倉庫29
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●自殺について

【生きるということ】

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子どもたちの自殺が連鎖的につづいている。

それについて、……というより、少し視点
を変えて、雑談的に考えてみたい。

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●学校でのいじめ

 学校でのいじめが、今、大問題になっている。が、実は、教師どうしのいじめにも、ものすごい
ものがある。学校の教師というのは、外の世界に向かっては団結する。だれかが外の世界か
ら攻撃をしかけたりすると、それに対しては、猛烈に反発したりする。が、内部では、そうではな
い。たがいに、いがみあったり、足を引っ張りあったり、いじめあったりしている。どうしてそうい
う教師が、子どものいじめを防ぐことができるというのか。

 ただしここに書いた話には、確たる根拠はない。常識とまでは言わないが、風聞として、よく
耳にする話である。

●こだわり

 (こだわり)は、うつ病の典型的な症状の1つである。うつ病の人は、ひとつのことにこだわる
と、そればかりを気にする。そしてそれについて悶々と悩んだり、苦しんだりする。

 たいていは、ささいなことである。隣の家の木が、自分の家のほうに伸びてきたとか、上の階
の人が、フトンをはたいて、ゴミを下に落としたとかなど。

 こうした(こだわり)は、(こだわり)として理解されるが、だからといって、その(こだわっている
部分)を取り除いてやったからといって、うつ病がなおるわけではない。今度は、また別のとこ
ろで、ささいなことにこだわるようになる。

 子どもの世界でも、似たようなことがよく起きる。

 たとえば「A君がぼくをいじめる」と言うから、その子どもの周辺からA君を遠ざけたとする。ば
あいによっては、ほかの学校へ転校させたりする。が、今度は、別のところで、「B君がぼくをい
じめる」と言い出したりする。

 これを私は、「ターゲットの移動」と呼んでいる。A君からB君へと、ターゲットが移動しただけ
ということになる。つまりその子どもの心のベース(=基本的な部分)にある問題を解決しなけ
れば、結局は、その周辺の者たちが、(親や教師も含めてのことだが)、その子どもに振り回さ
れるだけということになる。

 以前は、子どものうつ病はないとされていた。しかし最近では、「小児うつ病」という診断名も
あることからもわかるように、ごくありふれた病気の1つになりつつある。子どもだって、うつ病
になる!

 もちろんいじめが、子どものうつ病の原因になることは、じゅうぶん考えられる。しかしいじめ
はいじめとして別のところで考えるとして、同時に、そのいじめが引き金となって起こす、心の
問題にも焦点をあてなければならない。つまり心の問題を考えることなく、いじめだけを問題に
しても、意味はないということ。

 たとえば今、子どもたちの自殺が連鎖反応的につづいている。それに対して、おおかたの人
は、(いじめ)→(自殺)と短絡的にものを考える傾向が強い。

 しかし実際には、(いじめ)→(心の問題)→(自殺)と考えるのが正しいのではないのか。ある
いは(心の問題)→(いじめ)→(自殺)というケースも、ないとは言えない。

 要するに、子どもが何か特定のことで、異常なまでの(こだわり)を示したら、要注意!、とい
うことになる。

●「生きる」ということ

 「生きる」ということは、どこまでも現実的な問題である。「生きていること」自体が、現実その
ものと言ってもよい。

 だから現実論者は、「自殺」など考えない。自殺したところで、問題は、何も解決しない。その
ことをよく知っている。

 が、現実と空想の世界が混濁してくると、その境界があいまいになってくる。「死ねば楽にな
る」と考えるのも、そのひとつ。死んでしまえば、苦楽を感ずる肉体そのものがないわけだか
ら、楽になったと感ずることはない。ないにもかかわらず、「死ねば楽になる」と考える。

 また自殺することについて、「現実からの逃避」という言葉を使う人もいる。逃避するのは、そ
の人の勝手だが、死んでしまったら、逃避そのものができない。あるいは、どこへ逃避できると
いうのか。

 そこで登場するのが、「あの世」である。「来世」という言葉を使う人もいる。神秘主義者や超
自然主義者、さらにはカルト教の信者たちは、この言葉をよく使う。わかりやすく言えば、非現
実主義に陥れば陥るほど、こうした言葉をよく使うようになる。

 実は私も、本当のところ、あの世があるのかどうか、わからない。わからないが、見たことも
ない世界を、信じろと言われても困る。そこで私は、「あの世はない」という前提で、今を、生き
ている。ただひたすら懸命に生きている。一瞬一秒を惜しんで、生きている。

 その私が死んで、あの世があれば、もうけもの。そのときはそのときで、あの世を認めればよ
い。それはたとえて言うなら、宝くじのようなもの。当たるか当たらないかわからないような宝く
じをアテにして、家のローンを組む人はいない。ローンを組むのは、宝くじが当たってからでよ
い。

 そこで再び、子どもの世界に目を移す。

 今、程度の差もあるが、小学生の中学年以上を中心として、約40%の子どもが、まじないや
占いを信じている。最近の占星術ブームが、それに拍車をかけている。わかりやすく言えば、
子どもたち自身が、現実と空想の混濁した世界で、おとなたちによって、いいように操られてい
る。

 こういう無責任な状態を一方で放置しておいて、子どもたちに向かって、命の大切とやらをい
くら説いても、ムダ。意味はない。繰りかえすが、「生きる」ということは、どこまでも現実的な問
題である。

 前にも書いたが、あの占星術にしても、宇宙(=天)の動向と、個々の人間の運命はシンクロ
ナイズされているという神秘主義が基盤になっている。つまり立派なカルトである。

 そういうものを、毎晩のようにテレビという、超ハイテクの機器を使って、子どもたちの世界に
たれ流している。無責任といえば、これほど、無責任なことはない。

 では、どうすればよいか?

 みなが、自分で考える人間になればよい。自分で考えて、そういう連中のインチキを見抜くよ
うにする。

●「ぼくは、ものごと深く考えない主義です」

 ある若い男性タレント(俳優)が、臆面もなく、こう言った。「ぼくは、ものごとを深く考えない主
義です」(某雑誌社のインタビューに答えて)と。

 私たちの世界では、こういう人間を「バカ」と呼ぶ(失礼!)。……というのは、言い過ぎだとい
うことは、私にもよくわかっている。(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。それは
たとえて言うなら、難解な数学の問題を解くときに感ずる苦痛に似ている。あるいは寒い夜に
ジョギングに出かけるとき感ずる苦痛に似ている。だれだって、できれば、考えることを避けた
いと思う。思って当然。

 しかし人間は自ら考えるから、人間である。考えないということは、自ら、(生きる)ということを
放棄するようなもの。それがわからなければ、そこらにいるイヌやサルを見ればよい。あるい
は一日中、公園で、ぼんやりと時間をつぶしている老人たちを見ればよい。……とういうのも、
言い過ぎだということは、私にもよくわかっている。

 しかし、だ。もし「考えない」というのなら、その人は、何のために生きているのかということに
なる。多分、その男性タレントは、楽天的に生きるということを言ったのだろう。悲観的に生きる
よりは、楽天的に生きるのがよい。が、それなりの俳優を目指すなら、それなりに考えなけれ
ばならない。演技をするとしても、体からにじみ出るような、深い人間性がなければ、観客の心
をとらえることはできない。

 今、この日本で何がいちばん欠けているかといえば、私は自ら考える力だと思う。ほとんどの
人は、(情報)と(思考)の区別さえつかないでいる。情報の多いことを、思考力と錯覚してい
る。また情報の多い人を、賢い人と誤解している。

 しかし(情報)と(思考)は、まったく別のものである。

 それがわからなければ、電車の中で、あたりの迷惑も考えず、一方的にペチャペチャとしゃ
べりつづける、あのオジちゃんや、オバちゃんの話に耳を傾けてみることだ。ほんの少しでも考
える力があれば、そんなところで、しゃべりはしない。もちろん話していることといえば、その程
度のこと。脳みその表面に飛来する情報を、ただ音声にかえているだけ。

 子どもの世界でいえば、掛け算の九九をペラペラとソラで言えるからといって、その子どもを
賢い子どもとは言わない。九九を暗記する程度のことなら、幼児にだってできる。

 ものごとは、現実的に考える。それが「生きる」ということにつながっていく。






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●思考回路

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一度、自分の頭の中に、ある一定の思考
回路ができてしまうと、それを変更する
のは、容易なことではない。

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 今回、スパムメール対策として、つぎのような方法を考えた。つまり一度、すべてのメールを、
「削除済み」にしてしまう。その中から読みたいメールだけを、選んで読む。さらに家族や友人、
知人からのメールについては、逆フィルターをかけて、「安全メール」フォルダー(このフォルダ
ーは、自分で作成する必要がある)に、移動する。

 今までは、「受信済み」フォルダーの中から、そのつど、スパムメールについては、「送信者禁
止」処理をしてきた。が、気がついてみたら、それが1500人ほどになっていた。そういうメール
を送り届けてくる連中は、そのつど、アドレスを変えて、送り届けてくる。

 私のばあい、電子マガジンにアドレスを書いたのが、アダになった。(今は、書いてないが…
…。)つまりうかつにも、アドレスを公開してしまった。それでスパムメールが、ジャカスカと届く
ようになってしまった。

 しかし、今まで、どうしてこの方法に気がつかなかったのだろう。つまり、ここに「思考回路」の
問題がある。

 私は、「スパムメールは、フィルターにかけて、送信者禁止にすればよい」とだけ、考えてい
た。しかしこうした思考回路は、一度できると、頭の中で、固定化されてしまう。その思考回路
にそってだけ、ものを考えるようになる。

 柔軟性がなくなるということは、それだけ脳の働きが鈍くなったということを意味する。子ども
の世界でも、頭のよい子どもは、その柔軟性に富んでいる。いろいろな形を使って絵を描かせ
たりすると、つぎつぎとユニークな絵を描いていく。そうでない子どもは、そうでない。考えている
フリをしているだけで、先へ進まない。

 もっとわかりやすい例でいえば、ジョークがある。柔軟性に富んでいる子どもは、おとなのジョ
ークでも通ずる。そうでない子どもは、そうでない。

 以前、こんな原稿を書いた。

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●いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもちろんの
こと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中には笑って
いるのもいるかもしれない。

 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークである。

子どもはこのいたずらとジョークが大好き。一般論として思考の柔軟な子どもほど、いたずらや
ジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じないというのは、あま
り好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がきかない。ジョークも通じな
い。こんなことがあった。

 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫を食
べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはしないでくださ
い」と。

私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫を食べた
ときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気にしたらしい。

あるいは同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリをしてみ
せたことがある。そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列にいた子ども(年
中男児)の頭をポンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、それについてやはり電話
で、「先生は、うちの子どもの頭を理由もなく、たたいたというではありませんか! 先生は体罰
反対ではなかったのではないですか!」と。ものすごい剣幕だった。

 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫剤を
入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシルを立て
た中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数センチ位置がず
れていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識のブレーキが働かない
という点で、好ましいいたずらとはいえない。

 思考の柔軟な子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児でもお
となのジョークを理解することができる。

ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポーターには、女の人はいないんだってエ」と言
ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞いたので、私が「だって、アル・ゼン・チンだも
んねえ」と言った。言ったあと、「このジョークは、無理かな?」と思ったが、一人だけニヤッと笑
った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。

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 つまり今回、はからずも、私は、自分の脳の働きが鈍くなっているのを知った。一定の思考
回路の中だけで、ものごとを考えていた。

 もっとも、その思考回路が悪いというのではない。私たちの日常生活というのは、その大半
が、繰りかえしの作業で成りたっている。いちいち思考回路を変えていたら、それこそ、日常生
活そのものが、成りたたなくなる。

 洗濯のしかた、炊事のしかた、掃除のしかたなど。

 そこで重要なことは、そういう日常的な作業をしながらも、「?」と思ったら、そこで立ち止まっ
て考えてみること。わかりやすく言えば、自分がもつ思考回路を、疑ってみること。

 今回、はからずも、私は、それを知った。と、同時に、私の頭の中は、その思考回路だらけと
いうことも、知った。

 もちろん大半は、(役にたつ思考回路)である。しかし中には、そうでないものもある。よい例
が、冠婚葬祭にまつわる思考回路。

 こうした思考回路は、代々と、伝統的に親から子へと受け継がれている。(形)になっているこ
とも多い。だから、それに気づいたとしても、変えるのは、容易なことではない。しかしよくよく考
えてみると、おかしな点はいくらでもある。いつの間にか、自分自身が、その世俗的な思考回
路に毒されてしまっているというケースも、少なくない。

 たとえば葬儀にしても、どうして今ある(形)が、葬儀なのか。私自身は息子たちには、いつも
こう言っている。「パパやママが死んでも、葬式には来なくていい」「来られるときに来ればいい」
と。とくに二男夫婦は、アメリカに住んでいる。

 葬儀にしても、簡単なものでよい。(豪華な葬儀など、望むべくもないが……。)(形)にこだわ
る必要はまったくないし、またそういう(形)に、どれほどの意味があるというのか。私たちは、
私たちのやり方で、やればよい。

 つまりそれが思考の柔軟性ということになる。要するに、「何が大切で、何が、そうでないか」
と、いつも考えながら、それに臨機応変に対処していくということ。少し大げさな感じがしないで
もないが、今回、スパムメール対策を思いついたとき、私は、それに気がついた。

 ところで、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。

『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。

 この言葉をもじると、こうなる。

 『いつも同じことをしていると感じたら、そのときは自分を疑ってみるべきとき』と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
回路 思考パターン)





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●一芸論

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子どもの心は、一芸が守る。

この一芸は、大切にする。

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 子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろ
なことがあった。

S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異常なまでの興味を
もった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげることをすすめた。パソ
コンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめりこみ、小学3年生
のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまでになった。

Tさん(2歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいたという。そこ
で母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ始めた。その
Tさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。

 中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではない
が、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助け
る」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。

M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園
で、ゴルフばかりしていた。で、それから10年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこう
言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコー
チになっていた。

 一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、
「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「こ
れについては、あいつしかできない」という状態にする。

 ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデ
ルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●一芸は聖域

 子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は
大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」と
いうもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんな
ケースがある。

 H君(中1)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績がさ
がったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしまっ
た。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、
食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍く
なってしまった……。

 子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されて
いることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それ
を奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。

H君は学校で疲れた心を、音楽を作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまった
のだから、H君の症状は当然といえば当然の結果でもあった。

 また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の
子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそう
であるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。

 これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって
進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学へ
の転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学
生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされてい
る。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。





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●フリーター

●親が子どもを叱るとき(フリーター論) 

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ふえるフリーター。
しかし大切なことは、
フリーターを悪として考えるのではなく、
それを認める社会を用意することでは
ないのか。

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●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。

一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみれ
ばバツなのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこ
う書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つま
り「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。

集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。

この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要
された。農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、
個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥さ
れた。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし
今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってき
ている。

イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つに分け
ることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、単独で
行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(2000年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、12%もい
るという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。

「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。

30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これ
はまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、
日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、

 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、

 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型             ……15%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。

しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではない。実
情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。いつまで
も「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 フリー
ター フリーター論 フリータ撲滅論 フリータ)





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【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】

●生・老・病・死

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私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

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 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。

(1)愛別離苦(あいべつりく)
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)
(3)求不得苦(ぐふとっく)
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1)別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみを
いう。
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3)求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成
する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛ん
になりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの
原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1)苦諦(くたい)
(2)集諦(しゅうたい)
(3)滅諦(めったい)
(4)道諦(どうたい)の、4つである。

(1)苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2)集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえ
ば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、そ
の原因となることもある。
(3)滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねは
ん)の世界へ入ることをいう。
(4)道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原
始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

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●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではな
いか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

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もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

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●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であ
ることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここ
に、東洋哲学と西洋近代哲学の集合を見る。

 そのサルトルの「無の概念」について書いた原稿が、つぎのものである。

++++++++++++++++++

【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに
由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるとい
う意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れて
も、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらい
だろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人
も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間
は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら
自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカル
ト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようにな
る。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結
構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつ
きつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところ
で、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を
宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなも
の。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思
える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいう
なら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動の
ために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をも
って、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代
から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックにな
っていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可
能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその
愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここで
いう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ
るがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)





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●復古主義

●安易な復古主義
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安易な復古主義に警戒しよう!

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●明治の偉勲たち

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人である。教育家
でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。
その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運
動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日本は、本当に変わっ
たのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人たちまで現われた。
中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、おかしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反省すること
もなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時代という時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であったことを忘れ
てはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んでいる。た
とえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人となる
と、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神的バ
ックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し
てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ
り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人
には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて
しまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建
時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●私らしさとは……

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心理学でいうアイデンティティとは、

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう。

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 エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つのものをあ
げる。

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。

(1)独自性の追求

 「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ずるようにな
った。どうしてか?

 たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、還暦」の
「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61歳)のときに、干
支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)る」という意味である。

 で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、そういうふう
にして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。

ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男の子ら
しくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作用によるものだと
いう説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。

 まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子らしくして
いく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らしくなっていく。

 それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、今、
老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。

 「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。

 しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消えてしま
う。

 となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、私には、
独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、そういうものは、
どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、独自性と言えるような
ものがあるのか、と。

 どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」と思うよう
な部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。

 今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。体力も落
ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前にして、「では、
どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どんどんと、老人臭くしていく。

 しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!

(2)統合性の容認

 いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、あまり好
きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。

 私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子でもない。

 だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。ときどき、そう
言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそれなりの人に、そう言
われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たまらない。

 「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、いかんよ」
とか、など。

 酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性を見れ
ば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思っている。

 どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定してしまう
と、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなくなってしまう。

 仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。そ
の人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが悪いこと
なのか!

