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【本音と建前】

●底なしのG県庁・裏金汚職

++++++++++++++

底なしの様相を見せ始めた、
G県庁・裏金汚職。

何しろわかった裏金だけでも、
17億円!

しかも幹部職員らが、分担して、
その裏金を隠していたという。

中には、ネコババしながら、
「燃やした」と弁明する職員も
いた。

++++++++++++++

 公務員の世界というのは、不思議な世界である。そこにあるのは、(人と人のつながりを示
す、組織)だけ。その(組織)を取ったら、あとには、何も残らない。

 民間企業のように、営業とか利益とか、運営とか経営とかいう概念は、まったくない。給料な
どというものは、天をあおげば、その天から、自動的に降ってくる。その公務員が、なぜ公務員
かといえば、(権限)と(管轄)、それと(情報)を握っているからにほかならない。

 もし公務員から、(権限)と(管轄)、それに(情報)を奪ってしまえば、公務員は、その存在意
義をなくす。だから公務員は、(権限)と(管轄)、それに(情報)にしがみつく。絶対に、手放さな
い。

 これが公務員の(構図)だが、その構図は、中央官僚も、地方公務員も、基本的には同じ。

 しかしそれにしても、17億円とは! ケタがちがう。今朝も、出先機関の職員(当時)が、裏
金470万円余りを自宅に隠匿していたという事実が、明るみになった(9月5日)。高山市の県
高山建設事務所(現・県高山土木事務所)の男性元職員である。

 数日前は、「(現金を)燃やした」と言っていた職員が、実はネコババしていたという事実も、
明るみになった。しかしその職員は、「飲み食いに使った」と弁明している。ご存知のように、法
律の世界では、飲み食いに使ったといえば、一応、返還義務を免れることができる。

 わかりやすく言えば、事件が発覚すると同時に、(あるいはそれ以前から……?)、職員たち
が17億円もの大金を山分けして、保管(?)していたことになる。「保管」と言えば、聞こえはよ
いが、うまくいけば、そのままネコババできる裏金である。みな、こぞって保管を申し出たにち
がいない。

 ゾーッ!

 本来なら、県庁ごと、解体してしまうのが望ましい。が、そこは、公務員の世界。解体しように
も、もともと、その実体がない。冒頭にも書いたように、そこにあるのは、(人と人のつながりを
示す、組織)だけ。わかりやすく言えば、煙(カスミ)でできた世界のようなもの。建物だけを見る
と、「おお、これが県庁か」と思う人も多いかと思うが、あれはあくまでも、箱。煙をのがさないた
めの、ただの箱。

 だからこういう事件が起きても、責任を追及することもできない。だいたい責任者なる者がい
ない。問題の県庁の元県知事にしても、「知らなかった」と、逃げまくっている。

 そこで重要なのが、働く職員のモラルということになる。誠実さというか、英語で言えば、「ho
nesty(正直さ)」。その誠実さが、私も、元G県民だったから言うが、あの県には、それが欠け
ている(?)。まるで県全体が、小ズルさのかたまりのような県と言ってもよい(失礼!)。商売
のし方にしても、名古屋商法というより、大阪商法に近い。

 客をだまして、金を取る……というのが、あのあたりの商法の基本になっている。「ウソ(嘘)」
に対する感覚も、明らかにこの静岡県とはちがう。G県の人たちは、日常的に平気でウソをつ
く。「ウソ」という言葉に語弊があるなら、「本音と建前」と言いかえてもよい。

 それを実にたくみに使い分ける。口で言っていることと、中身が、まるでちがう。それがG県で
ある。

 私は今回の一連の裏金汚職事件は、起こるべきして起きた事件だと思っている。この私です
ら、そういう黒いウワサは、もう15年以上前から耳にしていた。「県庁の役人たちが飲み食い
するときは、いつも領収書を2枚切ることになっている」(ある割烹経営者)、「タクシー券を、い
つも10万円単位で購入している」(県庁職員)など。元県知事にまつわる話も少なくない。

 G県の県民たちが怒るのは当然だとしても、それがG県という県がもつ体質であるとするな
ら、県民自身も、それなりに反省しなければいけないのではないのか……と、私は思う。

なお英語では、「Honesty is the best policy.(正直は最良の策である)」という。その「P
olicy」には、「政策」という意味も含まれる。

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ここまで書いて、「飛騨の昼茶漬け」という
言葉を思い出しました。

本音と建前を、たくみに使い分けるのがうまい、
G県民の県民性というか、その一端が、
この言葉に集約されているように思います。

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●飛騨の昼茶漬け

 日本人というより、G県の人たちは、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。ウソをウソと
も思っていない。たとえばG県の飛騨地方には、『飛騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあ
たりでは、昼食を軽くすますという風習がある。で、道でだれかと行きかうと、こんなあいさつを
する。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え
る。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さあ、
大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけにも
いかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。G県にかぎらない。ひょっとしたら、あなたも
日常的に使っているかもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場
を、うまくごまかして先へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。
何といっても、聖徳太子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国が
らである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ
もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ
に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ
について、私がそれまでに住んでいたG県の人たちとオーストラリア人とでは、寛容度がまった
く違うということを思い知らされた。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし
日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、
悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私はウソつきだった

 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかも
しれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私
の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。

その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売で
は、ウソが当たり前。このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は
毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、そ
れですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言
う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には
変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接
しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているか
を考えてみてほしい。

もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはいけません」と、日常的
に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけない。……とまあ、大
上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日本人の子育てで、一
番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけたとする。そして
帰りぎわ、10万円のタクシー券を渡された。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろう
か。

さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろうか。
私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直に
言えば、そういうことになる。

つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つまりそれは私自身の欠陥とい
うより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなたは、子どものころ、学校で、そ
して家庭で、どのような教育を受けただろうか。
(03年―1月―7日記)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●あなたは裁判官

(ケース)Aさん(40歳女性)は、Bさん(45歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、こう
言った。

AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさい」と誘った
という。

そこでAさんが、「いいです」と言って、やんわりとそれを断ったところ、Bさんの夫がBさんに向
かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と怒鳴ったという。

それに対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃな
い!」と反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に感じたというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。

Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直な人だ。自分を飾ったり、偽
ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けとめた。

一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」が、半ば、
あいさつ言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではな
い。相手が断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。

そのとき大切なことは、誘われたほうは、あいまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り
方をすると、かえって誘ったほうが困ってしまう。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」とい
う言葉がある。昼食は簡単にすますという習慣である。

恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出してもらえ
るなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件になった?
 こういうときAさんは、ウソならウソでもよいが、「今、食べてきたところです」と、言わなければ
ならない。

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。

そういう習慣のある家庭では、何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私
はそういう言い方はしない。私ならまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやっ
てくれないか」と頼む。あるいはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり
「すぐ食事の用意をしろ」は、ない。

つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。

Aさんは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受
け入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなけ
ればならない。が、そのAさんは、むしろBさんを責めている! 女性(妻)は夫の奴隷ではな
い!

 私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、考え方が、まっ
たくちがっていた。

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●本音と建前

 日本人の本音と建前論については、世界的によく知られている。

 言っていることと、ハラ(腹)の中は、ちがう。……ということは、日常的に経験する。

 オーストラリア在住の日系女性(夫は、オーストラリア人)が、こんなメールをくれた。

 「私の叔父は、何かのついでに、こう言いました。『人間なんていうのはね、ハラの底はわか
らないもんだよ。同情しているようなフリをして、実は、ザマーミロと、相手の不幸を喜んでいた
りするもんだよ』と。

 私は、子どもながらに、『そういうものかなあ』と思いましたが、日本を離れてみて、それが日
本人独特のものの考え方だということを、思い知らされました」と。

 実際、欧米人(オーストラリア人、アメリカ人)というのは、ものの考え方が、ストレート。自分を
ごまかすことができない。そういう習慣もない。(だからうつ病患者が多いという説もある。)

 たとえば日本では、よく、こんな会話をする。

 「今度、遊びにおいでよ」
 「うん、わかった。またね」と。

 誘ったほうも、本気で、誘ったのではない。その場の雰囲気で、そう言う。

 一方、誘われたほうも、本気で誘われたとは思わない。その場の雰囲気で、そう答える。

 が、オーストラリアでは、こういう会話は通用しない。絶対に通用しない。アメリカでも、通用し
ない。

 へたに「今度、遊び(食事)においでよ」などと言おうものなら、すかさず、「ありがとう。いつ行
けばいいですか?」と聞きかえされる。断ることは、かえって非礼になる。仮に「またね」とあい
まいな言い方をすれば、(そういうあいまいな言い方そのものがないが)、かえって相手に対し
て失礼となる。

 表面では、同情したフリをしながら、ハラの中では、その人の不幸を笑う。

 しかし実のところ、そういうことをしていたのは、その叔父自身ではないのか。自分がそうだ
から、他人もそうだと思ってしまう。こうした二面性のある人は、世の中のすべての人にも、二
面性があると思ってしまう。

 が、ストレートな人は、ストレート。

 たとえば同じ日本人なのに、私のワイフは、私とくらべても、はるかにストレート。ハラ芸がで
きない。浜松市という、東海地方でもナンバー2の都会で、生まれ育ったためではないか。少な
くとも、岐阜県の山奥で育った私とは、ちがう。

 で、私のばあいだが、私は、ここでいうような(建前)とは、決別した。まだ完全ではないが、そ
う心がけている。

 本音と建前を使い分けるののも、結構、しんどいこと。たとえばハラの中で、「ザマーミロ」と
思うくらいなら、そもそも、そういう人とは、つきあわない。

 くだらないことかもしれないが、私はこうしてものを書くことについて、いくつかの原則をもって
いる。その一つ。

いつも心の中を、整理しているということ。

決して、その人自身のことを書いているわけではないが、その人を念頭において、批判したり、
批評したりすることがある。

 そういう人とは、すでに、交際を、断交している。「今後、一生、つきあうことはない」という前
提で、ものを書く。また、そういうふうに、心の中を整理していかないと、やがて、心の中が、ご
ちゃごちゃになってしまう。

 ウラで、その人を批判しながら、オモテで、「こんにちは」と笑うことは、私には、もうできない。
それこそ、時間のムダ。

 以前、こんな原稿を書いた。

●私のこと

 私とワイフのちがいについて、少し書いた。

 で、結婚して、30年以上になるが、いまだに、そのワイフについて、よく理解できないところが
ある。

 私は、ときどき、弁当を教室まで届けてもらうのだが、そういうとき、私のほうが遠慮して、「今
日は、いいよ。近くのレストランで食べるから」と電話をする。

 ワイフも、何かと、このところ、いそがしい。それに暑い。

 が、私は、そう言いながらも、内心では、ワイフが、弁当を届けてくれるのを期待する。「そう
は言っても、弁当は必要だから」と。

 しかしワイフは、私の言葉を、いつもストレートに解釈する。私が「いいよ」と言えば、それっき
り。絶対に、弁当を届けてくれない。(今まで、一度もない。)

 私がワイフなら、「まあ、そうは言っても、届けるわ」とか言って、届けるかもしれない。

 そういう意味では、ワイフは、欧米人に近いということになる。一方、それでさみしく思う私は、
純粋な大和民族。どこか(フー天の寅さん)的な人情味が、まだ残っている。

 どちらがよいとか、悪いとかいうことではなく、そうしたちがいというのは、30年以上いっしょ
に住んでも、なかなか克服できないということ。

 最近、国際結婚がふえているが、こうした民族的なちがいまで乗りこえて、結婚生活をつづけ
るというのは、たいへんなことかもしれない。くだらないことだが、この原稿を書きながら、ふと、
そんなことを考えた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 裏金は、17億円だという。しかし私は、そんな額ではないと思う。つい先月のはじめには、4
億円前後と報道されていた。その少し前には、たしか数百万円ではなかったか。それがいつの
間にか、17億円!

 私の知人にも、G県の職員の人が何人かいる。そのうちの1人(大卒・45歳)は、800万円
前後の年収を得ている。奥さんも、同じ県庁の職員だが、ダンナよりも給料がよいという。つま
り2人で、1600万円以上の年収ということになる。

 この時代に、夫婦で1600万円以上というのは、きわめて恵まれた人たちということになる。
そういう人たちが、組織ぐるみで、やりたい放題のことをしている。

 許せないというより、「これが現実か」と、ただただあきれるばかり。ホント!

(補記)今朝(9月6日)の朝刊(C新聞)では、その額が19億円以上になっていた。それぞれの
団体は、県に裏金を返還すると言っているが、身内どうしで返還しあって、それでどうなるという
のか。息子が、おやじの金庫から金を盗んだ。それがバレたので、息子は、おやじに、金を返
した。それで問題は解決? 一件落着? おしまい?

 結局、この事件は、うやむやのまま終わることになる。つまり、それが公務員の世界というこ
とになる。

 だれも責任を追及しない。だれも責任を問われない。だれも責任を取らされない。まさにそこ
は、煙のような世界ということになる。





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【子どもの受験】

++++++++++++++++++++

子どもを愛することは難しい。
子どもを信ずることは、さらに難しい。

大切なことは、子どもを信じ、
子どもの心に耳を傾け、
子どもの心を知り、
友として子どもの横に立ち、
子どもといっしょに歩くこと。
それができる親を、賢い親という。
それができない親を、愚かな親という。

++++++++++++++++++++++

●不本意な結婚

 親は言う。「Xさん(男性30歳)は、すてきな人だから、結婚しろ」と。X氏の家系は、その地域
でも名が知られた財産家。祖父の代から、祖父、父親は、特定郵便局だが、その郵便局の局
長を勤めていた。

 しかしA子さん(女性22歳)は、結婚をためらっていた。ほかに好きな人がいたわけではな
い。ないが、X氏が、自分のタイプではないことだけは、よくわかっていた。2、3度会って、食事
をしたこともあるが、どうもしっくりこない。会えば会うほど、自分の心が乾いていくのを感じた。

 が、相手の親も、自分の親も、「結婚させたい」「結婚しろ」と。とくに母親は、毎日のようにグ
チを言った。「早く、孫の顔を見たい」「安心したい」「どうしてためらっているの」「こんないい縁
談はないのに」と。

 A子さんには、ほかにしたいことがあった。一度は都会に出て、自由な空気を吸ってみたかっ
た。漠然(ばくぜん)とした思いではあったが、日を追うごとに、それがますます強くなった。自分
の心を覆うようになった。

 で、そういう状態が、半年近くもつづき、結局は、A子さんは、X氏と結婚してしまった。「自分
さえがまんすれば、みな、幸福になれる」と。

 しかし現実は、きびしいものだった。味気ない結婚生活。殺伐(さつばつ)とした夫婦関係。家
事をしていても、手が重い。ときに体が動かなくなることもあった。それを知って、夫となったX
氏は、毎日のように、A子さんを責めた。「お前は怠け者だ」と。A子さんは、自分の心がますま
す夫のX氏から離れていくのを感じた……。

●子どもの世界でも……

 ……これは夫婦の話だが、子どもの世界でも、これと似たようなことがよく起きる。ここでいう
X氏を、受験校に置きかえてみると、それがよくわかる。

 親は「勉強しろ」と、一方的に言う。「SS中学校に入れ」という。親は、自分の知らないところ
で、進学塾の説明会に行き、勝手に申し込み書を出してしまった。「みんなが行くから、あなた
も行きなさい」と。

 子どもは言われるまま、進学塾に通い、受験のための勉強をする。分厚いテキストを与えら
れる。毎日、毎晩、その宿題に追われる。その進学塾では、毎月、月末に学力テストが実施さ
れる。上位10番までの子どもは、塾からの通信に名前が載る。

 成績がよくても、安心してはおられない。少しでも成績がさがると、塾で並ぶ席が入れかわっ
てしまう。さらにさがれば、AクラスからBクラスにさげらる。それをその塾では、「マイナー落ち」
と呼んでいる。メジャー(全国チーム)から、マイナー(地方チーム)へ落ちることに似ているか
ら、そう言う。

 こうして、たいはんの子どもたちは、勉強に追われるまま、悶々とした日々を過ごす。心が晴
れることはない。憂鬱(ゆううつ)な毎日。重苦しい毎日。たまの日曜日でも、家で休んでいる
と、親は、すぐこう言う。「宿題はやっやたの!」「テスト勉強はしたの!」と。少しでも親に反発
しようものなら、すかさず、こう言いかえされる。「高い月謝を払っているのは、私なんだから
ね」と。

 結局、SS中学校を断念し、AA中学校を受験。やっとの思いで入学したAA中学校だったが、
達成感がまるでない。満足感がまるでない。ある日母親が言った一言が、心を大きく押しつぶ
す。母親はこう言った。

 「小さいころから、高い月謝を払って塾へ通わせたけど、ムダだったわね」と。が、それですん
だわけではない。

味気ない学生生活。殺伐(さつばつ)とした友人関係。勉強をしていても、手が重い。ときに体
が動かなくなることもあった。それを知って、母親は、毎日のように、子どもを責めた。「あんた
は怠け者だ」と。子どもは、自分の心がますます勉強から離れていくのを感じた……。

●大切なことは……

 多くの……というより、ほとんどの親たちは、自分の子どもを、よりよい学校(?)に入れるこ
としか考えていない。それが自分の子どもにとって最善であると、信じて疑わない。が、つまる
ところ、親は、自分が感じている不安や心配を子どもにぶつけているだけ。

 が、こんな方法がうまくいくはずがない。仮にうまくいったとしても、つぎに今度は、高校受験。
さらにそこでうまくいったとしても、その先では大学受験。

 できる子どもはできる子どものレベルで、できない子どもはできない子どものレベルで、勉強
に追われる。息つくひまもない。休む間もない。で、こうして最後まで生き残る(?)子どもは、数
割もいない。たいはんの子どもたちは、その過程で、もがき苦しみ、心に大きなキズをもって、
ドロップ・アウトしていく。

 悲しいかな、世の親たちは、自分の子どもが成功することだけしか考えていない。失敗したと
きの心のケアまで考えている親は、まず、いない。失敗といっても、ふつうの失敗ではない。燃
えつき症候群、荷卸し症候群、ピーターパン・シンドローム、ニート、引きこもり、家庭内暴力、
うつ病……。まさに何でもござれといった状態になる。

 怠学から非行に走るケースなどといったものは、まだよいほうだ。

 が、親にはそれがわからない。「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と無理をす
る。かりにその兆候が出てきても、「そんなはずはない」「まさか……」と見逃してしまう。

 つまりこうして親たちは、やがて行き着くところまで行く。またそこまで行かないと、気がつかな
い。いや、そういう状態になっても、まだ何とかしようと、あせる。子どもを責める。脅(おど)す。
自分のしてきたことは、すべて棚にあげて……。そしてこう言う。

 「私は子どものために、一生懸命しています」と。

 ……とまあ、否定的なことばかり書いたが、しかし今、こうして子育てで失敗していく人が、あ
まりにも多い。本当に、多い。が、私のような者が、いくら叫んでもムダ。それはたとえて言うな
ら、流れる川の中で、一本の旗を立てるようなもの。流れを止めることはもちろん、流れを変え
ることさえできない。

 明治の昔から、あるいはそれ以前から、日本人の体の中には、体質として、出世主義、それ
にまつわる学歴制度が、しみついている。職業による身分制度的な意識も、まだ残っている。
それが親から子へと、代々と、引き継がれている。今、感じている、あなたの不安や心配にして
も、それはあたながあなたの親から引き継いだものである。

 そういう意味でも、世代連鎖というのは、恐ろしい。無意識のうちに、親から子へと、そしてま
わりの環境の中で、あなたに伝えられていく。が、ここで止まるわけではない。勉強を嫌い、勉
強から逃げているあなたの子どもでさえ、今度は自分が親になると、自分の子ども(あなたから
見れば孫)に対して、同じようなことをするようになる。

 それがわからなければ、あなた自身の過去をみることだ。それともあなたは、子どものころ優
等生で、勉強が好きだったとでもいうのだろうか。そういう人もいなくはない。が、もしあなたが、
「私は受験勉強が楽しかった」「みなを順位で負かすのが、気持ちよかった」と思っているなら、
同時に、あなたは、あなた自身の人間性を疑ってみたらよい。

 きっと、あなたの心は、冷たく、点数だけで人を判断するような人かもしれない。あるいはどこ
か、心の欠けた人かもしれない。あなた自身は、それに気がついていないかもしれないが…
…。

 ともかくも、中学時代に経験していた高校受験が、今では、小学時代に中学受験で経験する
ようになった。3年、それが早まったということになる。

 中学生ともなると、親の言うことを聞かなくなる。だから小学生のうちに……ということではな
いと思いたいが、しかしそれだけに、この時期、一度、つまずくと、あとがない。それだけ大き
く、子どもの心をキズつける。へたをすれば、生涯にわたって、その子どもをうしろ向きに引っ
張りつづけるかもしれない。ハキのない、ナヨナヨとした人生観の子どもにしてしまうかもしれな
い。

 子どもの教育で重要なことは、(1)子どもの心の灯(ひ)をともし、(2)楽しませ、(3)能力を
引き出すことである。

 子どもを脅し、成績をつけ、順位でおいまくるような教育は、教育ではない。家畜の訓練で
も、そんなバカなことはしない。仮に「進学塾へ……」ということを考えることがあったとしても、
親は、1歩さがって、慎重に判断したらよい。子どもよっては、よい刺激になることもないわけで
はない。またこの日本では、進学競争を無視して生きるというのも、たいへんなことである。

