛美しなければならないのか。

【補足】

 つぎの憲法改正では、天皇を国家元首にするという。そういう動きが、ここにきて、急にあわ
ただしくなってきた。が、どうして「象徴」であってはいけないのか? いや、その前に、今の天
皇家の人たちが、そうなることに納得しているのか? あるいは一度とて、天皇家の人たちに、
おうかがいを立てたことがあるのか? その意思を確認したことがあるのか?

 それはものすごい重圧感と言ってよい。その重圧感がどのようなものであるかは、今の皇后
陛下を見ればわかるはず。今の皇太子妃を見ればわかるはず。

 日本という国が、今、過去へ過去へと、引き戻されていく。書店の店頭には、その種の本が、
ズラリと並んでいる。百万部を超えるベストセラーになった本もある。私は、そんな印象をもって
いるが、はたして、それでよいのか? このままで、よいのか?

 私は、安易な復古主義には、断固、反対する!





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●論語

++++++++++++++++

今度、小学校でも、論語の朗読を
するようになったという。

しかし、今、なぜ、論語なのか?

++++++++++++++++

 論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応神天
皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百科事典)。

 その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言えば、
官僚たちの教科書だった。

 その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論語なの
か? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わない。また
それまでは、私も否定しない。

 が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、どうしても、
それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和のために戦った人
たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本である。

 たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。それには抵
抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。

 フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。

+++++++++++++++++

1条
人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に基
づくのでなければ、存在することはできない。

2条 
すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保全であ
る。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。

3条 
あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明示的に
発せられていない権限を行使することはできない。

4条 
自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各人の自然権
の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保すること以外の限界
を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに過ぎない。

(以下、つづく)

+++++++++++++++++

 アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可侵、不
可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。

 この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまでもな
い。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。

『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即
チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノ
ナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ
満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革
シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナ
リ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディ
ア百科事典より抜粋)

 この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と
いう言葉が、生まれた。

 で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、アメリカ
型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たされてい
る。

 どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、しかしそ
の(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手につくることは、許
されない。

 しかし、どうして今、論語なのか?

【付記】

 日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、それを自信を
もっていえる人は少ない。

 天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにくい。ど
こか口ごもってしまう。

 が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と書
いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま読めば、
天皇制の否定とも解釈できる。

 そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭吉の
ような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。

 「人の上の人とは、だれのことか」と。

 で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。

 「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」という解釈
など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈などが生まれた。詳
しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は人の」で検索してみれ
ばよい。

 しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じていた。

 その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎのような
事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対する
アメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰も
ワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、
徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持って
いないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭
吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人
を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』
と。







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●思考の欠陥

●脳みその欠陥

++++++++++++++++

このところ、脳みそ自体がもつ欠陥
について、よく考える。

脳みそには、たしかに欠陥がある。

たとえば、人間の脳みそは、ものごとを
総合的に考えることができない?

ほかにもある……。

++++++++++++++++

 このところ脳みそ自体がもつ欠陥について、よく考える。ときどき、自分の脳みそすら、信じら
れなくなるときがある。「これでいいのかなあ?」と。

 脳みそには、たしかに欠陥がある。たとえばそれまで、(ごくふつうの人)だった人が、ある
日、突然、カルト教団の信者になって、とんでもないことを言い出すことがある。私は、これを
「脳みそのエアーポケット」と呼んでいる。

 つまり、脳みそには、そういう部分があって、そのエアーポケットに落ちると、だれでも、簡単
にカルト教の信者になってしまう。例外はない。むしろ、「私はだいじょうぶ」と、高をくくっている
人ほど、あぶない。

 それにもうひとつ。
 
 人間の脳みそは、ものごとを総合的に考えることができない。たとえば身のまわりに、重大な
問題と、軽微な問題があったとする。そのとき軽微な問題にとりかかってしまうと、その問題だ
けで頭の中がいっぱいになってしまう。重大な問題がもつ(重大さ)がわからなくなってしまう。

 たとえば今、イランの核開発問題が、最終局面を迎えつつある。成りゆきによっては、日本
は深刻な影響を受けることになる。昨日のNHKニュースによれば、現在1バレル70ドル前後
の原油が、100ドル近くまで高騰するかもしれないという。これは日本にとって、(重大な問題)
と考えてよい。K国による核実験についても、そうだ。

 しかしその一方で、軽微な問題もある。

 たとえば昨日(21日)、高校野球の決勝戦が、甲子園球場で行われた。20日の試合で、決
着がつかなかったため、再試合をしたという。で、その結果、東京都代表のW高校が優勝し
た。

 昨夜(午後7時)のNHKの定時ニュースは、そのニュースで始まった。そしてそれを5分近く、
報道していた。同じその日、イランでは、最高指導者のハメネイ師が、国連安保理の常任理事
国とドイツの6カ国による包括的見返り案に、否定的な見解を示していた。もしことの重大性と
いうことを考えるなら、こちらの問題のほうが、はるかに重大である。

 が、脳みそは、そうした総合的な判断が、できない?

 ……これはNHKのニュースの話だが、同じようなことが、いつも私たちの脳みその中でも、
起きている。たとえば地球温暖化による影響が、もうだれにも疑いようがない状態になってい
る。中国の重慶周辺では、連日、45度を超える猛暑がつづいている。(45度だぞ!) にもか
かわらず、ガソリンの値段を心配するなど。

 もし地球温暖化のことを心配するなら、ガソリンなど、1リットルあたり、1000円くらいになっ
たほうがよいのかもしれない。経済は、そのため大打撃を受けるだろう。が、地球が火星のよ
うになるよりは、よい。

 ほかにも脳みそには、いくつかの欠陥がある。

 たとえば記憶にしても、ファイルを積み重ねるように、古い記憶の上に、新しい記憶が、積み
重ねられていくのではない。「今」という時点でみると、10年前の記憶と、20年前の記憶は、等
距離にある。新しい記憶か、古い記憶かを判断するのは、脳の別の部分である。

 たとえば高校生のときした修学旅行の記憶と、大学生のときした旅行の記憶は、記憶として
は、等距離にある。が、どちらが古い記憶かと聞かれれば、(高校のとき)と(大学のとき)とい
う、別の事実をそこにダブらせながら、判断する。記憶そのものだけで、どちらが古いかという
ことを判断することはできない。

 もし人間の記憶が、ファイルを積み重ねるように、古い記憶の上に、新しい記憶を積み重ね
られていくなら、人間の脳みそは、もっと効率よく、記憶を整理できるかもしれない。取り出すこ
とができるかもしれない。が、それが、ない。

 つまり記憶は、てんでバラバラに、それぞれが好き勝手なところに、記銘(記憶)されている。
たとえて言うなら、地震か何かで、本箱が崩れて、ゴチャゴチャになってしまった図書館のよう
なもの。自分で、自分の記憶を整理することすら、できない。どこに何があるかさえ、わからな
い。

 まだ、ある。

 たとえばパソコンの世界には、(上書き)という機能がある。古い原稿を呼び出し、それに上
書きをかけると、古い原稿はそのまま、新しい原稿に生まれかわる。

 しかし脳みそでは、それができない。古い記憶は古い記憶のままとして残ってしまう。新しい
記憶を記銘(記憶)しても、両方とも、それが残ってしまう。

 で、さらにタチの悪いことに、たとえば歳をとると、新しい記憶のほうが、先に削除されてしま
う。そしてその結果、古い記憶のほうが優勢になり、また生きかえってしまう。まるでゾンビのよ
うに、だ。

 ……というように、脳みそには、いろいろな欠陥がある。

 もっともその欠陥があるからこそ、脳みそは、より柔軟に、周囲の環境に適応できる。たとえ
ば高校野球に熱中することで、深刻な問題がそこにあることを忘れることができる。

 あるいは必要な記憶だけを、そのつど取り出せるから、その前後に起きたいやな記憶を、呼
び出さないですますことができる。

 さらに年をとってからの記憶よりも、若いときの記憶のほうが楽しいに決まっている。体も健
康だ。すべてのものが、華やいで見える。

 考えようによっては、こうした欠陥が、生活を、心豊かなものにしていると考えられる。だから
欠陥があるからといって、それを否定してしまうことはできない。

 しかし欠陥は、欠陥。

 そうした欠陥があることを知った上で、脳みそとつきあうのと、知らないでつきあうのとでは、
大きくちがう。

 明けても暮れても、高校野球のことで頭がいっぱい、という人のことを、私たちの世界では、
「バカ」という(失礼!)。プロ野球にしても、サッカーにしても、そうだ。

 あるいは年をとってから、過去の栄光にしがみついて、それから一歩も足を踏み出せない人
のことを、私たちの世界では、「バカ」という(失礼!)。地位や、肩書きにしても、そうだ。

 さらにおかしな復古主義にこだわり、何でもかんでも、「過去がよかった」と主張する人のこと
を、私たちの世界では、「バカ」という(失礼!)。武士道だ、論語だと騒ぐのも、そうだ。

 ……ということで、この脳みその欠陥と戦うためには、ものごとを、いつもどこかで総合的に
考えるクセを身につけなければならない。たとえて言うなら、新聞を広げて、見出しを見なが
ら、どれが重要で、どれが重要でないかを判断するようなことをいう。

 それを怠ると、たちまち脳みそ自体がもつ欠陥によって、私たちは袋小路に入ってしまう。

 コワイゾー!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
欠陥 思考の欠陥 脳みその欠陥 弱点 思考の弱点)






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●恐怖症

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症など。飛行機恐怖症というのも
ある。

 この(恐怖症)のこわいところは、そのつど、対象物を変えて、いろいろな形で現れること。5、
6年前には、あわや大惨事に……というような交通事故寸前の恐怖を体験した。

 とたん、その日から、スピード恐怖症になってしまった。暗い夜道を自転車で走っているのだ
が、車という車が、すべて自分に向かって突進してくるように見えた。私は、50メートルくらいを
走り、自転車をおり、しばらく心を整えてから、また自転車にまたがった。

 あとで見たら、手のひらが、汗でぐっしょりだった。

 何とかその恐怖症からは、逃れることができた。自分に「だいじょうぶだ」と、何度も言って聞
かせることで、また自転車に乗ることができた。

 が、昨日(8月26日)、またまた同じような経験をしてしまった。

 いつものように、N高校横の坂道を、自宅のほうに向かって走っていた。歩道らしきものはな
い。道路の片側に、白い線で、そのワクがかいてあるだけ。ハバは、1メートルもない。50〜6
0センチほどか。しかも道路の片側だけ。

 さらにところどころに、電柱が立っている。消火栓の標識やミラーが立っている。

 その坂を、ややスピードを出しながら、私はくだっていた。(スピードを出したといっても、自転
車だから、たいしたことはない。時速20キロ前後ではなかったか。)

 そのとき、前方から、大型のランドクルーザーが、猛烈なスピードで私に向かって突進してくる
のがわかった。猛烈なスピードである。「ROVER」という文字をどこかで読んだ。ついで、運転
している男の顔が見えた。

