倉庫32
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●恥の文化

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「恥」を、ことさら美化する人たちが
ふえてきた。

「恥こそ、日本人の美徳である」と。

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親が子どもをだますとき  
●世間体を気にする人 
 夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(57歳)を病院から連れ出し
てしまった妻(51歳)がいた。

あるいは死ぬまで、「店をたたむのは恥ずかしい」と言って、小さな雑貨店をがんばり続けた女
性(85歳)もいた。(85歳だぞ!)

気持はわからないわけではないが、しかし人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動をとるよ
うになる。S氏(81歳)もそうだ。隣の家に「助けてくれ」と電話をかけてきた。そこで隣人がか
けつけてみると、S氏は受話器をもったまま玄関先で倒れていた。

隣人が「救急車を呼びましょうか」と声をかけると、S氏はこう言ったという。「近所に恥ずかしい
から、どうかそれだけはやめてくれ!」と。

●日本の文化は、恥の文化? 
 恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。

日本人は、世間体をひどく気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして世間体を
気にする人には、独特の価値観がある。相対的価値観というべきもので、自分の生きざます
ら、いつも他人と比較しながら決める。そしてその結果、周囲の人よりよい生活であれば安心
し、そうでなければ不安になる。それだけではない。

こういう尺度をもつ人は、自分よりよい生活をしている人をねたみ、そうでない人をさげすむ。
が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめることになる。

先の雑貨点を営んでいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪く言ってき
た。「バチがあたったからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS氏も、自分より
先に死んでいった人たちを、「人間は長生きしたものが勝ち」と、いつも笑っていた。

●息子の土地を無断で転売

 こうした価値観は、そのまま子育てにも反映される。子育てそのものが、世間体を気にしたも
のになる。当然、子どものとらえ方も、常識とは違ってくる。子どもが、その世間体を飾る道具
に利用されることも多い。たとえばYさん(70歳女性)がそうだ。

Yさんは言葉巧みに息子(42歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま息子に無
断で、転売してしまった。が、Yさんには罪の意識はない。息子が抗議すると、「先祖を守るた
めに親が子どもの財産を使って、どこが悪い」と言ったという。「先祖を守るのは子どもの義務
だ」とも。

Yさんがいう「先祖」というのは、世間体をいう。もちろんそれで親子の縁は切れた。息子はこう
言う。「母でなければ、訴えています」と。ふつうに考えればYさんのした行動は、おかしい。お
かしいが、価値観がズレている人には、それがわからない。が、これだけは言える。

 恥だの世間体だのと言っている人は、他人の目の中で人生を生きるようなもの。せっかくの、
それもたった一度しかない人生を、ムダにすることにもなりかねない。が、同時に、それも皮肉
なことに、他人から見て、それほど見苦しい人生もない。

(補記)

 世間体を気にする恥を、「外に向う恥」とするなら、自分に対する恥は、「内に向う恥」というこ
とになる。

 外に向う恥が、いかに、愚劣なものであるかは別として、大切なことは、自分に対する恥を忘
れないこと。他人が見ているとか、見ていないとか、あるいは他人が気がついているとか、いな
いとか、そういうことは、関係ない。

 先の原稿(=「ある表彰式での珍事」)の中で、私は、「恥を知れ」と書いたが、それは自分自
身に対する恥のことをいう。どうか、誤解のないように。




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●教育者の美談

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教育者は、美談が、お好き。
美談で自分を飾る。
飾って、自分をことさら、
立派な人物と、演出する。

この種の美談には、じゅうぶん、
ご注意!

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●どこかおかしい美談

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話
がある。

 あるテレビタレント(現在、国会議員)がアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその
人のところにやってきて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼく
はそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。

そのタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(2000年夏、H市
での教育講演)。

しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、
「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充は
どうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレ
ントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。

●日本の学用品は使えない?

22年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を持っ
て帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話はテレ
ビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。そしてその結果だが、何とト
ラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。

 で、その1年後、その学用品がどう使われているか、2人の教師が現地まで見に行った。が、
大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学校の
倉庫に眠っていたという。

理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の1日の給料よりも高価なノートや鉛筆
を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう
話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは?

 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおか
しい。貧しい親子が、1杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取り
あげられ、その後、映画にもなった。

しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食
べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを
捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。

●「ぼくのために負けてくれ」

 運動会でのこと。これから50メートル走というときのこと。横に並んだB君(小2)が、A君にこ
う言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。そこ
でA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならないと思
い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。

ある著名な大学教授が、ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものが
おかしい。その教育者は、2人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたこと
のある人ならすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、まだ小学2年生には、ない。仮にあっ
たとしても、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな
話も……。

●子どもたちは何をしていたか?