 大切なことは、子どもを信じ、子どもの心に耳を傾け、子どもの心を知り、友として子どもの横
に立ち、子どもといっしょに歩くこと。それができる親を、賢い親という。それができない親を、
愚かな親という。進学塾へ行く、行かないは、あくまでもその結果として考えることである。

 やがていつか、今の子育ても終わるときがやってくる。そのとき自分の過去、自分の子育て
を振りかえってみて、その中で光り輝くのは、自分の子どもを信じきった、愛しきった、守りきっ
たという、親としての実感である。

 見栄、メンツ、世間体に引きずられて、「勉強しろ」「勉強しなさい」と子どもを叱りつづけた思
い出ほど、自分の過去を汚すものはない。それであなたの子どもが、一流大学に進学したとし
ても、だ。その汚点は消えることなく、死ぬまでつづく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の受験 受験 灯をともし、引き出す 親の宿命)





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【教えにくい子ども】

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育てやすい子ども、育てにくい子どもというのが、いる。
それについては、少し前に書いた。

その原稿を、S市に住む、W先生(男性教師)が読んでくれた。
そしてこんな話をしてくれた。

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育てやすい子ども、育てにくい子どもというのが、いる。それについては、少し前に書いた。

その原稿を、S市に住む、W先生(男性教師)が読んでくれた。そしてこんな話をしてくれた。

 「教えにくい子どもというのも、いますね。いろいろなタイプの子どもがいますが、最近、こんな
ことがありました」と。

 ある日、突然、その子ども(小3・女児)の母親が、職員室へ飛びこんできたという。ものすご
い剣幕だった。そこで応対した教頭は、その様子に驚き、授業中だったが、W先生を職員室へ
呼んだ。

 「何ですか?」と聞こうとする間もなく、その母親は、こう怒鳴ったという。「あなたは、うちの子
を殴ったそうですね。それも頭を!」「うちの子は、寝る前になって、シクシクと泣いていました
ア!」と。

  青天の霹靂(へきれき)とは、まさにそのこと。W先生には、まったく身に覚えがなかった。し
かも母親の言い分に耳を傾けるだけで精一杯。その母親は、興奮状態だった。一方的に、まく
したてた。

 で、一通りあやまったあと、その場は教頭の取りはからいで、何とか、すますことができた。
が、どうしてそうなったか、W先生には、まったく理解できなかった。その母親の子どもを、U子
としておく。そのU子を、殴った覚えどころか、叩いた覚えもない。体に触れたという記憶さえな
い。

 が、思い当たることが、ひとつだけ、あった。

 ふつう「すなおな子ども」というときは、(心の様子=情意)と、(顔の表情)が一致している子
どもをいう。このすなおさに欠けるようになると、(情意)と(表情)が、一致しなくなってくる。

 どこかニンマリと笑っているような感じになる。いやなはずなのに、穏やかな表情をして、それ
に黙って従ったりする、など。教える側からすると、心がつかみにくくなる。何を考えているか、
わからないといったタイプの子どもになる。

 原因は、おしなべて家庭環境にある。とくに母子関係にある。

 威圧的な育児姿勢、過干渉、過関心などなど。要するに、親子、とくに母子関係の不全を疑
う。子どもは、母親の前で仮面をかぶることを覚え、それがひどくなると、外の世界でも、自分
を調整できなくなる。

 U子も、そんなタイプの女の子だったという。数の上では、決して少なくない。10人もいれば、
その中に、必ず、1人や2人は、いる。

 で、その前日、つまりその母親が怒鳴りこんでくる前日、こんなことがあったという。

 毎週、「X」という授業がある。その学校独自の授業で、それには、毎回、家族の協力が必要
であった。が、U子は、つづけて、その忘れ物をした。そこでW先生が、U子にこう言ったとい
う。

 「明日は、ちゃんと、もってきてくださいよ。もし忘れたら、ぼくのほうから、お母さんに電話をし
て頼んであげるから」と。

 W先生にしてみれば、軽いおどしのつもりだったという。が、(多分?)、U子は家の中では、
まったく別の反応を示した。

 (母親への不満)→(学校へ行くのがおっくう)→(先生に何かを言われるのが苦痛)→(反
撃!)と。

 U子は、W先生の悪口を言い始めた。それが「先生が、私を殴った」という言葉になった。
が、U子にしても、まさか、自分の母親が、学校まで怒鳴りこんでいくとは、思ってもいなかった
らしい。ことが、おおげさになってしまった!

 こうしたケースでは、しばらく間をおくのが、よい。U子について言えば、そっとしておくのが、
よい。時間がたてば、みな、冷静になる。

 しかしそれからというもの、W先生は、U子については、あたかも腫れ物に触れるかのように
して、教えなければならなかったという。

 「何を考えているかわからない子どもを教えることほど、不気味さを感じさせるのはありませ
ん。私のちょっとした不用意な言葉が、とんでもない方に、曲解されてしまうからです。こわいで
す」と。

 さらに不幸なことに、U子の母親自身が、それに気づいていなかった。職員室では、「うちの
子は、ウソをつくような子ではない」「あなたはうちの子がウソつきだと言うのかア!」と、教頭や
W先生に、かみついてきたという。

 あのシェークスピアも、こう書いている。「己の子どもを知るは賢い父親だ」(ベニスの商人)
と。

 以前、こんな原稿を書いたことがある。

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●子どもを知る

 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と書いたのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。

親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その
子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれだが、こうした親の目は、えてして子どもの本
当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。

 ある子ども(小6男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。

ある夜1人の父親が、A君(中1)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子
が不登校児になってしまった」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は
学校でもいじめグループの中心にいた、などなど。こうした例は、本当に多い。

子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子どもの学力となると、さらに難しい。たいていの
親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強の量が少な
かっただけ」とか「調子が悪かっただけ」と。

そう思いたい気持ちはよくわかるが、しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子ど
ものばあい、(やる・やらない)も力のうち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待
ほど、子どもを苦しめるものはない。そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。

 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。

そしてもし後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ
早いほどよい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子
どもの成績はますますさがる。

要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それまで見えていなかっ
た子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」というのは、そういう父親
をいう。

+++++++++++++++++++

 つまりこういう子どもの親にかぎって、自分の子どもを見ていない。知らない。外の世界では、
柔和な表情をしているので、かえって、「うちの子は、できのいい子」と思いこんでしまう。

 W先生は、こう言った。「教えにくい子どもというのは、たしかにいます。しかし何とか対処でき
る子どもなら、まだ教えることができます。しかしU子のような子どもは、教えにくいというか、教
えていても、心底、神経をすり減らします」と。

 わから、わかる、その気持ち。

 子どもをそういうタイプの子どもにしないように、私の教室では、大声を出させたり、大声で笑
わせたりする。その時期は、年中〜年長のころがよい。年長児でも、夏休みを過ぎるころか
ら、急に少年、少女ぽくなる。それに従わなくなる。人格の「核」ができ始めるからである。

 この「核」、心理学でいうところの、「コア・アイデンティティ」ができると、子どもの心をいじるこ
とはできない。またいじってはならない。へたにいじると、子ども自身が、自分に自信をなくして
しまう。ついでながらそういう状態を、心理学では、「同一性の危機」と呼んでいる。

 W先生は、こう言った。「これからさまざまな問題を、いろいろ起こすでしょうね。が、そのたび
に、親や教師は、そういう子どもに振りまわされる。いつか親も、それに気づくときがくるかもし
れませんが、そのころには、親子関係は、すでに破壊されているでしょうね」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 何を
考えているかわからない子ども 仮面をかぶる子供 子供の仮面)

+++++++++++++++++

コア・アイデンティティについて
書いた原稿を添付します。

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●自己同一性(アイデンティティ)

 若いお母さんでも、「アイデンティティ」という言葉を口にする時代になった。すごいことだと、
私は思う。「みんな、勉強しているんだな」と思う。

 そこでもう一度、そのアイデンティティについて、考えてみたい。日本では、「自己同一性」と訳
されている。

【アイデンティティ】

 もともとは、エリクソンが提唱した、精神分析概念をいう。他人とはちがう、本当の自分、ある
いは「自分らしさ」をいう。

 アイデンティティの確立した人は、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚があると
いう(「日本語大辞典」)。そしてその結果、「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割
と連帯感がもてる」(同)ようになるという。

 順にかみくだいて、考えてみよう。

(5)自己の単一性

 わかりやすさ……簡単に言えば、そういうことになる。「わかりやすい」というのは、「この子
は、こういう子だ」という、つかみどころをいう。教える立場でいうなら、「こういうことをすれば、
この子は喜ぶだろうな」というふうに、予測のたてやすい子どもということになる。

(6)連続性

 いつも同じ調子であること。気分にムラがなく、性格や気質が安定している。感情が変化する
ことがあっても、「なぜそうなるのか」「なぜそうなったのか」ということが、わかりやすい。突然、
わけのわからないことをする……ということがないことをいう。

(7)不変性

 いわゆるシンのしっかりした子ども、ということになる。自分の意見をもち、その意見に従っ
て、行動する。フラつきがなく、目標に向ってがんばることができる。約束も、しっかりと守る。

(8)独自性

 日本的に言えば、個性のこと。集団の中にいても、その子どもらしさが、光ることをいう。他人
と協調しながらも、いつも「私」をもっている。独自性のない子どもは、どこか軟弱。その場、そ
の場で、他人に迎合したり、同調したりする。

 こうしてアイデンティティの問題を考えていくと、いつも、「では、私はどうか?」という問題に行
きつく。

 実のところ、この私は、そのアイデンティティが、軟弱な人間といってよい。ときどき、自分にさ
え、自分がどこにいるかわからなくなることがある。犬にたとえていうなら、だれにでもシッポを
振る。そんな人間である。

 そういう私だから、若いころは、集団とのかかわりが、苦手だった。いや、表面的には社交的
で、だれとでもうまく交際した。愛想もよく、口もじょうずだった。だから私が、「実は、本当のこと
を言うと、ぼくは、集団が苦手だ」などと言うと、みんな、「ウソつけ」とか、「そんなはずはないだ
ろ」とか、言ったりした。

 しかし本当の私は、そうではなかった。自分をさらけ出せない分だけ、集団の中では疲れた。
エリクソンが唱えるところの、単一性、独自性に欠けた。

 なぜ、私がそうなったかといえば、理由はいろいろ考えられる。しかし自分の記憶をいくらた
どっても、満5、6歳を境に、それ以前は闇に包まれてしまう。自分を客観的に見ることができ
ない。そんなわけで、あくまでもこれは私の推察によるものだが、私は、きわめて精神的に貧し
い乳幼児期から幼児期を過ごしたのではないかと思う。

 で、こうしたアイデンティティは、いつも集団とのかかわりの中で、評価される。いくらアイデン
ティティがあっても、集団とうまくかかわれないというのであれば、それはアイデンティティとは言
わない。「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割と連帯感がもてる」ということが、
重要になってくる。

 つまりは、個人と集団との調和が、エリクソンの説く、アイデンティティということになる。「私が
すべて。私以外は、みな、無価値」と考えるのは、アイデンティティでもなんでもない。ただの独
善という。

 そのアイデンティティを、子どもの中に育てるためには、どうするか?

【アイデンティティを育てる】

 アイデンティティをどう育てるか……というよりも、どうすれば、アイデンティティを、つぶさない
ですむかと考えるほうが、実際的である。

 というのも、このアイデンティティは、自然な状態では、どの子どもも、みな、平等にもってい
る。それが、親の過干渉、過関心、溺愛、過保護、さらには育児放棄、否定的な育児姿勢の中
で、つぶされてしまう。そういうケースは、少なくない。

 たとえば否定的な育児姿勢を考えてみよう。

 A子さん(年中女児)が、「私は、おとなになったら、花屋さんになりたい」と言ったとする。その
とき大切なことは、「そうね、花屋さんって、すてきな仕事ね」と、親はそれを前向きにとらえてあ
げる。

 そういう育児姿勢の中で、子どもは、自分の役割を、前向きに形成していくことができる。自
分で花の本を読んだり、種を育ててみたりする。

 が、このとき親が、「花屋さんなんて、ダメ」「あなたは算数教室と英語教室に行くのよ」と、そ
れを否定したとする。(否定するつもりはなくても、否定することがあるので注意する。)

 すると子どもは、自分の意思に自信がもてなくなり、ばあいによっては、自己否定したり、さら
に罪悪感をもつようになる。役割混乱から、情緒不安定になることもある。

 よくある例は、親が、子どもの進路を勝手に変えてしまうようなケース。「成績がさがったか
ら、サッカークラブをやめなさい」とか、「受験が近づいたから、バスケットクラブをやめなさい」
とか言うのが、それ。子どもによっては、あたかも山が崩れるかのように、人格そのものを、崩
壊させてしまうことがある。

 が、実際のところ、否定的な育児姿勢といっても、それは日常的なものである。そしてさらに
その背景はといえば、親の子どもへの不信感がある。「うちの子は、何をしてもだめ」という不
信感が、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることが多い。

 そしてそれは、言葉によるというよりは、あくまでも「親の姿勢」によるところが大きい。たとえ
ば、こんな会話。

親「そのお弁当箱を洗っておいてよ。いいこと、しっかり洗うのよ。どうせあなたのことだから、
いいかげんな洗い方をするのでしょうけど……」

親「やっぱり、いいかげんな洗い方ね。もう一度、洗いなさい。あれだけしっかり洗いなさいと言
ったのに、どうして、しっかりと洗えないの。ほら、まだごはんの食べカスが残っているでしょ」

親「あんたみたいな子はね、ずるいから、いつか悪いことをして、警察につかまるかもしれない
わよ。そうなったとき、お母さんの言っている意味が、はじめてわかるのよ」と。

 過干渉にしても、過関心にしても、同じように考えてよい。子どもへの不信感が、子どもへの
過干渉になったり、過関心になったりする。ここでいう否定的な育児姿勢になることもある。

【いつも前向きに……】

 エリクソンは、こう説く。

 赤ん坊がおなかをすかして泣いたとき、すかさず母親が乳を与えたとする。すると子どもは、
自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 あるいは赤ん坊がおむつをぬらして、同じように泣いたとする。母親はそれを見て、おむつを
かえたとする。すると子どもは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 こうした一連の行動をとおして、赤ん坊は、自分が求められていることを知る。「自信」という
言葉が適切かどうかは知らないが、子どもは自分に自信をもつようになる。「安心感」と言いか
えてもよい。この自信や安心感が、「核(コア)」を形成する。

 エリクソンは、それをそのまま、「コア・アイデンティティ」と呼んだ。

 が、反対に、赤ん坊が泣いたとき、それをそのつど、否定したらどうなるだろうか。赤ん坊が
おなかをすかして泣いたとき、無視したり、冷淡にあしらったりする。あるいは、「待っていなさ
い!」と叱って、あとまわしにしたりする。

 そうなると、子どもは、自分のしていることに自信がもてなくなる。不安になる。「私はまちがっ
たことをしているのではないか」と思う。この状態が、子どもから、(私らしさ)をうばっていく。

 が、それだけではすまない。

 このコア・アイデンティティは、まさにその人の核(コア)になる。子どもというのは、この核をふ
くらませる形で、年齢とともに成長していく。もっとわかりやすく言えば、母子関係を、やがて、た
とえば、先生との関係、友人との関係へと、応用していく。

 が、最初の段階で、つまり母子との関係で、核(コア)づくりに失敗した子どもは、たとえば、先
生との関係、友人との関係で、良好な人間関係を結べなくなる。ここでいうアイデンティティも、
同じように考えてよい。

 もうおわかりかと思う。

 子どものアイデンティティを育てるためには、いつも子どもを前向きにほめていく。とくに乳幼
児期は、「子どもを、こうしよう」「ああしよう」と考えるのではなく、ありのままを認めながら、「そ
れでいいのだ」と教えていく。

 この時期は、多少、うぬぼれ気味、自信過剰気味のほうが、あとあとその子どもは、伸びる。
「ぼくは、すばらしい人間だ」「私は、何でもできる」と。そういう思いが、ここでいうアイデンティテ
ィを明確にする。そしてそれが、その子どもを、さらに前向きに伸ばしていく。

 最後に私のばあいだが、私は、30歳をすぎるころから、自分さがしを始めたように思う。そ
れまでの私は、私が何であるか、どこにいるか、何を望んでいるかさえ、よくわからなかった。

 が、40歳をすぎるころからは、そのつど、居なおるようになった。たとえば私は、あのパーテ
ィが苦手だった。酒を飲めないこともある。大声で騒ぎながら、意味もないゲームをしたり、歌
を歌ったりする……。苦手というより、苦痛だった。

 だからそのころから、そういったパーティに出るのをやめるようにした。「私は私だ」と。

 それまでの自分は、みなに嫌われたくない。好かれたい。そういう思いを優先させ、がまんし
ていた。が、そのがまんをするのを、やめた。

 この傾向は50歳をすぎてから、さらに強くなった。「私は、もっと私らしく生きるぞ」と思うよう
になった。が、だからといって、自分のアイデンティティを確立したわけではない。今でも、ふと
油断すると、自分がどこにいるかわからなくなるときがある。

 そういう意味で、この問題は、まさに10年単位の問題と考えてよい。もしこの文章を読んでい
るあなたが、同じような問題をかかえているとしたら、10年単位で考えたらよいということ。決し
て、1年や2年で解決する問題ではない。

 ここでいうアイデンティティの問題には、そういう問題も、含まれるということ。

(はやし浩司 アイデンティティ アイデンティティー 自己同一性 コア コアアイデンティティ コ
ア・アイデンティティ エリクソン)
(040615)

【追記】

 今、ふと思ったが、私の年代の人間には、私のようにヘラヘラと、やたらと愛想がよく、だれ
にでもシッポを振る人間が多いのでは……?

 戦後の貧しい時期に育児を経験したためかもしれないが、ひょっとしたら、あのギューギュー
のつめられた、寿司詰め教育にも、その原因があるのではないか、と。

 私の時代には、50人クラスが当たり前だった。中学校のときは、1クラス55人だった。

 いつも先生が、何かをガンガンと叫んでばかりいたような気がする。考えてみれば、それもそ
うで、先生もたいへんだったなあと思うと同時に、ああいう世界では、そもそもアイデンティティ
をもつことすら、許されなかったのではないか。

 あくまでも、今、ふとそう思ったというだけのことだが、近く、この問題についても考えてみた
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 同一性 自己同一性)




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●格言集

【子育てポイント】

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子育てポイントを2つ、
書いてみました。

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●親孝行を美徳にしない

 日本では「親孝行」が、当たり前になっている。しかしそういう常識(?)の陰で、人知れず、そ
れに苦しんでいる人は多い。

親を前にすると体中が緊張する(34歳女性)、実家へ帰るのが苦痛(30歳女性)など。

しかし世の中には、親をだます子どもがいるが、子どもをだます親もいる。Tさん(70歳)がそう
だ。Tさんは息子(45歳)がもっている土地の権利書を言葉巧みに取りあげて、それを他人に
転売してしまった。

権利関係が複雑な土地だったこともあるが、その息子はこう言う。「親でなかったら、訴えてい
るところです」と。が、当のTさんには、罪の意識がまったくない。間に入った人がそれとなく息
子の気持ちを伝えると、Tさんはこう言った。「親が息子の財産をつかって何が悪い。私が息子
たちにかわって、先祖や家を守ってやっているのだ」と。

 親孝行するかしないかは、あくまでも子どもの問題。もっと言えば、一対一の人間関係が基
本。「親が上で、子は下」という関係では、そもそも良好な人間関係など育たない。親子はあく
までも平等だ。その基本なくして、親孝行はありえない。

言いかえると、親は、子どもを「モノ」とか、「所有物」として考えるのではなく、一人の「人間」とし
て認める。すべてはここから始まる。つまり親は子どもを育てながら、自らも「尊敬される親」に
ならなければならない。

子どもが親を孝行するかしないかは、あくまでもその「結果」でしかない。さらに言いかえると、
子どもが親を軽蔑し、親孝行を考えなくなったとしても、その責任は子どもにはない。そういう親
子関係しか作れなかった親自身にある。きびしいことを言うようだが、親になるということは、そ
れくらいたいへんなことでもある。

 親孝行を子どもに求める親というのは、それだけで、依存心の強い親とみる。「甘えている」
と言ってもよい。そういう親からは、自立した子どもは生まれない。

前にも書いたが、依存心というのは、あくまでも相互的なものである。そんなわけで子どもを自
立させたかったら、親自身も子どもから自立する。またそのほうが、結局は子どもから尊敬さ
れる親になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孝行
論 親孝行)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。

この世界、「教育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。そ
れに皆が皆、まともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人
もいる。さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に
1人はいる。

このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまとも
でない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。

あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも頭をさげる。

あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集まる。しかし
あなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」となる。
そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が
先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考
えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよ
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 如水
淡交 親同士のトラブル 親どうしのトラブル 負けるが勝ち)