 男は左側に顔を向けていた。年齢は30歳くらいだったか。完全なわき見運転である。私は
自転車を、思いっきり、右側のコンクリート壁に寄せた。N高校の壁である。ザリッと、自転車
のどこかの部分が壁をこすった。

 その瞬間、つまり私の前方5〜6メートルほどのところで、その車は、ヒラリと向きを変え、そ
してそのつぎの瞬間、私の左側をスピードをゆるめることなく、うしろへと、走り去っていった。

 車は、あの細い道路で、つまり対向車とやっとすれちがうことができるような細い道路で、80
〜90キロ近いスピードを出していた(?)。

 私はヒヤリとしたものを、背筋に感じた。が、これが私の恐怖症の、引き金を引いてしまっ
た。

 何とか家には帰ったものの、明らかに精神が不安定になっているのが、わかった。自分であ
って、自分でないような気分。感情そのものが平坦になってしまっている一方、何をしても落ち
つかない。

 いつもだったら、半時間でもヒマがあれば、書斎へ入って好き勝手なことをするのだが、その
意欲そのものが、わいてこない。パソコンを見るのもいやだった。さわるのもいやだった。

 何もしたくない。もちろん、自転車に乗るのも、車に乗るのもいや。外に出るのも、いや。つい
で、人に会うのも、いや。が、おかしなことに、食欲だけはあって、帰ってきてから、昼食を、2
人前前後、食べてしまった。

 で、そのあと猛烈な睡魔に襲われて床に横になったが、いつものように、眠られない。神経が
興奮状態になっているのが、自分にも、よくわかった。が、そのつどうたた寝はしたらしい。が、
どれも夢は、悪夢ばかり。

 最後は、ハチに追いかけられる夢で、目がさめてしまった。で、そのまま、起きてしまった。

 そんなわけで、8月26日、土曜日は、私にとっては、最悪の日だった。今も、その後遺症は、
今もつづいているが、こうして文章を叩けるだけでも、症状が軽くなったのかもしれない。

 鎌倉のT先生、上海のMさん、いつもなら、メールの返事をすぐ書くのですが、そんなわけで、
今日(27日)も、インターネットは、お休みです。明日にでもなったら、ゆっくりと返事を書きま
す。

 どうか、私の非礼をお許しください。

【補記】

 自転車は私にとっては、健康づくりには欠かせない乗り物ですが、年に1、2回は、ヒヤリとさ
せらええます。そして数年に1度は、あわや……という思うようなことがあります。

 みなさんも、どうか、お気をつけください。


+++++++++++++++

恐怖症について書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++

【子どもが恐怖症になるとき】

●九死に一生

 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして
文を書いているのが、不思議なくらいだ。

が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ
違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じた。

私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐
怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。

 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたく
ない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがったことがあ
る。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」という子どもが続
出した。

これらは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが
恐怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、ふつう、
次の三つに分けて考える。

(1)対人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程
度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。

知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警
戒、無頓着で、はじめて行ったような場所でも、わがもの顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、
顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(学校恐怖症)な
どの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会えない、人と話せないなど
の症状が表れることもある。

(2)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗
れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。

これはある子ども(小一男児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始
めるという。親から相談があったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにあ
る、トンネルらしいということがわかった。その子どもは閉所恐怖症だった。

実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すことができなかった。それと関係があるかどう
かは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚え
る。

(2)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわが
る、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。

何かのお面をかぶって見せただけで、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、15人に1人
はいる(年中児)。

ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもなかなか原
因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前後に出ることが多
い。

これも私のことだが、私は30歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そのため
それ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることはできるが、い
つも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」という不安が不眠症の原
因になる。

また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表れる。
高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パターン)ができ
るためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖症が飛行機恐怖症に
なり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。

●忘れるのが一番

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱っても意
味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの
視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。無理をすればするほ
ど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、
できるだけそのことを忘れさせるようにする。

症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私のときも、その事故から数日間は、車の速
度が五〇キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とはわか
っていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。

が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言いきかせることで、
克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状
態になってしまう。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。
そういう前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学

不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症とは区別
する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと考える学者も
いる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因となると考えるとわかりや
すい。




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【子育て談話】

●服従的な生き方

 だれかに服従して生きるというのは、生き方としては、楽。相手が喜ぶことだけを考えて、生
きればよい。

 ある宗教団体では、入信すると同時に、「あなたは、教導様のために、何ができるか?」と聞
かれる。そして指導者のために何かをするかが、入信の条件となる。

 こうした服従的な生き方というのは、戦前の女性たちに、多く見られた。今でも、そういう生き
方を、美徳と考えている人は多い。

 ところであのK国を見ていると、どの人も、「将軍様に、喜んでいただくために」という言葉を使
う。国民全体が、服従的になっていることを示す。しかしここで誤解してはいけないのは、傍(は
た)から見ると、何とも息苦しい社会だが、本人たちにとっては、そうではないということ。意外
と、それは、心地がよい世界なのである。

 服従的であるということは、何も考えなくてもよいということ。(何も考えないから、服従的にな
るということも、反対に考えられる。)

 子どもの世界にも、同じような現象が見られる。よい例が、高校野球である。あの野球という
ゲームは、選手ひとりひとりは、ほとんど何も考えないで行動している。バッターボックスに立っ
た選手ですら、つぎにどう打つか、その指示を監督に、ちくいち求めている。

 そういう意味では、「考えるスポーツ」というよりは、「何も考えないスポーツ」ということになる。
(だからといって、野球はつまらないと言っているのではない。誤解のないように……。)

 「学習」という世界でも、服従的な子どもは、いくらでもいる。言われたことだけを、きちんとす
るが、それ以上のことは、何もしないというタイプの子どもである。一見、従順で教えやすいが、
それがよいことかということになると、悪いに決まっている。

 で、問題は、こうした服従性は、一度、その人の人生観に入りこむと、以後、さまざまな形で、
その人を支配するということ。そして一生、つづくということ。しかもその原点は、子ども時代、な
かんずく、幼児期に決まるということ。

 強圧的な環境、威圧的な育児姿勢が日常化すると、子どもは服従的になる。過度の過干
渉、過関心が原因になることもある。とくに母子の関係で、母親が、命令を主体とした子育てを
すると、子どもは、服従的になる。じゅうぶん、注意されたい。

 あなたが子どもに、何か不合理な仕事(あくまでも、不合理な仕事)を頼んだとき、あなたの
子どもは、はげしくそれに反発するようなことがあるだろうか。もしそうなら、それでよし。ハイハ
イと従順に従うようなら、ここに書いたことを参考に、子育てのあり方を、反省してみてほしい。

●子育ては主義の問題

 ある母親から、こんなメールが届いた。私の講演を聞いたあと、今度は、S氏という評論家の
講演を聞いたというのだ。その結果、「頭の中が混乱してしまいました」と。

 S氏というのは、このあたりでも、貝原益軒(かいばらえっけん)の「養生訓」風の子育て論を
説くことで、よく知られている。貝原益軒というのは、江戸時代の儒学者である。S氏も、「親の
威厳こそが、家族をまとめるカギである」というようなことを、あちこちで話している。

 私の考え方とは、180度違う。だからといって、私はS氏の思想を否定しているのではない。
人それぞれ。私は私。人は人。

 そこで大切なことは、いろいろな人の意見には、耳を傾けつつも、「私は私」という部分を、自
分の中につくること。でないと、この母親のように、混乱してしまう。

 子育てというのは、一見、ただの子育てに見えるかもしれないが、実は、そこに、その人の
「主義」がからんでくる。その人の生きザマや人生観が、そこに、集約される。学歴信仰とはよく
言ったもので、まさに「信仰」に近い部分もある。

 だから子育てをするとき、大切なことは、どんな小さなものでもよいから、そこに「主義」をもつ
こと。これを心理学の世界では、「一貫性」という。一貫性が大切とか大切でないとかいうことで
はなく、その一貫性がない子育てほど、こわいものはない。

 たとえば貝原益軒なら貝原益軒でもよい。親が、一本、スジの通った主義をもてば、子どもは
それに適応する。適応しながら、ときには、親を反面教師としながら、自分の生きザマを勝ち取
っていく。まずいのは、「混乱」である。

 そこで私のばあいは、「教師は、子ども※」と決め、めったに、ほかの人の教育論は読まない
ようにしている。話も聞かないようにしている。議論はよくするが、それは対等の立場の議論。
もし本を読む機会があれば、できるだけ教育とは無縁の本を読むようにしている。

 それは私自身が、自分の主義を確立するためでもある。またそういう主義を、自分の育児論
の中に、織りこむためでもある。とくに私は、どこか迎合しやすい性質をもっている。すぐ相手
に合わせて、自分の意見をねじまげてしまう。

 私の講演を聞いて、つづいてあのS氏の講演を聞けば、だれだって、わけがわからなくなる。
私は、「親子といえども、一対一の人間関係」と説く。一方S氏は、「親の尊厳論を説き、よい子
どもを育てるためには、先祖の墓参りが重要」と説く。

 どちらをとるかは、それはみなさん、一人ずつの問題。私の意見がよいと思う人は、私の意
見を参考に、自分の主義をもったらよい。そうでない人は、そうでない主義をもったらよい。そ
れは私の問題ではない。冷たいことを言うようだが、仮に、あなたが私の意見に同調してくれた
としても、私が得るものは、何もない。得をすることも、何もない。

 ただ私自身は、この宇宙に生まれた一つの証(あかし)として、ほんの数センチでも、あるい
はほんの数ミリでも、人間の社会を、一歩、前進させたい。そういう願いをもって、ものを書き、
自分の意見を述べている。

 だからその母親の意見には、こう答えるしかなかった。

 「あっちのカベ、こっちのカベにぶつかっていると、やがて子育ての輪郭が見えてきますよ。そ
れがあなたの子育てです。混乱するということは、一歩、その手前にいるということ。恐れない
で、もう一歩、前に、足を踏み出し、進んでみてください」と。
(はやし浩司 子供の服従性 服従する子供 子ども 子どもの服従 服従性)

※……これは私の重要な主義。子育て論を組み立てていて、わからないときがあると、本を調
べるよりも先に、子どもを観察し、子ども自身に問うことにしている。この世界へ入ってからとい
うもの、私はただひたすら、くる日も、くる日も、アンケート調査を繰りかえした。「教師は子ど
も」というのは、そういう意味。

●役割形成

 子どもは成長しながら、自分の身のまわりで、自分の世界をつくっていく。たとえば男の子と
は、男の子らしくなる。女の子は、女の子らしくなる。だれが教えるわけではない。子どもは、ま
わりを観察したり、自分の方向性に合わせたものを、自ら取り入れることによって、自分がどう
あるべきかを、つくっていく。