 ある小学校教師が1時間目の授業に顔を出したときのこと。小学1年生の生徒たちが、「先
生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因
は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。

そこでその教師は、30分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして再
び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つときは
心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。

その30分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、そ
の教師は子どもたちを教室に残したまま散歩に行ったということになるのだが……? あるい
は授業放棄?

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意した
らよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい
話で自分の説話を飾りたがる。

……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がもて
はやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北京
第33中学校教師談)。

それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言った」と話したが、
その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語すらない。

あえて言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそういう単語
は、こういう会話では使わない。別の意味になってしまう。一体その物乞いの子どもは、そのタ
レントに何と言ったのか。この点からも、そのタレントの話は、ウソと断言してよい。





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●老人心理

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老人の心理は、子どもの心理に
似ている(?)。

老人の心理を観察していると、ふと、
別の心で、子どもの心理を思い
浮かべることがある。

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 他人と良好な人間関係を結べない子どもは、おおまかに言えば、つぎの4つのうちの、どれ
かの症状を示す。(1)攻撃的になったり、(2)服従的になったり、(3)同情を求めやすくなった
り、あるいは(4)依存的になったりする。

 攻撃的になるというのは、ツッパリ児を思い浮かべればよい。他人に対して攻撃的になること
によって、自分の立場を守ろうとする。

 服従的になるというのは、徒党を組んで非行を繰りかえす子どもを思い浮かべればよい。集
団の中で、「長」という立場の者に徹底的に服従することによって、自分の立場を守ろうとす
る。

 同情を求めやすくなるというのは、みなが、「どうしたの?」「だいじょうぶ?」という声をかけて
くれるような雰囲気を、自分のまわりにつくることをいう。わざと弱々しく、病弱な自分を演出し
てみせたりする。

 また依存的になるというのは、自立性を失い、生活態度そのものが、依存的になることをい
う。

 こうした一連の行為は、無意識のうちに、子どもの心の中で熟成されるもので、それをまわり
のものが指摘しても、意味はない。本人にもその自覚は、ない。

 で、こうした心理状態は、子どもの世界ではよく知られた現象だが、実は、老人にも、同じよう
な現象が、見られる。それを最近、発見した。

 現在、私の家には、90歳になる母がいる。私たちの介護なしでは、ほとんど身動きできない
状態である。その母を観察していて、いくつか、興味ある事実に気がついた。

 ケア・マネージャーの人に、「依存性が強い」と評価されるような母だから、どういう母かは、
わかってもらえると思う。最初にもらった報告書には、そう書いてあった。

 そんな母だが、施設の係の人たちが、入所に先だって様子を見に来たようなときだけは、ち
ゃんと、体を動かしてみせる。こんなことがあった。

 その朝、私が起こしにいくと、母は、私の前で、二転、三転と体をよじらせるだけで、起きあが
ろうとしない。ベッドがまるで磁石にでもなったかのように、起きあがっても、すぐ体が、倒れて
しまう。

 「手を貸してくれ」と母は言うが、どこか、演技ぽい(?)。が、そのうち、私のほうが根負けし、
そのときは、手を貸して、起してやった。

 が、その数時間あとのこと。施設の係の人、2人が、ケア。マネージャーとともに、私の家に
やってきた。母と面会するためにである。「どの程度の介護が必要か、確かめたい」ということ
だった。私は、母の寝室に、みなを、案内した。

 ところが、である。係の1人が、「林さん、ベッドから起きあがれますか?」と、母に声をかけた
ときのこと。同じ母が、「起きあがれます」と言って、まるで別人のように、背中を立て、足をベッ
ドの下におろし、手すりに手をかけると、スーッと立ちあがった! スーッと、だ。

 これには、私も驚いた。ワイフも驚いた。驚いて、思わず、笑ってしまった。「ナーンダ、お前、
ちゃんと、立てるじゃないか。ハハハ」と。

 こうした老人の心理も、子どもの心理に当てはめてみると、理解できる。母は、もともと依存
性の強い女性である。生涯において、いつもだれかに依存して生きてきた。で、その依存性を
合理化するために、その母が使った方法は、ここでいう、(3)の同情を求めるという方法だっ
たということになる。

 つまり、だれかに同情を求めながら、自分の依存性を合理化してきた。たとえばことあるごと
に、自分は弱い人間であるということを強調する、など。50歳を過ぎるころから、「私も歳をとっ
たからね」「体が弱くなったからね」が、母の口ぐせでもあった。