(3)一貫性の維持

 一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だが、
認知症か何かになった人を、見てみればよい。

 数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言っておきながら、
いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つきあいにくい。その
人がどういう人なのか、それさえわからない。

 子どもの世界でも、似たようなことを観察する。

 年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、明確になっ
てくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教える側からすると、「こ
の子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。

 が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、愛情
飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのない子どもに
なる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。

 このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た(つかみ
どころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人といい、そうでない
人を、そうでないという。

 わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。「私は一貫
性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、そう思いこんでいる
だけ。

 そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならない。
視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性があるか
どうかを、判断する。

 あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、あな
たという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。

 以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自己概念)と(現
実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立されたとみる。

 自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑ぐらい
では、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性)





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●キレる子ども 

++++++++++++++++++

キレる子どもについては、たびたび、
取りあげてきた。

その「キレる」という行為だが、通常の
「激怒」とは、いくつかの点で、異なる。

++++++++++++++++++

 子どもでも怒る。激怒することはある。しかし「キレる」という行為とは、明確に、区別される。
「キレる」という行為には、つぎのような特徴がある。

(1)突発的に錯乱状態になる。
(2)暴力行為に、見境がなくなる。
(3)脳の抑制命令が、欠落する。
(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。
(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 順に考えてみる。

(1)突発的に錯乱状態になる。

 キレる子どもの特徴は、突発的に錯乱状態になること。その少し前から、ピリピリとした緊張
状態がつづくことがあるが、暴れ出すときは、突発的である。瞬間、人格の変化を感じたと思っ
たとたん、「コノヤロー」と金切り声をあげて、相手に飛びかかっていったりする。

(2)暴力行為に、見境がなくなる。

 キレる子どものする暴力には、見境がない。ふつうの暴力には、(手かげん)というものがあ
る。しかしキレる子どものする暴力には、その(手かげん)がない。全力をこめて、相手を殴っ
たり、蹴ったりする。

(3)脳の抑制命令が、欠落する。

 言動が、まるでカミソリでものをスパスパと切ったようになる。動きが直線的になり、なめらか
さが消える。脳の抑制命令が欠落したような状態になる。当然、言葉もはげしいものになる。

(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。

 その瞬間、子どもの顔を観察すると、顔色は青ざめ、目つきが別人のように鋭く、冷めたもの
になっているのがわかる。憎しみや怒りを表現しながら相手に殴りかかるというよりは、無表情
のまま。ときに、そのあまりにもすごんだ顔を見て、ゾッとすることさえある。

(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 キレるとき、その理由が、よくわからない。A君(小3男児)は、順番を待って並んでいるとき、
突然、キレて暴れ出した。近くにあった机や椅子を、ギャーッという叫び声とともに、手当たり次
第、足で蹴って倒した。

 B子さん(小5女児)は、私が「こんにちは」と声をかけて肩をたたいたその瞬間、突然、キレ
た。私に向かって、「このヘンタイ野郎!」と言って、私の腹に足蹴りを入れてきた。ものすごい
足蹴りである。私は、その場で、息もできなくなり、しばらくうずくまってしまった。

 C君(小4男児)は、問題を解いているとき、私がそれを手助けしてやろうと声をかけたとた
ん、キレた。「テメエ、ウッセー!」と叫んで、そばにあったワークブックで、私の頭を、つづけざ
まに、狂ったように叩きつづけた。

 こういうケースのばあい、私ができることと言えば、男児のばあいは、抱きかかえ、子どもを
抑えることでしかない。しかし相手が女児のばあいだと、それもできない。両手でまるく、自分
の頭をおおうことでしかない。子どもの世界では、おとなの私のほうが、やり返すなどというの
は、タブー。(当然だが……。)

 こうした子どもを観察してみると、先にも書いたように、脳の抑制命令そのものが、欠落した
ような状態になっていることがわかる。脳の機能そのものが、異常に亢進し、狂ったような状態
になる。

 原因のほとんどは、慢性的なストレス、日常的な緊張感、抑圧感の蓄積と考えてよい。それ
が脳間伝達物質の過剰分泌を促し、瞬間的に脳の機能が異常に亢進するためと考えられる。

 さらにその原因はといえば、脳の微細障害説などもあるが、家庭環境も、大きく作用している
ことは否定できない。

 子どもがこういう症状を示したら、親は、家庭環境を猛省しなければならない。が、こういう子
どもにかぎって、親の前では、むしろ静かでいい子ぶっていることが多い。つまりそのはけ口
を、弱い人や、やさしい人に向ける。

 だからたいていのばあい、私がそれを指摘しても、親は、その深刻さを理解しようとする前
に、子どもを叱ったり、さらに子どもを抑えつけようとしたりする。これがますます症状をこじら
せる。あとは、この悪循環。最後は、行き着くところまで行く。それまで気がつかない。

 対処法としては、過剰行動児に準ずる。

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●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。

つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令
を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう20年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこうだ。
たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に分泌
され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大学の
大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。

リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしま
う。一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カル
シウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消
えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足して
くると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさ
せたりする。

 ここに書いたのはあくまでも1つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を1本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。

体重15キロの子どもに缶ジュースを1本与えるということは、体重60キロのおとなが、同じ缶
ジュースを4本飲むのに等しい。おとなでも4本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボ
ガボになってしまう。もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂
糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうよう
な弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。

その地方ではどこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水
代わりに牛乳を飲んでいた。





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●怨憎会苦(おんぞうえく)

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原始仏教の教えに、「四苦・八苦」という言葉がある。
四苦というのは、生・老・病・死をいう。

残りの四苦のうちのひとつが、怨憎会苦(おんぞうえく)。

「憎い相手と会う苦しみ」という意味である。

+++++++++++++++++++++

 仏教を研究するとき、とくに注意を払いたいのが、教条的なものの考え方である。たとえば人
間が味わう「苦」にしても、「四苦・八苦」というふうに、数字を使って分類して考える。

 こうし教条的なものの考え方は、無知な人(失礼!)には、それなりの説得力があるかもしれ
ない。が、では、それでよいかというと、そうではない。ものの考え方が、その(数字)に固定さ
れてしまう。自由なものの考え方ができなくなってしまう。

 四苦八苦でなくても、十苦百苦でも、よい。千苦万苦でもよい。

 で、そういうことも頭に入れながら、その苦について考えてみる。原始文教の教えによれば、
人間が味わう「苦」には、生・老・病・死の4苦のほか、(4)愛別離苦(あいべつりく)(愛する人
との別れによる苦しみ)、(6)怨憎会苦(おんぞうえく)(憎い相手に会う苦しみ)、(7)求不得苦
(ぐふとっく)(求めても求められない苦しみ)、(8)五蘊盛苦(ごうんじょうく)(人間の意識活動
から生まれる苦しみ)の4つがあるという。

 (冒頭にも書いたように、人間が生きていく上で味わう苦しみは、それだけではないと思うが、
ここでは、原始仏教の教えに従っておく。)

 その中でも、興味深いのは、(6)の怨憎会苦である。パソコンで、「おんぞうえく」と入力して
変換すると、そのまま「怨憎会苦」と出てくる。そのことからもわかるように、この言葉は、仏教
の世界では、ポピュラーな言葉というふうに考えてよい。

 が、意味がよくわからない。「憎い相手と会う苦しみ」という意味だが、単純に考えれば、「憎
い相手などと、会わなければいい」ということになる。しかし人間の世界は、そんな単純なもの
ではない。

 以前、市内で母親教室を開いていたとき、こんな若い母親たちが多いのには、驚いた。つま
り「盆や暮れに、実家に帰るのが苦痛でならない」というのだ。実家というのは、自分の実家を
いう。

 「(実の)父は母に会うのが苦痛です」「盆や暮れが近づくと、憂うつになります」「どうやって両
親と夫の間をとりもったらいいのか、わかりません」と。

 会いたくなくても、会わなければならないケースというのは、多い。以前、私には、こんなこと
があった。

 私はある男(当時、45歳くらい)に、だまされたことがある。ことのいきさつはともかくも、その
決着をつけるため、私は、その男を、裁判所へ呼び出した。債権確認のための民事調停をす
るためにである。

 もともと私は法科の出身だから、そうした手続きをすることについては、抵抗がなかった。
が、である。当日が近づくにつれて、言いようのない緊張感と不快感を覚えるようになった。とく
にその前夜は、体がほてってしまい、一睡もできなかった。私が悪いのではない。相手が悪
い。それはよくわかっていたが、調停すること自体、不愉快なことだった。

 今にして思うと、「あれが怨憎会苦だったのかなア」と思う。

 さらに率直に言えば、私も、実家に帰るのが苦痛でならない。人にはそれぞれ故郷(ふるさ
と)というものがあり、その故郷に、それぞれの思いをこめる。しかし私がもっている故郷観は、
平均的な人がもっている故郷観とは、かなりちがったものである。

 死んでも、故郷にある、あの墓にだけは、入りたくないと思っている。

 つまりこれも怨憎会苦ということになる。「憎い」ということではない。体を取り巻く無数のしが
らみの中で、もがかねばならない。それが苦痛なのである。

 では、どうするか?

 私のばあいは、(逃げる)ということができない。逃げれば逃げるほど、かえって気が滅入って
しまう。それだけ気が小さいということになる。そこで私のばあいは、何か問題が起きると、正
面からぶつかっていく。決してそれだけの勇気があるわけではない。悶々と悩む、自分に耐え
られない。だから、そうしている。

 子どものときした喧嘩にしても、そうだった。上級生だろうが、体の大きな相手だろうが、多人
数であろうが、売られた喧嘩には、かならず応じた。負けることがわかっていても、応じた。

 そうしてそれまでの自分に決着をつける。それが私のやり方だった。今も、基本的には、その
やり方をつづけている。

 が、怨憎会苦は、つづく。悶々と、つづく。しかしこれは私が人間である以上、もっと言えば、
人間として生きている以上、いつまでもつづくものなのかもしれない。怨憎会苦から解放される
ということは、恐らく、死ぬ瞬間まで、ないだろう。

 が、それでも怨憎会苦から解放されたいと思うなら、怨憎会苦の種になるようなことをしなけ
ればよいということになる。いつも先を、静かに観察しながら生きる。準備しながら生きる。それ
しかない。……といっても、それ自体、たいへんむずかしいことのように思うが……。

【補記】

 名古屋市内に住む知人(55歳)は、今、今までつきあった愛人と、どうやって別れるか、その
ことで、悩み、苦しんでいる。相手の女性は、まだ20代だという。

 最初は、たがいに遊びのつもりだったらしいが、そのうち、たがいに本気になってしまったらし
い。が、さらにそのうち、男の知人のほうが、冷めてしまったらしい。

 こうなると、愛人に会うのも、女性の側からみると、「愛離別苦」。男性の側からみると、「怨憎
会苦」ということになる。おまけに、不倫が奥さんに発覚。離婚問題にまで発展しているという。
となると、さらにつけ加えて、その知人には、奥さんに対しては、「愛離別苦」、奥さんにしてみ
れば、「怨憎会苦」ということになる。

 わかりやすく言えば、ドロドロの人間関係。「愛離別苦」「怨憎会苦」というのは、そういう人間
関係をいう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 怨憎
会苦 四苦八苦 愛離別苦)





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●(「汝自身を知れ」)

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私は長い間、「汝自身を知れ」と言ったのは、
スパルタのキロンだと思っていた。

何度も、あちこちの原稿に、そう書いた。
しかしこれはまちがっていた。

「汝自身を知れ」と言ったのは、ギリシアの
7賢人の1人、ターレスの言葉だった。

その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこまれて
いたというが、それを見て、あのソクラテスが、
「無知の知」という言葉を導いた。

+++++++++++++++++

 今日(12月2日)の講演で、少しだが、『汝自身を知れ』という言葉に触れるつもりでいる。そ
こで念のためと思い、インターネットで、その言葉を検索してみた。

 以前なら図書館で調べると、半日もかかったような作業が、今では、瞬時にできる。その結果
だが、私は、強い衝撃を受けた。

 『汝自身を知れ』という言葉を残したのは、ギリシアのターレスではなく、ギリシアの7賢人の1
人である、ターレス(BC624−546)だったということがわかった。これほどまでに有名な言葉
だから、今さら、言い訳など無用。まことにもって、恥ずべきことである。

 その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこんであった。それをあのソクラテスが読み、かなり
自己流に解釈して、『無知の知』という言葉を生み出した。つまり「私たちは何も知らない。知ら
ないことを知ることこそが大切」と。つまり「自分を知ることが、知識を得ることである」と。

 どうして私は、「ギリシアのターレス」と思いこんでしまったのか。そこで記憶を懸命にたどって
みるのだが、どうもそれがはっきりしない。学生時代にそう聞かされたのかもしれないし、その
あとかもしれない。英語の「Know yourself(汝自身を知れ)」という言葉が耳に残っているか
ら、オーストラリアの友人から聞いた言葉かもしれない。

 しかしそれにしても……。無知というのは、本当にこわい。私はまちがった情報を、すでにあ
ちこちの講演でしゃべってしまった。本にも書いてしまった。知っている人が聞いたり、読んだり
したら、「何だ、はやし浩司って、この程度の男か」と思ったにちがいない。

 ……とまあ、言い訳はこの程度にして、自分を知るということは、本当にむずかしい。あのオ
スカー・ワイルドは、『浅はかな人間だけが、自分をよく知っている』と書き残している。つまり
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思いこんでいる人ほど、自分のことを知らない。
いわんや、子どもをや。

 私は、あまりにも無知だった!(少し、おおげさかな?)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 汝自
身を知れ アポロン神殿 古代ギリシアの7賢人 ターレス 無知の知 ソクラテス)

【付記】

 「私の子どものことは、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、子どものことを知ら
ない。自分のことさえ、わかっていない。そう断言して、まちがいない。

 このタイプの親ほど、子どものことを、何でもかんでも、自分で決めてつけてしまう。そしてそ
れを、子どもに押しつける。

 が、子どもの心は、別のところにある。つまりこの悪循環が、親子の間に、キレツを入れる。
やがて断絶へと発展する。

(教訓)

●汝自身を知れ

古代ギリシアの7賢人の1人のターレスは、『汝自身を知れ』という言葉を残した。その言葉
が、アポロン神殿の柱に書かれているのを見て、ソクラテスが、『無知の知』という言葉を導い
た。「私たちは、自分のことを知っているようで、実は何も知らない」と。この言葉を子育てにあ
てはめてみると、こうなる。「自分の子どものことは、自分がいちばんよく知っていると思いこん
でいる親ほど、自分の子どものことがわかっていない」と。





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●此岸(しがん)と彼岸(ひがん)

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迷いに満ちた、この世の世界を、此岸(しがん)
という。

一方、迷いのない悟りの世界を、彼岸(ひがん)
という。

だれでも、ブッダとなって彼岸へ行けると教えた
大乗仏教。

出家者だけが、彼岸へ行けると教えた小乗仏教。
小乗仏教では、人はどんなに修行をしても、
阿羅漢(あらかん)にしかなれないという。
ブッダには、なれない。

しかし……。一度、この問題には、しっかりと
決着をつけておきたい。

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 この日本では、死んだ人は、すべて「仏(ほとけ)になる」と教える。大乗仏教の教えによる。
つまり大乗仏教では、どんな人でも信仰によって救われ、ブッダとなって、迷いのない悟りの世
界へ行くことができると教える。

 「大乗」とは、もともとは、「だれでも乗ることができる大きな船」という意味らしい。

 これに対して、小乗仏教のほうでは、出家したものだけが、迷いのない悟りの世界へ行くこと
ができると教える。が、ブッダにはなれない。最高でも、阿羅漢(あらかん)にしかなれない。

 迷いのない悟りの世界を、彼岸(ひがん)という。これに対して、迷いに満ちた、この世の世界
を、此岸(しがん)という。

 ……という話を、私は子どものころ、近くの寺の和尚(おしょう)によく聞いた。その寺では、毎
月、決められた夜に、和尚による講和があった。

 で、今にして思うと、此岸でも彼岸でもよいが、私は、そのつど迷ってばかりいた。今の今も、
迷っている。いつも心の中は、ザワザワとしている。悟りの境地など、望むべくもない。一応、
仏教徒だが、信仰したという記憶は、どこをさがしても、ない。

 が、だからといって、救いの道を、信仰に求めたいとは思っていない。私は私だし、不完全の
まま自分の人生を終えたとしても、悔いはない。仮に彼岸というものがあったとしても、そんなと
ころへは行きたくない。

 だいたいにおいて、「行く」とか、「行かない」とか言うこと自体、おかしい。さらに死んだ人がす
べて、「仏になる」というのもおかしい。懸命に生きた人も、そうでない人も、仏とは! しかしそ
れこそ、逆差別ではないのか? もし死んだ人が、すべて、「仏になる」というのなら、懸命に生
きること自体、意味がなくなってしまう。

 大乗仏教の矛盾は、すべてこの一点に集約される。

 が、だからといって、仏教の教えを否定するものではない。ただ現在、私たちが仏教と読んで
いるものは、あまりにも、形而上学的(けいじじょうがくてき)すぎる。わかりやすく言えば、あま
りにも観念的で、実体がなく、非論理的。

 今では、その人がもつ、善悪に対する感覚まで、大脳生理学の分野で説明されるようになっ
てきている。仏教でいう迷いについても、心理学の世界から離れて、同じく大脳生理学の世界
で、説明されるようになってきている。ストレスについてでさえ、脳内ホルモンが関係していると
いうことは、今では常識である。

 それに私自身は、人が人として生きているかぎりは、(悟りの世界)など、ないと思っている。
生きるということは、どこまでも現実的な問題だし、現実を離れて、生きるということは、ありえ
ない。

 ここで(現実)という言葉を使ったから、現実の話をしよう。

 数日前、どこかの母親が、11歳になる息子を焼き殺そうとして、家に火をつけたという。その
ためその息子は焼死したが、その息子を助けようと家の中に飛びこんだ祖父まで、巻き添えに
なって死んでしまった。悲惨な、どこまでも悲惨な事件である。

 現在の刑法によれば、放火殺人は、無期もしくは死刑しかない。この母親について言えば、
死刑になる確率がきわめて高い。(昨日あたりの新聞によれば、母親は、「関係ない」とがんば
っているそうだが……。)

 こういう母親でも、死ねば、やはり仏になるのだろうか?