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●自己愛

●自己愛者

+++++++++++++++

ジコチューが、極端なほどまでに
偏(かたよ)った人を、「自己愛者」
という。

このタイプの人は、一見、他人の
ために働くような様子をしてみせるが、
しかし、それも、結局は、自分のため。

自分をよく見せたいがために、
そうする。つまりすべての言動は、
計算づく。

自己愛者は、どこまでも自己愛者。
簡単には、なおらない。

+++++++++++++++

 G県の裏金問題が、さらに底なしの様相を見せ始めている。9月8日には、前知事のK氏が、
1か月ぶりに、(1か月ぶりにだぞ!)、公の場所に姿を見せ、(謝罪)した。

 しかし謝罪といっても、「事実関係については、棚上げにする」と答えたのみ。それに今の段
階では、「謝罪する」とか「しない」とかいうレベルの問題ではない。K前知事本人に、大きな疑
惑が向けられている。わかりやすく言えば、K前知事自身の、犯罪者としての責任が問われて
いる。

 謝罪ですむ段階ではない。

 「裏金をつくり、その裏金で飲み食いした」ということは、立派な、公金横領である! (横領だ
ぞ! 犯罪だぞ!)それがわからなければ、どこかの泥棒が、県庁の金庫から、17億円を盗
んだことを想像してみればよい。

 そのK前知事だが、自分の責任を問われると、態度が変わったという。中日新聞によると、
「退職金返還の話になると、気色ばみ、それを否定した」(9月9日朝刊)ということだそうだ。

 退職金といっても、総額1億8000万円! (1億8000万円だぞ!)裏金も裏金なら、退職
金も退職金。こういう知事に牛耳られていた、G県人は、まことにもって、お気の毒としか、言い
ようがない。もともと政治的には、保守的な地域。「保守的」というより、「土着民族的」。何ごと
も、オジチャン、オバチャンたちの「寄りあい談合」で決められる土地がらである。

 たとえばなぜあの新幹線が、岐阜県内で大きく迂回(うかい)しているか、それを知っている
人は、今では少ない。もし新幹線が、名古屋からまっすぐ京都に向かっていたら、東京〜大阪
間は、今より、10〜15分ほど、短縮されていたという。

 あの新幹線を迂回させたのは、当時のG県出身の大野B氏(故人)と言われている。その大
臣の功績(?)にちなんで、新幹線のH駅(岐阜県内)には、今でも、大野B氏の銅像が駅前に
立っている。つまり政治的権力者たちが、好き勝手なことをしている。またそういうことが、でき
る。県知事とて、例外ではない。それがG県といってもよい。

 今はそうではないかもしれないが、私が高校生のときですら、政治の話をするのは、タブー視
されていた。いわんや、お上にさからうなどということは、もってのほか! そういう風潮が、色
濃く残っていた。

 で、中日新聞には、そのK知事の苦渋(?)に満ちた顔写真が大きく載っていた(9月9日朝
刊)。見るからに、誠実さのひとかけらもなさそうといった感じの顔だった。言うなれば、タヌキ。
タヌキはタヌキでも、大ダヌキ。そんな顔だった。

 当の本人は、高額の退職金返還について、「16年間命がけで県政に取り組んできた結果
だ」と、強く否定しているという(同新聞記事)。さらに裏金も返還についても、「県民に見える形
で誠意を示したい」と言いつつも、自身の返還額については、「責任に見合う負担をしなければ
ならない」と答えるにとどまっている。つまり使った分しか、返還しない、と。

 もし本当に潔白なら、ふつうの人なら激怒するはず。「私もだまされた」とか、何とか。激怒し
ないところに、うさん臭さが残る。

 またK前知事は、「命がけで……」と言うが、本当に、そうか? 自分の出世欲、名誉欲、権
勢欲を、あくまでも自分のために満たしてきただけではないのか。県知事という地位は、その
ための道具にすぎなかったのでがないのか(?)。そういう人を、心理学の世界では、自己愛
者という。自己中心性が、極端にまで偏(かたよ)った人のことをいう。

 このタイプの政治家は、身のまわりのありとあらゆる人たちを、自分のために利用する。自
分にとって、得な人か、損な人か、そういう損得勘定だけで、まわりの人たちの価値を判断す
る。(もちろんK前知事がそうであったと言っているのではない。)

だいたい「命がけ」というくらいなら、なぜ退職金にこだわるのか。あるいは、命より、お金のほ
うが大切とでもいうのか?

 それがいやなら、「命がけ」などという言葉を、軽々しく使わないことだ。

 まことにもって、実にお粗末な事件。結局この事件も、だれも責任を問うことなく、また問われ
ることもなく、うやむやのままの終わるのだろう。私が見るかぎり、攻める警察にしても、どこか
及(およ)び腰。県民の反応も、イマイチ。なぜか? なぜだろう? ……というところに、この事
件の根深さが隠されている。

まさにこの事件は、G県全体の体質にかかわる事件ということになる。この際、G県は、徹底し
て、自らのウミを、外に出すべきだと、私は思う。私自身は、そのG県を離れて、もう40年にな
るが、私が知るかぎり、いまだに、あの県だけは、40年前と、それほど変わっていない。

 G市(G県の県庁所在地)は別として、一歩、地方に入ると、50年前のまま。ひょっとしたら、
戦前のまま。

 今こそ、そういう体質を変えるべきチャンスである。

 G県の人たちよ、もっと、怒れ! 怒って、怒りまくれ。そしてその(怒り)を、つぎの時代への
礎(いしずえ)としたらよい!

【補記】

 見るに見かねてか(?)、今度この事件を、民主党の党本部(東京)が、調べることになったと
いう(9月11日)。




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【生きるとは……】

++++++++++++++++++++

長野県に飯田市という、人口10万人ほどの
小都市がある。
その飯田市で、日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)
という詩人を知らない人はいない。

その日夏耿之介の記念館に、一枚のセピアカラーの
写真が飾ってある。

私はその写真を見たとき、その写真の前で、
釘づけになってしまった。

++++++++++++++++++++

長野県に飯田市という、人口10万人ほどの小都市がある。

その飯田市で、日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)の名前を知らない人はいない。飯田市が産ん
だ、明治から、大正。昭和の時代にかけて活躍した、詩人である。市の東のはずれには、その
日夏耿之介の記念館がある。

その記念館というか展示館というか、かつて日夏耿之介が住んでいた屋敷が、そのまま再現さ
れ、そこに残っている。

 私とワイフは、また晩夏の暑さが消えやらぬ9月はじめ、その飯田市を訪れた。ついで足の
向くまま、日夏耿之介の記念館を訪れた。

 正直に言うが、私は、日夏耿之介という名前を、記憶のどこかで聞いた覚えはあるが、それ
がどんな人物で、何をしていた人かというところまでは知らなかった。日夏耿之介という名前す
ら、正確には読めなかった。日夏耿之介は、「ひなつ・こうのすけ」と読む。

 その日夏耿之介。飯田市の観光案内用のパンフによれば、つぎのようにある。

 ……明治23年に当時の飯田町に生まれる。詩人、文学者、翻訳家として、多彩な文芸活動
を展開。独特の美意識に貫かれた詩風は、高い評価を受け、自ら「ゴスィック・ローマン詩体」
と称した。大学教授を歴任し、晩年は郷里で過ごした。第1回飯田市名誉市民に選ばれてい
る。

 その記念館を訪れたときのこと。こじんまりとした、いかにも文豪の住処(すみか)といった感
じの屋敷だった。その壁のひとつに、当時の文豪たちが一堂にかいして写っている、一枚の写
真が飾ってあった。

 日夏耿之介が、何かの本を出版した折、それを祝って集まった文豪たちだという。で、その
写真の中には、芥川龍之介、北原白秋、室生犀星、堀口大学、三木露風という、錚々(そうそ
う)たるメンバーが、並んでいた。数えてみたが、22人の人が写っていた。

 「大正7年1月、東京の京橋で開かれた晩餐会で」と、説明図の左下に書いてある。といって
も、その写真は、よく知られた写真で、私は以前にも何度か、その写真を見たことがある。が、
そのときは、どういうわけか、電撃に打たれたような新鮮さを感じた。私はそのまま、その写真
の前で、釘づけになってしまった。

 とくに目をひいたのは、芥川龍之介と室生犀星である。

 芥が龍之介は、まだ若い書生といった感じで、北原白秋のうしろに顔を半分隠して立ってい
た。そしてその北原白秋の左隣に、室生犀星が立っていた。「♪故郷は遠きにありて思ふも
の」と歌った、あの室生犀星である。

 写真で見ると、芥川龍之介は、どこかいじけているといった感じ。一方、室生犀星は、私が抱
いていた印象とは、まるでちがった人物として、そこに立っていた。言うなれば、ごつい顔をし
た、オジサン。そんな感じだった。

 私は、その時代の文豪たちの顔を1人ずつみつめながら、何度もため息をついた。遠い過去
を思いやるというよりは、自分の近い未来を見る思いがした。もちろんこうした文豪たちと、私
とでは、くらべるようがない。ないが、「この人たちも消えてしまったのだな」という思いは、「やが
て自分もそうなるのだな」という思いに変わった。

 明治時代も大正時代も、そして昭和の時代も、今と同じように、明るい太陽が輝いていたに
ちがいない。青い空もあっただろう。そこには純白の夏雲も浮かんでいたことだろう。

 しかしその時代に生きた人たちだけは、その写真のように、やがて色あせ、黄ばんだ写真と
ともに、どこかへ行ってしまった。

 どこへ行ってしまったのだろう。

 私は、家に戻るとすぐ、インターネットを使って、それらの人を調べてみることにした。芥川龍
之介や北原白秋を知らない人はいない。で、私は、とりあえず、左端の人物から、順に調べて
みることにした。

●石井直三郎(いしいなおさぶろう)

大正3年、東京帝国大学文科大学国文科を卒業。六高在学中、六高短歌会に加わり、尾上柴
舟の指導を受ける。大正3年「水甕」の創刊により、社を自宅におきのち編集責任者となる。大
正14年「青樹」を創刊したが、昭和3年「水甕」と合併。生前の歌集は「青樹」一冊で、厳選した
147首を収めている。作風は典雅で流麗な調べが特色。

「おほぞらに ただよふくもの しらくもの さびしき秋に なりにけるかな 直樹」
 『水甕』の歌人、国文学者、石井直樹(本名直三郎=明治23〜昭和11)の代表作。
姉の嫁ぎ先に岡田家があり、『水甕支社』のあったこの地を、時おり訪れた。
歌碑は、昭和12年、縁故者 門人たちによって建立されたもの。自筆。
(相生市文学碑設立協会のHPより抜粋)

●斉藤勇

 東大元名誉教授斉藤勇氏は、戦前より讃美歌について文学的な研究をしていた。氏は讃美
歌に関わる文献を自ら渉猟・所蔵され、その研究成果を著書「讃美歌研究」の中で発表してい
る。
 
 それによると、1859年に日本にプロテスタント教が伝来した後、1874年(明治7年)にはす
でに数種の讃美歌集が出版していたとのことである。その当時讃美歌集を出版するに当たっ
ての難題が二つあったとのことだ。

 その一つは、当時はまだ耶蘇教禁止・嫌悪の時代であって、キリスト教関係の書類の上梓は
まだ一種の犯罪行為とみなされ、木版彫刻者の協力を得ることが至難であった。幸いに版木
が出来ても、出版者氏名も、はなはだしい場合は書名・題名すらないものがあるといった有様
であったという。

 他の一つは、キリスト教に接した当時の識者は、讃美歌合唱を歌舞音曲と見なし、はしたな
いすさびと見なして、自ら筆をとって讃美歌を訳し、作詞し、歌うことを嫌ったことである。

 忍耐強い米英宣教師たちは、滞在すること10数年にして、讃美歌集を発行する運びとなっ
たのだが、日本語への翻訳には、来日した宣教師が日本語を習い覚えた後、自ら翻訳した讃
美歌の歌詞が数多く見られた。

 それらの讃美歌は、文学的にはもちろんのこと、日本語としても拙い訳の讃美歌が見られ
た。斉藤氏によれば、米英宣教師の訳による讃美歌は笑止千万であるが、その失敗は訳語
の貧弱愚劣が、何よりも大きな原因であるとのことだ。

 その一例として、冒頭に掲載した英語賛美歌は日本語讃美歌集の第461番(主われを愛
す)であるが、明治5年に初めて日本語に翻訳された当時の歌詞は、次の通りであった。

          エスわれを愛す、   左様聖書申す
          愛すれば子たち、   弱いも強い
             はい、エス愛す、   はい、エス愛す
             はい、エス愛す、   左様聖書申す。

 この讃美歌はこの後数回の改訂の後、明治36年(1903年)に次のように改訂出版され、こ
の訳が現在までに引き継がれ、歌われている。

          主われを愛す     主は強ければ
          われ弱くとも      恐れはあらじ
             わが主エス      わが主エス
             わが主エス      われを愛す

  我が国における讃美歌の発祥から現行「讃美歌」の出版に至るまで、すなわち明治7年か
ら昭和29年までの80年間の間に、日本語讃美歌は驚くべき進歩を遂げた。その成長ぶりは
小学生が中年の紳士になったどころではないと、斉藤氏は感嘆しておられる。
(以上、村野四郎氏のHP「花と詩と音楽と」より)

●松永信

検索の結果、情報なし。

●祖父江登

検索の結果、情報なし

●柳沢健

柳沢健(やなぎさわ・けん)、作詞家、福島県出身。明治22年(1889年)11月3日生、。昭和2
8年(1953年)5月29日没

 会津若松市に生を受けた詩人、外交官。柳沢家は旧・会津藩士の家系。祖父も父も教育者
だったこともあり、健は一高から東京帝国大学仏法科と進む高い教育を受けた。

 33歳の時(大正11年)、外務省事務次官に任命され、13年からは外交官として、フランス、
スウェーデン、メキシコなどに赴任した。

 文学者としては会津中学に在籍していた頃から、短歌や評論などを発表し、大学在学時にま
とめた詩集、『果樹園』が処女出版となる。

島崎藤村、三木露風に師事し、作品集としては訳詩集『現代仏蘭西詩集』『柳沢健詩集』、随
筆集『三鞭酒の泡』や、評論集『現代の詩及び詩人』、ヨーロッパ紀行をまとめたベスト・セラー
『南欧遊記』などがある。

 故郷の会津ではたくさんの校歌の作詞をしたことでも知られ、詞を提供した学校は、計26校
に上るという。
(HP「d−score」より)

 まだほかにもあるが、この写真に写っている22人の中には、松永信や、祖父江登のように、
現在において、ほとんど知られていない人もいるようだ。が、私は調べていくうちに、こうした無
名というか、ほとんど知られていない人のほうにこそ、心がひかれた。

 どこがどうちがって、有名な人は、有名な人になり、そうでない人は、そうでない人になったの
か。

 おそらく当時においては、何か、大きな志(こころざし)をもっていた人たちであるにちがいな
い。そして彼らは彼らなりに、懸命に努力したにちがいない。しかし有名になるとか、ならないと
かいうことは、ほんの紙一重のちがいでしかない。才能や努力という点では、それほどちがっ
ていたわけではない。

 しかしその紙一重のところで、有名な人は、有名な人になり、そうでない人は、ほとんど記録
らしい記録も残さないまま、この世から消えていく……。

 が、だからといって、有名になることがつまらないとか、無意味だとか、そういうことを言ってい
るのではない。むしろ私が言いたいのは、その反対で、有名にならなかったからといって、その
人の人生が無意味だったということにはならないということ。

 辛らつな言い方をすれば、一枚の写真の中に入ってしまえば、どの人も同じ。もっとわかりや
すく言えば、人も、死んでしまえば、どの人も同じ。みんな黄ばんだ、セピアカラーの写真の中
に入ってしまう。どれが北原白秋で、どれが渡辺信であるか、写真の中で区別するほうが、お
かしい。また区別したところで、意味はない。まったく、ない。

 私はこのところ、ヒマさえあれば、その写真ばかり見ている。そしてその写真を見ながら、こう
思う。

 私もやがてその写真に写っている人物たちのように、消えていくのだろう、と。いくら「私は、
私」「あなたは、あなた」と叫んだところで、死ねば無数の人たちと混ざりあって、そのまま消え
ていく。つまり「私」という人間が、あたかも心の中のブラックホールに吸いこまれいくように、ど
んどんと萎縮し、小さくなっていく。

 そしてそれが極限になったとき、ここで二つの考え方に分かれることがわかる。

(1)そのまま、虚無主義に陥るという考え方。
(2)ブラックホールが爆発して、また別の宇宙を作るという考え方。

 私は今まで、ここでいう(2)の考え方をしてきた。基本的には、今も、そうである。そうではあ
るが、何というか、人生そのものがもつわびしさも、このところ強く感ずるようになった。ふと油
断すると、その虚無主義に、ふと、心をひかれる。

 その一枚のセピアカラーの写真は、強烈に私を刺激した。

【補足】

 運、不運という言葉がある。私は、芥川龍之介が芥川龍之介になり、北原白秋が北原白秋
になったのは、あくまでも「運」だと思う。しかしその「運」というのは、決して、神がつくるもので
も、あるいはもちろん神秘的な力が働いて、決まるものでもない。

 ただその人の努力かというと、そうでもないような気がする。努力だけでは、運はやってこな
い。世の中には、たいへんな努力をしながらも、社会の底辺でもがき苦しんでいる人は、いくら
でもいる。が、その一方で、たいした努力もしていないのに、時流に乗り、幸運をつかんだ人
も、いくらでもいる。

 おかしな言い方だが、ここに書いた松永信や祖父江登が、なぜ松永信や祖父江昇になった
か。私はそちらのほうに、より強く興味をそそられる。

(今日の私は、少し暗いかな……?)(06−09−13記)

++++++++++++++++++

話は少し脱線しますが、これを書いていたとき
以前、書いた原稿を思い出しましたので、
それをここに添付します。

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【生きるって、どんなことだろう?】

++++++++++++++++++

生きるということは、むなしいのか。
しかしだれも、そうであってはいけないと
思っている。

目の前には、明るい太陽が、さんさんと
輝いているではないか。

私たちは、その太陽に向かって、
まっすぐ前に進まねばならない。

決して、夜の闇を人生と思ってはいけない。

+++++++++++++++++++

●30年、一世代


 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。ちょうど30年で、一世
代を繰りかえすことから、そういう字を使うようになったという。

 たとえば30年後、あなたの子どもは、あなたの年齢になり、あなたの子どもと同じ年齢の子
どもをもつようになる。反対に30年前には、あなたの両親が、今のあなたの年齢で、あなたは
今のあなたの子どもの年齢だった……。

 しかし私は、この30年という数字を、別の意味で、とらえている。

 私もこの浜松市に住むようになって、今年で、33年になる。ちょうど一世代分、この町で生き
たことになる。先日もそのことについて、ワイフと、こんな話をした。

 「この30年間で、ぼくたちのまわりは、すっかり変ったね」と。

 そう、この30年間で、大きく変わった。小さな店を経営していた商店主が、全国規模の大会
社の社長になったというようなケースがある一方で、浜松市でも一、二を争っていた資産家が、
落ちぶれて、見る影もなくなってしまったというようなケースもある。

 まさに栄枯盛衰。仏教的無常観を借りるなら、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
※』(平家物語)ということになる。

 で、そういう世間を見ながら、かろうじてふんばっている我が身を知り、「こんな自分も、いつ
までつづくのか?」と、ふと、思う。

 ただ、だからといって、生きていることが、虚しいとか、そういうことを言っているのではない。
成功した人がどうとか、失敗した人がどうとか言っているのではない。人は、人それぞれだし、
私は私だ。

 が、30年も生きてみると、世の移り変わりというものが、実感として、自分の心の中でわかる
ようになる。そしてふと立ち止まったようなとき、「あのときの、あの人は何だったのかなあ」と、
思う。

 しかしそれは、そのまま私自身の未来の姿でもある。いつかだれかが、ふと、私のことを思い
出しながら、「はやし浩司って、何だったのかなあ」と思うかもしれない。何もかもあいまいな世
界だが、はっきりしていることもある。

それは、つぎの30年後には、私はこの世から消えていなくなっているということ。ワイフの父親
も、もう死んでいるし、私の父親も死んでいる。それと同じになる。

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。

 今、つくづくと、「なるほどなア」と思う。

++++++++++++++++

※祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂(つい)には滅びぬ
偏に風の前の塵(ちり)に同じ

+++++++++++++++

【追記】

●四法印

 私の先祖がまつってある墓地の入り口に、正方形の石碑が建っている。そしてその四面に
は、(1)諸行無常(しょぎょうむじょう)、(2)一切行苦(いっさいぎょうく)、(3)諸法無我(しょほ
うむが)、(4)涅槃寂静(ねはんじゃくせい)の、文字が刻んである。

 これを仏教の世界では、「四法印」と呼んでいる。つまり、この四法印こそが、仏教の教義の
根幹と思えばよい。

 つまり、この世の中のすべてのものは、流転して定まることはない(=諸行無常)。そして生き
ることには、困苦はつきもの。困苦のない人生など、ありえない(=一切行苦)。またあらゆるも
のは、いわば幻想のようなもの。もっと言えば、「空」。つまり実体のあるものは、何ひとつない
(=諸法無我)。で、最後に、すべての欲望から解放されたとき、人は、はじめて心の静寂を自
分のものにすることができる(=涅槃寂静)と。