 これを役割形成という。

 この役割形成が、混乱することがある。子どものもつ方向性を、じゃましたり、否定したりする
と、そうなる。これをそのまま、「役割混乱」という。

 実は、親たちは、この役割混乱を、日常的に繰りかえす。繰りかえしながら、それに気づかな
い。たとえば干渉。たとえば押しつけ。たとえば指導。たとえば教育。

 たとえば「花屋さんになりたい」と言っている子どもに向かって、「何よ、こんな成績! こんな
成績では、○○中学へ入れないでしょ!」と言うのが、それ。

 子どもにしてみれば、「花屋と○○中学は、どういう関係があるの?」ということになる。そして
ここでいう役割混乱を、起こす。

 一般的に、役割混乱を起こすと、子どもにかぎらず、緊張状態に置かれ、情緒がたいへん不
安定になることが知られている。ささいなことでキレやすくなったりする。さらにこの混乱状態が
つづくと、精神不安。さらには自己嫌悪から、自己否定へとつながる。

 「自己否定」が、いかに恐ろしいものであるかは、それを経験したことがあるものでないとわ
からない。それはたとえて言うなら、ひとりのサラリーマンに、スカートをはかせて会社へ行か
せるようなもの。あまりよいたとえではないが、それに近い。中には、自己否定から、自殺に走
る人もいる。

 そこで大切なことは、子どもの方向性を見きわめたら、それを認め、それを励まし、それを核
として、子どもを伸ばすこと。たとえば子どもが花屋さんになりたいと言ったら、植物の勉強に
つなげ、実際に、いろいろな植物を栽培してみる、など。

 今、夢のある子どもが少なくなった。夢がないわけではない。ただ親たちが、それをあまりに
も無頓着に、つぶしているだけ。「花屋さんなんて……」と。その結果、子どもたちは、夢をもて
なくなった。

 だから大学へ入っても、目的がないから、遊ぶ。目的がないから、勉強しない。そうならない
ためにも、ここでいう「役割形成」を、考えなおしてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 役割
形成 役割混乱)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●劣等意識

 学校に対する劣等意識が、そのままその子どもの劣等意識に、転化することがある。自ら
に、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 ところで人間の行動を律するものには、大きく分けて、二つある。(1)内的規範と、(2)外的
規範である。

 内的規範というのは、その人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観をいう。

 外的規範というのは、その人の社会的地位や名誉、経歴などをいう。

 こうしたものが、いつも総合的にからみあいながら、その人の行動を律する。

 たとえばこんな例を考えてみよう。

 通りを歩いていたら、車が一台、窓をあけたまま、そこにあった。周囲には人影がまったくな
い。遠くに家があるが、そこにも人の気配はない。

 車の窓の中を見ると、手さげバッグが無造作においてあり、そのバッグからは、札束の一部
が見えている。窓の中に手をのばせば、容易に、手が届く距離である。

 もしあなたがそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか。「もらっちゃえ」と思っ
て、バッグごと、持ち去る人もいるかもしれない。しかしほとんどの人は、この段階で、自分の
行動にブレーキをかける。そのブレーキをかける力が、ここでいう内的規範と、外的規範という
ことになる。

 「自分に恥じることはしたくない」というのが、内的規範。「私には、私の立場がある。もしバレ
たら、私は名誉のすべて失うから、しない」というのが、外的規範。しかし実際には、外的規範
の力は、それほど、強いものではない。たいていは、「バレたらたいへん……」という程度の力
でしかない。

 ともかくも、ほとんどの人は、そういったお金には、手をつけない。しかし、だ。その内的規範
を、その人の内部から破壊するものがある。

 それが劣等意識である。この劣等意識は、いわば心の中のがん細胞のようなもので、その
人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観を、少しずつ、むしばんでいく。最終的には、心そのもの
を破壊することもある。自暴自棄になり、善悪の判断すら、しなくなる。

 ところがこの劣等意識というのは、そのほとんどは、自分以外の人によって、植えつけられて
いくものである。友人とか、教師とか、あるいは親によるばあいもある。「君は、何をやっても、
ダメな人間だ」と言われることによって、劣等意識をもつようになる。 

 もう少し詳しく説明すると、こうなる。

 劣等意識は、長い時間をかけて、その人の中で、欲求不満として蓄積される。しかしさらにそ
れが慢性的につづくと、その劣等意識は、記憶のすみにおいやられ、人は無意識のうちにも、
自我の崩壊を防ごうとする。

 そこで多くのばあい、人は、その劣等意識を克服するため、つまり自我の崩壊を防ぐため、さ
まざまな行動に出ることが知られている。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。

 たとえば、勉強面で劣等意識をもった子どもが、スポーツ面でがんばる(=補償)、「勉強なん
て、どうせくだらない」と言って、勉強ができないことを、合理化する(=合理化)、有名人のマネ
をして、自分がその有名人になったような気分になる(=同一視)、空想や非現実的な世界に
いりびたりになり、現実を忘れる(=逃避)、まったく別人となるよう、別人格を自分の中につく
る(=反動形成)などがある。

 しかしこれらも一定の範囲に収まっている間は、問題ない。むしろよい方向に作用することが
多い。

 が、その範囲を超えて、度を越すと、問題行動を起こすようになる。社会的に不適応症状とな
って現れることもある。異常行動となって、犯罪に走るケースも、少なくない。

 つまり、人間がもつ、劣等意識を、決して軽く考えてはいけない。

 そこで最初の話にもどるが、こうした劣等意識は、子どもであればあるほど、鮮明にもちやす
い。そしていくつかの過程を、一足飛びに飛び越えて、問題行動へとつながっていく。

 「ボトム校」の問題と、劣等意識の問題は、こうして密接につながっていく。飛躍した意見に聞
こえるかもしれないが、現在の日本の教育には、こうした問題が隠されている。

 もう少し、かみくだいて説明してみよう。

 たとえば受験競争。勝ち組はともかくも、勝ち組が生まれる一方、当然、そこには負け組み
が生まれる。この負け組みは、毎日の学校生活を通して、「どうせ私は、ダメな人間なのだ」と
いう意識を、無意識のうちにも植えつけられていく。「少しくらいがんばっても、どうにもならな
い」というあきらめも、そこから生まれる。

 つまり日本の教育制度の中では、一部のエリートを生み出す一方、同時に、無気力で、従順
で、もの言わぬ民(たみ)を生み出す。そういうしくみになっている。この後者の子どもたちが、
回りにまわって、勝ち組がリードする社会に対して、ブレーキとして、働くようになる。

 つまり勝ち組のつくりあげる社会を、負け組みがそれを打ち消すことで、相殺してしまう。

 たとえば一方に、東大を出て、上級甲種の国家公務員試験に合格して、警察庁のエリートに
なる子どもがいる。が、もう一方に、受験競争から早い段階で脱落し、働いても働いても、夢も
希望ももてず、その日暮らしの労務者がいる。犯罪を取り締まるのが前者で、犯罪を犯すのが
後者ということになれば、では、そもそも受験競争とは何かということになってしまう。

 少し極端な書き方をしてしまったが、おおまかな図式としては、それほど、まちがってはいな
いと思う。つまりは、教育の世界では、「子どもを伸ばす」ことだけが最優先されるが、しかしそ
れよりも大切なことは、「子どもに劣等意識をもたせないこと」も、重要であるということ。

 そのためには、教育は、多様化されなければならない。自由化されなければならない。学校
以外に道はなく、学校を離れて道はないという世界のほうが、異常なのである。

 たとえば同じ学校にしても、アメリカやオーストラリアでは、学校単位で、自由にカリキュラム
を組むことができる。入学年度すら、自由に設定できる(アメリカの公立小学校)。あるいは生
徒一人ひとりに合わせて、カリキュラムを組むこともできる(オーストラリア・グラマースクー
ル)。

 世界の学校は、すでに、そこまでしている!

 私の過ごした高校が、「ボトム校」と言われるようになって、もう20年になる。M高校と、アル
ファベットで書かねばならないほどである。そうするのは、私が自分の母校を卑下しているから
ではなく、現在、その高校に通っている子どもたちの心にキズをつけないためである。

 しかしバカげている。本当にバカげている。こうした序列ができていること自体、バカげてい
る。

 そこでこれは私からの希望ではあるが、世の中には、反対にエリート校というのもある。そう
いう学校は学校で、どうか、おかしなエリート意識を助長するような活動は、さしひかえてほし
い。

 H市でもナンバーワンの進学校とも言われているSS高校ともなると、部活の総会というだけ
でも、壇上には、OBたちがズラリと顔を並べる。気持ちはよく理解できるが、そういうおかしな
エリート意識が、回りまわって、どこかで、これまたおかしな劣等意識をつくる。そしてそれが、
日本人のみならず、社会のあり方そのものをゆがめてしまう。

 あえて言うなら、外的規範に頼らず、みながみな、内的規範によって、自分を律することがで
きるような、そういう子どもを育てるのが、これからの課題と考えてよい。そのためには、学校
教育はどうあるべきか。それを考えていかないと、日本は、ますます国際社会から、取り残され
てしまうことになる。

 「ボトム校」という言葉から感じたことを、書いてみた。
(はやし浩司 劣等感 劣等意識 防衛機制 補償 合理化 内的規範 外的規範 規範)




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●恋愛の寿命

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心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

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 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くはない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまうからである。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。恋愛と、
結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎのステップへ進
むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、別の新し
い人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りかえし、
恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年ごとに、離
婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかもしれな
い。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書いたよう
に麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ますますはげし
い刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くということにも
なりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじめての恋のとき
は、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の恋のときは、1年間。3
度目の恋のときは、数か月……というようになる。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しかも、はげ
しければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回を重ねれ重ね
るほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフェニルエチ
ルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルアミンという麻薬様の
物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横で聞きな
がら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?
(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性)

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 つまり、恋愛にも寿命があるということ。今風に言えば、賞味期限があるということ。しかもそ
れを繰りかえせば繰りかえすほど、賞味期間は、短くなる。

 だから……というわけでもないが、不倫は不倫として、あるいは浮気は浮気として、さらにそ
れから恋愛感情が生まれたとしても、決して、急いで結論を出してはいけない。どうせ、冷め
る。時間がくれば、冷める。人間の脳ミソというのは、もともと、そうできている。

 知人のケースでいうなら、こうした不倫は、静かに見守るしかない。へたに反対すれば、恋心
というのは、かえって燃えあがってしまう。しかし時間がくれば、冷める。長くても、それは4年以
内。だから私は、こう言った。「放っておけばいい。そのうち、熱も冷める。バレたときは、奥さ
んにぶん殴られればいい。それですむ」と。

 しかし不倫や浮気ができる人は、それなりに幸福な人かもしれない。いや、不幸な人なのか
もしれない。よくわからないが、私の知らない世界を、そういう人たちは、知っている。ただこう
いうことは言える。

 「真剣にその人を愛してしまい、命がけということになったら、それは、もう、不倫でも、浮気で
もない」と。夫や妻の間で、それこそ死ぬほどの苦しみを味わうことになるかもしれないが、そ
のときは、そうした恋愛を、だれも責めることはできない。人間が人間であるがゆえの、恋愛と
いうことになる。