 ……という話は、もうやめよう。書いている私だって、疲れてくる。此岸(しがん)も彼岸(ひが
ん)も、ない。どこにもない。だから悟りの世界などというものも、ない。どこにもない。

 それはちょうど健康論に似ている。たいへんよく似ている。

 毎日、体を鍛えるからこそ、私たちの健康は維持される。鍛えなければ、その時点から、健
康は害される。

 同じように、毎日、脳みそを鍛えるからこそ、私たちの精神の健康は維持される。鍛えなけれ
ば、その時点から精神の健康は害される。究極の健康法など、あるわけがない。いわんや、悟
りの境地など、あるわけがない。

 私たちは死ぬまで、体を鍛え、脳みそを鍛える。釈迦自身も、「精進(しょうじん)」という言葉
を使って、それを説明している。それが生きるということである。

 なおついでに言うなら、「大乗」だの、「小乗」だのと、こうしたわけのわからないことを言い出
したのは、釈迦滅後、早くても、100年後の学者たちである。戒律に対する見解の相違から、
仏教教団内に対立が生まれ、その結果として、伝統的な上座部(のちの小乗仏教)と、進歩的
な大衆部(のちの大乗仏教)に分かれていった。

 あとは、混迷の一途。それがそのまま仏教として、日本へも伝わってしまった(?)。その結果
が、今のこの状態と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 此岸
(しがん) 彼岸 大乗仏教 小乗仏教)





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●いじめ

●緊張感がいじめを助長する

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クラスの緊張感が高まれば高まるほど、
その一方で、いじめが増大するという。
そんな調査結果が、このほど、公表さ
れた(産経新聞)。

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 クラスの緊張感が高まれば高まるほど、その一方で、いじめが増大するという。そんな調査
結果が、このほど公表された(産経新聞・06年12月6日)。

「いじめの発生は、学級の雰囲気に左右され、児童生徒が学校生活への不満を感じるクラス
で、特定の子どもをはけ口にする傾向が強いことが12月5日、都留文科大学(山梨県)の河
村茂雄教授(心理学)の調査研究で明らかになった。

中学では学級崩壊の兆候が見え始めると、いじめの発生は約5倍に跳ねあがる。河村教授は
『いじめは被害者と加害者という二者関係でなく、学級という集団の問題としてとらえ、対処する
ことが重要』と指摘している」と。 

 イギリスの教育格言にも、『抑圧は悪魔をつくる』というのがある。慢性的に抑圧感がたまる
と、子どもの心は悪魔的になる。いじめもそのひとつということになる。

 で、さらに、河村教授はつぎのように調査結果を公表している。

「平成7年度以降、約10万人の児童生徒を対象に心理テストを行い、学級でのトラブルの大
小や児童生徒の意欲の高さなどから、学級の状態を、

(1)子ども同士の人間関係がよく、学級運営も正常な(満足型)
(2)教師が統率するタイプの(管理型)
(3)教師とも友達感覚が漂うタイプの(なれ合い型)、などに分類した。

これまでの研究では、(管理型)は小学校で24%、中学校では58%、(なれあい型)は小学校
で45%、中学校で16%を占める。

 このうち16年度から2年間にわたり、約1万人を対象にいじめについて調べた結果、小学生
では『長い間いじめられている』『とてもつらい』と答えた児童が40人学級で、1人の割合とな
る、3・6%を占めた。中学生は2%で、8割の学級でいじめを訴えていた。

 いじめと学級状態との関係では、(満足型)の学級でのいじめ発生割合を1とした場合、(管
理型)は小学校で2・5倍、中学校で1・6倍。

(なれあい型)では小学校3・6倍、中学は2・1倍で、学級崩壊の兆候が見え始めると、中学で
は5・1倍に急増した」と。

 たいへん興味深い調査結果なので、さらにそのまま産経新聞から転載させてもらう。

 「学級内のストレスの要因をみると、全般的には『授業がわからない。興味がもてない』が多
く、(管理型)ではそれに加えて、『教師が威圧的。特定の子どもだけが認められている』『授業
や学級生活がワンパターン。判で押した生活で刺激に乏しい』といった不満があった。

 (なれあい型)にみられるストレスには、『子ども同士の陰口が多い』『ルールが守られていな
い』『学級に親しみが感じられない』が並んだ。

 いじめと感じている児童生徒に『誰からいじめられたか』をたずねたところ、小学生の50%
弱、中学生の30%弱が「同じクラスのいろいろな人」と回答。いじめられている子どもは集団
生活のなかで、みんなの不満のはけ口にされている構図が、浮き彫りとなった。

 河村教授は今回の調査結果について、『いじめ問題は、加害者対被害者という二者関係でと
らえられがちだが、被害者はみんなから『いじめられた』と感じている。学級でいじめは埋没し
て見えにくく、表面化しても周囲が自覚に乏しいのはこのためだろう。とくに(なれ合い型)で
は、実際には子どもが傷ついているのに、教師が見逃したり、軽い気持ちで加担したりする危
険がある』と指摘している」(産経新聞)と。

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 調査内容が入り組んでいて、理解しづらい点もあるので、わかりやすくまとめると、こうなる。

(1)クラスの緊張感が高まれば高まるほど、いじめの発生件数が、ふえる。
(2)学級崩壊が進むと、いじめの発生件数が、ふえる。
(3)(満足型)にくらべると、(管理型)、(なれあい型)では、それぞれ2・5倍、3・6倍と、いじめ
の発生件数が、ふえる(小学校)。

 興味深いのは、(管理型)よりも、(なれあい型)のほうが、いじめの発生件数が多いというこ
と。10万人の児童について調べたということだから、ぼう大な裏づけ調査があっての意見だと
思うが、(なれあい)とはどういうことなのか、今ひとつ、意味がよくわからない。

 「だらしない教室運営」ということか? 新聞には、「教師とも友達感覚が漂うタイプ」とある。
教師と生徒が、信頼関係で結ばれているなら、友として言いたいことを言いあうというのは、悪
いことではない。

 今回のこの調査は、常識的には、「そうだろうな」とわかっていたことを、数字の上で証明した
という点で、たいへん参考になる。

それにしても、10万人とは! 1クラスを30人として計算しても、3300クラス分以上ということ
になる。それにしても、すごい調査である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 緊張
感 いじめ いじめ発生 管理型 満足型 なれあい型)







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●良識と理性

●試される日本人の良識と理性

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結局、あの知事は、クロだった?

最後の最後まで、シラを切っていた。

で、知事逮捕に向けて、検察が最終
協議に入ったという(12月6日)。

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 権力者というのは、どうしていつも、こうまで往生際(おうじょうぎわ)が悪いのか。それほどま
でに、権力の座というのは、甘く、おいしいものなのか。

 結局、あの知事は、クロだった(?)。最後の最後まで、にこやかな笑みを浮かべて、シラを
切っていた。が、失職すると同時に、周辺の部下たちがみな、口を割り始めた※。で、12月6
日現在、検察当局が、知事逮捕に向けて、最終協議に入ったという。

 が、これで事件が解決すると考えるのは、早計である。この問題は、宮崎県民の、良識と理
性と、深くからんでいる。ことの流れを、この静岡県という離れた場所でながめていると、今回
の事件は起きるべきして起きた。そんな感じさえする。

 県議会そのものが、どこかドロドロした闇に包まれている(?)。どこか胡散(うさん)臭い
(?)。が、さらに驚くことがつづいている。

 ナント、あのお笑いタレントの、Sが、宮崎県知事選挙に、候補者として立候補を予定してい
るという。お笑いタレントたちが、過去にどんなことをしてきたか、それについて書いた原稿が
ある。02年の日付になっているから、4年前の原稿である。

++++++++++++++++

●ハレンチ番組

 11月3日、M大学で、民主党の鳩山由紀夫代表が講演をしていたときのこと。1時間ほどし
たところで、聴衆の中から、突然、「コーラスを捧げたい」と申し出があり、その連中が、2曲歌
を歌ったという。で、大学側が調べたところ、このコーラスはNテレビのバラエティー番組製作
の一環と判明し、スタッフは「取材」と称して会場に入っていたことがわかった。

この事件に対して、大学側は、学部長名で日本テレビに抗議するとともに、陳謝と放送の中止
を求めることを決定した。また、事態を知らずに巻き込まれた民主党の鳩山代表も、「視聴率
稼ぎのために、人の心をズタズタにする行為を平気で行うことに断固抗議してまいりたい」と 放
送中止を求めたという(TBS・inews より)。

 カメラがうしろにあれば何をしてもよいという傲慢さ。これは今のテレビ界がもつ、共通の傲
慢さと言ってよい。先日もこんな番組があった。

 二人のお笑いタレントが、地方を旅し、突然、その家にあがりこみ、昼食や夕食をその家の
家人にもらって食べるという番組であった。

私が見たときは、その家の妻が、夫のために用意しておいた昼食を、一人のタレントが、何だ
かんだと理由をつけて食べるところであった。一見、ほほえましい番組に見えたが、私はその
番組を見ているうちに、何とも言われない不快感に襲われた。もしあなたが、個人の立場でそ
んなことをすれば、即、その家から追い出されるであろう。警察に逮捕されるかもしれない。あ
るいは地方のテレビ局が、無名のタレントを連れて、東京へ行ったら、東京の人は、同じよう
に、その地方の人を迎えてくれるとでもいうのだろうか。

 こうした傲慢さの背景にあるのは、地方の人の、都会コンプレックス。それにマスコミコンプレ
ックスがある。この浜松市でも、東京からきたというだけで、何でもありがたがる傾向がある。
たとえば同じ講演でも、中央からきた講師だと、「東京から来た」というだけで、ワン・ステージ、
30〜50万円が相場。テレビなどで少し名の通った講師ともなると、100万円プラス旅費と宿
泊費が相場。タレントの世界には、「中央で有名になって、地方で稼げ」が、合言葉になってい
る!

 今回のM大学でのハレンチ事件は、こうした流れの中で起きた。あの低俗きわまりない連中
と、それを指揮する同じように低俗なプロデューサーとディレクター。こういう連中が一体となっ
て、起きた。

が、ここで忘れてならないのは、こうしたテレビ番組が、若者や子どもたちに与える影響は、想
像以上のものだということ。いくら学校という場で、良識を学んでも、そんなものは、こうした番
組の前では、ひとたまりもない。むしろ学校教育そのものが、逆に破壊されることだってある。

 こうしたテレビ局に、倫理や道徳を求めても、ムダ? もともとそういう人たちが、番組を作っ
ているのではない。また、本来なら、勇気ある有識者が、もっとこうしたマスコミのあり方を批判
してもよいはずなのだが、それはしない。批判すれば、テレビ界から追放されてしまう。テレビ
界から追放されたら、(あるいは嫌われたら)、「地方で稼ぐ」ということができなくなってしまう。

 もっと、みなさん、いっしょに賢くなろう。賢くなって、もっともっと中央に背を向けよう。そしても
っと中央を批判し、本物とニセモノを見分ける目をもとう。私たちはともすれば、中央から流さ
れてくる情報を、ただ一方的に受け止めるだけ。そして中央の意のままに、あやつられるだ
け。こんなことをしていたら、地方は、いつまでたっても、「地方、地方」とバカにされるだけ。

 M大学は、学長名で、Nテレビ局に抗議したというが、ひょっとしたらM大学にせよ、「テレビ
取材」ということで、飛びついたのではないのか。シッポを振ったのではないのか。今の大学
に、これは私立大学全般に言えることだが、こうしたハレンチ行為に抗議するだけの良識があ
るとは、とても思えない。だいたいにおいて大学教育が、そうした良識を育てるしくみになってい
ない。

 私はこの事件を聞いたとき、「またか……」と思った。今まで何度となく、この種の事件が起き
るたびに、テレビ局へ抗議をしてきた。しかしすべてがムダだった。たとえば7、8年前、イスラ
ム教徒のトルコに行き、素っ裸になって踊ったお笑いタレントがいた。

体育館に集まった聴衆の中には、女性や子どももいた。結局、その番組は放映されなかった
が、日本そのものが、世界の人に笑われた。私もテレビ局に電話で抗議したあと、文書でも抗
議した。で、そのタレントは、しばらくはなりを潜めていたが、今度はパプア・ニューギニアに住
む裸族のレポーターとして、再び、番組に登場していた。彼はその番組の中で、チンチンの先
に大きな、筒をつけ、誇らしげに笑っていたが、それはまさにトルコの事件を、逆手にとったよ
うな番組だった。

 こういう番組を見ると、私たちは低俗タレントのほうばかりを責めるが、本当に責められるべ
きは、その上のディレクターであり、プロデューサーなのだ。あるいはテレビ局本体なのかもし
れない。しかしさらに責められるべきは、そういう番組に対して批判力をもたない、私たち自身
なのかもしれない。

テレビ局は、そしてマスコミは、何かあると報道の自由を盾にとって、もっともらしいことを言う
が、しかしこんな番組のために、報道の自由があるわけではない。私たちはもう一度、「報道が
どうあるべきか」という原点に立ち返って、現在のテレビ界の姿勢をながめてみる必要がある。

(補記)こういうハレンチ番組を見たら、テレビ局へ、どんどんと抗議の電話をしよう。テレビ局
によっては、苦情処理センターを置いているところが多い。中には、常時留守番電話になって
いるのもあるが、遠慮せず、抗議しよう。伝言を残そう。私たちは子どもたちのために、戦うの
だ!
(02年−11月−6日記)

+++++++++++++++++

 お笑いタレントのSにしても、当選を目的にしているとは、とても思えない。売名のための話題
づくり。もちろん「あわよくば、当選」ということも考えているかもしれない。しかしこれほど、宮崎
県の人たちにとっても、侮辱的な行為もないはず。はっきり言えば、宮崎県の人たちは、完全
にバカにされている。

 同じようなケースとして、すぐ思いつくのが、大阪府の府知事になった、Y。パンパカパーン
の、「Y」である。マスコミにおける知名度だけを使って、府知事になった。が、結末は、みなさ
ん、もうご存知のとおり。

 あのときも、Yの人間性を疑うというよりは、大阪府の人たちの良識と理性が疑われた。今回
も、そうである。と、同時に、私たち日本人がもつ、民主主義への意識そのものが疑われてい
ると考えてもよい。

 血と汗で勝ち取った民主主義なら、こんなバカげた使い方はしないだろう。もう少し畏敬(いけ
い)の念をもって、民主主義をとらえるはず。しかし悲しいかな、日本の民主主義は、戦後、ア
メリカから移植されたものである。民主主義の意味も価値もわからないまま、日本は、そのま
ま民主主義国家(?)になった。少なくとも、形だけは、民主主義国家になった。

 Sが、宮崎県の県知事に立候補を予定しているということについて、宮崎県の人たちの中に
は、不愉快に思っている人もいるはず。私は、それが良識であり、理性であると思う。が、も
し、あの大阪府の元府知事のYのように、当選するということにでもなったとしたら、私は、本気
で、宮崎県の人たちの良識と理性を疑う。

 「この民にあって、この知事」と。

 当選はしないとしても、お笑いタレントのSが、何%の得票率をとるかによって、宮崎県の人
たちのみならず、日本人の良識と理性のレベルがわかる。今回の選挙は、それを知るバロメ
ーターになるはず。

 私が宮崎県人なら、得票数1で、自分の県から、あのSをたたき出してやる!


(注※)宮崎県の官製談合事件で、競売入札妨害容疑で逮捕された前出納長、E隆容疑者(6
3)がヤマト設計(東京都)に受注させる目標額として土木部幹部に示した「8000万円」の総枠
は、A前知事(65)が決めていたことが分かった。また、土木部次長のS容疑者(58)が、前知
事から知事室に呼ばれ、談合について直接指示を受けたと供述した。A知事逮捕へ向けて捜
査している県警は、県幹部の供述が同容疑の裏付けになるとみて、さらに細部について詰め
の捜査をしている。最高検や警察庁でも6日、最終協議が進められた模様だ。(毎日新聞記事
より)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

【4年前に書いた原稿より】

+++++++++++++++++

たまたま4年前に書いた原稿が見つかった。
日付を見ると、02年11月となっている。

それを少し手直しして、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

●自由

 自由のもともとの意味は、「自らに由(よ)る」、あるいは、「自らに由らせる」という意味であ
る。

 この自由には、三つの柱がある。(1)まず自分で考えさせること。(2)自分で行動させるこ
と。(3)自分で責任を取らせること。

(1)まず自分で考えさせること……日本人は、どうしても子どもを「下」に見る傾向が強いの
で、「〜〜しなさい」「〜〜してはダメ」式の命令口調が多くなる。しかしこういう言い方は、子ど
もを手っ取り早く指導するには、たいへん効果的だが、しかしその一方で、子どもから考える力
を奪う。そういうときは、こう言いかえる。「あなたはどう思うの?」「あなたは何をしたいの?」
「あなたは何をしてほしいの?」「あなたは今、どうすべきなの?」と。時間は、ずっとかかるよう
になるが、子どもが何かを言うまでじっと待つ。その姿勢が、子どもを考える子どもにする。

(2)自分で行動させること……行動させない親の典型が、過保護ママということになる。しかし
過保護といっても、いろいろある。食事面で過保護になるケース。運動面で過保護になるケー
スなど。親はそれぞれの思い(心配)があって、子どもを過保護にする。しかし何が悪いかとい
って、子どもを精神面で過保護にするケース。子どもは俗にいう「温室育ち」になり、「外の世界
へ出すと、すぐ風邪をひく」。たとえばブランコを横取りされても、メソメソするだけで、それに対
処できないなど。

(3)自分で責任を取らせること……もしあなたの子どもが、寝る直前になって、「ママ、明日の
宿題をやっていない……」と言い出したとしたら、あなたはどうするだろうか。子どもを起こし、
いっしょに宿題を片づけてやるだろうか。それとも、「あなたが悪い。さっさと寝て、明日先生に
叱られてきなさい」と言うだろうか。もちろんその中間のケースもあり、宿題といっても、いろい
ろな宿題がある。しかし子どもに責任を取らせるという意味では、後者の母親のほうが、望まし
い。日本人は、元来、責任ということに甘い民族である。ことを荒だてるより、ものごとをナーナ
ーですまそうとする。こうした民族性が、子育てにも反映されている。

 子育ての目標は、「よき家庭人として、子どもを自立させる」こと。すべてはこの一点に集中す
る。そのためには、子どもを自由にする。よく「自由」というと、子どもに好き勝手なことをさせる
ことと誤解する人もいるが、それは誤解。誤解であることがわかってもらえれば、それでよい。
(01−11−7)

●子どもは自由にして育てよう。
●子育ての目標は、子どもをよき家庭人として、自立させること。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育て自由論 自由 自らに由る 自らに由らせる)






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●質素について

●見せる質素、見せぬぜいたく

+++++++++++++++++

ぜいたくになれきった子どもたち。
しかし苦労するのは、結局は、その
子どもたちということになる。

+++++++++++++++++

 子どもの前では、質素を旨(むね)とする。つつましい生活、ものを大切にする生活、人間関
係を大切にする生活は、遠慮せず、子どもにはどんどんと見せる。

 ときに親もぜいたくをすることもあるが、そういうぜいたくは、できるだけ子どもの目から遠ざ
ける。あなたの子どもはあなたの子どもかもしれないが、その前に、一人の人間である。それ
を忘れてはいけない。子どもは、一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜいたくから離れることが
できなくなってしまう。こんな子どもがいた。

 ある日、私の家に遊びに来ていた中学生(中2女子)が、突然、家に帰ると言い出した。理由
を聞いても言わない。しかたないのでタクシーを呼んであげたら、あとで母親がこう教えてくれ
た。「あの子は、よその家のトイレ(便座式)が使えないのですよ」と。「ボットン便所だったら、な
おさらですね……」と言いかけたが、やめた。

 このまま日本が、今の経済状態を維持できればよし。しかしそうでないなら、それなりの覚悟
を、親たちもしなければならない。多くの経済学者は、2015年には、日本と中国の立場が入
れかわるだろうと予測している。実際には、2010年ごろではないかという説もある。すでにAS
EAN地域での、政治的指導力は、完全に中国に握られている。そういうことも考えると、2015
年以後は、日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならなくなるかもしれない。たいへん残念なこと
だが、すでに世界はそういう方向で動いている。