 釈迦のこうした教えの基盤にあるのは、「救済」と考えてよいのでは……? つまり今、苦しん
でいる人を、どう救うかということ。そのため、釈迦仏教というと、どこか、暗い。この四法印に
ついても、そうだ。

 かつて、これについて書いた原稿があるので、ここに転載する。今から、3、4年前に書いた
原稿である。

++++++++++++++++++

●30年、一世代

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。ちょうど30年で、一世
代を繰りかえすことから、そういう字を使うようになったという。

 たとえば30年後、あなたの子どもは、あなたの年齢になり、あなたの子どもと同じ年齢の子
どもをもつようになる。反対に30年前には、あなたの両親が、今のあなたの年齢で、あなたは
今のあなたの子どもの年齢だった……。

 しかし私は、この30年という数字を、別の意味で、とらえている。

 私もこの浜松市に住むようになって、今年で、33年になる。ちょうど一世代分、この町で生き
たことになる。先日もそのことについて、ワイフと、こんな話をした。

 「この30年間で、ぼくたちのまわりは、すっかり変ったね」と。

 そう、この30年間で、大きく変わった。小さな店を経営していた商店主が、全国規模の大会
社の社長になったというようなケースがある一方で、浜松市でも一、二を争っていた資産家が、
落ちぶれて、見る影もなくなってしまったというようなケースもある。

 まさに栄枯盛衰。仏教的無常観を借りるなら、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
※』(平家物語)ということになる。

 で、そういう世間を見ながら、かろうじてふんばっている我が身を知り、「こんな自分も、いつ
までつづくのか?」と、ふと、思う。

 ただ、だからといって、生きていることが、虚(むな)しいとか、そういうことを言っているのでは
ない。成功した人がどうとか、失敗した人がどうとか言っているのではない。人は、人それぞれ
だし、私は私だ。

 が、30年も生きてみると、世の移り変わりというものが、実感として、自分の心の中でわかる
ようになる。そしてふと立ち止まったようなとき、「あのときの、あの人は何だったのかなあ」と、
思う。

 しかしそれは、そのまま私自身の未来の姿でもある。いつかだれかが、ふと、私のことを思い
出しながら、「はやし浩司って、何だったのかなあ」と思うかもしれない。何もかもあいまいな世
界だが、はっきりしていることもある。

それは、つぎの30年後には、私はこの世から消えていなくなっているということ。ワイフの父親
も、もう死んでいるし、私の父親も死んでいる。それと同じになる。

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。

 今、つくづくと、「なるほどなア」と思う。

【補記】

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂(つい)には滅びぬ
偏に風の前の塵(ちり)に同じ

+++++++++++++++

【追記】

 仏教的無常観……つまり、何をしてもムダ、何をしても意味がない、という無常観は、正しくな
い。当時は、そういう世相であったかもしれないが、それをそのまま受け入れると、たいへんな
ことになる。まさに(生きること)を、否定してしまうことになりかねない。

 私はこのことを、中学生のときに、感じたことがある。

 私は、中学生のころ、自分で空を飛んでみたかった。それ以前からそうだったが、毎日、どう
すれば、自分で空を飛べるか、そればかりを考えていた。

 小学4年生くらいのときには、板を切って、翼(はね)を作ったこともある。で、あれこれいろい
ろ実験を繰りかえしていた。一度は、それを背中につけて、一階の屋根の上から、飛び降りた
こともある。

……というより、そんなわけで、中学生になるころには、飛行機が飛ぶ原理を、ほぼ完ぺきに
近いほど、知りつくしていた。

 そんな中、一人、たいへん冷めた男がいた。いつも私がすることを、遠巻きにして、ニヤニヤ
と笑って見ているような男だった。今、ここで具体的にどんなことがあったかを、書くことはでき
ない。よく覚えていない。しかしその冷めた目つきだけは、今でも忘れない。

 軽蔑の眼(まなこ)というか、いつもそういう眼で、私を見ていた。

 つまり自分では、何もしないで、他人のすることを、あれこれ、批判、批評ばかりしていた。
「そんなことしても、ムダだ」とか、「意味がない」とか。

 仏教的無常観というのは、それに似ている。仏教的無常観を信ずる人は、その人の勝手だ
が、しかしだからといって、この世の中で、懸命に生きている人を否定するための道具に、そ
れを使ってはいけない。

 先日も、こんなことを言った人(男性、60歳くらい)がいた。

 「林君、どうせ有名になっても、意味はないよね。死んで10年もすれば、たいてい忘れられ
る。総理大臣だって、そうだ。今の若い人は、30年前の総理大臣の名前すら、覚えていないだ
ろ」と。

 たしかにそうだが、しかしだからといって、懸命に生きること、それを否定しては、いけない。
ちなみにその人は、どこからどう見ても、ただの平凡な男だった。

 仏教的無常観をもつ人は、どこか、独特の優越感を覚えることが多い。「冷めた考え方」とい
うのは、そういう考え方をいう。

 失敗してもようではないか。つまずいてもよいではないか。有名になれなくてもよいではない
か。大切なことは、その人が、いかに充実した人生を、満足に送ることができるか、だ。

 仏教にも、いろいろな側面がある。しかし私は、仏教がもつ、(あるいは宗教全般がそうかも
しれないが)、現世逃避的なものの考え方には、どうしても、ついていけない。ここでいう仏教的
無常観も、その一つである。

 私なら、平家物語を、こう書く。

++++++++++++++++++

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
夢と希望の、明るい音色。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
我らが目的は、失敗にめげず、前に進むこと
懸命に生きる、人の美しさ
未来に向かって、ひたすら生きる
その命、人から人へと、永遠につづく
そこに、人が生きる意味がある。価値がある。

+++++++++++++++++++++++

 しかし仏教というと、どうしてこうまで考え方が、うしろ向きなのだろうか。これはあくまでも私
の印象で、こういう私の意見に猛反発する人もいるかもしれない。しかしさんさんと明るく輝く、
太陽のようなぬくもりはない。

 どこか、線香臭く、どこか、湿っぽい。本当は、そうではないのかもしれない。たとえば、「あの
世」についても、原始仏教の中では、つぎのように説いている。

+++++++++++++++++++++++

●あの世論

 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典のひと
つ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。

わかりやく言えば、「ない」と。「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるか
もしれないが、そうした常識は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てか
らつくられた常識と考えてよい。もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまっ
た。そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護摩(ご
ま)をたいているのを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、それ
以外の何ものでもない。

むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」と教えている。(「バラモンよ、木片をたいて、清浄
になれると思ってはならない。なぜならこれは外面的なことであるから」(パーリ原典教会本「サ
ニュッタ・ニカーヤ」)と。

++++++++++++++++++

●なぜ生きるかについて

 ではなぜ、私たちは生きるか、また生きる目的は何かということになる。釈迦はつぎのように
述べている。

 「つとめ励むのは、不死の境地である。怠りなまけるのは、死の足跡である。つとめ励む人は
死ぬことがない。怠りなまける人は、つねに死んでいる」(四・一)と述べた上、「素行が悪く、心
が乱れて一〇〇年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生きるほうがすぐれて
いる。愚かに迷い、心の乱れている人が、一〇〇年生きるよりは、つねに明らかな智慧あり思
い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。怠りなまけて、気力もなく一〇〇年生きるより
は、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている」(二四・三〜五)(中村元訳)と。

 要するに真理を求めて、懸命に生きろということになる。言いかえると、懸命に生きることは
美しい。しかしそうでない人は、そうでない。こうした生き方の差は、一〇年、二〇年ではわから
ないが、しかし人生も晩年になると、はっきりとしてくる。

 先日も、ある知人と、三〇年ぶりに会った。が、なつかしいはずなのに、そのなつかしさが、
どこにもない。会話をしてもかみ合わないばかりか、砂をかむような味気なさすら覚えた。話を
聞くと、その知人はこう言った。「土日は、たいていパチンコか釣り。読む新聞はスポーツ新聞
だけ」と。こういう人生からは何も生まれない。

++++++++++++++++++++++

 少しきびしいことを書いてしまったが、仏教も、ほんの少しだけ視点を変えると、明るさがまし
てくるのではないか。またそれが本来の仏教ではないのか。「どうやって心安らかに死ぬか」と
いうのではなく、「どうやって明るく、前向きに生きるか」。それを教えているのが仏教だと、私は
思っているが……。

 この先は、またゆっくりと考えてみたい。少し、疲れた。
(05年9月24日)





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●依存心

+++++++++++++++++

人間の関係を総じてみれば、
依存する人、依存される人の関係で
できている。

親子の関係も、またしかり。

+++++++++++++++++

 子どもに依存性をもたせることは悪いことだが、一方、親に依存性をもたせることも、あまり
よくない。

 私は、浜松に住むようになってから、すぐ、収入の約半分を、実家に仕送りするようになっ
た。が、感謝(?)されたのは、最初の数か月だけ。それを過ぎると、それが当たり前になって
しまった。

 (だからといって、私の親や家族を責めているのではない。それが当時の、その地方の常識
だった。念のため!)

 さらに、私が27、8歳のときからは、実家での法事の費用など、すべて私が負担するように
なった。このほか、盆暮れに実家に帰るたびに、15〜25万円の現金を置いてくるようになっ
た。これも、感謝(?)されたのは、最初の1、2回だけ。それを過ぎると、これまた、それが当
たり前になってしまった。

 そのあとは、すべてが、その調子。テレビの映りが悪くなると、「テレビが映らん……(何とか
しろ)」、冷蔵庫が壊れると、「ものが腐る……(何とかしろ)」、「ステレオがほしい……(何とか
しろ)」と。

 家業は自転車屋だったが、いつしか、その商品の仕入れ代金まで、私が負担するようになっ
ていた。もちろん、売れたからといって、代金は、1円も返ってこなかった。家の改築費も、全額
負担した。

 当時は、まだそういう時代だった。私はそういう時代に生まれて、そういう意識を、子どものこ
ろから、徹底的に叩きこまれていた。親に孝行するのが、何よりも美徳とされていた時代であ
る。

 で、そういう自分を振り返ってみると、今、こういうことが言える。「子どもに依存性をもたせる
ことは悪いことだが、一方、親に依存性をもたせることも、あまりよくない」と。私のばあいは、
金銭的負担感というよりも、その社会的負担感に、苦しんだ。それなりに、実家の人たちが、
私を評価してくれれば、私も救われただろう。

 しかしそうした私の行為というのは、母以外、だれも知らなかった。兄、姉はもちろん、親類の
だれも、もである。母にしても、そういうことを人に話すのは、「林家の恥」と考えていたようであ
る。

 つまり私は、親に、ベタベタの依存心をつけさせてしまった。そのせいか、父が死んだあとも、
(もちろんそれ以前も)、私の母は、ただの一度も、働いたことはない。周囲の人たちには、「祖
父の代からの財産で、生活している」と、ウソばかりついていた。

 その「私」という存在は、自分の息子たちには、依存心をもたせないように努力してきた。しか
しそれと同じように、親にも、依存心をもたせないように努力すべきだった。年齢も年齢だが、
母にしても、グループ・ホームに入った兄にしても、今でも、「だれかに助けてもらうのが、当た
り前」という生活をしている。

 ……ということで、この依存心というのは、かなりの曲者(くせもの)と考えてよい。一度、それ
が相手にできると、たがいにそれが当たり前という前提で、相手は動き始める。依存する側
は、相手にベタベタに依存する。一方、依存される側は、それを拒絶することもできない。結局
は、応じてしまう。そればかりか、周囲の人たちも、みな、そういう目で見る。

 母に近いところにいる叔父などは、いつも口ぐせのように、こう言っている。「お前も、大学ま
で出してもらったのだから、感謝しな、いかん」とか、「姉(=母)は、いい息子をもって幸せだ。
オレは、何も心配していないからな。(だからちゃんと親のめんどうをみろよ)」と。

 こういう言葉が、真綿のように、つまり(イヤミ)となって、私のクビを、ジワジワとしめる。私は
何も、好きこのんで、実家のめんどうをみているのではない。

 そういう私は、親に、何をしてもらったのだ! 兄に、何をしてもらったのだ! 母などは、私
が子ども時代のアルバムひとつ、私にくれなかった。年に1、2度、菓子のようなものを送ってく
れたことはあるが、それだけ。

 依存関係というのは、そういうのをいう。

 ところで子どもの世界には、ピーターパン・シンドロームというのがある。特徴のひとつが、
「(子どもは、稼いだお金を)、すべて自分のために使ってしまう」というのがある。それを私の
親のようなケースにたとえるなら、キシモジン・シンドロームということになる。(多少ニュアンス
が、ちがうが……。)

 法華経という経本に出てくる、鬼子母神(きしもじん)である。一時、他人の子どもを食い殺し
ながら生きていたという、鬼子母神である。わかりやすく言えば、子どもの犠牲に上に安座する
親をいう。(鬼子母神自身は、自分の子どもの姿が見えなくなったとき、はじめて、それまでの
自分を恥じ、改心するが……。)

 ということで、依存性の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。親の問題も、それに含ま
れる。が、まだ、ある。あなた自身は、どうかという問題である。

 ある妻は、毎月の生活費が不足してくると、夫の実家(妻から見れば、義理の両親)のところ
へ行って、お金を無心しているという。言外に、「生活費を補充してくれなければ、離婚する」と
いうことを臭(にお)わせるのだそうだ。一方、実家の両親は、孫たちを手放したくないため、そ
のつど、お金を渡している。

 これも立派な依存心である。

 こういうふうにみていくと、依存関係、被依存関係というのは、あらゆる人間関係に、あること
がわかる。そしてそれが一度できると、その関係が、その時点で、(当たり前)になり、人間関
係をしばりだす。しばるほうも、しばられるほうも、その意識がないままに、だ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 依存
性 依存関係 依存心 鬼子母神)

+++++++++++++++++

●子どもの依存性

子どもの依存性は、どうやってできるか。一つの例をあげて、考えてみよう。

 たとえば、子どもたちに、学校で使う教科書をもってくるように言ったとする。が、X君(小5)
は、それを忘れた。
 
 そこで私は、「来週は、もっておいでよ」と言いながら、私のもっている教科書を、X君に貸して
あげたとする。X君は、それを使って、学習する。

 が、X君は、そのつぎの週も、教科書を忘れた。「どうしてもってこなかったの?」と聞くと、「今
度は、もってくるから」と。そこで前の週と同じように、私の教科書を貸す。

 つまり、こうしてX君の心の中に、「忘れても、借りればいい」という、依存性が生まれる。これ
を数度繰りかえしていると、X君の心の中から、緊張感が消える。忘れることが、平気になると
いうより、「もってこなければならない」という緊張感そのものが消える。

 こうした依存性というのは、だれにでもある。ふとした油断で、そうなる。そしてだれしも、いつ
も、依存できる人を、そのつど本能的な部分でかぎわけ、その人に依存できるとわかると、そ
の人に依存するようになる。まさに「スキさえ、あれば……」という心理状態になる。

 そんなわけで、人間関係というのは、総じてみれば、無数の保護と、同じく無数の依存の関
係でできている。それが1人の人を中心に、幾重にもからんだクモの巣のようになっている。そ
してそのクモの巣は、別の人と、これまた幾重にもからみあっている。

 つまり同じ人でも、ある場面では、保護的になったり、また別の場面では、依存的になったり
する。ここにあげたX君にしても、忘れ物に対して依存的になっているのは、あくまでも教科書
だけであって、そのほかの部分では、そうでない。

 たとえば私についても、仕事面では、ワイフの世話になることは、めったにない。しかしそんな
私でも、食事のこととなると、全面的にワイフに依存している。洗濯もそうだ。だから私は、依存
性がないとも言えないし、依存性があるとも言えない。

 が、この依存性のこわいところは、その依存する相手によっては、過度に依存し、その人自
身が、自立できなくなってしまうこと。とくに母子関係で、それが起こりやすい。

 ある母親は、自分の息子(小6)が、修学旅行にでかけた夜、それは1泊2日の修学旅行だっ
たが、夜通し、泣きつづけたという。「どうして?」と聞くと、その母親は、恥ずかしげもなく、こう
言った。「あの子は、私がいないと、何もできない子だからです」と。

 そしてそうして泣き明かしたことを、むしろ、誇っているようなところがあった。「私はこれほど
までに息子を愛している」「私こそ親のカガミだ」と。

 つまり母子の依存関係というのは、相互的なもので、子どもだけが一方的に依存性をもつと
いうことはない。その背景には、子どもの依存性に甘い、親側の育児姿勢がある。このタイプ
の母親は、親にベタベタと甘える子どもイコール、いい子と考える傾向が強い。

 そしてさらに、その母親自身も、そのまた親(母親の親たち)と、ベタベタの依存関係にあるこ
とが多い。つまりこうして、依存性は、親から子へと、代々と伝播(でんぱ)しやすい。

 そこで、どいうするか?

 先のX君のケースでは、ある日を境に、いっさい、忘れ物を貸さないという方法で、対処する。
一度、子どもにショックを与える。このショックが、別の緊張感を生む。X君は、その日、何をし
たらよいかわからず、ただモジモジしながら、1時間を過ごす。

 このとき大切なのは、しかったり、こちらが感情的になってはいけないということ。淡々とやり
すごす。ここでX君の中に、恐怖心を与えてしまうと、それこそ、『泣き面(つら)に、ハチ』という
ことになりかねない。

こうしてX君の中から、依存性を消していく。

 総じてみれば、日本人は、よく依存型民族と言われている。ほかの民族とくらべても、保護、
依存の関係を作りやすい。「何とかなる」という考え方は、やがて、「だれかが何とかしてくれる
だろう」という考え方に、変化しやすい。

 そんなことも、心のどこかに置きながら、子どもの依存性を考えるとよい。
(はやし浩司 子どもの依存性)






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●動機づけ

++++++++++++++++++++

田丸先生は、こう言った。

「子どもの心の中に、灯(ひ)をともし、
それを引き出すのが教育だ」と。

よい言葉だ。

++++++++++++++++++++

 子どもの学習指導は、動機づけで始まり、動機づけで終わる。あとは、子ども自身の学習意
欲を、うまく、守り育てていく。わかりやすく言えば、「学ぶことは、楽しい」と思わせる。「楽しか
った」という思いが原動力となって、その思いが、子どもを前向きに、ひっぱっていく。

 「生徒の到達度を調査する国際学会」の調査によると、「小学生の理科と中学生の数学では
平均点が、10点ほど下がったほか、「勉強が楽しい」「その科目に自信がある」と答えた割合
は、下から数えて2番目か3番目と、極めて低かった」という(04年末)。

 中学生は世界46か国、小学生は25か国が参加した学力テストの結果である。

 それについて、日本の文科省のN氏は、「なぜ勉強しないといけないのかという動機づけが、
まずできていない。とても世界のトップレベルとは言えない状況にあるということは、きびしく受
け止めなければいけないと思っています」と、コメントを発表している(中日新聞)。

 ここで「動機づけ」という言葉が出てくる。

 たとえば小学4年で、角度の学習をし、つづいて分度器の使い方を学習する。教える側として
は、「角の大きさは……」というような言い方をする。

 しかしその時点で、大半の子どもたちは、ほとんど、反応を示さない。もともと、その必要性が
ないからである。実感もない。子どもたちの心を代弁すると、こうなる。

 「どうして、そんなことを勉強しなければ、いけないのか?」

 そこで話題を変える。

私「先が、とがっているものにさわると、痛いよね」
子どもたち「痛いよ」
私「ここに、いろいろなヤリがあるけど、どれが一番、痛そうかな?」と。

 プリントには、いっぱい、ヤリが描いてある。先のとがったのや、そうでないのがある。その図
を見せながら、子どもに、角度の概念を理解させる。

 中に、たいへん微妙なヤリがある。見た目では、どちらがよりとがっているかわからない。子
どもたちは、「こちらかな?」「いや、こちらだ」と言い出す。しかしそれこそが、教える側のねら
いどころ。

 つまりこうして子どもたちに、問題意識をもってもらう。そしてそれを動機づけにつなげていく。

 まずいのはいきなり、「では角度を測ってみましょう」「分度器の使い方を勉強しましょう」など
という、乱暴な指導。子どもは、その時点で、興味を半減させてしまう。

 なお、こうした動機づけは、1、2年前にしておくとよい。たとえばここでいう「角」にしても、小
学2、3年の段階で、それとなくしておくとよい。これを私は勝手に、「種まき」と呼んでいる。つ
まり頭の中に、種をまいておく。それがやがていつか、花を咲かせる。

 実際には、私は、たとえばサメの絵を子どもたちに見せる。サメの口の中には、いっぱい、と
がった歯が並んでいる。そのサメの口の中を見せながら、「どの歯が、一番、とがっているか
な?」「かまれると、痛そうかな?」と。

 つまり小学2、3年生のときに、「遊び」として、子どもたちに、話しておく。種をまくつもりで、そ
うする。するとその種は、子どもたちの頭の中に残り、1、2年で、大きく成長する。(「1年だか
ら角度は教えなくてもよい」とか、「角度を教えるのは、3年でよい」とか、そういう固定概念にと
らわれる必要はない。)

 そういう例は多い。

 ……ということで、私は私の幼児教室では、こうした無数の動機づけを、そのつど、している。
サメの歯が描いた教材も、その中の一つである。コツは、「教えてやろう」と構えないこと。子ど
もたちといっしょに楽しむつもりで、教えること。それにまさる動機づけは、ない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 はや
し浩司 動機付け どうきづけ 子供の動機付け)

【補足】

 幼児教育は、結局は「動機付け」に始まって、「動機付け」に終わると言っても過言ではない。
「教えてやろう」とか、「知識を身につけさせよう」とか、そういうことは考える必要はない。

 動機付けさえしっかりとしておけば、あとは、子どものほうから、それを求めてくる。「教えて」
とか、「もっと教えて」とか。

 それが「灯をともして、引き出す」ということになる。






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●劣等感(コンプレックス)

++++++++++++++++++

劣等感は、なぜ生まれるか。
またその劣等感を克服するためには、
どうすればよいか。

++++++++++++++++++

 「こうでありたい」と思う自分。そういう理想の自分を、(希望的自分)と呼ぶことにしよう。しか
したいていのばあい、その(希望的自分)は、(現実の自分)とかけ離れていることが多い。ほと
んどの人が、そうではないか。

 この両者がかけ離れているとき、そのすき間から劣等感が生まれる(フロイト学説)。

 ただ日本語で「コンプレックス」というと、「劣等感」のことと思う人は多い。しかし「コンプレック
ス」というのは、もともとは、「複合体」「合成物」のことをいう(研究社・Approach英和辞典)。
それが転じて、心理学の世界では、「抑えられていて、本人は意識していない異常な行動の原
因となる感情」(同)を意味するようになった。

 コンプレックスというのは、日本語では、「こだわり」と考えると、わかりやすい。そのこだわり
には、いろいろある。

 よく知られているのに、エディプス・コンプレックス、マザー・コンプレックス、ロリータ・コンプレ
ックスなど。カイン・コンプレックスというのもある。兄弟間の確執や、葛藤を、そう呼ぶ。(詳しく
は、私のHPを参考に!)