 つまり、「歳をとったから、だいじにしてくれ」「体が弱くなったから、めんどうをみてくれ」と。

 ……ということで、実は、今朝も、同じことが起きた。朝、母を起こしにいったときのこと。「さ
あ、オシッコをするからね」と声をかけて、私がふとんをめくった。が、どうしても起きあがろうと
しない。ベッドの上で、二転、三転と体をよじらせては見せるが、起きあがろうとしない。

私「起きられるから、起きてみな」
母「……」
私「この前は、ちゃんと、できただろ」
母「手を貸してくれ」
私「だめだよ。少しは運動をしなくては……。寝たきりになってしまうよ」
母「……」と。

 恐らく母の記憶の中には、先日の記憶は、残っていないはず。つまりみなの前では、立ちあ
がれたという記憶は、残っていないはず。だから私が、それを指摘しても意味はない。母は、い
つもの母に、もどってしまっていた。

 私は、部屋を出た。私が近くにいると、無意識のうちにも、母は、同情を求めるような行動を
とる。それが私にも、よくわかっていた。

 で、案の定というか、食事を用意して盆にのせてもって、再び母の部屋に入ると、母は、ポー
タブルトイレで用をすませたあと、その前のソファに、腰をかけていた。時間にすれば、ほんの
5〜10分くらいの間のことだった。

私「ほら、ちゃんとできたじゃ、ないか」
母「ありがと」
私「べつの礼を言ってもらわなくてもいいけど、自分でできることは、自分でしなきゃア」
母「ありがと」と。

 人は、成長して、おとなになる。それはそのとおりだが、さらに歳をとると、今度は、幼児にも
どる。そういう意味では、老人というのは、幼児そのものといってよい。

 そこで教訓。

 老人になると、幼児化するのはしかたのないことだとしても、それまでに、(自分)というもの
を、しっかりと作っておかねばならない。その必要がある。でないと、老齢に近づくにつれて、そ
れまでごまかしていた持病が表に出てくるように、それまで、自分の中に隠されていた性格の
「質」の部分が、表に出てきてしまう。

 若いうちは、気力で、それをごまかすことができるかもしれない。それなりの人格者を演ずる
ことが、さほどむずかしいことではない。が、歳をとると、気力そのものが、弱くなる。つまり、自
分の「地」が、そのまま表に出てきてしまう。そういう意味では、(自分を作る)時間というのは、
それほど長くない。青年期から壮年期までの間ということになる。

 端的に言えば、幼児からおとな、おとなから老人になる過程で、人格の核(コア)を、しっかり
と確立しておくということ。それをしないまま、老人になると、ここでいう幼児化が始まり、そのま
ま幼児そのものになってしまう。

 さて、母のことだが、母は、母というよりは、すでに赤子に近い。ただ頭のほうは、まだ何とか
しっかりとしている。冗談も通ずる。やさしくしてやると、それがスーッと心の中にしみこんでいく
のがわかる。

 それだけが、今、ゆいいつの救いでもある……。






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●女は子どもを産む機械?

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私たちが子どものころには、
男尊女卑思想が、まだ、色濃く残っていた。

「男は仕事、女は家庭」と。
「内助の功」という言葉などは、最近でも
堂々と使われている。

で、今、柳沢厚生労働省の言った、「(女性は)
子どもを産む機械」という言葉が、社会で、大問題に
なっている。

しかしそんな発想は、60代以上の、古い世代の人なら、
だれしももっている。ないとは言わせない。少し前まで、
子どもを産めない女性をさして、差別的に蔑視
する言葉すらあった。それが理由で離婚された女性も、
数多い。が、それに対して女性たちは、
文句を言うことさえできなかった。

柳沢氏も、その古い世代に属する。

彼にしてみれば、「自分がもっている
常識を口にしただけなのだがなあ」と
いうことになるのかもしれない。

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 私たちが子どものころには、「女、子ども」という言葉がよく使われた。「女や子どもは、一人
前の人間ではないから、相手にするな」という意味で、そう言った。

 たとえば私が小学生のときですら、男子が女子といっしょに遊ぶことすら、考えられなかっ
た。遊べば遊んだで、「女たらし」と呼ばれ、みなからバカにされた。仲間はずれにされた。

 が、戦後、子どもの地位はともかくも、女性の地位は、急速に向上した。そして今に見る、男
女同権社会が生まれた。不完全ではあるが、ともかくも、(形)だけは、できた。

 しかし意識というのは、そうは簡単に変わらない。変わらないというより、変えられない。民主
主義時代になった今でも、おかしな復古主義を唱える人は、少なくない。「武士道こそ、日本の
アイデンティティである」と説く人もいる。「武士道を日本の教育の柱にすべき」と説く教師集団
もある。