 で、こういう状況の中、子どもにぜいたくをさせるということは、たいへん危険なことでもある。
先日も、中国で使っている教科書(国定教科書)を小学生に見せたら、全員が、「ダサ〜イ」と
声をあげた。見るからに質素な装丁の教科書だった。しかし日本の教科書のほうが、豪華すぎ
る。ほとんどが四色のカラーページ。豪華な写真に、ピカピカの表紙。

アメリカのテキスト(アメリカには日本でいう教科書はない)も、豪華で、その上、たいへん大きく
重い。しかしアメリカでは、テキストを学校で生徒に貸し与えたり、順送りにつぎの学年の子ど
もにバトンタッチしたりしている。日本では、恐らくこうした教科書産業のウラで、官僚と業者が
何らかの関係をもっているのだろうが、しかしそれにしても……? たった1年しか使わないテ
キストを、ここまで豪華にする必要はない。カラー刷りが必要だったら、子ども自身にカラーペ
ンで色を塗らせれば、よい。

 またまたグチになってしまったが、将来、今のような経済状態が保てれば、それはそれでよ
い。しかしそうでなくなれば、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。「昔はよかった」
と思うだけならまだしも、親が生活の質を落としたりすると、「あんたがだらしないから!」と、そ
れだけで親を袋叩きにするかもしれない。よい例が、小づかい。

今どきの中学生や高校生は、1万円や2万円の小づかい程度では、喜ばない。それもそのは
ず。今の子どもたちは、すでに幼児のときから、そらゲーム機だ、そらソフトだと、目いっぱい、
ほしいものを買い与えられている。あのプレステ・2にしても、ソフトを含めれば3万円を超え
る。そういうものを一方で平気で買い与えておきながら、「どうすればうちの子を、ドラ息子にし
ないですむでしょうか?」は、ない。

 この「質素」の問題とからんで、「家庭経済」の問題がある。よく「家計はどこまで子どもに教え
るべきか」ということが話題になる。子どもに不必要な不安感を与えるのもよくないが、しかしあ
る程度は、子どもに見せる必要はある。たとえばアメリカの学校には、「ホームエコノミー」とい
う科目がある。小学校の中学年くらいから教えている。日本でも家計簿の使い方を教えている
が、アメリカでは、家計の管理のし方まで教えている。機会があれば、家計のしくみや、予算の
たて方、実際の支出などを子どもに教えてみるとよい。子どもをよき家庭人として育てるという
意味では、決して悪いことではない。
(02−11−7)

●質素な生活を大切にしよう。
●子どもには、ぜいたくは見せないようにしよう。
●子どもには、ぜいたくな生活をさせないようにしよう。
●ある程度の家計の流れは、子どもに見せておこう。






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●三つ子の魂、百まで

++++++++++++++++

子どものころできた心は、その
ままずっと、死ぬまでつづく。

最近の研究によれば、おとなに
なってからうつ病になる遠因も、
実は、乳幼児期につくられるということが
わかってきた。

++++++++++++++++

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、3歳ごろまでに決ま
るので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの4つの意味をも
つ。

(5)この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについ
て、おおよその見当がつくということ。

(6)この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろと
いう意味。


(7)この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向
性はいじってはいけないということ。

(8)そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳
までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えな
いことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌
に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「3歳までに不幸だった子
どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「3歳」と切るこ
とはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも
明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは
簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格第一形成期と呼
んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格第二形成期と呼んでい
る。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満4・5歳〜5・5歳)の時期である。この時期を経
るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」というつ
かみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。

が、この時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満4・5歳から
5・5歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にでき
る基本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾
ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができ
る。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかにつ
いて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から
学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学
習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそうい
う体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てが
できるようになる。

そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家庭環境を大切に
する。またそれにまさる家庭教育はない。
(02−11−7)

●3歳までの家庭環境を、大切にしよう。
●幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

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この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
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●教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には2匹の犬がいる。1匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これを
A犬とする。もう1匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後3か月くらいしてからもら
ってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、12年に
もなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決
して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振って、それを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども
 
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。

感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのク
セがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるというこ
と。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、な
ど。

一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。
あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のよ
うな私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問
題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

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●心を失う子どもたち

+++++++++++++++

教育とは何か?

私たちは、もう少し冷めた目で、
もう一度、その教育をながめて
みる必要があるのではないだろうか。

+++++++++++++++

 少し冷めた目で、受験教育をながめてみると……

 光あふれる進学塾。ガンガンとしゃべりつづける講師。それをただひたすら、黙々とノートをと
る受講生たち。見ると、受講生たちは、みな、「必勝」と書いたハチマキをしめている。席は、前
回の模擬テストの結果で決まる。右の最前列が、トップの学生。左の最後尾が、ビリの学生。
それ以上成績が落ちると、二軍のBクラスに落とされる……!

 こういう授業を、すばらしいと思う親がいる。またそれが教育のあるべき姿だと思う親もいる。
しかしこんなのは教育でも何でもない。ただの訓練。犬の訓練。いや、犬の訓練でも、そこまで
しない。

 問題は、なぜこういう非常識が、日本の常識となってしまったか、である。それには長い歴史
と、日本独特の学歴社会がある。それについては、また別のところに書くとして、こういう教育
を受けた子どもほど、スイスイと人間選別期間を通りすぎていくというのは、まさに悲劇的です
らある。が、問題は、その先。

 仮にその子どもたちが、関門を通りぬけたとしても、それによって受けた心のキズは大きい。
さまざまな形で、子どもの心を大きくゆがめる。高校や大学へ入ってから、精神を病む子どもも
多い。日本では、それを指摘すると、教育システムそのものが崩壊する。だからだれもあえて
問題にしようとしない。あるいはそれが日本人全体の国民性にまでなっている。だからだれも
気づかない。

 たとえばガリガリの受験勉強を経験した人ほど、心が冷たくなる。これはウソでも何でもな
い。常識だ。それを疑うなら、あなたの周囲を少しだけ見回してみればよい。あなたの周囲に
は、心やさしい人もいれば、そうでない人もいる。しかし受験勉強とは無縁で育った人ほど、心
やさしいということを、もうあなたはずでに知っているハズ。

 私は週末は、浜松市郊外の山荘で過ごす。そこで会う人たちは、明らかに浜松の人たちとは
違う。どこがどう違うかということを書き始めたら、それだけで一冊の本になってしまうが、とも
かくも違う。人間の質そのものが違う。山荘の周辺で会う人たちには、牧歌的な温もりがある。

しかし一方、もっともいじめが陰湿で、悪質なのが、県内でも一番と目されているS進学高校。
はからずも私の息子もその高校に通ったが、3年間で、2度自転車が盗まれ、3度破壊され
た。ほかの小さな被害を数えたら、キリがない。この傾向は、有名国公立大学でも同じで、頭
が切れる分(?)、さらに陰湿かつ悪質になる。

 だいたいにおいて、受験教育は教育ではない。「指導」である。点を稼ぐための指導である。
そういう指導を、教育と錯覚し、受験指導をする講師もあわれなら、受講生たちはもっとあわれ
である。

先日も北朝鮮のコンピュータ学校を取材した番組を見たが、そこで学ぶ子どもたちは、まさに
人間ロボット。画面を一心不乱にみつめながら、機関銃のようにキーボードを叩いていた。しか
も見ると、小学1、2年生程度の子どもたちである。ああいうのを「教育」と思い込んでいる北朝
鮮政府は、まさに狂っている。いや、日本だって、同じようなことをしている。国際的に見れば、
それほど変わらない。

 私も若いころ、進学塾の講師をしたことがある。当時のやり方で、そして日本の常識的なやり
方で、ただ一方的にガンガンとしゃべりながら授業を展開した。しかしそのやり方の基本は、私
が高校時代、私の高校で身につけた教育法である。私はそれがあるべき教育の姿だと、信じ
て疑わなかった。あるいはほかの教育法を知らなかった。が、私はまちがっていた。私の教育
法も、まちがっていた。そんなのは、教育ではない。ただの訓練。犬の訓練。いや、犬の訓練
でも、そこまでしない。……と、話が繰り返しになったので、ここで書くのをやめる。
(02−11−7)

●受験教育を、一度、冷めた目でながめてみよう。
●ああいう受験教育が本当に教育なのだろうか。それを一度、疑ってみよう。
●またああいう教育を通り抜けた人は、本当に優秀と言えるのだろうか。それも一度、疑って
みよう。




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●自立した、よき家庭人


【KJさんからの相談より】

+++++++++++++++++++++++++++++

長野県松本市のKJさんより、こんなメールが届いています。
軽い神経症を発症しているU男君(長男、現在中1の男子)に
ついて、アドバイスしたあと、いただいたメールです。
今日は、この問題について、考えます。

+++++++++++++++++++++++++++++

こんばんは! はやし先生、

U男(長男)へのご丁寧なアドバイス本当に有難うございました。
神経症と不登校のページ何度も 読み、とても勇気づけられました。
私が、本人をいかに追いつめていたかが、明白になり 反省しています。

U男は、小3からサッカーを初め、そのすばしっこさから少年団ではいつもレギュラーとして監
督に起用して頂いていました。
本人にとって サッカーが全てで、「夢はサッカー選手」でした。5年の終わりに、監督の推薦を
うけ、プロのコーチからトレーニングさせて頂く機会を得ました。
本人の意思で、参加すると言ったのに、数回で「もう止める」というのです。

「楽しいサッカーじゃない。周りの子が、あまりにうまく、レベルがちがうから、
一緒にやると迷惑かける。いじめにもあっている。」と…。

同じ地区から参加している父母の母親は、カンカンでした。

「子供は、つらい時、逃げたいって言います。うちの子だって行きたくないって言ったことがあっ
たけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正しい方向へ導いてあげる事こそ
が、親としての使命なのではありませんか?しかも行きたくても行けなかったお子さんもいるの
ですよ! 監督の推薦を受けてもいるのだし、監督にも、今後の推薦を受けられるかどうかと
いう意味で、チームにも迷惑をかけることになるのですよ。そんなに簡単に辞められるのです
か?」と… 

本人には「もう少しがんばってごらん」と励ましたりしたのですが、全くの逆効果でした。
代表、監督、コーチ父兄に謝罪し辞めました。

少年団でのサッカーは、楽しく6年まで続け、卒団しました。
JY(ジュニアユース)はまた、本人の意思で入団しました。
が、3ヶ月しないうちに辞めるといいだしました。
1年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応援、監督に「動きが悪い、
態度がなってない」といつも眼をつけられていたようです。
決定的だったのは、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうです。
俗に言う熱血指導なのでしょうが、本人は、「もう、小学校の時のような楽しいサッカーじゃなく
なちゃった。
動きがだめだと言われるからこう動けば良いかと思って動くとそれもダメだと言う。
監督の言うようにはどうやっても無理なんだ。完全に自信無くしちゃったよ。」
その間、親として、本人の心の叫びを受止められたかと言うとノーである。

脳裏にプロのトレーニングを止めるとき、父兄から非難された悪夢が蘇りました。
はやし先生の言う「わだかまり」である。

追い詰めたり、叱咤激励したり…一言でも「それが、あなたのだした結論ならやめればいい
よ。」と、子供を信頼し、任せていれば、神経症に至らなかったかもしれませんね。
大切な事に気づかせて下さり、本当に有難うございます。

10月上旬、ずーっと休部していたU男に、代表から、電話がはいった。
「どうしても1名メンバーが足りず、困っている。公式戦出場のために、是非試合に出てほし
い。」と…いままで、JYに入部してから1度も試合に出たことがないのだ。
が、本人が出なければ、棄権になってしまうのだ。
「どうすりゃいい?すぐに返事の電話を待ってるって…」
監督は旅行中で不在、代表が代理監督を務めるという。
「自分で決めると良いよ。出れるかどうかは自分次第だからネ!そして、もうそろそろ今後続け
るか辞めるか結論をださないとネ!」と私
「じゃあ、試合には出る、それで辞める。」決心には、かなりの勇気が必要だったろう。
精一杯考えて、チームが、棄権になることだけは避けたい思いだったのだろう。
我が子ながら、心から「えらい!」と言ってだきしめてあげたい衝動にかられた。(が、できなか
った)

試合当日、辞める挨拶もかねて、試合会場に応援に行った。
案の定、練習を積み重ねてきたチームメイトとは、力の差は歴然だった。
何度も倒れながら、精一杯グランドを走った。チームも本人を信頼し、パスを出してくれる。
心無い父兄の声、「何?なんであんなにバタバタ倒れるの。
しばらく練習してないから?もう、疲れちゃってるみたいね!
なんであんなとこパス出してるの?なんだ、一応彼がいたんだ。(身長が低く遠くからは見えに
くい)」さらに「あの陰の監督に黙って彼をだしちゃっていいの?
知らないよー。」(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんといわれていた
らしい。)

相手は強豪チームで、結果は大差で負けた。
父兄、代表に挨拶し、この日をもって、やめた。
このあと、無気力な様子がみられ、現在に至っている。
心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。
今は、U男の心の声にじっと耳をすまし、寄り添えればと思っている。
今日、「ただいまー」と帰り、「陸上、かなり疲れたヨ!」と言うU男に、「大変だったね!ゆっくり
休むといいよ!」と自然に答える事が出来た。

これもはやし先生のお蔭です。本当に有難う御座いました。
幸いにも、親子断絶度は、良好(ホントかナ?)
こんなに長くなってしまってすみません。
 
では、お休みなさい                  

(長野県松本市・KJより) 

+++++++++++++++++++++++++++

失敗と挫折 

●私のばあい

 もう一〇年になるだろうか。私はワイフと、テニスクラブに通うようになった。で、最初のうち
は、それなりに結構自由に、楽しむことができた。しかしそのうち、コーチが、あれこれ言い始
めた。「腕の曲げ方が悪い」「腰のひねり方が悪い」と。とたん、私はやる気をなくした。「何も、
私はウィンブルドンで出るつもりは、ないのだ!」と、言いそうになったが、やめた。同時に、そ
のテニスクラブも、やめた。

 私はもともと「球」を相手にするスポーツが、苦手。大嫌い。原因は、わかっている。小学6年
生のときだったか、いつか、野球をしていて、デッドボールを当てられたからだ。それまでは軟
式ボールを使っていたが、そのときは硬式ボールだった。まるで石をぶつけられたかのような
衝撃だった。それでボールがこわくなってしまった。それで「球」が苦手になってしまった。

 一度、こういう形で挫折(ざせつ)すると、(「挫折」というほど大げさなものではないかもしれな
いが……)、この時期、それを修復するのは、容易ではない。「この時期」、つまり少年少女期
は、あっという間にすぎてしまう。何とかしようと思っているうちに、一年、二年とたってしまう。私
も高校を卒業するまで、結局は、あの野球だけは、好きになれなかった。

●正しい道?

 子どもは、当然のことながら、未経験。そのときは何もわからず、あれこれとやりたがる。親
が「ピアノ教室へ行ってみる?」と聞いたりすると、「うん、やりたい」と言ってみたりする。しかし
この時点で、子どもの約束など、本気にしてはいけない。しばらくして子どもが、「もうやめたい」
と言ったりすると、親は、「あんたがちゃんと、約束したからでしょ」と言ったりするが、それは酷
というもの。あるいは中には、「一度始めたことを、途中でやめるなんて、これから先、心配だ」
と考える親もいる。しかしそんなに大げさに考えてはいけない。

 このU男君のケースもそれにあたる。U男君の親に向かって、「うちの子だって行きたくないっ
て言ったことがあったけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正しい方向へ導
いてあげる事こそが、親としての使命なのではありませんか?」と言った人がいる。私は子ども
を教えさせてもらうようになって、もう30年以上になるが、親に向かって、このように言ったこと
は、ただの一度もない。とても、言えない。だいたいにおいて、いまだにその「正しい道」すらわ
からない。多分、U男君の親に向かって、そう言った人は、すばらしい人格者なのだろう。私に
は、とてもまねできない。

 たかがサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか。どうしてもっと「楽しむ」ということ
をしないのか。あえて言うなら、サッカーは、手段であって、目的ではない。サッカーをとおして、
温かい人間関係をつくれれば、それでいいではないか。またそういう人間関係におけるドラマ
のほうこそ、大切なのだ。私にもこんな経験がある。

●息子のサッカー教室

 息子の1人も、しばらくサッカークラブに通った。そのクラブの監督は、ある楽器メーカーのサ
ッカー部のキャプテンもしたことがある人だという。そこで話を聞くと、「ボランティアでしている
から、無料だ」と。私はこの言葉に感動した。「無料で、子どもを指導する」というのだ。私は私
をはるかに超えた、すばらしい人格者を思い浮かべた。また最初は、そういう目でその人物を
見ていた。が、そのうち、様子がおかしいのに気づいた。

 その人物をA氏ならA氏としておこう。そのA氏の目的は、ただ一つ。「勝つ」ことだけ。一応型
どおりの指導はするが、素質がないとわかると、その子どもには、見向きもしない。実のところ
私の息子も、その1人だったが、結局は、そのクラブに1年以上通ったが、最後まで、1度も公
式の試合には出させてもらえなかった。

あとで話を聞くと、「あの監督は、盆暮れに、ある程度の現金をもっていかないとダメ」と聞かさ
れた。しかもそれも10万円単位だという。「10万円!」と驚いていると、「月謝だってそれくらい
でしょ! 毎週日曜日に、それくらい世話になっているのだから」と。そういう監督に、子どもの
「教育」を期待した私が、バカだった。

U男君の母親も、「1年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応援、監
督に『動きが悪い、態度がなってない』といつも眼をつけられていたようです。決定的だったの
は、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうです」と書いている。もち
ろんこういう否定的な見方ばかりしていてはいけない。中にはすばらしい監督やコーチがいて、
すばらしい指導をしている人もいる。またそういうクラブで、鍛えられ、すばらしい子どもになっ
た例も多い。

しかしその一方で、キズつき、挫折して子どもも多いのも事実。私の経験では、こうした経験が
効を奏して、「よかった」「すばらしかった」という思いで、クラブを去っていくのは、全体の、3〜
4割程度ではないか。それと同じくらいの子どもが、「もうこりごり」という思いをもちながら、クラ
ブを去っている。

●日本人の結果論

 日本では、チベット密教の影響からか、「結果」を大切にする。「結果こそ、すべて」というわけ
である。「死に際の様子で、その人の一生が評価される」と教える宗教団体もある。しかし結果
はあとからついてくるもの。たとえその結果が悪くても、その人の人生がまちがっていたという
ことにはならない。

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「いろいろやってみました
が、すべてがムダでした」と。「音楽教室にも、算数教室にも、体操教室にも、進学塾にも入れ
ましたが、ムダでした」と。もしこんな論理がまかりとおるなら、その人が、最後に交通事故か何
かで、悲惨な死に方をしたら、すべてがムダだったということになってしまう。しかしそんなこと
はありえない。大切なのは、そのプロセスなのだ。その中身なのだ。