 たとえばここに1人の女子高校生がいる。彼女は、子どものころから、いつかすてきな王女様
のような女性になって、これまたすてきな王子様のような男性と結婚したいと願っていた。

 それが彼女にとっては、(希望的自分)ということになる。

 しかし現実の彼女は、その王女様とは、かけ離れた存在だった。容姿も、あまりよくなかっ
た。勉強も、スポーツも苦手だった。学校でも、そのため、まったくと言ってよいほど、目だたな
かった。

 こうしてその女子高校生は、容姿に対して、大きな(こだわり)、つまり(コンプレックス)をもつ
ようになった。

 ……というような例は、多い。多かれ少なかれ、こうしたコンプレックスは、だれしももってい
る。

 そこで大切なことは、こうしたコンプレックスを、心の中で、どう消化し、どう昇華していくかとい
うこと。まずいのは、そうしたコンプレックスがあることに気がつかないまま、そのコンプレックス
に、裏から操られることである。

 たとえばマザー・コンプレックスにしても、当の本人は、マザコンでありながら、それに気づくと
いうことは、まずない。一方で、母親を美化しながら、「私がそうであるのは、それだけ私の母
がすばらしいからだ」と、おかしな理由づけをしたりする。こういうのを、「合理化」、あるいは「自
己正当化」という。

 あるいは、こうしたマザー・コンプレックス(ファーザー・コンプレックス)は、親絶対教の基盤に
なることもある。「親は、絶対」という考え方である。

 その人が、母親に大きな(こだわり)をもつのは、その人の勝手だが、そのため、いろいろな
問題が起きることがある。それがやがて周囲に、影響を与えるようになることがある。

たとえばマザコンタイプの男性は、いつも、マドンナ(聖母)的な女性を追い求めるようになると
言われている。そのため、仮に結婚しても、自分の妻に満足できず、夫婦関係が、ギクシャク
しやすい。浮気率も高く、離婚率も高いと言われている。

 それだけ理想の女性を求めて、女から女へと渡り歩く傾向が強いからである。

 そこで重要なことは、こうしたコンプレックス(こだわり)に、まず、自分で気がつくこと。もしあ
なたが、何かのことで、劣等感を強く覚えるようなら、その背後に、どんな(こだわり)があるか
を知る。また、なぜ、そうなのかを知る。

 すべては、ここから始まる。

 そして、あとは、「時の流れ」に身を任す。この問題だけは、根が深い。簡単には、なおらな
い。しかしそれに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。

 ただ誤解してはいけないのは、コンプレックス、イコール、「悪」ではないということ。中には、
そのコンプレックスと戦いながら、そのコンプレックスを昇華させていく人もいる。自分を高めて
いく人がいる。

 芸術家や、作家、スポーツ選手などの中には、そういう人が多い。コンプレックスが一つのバ
ネとなって、その人を伸ばす。大切なことは、コンプレックスがあるということではなく、そのコン
プレックスと、どうやって、うまくつきあうか、である。

 さて、あなたには、どんなコンプレックス(こだわり)があるか? 一度、あなたの心の中を、の
ぞいてみると、おもしろいのでは……?
(はやし浩司 コンプレックス こだわり 劣等感 マザー コンプレックス)

【補記】

 私にも、子どものころ、たくさんの(こだわり)があった。

 まず、「庭」。子どものころ、太陽の日がさしこむような庭がほしかった。そういう庭のある家を
見ると、本当に、うらやましかった。

 つぎに「暖かい家庭」。私の生まれ育った家には、私の居場所すらなかった。

 また、私は、気が小さいくせに、自分より強い男と、けんかばかりしていた。それにも、何か別
のコンプレックスがかかわっていたのかもしれない。今、考えても、よくわからないが……。

 で、こうしたコンプレックスが転じたのだろう。私はお金ができると、すぐ庭つきの家を買っ
た。庭といっても、10坪足らずの庭だったが、私は、そこで、つぎからつぎへと、いろいろな野
菜を作った。それは、今から思うと、それまでのコンプレックスを、一気に、解消するためでは
なかったか。(もちろん無意識のまま、そうした。)

 つぎに「暖かい家庭作り」。しかしこれはあまり、うまくいかなかった。いつも気負いばかりが
先行して、家庭の中は、いつもギクシャクした。そういう意味では、ワイフや息子たちには、苦
労をかけたと思う。(ごめん!)

 ほかにもいろいろなコンプレックスがある。

 つまりは、人は、そうした無数のコンプレックスをかかえながら、そしてほとんどのばあい、無
意識なまま、それに操られて生きているだけなのかもしれない。

 「私は私」と、思いこみながら、である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 コンプ
レックス 劣等感 マザコン マザーコンプレックス エディプス・コンプレックス、マザー・コンプ
レックス、ロリータ・コンプレックス カイン・コンプレックス)





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【人間性の確立】

【より高い人間性を求めて】(1)

++++++++++++++++++

古今東西、実に多くの哲学者たちが、
「どうすればより人間として、
人間らしく生きることができるか」という
テーマについて考えている。

ここでは、マズローの「欲求段階説」を
中心に、それを考えてみたい。

+++++++++++++++++++

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きるこ
とはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズロ
ーの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実
をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれ
として、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生き
ていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい
人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新し
い人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこ
に問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それ
をテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密
になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡
単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るく
して生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによっ
て、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持する
ことができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったとき
から、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢と
ともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わ
かった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそ
れまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」
へのいとおしさというか、「生きることのすばらしさ」というか、それが、鮮明にわかるようにな
る。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。
問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どう
であるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることが
できるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多い
ことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろう
か。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人
間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようにな
る、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの
「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、遊離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 マズ
ロー A・H・マズロー 欲求段階説 人間らしい生き方


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1526)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】
(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

+++++++++++++++++++++

A・H・マズローは、「欲求段階説」を唱え、
最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。
人間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、
より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようになる、と。

マズローの欲求段階説をもとに、私は、
人間らしく生きるための10か条として、
つぎのように考えた。

AHマズローは、アメリカ心理学会の会長を
務めたこともある人物である。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

+++++++++++++++++++++

 ここにあげた10の鉄則は、どれも、きわめて常識的なものと考えてよい。だれもが、「そうだ」
と納得できることを、10の鉄則にまとめたにすぎない。

 しかしその常識的であるという点が、むずかしい。

 たまたま昨日(9月15日)、あの忌まわしい地下鉄サリン事件の首謀者である、A被告の死
刑判決が確定した。それについて、教団内部では、(1)A死刑囚の奪還計画、(2)死刑執行と
ともに、信者たちの後追い自殺などの動きが見られるという(Yahoo・news)。

 (常識)をはずれた人たちは、そこまで狂う。

 そこでどうすれば、その(常識)をみがくことができるかということになる。マズローは、そのヒ
ントを私たちに与えてくれた。心理学者として、数多くの、人間の(心)をみつめてきた人であ
る。その意見は、傾聴に値する。

 で、マズローの欲求段階説によれば、人間は、最終的には、「自己実現」をめざすという。わ
かりやすく言えば、「私の確立」ということか? 崇高で気高い自己概念(=こうでありたいと描く
自分像)をもち、その自己概念に、現実自己(=現実の自分)を完全に一致させる。そのとき
「私」は、完成する。

 この10の鉄則の中で、最大のポイントは、「いかにすれば、現実的に生きられるか」である。

 以前、こんな原稿を書いた。少し話が脱線するかもしれないが、「現実的に生きるためのヒン
ト」になれば、うれしい。

++++++++++++++++++

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪が
ある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だ
けをよくしようとしても、無理。

子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンし
んちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だ
ってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数
のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくし
てしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間
になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう環境を
見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の
人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。

「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、
こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が
悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。そ
れが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)
 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)

++++++++++++++++++

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。

仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなか
った。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。

ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中に
ある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、
私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人が
いる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思
っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、1日100万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。

どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても1日100
万件とは! 

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった25年前には、
「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらの
ほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明
が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小5男児)がい
た。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは
超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。

たとえば親鸞の『回向論(えこうろん)』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。

もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そ
ういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。

いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障
害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだ
ら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろ
うか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。

神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらい
で、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。

だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということ
が地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまで
わかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、
すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかい
い成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。

いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で
努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら
努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそ
う考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。

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第2の鉄則と、第3の鉄則は、
「あるがままに、世界を受けいれよう」
「自然で、自由に生きよう」である。
それについても、以前、こんな原稿を
書いたことがある。
なお私がいう「自由」とは、「自らに由(よ)る」
という意味である。
好き勝手なことを、気ままにすることを
自由とは言わない。

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●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。

「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなく
なる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えてい
る。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。

あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無
駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。

だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子ど
もたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども
時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくても
いいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観
の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味
がわからないのではないか……と、私は心配する。

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●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。

法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こ
そが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自
分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由(よ)る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育て
の基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。

いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な
子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。子どもは
精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出す
と、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最
後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に
居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手が
つけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

+++++++++++++++++

 自分を客観的に見るということと、
他者との共鳴性については、一見、
正反対の位置にあるように思う人が
いるかもしれないが、この両者は、
紙にたとえて言うなら、(表)と(裏)
の関係にある。

 つまり自分の視点を、他人の目の中に
置いてみる。その他人の目を通して、自分を見る。
その人自身の心の中を見る。

 方法は簡単である。

 たとえば通勤電車の中に座ったとしてみよう。
通路をはさんで、その向こうには、
ほかの客たちが座っている。

 そのとき、それぞれの客の中に、
自分を置いてみればよい。
最初は、「相手から見ると、自分はどんなふうに見えるだろう」
と想像するだけでよい。
あなたが相手を見るように、相手から見る自分を想像する。

 これを繰りかえしていると、自分の姿が、
より客観的に見えるようになると同時に、
その人の心の中に、入りこむことができる。
それがここでいう「共鳴性」ということになる。

 その「共鳴性」は、人格の完成度を知るための、
ひとつのバロメーターにもなっている。

 以前、子どもの人格論について、こんな原稿を
書いた。

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【子どもの人格】

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(13)共感性
(14)自己認知力
(15)自己統制力
(16)粘り強さ
(17)楽観性
(18)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(13)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(14)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(15)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(16)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(17)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(18)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは
ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに
なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)

【付録】*******************************

 最後に、では、あなたの子どもはどうか、
(あなた自身でもよいが)、
その診断テストを考えてみたので、ここにあげる。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(19)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(10)いつも喜んでするようだ。
(11)ときとばあいによるようだ。
(12)いやがってしないことが多い。


(20)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(10)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(11)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(12)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(21)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(22)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(23)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(24)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(15)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(16)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(10)自己管理能力
(11)良好な対人関係
(12)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
人格の完成度 自己実現 人間性の確立)





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●利他論

【自己愛との戦い】

+++++++++++++++++

今日、ワイフと、車の中で、
こんな話をする。

自己愛者は、自分のことだけしか
しない、と。

だから自己愛者という。

人は、老齢になればなるほど、
その自己愛者になりやすい(?)。

自分のことしか、考えなくなる。

みながみな、そうではないが、
ふと油断すると、そうなりやすい。

+++++++++++++++++

●自己愛者

 もっとも忌み嫌い、軽蔑すべき人間。それが自己愛者ということになる。

 人はだれしも、ある程度は、自己中心的なものの考え方をする。幼児期から少年少女期の
初期には、とくにそうである。

 が、そのあと、成長とともに、心づくり、つまり心理学でいうところの内面化が始まる。その「内
面化」が何であるかを一言で表現するなら、自己中心性からの脱却ということになる。言いか
えると、より自己中心的なものの考え方をする人は、それだけ精神の発達が遅れた人とみてよ
い。

 しかし中には、内面化が遅れ、さらに自己中心的なものの考え方をするようになる人がいる。
その中でも、自己中心性が極端にまで肥大化し、他者との良好な人間関係に支障をきたすよ
うになった人を、「自己愛者」という。

 この自己愛者の特徴は、言うまでもなく、極端な自己中心性だが、そのため、他人に対する
許容範囲が、きわめて狭くなる。好き嫌いがはげしくなり、自分のもつワクの入らない人を、徹
底的に排斥する。

 そのため、他者との関係において、ぎくしゃくなりやすい。結果として、自分のカラ(=カプセ
ル)に閉じこもり、自分だけの価値観を極端化しやすくなる。昔、こんな男性(70歳くらい)がい
た。

 当時、すでに年金生活者だったが、自治会の会合に出ても、不平不満、あるいは文句ばかり
並べていた。他人の意見には、すべて反対。「自分だけが絶対、正しい」というようなことを、平
気で口にしていた。

 が、町内の仕事は、いっさい、しない。するのは、自分のことだけ。自分の身のまわりだけ。
あとは、何もしない。本当に、何もしない。それこそ、隣地の雑草一本、抜かない。もちろんゴミ
が落ちていても、そのゴミも拾わない。

 こうした自己愛者は、自分の「得」になることはするが、それ以外のことは、何もしない。一
見、他人のために働くように見せかけることもあるが、しかしよくよく観察すると、すべてが計算
づく。自分をよく見せるための、道具として、そうした行為を他人に、ひけらかす。

 ところで、この「自己愛者」という言葉は、戦後、外国から日本に入ってきた言葉である。その
ため、日本人には、あまりなじみがない。あるいは反対に、この日本では、「自分を大切にする
人」と、よい意味に誤解されることもある。

 しかし自己愛者は、冒頭にも書いたように、もっとも忌み嫌い、軽蔑すべき人間と考えてよ
い。

 2年前に書いた原稿を、もう一度、ここで推敲してみたい。というのも、最近、私はこんなこと
を感ずるからである。

 人は老齢になればなるほど、ものの考え方が自己中心的になり、他人に対して無関心になり
やすい。「とりあえず、自分さえよければ」というような考え方をするようになる。もちおろん、み
ながみな、そうというわけではない。しかしその傾向が強くなる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己愛者

 自己愛が肥大化するから、自己中心的になるのか。それとも、自己中心性がきわまるから、
自己愛者になるのか。

 どちらにせよ、自己愛者は、生活のあらゆる面で、ものの考え方が、自己中心的になる。
が、ここで重要なことは、自己愛者自身が、自分がそうであっても、それに気づくことはまず、な
いということ。

 このことは、自己中心的な人を見ればわかる。自己中心的でありながら、その人が、それに
気づくことは、まずない。自分が自己中心的であるということは、その人が、自己中心的でなく
なったときはじめて、わかる。

 生きザマというのは、そういうもの。脳のCPUに関係しているから、自分の生きザマを客観的
に知るということ自体、たいへんむずかしい。

 その自己愛の特徴として、ここであげる。

(1)異常なまでの自己中心性のほか、
(2)他人を信じない完ぺき主義、
(3)他人の批判を許さない。批判されると、極度の緊張状態に置かれるなどがある。

 こうした現象は、子どもの世界では、顕著に現れる。というのも、子どもというのは、成長とと
もに、自己中心性から、利他的思考へと、自分を転換させる。(自己中心的なまま、おとなにな
る子どもも、少なくないが……。)

 総じてみれば、幼児は、すべて自己愛者である。その幼児が、成長とともに、その自己愛か
ら、他人の立場でものを考えることができるようになる。

 こんなことがあった。

 幼児から、小学生にかけて、かなりはげしい多動性を示した子どもがいた。幼稚園でも、そし
て小学校に入学してからも、毎日のように問題を引き起こした。

 しかしそんな子どもでも、小学3、4年生を境に、少しずつだが、落ちつきを見せるようになっ
た。自己意識で、自分をコントロールできるようになったからである。

 その子どもが、中学3年生になり、いよいよ卒業ということになったときのこと。私は恐る恐
る、その子どもにこう聞いてみた。

 「君は、小さいころ、先生や友だちに、かなり迷惑をかけたが、それを覚えているか?」と。

 するとその子どもは、ケロリとした表情で、こう答えた。

 「ううん、ぼくは何も悪いことをしてないよ。先生も、みんな、ぼくが何も悪くないのに、毎日、目
のカタキにして、ぼくばかりを怒った」と。

 その子どもは、自分のことが何もわかっていなかった。私はその子どもを見ながら、改めて、
自分を知ることの難しさを、思い知らされた。恐らく、その子どもは、おとなになっても、自分が
多動性のある子どもだったと気づくことはないだろう。教職の道に入り、ADHD児についての研
究者になっても、自分に気づくことはないだろう、と。

 自分を知るということは、そういうことをいう。

 ところで、話は、ぐんとそれるが、ブルース・ウィリス主演の映画に、『シックス・センス』という
映画がある。自分はすでに死んでいるのに、自分が死んでいるということに、最後まで気がつ
かないという、あの映画である。

 あの映画では、最後に、ブルース・ウィリス演ずる、小児科医のマルコム・クロウは、実は自
分自身が幽霊であったことを知る。私はあの映画を見たとき、そういった衝撃というのは、日常
の生活の中では、よくあることではないかと知った。

 たとえばあのソクラテスは、『無知の知』という、有名な言葉を残している。「自分は無知であ
るということを知る」という意味である。それなども、その一つである。

 あるとき自分がより高度な知恵を手に入れたとき、それまでの自分が、いかに無知であった
かを思い知らされる。あるいは、ある男性は、こう言った。「マザコンというのは、他人のことと
ばかり思っていましたが、自分がそのマザコンだったと知ったときは、強いショックを受けまし
た」と。そういうことは、よくある。

 同じように、自己中心的な生き方をしていた人が、ある日、何かのきっかけで、その自分の
自己中心性を思い知らされることがある。とたん、それまでの自分の生きザマが、つまらないも
のであったかを知る。

 これなども、どこかあの『シックス・センス』に似ている。……という意味で、あの映画をとりあ
げてみた。

 実は最初にも書いたように、自己愛者は、自分がその自己愛者であることに、気づくことはま
ず、ない。自分が、自己愛から離れてみて、それまでの自分が、自己愛者であったことに、はじ
めて気づく。

 そこで自己診断ということになるが、つぎの点で、いくつか自分に当てはまることがあるなら、
あなたは、その自己愛者と思ってよい。

( )完ぺき主義で、他人に仕事を任せられない。
( )何でもかんでも、自分の思いどおりにならないと気がすまない(完ぺき主義)
( )この世界では、当然のことながら、「私」が一番、大切。
( )自分がいちばん正しい。ふだんの会話も、命令口調が多い。
( )まわりが自分を認めないときは、逆恨みしたり、不平不満をもちやすい。
( )他人に批判されたり、批評されるのを好まない。
( )他人に批評されたりすると、狼狽したり、混乱状態になる(自己の無謬性)。
( )独断性が強く、わがまま、自分勝手、自己中心的(自己中心性)。
( )孤独で、さみしがりや。友人が少なく、他人に気を許せない。
( )他人に心を許すことができない。そのためどうしても、ウソが多くなる。
( )ときとして常識ハズレ、過激な行動にでやすい(社会性の欠落)。
( )自分を飾り、仮面をかぶることが多い。よい人に見せる。
( )そのため他人と交際すると、必要以上に神経疲労を起こしやすい。

 こうした自己愛が自分に見られたら、利己から利他への転換をはかる。他人の心の中へ一
度、自分を置き、その状態から、その人の目を通して、あなた自身をみつめてみる。その訓練
を繰りかえす。

 これを繰りかえしていると、自分から自分が離れ、相手の立場になって、ものごとを考えられ
るようになる。と、同時に、自己愛から、自分を解放させることができる。

 自己愛そのものは、孤独な生き方である。そして自己愛者の多くは、自己愛的に行きなが
ら、それが「私らしい生き方」と、誤解している。しかし自己愛は、決して、個性的な生き方では
ない。もちろん望ましい生き方ではない。