 どうせ不倫や浮気をするなら、そういう不倫や浮気をすればよい。そうでないなら、夫婦の信
頼関係を守るためにも、不倫や浮気など、しないほうがよい。いわんやセックスだけの関係ほ
ど、味気なく、つまらないものはない。(……と思う。)それで得るものより、失うもののほうが、
はるかに多い。(……と思う。)

 いらぬお節介だが……。

 昔、別の、直木賞も取ったことのある、ある作家は、私が、東京の築地にある、がんセンター
を見舞うと、こう話してくれた。

 「所詮、性(セックス)なんて、無だよ」と。私も、そう思う。しかしその「無」にどうして人は、こう
まで振り回されるのだろう。





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【アスペルガー障害】

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症状から、明らかに「アスペルガー障害」と
思われる子どもについての相談があった。

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【はやし浩司より、GN先生へ】

GN先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。相談のあった子どもを、以下、T君(男児)としておきます。

 私はドクターではありませんので、子どもを診断することはできませんが、症状からすると、T
君は、アスペルガー障害(アスペルガー症候群)と、活発型自閉症の複合したタイプと考えてよ
いのではないでしょうか。それが基本にあって、不適切な家庭環境と指導で、症状がこじれてし
まっている。私は、そう判断しました。

 以下、アスペルガーついて、いくつかの文献から、資料をあげてみます。


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●文献より

【臨床心理学・稲富正治・日本文芸社】

 自閉性障害の中でも、言葉や、記憶の発達に遅れがないケースを、「アスペルガー障害」と
呼ぶ。

 対人関係の障害と興味や活動が限定されているという点が、特徴である。

 高機能自閉症とともに、高機能広汎性発達障害に含まれる。

 圧倒的に男児に多く、知能は平均以上であるものの、コミュニケーションがうまく取れなかっ
たり、不器用であるため、孤立しやすくなる。

 計算や文字、地図など限定されたものに対して、異常なほどの関心を示し、その中で独創性
を発揮する人もいる。が、自分が守っている範囲に、他人が侵入してきたり、乱されたりするこ
とに対して、著しく、攻撃的になる。

 原因は、中枢神経の障害であると言われているが、まだ解明されたわけではない。遺伝の要
素も強く、パーソナリティ障害や情緒障害と診断されるケースもあるため、診断には最新の注
意が必要。

 最近では、対人関係のトラブルをどのように解決するかを意識的にトレーニングする、行動
療法などの治療法がある。


【発達心理学・山下富美代・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、言語発達に遅れがみられないほか、知能も高い水準を維持していると
いわれる。しかし自閉症と同様に、相互的な対人関係の障害がみられること、ある特定のもの
に対する関心の程度が高すぎることなどが特徴である。

 また自閉症とともに、男の子に多い障害でもあり、医学的な治癒は難しいとされている。

 特徴としては、(1)正常な対人関係をもつことは困難、(2)特定のものに対する、こだわり、
興味の偏(かたよ)りがみられる。(3)言語障害はみられない。


【心理学用語・渋谷昌三・かんき出版】

 ……ウィングは、自閉症には、3つの特徴があると説明している。

(1)社会性の問題

 自分の体験と他人の体験が重なりあわない。(他人がさっと顔色を変え、怒った表情をすれ
ば、自分が悪いことをその人に言ったのではないかと思うが、自閉症の人は、こうした他人の
感情を推し量るのが、非常に苦手。)

(2)コミュニケーションの問題

 言葉の遅れから、双方のコミュニケーションが、うまくとれない。(声の大きさや、イントネーシ
ョンの調整が苦手、自分の意見を言うとき、どのように言うべきかを迷う。)

(3)想像力の遅れ

 1つの対象に、異常なほど興味を示す。特定の儀式にこだわる。

 これらの特徴のうち、コミュニケーションの障害が、非常に軽いものを、「アスペルガー症候
群」と呼ぶ。軽い遅れというのは、冗談が通じにくい、比喩を使った表現が理解しにくいことをい
う。

 すなわち、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが目立たず、知的には正常だが、生ま
れつき社会性の障害と、こだわり行動をもっている自閉症を指す。


【臨床心理学・松原達哉・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、乳児期後半から特徴が出始め、6〜7歳に顕著になる。ほとんど男児
のみにみられる障害である。

 言語的な発達には遅滞はないが、言葉は単調で、抑揚がないという特徴がある。言語や容
貌に子どもらしさがなく、コミュニケーションがとれず、集団の中では孤立することが多い。

 特定の対象、数字・文字・地図・貨幣などに興味を示し、独創性もあり、知能は平均以上と推
定される。しかし自己の領域を侵されると、パニックを起こし、攻撃的になる。また、多くの全体
的な知能は正常だが、著しく、不器用であることが多い。

 青年期から成人期へ、症状が持続する傾向が強いが、統合失調症(精神分裂病)の診断基
準は満たさないので、成人後も、精神分裂病にはならないといわれている。

 治療法は、その子どもの特性を理解し、それに合った、治療・教育をすれば、じゅうぶん社会
に適応できるようになる。大切なことは、病態に対する周辺の理解であり、治療においても、社
会福祉的な領域が重要になる。

 ……アスペルガー症状は、自閉症と類似しており、自閉症の軽度の例にもみえるため、それ
ぞれの診断は困難である。

症状の例として、本人のやっていることを中断させると、突然、怒り出すなどがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガー症)

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●親自身の問題

 こうした事例で、まず注意しなくてはいけないのは、親自身が、すべてを話しているかどうかと
いうことです。つまりほとんどの親は、自分に都合の悪いこと、たとえば不適切な対処法で、子
どもの症状を、かえってこじらせてしまったようなことについては、話しません。

 無意識のうちに、こじらせてしまうというケースもありますが……。

 T君について言えば、乳幼児期から多動性があったということですが、この段階で、母親が、
かなりきびしく叱ったり、怒ったり、あるいは体罰としての暴力を振るったことも、じゅうぶん、考
えられます。

 T君にみられる、一連の不安症状、さらには、基本的な不信関係は、そういうところから発生
したと考えられます。母親からの報告内容にしても、まるで他人ごとのような観察記録といった
感じで、私はそれを読ませてもらったとき、「?」と思いました。あたかも、「うちの子は、生まれ
つきそうで、それは、私の責任ではない」と言わんばかりの内容ですね。

 で、私の経験を話します。

●私の経験より

【U君(小3児)のケース】

 U君を最初に預かったのは、まだ、「アスペルガー症候群」という言葉が、ほとんど知られてい
ないころでした。1990年代の中ごろです。(1944年に、オーストリアの小児科医のアスペル
ガーが、その名前の由来とされていますが、日本でこの名称が使われ始めたのは、90年代に
入ってからです。)

 最初、自閉症かなと思いましたが、知的能力の遅れはなく、言語障害も、みられませんでし
た。が、いくつかのきわだった特徴がみられました。

(1)ほかの子どもと仲間になれない

 そのあと、U君が小学校を卒業するまで、私が週2回指導しましたが、最後の最後まで、結局
は、友だちができませんでした。いつも集団から1歩、退いているといった感じで、軽い回避性
障害もありました。集団の中へ入ると、心身が緊張状態になってしまうからです。

(2)ずば抜けた算数の力

 計算力はもちろん、算数全般について、ずば抜けた能力を示しました。知的能力は、平均児
より高かったのですが、最後まで、乱筆には、悩まされました。文字を書かせても、メチャメチ
ャでした。こうした不器用さは、アスペルガー障害の子どもに、共通しています。こまかい作業
が苦手で、それをさせると、混乱状態から、突然、キレた状態になることもあります。

(3)極端な自己閉鎖性

 U君のばあいは、まちがいを指摘しただけで、突然、キレて、激怒することもありました。(軽
いばあいは、顔をひきつらせて、大粒の涙だけを流す、など。)たとえば計算問題などで、まち
がいを見つけ、「やりなおしなさい」と指示しただけで、キレてしまう、など。

(キレないときもありましたが、あとでノートを見ると、エンピツで、きわめて乱暴に、それを塗り
つぶしてあったりしました。)

 こうした特徴を総合すると、U君には、心の持続的な緊張感、特別なものへのこだわり、自己
閉鎖性があったことになります。

 幸いなことに、U君のケースでは、母親が、たいへん穏やかで、心のやさしい人でした。です
からそれ以上、心がゆがむということは、U君のばあいは、ありませんでした。私は、当時は、
「U君は、ほかの子どもとはちがう」と判断し、U君はU君として、指導しました。

●治療は考えない

 こういうケースで重要なのは、アスペルガー症候群にかぎらず、子どもの心の問題に関する
ことは、「治そう」とか、「直そう」と思わないことです。

 「あるがままを認め」、「現在の状態を、今より悪くしないことだけを考えながら」、「半年、ある
いは1年単位で、様子をみる」です。

 で、相談をいただきましたT君にケースですが、全体に、周囲の人たちが、「治そう」とか、「直
そう」とか、そういう視点でしかT君をみていないのが、気になります。「少しよくなれば、すぐ無
理をする」。その結果、症状を再発させたり、悪化させたりしている。あとは、その繰りかえし。
そんな感じがします。

 U君のケースのほか、兄と弟でアスペルガー障害のケースなど、「アスペルガー」という言葉
がポピュラーになってから、(2000年以後ですが……)、私は、4例ほど、子どもを指導してき
ました。

 (最近は、体力の限界を感ずることが多く、指導を断るケースが、多くなりました。)

 その結果ですが、アスペルガー障害そのものの(治癒)は、たいへんむずかしいということで
す。そのかわり、小学3、4年生ごろから、自己意識が急速に育ってきますから、それを利用
し、子ども自らに自己管理させることで、見た目には、症状を落ち着かせるということはできま
す。

 子ども自身が、自分で自分を管理できるように、指導していくわけです。

 しかしこれも、1年単位の根気と、努力が必要です。とくに指導する側は、その生意気な態度
のため、カッとなることもあります。たとえばU君のばあいでも、私がまちがいを指摘しただけ
で、私に向かってものを投げつけてきたことがあります。あるいは、ぞんざいな態度で、「ウル
セー」と、言い返してきたこともあります。

 そういうとき、ふと、その子どもが、アスペルガー障害であることを忘れ、「何だ、その態度
は!」と叱ってしまうこともありました。「根気が必要だ」というのは、そういう意味です。

 先生からいただいた報告の中に、担任の教師が、かなり乱暴な指導をしたという記録が書い
てありますが、それもその一例と考えてよいのではないでしょうか。記録だけを読むと、担任の
教師が悪いように思われますが、このタイプの子どもの指導のむずかしさは、ここにあります。

子どもがキレた状態になったとき、きわめて生意気な様子をしてみせるからです。ふつうの態
度ではありません。おとなを、なめ切ったような態度です。

●親側の問題

 で、先にも書きましたが、現在、T君と母親の関係についても、考えなければなりません。親と
いうのは、こういうケースでは、自分に都合の悪いことは、話しません。そういう母親がよく使う
言葉が、先にも書きましたが、「生まれつき」という言葉です。