 が、実際には、日本人の体質としてしみついた「結果重視論」を、是正するのは、簡単なこと
ではない。ものの視点や考え方が、親から子どもへと、無意識のまま、代々と受け継がれてい
る。英語にも『終わりよければ、すべてよし』という格言がないわけではない。しかしものの見方
が、日本人とはかなり違う。

つぎのエッセーは、中日新聞に掲載してもらった記事である。話を先に進めるまえに、それをこ
こに転載する。内容がここに書いたことと少し重複するが、許してほしい。

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●子育てプロセス論

 クルーザーに乗って、海に出る。ないだ海だ。しばらく遊んだあと、デッキの椅子に座って、ビ
ールを飲む。そういうときオーストラリア人は、ふとこう言う。「ヒロシ、ジスイズ・ザ・ライフ(これ
が人生だ)」と。日本人ならこういうとき、「私は幸せだ」と言いそうだが、彼らはこういうときは、
「ハッピー」という言葉は使わない。

 私はここで「ライフ」を「人生」と訳したが、ライフにはもう一つの意味がある。「生命」という意
味である。つまり欧米人は人生イコール、生命と考え、その生命感がもっとも充実したときを、
人生という。何でもないような言葉だが、こうした見方、つまり人生と生命を一体化したものの
考え方は、彼らの生きざまに、大きな影響を与えている。

 少し前だが、こんなことをさかんに言う人がいた。「キリストは、最期は、はりつけになった。そ
の死にざまが、彼の人生を象徴している。つまりキリスト教がまちがっているという証拠だ」と。
ある仏教系の宗教団体に属している信者だった。しかし本当にそうか。この私とて、明日、交
通事故か何かで、無惨な死に方をするかもしれない。しかし交通事故などというものは、偶然と
確率の問題だ。私がそういう死に方をしたところで、私の生き方がまちがっていたということに
はならない。

 ここで私は一人の信者の意見を書いたが、多くの日本人は、密教的なものの考え方の影響
を受けているから、結果を重視する。先の信者も、「死にぎわの様子で、その人の人生がわか
る」と言っていた。つまり少し飛躍するが、人生と生命を分けて考える。あるいは人生の評価と
生命の評価を、別々にする。教育の場で、それを考えてみよう。

 ある母親は、結果として自分の息子が、C大学へしか入れなかったことについて、「私は教育
に失敗しました」と言った。「いろいろやってはみましたが、みんな無駄でした」とも。あるいは他
人の子どもについて、こう言った人もいた。「あの親は子どもが小さいときから教育熱心だった
が、たいしたことなかったね」と。

 そうではない。結果はあくまでも結果。大切なのは、そのプロセスだ。つまりその人が、いか
に「今」という人生の中で、自分を光り輝かせて生きているかということ、それが大切なのだ。子
どもについて言えば、その子どもが「今」という時を、いかに生き生きと生きているかというこ
と。結果はあとからついてくるもの。たとえ結果が不満足なものであったとしても、それまでして
きたことが、否定されるものではない。

このケースで考えるなら、A大学であろうがC大学であろうが、そんなことで子どもの評価は決
まらない。仮にC大学であっても、彼がそれまでの人生を無駄にしたことにはならない。むしろ
勉強しかしない、勉強しかできない、勉強だけの生活をしてきた子どものほうが、よっぽど人生
を無駄にしている。たとえそれでA大学に進学できた、としてもだ。

 人生の評価は、「今」という時の中で、いかに光り輝いて、自分の人生を充実させるかによっ
て決まる。繰り返すが、結果(東洋的な思想でいう、人生の結論)は、あくまでも結果。あとから
ついてくるもの。そんなものは、気にしてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++

同じような立場で、もう一つ書いたのが、つぎのエッセー
である。これも中日新聞に掲載してもらったものである。

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●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。い
つまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会
へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしま
う。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて
疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論の
ある人もいるかもしれない。

しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であっ
て、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一
杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同
じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども
時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常
会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その
違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……
と、私は心配する。

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●KJさんへ 

 このKJさんのメールに話をもどす。一つ気になるのは、KJさん自身の視点の中に、子ども
がいないこと。親意識が強すぎるというか、子どもの友として、子どもの横をいっしょに歩くとい
う姿勢が、あまり感じられない(失礼!)。KJさん自身も、「その間、親として、本人の心の叫び
を受止められたかと言うとノーである」と書いている。

 この時点で忘れてはいけないことは、すでに子どもは、「学校」という大きなワクにしばられて
いるということ。その上、その学校の外で、ギューギューとしぼられたらたまらない。これはたと
えて言うなら、会社員が仕事の外で、また別の仕事をもつようなもの。私が先に書いた、「たか
がサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか」という意味は、ここにある。将来、Jリー
グへと思うなら話は別だが、そうでなければ、クラブはクラブとして、楽しめばよい。才能のある
子どもは、そういう状態でも伸びるし、ない子どもは、いくらしぼっても、伸びない。こんな話もあ
る。

 数か月前に、あるテレビ局が、アメリカのあるリトルリーグ(少年野球クラブ)を取材していた。
そのリトルリーグは、どこで試合しても、負けるだけ。勝ったためしがない。しかし監督も、コー
チも、選手も、そして親も、いっこうに気にしていない。それもそのはず。そのクラブのメンバー
は、身体のどこかに障害をもった子どもたちばかりである。しかも監督は、障害がひどくて、自
信をなくし始めたような子どもほど、選手として前に出す。そしてその子どもが、たまにヒットらし
きものを打つと、みんなが小躍りして喜ぶ。相手のチームの監督も、コーチも、そして選手たち
も、小躍りして、いっしょに喜ぶ。どうして日本よ、どうして日本人よ、こうしたやさしさをもてな
い! どうしてもたないのか! バカヤロー!

 結局、その違いがどこからくるかと言えば、まさに生きザマの違いということになる。結果を重
要視する日本人。プロセスや中身を大切にする欧米人。この違いは大きい。そしてそれが、長
野県の松本市という小さな町にまで、影響している。U男君のプレーを見た、ほかの父母につ
いて、KJさんは、つぎのように書いている。

「心無い父母の声、『何?なんであんなにバタバタ倒れるの。しばらく練習してないから? も
う、疲れちゃってるみたいね! なんであんなとこパス出してるの? なんだ、一応彼がいたん
だ。(身長が低く遠くからは見えにくい)』と。さらに『あの陰の監督に黙って彼をだしちゃってい
いの? 知らないよー』と。(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんとい
われていたらしい。)」と。

 U男君のプレーをみながら、ほかの親たちは、笑うどころか、「陰の監督に内緒で出していい
の?」と言ったというのだ。監督だけではない。それを見守る親たちも。「勝つこと」イコール、結
果しか考えていない。が、最後にKJさんは、こう結んでいる。

 「心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。今は、U男の心の声にじっ
と耳をすまし、寄り添えればと思っている。今日、『ただいまー』と帰り、『陸上、かなり疲れた
ヨ!』と言うU男に、『大変だったね!ゆっくり休むといいよ!』と自然に答える事が出来た」と。

 おめでとう! KJさん。あなたはすばらしいお母さんになりましたね。おめでとう!
(02−11−8)

●教育のレベルは、いかに弱者にやさしい教育かで決まる。またそういう視点をふみはずし
て、教育のレベルを語ることはできない。

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【日本人の結果主義】

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日本人は、どうして結果ばかり追い求めるのか。
ビジネスの世界では、それはそれでしかたのないことかも
しれないが、こと子育ての場では、大切なのは
結果ではなく、そこに至るプロセス。

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●結果主義

 あの世があるという前提で生きると、死に際は、まさにあの世への入り口ということになる。チ
ベット密教で、死に際の様子を重視するのは、こういうところに理由がある。そのため、チベット
密教の流れをくむ日本の仏教では、たとえばキリスト教を批判するとき、決まってもちだすの
が、キリストの十字架への張りつけである。「キリストは、最期はあのような、無惨な死に方をし
た。それがキリスト教はまちがっているという証拠だ」と。私も学生のころ、地元の寺の僧侶
に、そう聞かされたことがある。

 どちらが正しいかということを、ここで論じても意味がない。また私には、それを判断する力は
ない。しかしこうした大乗仏教的な思想、つまり結果主義は、私たちの生活のあらゆる部分に
影響を与えている。もちろん教育にも、そして子育てにも、である。

●ある母親の例

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「すべてがムダでした」と。
「いろいろな教室に通わせました。家庭教師もつけました。高額な教材も買いました。しかしム
ダでした」と。親がこうした心境になる背景には、ここに書いたような、結果主義がある。ほかに
も、例がある。その一つが、「産んでもらいました」「育ててもらいました」という、日本人独特
の、「もらいました」論である。少し飛躍した感じがしないでもないが、こういうことだ。

 「今、私がいるのは、親に産んでもらい、育ててもらったからだ」と言う人がいる。日本人には
たいへんなじみのある言い方で、大半の人は、「そのとおり」と思っている。しかしこの考え方
は、あくまでも結果論にもとづいた考え方でしかない。実のところ、私も子どものときから、いつ
も父や母に、そう言われて育った。「お前を、産んでやった」「育ててやった」と。耳にタコができ
るほど、そう聞かされた。で、ある日、こう反発した。私が中学生くらいのときではなかったかと
思う。「いつ産んでくれと、頼んだ!」と。それを言うと、母は激怒して、「親に向かって、何てこと
言う!」と、私に大声で叫んだ。

 そこで親は、子どもを育てる過程でも、「教室へかよわせてやった」「家庭教師をつけてやっ
た」「高額な教材を買ってやった」と考える。実際、私なども、ことあるごとに、親に「お前には、
学費で、○百万円もかけたからな」と言われた。この段階で、子どもも、「教室へ通わさせても
らいました」「家庭教師とつけてもらいました」「高額な教材を買ってもらいました」と思えば、た
がいの関係は、うまくいく。しかし今の子どもたちはそうは、思わない。その思わないところか
ら、断絶が始まる。話が脱線したが、親子の断絶にも、この結果主義が関係している。

 もともと子どもをもうけるかもうけないかを決めるのは、親の意思ではないのか。しかも子ども
をつくるといっても、私たちが直接組み立てるわけではない。男の立場でいうなら、セックスをし
て、射精すれば、それでこと足りる。少なくとも、私はそれ以上のことはしなかった。女の立場で
も、妊娠中はたしかに苦しいが、しかしそれとて生まれてくる子どもに頼まれたからそうしてい
るのではなく、むしろ生まれてくる子どもが楽しみだから、そうしている。子どもは、まさに夫婦
の愛の結晶ということになる。

 それがあるときから、一転して、親は、子どもに向かって、「産んでやった」という。この親の変
化は、いつどのようにして生まれるのか。いや、もしその女性が、いやいや、それこそあと継ぎ
か何かのために、不本意ながら子どもをもうけたというのであれば、こうした考え方もあるかも
しれない。しかしそうでなければ、つまり望んで、自分の意思で子どもをもうければ、もともとこう
いう発想は生まれない。子どもが生まれてきたことについて、「ありがとう」と言うことはあって
も、「産んでやった」とは、決して思わない。

●親がいるから子どもがいる

 そこでさらに考えを推し進めていくと、この問題は、「親がいるから子どもがいる」という考え方
と、「生まれてみたら、親がいた」という考え方の、どちらかに集約されるのがわかる。親の立
場から、一方的に子どもを、「自分のモノ」と見る考え方と、子どもの側から見て、子どもの世界
を中心に、親を認識するという考え方といってもよい。日本では伝統的に、前者の考え方をす
る。で、こうした考え方も、つまるところ、結果主義的な見方ということもできる。さらに念をおす
と、こういうことになる。

 親がいるから、子どもがいる。だから子どもにとって、親は絶対。そういう意味で子どもは、服
従的であればあるほど、できのよい子どもということになる。日本独得の親孝行論も、こういう
流れの中で生まれた。美化された。つまりこの時点で、「子どもがいる」のは、「親のおかげ」、
つまり「親がいる結果、子どもがいる」と考える。そして自分自身も、先祖がいるから、その結
果、自分もいると考える。このタイプの人が、好んで、「先祖、先祖」と言うのは、そのためであ
る。

 こうして日本人の結果主義は、ありとあらゆる部分に入り込んでいる。そしてそれが日本の
社会をつくるバックボーン(背骨)になっている。で、あなたはどうか。簡単なテストをしてみよ
う。

(A派)
●子どもは親に服従的であるべき。親に向かって、「バカ!」などと言うことは許さない。
●先祖があっての私。その私あっての子ども。先祖を敬うのは、家庭生活の基本。
●親孝行は家庭教育の要。親は、デンとした威厳があることこそ、大切。

(B派)
○子どもといっても、未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけば、対等の人間。
○子どもは子どもで、自分の納得する人生を、自分なりに思う存分、羽ばたけばよい。
○親子でも尊敬しあう関係こそ、理想的。たがいに大切にするという姿勢があればよい。

 さてあなたはA派に近いだろうか、それともB派に近いだろうか。それを少しだけ、自問してみ
てほしい。
(02−11−8)

(注意)私のマガジンを読む人で、A派の人はほとんどいないと思う。マガジンというのはそうい
うもので、フィーリングが合わなければ容赦なく、解約される。だからこのマガジンを読む人は、
私のフィーリング、つまりB派だと思う。しかしこの問題は、生きザマの根幹にかかわる問題だ
から、頭からA派ならA派を否定すると、それこそたいへんなことになる。たとえば先祖を大切
にしている人に向かって、その先祖を否定すると、それはそのままその人自身を否定すること
になる。じゅうぶん注意してほしい。

 私のばあい、周囲にA派の人はいくらでもいるが、そういう人だとわかった段階で、その人に
合わせるようにしている。この問題は、ここにも書いたように、生きザマの根幹にかかわる問題
だから、多少争ったところで、それでどうにかなる問題ではない。相手を説得できるということも
ない。大切なことは、相手の考え方を認め、そして相手の立場で、ものを考えてやること。A派
の人もB派の人も、仲よく共存すること。それが大切である。






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●子どもの学習時間(記録用)

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小5児で、平日の学習時間は、
平均で、81・5分だそうだ。

このほど、そんな調査結果が、
ベネッセ教育研究開発センター
から公表された。

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 ベネッセ教育開発センター(進研ゼミ)が、このほど、子どもの学習時間についての調査を公
表した。以下、その結果だそうだ。


小5    90年……87・2
      96年……77・9
      01年……71・5
      06年……81・5


中2    90年……
      96年……
      01年……80・3
      06年……87・0


高2    90年……93・7
      96年……
      01年……70・6
      06年……70・5分

(調査は、今年6〜7月、都市別規模に抽出した公立小中高(普通科)、計71校、約9000人
を対象に実施されたものだという。5年ごとに、ほぼ同じ学校を選んで調査とのこと。)

 ほかに、小5児について、「2時間以上」と答えた子どもは、21%(01年)から、26%(06年)
に増加。中2児についても、33%(01年)から、38%(06年)に増加したという。

 高校生について言うなら、「約30分、ほとんどしない」は、90年には、26%だったが、06年
には、40%になったという。

 以上の結果から、つぎのようなことが言える。

(1)(塾での学習時間も含めて)、小学生、中学生の学習時間は、減少傾向から転じて、増加
傾向に向かっているということ。

(2)2時間以上勉強している子ども(小5)が、38%(06年)もいるということ。これらの子ども
が平均値を押しあげていることを考えるなら、(勉強をする子ども)と、(しない子ども)の2極化
が進んでいるということになる。

(4)高校生の学習時間が、減っているということ。「約30分、ほとんどしない」という子どもが、
40%もいるという。


 昔から『不景気になればなるほど、子どもは勉強する』という。そう言っているのは、この私だ
が、不景気になればなるほど、外で遊ぶ時間が減る。家庭の中に、ある種の緊迫感が生まれ
る。社会の不公平感が増大する。その結果、親は自分の子どもに向かって、「勉強しなさい」と
言う。だから子どもは、より勉強するようになる。

 満ち足りた生活の中では、向学心そのものも薄れる。つまり子どもの学習時間がふえたとい
うことは、それだけ、世の中、不景気(?)ということ。あるいは社会の不公平感が増大している
のかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの学習時間 子供の勉強時間 家での勉強 家での学習 学習時間調査)






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●児童虐待

●児童虐待

++++++++++++++

児童虐待の本当の問題は、
虐待そのものよりも、
子どもの心をどうケアするかに
ある。

++++++++++++++

産経新聞は、つぎのように伝える※。

「児童虐待の恐れがあるとして、全国の児童相談所が家庭への立ち入り調査が必要と判断し
た事例が、平成17年度中に207件あり、うち20件は保護者の拒否・抵抗などで執行を一時
断念していたことが12日、厚生労働省のまとめで分かった。とくにネグレクト(育児放棄や怠
慢)が疑われたケースは、身体への危害が見えにくく、立ち入りに踏み切れなくなる実態も浮
かび、厚労省は『現行法の限界』としている」と。

 この記事を読んで、5年前に私が書いた原稿(中日新聞掲載済み)を思い出した。うち2作
を、ここに添付する。

+++++++++++++++++

●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。1人の子ども(小5男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚園
の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その
子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。

 カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主
義、(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の
支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。その結果子ども
は、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫されているかのよう
に、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状を示し、さまざ
まな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親
が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の4つをあげてい
る。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの
ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習
中、1人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小2)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、
近所を走り回っていた女の子(小3)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振
るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ
ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが虐待されている
のを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。

「警察……」という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよ
いでしょう。そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

親が子育てができなくなるとき 

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母
親すらいた。

また2歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭を
経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」のない人
とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押
しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが98年の夏、一度妊娠したことがある。

が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで
きるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな
い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る
のもいるという。いわんや、人間をや。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分
でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、
猛烈な抗議が殺到する。先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような
記事を書いただけでその翌日、10本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長す
る」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」な
ど。「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。

私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚
として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響
を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事
実は事実として、冷静に見なければならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類
の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。

ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくっ
た。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつ
くった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。そういう体験があってはじめ
て、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てができるようになる。

と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、なかなか
できない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考えてほしい。

(付記)
●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(2001年春)。

これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを
見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説
明されている(報道)。しかしどうもそうではないようだ。

アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によって、
まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育というワクを超えて、子育ての情報
をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てができる本当の理由ではないのか。

(参考)
●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の5人に1人は、「子
育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答500
人・2000年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」
「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待な
し」が、61%であった。この結果からみると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行
為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、1998年までの8
年間だけでも、約6倍強にふえていることがわかった。(2000年度には、1万7725件、前年
度の1・5倍。この10年間で16倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた6932件のうち、身体的暴行が3673件(53%)でもっ
とも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、2109件(30・4%)、差別的、攻撃的言動によ
る心理的虐待が650件など。