 自己愛者が孤独なのは、いわば自業自得。しかし同じように、その周囲の人も、孤独にな
る。親子や夫婦でありながら、心の通わない状態がつづく。私の印象では、自己愛者の親ほ
ど、子どもと断絶しやすい。あるいは夫か妻か、どちらか一方が自己愛者であると、離婚しや
すい。統計的な数字があるわけではないが、実感として、そう思っている。

 実際問題として、自己愛者の人というのは、つきあうのに苦労する。一見、愛想がよく、ひと
づきあいもそれなりにうまい。しかし心は、閉じたまま。本人も疲れるが、その緊張感を感じた
とき、つきあう側も、疲れる。

 ただここにも書いたように、自己愛者が、自分が自己愛的であることに気づくことは、まずな
い。自分が自己愛的であるかどうかは、自分自身が、利己から利他へ、転換できたときに、は
じめてわかる。

 もしあなたが、ここでいう自己愛者であるなら、私が書いたことを参考に、自分の姿を客観的
に知るのもよいだろう。あの『シックス・センス』の中でブルース・ウィリスが覚えたような衝撃
(?)を、あなたも経験するのではないだろうか
(はやし浩司 自己愛者 自己愛 シックス・センス ブルース・ウィリス)

 【ある自己愛者】

 自己愛者の最大の特徴は、その自己中心性である。自分のことしかしない。自分のことしか
考えない。自分にとって利益のあることは、仮面をかぶってでも、それをする。しかし自分が損
をすることは、まったくしない。

 ときに他人に対して献身的に行動することはあるが、それ自体も、どこかで自分の利益を誘
導するため。自分のことをよい人だと思っている人の間では、すこぶるよい人を演ずる。しかし
その一方で、自分のことを批判する人や、批評する人を許さない。ときに、徹底的に、その人
を攻撃したり、排斥したりする。

 自己愛者は、自分をよく見せるために、細心の注意を払う。仮面をかぶることも多いし、当
然、ウソも多い。だから他人に気を許せない。気を抜かない。どこかピンとした緊張感が走る。
この緊張感が、まわりの人を、息苦しくする。

 が、自己愛者は、孤独。さみしがりや。他人との良好な人間関係を築くことができない。その
ため、神経疲労を起こしやすい。他人と少しまじわっただけで、神経をすり減らす。偏頭痛など
を訴える。他人に対して心を開けない分だけ、集団行動が苦手。

 その一方で、気を許した人の間では、わがまま、独断、命令口調が多くなる。その人を自分
の思いどおりに動かそうとする。そのため、完ぺき主義に陥りやすい。

 S氏(60歳)が、そういう人だった。今は、もうなくなってしまったが、自分のことしかしない、自
分勝手で、わがままな人だった。奥さんや子どもにすら、自分の心を開くことはなかった。どこ
か権威主義で、家父長意識が強かった。死ぬまぎわまで、「葬式だけは、しっかりとしてくれよ」
が、口ぐせだった。

 が、実際には、S氏の葬儀ほど、静かで、ものわびしいものはなかった(知人の弁)。通夜に
訪れた人も、ほとんどいなかった。たぶん、S氏には、それがわかっていたのではないか。自
己愛者というのは、そういう人のことをいう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
愛 自己中心性 自己愛者)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己愛者は、孤独?

 自己愛者というより、自己中心的な人は、それだけ孤独な人と考えてよい。その根底には、
「信じられるのは、自分だけ」という、根強い、他人への不信感がある。

 このタイプの人は、独善的である分だけ、他人の失敗を許さない。完ぺき主義。こまかいこと
を、つぎつぎと指示して、自分の思いどおりにならないと、不愉快に思ったり、怒ったりする。

 たとえば、昔、こんな女性がいた。

 その家は、江戸時代からの名家ということだそうだが、その女性は、その家の女主人。ことさ
ら伝統としきたりに、うるさい人だった。それはわかるが、長男の嫁が、たいへんだった。

 床の間の飾りつけ一つにしても、ほんの少しでも位置がずれていたりすると、やりなおしをさ
せられたという。

 この女性のばあい、自己愛というよりは、自家愛というべきか。嫁という「人間」より、自分の
「家」のほうが大切なのかもしれない。

 もちろんそれぞれの人には、それぞれの生き方がある。それぞれの人が、それで、それなり
にハッピーであれば、問題はない。他人がとやかく言う必要はない。

 しかし自己愛にせよ、自家愛にせよ、それと引きかえに、孤独という地獄を背負うことにな
る。

 私も、ときどきこう思う。「私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう」と。

 別に悲しんでほしいわけではないが、そう考えたとき、ふと、「私が死んでも悲しむ人は、だれ
もいないだろうな」と思ってしまう。たとえば先日も、同じ町内の班で、私と同年齢の男性が死ん
だ。

 散歩のとき、ときどき顔を合わせる程度のつきあいしかなかったら、その人が死んだという話
を聞いたときも、ショックはショックだったが、悲しいという思いは、わいてこなかった。

 が、それが親類や、さらに身内となると、そうはいかない。が、そのときも「その人が死んで、
悲しい」というよりは、「自分の過去が消えていく」というさみしさのほうが、先にくる。その人の
死を悼(いた)むというよりは、どこか自分のために、その人の死を、悔やむといったほうに近
い。

 では、家族は、どうか? これについては、こんな話がある。

 私も、晴れて孫をもち、ジジイの仲間入りをした。ジジイの気持ちが、理解できるようになっ
た。そこである日、ふと、幼稚園児たちに、こう聞いてみた。

 「みんなには、おじいちゃん、おばあちゃんは、いるかな?」と。すると何人かの子どもたち
が、「もう、死んだ」と答えた。

 そこですかさず、「おじいちゃんや、おばあちゃんが死んだとき、悲しかったかな?」と聞いて
みた。すると、最近、祖父母をなくした子どもたちですら、全員(4、5人)、「ううん。悲しくなかっ
た」「ゼンゼン」と答えた。

 「そういうものかなあ」と思った。「反対に、孫が死んだら、ジジイにせよ、ババアにせよ、狂っ
たように悲しむのに」とも。

●幸福の追求

 幸福の追求とは、何か。

 あるいは、どういう状態を、幸福というのか。

 おいしいものを食べ、きれいな衣服を身にまとい、快適な家に住むことなのか。

 私とて、お金は、嫌いではない。しかしお金では、幸福は、買えない。(反対に、お金がなく
て、不幸になる人は、いくらでもいるが……。)

 しかし幸福感ほど、わかりにくい感覚はない。欲望を満足させたときを幸福と言うのなら、そ
れは、まちがっている。満腹になったとき。予定外のボーナスが、舞いこんできたとき、そういう
とき感ずる満足感は、ここでいう幸福感とは、無縁のものである。

 で、私は、最近、幸福とは、まわりの人たちの心の中で、やすらぎを感ずることではないかと
思い始めている。まだそう思い始めたばかりで、それが結論というわけではない。

 しかし孤独から自分が解放されたと感じたとき。そういう状態を、幸福というのではないか、
と。言いかえると、孤独との戦い。その戦いを通して、その反射的効果として与えられる感覚
が、幸福という感覚ではないか、と。

 そういう意味で、幸福と孤独は、コインの表と裏のようなものかもしれない。孤独と戦うこと
で、その人は、幸福になれる。しかしいくら、欲望を満足させても、そこに孤独を感ずるようであ
れば、その人は、決して、幸福とはいえない。

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも
受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身
も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も
孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹というこ
とになる。

 あのアリストテレスでさえ、「世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独
(friendless condition)は選ばないだろう(No one would choose a friendless existence on 
condition of having all the other things in the world. )」と述べている。

 孤独を、安易に考えてはいけない。「生きるということは、まさに孤独の闘い」と言っても、言
い過ぎではない。と、同時に、それは個人化が、いかにけわしい道であるかを意味する。

 もっとも若いときは、その孤独の意味すらわからない。健康で、死への恐怖もない。毎日がス
リルと興奮の連続。そんな感じですぎていく。孤独を感ずることがあるとするなら、何かのことで
つまずき、ふと立ち止まったようなときだ。

 「私は私」という生きザマの中で、自分のカラに入ることは、同時に、その孤独を背負うことを
意味する。

 ではどうすればよいのか。

 そのヒントとして、マザーテレサは、「愛」があると、書いている。

●まず自分を知る

 まず、自分の中の自己中心性を知る。すべては、ここから始まる。

 が、これがむずかしい。どの人も、自分のことは、自分が一番よく知っていると思っている。あ
る意味ではそうだ。谷間に住んで、山に登ったことがない人には、自分の村の姿の全体像は
わからない。

 「私」もそうで、私を知るためには、一度、視点を、私の外に置いてみなければならない。私
を、私の目を通して見ているかぎり、私など、ぜったいにわからない。

 先日も、私は幼児の前で、わざと計算ができないフリをしてみせた。「3たす5は……? エ〜
と」と。そして電卓をパチパチとたたいてみせたら、一人の子どもが、こう言った。「あんたは、
本当に、センセイ?」と。

『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスにま
つわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないという事実を知ること」を、無知の
知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなこともあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーといいます」
と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャーではなく、カレン
ダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見ているんだ
ろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カレンダーも知ら
ないのオ?」と。

 私はま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣さの中
に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだって、無数
の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そしてその状態は、庭
に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのではない
か。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわない?
 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわないと思って
いる。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったとしても、
自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、気づいていない
からである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見ればよいと
いうこと。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、結局は、自分を知
ることの第一歩ということになる。

●利己から利他への転換

 自分の中の自己中心性を知るのは、そういう意味では、たいへんむずかしい。仮にあなたが
そうであるとしても、それに気づくことは、至難のワザである。が、もし、あなたが、「さみしい」
「孤独だ」「友がいない」「わかってくれる人がいない」と感じているなら、まず、自分の自己中心
性を疑ってみたらよい。

 すべては、ここから始まる。

 ひょっとしたら、あなたは、自分のカラに閉じこもり、自分だけを愛しているだけかもしれな
い。幻想と幻惑にとりかこまれ、「私は愛されている」「愛されて当然」「尊敬されている」「尊敬さ
れて当然」と思っているだけかもしれない。

 本当のところ、だれも、あなたを愛してはいない。尊敬もしていない。もっと言えば、あなたが
死んだところで、だれも悲しまない。

 型どおりの葬儀。型どおりの弔辞。型どおりの法事。それを繰りかえすうち、やがてあなたの
ことなど、だれも話さなくなる。

 実は、そのことを、あなた自身が一番よく知っている。が、それを認めることは、あなたにとっ
ては、人生の敗北。だから懸命に虚勢を張って、そうでない自分を演出する。

 「私は、孤独ではない」「私には、友が多い」「私は、みんなから愛されている」と。

 このタイプの人間は、夜のバラエティ番組に出てくるタレントたちを見れば、わかる。派手な衣
装を身にまとい、金ピカピカの装飾品で、それを飾る。そして言うことは、いつも同じ。

 「X国の皇族たちとも、私は友人でして……」と。

 しかしそういうタレントが死んで、だれが悲しむだろうか。涙を流すだろうか。

 そう、あなたは孤独だ。あなたが身を置いて、その心を休める人は、だれもいない。

 ……と、そこまで気づいたら、あとは、簡単。本当に簡単。ウソのように簡単。

 一度、ためしに、相手の心の中に自分を置いて、その相手の心の中から、自分がどう見える
か、ちょっとだけ試しに、見てみてほしい。

 あとは、少しずつ、その機会をふやしていく。それでよい。それであなたは、利己から、自分を
切り離すことができる。

 が、いつまでも利己にこだわっていると、あなたは、無間の孤独地獄から、解放されることは
ない。それについて、たびたび考えてきたので、今まで書いた原稿の中から、いくつかを選ん
で、収録する。

+++++++++++++++++++

●孤独からの解放、それが自由

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝8章32節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由に
なれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸
締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったもの
に対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはで
きないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがら
なくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる
と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言え
ば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた
原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文無しの人
は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことに
なる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

●では、どうすればよいのか?

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ
は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ
て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ
ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た
ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって
いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい
う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も
それに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ
た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに
も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世
界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……かもし
れない」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解
くカギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれ
た地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わから
ない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なこと
に、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行
え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。

彼の言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちが
ってはいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦
「大般涅槃経」)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孤独
 孤独論 利他 利己 自己愛 自己愛者)





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【キレる子ども】

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キレる子どもについて、
私の経験から……

++++++++++++

 突発的に、きわめて衝動的に暴力を振るう子どもというのは、たしかにいる。私は、大きく、
つぎの3つのタイプに分けて考えている。

(1)ピリピリ型(いつも神経がピリピリしているタイプ、頭のキレる子どもに多い)
(2)むっつり型(何を考えているかわからないタイプ。ふだんは静かで、穏やか)
(3)ゲーム型(目的もわからないまま、ゲーム感覚で、とんでもないことをする。)

 ピリピリ型というのは、ふだんから、神経が過敏状態になっていて、静かな落ち着きが見られ
ないタイプをいう。頭の回転が速く、その分、学習面で、優秀な成績を示す。ささいなことで、突
発的に衝動的な行動に出る。

【Kさん(小6女児)】

 私が、いつもKさんが座る席でお茶を飲んでいたときのこと。休み時間でのことである。突
然、Kさんがうしろからやってきて、笑い声で、「やあ、先生!」と声をかけてきた。私が、「ああ」
と答えたその瞬間、もっていたバッグで、思いっきり、頭を側面から叩いてきた。

 メガネはふっとび、私は、イスからころげ落ちた。

【Tさん(小5女児)】

 私が別の子ども(小5女児)と、何かのことでふざけて冗談を言いあっていたときのこと。Tさ
んが、私に何かを話しかけてきた。無視したわけではないのだが、そのまま別の子を、笑いあ
っていた、そのとき。もっていた大型のワークブックで、私の頭を上からバシッと叩いてきた。衝
撃で、メガネは下に落ち、鼻の横を1センチほど、切った。

 むっつり型というのは、ふだんは、何を考えているかわからないタイプの子どもをいう。印象
に残っている子どもに、R子(小6)がいた。4年前に書いた原稿だが、それをそのまま紹介す
る。

++++++++++++++++

●不自然さは要注意

 子どもの動作や、言動で、どこか不自然さを感じたら、要注意。反応や歩き方、さらにはしぐ
さなど。「ふつう、子どもなら、こうするだろうな」と思うとき、子どもによっては、そうでない反応
を示すことがある。最近、経験した例をいくつかあげてみる。

【S子の例】

教室へ入ってくるやいなや、突然大声で、「先生、先週、ここにシャープペンシルは落ちていま
せんでしたか!」と。「気がつかなかった」と答えると、大げさなジェスチャでその女の子(小5)
は、あたりをさがし始めた。

しばらくすると、「先生、今日は、筆箱を忘れました」と。そこで私が、「忘れたら忘れたで、最初
からそう言えばいいのに」とたしなめると、さらに大きな声で、「そんなことはありません!」と。
そして授業中も、どうも納得できないというような様子で、ときおり、あたりをさがすマネをしてみ
せる。私が「もういいから、忘れなさい」と言うと、「いえ、たしかにここに置きました!」と。

【A君の例】

A君(小3男児)が、連絡ノートを忘れた。そこでまだ教室に残っていたB君(小三男児)にそれ
を渡して、「まだA君はそのあたりにいるはずだから、急いでもっていってあげて!」と叫んだ。

が、B君はおもむろに腰をあげ、のんびりと自分のものを片づけたあと、ノソノソと歩き出した。
それではまにあわない。そこで私が「いいから、走って!」と促すと、こちらをうらめしそうな顔を
して見るのみ。そしてゆっくりと教室の外に消えた。

【R子の例】

R子(小6)が教室に入ってきたので、いつものように肩をポンとたたいて、「こんにちは」と言っ
たときのこと。何を思ったからR子は、いきなり私の腹に足蹴りをしてきた。「この、ヘンタイ野
郎!」と。ふつうの蹴りではない。R子は空手道場に通っていた。私はしばらく息もできない状
態で、その場にうずくまってしまった。そのときR子の顔を見ると、ぞっとするような冷たい目を
していた。

こうした「ふつうでない様子」を見たら、それを手がかりに、子どもの心の問題をさぐってみる。
何かあるはずである。が、このとき大切なことは、そうした症状だけをみて、子どもを叱ったり、
注意してはいけないということ。何か原因があるはずである。だからそれをさぐる。

たとえばシャープペンシルをさがした女の子は、異常とも言えるような親の過関心で心をゆが
めていた。B君は、いわゆる緩慢行動を示した。精神そのものが萎縮している子どもによく見ら
れる症状である。また私を足蹴りにした女の子は、そのころ両親は離婚、母親には、愛人と再
婚話をしている最中だった、など。

 一方、心がまっすぐ伸びている子どもは、行動や言動が自然である。「すなお」という言い方
のほうがふさわしい。こちらの予想どおりに反応し、そして行動する。心を開いているから、や
さしくしてあげたり、親切にしてあげると、そのやさしさや親切が、スーッと子どもの心にしみて
いくのがわかる。そしてうれしそうにニコニコと笑ったりする。

「おいで」と手を広げてあげると、そのままこちらの胸に飛び込んでくる。そこであなたの子ども
を観察してみてほしい。何人か子どもが集まっているようなところで観察するとわかりやすい。
もしあなたの子どもの行動や言動が自然であればよい。しかしどこか不自然であれば、あなた
の子育てのし方そのものを反省してみる。子どもではない。あなた自身の、だ。
(02−10−20)

++++++++++++++++

 この中に書いたR子については、そのとき受けた暴力がふつうではなかったため、とくに印象
に残っている。へたをすれば内臓が破裂していたかもしれない。それほど強烈な蹴りであっ
た。

 このR子については、そのあと母親とゆっくり話す機会があったので、そのことを報告すると、
母親はこう言った。

 当時R子の両親は離婚を前提とした別居状態であった。父親には愛人がいて、家に帰らない
日も多かったという。母親は「それが原因ではないでしょうか」と言った。

 もう1人印象に残っている子どもに、T君(小3・男児)がいた。

 ある日、子どもたちの解いた問題を順に採点しているときのこと。あと1、2人でT君というとき
になったそのとき、突然、T君が、「ギャーッ」と動物的な声を張りあげて、暴れ出した。

 あまりにも突発的で、制止する間はなかった。近くにあった机をもちあげると、それを、となり
の机に向かって投げた。私はT君にとびかかって、T君を床に押し倒し、上から自分の体重で、
T君を押さえた。

 あとで見たら、T君の解答用紙は、ほとんど白紙だった。

 また3番目のゲーム型についても、印象に残っている子どもに、F君(小4・男児)がいた。つ
ぎの原稿に出てくる、(2)の、(バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども)というの
が、その子どもである。

 この原稿は、「乱暴な子ども」というテーマで書いたもので、話が少し脱線するかもしれない
が、許してほしい。

+++++++++++++++++

●乱暴な子ども

乱暴な子どもといっても、一様ではない。いろいろなタイプがある。かなりおおざっぱな分け方
で、正確ではないが、思いついたままあげてみると……。

(1)家庭不和など、愛情問題が原因で荒れる子ども……いわゆる欲求不満型で、乱暴のし方
が、陰湿で、相手に対して容赦しないのが特徴。先生に叱られても、口をきっと結んだまま、涙
を見せないなど。どこかに心のゆがみを感ずることが多い。自ら乱暴をしながら、相手の心を
確かめるようなこともする。ふつう嫉妬がからむと、乱暴のし方が、陰湿かつ長期化する。

(2)バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども……このタイプの子どもは、ときとし
て、常識をはずれた乱暴をする。たとえば先生のコップに、殺虫剤を入れたり、イスの上に、シ
ャープペンシルを立てたりする、など。(知らないで座ったら、おおけがをする。)相手の子ども
がイスに座ろうとしたとき、さっとイスを引き、相手の子どもにおおけがをさせた子どももいた。
してよいことと、悪いことの判断ができないために、そうなる。もともと遅進傾向がある子ども
に、よく見られる。

(3)小心タイプの子ども……よく観察すると、乱暴される前に、自ら乱暴するという傾向がみら
れる。しかったりすると、おおげさに泣いたり、あやまったりする。ひとりでは乱暴できず、だれ
かの尻馬に乗って、乱暴する。乱暴することを、楽しんでいるような雰囲気になる。どこか小ず
るい感じがするのが特徴。

(4)情緒不安定型の子ども……突発的に、大声を出し、我を忘れて乱暴する。まさにキレる状
態になる。すごんだ目つき、鋭い目つきになるのが特徴。一度興奮状態になると、手がつから
れなくなる。ふだんは、どちらかというと、おとなしく、目立たない。

このタイプの子どもは、その直前に、異様な興奮状態になることが多い。直前といっても、ほん
の瞬間的で、おさえるとしても、そのときしかない。心の緊張感がとれないため、ふだんからど
こかピリピリとした印象を与えることが多い。

(5)乱暴であることが、日常化している子ども……日ごろから、キックやパンチをしながら、遊
んでいる。あいさつがわりに乱暴したりする。そのためほかの子どもには、こわがられ、嫌われ
る。