 「うちの子は、生まれつき、こうです」と。

 子どもの症状を悪化させながら、その意識も、自覚もない。もっとも、だからといって、親を責
めてもいけません。親は親で、そのときどきにおいて、懸命に子育てをしているからです。懸命
にしている中で、客観的に自分を見る目を失ってしまう。よい例が、不登校児です。

 子どもが「学校へ行きたくない」などとでも言おうなら、その時点で、たいていの親はパニック
状態になり、子どもを、はげしく叱ったり、暴力的に学校へ行かせようとします。この無理が、症
状を悪化させてしまいます。

 たった一度の一撃でも、子どもの心が大きくゆがむということは、珍しくありません。

 で、その時点で、親が冷静になり、「そうね。どうして行きたくないのかな? 気分が悪けれ
ば、無理をしなくていいのよ」と親が言ってやれば、不登校は不登校でも、それほど長期化しな
くてすんだかもしれません。そういうケースも、私は、やはり何十例と経験してきました。

●年単位の観察を

 先生からいただいた報告書を読むかぎり、親も、担任の教師も、みな、少しせっかちすぎる
のではないかと思います。先にも書きましたが、この問題だけは、1年単位、2年単位で、症状
の推移をみていかなければなりません。

 「先月より今月はよくなった」ということは、本来、ありえないのです。ですから週単位、月単位
の変化を記録しても、意味はありません。またそうした変化に一喜一憂したところで、これまた
意味がありません。もう少し、長いスパンで、ものを考える必要があります。

 簡単に言えば、現在のT君を、あるがままに認め、そういう子どもであるということに納得し、
(もっとわかりやすく言えば、あきらめて)、対処するしかありません。T君は、給食におおきなわ
だかまりをもっているようですが、そういう子どもと、先に認めてしまうのです。

 それを何とか、食べさせようと、みなが無理をする。それが症状をして、一進一退の状態にし
てしまう。あるいはときに、もとの木阿弥にしてしまう。

 ……といっても、年齢的に、小4ということですから、症状は、すでにこじれにこじれてしまって
いると考えられます。本来なら、乳幼児期にそれに気づき、その時点で、親がそれに納得し、
指導を開始するのが望ましいのですが、報告書を読むかぎり、そういった記録がありません。

 ご指摘のように、T君の親は、学校側の指導法ばかりを問題にしているようですね。しかし、
これでは、いけない。本来なら、専門のドクターに、しっかりとした診断名をくだしてもらい、そう
であると親自身が納得しなければなりません。

 で、指導する側の私たちとしては、「知って、知らぬフリ」をして指導するわけです。私が指導
してきた子どもたちにしても、現在、指導している子どもたちにしても、私は、「知らぬフリ」をし
て、指導してきました。今もそうしています。もちろん私のほうから、診断名をくだすということ
は、絶対に、ありえません。またしてはなりません。

 が、親のほうから、たとえば「アスペルガー」という言葉が出てきたときは、話は別です。その
ときはそのときで、「アスペルガー」という言葉を前面に出し、指導します。しかしそれまでは、
知らぬフリ、です。

 ただ「そうでない」という判断はくだすことがあります。自閉症の子どもではないかと心配して
きた親に対して、「自閉症ではないと思います」というように、です。そういうことは、しばしばあり
ます。

●親の無知

 で、やはり、ここは親に、それをわかってもらうという方法をとるしかありません。しかしこれ
も、むずかしいですね。

 最近でも、明らかにADHD児の子ども(小5)がいました。で、それとなく親に聞いてみたので
すが、親は、まったく自分の子どもがそうであることさえ疑っていないのを知り、がく然としたこと
があります。「うちの子は、活発な面はあるが、ふつうだ」と。

 つまり親の無知、無理解をどう克服するかという問題も、生まれてきます。アスペルガー障害
であれば、なおさらでしょう。幼児教育の世界でも、この言葉がポピュラーになったのは、ここ
5、6年のことですから……。

 以上、私の独断で、T君を判断してしまいましたが、まちがっていることもじゅうぶん、考えら
れます。一番よいのは、私自身が、T君を直接観察してみることです。また機会があれば、そっ
と遠くから観察してみてもよいです。ご一考ください。

 あまりよい返事になっていませんが、さらに最近の研究では、環境ホルモンによる脳の微細
障害説を唱える学者もいます。アスペルガー障害にかぎらず、このところ、どこか「?」な子ども
がふえているのは、そのためだ、と。

 あくまでも、参考的意見として、お読みいただければうれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 長々とすみませでした。相談いただいたことをたいへん光栄に思い、感謝しています。ありが
とうございました。


敬具


                                はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガーの子ども)




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【運命とは……】

●掲示板への相談より

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9月3日、日曜日。長旅から帰ってみると、
掲示板に、2件の書き込みがありました。

今すぐ返事を書きたかったのですが、今日は疲れました。
そのため相談だけをここに、紹介させていただきます。

Nさん、しんさん、どうか、勝手をお許しください。
(9月3日記)

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【Nさんより、はやし浩司へ】

5月と7月に、大1の息子のことで相談させていただきましたNです。
たびたび書き込みをして、申し訳ございません。

今朝、息子の元彼女の母親から、電話ありました。
主人が出ました。 

「(息子の)赤ん坊は生まれました。息子さんと連絡つかないので、その旨、伝えてください」と
いう内容でした。主人は、「そうですか」しか、答えなかったそうです。

息子にそのことを伝え、どうするのか聞きました。息子はもうすでにそのことを知っていました。
が、息子の返事は、「まだ考えてないので、考えたら連絡する」でした。

先生のおっしゃる通り、今まで静観してきました。が、今回の電話では、とくに要求はありませ
んでした。

息子はまるで人ごとのようです。私も主人も、妊娠6か月まになるまで、何も知らせてくれなか
った、元彼女と両親に対して、憤慨しています。が、その一方で、息子には責任をとってもらい
たいという気持ちもあります。

主人はまだ、静観しようと言います。 それでいいのでしょうか?!

9月からも、大学に行くかどうかさえ分からない息子。
なのに、車の免許をとったので、車買う!とまで言う、無責任な息子。
まだまだ、こうした状態を受け入れ、口にチャックをし、水が流れように、今の状態を見守った
ほうがいいのでしょうか?!

(まだ私は、子離れできていませんね。しかし人が一人、この世に生まれてきたのです。息子
のように、安易でいいとは、どうしても思えないのです。)
何度も何度もお許しください。


【しんさんより、はやし浩司へ】

長男、高校2年の息子のことで、ご相談させていただきます。

家族構成は、夫48歳、(自分)44歳、長女高校3年、長男です。夫の両親共に、74歳。6人
家族です。KN県在住。

長男は公立中学校を卒業した後、東京都内の、農学部のある大学の付属高校へ通っていま
す。

小さいころから、生き物など大好きで、中学に入ってからは、果樹や熱帯果樹に興味をもち、
今では狭い庭ですが、季節ごとに色々な果樹が実りを見せてくれます。

中学のときの成績は中の上で、進路を決めた高校も、長男の学力に見合った学校と思ってい
ました。推薦入試ののち、一般入試で受けた、難関クラスへ入学しました。

(難関クラスというのは、長男が入学する年にできた、国公立大や有名大をめざすクラスのこと
です。)

部活はハンドボール部に入部しました。親としては小柄で、痩せていて、体力がなく、通学にも
1時間半かかるので、賛成できない気持ちもありましたが、本人の強い意志に任せました。

ところが高1年の3学期ごろから、気持ち悪い、頭痛を訴えるようになりました。中学のころか
らの慢性じんましん症状を訴えていましたが、そんなわけで、通学途中、何度となく電車を途中
下車して、引き返してくることがありました。

高校1年の2学期ころから、集中力がない自分に気づいたようです。あとはあせればあせるほ
ど、勉強が手につかなくなる。そういう状態でした。

成績も下がりはじめ、2年の1学期に、さらに成績は落ちていきました。

そして2年の1学期の成績で赤点2つ。夏休み直前に担任と面談しました。このとき、この先、
自分はどうするかを考えて報告するという約束を、学校側にしました。が、その結果、7月末
に、息子は、担任へ、「退学」を宣言してしまいました。私には「部活も友達もいいから、(いらな
いから)、学校を辞めたい」と言いました。

(難関コースから進学コースへの変更はできないとのことです。)

私からみても自信がなさそうで、ただ時間に追われている長男に気づいたのは、春休みぐらい
のことでした。膨大な量の宿題もはかどらず、部活に追われていました。でも心の内は話しても
くれませんでした。私はただ漠然と悩み、さらに日々、一方的な『あらねば論』、つまり「あなた
はこうあるべきだ」というようなことを、長男に言いつづけていました。

2年の1学期期末テストが終わったぐらいから、行動も投げやりになり、何とか、かろうじて生き
抜いているといった状態でした。そういう中、ネットで調べて、(はやし浩司のHPにたどりつ
き)、やっと親の過干渉や抑圧と、度を越した勉強管理で、息子が自立できないで、苦しんでい
ることが判りました。

私はカウンセリングをうけたあと、長男に対して、すべての話しかけは辞めています。そのため
息子の表情は、少し柔らかくなり、機嫌のいい時は、息子のほうから話をしてくれます。

が、夏休み中、学校からの転校の提案がありました。「東京都内では可能だが、神奈川では無
理」ということでした。それで、9月から不登校をつづけています。

自立しなくてはいけない子どもに、余計な働きかけをしてはいけないことは、承知しています。
が、私たち親も信じられず、学校は行けない後ろめたさとか、退学すると宣言しても、本心は学
校に行きたいなどの気持ちなど、このまま誰にも心を明かすことなく、息子が、孤独と戦ってい
かねばならないのかと思うと、どこかでカウンセリングを無理にでも受けたほうがいいのかとも
考えてしまいます。

今度のことで今までの自分がいかに子どもを信頼していなかったか気づき、ありのままの長男
を受け入れられる自信がでてきたのですが、自分だけが楽になっているように思い、こうして相
談させていただくことにしました。

よろしくお願いします。


【はやし浩司より、Nさん、しんさんへ】

 Nさんのやり場のない、怒りというか、不安というか、そういうものが、私にも、ひしひしと伝わ
ってきます。一日とて、心が晴れることもない。安心して、眠ることもできない。忘れようとすれ
ばするほど、こうした問題は、心の内側にペッタリと張りつき、気をふさぎます。それが私にも、
よくわかります。

 しんさんも、そうだろうと思います。「この先、うちの子はどうなるのだろう」という、心配と不
安。それらが、しんさんの心の中で、渦を巻いている。一日、一日が、機械じかけの責め具の
ように、胸を押しつぶす。それも、私には、よくわかります。

 他人の子どもなら、足で蹴飛ばして、「ハイ、さようなら」と言うこともできるかもしれません。
が、それができない。できないから、Nさんも、しんさんも、宿業と言えるような、大きなジレンマ
の中で、もがき、苦しんでしまうのです。

 しかしね、Nさん、しんさん、どこの家庭も、そしてどこの親子も、みな、同じような問題をかか
えているものですよ。外から見ると、みな、うまくやっているように見えますが、それはあくまで
も、外見。問題のない家庭などないし、問題のない親子など、ないのです。