虐待を与える親は、実父が1910件、実母が3821件で、全体の82・7%。また虐待を受けた
のは小学生がもっとも多く、2537件。3歳から就学前までが、1867件、3歳未満が1235件
で、全体の81・3%となっている。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●ああ、悲しき子どもの心

+++++++++++++

虐待されても、さらに虐待
されても、子どもは、親の
そばがいいという。

それを私は、「悲しき子どもの
心」と呼んでいる。

+++++++++++++

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。
中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どももいる。しかし
そういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員
は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順で
静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまっている。
何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言わな
い。何もできない。

その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありながら、「お
母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけている。

先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くところによる
と、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべて、J氏の仕
事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくともこの20年間
は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なも
ので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だっ
た」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自
分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、
まさに悲劇としか言いようがない。

J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それにつ
いては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものように、「お
母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」と
いう関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本
的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばる
のは、まちがっている。

親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけ
ではない。子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子ど
もは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子ど
もの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。いや、ケダ
モノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わ
ってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虐待
 児童虐待 子どもの虐待 子供の虐待 児童相談所 悲しき子どもの心 悲しき子供の心)

注※【参考資料】(産経新聞より・2006年12月12日) 

児童虐待の恐れがあるとして、全国の児童相談所が家庭への立ち入り調査が必要と判断した
事例が、平成17年度中に207件あり、うち20件は保護者の拒否・抵抗などで執行を一時断
念していたことが12月12日、厚生労働省のまとめで分かった。とくにネグレクト(育児放棄や
怠慢)が疑われたケースは、身体への危害が見えにくく、立ち入りに踏み切れなくなる実態も
浮かび、厚労省は「現行法の限界」としている。

 厚労省によると、17年度、児童虐待防止法に基づき、児童相談所の職員が立ち入り調査に
臨んだ207件中、実際に執行できたのは187件だった。うち121件は、不測の事態に備えて
警察官が同行するなど、警察の援助を受けて実施した。実施により137件で、虐待を受けて
いた児童の一時保護を行った。

 一方、立ち入り調査を一時断念した20件の内訳は、「保護者の拒否・抵抗」が8件、「保護者
の不在」が7件、「子供の不在」3件、「家族で転出・行方不明」が2件。

 保護者の拒否・抵抗があった8件のうち5件は、警察官の援助を受けたものの、児童の安全
確認や一時保護ができずに引き揚げていた。その多くは家庭内にいる児童の生命、身体に危
害が切迫している状況を現場で判断できず、警察官職務執行法で許される立ち入りなどがで
きなかったという。

 ただ、不明の2件を除く18件は、後日の調査で児童の一時保護や安全確認ができ、虐待死
に至った事例はないという。







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●アスペルガー障害

●N先生へ

++++++++++++++++

N先生から手紙が来た。
アスペルガー児を指導していた支援員の
人が、サジを投げてしまったという、
そんな内容の手紙だった。

++++++++++++++++

N先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。お元気で、ご活躍の様子、喜んでいます。私にとっても、は
げみになります。

 アスペルガー児の件ですが、あまりお役にたてず、すみませんでした。おっしゃるとおり、この
問題は、子ども自身がかかえる問題もさることながら、親の問題でもあります。私も、同じよう
な経験をしています。

 やっと不登校から抜け出し、学校へ通うようになると、親は、それを基準にして、さらに私たち
に、過大な相談をしてきます。「何とか給食時間まで」が、今度は、「何とか終わりの時間まで」
となるわけです。それがさらに高じると、「遅れた分を取り戻すためには、どうしたらいいか」と
なるわけです。やっと学校へ行くようになった子どもに、家庭教師をつけたりするわけです。

 少し前も実際、こんな相談もありました。子どもがなんとか、2、3時間、学校へ行くようになっ
たときのことです。行くといっても、理科室登校で、理科室にこもったままです。が、その母親
は、「何とか、午後まで、学校でがんばらせたい。どうしたらいいか」と。

 そこで私は、こう言ってやりました。「そうではなく、子どもに言うべきことは、よくがんばった
ね、です」「2、3時間で、じゅうぶん。まず子どもをほめ、子どもといっしょにそれを喜ぶことで
す」と。

 が、無理をする。この無理が、それまでの努力を水の泡にします。で、結局は、元の木阿弥。
あとはこの悪循環。症状はますますこじれ、やがて、にっちもさっちも行かなくなってしまう…
…。

 親の気持ちも理解できないわけではないのですが、この問題は、半年とか1年単位とか、も
っと長い時間的経緯をみながら、考えなくてはいけません。数週間とか、数か月とかで、どうこ
うなるという問題ではないのですね。

 アスペルガーの症状があるなら、なおさらです。

 で、支援員の方が、サジを投げてしまった、とか。私も、最近、キレる子どもを経験しました。
もう何十例も見てきたとはいえ、キレる子どもには、対処法はありません。ふつうの激怒とは、
様子がまるでちがいます。

 衝動的に錯乱状態になり、見境なく、暴力を振るいます。脳の抑制命令が、途絶えてしまった
ような状態になります。相手が小学1、2年生なら、抱き込んで抑えるということもできますが、
小学4、5年生も過ぎると、そうはいきません。

 一度は、あまりの激痛に、その場で、息もできず、うずくまってしまったこともあります。相手
は、小学5年生の女児でした。その女児に、足蹴りをされたのですが、あとで話を聞いたら、そ
の子どもは、空手道場に通っていたそうです。

 このタイプの子どもは、顔が能面のように無表情になり、目が別人のように鋭くなるのが特徴
です。顔が青ざめるのも、ふつうの激怒とちがう点です。

 大切なことは、子どもの心をそこまで追いつめてはいけないということですが、それが親には
わからない。慢性的なストレスが、ジワジワと子どもの心をゆがめます。もちろん子ども自身の
耐性の問題もあります。同じようなストレスを受けても、みながみな、キレる子どもになるという
わけではありません。

 サジを投げてしまった支援員の方の気持ちもよく理解できます。バシッと殴られたとたん、そ
れまでに積み重ねてきた思い出が、そのままどこかへ吹き飛んでしまいます。もちろんその子
どもへの愛情も、それで消えてしまいます。が、それだけではありません。そういうときというの
は、指導する側も、敗北感というか、挫折感を覚えるものです。「何とかしなければ」という気持
ちが、そのまま「何とかできたはず」という自責の念に変わります。

 それから抜け出すのも容易なことではありません。親は親で、そういう私を責めたりします。
「指導が悪いから」とか、「なぜ、もっと早く指摘してくれなかったのか」とかなど。しかしこれは、
先にも書いたように、子どもの問題ではなく、親自身の問題なのですね。親に言えば、親は、そ
の場で子どもを一方的に叱ったり、説教したりする。それがかえって症状をこじらせてしまいま
す。

 一度は、「もう、勉強はあきらめなさい」とアドバイスしたことがあります。しかしその親は、こう
言って、激怒しました。「他人の子どものことだと思って、よくも言いたいことを言うものだ!」
「あきらめろとは何だ!」と。

 しかし本音を言えば、そのとおりです。あきらめたほうがよいというより、その程度ですめばま
だよいほうだということです。が、親には、それがわからない。やがて行き着くところまで行くし
かないのです。

 これは、子育てがもつ、宿命のようなものです。だから言うべきことは言い、すべきことはす
る。しかしそこから先は、親に任すしかありません。こういうのを、ニヒリズムといいます。つまり
は、「限界」ということです。それ以上は、どうしようもありません。

 話は変わりますが、つまりこの「限界」という言葉で思い出したのですが、最近、私は、自分
の限界を強く感ずるようになりました。いろいろやってはみたものの、結局はこの程度でしかな
かったのかという限界です。

 で、また同じことをするのですが、それがつらくてなりません。仕事は仕事として、つまりは収
入のためにつづけるしかありません。しかしそれ以外の部分で、虚しさを強く感ずることが多く
なりました。

 「こんなことをしていて、何になるのだろうか」とか、「また同じことの繰り返しではないか」とで
す。よい例が、講演活動です。そのときはそのときで、それなりにみなさんは喜んでくれます
が、それはあくまでも一時的なもの。それがあとにつづいていくということはありません。もちろ
ん何かの利益につながるということもありません。1、2か月もすれば、私のことなど、すっかり
忘れてしまいます。

 ところで私も50歳をはさんで、数年間、毎日、電話相談を受けていたことがあります。毎週、
市内で、子育て相談を受けていたこともあります。しかしそのときも、同じように感じました。「こ
んなことをつづけていて、何になるのだろう」とです。親の欲望というか、希望には、際限があり
ません。少しよくなれば、「さらに……」「もっと……」と言って、相談してきます。

 で、あるとき、こう思いました。「この親は、最終的には、自分の子どもが東大の医学部にでも
入らなければ、満足しないだろうな」とです。

 それが自分でも、よくわかるようになりました。つまり、「限界」が、です。

 さらに最近では、「どうやって、この先、自分の生きがいをみつけたらいいのか」とか、「生き
がいに自分を、どうやってつなげたらいいのか」とも、考えるようになりました。そのため、落ち
込むことが多くなりました。

 教育といいながら、その底流では、親たちのドス黒い人間の欲望がウズを巻いています。教
育イコール受験、なのですね。いくら高尚な教育論を説いても、それは丘の上で、空に向かっ
てものをしゃべるようなもの。そのまま声が、どこかへ消えてしまいます。

 だから正直なところ、私はもう、教育論を親たちに説くのに、疲れました。どうでもよいといっ
た感じです。「なるようになれ」と言うのは、言い過ぎかもしれませんが、ときどき、そんな気持ち
になるのも事実です。

 自分自身が、自分に、「なるようになれ」と思っているのに、どうして他人に向かって、「そうで
あってはいけない」と話すことができるでしょうか。

 私のほうは、先生とちがって、これからしばらくは、仕事のほうは休止状態に入ります。活動
的な先生に、負けないようにがんばります。たとえばこのところ、毎週のように、ヒマがあれば、
ワイフと旅行しています。来週は、福井県のN町まで、ズワイガニを食べに行ってきます。「何
でもできることは先取りしてしよう」が、2人の合言葉になっています。

 時間が貴重です。くだらないことで時間を無駄にしたりすると、「しまった!」と思うことがしば
しばあります。だから文章だけは、毎日書いています。私にとっては、生きることとは、考えるこ
と。考えることとは、書くことです。

 ……とまあ、かっこうのいいことを書いていますが、本当のところ、自分を支えるだけで精一
杯です。今のところ、必死で自分を支えていますが、こうした気力も、いつまでつづくか、わかり
ません。

 教育のことを書いているつもりなのに、いつの間にか自分のことになってしまいました。話が
混乱してきましたので、今日はここまでにしておきます。また近く、お会いできることを楽しみに
しています。

 奥様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。ワイフが、また奥さんに会いたいと言っていま
す。いっしょに食事でも、しましょう。今度は、ぜひ、我が家のほうへおいでください。


敬具

はやし浩司





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【子育て・新格言】(改)

++++++++++++++++++

私の子育て論は、格言集から始まった。
今から、もう20年以上も前のことである。

以来、格言集は、何度も、書き改めた。

++++++++++++++++++

●子どもは芸術品

 母親にとって、子どもは芸術品。とくに乳幼児期から幼児期にかけての子どもは、そう思うべ
し。こんな投書が載っていた。

 郵便局で並んで待っていたときのこと。前に立っていた母親が、子どもをおんぶしていた。子
どもは母親の背中で、アイスを食べていた。そのアイスで、その人の服を汚してしまった。そこ
でその人が、「アイスで服が汚れましたが……」と母親に注意すると、その母親はこう言ったと
いう。「子どものすることだから、しかたないでしょ!」と。投書したその人は、「何ともやりきれな
い気持ちになった」と書いていた。

 私にも似たような経験がある。

 新幹線の中で走り回っている子どもたちがいたので、注意すると、いっしょにいた母親はわざ
と私に聞こえるような大声で、こう言った。「うるさい、おじさんねエ」と。以後、私はともかくも、
一時間近く、ピリピリとした雰囲気のままだった。

さらにレストランで、箸を口に入れたまま、走っている子どもがいたので、「あぶないよ」と声を
かけたことがある。どこかの子どもが、綿菓子の棒が喉に刺さって死ぬという事件が起きる、
少し前のことだった。が、その子どもの母親は、私にこう言った。「あんたの子じゃないんだか
ら、いらんこと言わないでくれ」と。すごみのある声だった。

 こうした母親は、自分の子どもが注意されると、自分の作品をけなされたかのように感ずるら
しい。芸術家が、自分の作品をけなされたような気持ち? つまり親と子の間に、カベがない。
子どもとの間に距離をおいて、子どもを客観的に見ることができない。私自身は母親になった
ことがないので、そういう心理はよくわからないが、そういうことらしい。

 こうした心理がよいとか悪いとか判断する前に、母親にはそういう心理があるという前提でつ
きあうこと。だから、母親の前で、子どもを注意したり、批判したりするときは、じゅうぶん注意
する。そのときはそうでなくても、『江戸の敵(カタキ)を、長崎で討つ』ということも、この世界で
はよくある。クワバラ、クワバラ。


●美徳の陰に欠点あり

 『美徳の陰に欠点あり』。これはイギリスの格言。美徳とまでは言わなくても、こうした例は、
子どもの世界ではよくある。たとえば「字のきれいな子どもは、書くのが遅い」など。こんなこと
があった。

 E君(小3)という子どもがいた。習字の教室で書くようなきれいな字で、いつも書いていた。そ
れはそれでよいことかもしれないが、その速度が遅い。みなが書き終わって、一服しているよう
なときでも、まだ半分も書いていない。ノロノロといったふうではないが、遅い。そこで何度もは
やく書くように言うのだが、それでも、それが精一杯。

 が、とうとう私のほうが、先に限界にきてしまった。そこでこう言った。「ていねいに書かねばな
らないときもある。そうでないときもある。ケースバイケースで、考えて書きなさい」と。とたん、E
君ははやく書くようになった。が、その字を見て、私は驚いた。まったく別人の字というか、かろ
うじて読めるという程度の悪筆だった。しかしそれがE君の「地」だった。

 ほかにも「よくしゃべる子どもは、内容が浅い」など。ペラペラとよくしゃべる子どもは、一見、
利発に見えるが、その実、しゃべっている内容が浅い。脳に飛来する情報を、そのつど加工し
て適当にしゃべっているだけといったふうになる。子どもの世界には、『軽いひとりごとは、抑え
ろ』という格言もある。子どもがペラペラと意味のないことを言いつづけたら、「口を閉じなさい」
といって、それをたしなめる。

 言葉というのは、それを積み重ねると、論理にもなるが、反対に軽い言葉は、その子ども
(人)の思考を停止させる。まさに両刃の剣。たとえば、「ほら、花」「きれい」「あそこにも花」「こ
こにも花」「これもきれい」式の言葉は、その言葉の範囲に、子ども(人)の思考を限定してしま
う。人間の思考は、もっと複雑で深い。それにはやい。が、こうした軽い言葉を口にすることで、
その言葉にとらわれ、それ以上、子ども(人)はものを考えなくなってしまう。

 その状態が進むと、いわゆる多弁性が出てくる。「多弁児」という言葉は、私が考えたが、こ
のタイプの子どもは多い。概して女の子(女性)に多い。

 これについて、こんな興味ある研究結果が報告されている。ついでにここに書いておく。

 言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)は左脳にあるが、女性のばあい、機能的MRIを使って
脳を調べると、右脳、つまり右半球のだいたい同じような場所(対照的な位置)にも、同じような
反応が現れるという。

また言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)の神経細胞の密度も、女性のほうが高いということ
もわかっている。このことから、男性よりも女性のほうが、言葉を理解するのに、有利な立場に
あるとされる。つまり女性のほうが、相手の言葉をよく理解できると同時に、おしゃべりというこ
と(「脳のしくみ」新井康允氏)。ナルホド!

 
●『人、その子の悪、知ることなし』

出典はわからないが、昔から、『人、その子の悪、知ることなし』という。つまり、親バカは、人の
常、世の常ということ。(私も、そうだが……。)

私の印象に残っている事件に、こんなのがあった。それを話す前に、子どもの虚言(いわゆる
ウソ)と、空想的虚言(妄想)は分けて考える。空想的虚言というのは。言うなれば病的なウソ
で、子ども自身がウソをつきながら、自分でウソをついているという自覚がない。Tさん(小3)と
いう女の子がそうだった。

 もっともそういう症状があるからといって、すぐ親に報告するということはしない。へたな言い
方をすると、それこそ大騒動になってしまう。また教育の世界では、「診断」はタブー。何か具体
的に問題が起き、親のほうから相談があったとき、それとなく話すという方法をとる。

 が、そのTさんが、こんな事件を起こした。ある日、私のところへやってきて、「バスの中で、教
材用の費用(本代)を落とした」と言うのだ。そこでそのときの様子を聞くと、ことこまかに説明し
始めた。「バスが急にとまった。それで体が前にフラついた。そのときカバンが半分、さかさま
になって、それで落とした」と。落とした様子を覚えているというのも、おかしい。そこで「どうして
拾わなかったの」と聞くと、「混んでいた」「前に大きなおばさんがいて、取れなかった」と。

 しかしその費用が入った袋の中にあった、アンケート用紙は、カバンの中に残っていたとい
う。これもおかしな話だ。中身のお金と封筒だけを落として、その封筒の中のアンケート用紙だ
け残った? それ以前からTさんには、理解しがたいウソが多かったので、私は思いきって事
情を、父親に電話で説明することにした。が、父親は私の話を半分も聞かないうちに、怒りだし
てしまい、こう怒鳴った。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。父親は、警察署で、刑事をして
いた。

 そこで私は謝罪するため、翌日の午後、Tさんの家に向かった。Tさんの祖母が玄関で私に
応対した。私は疑って、失礼なことを言ったことをわびた。が、そのときこのこと。私は玄関の
右奥の壁のところに、Tさんが立っているのに気づいた。私たちの会話をずっと聞いていたの
だ。私はTさんの顔を見て、ぞっとした。Tさんが、視線をそらしたまま、ニンマリと、笑ってい
た。

 そのあとしばらくして、Tさんの妹(小1)から、Tさんが、高価な人形を買って、隠しもっている
話を聞いた。値段を聞くと、そのときの費用と、一致した。が、私はそれ以上、何も言えなかっ
た。

 子どもを信ずることは、家庭教育の要(かなめ)だが、親バカになってはいけない。とくに子ど
もを指導する園や学校の先生と、子どもの話をするときは、わが子でも他人と思うこと。そうい
う姿勢が、先生の口を開く。先生にしても、一番話しにくい親というのは、子どものことになる
と、すぐカリカリと神経質になる親。つぎに「うちではふつうです」とか、「うちでは問題ありませ
ん」と反論してくる親。そういう親に出会うと、「どうぞ、ご勝手に」という心境になる。


●『火の中に、鉄を入れすぎるな』 

 『火の中に鉄を入れすぎるな』は、イギリスの教育格言。詰め込みすぎても、かえって逆効果
ということ。子どものやる気(火)は、消えてしまう。が、親にはそれがわからない。たいていの
親は、「うちの子はやればできるはず」と考える。また多少できるようになると、「もっと」とか言
い出す。

そういう親の心理が理解できないわけではないが、子どもはロボットではない。あなたと同じ人
間だ。そういう視点をふみはずすと、子どもの姿を見失う。

 やはり印象に残っている子どもに、S君(小2)がいる。S君は、能力的にはそれほど恵まれ
ていなかったが、たいへん生まじめな子どもで、学校の宿題でも何でも、言われたことをきちん
とやりこなす子どもだった。

 しかし実際のところ、このタイプの子どもほど、何か心の問題をもっていることが多い。たいて
いの親は、そういう状態をみると、「まじめないい子」と誤解するが、誤解は誤解。S君は毎日
学校から帰ってくると、1時間は書き取りの勉強をした。ときには、それが2時間にもなることが
あったという。しかし、動きざかりの子どもが、2時間も机の前にすわって、黙々と書き取りの練
習をすることのほうが、おかしい。そこで私は、何度も、「そういう勉強はやめたほうがよい」と
忠告した。

 しかし家族、とくに祖母はその言葉に耳を貸さなかった。まったく耳に入らないというよりは、
むしろ、そういう子ども(孫)を喜んでいた。「先生の指導のおかげで、ああいうう子どもになりま
した」と。「きのうは三時間も勉強してくれました」と言ったこともある。(3時間!)