 乱暴な子どもについて考えてみたが、たいていは複合的に現れるため、どのタイプの子ども
であるかを特定するのはむずかしい。また特定してもあまり意味はない。そのときどきに、「乱
暴は悪いこと」「乱暴してはいけない」ことを、子どもによく言って聞かせるしかない。力でおさえ
ようとしても、たいてい失敗する。とくに突発的に錯乱(さくらん)状態になって暴れる子どものば
あいは、しかっても意味はない。私のばあいは、相手が年少であれば、抱き込むようにしてそ
れをおさえる。しばらくその状態を保つと、やがて静かになる。

【S君、小2のケース】

 ささいなことでキレやすく、一度キレると、手や足のほうが、先に出てくるというタイプ。能力的
には、とくに問題はないが、どこかかたよっている感じはする。算数は得意だが、漢字がまった
く書けない、など。

 そのS君は、学校でも、何かにつけて問題を起こした。突発的に暴れて、イスを友だちに投げ
つけたこともある。あるいはキックをして、友だちの前歯を折ってしまったこともある。ときに自
虐的に、机をひどくたたいて、自分で手にけがをすることもあった。私も何度か、S君がキレる
様子を見たことがあるが、目つきが異常にすごむのがわかった。無表情になり、顔つきそのも
のが変わった。

 そういうS君を、乳幼児のときから、母親は、ひどくしかった。しばしば体罰を加えることもあっ
たという。しかしそのため、しかられることに免疫性ができてしまい、先生がふつうにしかったく
らいでは効果がなかった。そこで先生がさらに語気を荒げて、強くしかると、そのときだけは、
それなりにしおらしく、「ごめん」と言ったりした。

 今、S君のように、原因や理由がわからないまま、突発的に錯乱状態になって暴れる子ども
がふえている。脳の微細障害が原因だとする研究者もいる。「まだ生まれる前に、母親から胎
盤をとおして、胎児の体の中に侵入した微量の化学物質が脳の発達に変化をもたらし、その
人の生涯の性格や行動を決めてしまうのではないか」(福島章氏「子どもの脳が危ない」PHP
新書)と。

じゅうぶん考えなければならない説である。

++++++++++++++++++++

 さらに私も、一度、こんな経験をしている。記録によれば、03年とあるから、もうそれから3年
になる。しかしそのとき受けたキズは、今でも、目の上に、しっかりと残っている。私は、あやうく
失明するところだった。

 そのとき書いた原稿をそのまま紹介する。

++++++++++++++++++++

●メガネ

 このところ朝起きると、どこかモノがかすんで見える。白内障か?、と思ったが、原因は、メガ
ネの汚れだった。もうこのメガネも、買って10年になる。硬質ガラスでできているというが、表
面は、すり傷だらけ。そろそろ買い替えの時期がきたようだ。

 私がメガネをかけるようになったのは、中学1、2年のころではなかったか。周囲にメガネを
かけている人が多く、私のばあい、メガネをかけるのに、それほど抵抗はなかった。以来、40
年以上、メガネをかけている。

 メガネを嫌う人も多いが、もしメガネをかけていなければ、私は、3度、失明していただろうと
思う。1度は、山の中へタラの芽を取りに入ったときのこと。バシッとタラの木が、私のメガネを
たたいた。タラの芽を取ろうと、木を引き寄せたときのことだった。あとで見ると、メガネの上と
下に、大きな切り傷ができていた。

 もう1度は、バイクで運転していたときのこと。S湖のまわりを猛スピードで走っていたら、これ
またバシッと、メガネに何か当たった。見ると、コガネ虫だった。コガネ虫がメガネに当たり、メ
ガネの上で飛び散っていた。

 さらにもう1度は、こんな事件だった。中学2年生のM君と対峙して、数学を教えていたときの
こと。私が目を閉じたまま、うつらうつらと、M君の話を聞いていた。そのときだ。何を考えた
か、M君が、シャープペンシルを、私の顔と机の間に立てた。私はそれを知らず、そのまま頭
を下へ振った。とたん激痛!

 シャープペンシルの先はメガネのおかげで目をそれ、眉間の下に突き刺さった。とたん、大
量の鮮血が顔面に飛び散った。もしそのときメガネをかけていなければ、シャープペンシルの
先は、まともの眼球に突き刺さっていた。そういう位置関係にあった。

 だからメガネに、私は3度、目を守られたことになる。いろいろ不便はあるが、これからもずっ
とかけつづけるつもり。

 そのメガネについての余談だが、私は、いわゆるメガネ族だから、どういうわけか、メガネを
かけている人に親しみを覚える。女性でも、メガネをかけている人のほうに魅力を感ずる。これ
はどういう心理によるものかわからないが、本当の話。

 もう一つ余談だが、あのシャープペンシルをつき立てたM君は、いわゆるお宅族と呼ばれる
子どもで、幼いときからテレビゲームばかりしていた。そのためか、ものの考え方が、どこか現
実離れしていた。恐らくシャープペンシルをつき立てたときも、ゲーム感覚ではなかったか? 
このタイプの子どもは、何かにつけて常識ハズレになりやすい。
(030216)※

++++++++++++++++++

 キレるといっても、内容はさまざま。それに応じて、原因もいろいろ考えられる。で、私のばあ
い、こうした例が、あまりにも多いため、「子どもというのは、そういうもの」という前提で、対処し
ている。

 さらにここに書いた、(ピリピリ型の子ども)にしても、親に報告しても、ほとんど意味がない。
親(とくに母親自身)も、ピリピリした感じの人が多い。私の頭を側面からバッグでたたいてきた
Kさん(小6・女児)にしても、一度、母親にそのことを報告しなければと思いつつ、結局は、そ
の機会がないまま終わってしまった。

 母親に話したら、今度はその母親がキレて、娘のKさんに暴力を振るっていたかもしれない。

 以下、参考までに、今まで書いた原稿のうち、いくつかをここに収録しておく。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【かんしゃく発作】

++++++++++++++++++++++++++

私のHPの掲示板の相談コーナーに、つぎのような相談がありました。
かんしゃく発作が、あまりにもはげしいので、どうしたらよいかというご質問です。
今回は、これについて、考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++++++++

生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、まとめて寝ない子(寝る環境
作りはいろいろと工夫しましたが無理でした)で、起きている時間は抱っこして歩きまわらない
と、グズってばかりの娘でした。

寝る子は育つと言うのに、こんなに寝なくて大丈夫なものかと病院に行ったほどでしたが、至っ
て健康で、人なつっこく男の子顔負けのやんちゃ娘に成長していきました。

好奇心旺盛で、喜怒哀楽がとてもハッキリしていて(嬉しいと興奮しすぎるほど喜ぶし、怒ると
手がつけられないほど泣き暴れます)、活発なので、やんちゃすぎて手はかかりますが、幼い
頃おとなしかった私にしてみたら、すごく張り合いがあって自慢の娘です。

でもやっぱり神経質というか、頑固すぎるところがあり、2歳になってどう扱ったらいいか分から
なくなることが増えました。魔の2歳児というほど、2歳は周りの子もみんな反抗期+何でも自
分で!、という時期なので、ある程度は仕方ないと腹をくくって毎日気長に接していました。

赤ちゃんの頃から手がかかる子だったので、今でも私にベッタリなこともあり、スキンシップは
たっぷり取れているつもりでいるのですが・・・。はやしさんのエッセイで、「わがまま」と「頑固」
の違いなどについて書かれていたを読んで、うちの娘は頑固すぎるのかなぁと思い、相談させ
ていただこうと思いました。

2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。着替えも、ちょっと手を出す
と気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張って全部脱いでしまいます。

もともと好奇心旺盛な子なので、1歳のころから自分でできることなら、何分でもつき合ってあ
げて、危険なことでない限り何にでも挑戦させてあげてきました。でもまだ2歳だからどうがん
ばっても無理なこともいっぱいあります・・・。

三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1週間で自分でこげるように
なり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真ん中でも足を踏ん張って動
かなくなってしまいます。

また、夫に似て、正義感が強く変に真面目なところがあり、公園などでは順番や物の貸し借り
のルールをすごく理解しています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもちゃを「どう
ぞ」と貸してあげられたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重なると、手がつけられ
ないほど暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。

以上に書いたようなことは、2歳児ならみんなあることだとは思うのですが、かんしゃくを起こし
たときの激しさが、ほんとにすごいんです。

今日はおもちゃの貸し借りがうまくできないことが続いて(相手の子が何が何でも自分のおもち
ゃは貸さない!と言ってすぐ泣く子でした)、お友だちも娘もお昼寝の時間になり眠たそうで機
嫌が悪かったので、お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が狂ったように泣き出
しました。

「バイバイ嫌!!」と言って、すごい勢いで走り出して、道路に何度も飛びだそうとするから、阻
止して、落ち着かせようと抱きしめてあげたら余計に泣き叫びました。すごく激しく暴れるので
何度も道路や壁に頭を打って大変でした。

パニックになると「ぎゃーー!!」と泣き叫びながら私から離れて、走って行ってしまいます。室
内など、少々走り回っても大丈夫な場所なら、ある程度落ち着くまで暴れさせてあげて、落ち着
き始めた頃にギューっと抱きしめてあげると少しずつ私に寄り添ってくれて、笑顔を見せてくれ
るます。

が、走り回れない野外だと、私が触れるたびにさらに火がついたように泣き叫んで、いつまで
たっても落ち着いてくれず、親子ともどもどろんこになりながら、1時間近く格闘しなきゃいけな
いことになります。あまりに激しいので、街行く人たちも白い目で見るというのを通り越して、ど
こか病気?にでもなったのかというぐらい怖い物を見るように心配されたりします。

1歳代の頃から、気に入らないことがあるとしょっちゅう道路に寝転がってダダをこねる子だっ
たので、それぐらいのことで人目が気になったりはしないのですが、ここまで激しいと私まで泣
きたくなります。

「どうぞ」ができたことをいくら誉めてあげても、相手が泣いていたりすると自分が悪いと思って
しまい、何度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。気は強いので、自分が今遊
びたいものを我慢して貸してあげたりすることはなく、今遊んでないものをきっちり選んで貸して
あげます。なので我慢が爆発するという感じでもないです。

こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、いつもの太陽みたいな笑顔
を見せてくれます。私にギューっと抱きついて、「お母さん、大好き〜」と言ってくれます。「イヤ
イヤ!」は思いっきり発散させた子の方が後々いい子になるって聞くので、反抗期が激しいの
はいいことなのかもしれませんが、こんな娘の性格を伸び伸びと伸ばしてあげるにはどう接し
ていけばいいのでしょうか?

うまく文章に表せたか分かりませんが、アドバイスいただけたらとても嬉しいです。よろしくお願
いします。

++++++++++++++++++++++++++++++

【YK様へ】

 かんしゃく発作にしては、かなりはげしいようですね。2歳前後であれば、ダダをこねる、がん
こになる、泣き叫ぶ程度で、しばらくすると、静かになるはずですが……。

 私の印象では、脳内で、何らかの仰天現象が起きているように思います。突発的な興奮性
と、その持続性が気になります。こういうケースで最近、よく話題になるのが、セロトニン悪玉説
です。

 脳内伝達物質にセロトニンがあり、それが過剰に分泌されると、子どもは、興奮状態になり、
過剰行動に出ることが知られれています(アメリカのミラー博士ほか)。

 その過剰分泌を引き起こすのが、たとえば、インシュリンの過剰分泌と言われています。つま
りたとえば一時的に、甘味の強い食品(精製された白砂糖の多い食品)を多量に接種すると、
インシュリンが、ドッと、分泌されます。

 血糖値はそれでさがるのですが、そのあともインシュリンが血中に残り、さらに血糖をさげま
す。こうしていわば、子どもが、低血糖の状態になるわけです。少し話がそれるかもしれません
が、少し前に書いた原稿を、参考までに、添付します。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。

つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令
を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう20年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこうだ。
たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に分泌
され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大学の
大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。

リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしま
う。一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カル
シウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消
えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足して
くると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさ
せたりする。

 ここに書いたのはあくまでも1つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を1本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。

体重15キロの子どもに缶ジュースを1本与えるということは、体重60キロのおとなが、同じ缶
ジュースを4本飲むのに等しい。おとなでも4本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボ
ガボになってしまう。もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂
糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうよう
な弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。その地方では
どこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水代わりに牛乳を
飲んでいた。
(はやし浩司 切れる子供 キレる子供 突発的過剰行動 過剰な行動)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。

まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうき
ん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのまま
の姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回る
なんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。

小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子ども
が、1クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒
ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。

ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授
業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対
する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ
 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。

そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子ど
もを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていた
のがわかる。

ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているとき
は、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児
向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲ
ームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経
験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えら
れる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。

「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や東北
など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」(中
日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学1年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、
精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ
状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係
のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。

具体的には、小学1、2年について、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県で
は40人いるクラスを、2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だと
いう。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の4教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 キレ
る子供 キレる子供 突発的に暴れる子供 暴れる子ども 子供の暴力 暴力行為 衝動的 
衝動性)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●キレる子どもの相談

++++++++++++++++

数年前、キレる子どもについて、
ある母親から、こんな相談が届いて
いる。

そのとき書いた原稿をそのまま
ここに紹介する。

++++++++++++++++

●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、四本
飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリー
ムを1個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。

一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようと
インスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、
必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、
スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」として、20年ほど前に
話題になったことがある。

日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの
子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。
一周間も続けると、子どものによってはウソのように静かに落ち着く。

  話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。
で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨て
る。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事
の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識
のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。

++++++++++++++++++++++++

以前、同じような相談を受けたことがあります。
もっと年齢の大きなお子さんについてのものでしたが……。
それについて、書いた原稿を添付します。
あくまでも参考資料の一つとして、考えてください。

++++++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。
 
娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は5歳半になる年中児で、下に3歳半の妹がいます。

小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。

真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。
 
私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。
 
そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。

心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。

また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。

泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。

その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。
自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・7賢人の1人)だが、自分を知ることは難しい。
こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中2男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、
ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとそ
の子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼく
を怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものこと
ではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日1人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子
どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない子
はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行って
ほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

+++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学3、4年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も5歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満5歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。

されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃんがえり、欲求不
満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメールによると、かなり
神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配先行型の子育て
なども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎりなく、話が出てき
てしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視すること
によって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」と
いう指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナ
ス型になることもあります。

 私も幼児を35年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。

UYさんのお子さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、症状は
急速に収まってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするように
なるからです。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは
「もっとかっこよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学1年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まっていき
ます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。

それを感じると、今度は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら
……。私のばあいは、教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱った
り、威圧感を与えたり、あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導し
ます。それだけを忘れなければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に
構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学3、4年生になるころには、消えています。ウ
ソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そして、
四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださると
確信しています。もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃ
んの母親(みさえさん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一度、読
まれるといいですよ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【YK様へ(2)】

 食生活がどうなっているのか、私にはわかりませんが、まず試してみるべきことは、(1)食生
活の改善、です。

 ここにも書いたように、MG、CA、Kの多い食生活(自然海産物中心の献立)に切りかえてみ
てください。

 精製された白砂糖を多く含む食品は、避けます。(与えると意識しなくても、今では、ありとあ
らゆる食品に含まれています。幼児のばあい、2歳児でしたら、1日、10グラム前後でじゅうぶ
んです。)

 感情の起伏がはげしく、手にあまるようなら、一度、小児科を訪れてみられてはいかがでしょ
うか。以前とちがい、最近では、すぐれた薬も開発されています。(薬を使うときは、慎重にしま
すが、そのあたりのことは、よくドクターと相談して決めてください。)

 食生活の改善……徹底してするのが、コツです。アイス、ソフト、乳酸飲料などは、避けま
す。徹底してすれば、1、2週間ほどで、効果が現われてきます。

 同じようなケースを、もう一つ、思い出しました。その原稿を添付します。少し古い原稿なの
で、先に書いたことと、内容が少し異なるかもしれませんが、異なっている部分については、先
に書いたほうを、優先してください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【栄養学の分野からの考察】

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。

日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷
事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたこと
がある(九八年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、こ
の分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。

話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱してい
て、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意する
と、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動
性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興
奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなっ
た。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば
自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。こ
の過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの
子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知
っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。

そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・1
2)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる
症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそ
ういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。

この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低
血糖になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切る
ような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝
手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコン
トロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それ
がキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。

体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の
発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた
回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく
言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こし
やすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」八一年(7)号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる
問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている
白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。

私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。
が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビス
ケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状の
ようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態
になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまる
で別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で
見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。

川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与
するだけでなおる」(「マザーリング」八一年(7)号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そ
うでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体
重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲
む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガ
ボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過剰
行動児 セロトニン悪玉説 キレる子供の原因 キレる子どもの原因 切れる子供 原因 キ
レる子ども 原因 原因物質)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1533)

【キレる子供・補足】

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった18名の学者が、緊急宣言を行った。
これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであ
った。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではな
く、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応
性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。つまり環
境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。

が、これで驚いていてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の
発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を
引き起こす。

多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の
生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具
体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーン
ピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

(4)教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しか
しながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子ど
もの議論だけが先行している。ただその原因としては、

(1)親の過剰期待、そしてそれに呼応する子どもの過負担。
(2)学歴社会、そしてそれに呼応する受験競争から生まれる子ども側の過負担などが、考えら
れる。こうした過負担がストレッサーとなって、子どもの心を圧迫する。

ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。最近の子どもは、飽食とぜいたくの
中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずかな負担だけで、それを過負担と感
じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させてしまう。親の期待にせよ、学歴社会
にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度は容認されるべきものであり、こうし
た環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできない。これらを整理すると、次のようにな
る。

(1)環境の問題
(2)子どもの耐性の問題。

●終わりに……

以上のように、「キレる子ども」と言っても、その内容や原因はさまざまであり、その分野に応じ
て考える必要がある。またこうした考察をしてのみ、キレる子どもの問題を正面からとらえるこ
とができる。一番危険なのは、キレる子どもを、ただばくぜんと、もっと言えば感傷的にとらえ、
それを論ずることである。こうした問題のとらえ方は、問題の本質を見誤るばかりか、かえって
教育現場を混乱させることになりかねない。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【砂糖は白い麻薬】

++++++++++++++++++

子どもの突発的な凶暴性は、
低血糖によると考えられている。

しかし、だからといって、
甘味料(白砂糖)の多い食品を
子どもに与えろということでは
ない。

誤解のないようにしたい。

+++++++++++++++++

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。

そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養
学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取す
ると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分
泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、4月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発
的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイ
プの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君
は一日、100〜120グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで
私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。

急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることが
ある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」
と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。

U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを
問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。母
親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラム。この量はイ
チゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキー
と声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネ
シウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂
糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落
ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。

と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ
(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けて
も流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせ
ず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味を
おだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水に
よく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。

●こわいジャンク・フード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンク・フードは)疲
労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな
どの原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期
間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。
脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ
い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片
瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。

子どもの食生活を安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの食生活 子供の食生活 ジャンクフード ジャンク・フード 低血糖児 砂糖 白い麻薬)






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●反動感情

【反動感情】

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。

心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動形成というのは、自分の心を抑圧する
と、その反動から、正反対の自分を演ずるようになることをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうことがある。

性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。ほかに、たとえば神経質な人が、
外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。その反動形成に似ているから、「反
動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(34歳女性、当時)に会ったのは、私が40歳くらいのことだった。もともとは奈良
県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を感
じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘を
愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき6
歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」という。が、離婚はしなか
った。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もたれるの
関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。

これが、私がいう「反動感情」である。このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中
に入れこもうとする。わかりやすく言えば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをす
る。)好きになることで、不快感を克服しようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。

自分という「主体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き
(affection)」という状態をつくるが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意で
しかない。若い男女が、電撃的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」と
は、異質のものである。

 特徴としては、どこか自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、あるいはどこか
厭世(えんせい)的(自分や社会は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。

これに関してよく似たケースに、「ストックホルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テ
ロリストの人質になったような人が、そのテロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリ
ストに好意をいだくようになり、そのテロリストのために献身的に働き始めるようになることをい
う。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(40歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになったと
きのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でしょ?」
と言うと、ま顔で、「本気です!」と。

しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦に見えた。たがいにそう演じていただけ
かもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないのですか?」と聞くと、「私たちは、そういう夫
婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(45歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらしな
かった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前で
は、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副会
長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。

そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反動感情で作られた
愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたとしたら、ということ
だが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。

ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良好な関係にあるフリをしているだけかもしれな
い。本当はあなたといっしょに、いたくない。いたくないが、し方がないから、いっしょにいるだ
け、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思っているなら、その可能性は、ぐんと高くな
る。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(1973年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人たち
が、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質とな
った女性は、犯人と結婚までしたという。

※イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小2男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。

その子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われ
たら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につ
くることで、自分の心を防衛したと考えられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同一
視 代償行動 代償行為 反動形成)







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【子どもが勉強から逃げるとき】 

++++++++++++++++++

勉強をするでもなし、しないでもなし。
しかし結局は、何もしない……。

今、そんな子どもがふえている。
しかも小学1年生のときから……。

原因は、(やりすぎ!)。

生まれたときから、子どもの能力を
はるかに超えて、やりすぎる。
与えすぎる。

これが子どもをして、『つまらない
子ども(……make Jack a dull boy)』
にしてしまう。

++++++++++++++++++

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉

 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。

まずフリ勉。いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリ
をする。しかしその実、何もしていない。何も考えていない。

次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。マン
ガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。このばあいも、時間ばかりかかるが、
その実、何もしていない。

ムダ勉というのもある。やらなくてもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線
グラフをかくときも、グラフばかりかいて時間をつぶすなど。

●1時間で、計算問題を数問!