 こうした問題が、家族の中で起こると、だれしも、「どうして、うちの子が……」「どうして、うち
の子だけが……」と思うものです。しかしこの種の話は、いまどき、珍しくも、何ともありません。
ゴマンどころか、ジューマン単位で、あります。

 一見、子どもの問題に見えますが、これは子どもの問題ではありません。要は、その運命
を、受け入れるかどうかという問題です。受け入れてしまえば、何でもないのです。

 Nさんについて言えば、「孫ができた」。それだけのことです。形にこだわることはないので
す。また家族に、形など、ありません。結婚して子どもができた直後に離婚……というケース
は、いくらでもあります。

またしんさんについて言えば、「高校を中退した」。それだけのことです。が、Nさんも、しんさん
も、「コース」にこだわっている。そのコースにこだわり、自分を、がんじがらめにしている。

 そして自分の心配や不安を妄想的にふくらませ、ああでもない、こうでもないと悩んでいる。

 アメリカなどでは、女子高校生の妊娠、出産など、まさに日常茶飯事ですよ。高校の中に託
児所があるほどですから。また同じくアメリカには、現在、ホームスクーラー、つまり学校へ行
かないで、自宅で学習している子どもが、推定で、200万人以上、いますよ。

 シングルマザーにしても、みな、たくましく、自分の子どもを育てています。あえて結婚という形
を選ばない、シングルマザーたちです。

 運命というのは、それを恐れたとき、悪魔となって、キバをむいて、あなたを襲ってきます。し
かしそれを笑えば、運命というのは、向こうから退散していきます。Nさんも、しんさんも、運命
を恐れるあまり、自分を見失ってしまっている。

 私には、そんな感じがします。

 で、どうでしょう。もうこの際ですから、自分の運命を、前向きに受け入れてしまっては……?
 何でもないことですよ。もっと言えば、私もあなたも、息子さんたちも、今、こうして元気で、こ
の地球の上で生きている。そこを原点にして考えれば、何でもないことですよ。

 ハハハと、「少し早いけど、孫ができちゃった」と、笑えばいいのです。
 ハハハと、「うちの子も、高校を中退しまして」と、笑えばいいのです。

 「もう一度、子育て、やってやるか」と、前向きに考えればいいのです。
 「何年後でもいい。そのうち専門学校で勉強したくなったら、勉強すればいい。今は、心を休
めるとき」と、前向きに考えればいいのです。

 だって、どうにもならないでしょ。いや、あなたがたが、何とかしようとあせればあせるほど、か
えって、ものごとは、(あくまでもあなたがたにとっての話ですが)、悪いほうへ、悪いほうへと、
進んでしまう。

 私も、自分の子育てをしながら、いろいろな問題にぶつかりました。実家の問題も、ありま
す。でもね、そのつど、そうした運命を受け入れることで、そうした問題を乗り越えることができ
ました。

 「さあ、来たければ来い」とね。そして、その分、私はこう思うようにしました。「お前たちの分ま
で、がんばってやる!」と。そう思ったとたん、気持ちがウソのように楽になったのを覚えていま
す。またそれがバネとなって、私に生きる活力を与えてくれました。

 以前、その女性についての原稿を書いたことがありますが、Nさんや、しんさんのかかえてい
る問題など、何でもないと言えるほど、深刻で不幸な境遇の人(女性、30歳くらい)がいまし
た。

 父親は、その女性が、3、4歳のとき、自殺。以後、養女として、親戚をたらい回しにされたあ
と、叔父に強姦され、家出。それが中学2年生のとき。そのあとは、お決まりの流転生活。非
行。妊娠、中絶。その繰りかえし。やっと現在の夫と結婚し、2人の子どもをもうけたが、そのこ
ろ、今度は、兄が自殺。おまけに下の子(8歳)が、重い病気に……。

 その女性は、「もう何がなんだか、わけがわからなくなりました」と手紙に書いていましたが、
そんな女性でも、今、懸命に生きていますよ。明るく、前向きに生きていますよ。「今、ここで幸
福を逃がしたら、私は、本当に不幸になってしまう」「幸いにも、夫は、私を愛してくれています」
「すばらしい家庭を築いています」と。

 Nさんについて言うなら、養育費の問題が出てきたら、そのときは、そのとき。それをバネにし
て、あなたはもう一度、人生にチャレンジすればいいのです。またしんさんについて言うなら、も
う学校など、あきらめなさい。

 何が、難関コースですか!! 笑わせるな!! そんな愚劣な高校なら、あなたのほうから、
蹴飛ばしてやりなさい。つまずいて、ころんでいく子どもに転校を勧めるような学校は、もう学校
ではありません。ただの訓練校。進学塾。バカを育てる、家畜の養育場。

 そういう学校に背を向ける、あなたの子どものほうが、よっぽど、正常です。わかりますか?
 ただしばらく、今までの後遺症が残り、ここ数年は、あなたの子どもは、宙ぶらりんの状態に
なるかもしれません。

 しかし大切なことは、あなたたちは、自分の子どもを最後の最後まで、信ずることです。だま
されても、だまされたフリをして、無視することです。わかりますか?

 あなたたちの子どもは、あなたたちの過干渉と、過関心で、心の中がズタズタにされている。
私があなたたちの子どもなら、「もう、いいかげんにしてくれ」と、叫ぶでしょうね。きっと……。う
るさくてしかたない……。何かをするたびに、ああでもない、こうでもないと、否定ばかりする。
たまらないでしょうね。きっと……。

 とくにNさんは、何かあるたびに、ものごとを悪いほうに、悪いほうに考えてしまう(?)。車の
運転免許を取ったら、だれだって、つぎに車をほしがうようになりますよ。どうしてそれが悪いこ
となのですか。親の価値観を、子どもに押しつけないこと。

 こうした身勝手さが、あなたと、あなたの子どもの間を遠ざけている。そういうことを、あなた
は考えたことがありますか? あなたは、いつも、自分のことしか、考えていない! あるいは
自分の不安や心配を、自分の息子にぶつけているだけ! 自分がしてきた、数々の、失敗
は、すべて棚にあげて、それを正面から見ようともしていない。それともあなたは、「私はすばら
しい母親だった」「すばらしい母親になるために、努力してきた」と、あなたは胸を張って、それ
を言えるとでもいうのでしょうか。

 あなたにして、あなたの子どもなのです。

 だから、もう運命を受け入れなさい。前にも書いたと思いますが、あなたの孫が生まれたので
す。今は、愛情は感じないかもしれませんが、会って、世話をするうちに、あなたの感情も変わ
ってくるはずです。もしあなたが心のどこかで、祖母としての、責任を感ずるならの、話しですが
……。

 毎回、きびしいことを書いていますが、これはあなた自身を救うためと、許してください。しか
しもしここであなたが、この問題から逃げるようなことがあれば、つまりあなたの息子に問題を
押しつけて逃げるようなことがあれば、あなたはあなたのままだということです。

 しかし運命を前向きに受け入れれば、あなたはこの時点を境に、もっとすばらしい世界をそこ
に見ることになります。あなたは、すばらしい女性になることができます。

 どうですか? それができますか? が、もしそれができないというのなら、もう私のような人
間に相談するのは、やめなさい。相談したところで、問題は、何も解決しませんよ。あなたはい
つまでも、ジクジクと悩みつづけるだけです。

 しんさんも、同じです。今、あなたの子どもは、自分の命をかけて、あなたに何かを教えようと
しているのです。それに謙虚に耳を傾ければよいのです。「あなたは苦しかったのね」と、で
す。

 いいですか、親が子どもを育てるのではありませんよ。子どもが、親を育てるのですよ。幾多
の山を越え、谷を越えるうちに、親が、子どもに育てられるのです。それに気づけば、あなたた
ちは、すばらしい親になれます。と、同時に、こうした問題は、笑い話となって、闇のかなたに消
えていくのです。

 あと一歩ですよ、みなさん! がんばってください! 


++++++++++++++++++++

話は変わりますが、運命について書いた
原稿を、一作、添付しておきます。

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●ある姉妹の運命

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それぞれの人には、それぞれ、
クモの糸のように、無数の
人間関係がからんでいる。

そしてそのクモの糸にからまれている
うちに、その人の人生がどうあるべきかが
決まってくる。

それを「運命」というなら、運命は、
だれにでもある。

+++++++++++++++++

 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

 大切なことは、どこでどう、その運命を受け入れ、どこでどう前向きに構えるかということ。…
…というほど大げさな問題ではないが、最近、こんなことがあった。ワイフの友人の問題だが、
それには、いろいろ考えさせられた。

それを話す前に、少し、説明しておきたいことがある。

子育ての世界には、「代償的過保護」という言葉がある。一見、過保護のように見えるが、過保
護ではない。過保護には、その背景に、深い親の愛情が見え隠れするが、代償的過保護に
は、それがない。

 子どもを自分の支配下において、子どもを自分の思いどおりにしたいというのが、代償的過
保護。つまりは、過保護もどきの過保護。もっと言えば、子どもを、親の心のすき間を埋めるた
めの、道具として利用する。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔する親たち。「子どものため」
と言いながら、何も、子どものことなど、考えていない。自分の不安や心配を解消するために、
子どもをして、受験勉強にかりたてる。あるいは自分が果たせなかった夢や希望を、子どもを
通して達成するために、子どもを利用する。それが、「代償的過保護」。

 この代償的過保護になる親には、共通のパターンがある。

(1)心のすき間、つまり精神的未熟さ、情緒的不安定さがある。
(2)いつも満たされない欲求不満をかかえている。
(3)「産んでやった」「育ててやった」を口ぐせにしやすい。
(4)子どもの自立、独立を阻止しようとする。自分から離れていくのを許さない。
(5)ベタベタの親子関係をつくりやすい。子どもに依存心をもたせやすい。
(6)自己愛的傾向が強く、ものの考え方が、自己中心的で、人格の完成度が低い。
(7)独得の子ども観をもっている。

 最後の「独得の子ども観」というのは、親にベタベタ甘える子どもほど、いい子で、かわいい
子と考えやすいことをさす。そして、子どもを大切にするということは、子どもにいい思いや、楽
をさせることと誤解する。

 Aさん(60歳、女性)は、まさに、そんなタイプの母親だった。虚栄心が強く、世間体を、異常
なまでに、気にした。その上、自分勝手でわがまま。2人の娘がいたが、その娘たちとは、はや
くから絶縁状態。顔を合わせることもあったが、会うたびに、Aさんは、娘たちに、「親不孝者
め!」とか、「地獄へ落ちるぞ!」とか言って、娘たちをおどした。Aさんは夫とは、その5年ほど
前に、死別していた。

 が、不幸は突然やってきた。不幸といっても、Aさん自身のことではない。娘たちの不幸であ
る。ある朝、Aさんは、脳梗塞を起こして、倒れてしまった。幸い、症状が軽く、運動マヒは残ら
なかった。しかし人格が、変ってしまった。「母は、まるで別人のように、無表情で、怒りっぽくな
った」(妹)とのこと。しかしそれは同時に、娘たちの苦しみのはじまりだった。