 やがて小学3年になるころには、漢字練習だけではなく、算数のワークブックも、それなりの
量をこなすようになった。そうしたワークブックは、励ます意味もこめて、私が一応目を通すこと
にしている。が、そのワークブックを見て、私はさらに驚いた。たとえば計算問題なども、まちが
えたところには、別の紙がはりつけてあり、きちんとやり直してあったのだ。

 こうした家庭学習では、ほぼあっていれば、大きな丸をつけてあげるのがよい。いいかげんと
言えば、いいかげんだが、子どもはその「いいかげんな部分」で、息を抜く。羽をのばす。とくに
計算練習などは、10問やって、7〜8問できればよしとする。あとは大きな丸を描いて、ほめて
しあげる。が、その祖母にはそれがわからなかった……らしい。私がそういった丸をつけると、
そのつどやってきて、「こういういいかげんな丸をつけてもらっては困ります」と。

 こうなるとS君が、プツンするのは時間の問題だった。S君はやがて慢性的なものもらいにな
り、はげしいチック(筋肉の不規則なけいれん)が起こすようになった。眼科でみてもらうと、塾
が原因と言われた。そこで祖母は、それまで行っていた、おけいこ塾すべて(スイミング、英会
話、算数教室)を、やめた。

 こういうケースでは、一挙にすべてやめるのは、たいへんまずい。やめるとしても、少しずつ
やめるのがよい。あとあとの立ち直りができなくなってしまう。が、S君の祖母は、そういう私の
アドバイスも無視した。私としては、もうなすべきことは何もない。

 で、S君はその直後から、はげしい無気力症状ができてきた。学校から帰ってきても、ただぼ
んやりと空を見ているだけ。反応そのものまでなくなってしまった。好きだったゲームを与えて
も、上の空。もちろん漢字の学習も、計算練習もしなくなってしまった。

 S君はいわゆる、バーントアウト(燃え尽き)してしまったわけだが、そのS君がなぜ、こうまで
私の印象に残っているかといえば、それには理由がある。そういう症状が出てからしばらくした
あと、父親と母親が私のところに相談にやってきた。そしてこう言った。

 「先生、わかっていたら、どうして前もって、それを言ってくれなかったのですか!」と。私が
「こうなることは予想していました」と話したときのことだ。何ともやりきれない思いだけが、あと
に残った。「どうしてこの私が叱られなければならないのか」という思いだけが、強く残った。と、
同時に、S君のことは忘れられない子どもになった。

 S君がそういう子どもになったのは、要するに『火の中に鉄を入れすぎた』からにほかならな
い。しかし親は、「まだだいじょうぶ」「まだいける」と、どんどんと鉄を入れる。そして火が消えて
はじめて、それが失敗だと気づく。これも家庭教育のもつ、大きな落とし穴ということになる。


●子どもの会話

 ある日幼稚園の庭のすみに座っていると、横の子どもたち(年長児)が、こんな会話を始め
た。

A男「おまえ、赤ん坊はどこから生まれてくるか、知っているか?」
B男「知らないよ」
A男「だからお前は、バカだ。赤ん坊はな、ママのお尻の穴から生まれてくるんだぞ」
B男「ふうん」
A男「いいか、うんちがかたまって赤ん坊になるんだぞ」
B男「ふうん、じゃあさあ、どうして男からは赤ん坊が生まれないんだよ?」
A男「バカだなあ。男はなあ、うんちがかたまって、金玉になるんだぞ。金玉はうんちがかたまっ
たもんなんだぞ」と。

 また別の日。母親とこんな会話をした子ども(年長児)がいた。

C女「お母さん、お肉を食べると、どうなるの?」
母親「やっぱり、お肉になるんじゃ、ないかしら」
C女「野菜は、どう?」
母親「血になるのよ」
C女「でも、野菜は赤くないわ」
母親「でも、トマトは赤いでしょ」
C女「ふうん、わかった。サツマイモを食べると、そのままうんちになるのね」と。

 こんなことを話してくれた子ども(年長児)もいた。「どうしてうんちは茶色になるか、わかった」
というのだ。「どうして?」と私が聞くと、「絵の具をいろいろ混ぜると、茶色になる。うんちも、そ
れと同じだ」と。

 さらにこんなことも。ある男の子(小学3年生)が、トイレから戻ってきて、こう言った。「先生、
青と黄色を混ぜると、緑になるね」と。何のことかと思って、「どうして?」と聞くとこう言った。「ト
イレの水(消臭剤の入った青の水)と、黄色いおしっこがまざったら、緑になった!」と。

 子どもの考えることは、おもしろい。あなたも子どもたちの会話に、一度耳を傾けてみてはど
うだろうか。


●フリップ・フロップ理論

 箱がある。どちらか一方に倒れているときは、安定している。しかし中途ハンパな姿勢になる
と、フラフラとして、たいへん不安定になる。これを心理学の世界では、『フリップ・フロップ理
論』という。もともとは、有神論の人が無神論に、反対に無神論の人が有神論になるときの様
子を説明したもの。有神論の人であるにせよ、無神論の人であるにせよ、どちらか一方に倒れ
ているときは、そういう人は、たいへん静かに落ちついている。が、有神論の人が無神論にな
るとき、あるいはその反対のときは、心理状態がたいへん不安定になる。ワーワー泣き叫ん
で、それ抵抗したり、猛烈にどちらか一方を攻撃したりする。

 学歴信仰も、それに似たところがある。学歴信仰にこりかたまっている人や、反対に、まった
くそれがない人というのは、静かに落ちついている。しかしそれが移行期に入ると、たいへん不
安定になる。人間の心理というのは、そうい不安定状態には弱い。自らどちらか一方に倒れ
て、自分の心理を安定させようとする。言いかえると、不安定になったときというのは、どちらか
一方に倒れるその前兆と考えるとよい。しかもそれが短期間で、コロリと倒れる。そのため私
は、このフリップ・フロップ理論を、勝手に「コロリ理論」と呼んでいる。

 この理論は、子育ての場でも、広く応用できる。もしあなたの子どもが何かのことで、大声で
それに抵抗したり、あるいは反対にぐずぐずしているようであれば、どちらか一方に倒れる前
兆と考えてよい。そういう子どもほど、コロリと倒れると、突然、ものわかりがよくなる。

昔から「今鳴いたカラスが、もう笑った」というが、そういう現象が起きる。が、反対に、よい意味
につけ、悪い意味につけ、どっしりと静かに落ちついている子どもは、それだけ自分をもってい
ることになる。何かを説得しようとしても、なかなかうまくいかない。とくにがんこで、自分のカラ
にこもってしまったような子どもは、指導がむずかしい。


●子どもの心理

 子どもの心理を考えるとき、現象面だけを見て判断すると、その心理がつかめなくなる。よく
ある例が、引きこもり。

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安という。そういう心理状態のところに、不安や心配
が入り込むと、それを解消しようと、心理状態は一挙に不安定になる。そのひとつが、引きこも
り。

 自分の子どもが部屋に引きこもったりすると、よく親は、「気のせいだ」とか、「心はもちよう
だ」とか言って、それを安易に考える。しかし引きこもりは、あくまでも現象。無理をして、その
状態から子どもを外に出しても、元となる、情緒不安はなおらない。もう少し具体的に考えてみ
よう。

 私も精神状態が不安定になると、人に会うのがおっくうになる。人ごみへ入るのが、いやにな
る。そういうときの自分の心理を観察してみると、こうだ。

 まず人の言動が気になる。しかもささいなことが気になる。タバコを平気で道路へ捨てる人。
道路にツバを吐く人。大声であたりかまわず話す人。体臭のある人。平気で道路に駐車する
人。工事の騒音など。ふだんなら気にならないようなことが、そういうときは、やたらと気にな
る。そしてそういうことがいくつか重なると、頭の中はパニック状態になる。

 この段階で、まず自分の中のセルフコントロール機能が働きだす。どうすれば、そのパニック
を収めることができるか、それを考える。私のばあいは、外出を避けるとか、何かの気分転換
をするとかいう方法で対処する。カルシウム剤(Ca、Mg、K)が有効なことも多い。こういうこと
ができるのは、それだけ経験もあるということだが、子どもはそれができない。症状は、一挙に
悪化する。

 ある子ども(高3)はこう言った。「外に出ると、人に会うのがこわい」と。ここでいう「こわい」と
いうのは、それだけ心の緊張感が取れないことをいう。相手の言動のすべてが、自分の心を
突き刺すように感ずるらしい。だから引きこもる。心理学の世界では、これを防衛機制という。
自分を守るための心理反応と考えるとわかりやすい。

 要するにこうした現象は、風邪にたとえて言うなら、「熱」のようなもの。その熱をさまそうとし
て、子どもを水風呂につける人はいない。同じように、引きこもりだけを見て、子どもを外の世
界に引きずり出しても意味はない。あるいはそんなことをすれば、かえって逆効果。中には、そ
ういう乱暴な方法で、子どもをなおす(?)人もいるそうだが、私に言わせれば、とんでもない方
法ということになる。

昔、Tヨットスクールというのがあったが、あれもそうだ。生徒の死亡事件がつづいて、当時の
寮長は刑事訴追まで受けたというが、当然のことだ。が、この種の乱暴な治療法(?)は、今で
もあとをたたない。最近でも、子どもや親を、大声で罵倒(ばとう)しながらなおす(?)人もい
る。素人(失礼!)にはわかりやすい方法なので、そのときどきの親には受けるが、こうした方
法には、じゅうぶん警戒したほうがよい。


●はじめの一歩

 幼児教育の世界で、『はじめの一歩』というときには、つぎの二つの意味がある。ひとつは、
何でも最初に経験させることは、慎重に選べということ。もうひとつは、そのときの方向づけが、
その後の子どもの方向性に大きな影響を与えるから注意しろという意味。

 体操教室を例にとって考えてみる。

 体操教室に入れたから、体操が好きになるとはかぎらない。恐らく何割かの子どもは、かえっ
て体操を嫌いになってしまう。(そういう事実は、教室側としても隠すが……。)マット運動にして
も、鉄棒にしても、あるいは跳び箱にしても、それができたからといって、どういうこともない。で
きないからといって、これまたどういうこともない。

しかしそういうところでは、それがあたかも人間の成長には必要不可欠な要素でもあるかのよ
うに教える。親もそう錯覚する。私も中学の授業でマット運動をさせられたが、あのマット運動
ほどいやなものはなかった。そういう子どもの「思い」は、外には出てこない。

 こうした「おけいこごと」を子どもにさせるときには、子どもの方向性をじゅうぶん、見きわめる
こと。だいたいにおいて、「できないからさせる」「苦手だからさせる」という発想はまちがってい
る。子どもに何かをさせるときは、「得意な分野をさらに伸ばす」という発想で、考える。要する
に、オールマイティの子どもは求めないこと。また求めても意味はない。

 つぎにこの時期できた方向性は、当然のことながら、その子どもの一生に大きな影響を与え
るから注意する。私にも、いろいろなことがあった。たとえば私は小学3年のときに、バイオリン
教室へ通わされた。「通わされた」というのは、それだけいやだったということ。今でもレッスン
の日が、毎週水曜日の午後4時15分覚えているほどだから、それがいかにいやなものであっ
たかは、わかってもらえると思う。

ただ私のばあい、バイオリンがいやだったわけではない。あの棒がいやだった。何かをまちが
えると、講師の先生は、容赦なく私の頭や手を叩いた。それがいやだった。1年かかって、やっ
とやめさせてもらったが、その結果、私は大の音楽嫌いになってしまっていた。小学6年の終
わりまで、「オ・ン・ガ・ク」という言葉を聞いただけで、背筋がゾーッとしたのを、今でもはっきり
と覚えている。幼児教育では、こういうことは、絶対にあってはならない。

 で、子どもの方向性をつけるコツは、子どもをほめること。最初はウソでもよいから、ほめる。
「この前よりじょうずになったわね」「せんせいがほめていたよ」とか。父親や母親の前でほめる
のも効果的。この時期の子どもは、自分を客観的に評価できないから、周囲の人にほめられ
ると、その気になってしまう。そしてそれが原動力となって、子どもを前向きに伸ばす。


●「恥」の文化

 極東のアジアの小国には、世界の人が見ても、理解しがたい民族性がある。そのひとつが、
「恥」。たいていの日本人は、奈良時代の昔から、日本は文明国だと思っている。しかし日本程
度の歴史なら、アフリカの各部族ならみんな、もっている。(だからといって、日本の歴史を否定
しているのではない。傲慢になってはいけないと言っている。)

 この「恥」には、2種類ある。他人に向かう恥と、自分に向かう恥である。他人に向かう恥とい
うのは、世間を気にした生き方そのものということなる。他人の目の中で生きる人ほど、この恥
を気にする。

 もうひとつは自分に向かう恥。自分の生きザマにきびしい人。あるいは自分にきびしく生きて
いる人ほど、この恥を気にする。人が見ているとか見ていないとか、あるいは人が知っていると
か知らないとか、そういうことは関係ない。あくまでもその恥は自分に向かう。

 この2種類の恥は、たがいに相関関係がある。他人に向かう恥を意識する人ほど、自分へ
の恥に甘い。「人にバレなければよい」とか、「自分さえよければよい」とか考える。あるいは自
分をごまかしてでも、体裁をとりつくろう。

 一方、自分に向かう恥を意識する人ほど、他人を気にしない。「他人がどう思おうが、知った
ことではない。私は私だ」というような考え方をする。これらをまとめると、他人に向かう恥と、自
分に向かう恥は、いわば反比例の関係にあるということになる。同時に両方の恥をもっている
人は、まずいない。(両方ともない人というのは、いるかもしれないが……。)

 ある母親はこう言った。「私の家は、昔からの養鰻業の本家です。息子にはそれなりの大学
へ入ってもらわねば、恥ずかしいです」と。幼稚園を選ぶときにも、それがある。「B幼稚園では
恥ずかしい。S幼稚園でなければ」と。(幼稚園は幼稚園でそういう親の意識をよく知っている
から、それとなくうちは「S」幼稚園ですと、親ににおわす幼稚園もある。)

 こうした傾向は都会より、当然のことながら、農村地域のほうが強い。今でも身なりや、成
績、進学校などなど。家柄や格式、評判や財産にこだわる人は、少なくない。子どもでもいる。

ある中学生(2年男子)は、ことあるごとに自分の家をいうのに、「D家は……」と、「家(け)」を
つけていた。そこで私が「そんな言い方、よせ」と言うと、こう言った。「うちの先祖は、昔は○○
藩の家老だった」と。(私はこういうところが、「理解しがたい民族性」と言っているのだ。)

 さらにこんなことを言った高校生もいた。ある夏の日に私の家に遊びにきて、「先生、D大学
と、M大学は、どちらがかっこうがいいですかね。結婚式の披露宴でのこともありますから」と。
まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを気にしていた!