 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこ
ともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小2)の勉強をみてほしい」と。遠い親
戚にあたる母親だった。

そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワークブックを持ってきた。見
ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超えたもの
ばかりだった。

母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよくできるようになると思っていた
らしい。案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。
同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。1時間もかかって、簡単な計算問題
を数問しかしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示すと、なおす
のは容易でない。

●意欲を奪う5つの原因

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、(2)過
関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、(3)過剰期待
(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、(4)過干渉(何でも親が先に決め
てしまう)、それに(5)与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれ
は誤解。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶
をそこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。

あるいはより高度な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もい
る。これについては誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあ
ればよいが、そうでなければやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう
が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし
方をする。私が今知っている子どもに、K君(小4男児)という子どもがいる。

彼は中学1年レベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家では
ほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようで
す」とも。

 ついでながら静岡県の小学5、6年生についてみると、

家での学習時間が30分から1時間……43%
1時間から1時間30分……31%だそうだ。
(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内100名について調査・2001年)。

●変わる「勉強」への意識

 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」か
ら、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには
「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。

少なくとも世界の教育はそういう方向に向かって動いている。そして当然のことながら、それに
合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験のあり方も変わってきている。

だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、それ自体が今の教育にはそぐわな
いし、第一、子どもたちがそれを受け入れない。たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬
され、それだけでクラスのリーダーになった。しかし今は違う。

「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、「ぼくらは、あんなヘンなヤツと
は違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられるから、A進学高校には行きたくな
い」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別にして、今はそういう時代なの
だ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の勉強ぐせ フリ勉 ダラ勉 時間つぶし 時間殺し ムダ勉 無気力な子供)

Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【自学の勧め】

●中国・上海のあるBLOGより

+++++++++++++++++

Self−study(自学)がいかに
重要か。

上海のある教育BLOGサイトで、
こんな興味ある書き込みを見つけた。

名前はわからないが、ある大学の
教授の書き込みと思われる。

それを紹介する。

なお私の教室(BW)では、
小学4年生になるころから、
この「自学」を教える。

生徒自身に、自分で本を読み、
自分で学んでいく力を身につけさせる。

長い目で見て、それがその子どもの
財産になるからである。

+++++++++++++++++
It is a dilemma whether university students should attend classes or learn by their selves. In 
China, it seems to be a tradition that students should not miss even a single class, and 
many a student complies with it. Here I'd like to demonstrate my point of view.
大学生は授業に出席して勉強すべきなのか、自学すべきなのかについては、ジレンマがある。

中国には、学生は、授業をさぼってはいけないという伝統がある。で、私の意見を書いてみた
い。

As far as I am concerned, I observe self-study is of great importance, which can make a 
person more comprehensive and creative. On the contrary, lack of this ability will make 
Jack a dull. As is known to all, Chinese students often follow their teachers' instructions 
more firmly, and make more efforts to get high marks, compared to American students.
私が関するかぎり、自学は、とても重要である。そのほうが理解度もまし、よりクリエイティブに
なる。が、(自学といっても)、その能力のない子どもは、つまらない子どもになってしまう。

よく知られているように、中国の学生は、アメリカの学生と比較すると、先生の指示に、より従
順で、よい点数を取ろうとする。

 However, Chinese students become less competitive without teachers' help, for they are 
not able to learn on their own efficiently. That's why only a few Chinese managed to win the 
Nobel Prizes. Therefore, it can be indicated that the ability of self-study should be 
concentrated in china as soon as possible.
が、中国の学生は、先生の助けなしでは、より競争しなくなってしまう。というのも、自分で効率
を考えて学ぶということができないからである。つまりこれが、中国人に、ノーベル賞受賞者が
少ないという理由でもある。したがって中国でも、自学する力をもった学生を、できるだけ早く育
てる必要性がある。

Another reason I choose not to attend classes is time spent on classes may be wasteful 
sometimes. In another word, self-study is more efficient. Can you put up with a teacher 
repeat a law again and again, which you have learnt by heart already? 
もうひとつの理由は、授業に出るということ自体が、ときには、時間のムダになるということ。言
いかえると、自学のほうが、より効果的である。たとえばあなたがすでに暗記しているような法
律を、先生が何度も繰り返したら、あなたはそれに耐えることができるだろうか。

The aim of a student is to learn and find out what we don't know, and surely listening to a 
professor is not everything. Thus, we should learn something we need by ourselves rather 
than waste time in classes.
学生が学ぶ目的は、私たちが知らないことを見つけ、学ぶことである。それに教授の言うこと
がすべてではないことは、たしかである。それゆえに教室で時間を無駄にするよりは、自分で
何かを学ぶ必要がある。

Different people have distinct characters. A Chinese poet named LiBai said:" everybody is 
of value to our country. " And only in the process of self-study can a student discover his 
or her interest without the influences made by teachers in classes. I believe self-study is so 
important that can change one's life.
それぞれの人には、それぞれの性格がある。リー・バイという中国の詩人は、こう言っている。
『だれもが、国の財産である』と。自学する子どものみが、先生の影響を受けることなく、自分
の興味を発見する。自学は、その人の人生を変えるほど、重要なことなのである。

Through some students argue that teachers are experienced, and they think the exams may 
contain loads of what teachers have taught in classes, I am convinced everything will be on 
the right track if I myself do the self-study well. So, after considering all of those above, I 
think you will agree with me that classes should be optional for students.
先生は、経験をつんでいるし、試験には、先生がクラスで教えたことが含まれているから(ムダ
でない)という議論もあるが、自学をうまくすれば、すべては正しいコースにのることを確信して
いる。

これらすべてのことを考えると、授業に出るかでないかは、学生に任せればよいという私の意
見に、(あなたも)賛成するだろうと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自学
 自学の重要性 self-study)





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【子どもとストレス】

●ストレス学説

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適度なストレスは、生活のスパイス。
それは常識だが、では「適度なストレス」
とは、どの程度のストレスのことを
いうのか。

称して、「はやし浩司のストレス学説」

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 適度なストレスは、生活のスパイス。それが、生活に、ある種の緊張感をもたらす。それは常
識だが、では「適度なストレス」とは、どの程度のストレスのことをいうのか。それがわからな
い。

●正のストレス、負のストレス

 ストレス(生理的ひずみ)にも、2種類ある。たまたま、私は、それを同時に経験しつつある。

 来月(10月)から、数年ぶりに、言葉クラブをもつ。生徒も、5、6人、集まった。で、これが
今、ある種の緊張感となって、私の心を包んでいる。これが正のストレス。

 一方、この先ずっと、私は、グループ・ホームへ入った兄のめんどうをみなければならない。
ひょっとしたら、兄のほうが、私より長生きをするかもしれない。途中、いろいろな医療費も負
担することになるだろう。それを考えると、気が重くなる。これが負のストレス。

 つまり前向きに、自分を発展させていくストレスが、正のストレスということになる。一方、袋小
路に入ったように、先が見えないストレスが、負のストレスということになる。

 適度なストレスとはいうものの、正のストレスなら、まだ何とかなる。ここでいう、生活のスパイ
スになる。

 しかし負のストレスは、そうではない。それがいくら軽いものであっても、(重いものなら、当然
だが)、心の内側にペタッと入りついて、その心を、重く苦しいものにする。

●住んでいる世界で異なるストレス

 心の広さというのは、千差万別。人によって、みな、異なる。

 井戸のような世界に住んでいる人は、小さな石ころが落ちただけで、それを大きなストレス
(ストレッサー)にしてしまう。

 一方、大きな海のような世界に住んでいる人は、渦巻く台風のような風が起きても、平気。

 つまりは住んでいる世界、あるいはその人の心の広さによって、同じストレスでも、感じ方ま
で、異なってくる。

 それが正のストレスであれ、負のストレスであれ、事情は同じ。

 では、私たちは、ストレスに対して、どのように考え、どのように対処すればよいのか。

●ストレス学説 

 ストレスというのは、もともとは「圧力」を意味する(セリエ)。その圧力が、心理的負担になり、
心理的反応を示した状態を、「ストレス」という。「生理的ひずみ」と考えると、わかりやすい。

 しかしそのストレスの受け方には、ここにも書いたように、個人差がある。たとえば同じストレ
ス(圧力)でも、人によって、それを重圧に思う人もいれば、そうでない人もいる。そこで今で
は、ストレスに個人差、つまり個人変数を加えて考えるのが常識になっている(ラザラスとフォ
ルクスマン)。

 同じストレスであるにもかかわらず、人によって個人差が出るのは、それぞれの人がもつ認
知プロセスがちがうからと考えられている。わかりにくい言葉だが、要するに、その人が置かれ
た環境、心理状態、精神状態、経験などにより、その処理方法が異なるということ。

 たとえばある男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金がないと仕事をする気が起きない」
と。

 また別の男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金に追われるようになると、仕事が手につ
かなくなる」と。

 同じ(借金)でも、それを受け取る側の認知プロセスによって、ストレスにするかしないかが決
まってくる。こうしたストレスへの対処方法を総称して、「コーピング(coping)」と呼ぶ学者もい
る。

●では、どうするか?

 ストレスと戦うためには、2つの方法が考えられる。ひとつは、そのストレスそのものと戦うと
いう方法。もう1つは、自分の住む世界を、より広く、大きくすることによって対処するという方
法である。
 つまり心理的圧力となるような原因を取り除くのが、前者。広い海のような心をもち、小石が
落ちたくらいでは、ビクともしない。そういう状態にもっていくのが、後者ということになる。

 で、私のばあいは、ストレスの原因となるようなストレッサー、とくに冒頭にあげた負のストレ
スを、心のどこかで感じたばあいには、できるだけ早い段階で、それを解消するように努めて
いる。もともとあまりストレスに強い精神構造にはできていない。

 つぎに、できるだけ広い心を用意する。具体的には、さまざまな経験をすることによって、広
い心をもつようにする。そのためには、情報が重要な役割をになうことが多い。そういう意味で
は、無知、無学は、ストレスの大敵と考えてよい。

 ほかに、たとえば、心の防衛機制に準じて、(1)合理化、(2)反動形成、(3)同一視、(4)代
償行動、(5)逃避、(6)退行、(7)補償、(8)投影、(9)抑圧、(10)置換、(11)否認、(12)
知性化という方法などがある。

どう反応するかは、もちろんそれぞれの人によって異なる。が、人というのは、それをストレスと
感じたときから、それに長く耐える力は、あまりない。これは幼児のばあいだが、日中、ほんの
5〜10分間程度ストレスを感じただけで、精神疲労症状を起こす子どもは、少なくない。

 子どもによっては、頭痛、腹痛を訴えることもある。吐く息が臭くなったり、下痢症状を示すこ
ともある。それが周期的に長くつづいたりすると、心をゆがめることも少なくない。神経症を発
症したり、さらに情緒障害、精神障害に発展することも珍しくない。

 話が脱線したが、今、あなたが何かのストレスを感じているなら、まずその中身を知る。敵を
知る。それがストレスと立ち向かう、第1歩ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ストレ
ス、ストレッサー ストレス学説 正のストレス、負のストレス)

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ストレスについて、以前書いた原稿の
中から、いくつかを集めてみました。

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子どもが自慰をするとき

●ある母親からの質問

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。6歳
になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなって
いるのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつけるよ
うに感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。

こういうとき、どう対処したらいいのでしょうか」(32歳母親)と。

●罪悪感をもたせないように

 フロイトは幼児の性欲について、次の3段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろい
ろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に
興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満4歳くらいから、性器に特別の関心
をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレ
ス(生理的ひずみ)を疑ってみる。

子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為をする。これを代償行為という。指
しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)
となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐ
ず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そ
のため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもある
ので注意する。

●スキンシップは大切に

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自
分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情
緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないこ
とを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗する
そぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サ
ラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうし
ても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることが
ある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の性教育 性教育 子供の性 性 自慰 子供の自慰 自慰行為)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが
多い。

たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキ
ドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発にな
る。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその
緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。

ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」につい
ても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。

私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸び
やかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神
経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(スト
レスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。

つまり子どもによって、それぞれ認知プロセス(=ストレスに対する耐性)は異なる。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほ
とんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)

大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場
所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、また
ストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。

ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、
言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を
反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子
どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。

たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を
感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょ
についても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。

そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということに
なる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の夜尿症 おねしょ 頻尿 子どものおねしょ おねしょう)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私のストレス発散法

 ストレス(生理的なひずみ、あるいは「気」のうっ積)で苦しんでいる人は、多い。実のところ、
私は30歳〜35歳のころ、偏頭痛で苦しんだ。年に数回、あるいはもっと多い頻度で、偏頭痛
の発作が起きた。それこそ四転八転の苦しみを味わった。「頭を切ってくれ!」と叫んで、ふと
んの中でもがいたことも多い。その苦しみは、偏頭痛を味わったものでないとわかるまい。

 もっとも当時は、偏頭痛に対する理解も治療法もなく、(あったかもしれないが、私が相談した
医師は、別の診断名をくだしていた。ある大病院では、脳腫瘍と診断し、開頭手術まで予定し
た)、市販の薬をのんでは、ゲーゲーとそれを吐き出していた。そういう意味では、まさに毎日
がストレスとの戦いでもあった。

 そんな中、やがて自分なりの対処法を身につけるようになった。

 まず第一に自分はストレスに弱いことを自覚した。そのため、ストレッサー(ストレスの原因)
となりやすいものは、できるだけ避けるようにした。たとえば人と会う約束も、1日1回にすると
か、など。あるいはスケジュールには、余裕をもたせるなど。

 つぎに、当然のことながら、治療法をさがした。たまたま東洋医学の勉強もしていたので、あ
らゆる漢方薬を試してみた。しかし結局は、そのうち、たいへんよく効く西洋薬が開発されて、
それでなおるようになった。ただその薬は、のむと胃を荒らすので、できるだけのまないように
している。

 が、最善の治療法は、汗をかくこと。ただし、偏頭痛がひどくなってからでは、汗をかくと、か
えって……というより、運動することそのものができない。軽い段階で、思い切って汗をかく。

運動がよいことは言うまでもないが、その中でも、私のばあい、エンジン付の草刈り機で、バン
バンと草を刈るのが効果的。一汗かくと、偏頭痛そのものが消える。だから「おかしい」と感じ
たら、あたりかまわず草を刈ることにしている。理由はよくわからないが、下半身は毎日、自転
車できたえているため、走ったり、自転車にのっても、あまり汗をかかない。しかし反対に、上
半身は、ほとんど鍛えていないので、草を刈るとその上半身を使うため、汗をかくのではない
か……と、勝手にそう解釈している。

 今でも、少し油断すると、頭重が起きる。しかしそれは同時に、私の健康のバロメーターでも
ある。持病もうまくつきあうと、それを反対に利用することができる。「少し頭が重くなったから、
仕事を減らせ」とか。そういうふうに、利用できる。

 この話は、子育てとは関係ないが、育児疲れや育児ノイローゼで、偏頭痛になる人も多いの
で、参考のために書いた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●わずらわしい世界

 情報の時代というが、本当に、この世界、わずらわしい。昨夜も、居間でお茶を飲んでいた
ら、若い女性から電話がかかってきて、息子の電話番号を教えろ、と。私が断ると、「何を偉そ
うに!」と。勝手に他人の家に電話をかけてきて、「何を偉そうに!」は、ない。

 ひとり静かに生きることは、一見、楽なようにみえて、楽ではない。「一日」という時間帯をみ
ても、ひとり静かでのんびりできる時間のほうが、少ない。つぎからつぎへと、いろいろな事件
が起きる。そのほとんどは、向こうからやってくる。

できるなら、そういうわずらわしさから、解放されたい。しかし、それは死ぬまで、不可能だろ
う。ただ私のばあい、朝、5時ごろ目が覚めて、それから7時、8時まで、こうして原稿を書いて
いるが、その時間ほど、「ひとり」でいられる時間はない。貴重な時間だ。しかし、それでわずら
わしさが消えるわけではない。

 こうしたわずらわしさがあれば、それと戦うしかない。受け身になったとき、そのわずらわしさ
は、ストレッサーとなる。問題は戦い方だ。しかしひとたび情緒が不安定になると、それも簡単
ではない。

子どものばあい、大きく分けて、三つのタイプに分かれる。(1)攻撃型、激情型、暴力型、(2)
内閉型、オドオド型、萎縮型、(3)執着型、こだわり型、依存型。

思いついたまま書いたので、正しくないかもしれないが、要するに、大声を出して暴れるタイプ
と、グズグズして引きこもるタイプ、それにモノにこだわって、それを異常にこだわるタイプがあ
る。

 おとなもそうで、私のばあいは、(1)の攻撃型と、(2)内閉型の間をいったりきたりする。精神
状態がフワフワし、自分でもつかみどころがなくなってしまう。爆発しそうな自分を必死でこらえ
たり、反対に、電話に出るのも、おっくうになったりする。

あるいはときどき、(3)のモノにこだわるときもある。そういうときは、それまでほしかった高価
なものを、パッと買ったりする。それで気分が晴れることもある。あとはカルシウム剤をたっぷり
と飲んで、風呂に入って、よく眠る。「明日は明日の風が吹く」と、そう思いながら、床につく。

 昨日も一日、何かとわずらわしいことがつづいた。そのため朝なのに、少し頭が痛い。しかし
考えても始まらない。「何とかなるだろう」と、自分をなぐさめながら、前に進むしかない。がんば
りましょう。がんばります。では、みなさん、おはようございます。
(02−11−16)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のメカニズム

*****************

少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。

*****************

 まず、数か月前に私はこんなエッセーを書いた。その中で、私は「気持ちよさ」とか、「ここち
よさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。

無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで
汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」
だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余
計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店
員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みん
なが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まる
つもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊
まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝
たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのも
のと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と
呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょう
ど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(た
いじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。

その扁桃体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究で
わかってきた。もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に
信号を送り、それを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感
に包まれるというのだ。

ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに50円のお金を渡したことが、扁桃体に信号を
送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひ
とつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を
経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私
は23、4歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、「教
授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数10種類ほど発見されている。その麻薬様物
質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質
は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されるこ
とで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ず
るのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出す
るためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうし
て、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられて
いた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられた
こともある。

しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維持だけでは
なく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。そうなると人間
は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもっていたというこ
とになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実際、こんなこと
がある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別
としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもち
ろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。

たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突
然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何
か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そし
て誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人
間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた
信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということにな
る。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性
に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母
親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむとい
う内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病
院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。
が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふ
つうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人
のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書
いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働
きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反
応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」という
のも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によっ
て、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえば
ニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレ
スだと言われている。

何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドという物質が分泌され
る。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を体の中で引き起こす
ことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづく
と、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与
える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまで
も「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレス
にさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。

イギリスにも、『抑圧は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があ
れば煮つめてみるが、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるの
がよい。そしてそれが、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が
重複するが、許してほしい。

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカゲをつか
まえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、
トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が
凍りつくのを覚えた。

よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを
口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の
頭だった。

また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さな
トカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカ
ゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景に
あるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破
壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。

「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のことをいう。これ
がないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。昔、こう言った高校生
がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれ
ば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊か
な家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もや
さしくなる。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される
が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入
ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結
果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。

子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読める。
子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子どもは、おとなが見て
も、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02−11−23)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心を
ゆがめる子供 扁桃体 ストレスと子供 子供とストレス)


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ここまでの原稿に関連して、
以前にマガジンで配送した原稿を、送ります。
前に読んでくださった方は、とばしてください。

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●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数10万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚
そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返
す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、
よく出会う。

たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれて、さまざま
な感情をもつようになる。よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。眠っている赤
子が、何を思うのか、ニコニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に繰り返しなが
ら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁
桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。

たしかに知的活動(大脳連合野の新新皮質部)と、情動活動は、違う。たとえば1人の幼児を、
皆の前でほめたとする。するとその幼児は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その
表情を観察してみると、それは知的な判断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つ
まり本能的な部分によってそうしていることがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく4^6歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であることが
わかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれながら
にそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正しい。

子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもにはなら
ない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわか
る。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、
それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新
生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやが
れ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していた
はずである。

つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人であるという証
拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この1、2
年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によっ
ては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地
面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば10分もたたないうちに、無数の小さなアリが
集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかってい
るのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの
幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っている
だけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではな
いように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行
為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が
楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。同じように、私はアリたちにも、同じような作用
が働いているのではないかと思った。つまりアリたちは、ただ単に行動本能に従っているだけ
ではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感じているのではないか、と。またその喜びがあ
るからこそ、そういった重労働をすることができる、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅し
ていたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じている
に違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をする
ことができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪
なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。
私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし
私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物
にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。
自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って
行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02−8−3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 性善
説 ストレスとは ストレス学説)
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