 2人の娘は、たがいにけんかをした。「あんたが長女だから、めんどうみろ」「あんたのほう
が、母にかわいがってもらったのだから、あんたが、めんどうをみろ」と。

 結局、生活費は妹夫婦が負担して、姉のほうが、Aさんのめんどうをみることになった。暗黙
の了解ということだったが、娘たちは、自分の人生をのろった。とくに姉のほうが、その負担を
大きく感じた。

 姉は、毎週のように妹の家に来て、グチを言った。そのグチが、ときには、1時間以上もつづ
くことがあった。姉は、介護ノイローゼから、うつ病の一歩手前という状態ではなかったか。

 夜眠れない。朝早く、目がさめてしまう。耳鳴りがひどい。食欲がない。血圧があがった。腰
が痛い。頭痛がする。吐き気がする、などなど。

 そして母親のささいなことを取りあげて、ああでもない、こうでもないと不平、不満を並べた。
たとえば、インスタントラーメンが、台所のシンクの穴につまっていた。洗面所のお湯が流しっ
ぱなしになっていた。パンが、戸だなの中で、腐っていた。植木鉢の花が、枯れてしまった、な
ど。

 そしてあれこれ理由を並べて、妹が出すお金では、足りないと不満を言った。「往復するだけ
でも、20キロはある。ガソリン代が高い」と。

 妹のほうは、言われるまま、そのつど、2万円とか3万円とか、払っていた。が、それが当たり
前になると、今度は、「時間が取られる」「夫の仕事が手伝えなくなった」「旅行に行けなくなっ
た」と、妹に訴えた。

 母親はまだ、そのとき、65歳になっていなかった。一応、身の回りのことは、自分でできるの
で、介護の認定審査も受けられなかった。姉は、母親を、グループ・ホームへ入れたいと言っ
た。が、月々の費用だけで、13万円。プラス、小遣い。

 が、ここで、事件が起きた。母親が、姉に、それまでは自分で隠しもっていた、銀行の通帳と
印鑑を、渡した。見ると、そこには、1000万円近い金額があった。夫、つまり姉妹の父親の生
命保険金も、それに含まれていた。姉は、「私が預かる」と言って、その通帳と印鑑を、自分の
ところへもっていってしまった。が、このことは、妹には、話さなかった。

 しかし、それは、やがて妹の知るところとなった。母親が、妹のほうへ、電話をした。その通帳
と印鑑の話をした。妹は、即、姉に電話をして、金額をたしかめた。が、姉は、「見ていない」
「計算していない」「300万円くらいかな」と、とぼけた。

 とたん、妹は、姉への不信感をもつようになった。それまでは姉の健康に気をつかっていた。
母親のめんどうをみない自分に恥じて、姉の言うままに、お金を出していた。その妹は、私の
ワイフにこう言った。

 「母も母ですが、姉も姉です。私たち姉妹は、母のおもちゃのようなものでした。ウソのかたま
りというか、何が本当で、そうでないのか、わからない人でした。私たちは、母に、いいように操
られていただけです。そういう自分に気がついて、母とは絶縁しましたが、姉まで、ウソつきと
知って、もう何を信じていいのか、わからなくなりました」と。そして、こう言ったという。

 「しばらくしてから、私の心の中に、大きな変化が起きたのがわかりました。姉に対して、平気
でウソをつくようになってしまったということです。たとえば毎週のように私の家までやってきて、
グチを言っていましたが、それに対して、私と夫は、居留守を使うようになりました。息子たちに
も、口裏をあわせさせています。

 電話機をナンバーディスプレイにして、姉からの電話を受けないようにしました。携帯電話の
番号も変えました。姉には、携帯電話はもうやめたと話してあります。

 で、姉が来そうな日には、わざと何か用をつくって、家にはいないようにしています。以前の私
なら、それだけでも、罪の意識をもったでしょうが、今は、もう、ありません」と。

 こうした現象は、シャドウ論で説明できる。

 人はだれしもある程度の「仮面(ペルソナ)」をかぶる。仮面をかぶって生きている。よい例
が、ショッピングセンターの女性である。いつもにこやかな笑みを絶やさない。しかしそれは仮
面。

 で、その仮面を仮面と気づいている間は、問題ない。しかし中には、その仮面を脱ぎ忘れてし
まう人がいる。仮面を仮面とわからなくなってしまう。そして自分を、「善人」と錯覚してしまう。

 ここに書いた、Aさんが、そうではなかったか。妹は、こう言う。「私の母は、他人の前では、ま
るで牧師か何かのように振る舞います。しかしその他人の目の届かないところでは、他人の悪
口ばかり。他人の不幸が、何よりも楽しい、といった感じの話し方をします」と。

 が、やがて、2人の娘たちと疎遠になると、Aさんは、その娘たちにも、まるで牧師のような振
る舞いをするようになったという。で、あるとき、妹が、Aさんにこう言ったという。「母さん、私
に、そんな手を使っても、無駄ですよ。私は、母さんが、本当は、どんな人かよくわかっていま
すから」と。

 しかしもうそのときには、Aさんには、妹の言った言葉を理解する能力がなかった。仮面が、
仮面であるとさえわからなくなっていた。

 が、仮面をかぶればかぶるほど、自分の中の邪悪な部分を、心のどこかに閉じこめようとす
る。意識的にそうすることもあるし、無意識的にそうすることもある。そしてその邪悪な部分に
ついては、あえて「私ではない」と、言い切ったりする。

 その一例として、反動形成がある。牧師が、ことさらセックスや不倫の話を嫌ってみせたりす
るのが、それ。よい人間を演じつづけていると、その反動として、邪悪なものを、おおげさに遠
ざけようとする。

 が、問題は、ここで終わるわけではない。

 こうして仮面をかぶることにより、その邪悪な部分が、心の奥に閉じこめられる。しかしそこで
その邪悪な部分が消えるわけではない。その邪悪な部分が、その人のシャドウ(影)となって、
その人をウラから、操ることがある。

 が、それはそれ。その人の勝手。実は、親がこうしたシャドウをもつと、そのシャドウを、子ど
もが引きついでしまうことがある。そういう例は、たいへん、多い。Aさんのケースで言うなら、姉
が、Aさんのシャドウを引きついでしまったことになる。妹は、こう言う。

 「姉も、私も、あれほど母を嫌っていたのに、その姉が、母そっくりの人間になっていったのに
は、驚きました。もちろん姉は、それに気づいていません。今でも、『私は、母とはちがう』と思っ
ているようです。しかし一歩退いてみると、つまり私から見ると、母と姉は、一卵双生児のように
よく似ています」と。

 ここまで書いて、私は、2つの話をしなければならない。ひとつは、「運命論」。冒頭に書いた
のが、それ。もうひとつは、「代償的過保護論」。これはそのつぎに書いた。

 まず運命論についてだが、姉が、心安くなるためには、運命を受け入れるしかない。が、現
状では、姉は、その運命を拒絶している。だから、つぎからつぎへと、問題が起きてくる。もっと
もこれについては、私のワイフは、こう言う。

 「愛情の問題ではないかしら。その姉妹に、母親に対する愛情があれば、問題は、問題でな
くなってしまうはずよ」と。つまりその愛情が欠落しているから、母親の介護が重荷になるので
は、と。

 そこで、問題なのは、なぜ、その姉妹の愛情が消えてしまったかということ。その理由が、実
は、代償的過保護ということになる。Aさんは、もともと、娘たちを愛してはいなかった。口では、
「かわいがってやった」とよく言うそうだが、娘たちは、そうは思っていない。

 姉が結婚するときも、妹が結婚するときも、「スープが冷めない距離」を条件に出したという。
とくに妹のほうは、そのため、遠地に住む恋人と別れねばならなかったという。つまりAさんは、
姉妹の幸福よりも、自分の幸福を優先させた。それが長い時間をかけて、現在の親子関係
を、つくった。

私「今のままじゃあ、姉のほうも、たいへんだね」
ワ「要するに、2人とも、Aさん(母親)を、心の中では、うらんでいるのね」
私「そういうこと。が、うらめばうらむほど、母親のもつシャドウの呪縛のとりこになってしまう。ク
モの巣の糸にからまれるように、ね」
ワ「母親を嫌えば嫌うほど、母親のような人間になってしまうということ?」

私「そういうケースは、多いよ。本来なら、親子関係を清算するのがいいのだけれど、それはで
きないしね」
ワ「すべての原因は、Aさんにあるのよね。子育てそのものが、最初から、ゆがんでいた。Aさ
ん自身の生きザマにも、問題があったと思うわ」
私「ぼくも、そう思う。で、姉のほうもたいへんだろうけど、妹さんのほうは、これから先、もっと
たいへんだろうね。Aさんが死ぬまで、10年とか、20年も、この問題はつづくからね……」と。

 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

++++++++++++++++++

【補記】

 ここに書いた、Aさんというのは、架空の母親です。もともと、この話は、私の義姉から聞いた
ものです。その話をワイフが私にしたので、さらに詳しくということで、私が義姉に会って、内容
をたしかめてきました。

 一部、その人とわからないようにするため、説明不足の点もありますが、それはお許しくださ
い。義姉から、「Aさんがだれか、ぜったいにわからないように書いてね」と、強くクギを刺されて
います。

 なお、本文の中で、「代償的過保護」「シャドウ」という言葉を使いましたが、それは義姉との
会話の中で、私が、義姉に説明した部分です。「そういうのを、代償的過保護というのですよ」と
か、「シャドウとかいうのですよ」とか。

 それについても、どこか説明不足なところもありますが、この原稿は、また日を改めて、書き
なおしてみたいと思います。

【付記】

 ウソをつく人に会うと、こちらまで、ウソをつくことに抵抗感がなくなってしまう。そしてさらにそ
の人と、長く会っていると、ウソをつくことが平気になってしまう。

 こうしてウソつきのまわりには、ウソをつく人ばかりが集まるようになる。そして一趣、独特の
世界をつくるようになる。

 だから、ウソをつく人とは、できるだけ早く、別れたほうがよい。距離をおいたほうがよい。で
ないと、自分の人間性まで、腐ってしまう。長い時間をかけて、そうなる。

 親や、兄弟、親類、縁者のばあいは、そうは簡単ではないかもしれない。そこで重要なこと
は、ウソにはウソで返すのではなく、そのつど、自分と戦う必要がある。心して、正直、誠実を
つらぬく。

 実は、ここに書いた妹さん自身も、すでに、姉のウソの呪縛の虜(とりこ)になりつつある。居
留守を使ったり、ナンバーディスプレイの電話にしたり、さらには、「携帯電話はもうやめた」と
ウソをつくことなど。息子たちに、口裏をあわせるように指示することによって、今度は、息子た
ちが、その呪縛の虜になってしまう可能性もある。