 他人に向かう恥を気にし始めると、生きザマそのものが卑屈になる。へんな小細工をしたり、
見栄をはったり。さらには体裁だけを整えたりする。しかしそういう生き方をすればするほど、
結局は自分の人生をムダにすることになる。もちろん「恥」がすべて悪いわけではない。自分に
向かう恥は、むしろ大切にしたい。しかしこれには大きな前提がある。

それを恥じるだけの、哲学なり生きザマ、さらには確固たる信念が必要だということ。それがな
いと、恥じるべき対象そのものがないということになる。言いかえると、哲学や生きザマ、確固
たる信念のない人は、自分に恥じることはない。さらに言いかえると、自分に恥じる人は、哲学
や生きザマ、確固たる信念がある人ということになる。「自分に恥じる」と言っても、そうは簡単
なことではない。


●バツはお尻

 子どもに体罰を加えるとしても、決して「頭」にしてはならない。「バツはお尻」と決めておく。頭
は人体の中で、もっとも重要な部分であり、人格そのものも、この頭に宿る。で、こうした体罰
は、一度習慣になると、すぐ手が頭に向かうということになりかねないので、気をつける。その
ためにも、もし今、あなたが頭に向けて体罰を繰り返しているなら、「バツはお尻」と、何度も復
唱してみるとよい。あなたの心構えそのものを、訂正する。

 で、子どもたちが親からどんな体罰を受けているかを調査してみた。37人の子どもたち(小
学校の低学年児)で、約半数が体罰を受けていることがわかった。圧倒的に多いのが、「親に
叩かれる」(20人)。その方法としては、「手で頭や顔を叩く」のほか、「チビクル」「殴る」「パン
チ」「ビンタ」「キック」「ケツ叩き」「ぶっ叩き」など。「押入れに入れられる」「家からの追い出し」
という、オーソドックスなのも、まだ健在のようだ。「出て行くと言って出て行くと、たいて親がさが
しにくる」と話してくれた子どももいた。ちなみに、「出て行け」と言われたことがある子どもは、
一一人。

 つぎに多いバツが、「取りあげ」。おもちゃや本、ゲームなど。子どもが大切にしているもの
を、親が取りあげるという。1人、「お金をまきあげられる」と言った子どももいた。さらに「しばら
れる」と言った子どももいた。何でも庭や柱に、ヒモでしばられるという。その話を聞いた別の子
どもが、「ぼくは物干しにつりさげられる」と言った。これには、みな、爆笑した。

 さらに、「嫌いなトマトジュースを飲まされる」「犬小屋で寝させられる」「掃除をさせられる」「頭
の毛を短くされる」と言った子どももいた。「昔は、お灸をすえられるというのもあった」と私が言
うと、「そんなものは知らない」と。ほかに「ごはん抜き」「おいてきぼり」「ものを投げつけられる」
など。「台所のすみで、正座」というのもあった。さらに……。

 「亡くなったお父さんの仏壇の前で正座」と答えた子どももいた。何でもとても恐ろしいことだ
そうだ。その子どもの父親は、その少し前、なくなったばかりだった。私はその話を聞いて、し
んみりとしてしまった。


●子どもの健康は鼻先見る(あくまでも参考に)
 
 子どもの健康状態を簡単に知りたければ、鼻スジを見ればよい。鼻スジがツヤツヤと輝いて
いれば、体力もあり、健康とみる。反対に、鼻スジから鼻先にかけて、どんよりとしてくれば、体
力が落ち、風邪など、何かの病気の前ぶれとみる。

 ほかにも顔だけを見て診断する方法がある。

(1)額(ひたい)の横に青筋がある子ども……神経質な子ども。かんしゃく発作のある子ども。
キレやすい子どもとみる。
 
(2)両ほほの下が、青白い子ども……貧血を疑うが、そうでないときはお腹(なか)の虫を疑
う。私はそれを言い当てるのが得意で、顔を見ただけで、それがわかる。

(3)顔の色が、あちこち赤白、まばらな子ども……発熱直前の状態とみる。たとえばほおの一
部だけが赤いとか、額の右だけが赤いなど。今はそうでなくても、やがて発熱するとみる。

(4)鼻先など、先端だけが赤い……虚弱体質など。生まれつき体が弱い子どもは、体の先端
部が赤くなったりする。

(5)顔の色がくすんでいる子ども……子どもの顔色は、大勢の中で比較して見ると、判断しや
すい。気うつ症的な子どもは、生彩が消え、粉をまぶしたような感じになる。大声で笑えない、
大声を出せないなど。親の威圧的な過干渉が日常的につづくと、子どもはそうなる。黒ずん
で、生彩がないときは、慢性病を疑ってみる。

(6)くちびるの色が淡い子ども……栄養不足、好き嫌いのはげしい子どもを疑ってみる。胃腸
の弱い子どもも、くちびるの色が淡くなる。あわせて顔全体が青白いようであれば、貧血も疑っ
てみる。

 以上は、あくまでも経験的にみた健康診断法で、必ずしも正しくない。(しかし運勢占いや星
占いよりは、ずっと確実!)一度、ここに書いたことを参考にして、そういう目で、あなたの子ど
もを診断してみたら、どうだろうか。

(追記)漢方では、望診論といって、顔色や外の現れた症状をみて、その人の病状を診断する
方法がある。

私が書いた、「目で見る漢方診断」は、HPのほうに収録。興味のある方は、一度、どうぞ!


●成熟した社会

 年長児でみても、上位10%の子どもと、下位10%の子どもとでは、約1年近い能力の差が
ある。さらに4月生まれの子どもと、3月生まれの子どもとでは、約1年近い能力の差がある。
そんなわけで、同じ年長児といっても、ばあいによっては、約2年近い能力の差が生まれること
がある……ということだが、さてさて?

 しかし日本の教育の大義名分は、「平等教育」。親もこの時期、子どもの能力には、過剰なま
でに反応する。ほんのわずかでも自分の子どもの遅れを感じたりすると、それだけで大騒ぎす
る。以前、こんなことがあった。ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう
怒鳴った。

 「先生は、できる子とできない子を差別しているというではありませんか。できる子だけ集め
て、別の問題をさせたそうですね。どうしてうちの子は、その仲間に入れてもらえないのです
か」と。私が何かの調査をしたのを、その母親は誤解したらしい。そこでその内容を説明したの
だが、最後までその母親には、私の目的を理解してもらえなかった。が、私はそのとき、ふとこ
う考えた。「どうして、それが悪いことなのか」と。

 仮に私ができる子だけを集めて、何か別のことをしたところで、それは当然のことではない
か。日本の教育は平等といいながら、頂上には東大があり、その下に600以上もの大学がひ
しめきあっている。それこそピンからキリまである。高校にも中学にも序列がある。もともとでき
る子と、できない子を、同じように教えろというほうが無理なのだ。……と思ったが、やはりこの
考え方はまちがっていた。

 できる子はできない子を知り、できない子はできる子を知り、それぞれがそれぞれを認めあ
い、助けあうことこそ大切なのだ。そういう社会を成熟した社会という。「力のあるものがいい生
活をするのは当然だ」「力のないものは、それなりの生活をすればいい」というのは、一見正論
に見えるが、正論ではない。暴論以外の何ものでもない。たとえあなたの子どもが、今はでき
がよくても、その孫はどうなのか。さらにそのひ孫はどうなのか……ということを考えていくと、
自ずとその理由はわかるはず。

 その社会が成熟した社会かどうかは、どこまで弱者にやさしい社会かで決まる。経済活動に
は競争はつきものだが、しかし強者が弱者をふみにじるようになったら、その社会はおしまい。
そういう社会だけは作ってはいけない。そのためにも、私たちは子どもを、能力によって、差別
してはいけない。そしてそのためにも、できる子とできない子を分けてはいけない。子どもたち
を温かい環境で包んであげることによって、子どもたちは、そこで思いやりや同情、やさしさや
協調性を学ぶ。それこそが教育であって、知識や知恵というのは、あくまでもその副産物に過
ぎない。

 日本では「受験」、つまり人間選別が教育の柱になっている。こうした非人間的なことを、組織
的に、しかも堂々としながら、それをみじんも恥じない。そこに日本の教育の最大の欠陥が隠
されている。冒頭に、私は「上位10%」とか、「下位10%」とか書いたが、こうした考え方その
ものが、まちがっている。私はそのまちがいを、その母親に教えられた。


●のどは心のバロメーター
  
 大声を出す。大声で笑う。大声で言いたいことを言う。大声で歌う。大声で騒ぐ。何でもないよ
うなことだが、今、それができない子どもがふえている。年中児(満5歳児)で、約20%はいる。

 この「大声で……」というのは、幼児教育においては、たいへん大切なテーマである。この時
期、大声を出させるだけで、軽い情緒障害くらいなら、なおってしまう。(「治る」という言い方
は、教育の世界ではタブーなので、あえてここでは、「なおる」とする。)私も幼児を教えて30年
以上になるが、この「大声で……」を大切にしている。言いかえると、「大声で……」ができる子
どもに、心のゆがんだ子どもは、まずいない。そういう意味で、私は、『のどは、心のバロメータ
ー』という格言を考えた。

 が、反対に「大声で……」ができない子どもがいる。笑うときも、顔をそむけて苦しそうにクッ
クッと笑うなど。「大声を出してくれたら、それほど気が楽になるだろう」と思うのだが、大声で笑
わない。原因は、母親にあるとみてよい。威圧的な過干渉や過関心、神経質な子育て、暴力、
暴言が日常化すると、子どもの心は内閉する。ひどいばあいには、萎縮する。

意味のないことをボソボソと言いつづけるなど。が、そういう子どもの親にかぎって、自分のこと
がわからない。「うちの子は生まれつきそうです」とか言う。中には、かえってそういう静かな
(?)子どもを、できのよい子と思い込んでいるケースもある。こうした誤解が、ますます教育を
むずかしくする。

 ともかくもあなたの子どもが、「大声で……」を日常的にしているなら、あなたの子どもは、そ
れだけですばらしい子どもということになる。


●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強は
そうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしな
い。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。
これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中1)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になってい
る。そのため中学2年から3年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際に
は、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週3回通うほか、個人の家庭教師に週1回、勉強をみてもらってい
た。が、母親はそれでは足りないと、私にもう1日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はとり
あえず3か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていたが、
まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では開
こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、何
とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをすれ
ば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば
別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私の
ほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよ
りは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をしたり、趣味の話をしたりするな
ど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう
言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわ
ねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに1学期、2学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その
成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントアウトしてし
まうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受
験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、な
おさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは
思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしま
う。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階で失敗と気づいたからと
いって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。
それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K
君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。
が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あん
たはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言ったらどうだ。失
敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教
育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日
本の教育の悲劇がある。それはともかくも、30年以上もこの世界で生きていると、そのあと家
庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるよう
になる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが
起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は
不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いな
おす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励ま
し、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たと
えば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさ
い)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。


●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題
にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷
底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての悪循環。一度そ
の悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、つぎつ
ぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。
問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親
は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくし
て、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に
近い期待が、親を狂わす。が、あるところまでくると、限界へくる。が、このころになると、親の
ほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れそうだとわかると、「せめ
てA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうした無理が、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始ま
る。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかり
つぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間
かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。一度、こういう症状を示したら、親は子ど
もの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれがわからない。子どもを叱ったり、説教し
たりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落とす。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、
朝寝坊などなど。神経症には定型がない※。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつ
けてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて
解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する
不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達し
たとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。不登校だけではない。バーントアウ
ト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競争に遅れてしまう」と嘆くが、その程
度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにその下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、20人に1人と
も、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食
症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭
にある。が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親
はまず、いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に
原因を求め、その責任を追及する。

もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮にそうではあっても、もし家庭が「心を
休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たしているなら、ほとんどの問題は、深
刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずである。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさ
ないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしな
いことだけ」を考えて、1年単位で様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果。(だ
から悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷
底へ落とさないことだけを考えて、対処する。


●何でも握らせる
 
 人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、どちらか一方の大脳
が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって決
まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決ま
るとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手でさわりた
がる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が刺激されるの
か、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、概して言えば、さ
わりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについて、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石でできた
球を売っていた。2個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老人が使う、ボ
ケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使うのだそうだ。そして
それが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳に刺激を与え、それが知的
な意味でもよい方向に作用するということは前から知られている。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも効果
的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)そして
「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握る」「遊ぶ」「作
る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達する。もちろん指先も器用
になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子どもは、
線にそって、紙をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることができない。


●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で10年、20年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時間と
ともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。


●入試は淡々と

 入試は受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。とくに幼児の
ばあいは、そうする。

 入試でこわいのは、そのときの合否ではなく、仮に失敗したとき、その失敗が、子どもの心に
大きなキズを残すということ。こんな中学生(中2女子)がいた。「ここ一番」というときになると、
必ず決まって、腰くだけになってしまう。そこで私が「どうして?」と理由を聞くと、こう言った。「ど
うせ私はS小学校の入試で失敗いたもんね」と。その女の子は、もうとっくの昔に忘れてよいは
ずの、小学校の入試で失敗したことを気にしていた。

 こうしたキズ、つまり子ども自らが自分にダメ人間のレッテルを張ってしまうということは、本
来、あってはならないこと。そのためにも、子どもの入試は、すべることを考えて準備する。もっ
とわかりやすく言えば、淡々と迎え、淡々とすます。(もちろん合格すれば、話は別だが……。)

実際、子どもの心にキズをつけるのは、子ども自身ではなく、親である。中には、子どもが受験
に失敗したあと、数日間寝込んでしまった母親がいる。あるいはあまり協力的でなかった夫と、
喧嘩もんかになってしまい、夫婦関係そのものがおかしくなってしまった母親もいる。さらに、長
男が高校受験で失敗したとき、自殺をはかった母親もいる。子どもの受験には、親を狂わせ
る、恐ろしいほどの魔力があるようだ。

 それはさておき、子どもの入試には、つぎのことに注意するとよい。「受験」「受かる」「すべ
る」という言葉は、子どもの前では使わない。「選別される」という意識を子どもにもたせてはい
けない。ある程度の準備はしても、当日は、「遊びに行こう」程度ですます。あとはあるがままの
子どもをみてもらい、それでダメなら、こちらからその学校を蹴飛ばすような気持ちですます。
そういう思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもはその時点から、また、前向きに伸
び始める。


●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであれば、
よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。とくに何らかの心の
問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。たとえば学校恐怖症
による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然にぐずる、熟睡できず
眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」ともい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ
いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し
てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが
不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で10時間15分。年長児で10時間である。最低でもその睡眠時間は確保す
る。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、20〜30%はいる。日中、生彩のな
い顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだか
と思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して昼寝グセのある子どもは、スー
ッと眠ってしまうので、区別できる。)


●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「先生の話をよく聞くのですよ」「友だちと仲よくす
るのですよ」と子どもに言うのは、親の気休め程度の意味しかない。そういうときは、こう言い
かえる。「幼稚園(学校)から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」
「この○○(小さなプレゼント)を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶわよ」と。

「交通事故に気をつけるのよ」と言うのもそうだ。具体性がないから、子どもには説得力がな
い。子どもに「気をつけろ」と言っても、子どもは何にどう気をつけたらよいのかわからない。そ
ういうときは今度は、寸劇法をつかう。子どもの前で、簡単な寸劇をしてみせる。私のばあい、
年に一度くらい、子ども(生徒)たちの前で、交通事故の様子をしてみせる。ダンボール箱で車
をつくり、その車にはねられ、もがき苦しむ子どもの様子をしてみせる。

コツは決して手を抜かないこと。茶化さないこと。子どもによっては、「こわい」と言って泣き出す
子どももいるが、それでも「子どもの命を守るため」と思い、手を抜かない。

 ほかに、たとえば、「あと片づけをしなさい」と言っても、子どもにはそれがわからない。そうい
うときは、「おもちゃは一つ」と言う。またそれを子どもに守らせる。子どもはつぎのおもちゃで
遊びたいため、前のおもちゃを片づけるようになる。(ただし、日本人ほど、あと片づけにうるさ
い民族はいない。欧米では、「あと始末」にはうるさいが、「あと片づけ」については、ほとんど何
も言わない。念のため。)

 これは私の教室でのことだが、私はつぎのように応用している。

 勉強中フラフラ歩いている子どもには、「パンツにウンチがついているなら歩いていていい」
「オシリにウンチがついているのか? ふいてあげようか?」と言う。

 なかなか手をあげようとしない子どもには、「ママのおっぱいを飲んでいる人は、手をあげなく
ていいよ」と言う。

 こうした言い方をするには、もちろんそれなりの雰囲気が大切である。言い方をまちがえる
と、セクハラ的になる。「それなりの雰囲気」というのは、教師と親の信頼関係と、そうしたユー
モアが理解されるようななごやかな雰囲気をいう。それがないと、とんでもない誤解を招くことが
ある。私もこんな失敗をしたことがある。

 ある日、一人の男の子(小3男児)が、勉強中、フラフラと席を離れて遊んでいた。そこで私
が、「おしりにウンチがついているなら、歩いていていいよ」と声をかけた。ふつうならそこでそ
の男に子はあわてて席につくのだが、そこでハプニングが起きた。横にいた別の男の子が、そ
の立っている男の子のおしりに顔をあてて、こう叫んだ。「先生、本当にこいつのおしり、ウンチ
臭い!」と。

 そのときはそれで終わったが、つまりその言われた子どもも、それなりに笑って終わったが、
その夜、父親から猛烈な抗議の電話が入った。「息子のウンチのことで、息子に恥をかかせる
とは、どういうことだ!」と。


●仲のよいのは、見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育
てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませ
ておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。
とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはど
んどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な
形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮
せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきた
ら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうも
のであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ
世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。
しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえ
ない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう
思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑
いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があ
って、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったと
き、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子ど
もへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるとき
は、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦
が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


●流れには従う

 世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのうちという
ことになる。

 たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ〜」(舟木一夫の「高校三年」)と
歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒業」)と歌
った。この違いは大きい。

 そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。それが
よいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約60%の子どもが、「勉強で苦労す
るから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長談話)。また日本
労働研究機構の調査(2000年)によれば、高校3年生のうちフリーター志望が、一二%もいる
という(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。「いろいろ
な仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。30年前のように、
「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。これはまさに「サイレント革
命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、
今、着実に変わろうとしている。

 ところで親子を断絶させる三要素に、(1)親子のリズムの乱れ、(2)信頼感の喪失、(3)価
値観の衝突がある。このうち(3)価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れについてい
けない親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、自分の価値観
を子どもに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを入れる。

親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。

 どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断絶して
いく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは55%もいる(「青少年白
書」平成10年)。「父親のようになりたくない」と答えた子どもは80%弱もいる。この時期、「勉
強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考えてよい。


●なくしてわかる生きる価値

 賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。健康し
かし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、中に隠
れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よさ」。それに親が
いつ気がつくかということ。

 たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どうして
うちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、もし子どもの中
に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこんな母親がいた。

 その娘(中3)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母親は毎日
ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、1年もつづくと、母親の精神
状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のところに相談にきた。「ど
うしてうちの娘は……?」と。

 しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性格もおだ
やかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校でもリーダー
で、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、それにこういう言い方
は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そういう子どもでも、親は、健康を
悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でならなかった。

 昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人間の欲望
や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っても、まだまだ
苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味だが、子育てで行きづま
りを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろというのではない。「今、ここに子ども
が生きている」という原点から見る。そういう視点から見ると、ほとんどの問題は解決する。

 あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、あな
たの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くもつ。


●名前は呼び捨て

 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。
先日も埼玉県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してくれ
た。「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで
私が「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、た
いへんなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中に
は、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。し
かし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさせ
ればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。

しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほど、生活力も身につき、忍耐力も養われる。
そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言うまでもなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労
してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「〜〜さん」とか、「〜〜ちゃん」づけで呼ぶ親を
見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。一見、子どもを大切にしているように見えるが、
どこか違うような気がする。それで子どもに問題がなければよいが、たいていは、そういう子ど
もにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしてい
る。子どもが小さいうちならまだしも、やがて親の手に負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子で
も、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあって
いる。そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則
は、子どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を
閉ざす。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」で
は、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒である。それほど深刻な問題ではない
かもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また呼び捨てでよい。


●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

(1)名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子ど
もはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」について
は、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。

(2)人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や
威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような
「核」攻撃は、タブー中のタブー。

(3)人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。
子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好まし
いものではない。

(4)自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけ
に、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。
もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。

(5)名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前は
すばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることか
ら、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、
高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を
大切にすることを学ぶ。


●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、
その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気
を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、
大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)内閉型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私
はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することができず、引き
こもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多
い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうし
た反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体
験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育
て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少しい
じめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の情
緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。

たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうし
た恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊ん
でいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の
情緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということ
を、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダというこ
とをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状
況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり
方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多
い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年より
よくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、
立ちなおりがむずかしくなる。


●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と聞くと、
右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や外からの情報
に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせ
ようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決まるというから、
あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、その先生の個性が子ど
もに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあ
るので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないというこ
と。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が「お子さんは、どう
思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論は出
たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものが
ないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの
「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなた
がこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、3日置いて出す。このタイプの母親
ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。だか3三
日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱えるとよ
い。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜい一週間
程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうもの。その
親自身の全人格がそこに反映される。
(以上10−18分まで)
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