 このままでは、妹さんのほうも、やがて、Aさんのシャドウに巻きこまれてしまう。もちろん妹さ
んも、それに気づいていないが……。ユングが説いた、シャドウ論の本当のこわさは、ここにあ
る。
(はやし浩司 代償的過保護 親の育児姿勢 シャドウ シャドウ論 兄弟の確執 親子の確
執)




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●新・日本論

【新・日本論】

+++++++++++++++++++++

日本が、日本(NIPPON)であること自体、
おかしな話なのです。

どうして日本が、「日本(NIPPON)なのか、
あなたは考えたことがありますか。

+++++++++++++++++++++

 「日本」というのは、読んで字のごとく、「日の本(もと)」。つまり「太陽が生まれる国」という意
味。

 しかし日本が、太陽が生まれる国であるというのは、日本の西、つまり朝鮮半島や中国から
見た発想。日本に生まれて、日本で育った人の発想ではない。「日本」という国の呼び方にして
も、そうである。どうして、「NIPPON」と、音読みにするのか? 音読みというのは、いわゆる
「中国式の読み方」ということになる。

 ……ということで、少し前、それについての原稿を書いた。が、これを補足するような事実が、
またまた明るみになってきた。森博達著、『日本書紀の秘密』(中公新書)という本が、それであ
る。

 この本でいう「秘密」とは、「日本書紀」の内容そのものではなく、それが記された過程、特に
誰が書いたのかという謎を指している。 

 著者はこの研究を通じて、「日本書紀」が2つの部分、すなわち完ぺきな中国式の漢文を駆
使した「アルファ群」と、日本式の漢語や単語選択の誤りが目につく「ベータ群」が混在している
ことを明らかにしている。そのため、背景が異なる複数の著者が執筆を行った可能性が高いと
いう。 

 著者は中国から渡ってきた学者が執筆したアルファ群(第14〜21巻、第24〜27巻)と、新
羅に留学した日本人僧侶が書いたベータ群(第1〜13巻、第22〜23巻、第28〜29巻)、そ
してどちらにも属さない第30巻に分けられると結論づけている。 

 これを手がかりに、著者は「日本書紀」が執筆された7世紀末の状況を推理している。同書
は日本で第54回毎日出版文化賞を授賞しているという。

 もしこんな本を戦前の日本で発表したら、即、何かの罪で、投獄されたにちがいない。もちろ
んこの私とて、無事ではすまない。「日本書紀」といえば、日本人のルーツ。民族主義者たちの
バイブルにもなっている。

 が、この日本を一歩離れてみると、そこには、まったく別の世界がある。別の歴史が流れて
いる。

 日本の天皇(日王)にしても、韓国や中国では、朝鮮から渡った騎馬民族の一派であるという
説が、常識になっている。わかりやすく言えば、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)と、日本の天皇
は、どこをどう調べても、つながっていない! 言うなれば、ここが日本の歴史の中の、ミッシン
グ・リンクということになる。

 が、日本という国を、「東洋史」という世界でみつめなおしてみると、こうした矛盾が、一気に
解決する。「日本も、東洋の一部である」という歴史観である。縄文式文化はともかくも、弥生
式文化にしても、中国大陸から戦乱を避けて、のがれてきた中国人たちが作った文化であると
考えると、弥生式文化にまつまる数々の謎が、氷解する。

 同じように、「日本」という国にしても、そうだ。「奈良(ナラ)」という都にしても、そうだ。

 が、だからといって、私は何も、日本という国を否定しているのではない。日本という国は、
今、ここにあるし、これからも、ずっと、ここにある。しかし歴史は歴史として冷静に見ていかな
いと、日本人はいつまでたっても、井の中の蛙(かわず)で終わってしまう。

++++++++++++++

もう一度、少し前に書いた原稿を、
ここに再掲載しておきます。

++++++++++++++

●「日本」の謎

++++++++++++++++++

「日本」がもつ、最大の謎。
それは、日本が、なぜ「日本」なのか。

日本という国の名前を、「ニッポン」と、
音読(中国式の読み方)すること自体、
おかしい。

また、「日本」とは、読んで字のごとく、
「日の本(もと)」、つまり、
「太陽が昇る国」という意味
である。

が、どうして日本が、その
「太陽が昇る国」なのか?

++++++++++++++++++

 私がUNESCOの交換学生で、韓国にいたとき、こんな話を聞いた。話してくれたのは、金素
雲という名前の歴史学者だった。当時の韓国を代表する文化人でもあった。

 「日本の都の奈良は、韓国人が創建した都市だ。韓国から見て、(地の果てにある国)という
意味で、『奈落』とした。『ナラ』という言葉は、今でも、韓国語では、『国』を意味する。

 しかし『奈落』では、まずい。で、そのあと、『落』という文字を、『良』にかえ、『奈良』とした」と。

 私が「証拠がありますか?」と食い下がると、金素雲氏は、笑いながら、こう言った。「仁徳天
皇の墓を発掘すれば出てくるはずです」と。

 で、この話と少し関連するかもしれないが、日本が、なぜ、「日本」なのかという謎がある。わ
かりやすく言えば、いつ、だれが、この国を、日本と呼ぶようになったかということ。

 「日本」という国の名前は、もともとは、「日の本(もと)」という意味である。「太陽が昇る国
(Country of the Rising Sun)」という意味である。となると、おかしなことになる。日本は、自ら、
自分の国を、「太陽が昇る国」と名づけたことになる。

 つまり日本が、その太陽が昇る国であるかどうかは、日本の西側にある国に住んでいる人で
ないとわからないはず。日本人自身が、自らの国を、「太陽が昇る国」と名づけたとするなら、
その視点そのものが、おかしい。(反対に日本が、「日没の国」という名前であったとしたら、ど
うなるのか。そういう視点で考えてみると、わかりやすい。)

もし「日本」という名前を決めた人が、日本人であるとするなら、その人は、きわめて国際的な
感覚をもっていた人ということになる。少なくとも、一歩でも、日本から外へ出たことのある人で
ないと、そういう発想は、わいてこない。

 日本は、その昔、「倭(わ)」と呼ばれていた。「倭の国」とも呼ばれていた。「倭」というのは、
「伽耶※(かや)」(任那の古称。その任那には、日本府が置かれた)の別称でもあった。その
「倭の国」が、いつごろからか、今の「日本」という名前で呼ばれるようになった。

 それについて、韓国の、ある貿易会社の理事(S社P氏)は、こう書いている。P氏は貿易会
社の理事をしながら、一方で、歴史学者としても、知られている。

 「『日本』という国号を創案したのは、7世紀の高句麗僧・道顕である」と。

 つまり日本という名前を考案したのは、韓国人(高句麗人)だった、と。

 たいへんショッキングな意見だが、しかし、この説に従うと、日本がなぜ『日本』なのかという
謎が、解ける。韓国から見れば、日本は、たしかに「太陽が昇る国」である。だから日本は、
「日本」になった?!

 P氏は、こうつづける。「つまり古墳時代はもちろん、奈良時代まで、古代日本の主流階層
は、韓半島(朝鮮半島)から渡った渡来人だった」(同氏著「日本の源流を訪ねて」(サムエ社
刊)と。

 まあ、こうした説は、日本の外では、常識。ここに書いた、「任那の日本府」(正確には「任那
日本府」という)にしても、日本では、あたかも日本が韓国を支配下に置くために設置した、出
先機関のような印象をもって語られている。私も、学生のころ、歴史で、そう習った。しかししか
し韓国では、「ただの使途集団にすぎなかった」というのが常識。

 日本の歴史辞典(「角川新版日本史事典」)ですら、「百済または伽耶が設置した機関とする
説もあるが、倭国が伽耶の安羅国に送りこんだ、使臣集団とする説が有力」※と書いている。

 なぜ日本が、「日本」なのか? そんなことを考えた人は少ないと思う。だいたい日本という国
名を、「ニッポン」と、音読(中国式の読み方)すること自体、おかしい。なぜ日本という国名が、
中国式の読み方になっているのか。日本が、「日(ひ)の本(もと)」であっても、何ら、おかしくな
い。それについては、岩波書店の広辞苑には、つぎのようにある。

 「……大和(やまと)を国号とし、(日本はその昔)、『やまと』『おほやまと』といい、古く中国で
は「倭」と呼んだ。

 中国と修交した大化改新頃も、『東方』すなわち『日の本』の意から、『日本』と書いて、『やま
と』と読み、奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになった」と。

 中国では、「東方にある国」という意味で、「日本」と書いて、「やまと」と呼んでいたというの
だ。

(マルコポーロの時代には、中国では、日本は、「Chipangu」(「東方見聞録」)と呼ばれていた
らしい(日本大百科事典)。「日本国」を、元の時代には、そう発音したらしい。通説では、それ
が「ジパング」となり、さらに「ヤーパン(JAPAN)」となり、英語式の発音で、「ジャパン」となっ
た。ただしこれについては、諸説が氾濫している。

ここに書いたように、「ジパング」が、Japanとなったという説のほか、「日本」を、南シナで「Jip
enguo」と呼んでいたのが、Japanとなったという説などがある。)

もちろんここに書いたのは、数多くある「日本」説の中の一説にすぎない。しかしこと、この「日
本」にかかわる問題だけに、重大な問題と考えてよい。

 なぜ、日本が「日本」なのか? 考えれば考えるほど、謎が深まる。

(注※)(任那の日本府)……任那日本府は、倭国(日本の前身)の属領もしくは貢納国であ
り、任那地域に一定の経済利得権(おそらく製鉄の重要な産地があった)を持っており、事実
上の属領であったと考えられていた。

しかし、1960年代ごろから、大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国で研究が進み、また日本
でも1970年代ごろから新たな視点から再検討が行われた結果、ヤマト朝廷の任那支配は疑
問視されるようになり、任那日本府については、倭と関連する集団(倭臣、倭人集団)が、任那
地域に一定の経済利得権を持っていたとする説が有力となっている。

近年、日本特有の墳墓であるとされていた前方後円墳が、任那に相当する地域から相次いで
発見され、その関連性が指摘されている(以上、ウィキペディア百科事典)。

(注※)「伽耶※(かや)」の「耶」は、人偏に、「耶」の字。

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【付記】

 日本と韓国の歴史を比較していて興味深いのは、日本では、「献上」となっているところが、
韓国では、「下賜」となっていることが多いということ。

 たとえば日本の歴史で、「朝鮮の使節団が、天皇に宝物を、献上した」というような部分が、
韓国の歴史では、「日王(=天皇)に下賜した」となっているなど。

 考えてみれば、当時の朝鮮(百済、任那、新羅、高句麗)が、日本の天皇に頭をさげなけれ
ばならない理由など、どこにもない。当時の上下関係からすると、「下賜」のほうが正しいという
ことになる。

 私はそのことを、韓国の慶州へ行ったときに知った。バスの窓から、巨大な古墳群が、まる
で海の波のようにつながっているのを見たときのことである。私はそのスケールの大きさに、た
だただ圧倒された。

このことからだけでも、どちらが「上」か「下」かということになれば、明らかに、日本が、「下」。
当時の上下関係を、今ここで論ずること自体、おかしい。





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