 武士道がまちがっているというのではない。武士道なるものがもつ、負の側面に目を閉じた
まま、武士道を礼さんすることは、危険なことだと、私は言っている。

 それはさておき、現在を時代の過渡期というなら、一方に、戦前のままの意識をもった人たち
がいて、またその一方に、新しい人権意識に目覚めた人たちがいても、おかしくない。

 今回、「(女性は)子どもを産む機械」と発言した、柳沢大臣は、その古い世代に属する。しか
も悲劇的なことに、柳沢氏は、中央官僚を経て大臣にはなったが、その部分の意識改革をしな
いまま、あろうことか、厚生労働省の大臣になってしまった。つまり本来なら、女性の人権回
復、地位向上の先頭に立って、旗を振らなければならない立場の人が、流れに乗っただけとい
う理由で、大臣になってしまった。

 こうした例は、政治家の世界では、珍しくない。いわゆる「あとから権威」というのが、それ。こ
の世界では、肩書きが、先行する。肩書きが先について、そのあと、その人は、それらしい人
になる。それらしい人物として、振る舞う。

 ひょっとしたら、現在の外務大臣、防衛大臣も、そのタイプの人たちかもしれない。イラク戦争
をさして、「ドンパチ」と表現してみたり、「アメリカは、まちがえた」などと言ってみたりする。その
ため、現在、対米関係は、コンピュータにたとえるなら、フリーズ状態。

 が、何ともやりきれないのは、その背景にある、日本人の政治意識のレベルの低さ。お笑い
タレントが、どこかの県の知事になっても、何も疑問に思わない国民である。この国民にあっ
て、この国。そしてこの大臣。

 もしこの国を救う方法があるとするなら、それは私たち一人ひとりが、自ら考える人間になる
こと。賢くなること。もっと言えば、モグラ叩きのように、出てきたモグラだけを叩いていても、意
味はない。そんなことだけをしたのでは、この国は、けっしてよくならない。

 男尊女卑思想が、いかに愚劣な思想であるかは、ほんの少しでも、自ら考える力のある人に
なら、わかるはず。幼稚園児にだって、わかる。が、悲しいかな、柳沢大臣には、そのほんの
少しの力もなかったことになる。

 いかに弁解しようとも、またいかにそれらしく振る舞おうとも、柳沢氏は、厚生労働省の大臣
としては、ふさわしくない。意識そのものが、陳腐。完全にズレている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●嫁をもらう(?)

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今朝、90歳の母が、こう言った。
何かの話のついでに、息子の話になり、
「そろそろ、嫁をもらう年齢だな」と。

私は、この(もらう)という言い方に、
頭にカッと血がのぼるような不快感を覚えた。

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今朝、90歳の母が、こう言った。何かの話のついでに、息子の話になり、「そろそろ、嫁をもら
う年齢だな」と。

私は、この(もらう)という言い方に、頭にカッと血がのぼるような不快感を覚えた。

私「母ちゃん、(もらう)という言い方はしてはいけないよ。失敬だよ」
母「いい歳だろ」
私「イヌやネコでもあるまいし……。(もらう)とか(もらわない)とかいう話ではないよ」
母「嫁をもらえばいい」と。

 私は、母がもっている(意識)と、私がもっている(意識)が大きくズレているのを感じた。母の
生きた時代には、嫁は、(もらうもの)だった。しかし今どき、そんな言葉を口にしたら、それだ
けで袋だたきにあう。実際には、だれにも相手にされなくなる。

 しかし私が子どものころには、それが常識だった。私が子どものころには、嫁は、(もらうも
の)だった。かすかだが、私の記憶の中にも、そういった意識が残っている。私も子どものこ
ろ、そう考えていた。同じような言葉を使ったこともある。

 ……ということは、2つの意味をもつ。

 ひとつは、母は、この半世紀あまりの間、そのままだということ。進歩、ゼロ。もうひとつは、
私の(意識)は、この半世紀の間に、大きく変わったということ。それが今、たがいの間の大き
なズレとなって、表面化した。

 このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

ワ「もし、あなたがそのまま、あのM町に住んでいたら、今ごろは、あなたはあなたのお母さん
と同じようなことを言っているでしょうね」
私「ぼくも、そう思う。そのまま郷里に残った友人や、いとこたちは、今でも、同じような言い方を
する」
ワ「あなたは、あの町から外へ出たでしょ。だから自分の意識を変えることができたのよ」
私「そうだね。……ほかにも、いろいろな場面で、それを強く感ずることがあるよ」と。

 恐らく、母は、そう言いながら、それがとんでもない男尊女卑思想であるということには、気が
ついていない。女性である母が、そういう意識をもっているから、おもしろい。(失礼!)

 とくに同じ岐阜県でも田舎のほうへ行けばいくほど、そうした意識は、今でも根強く残ってい
る。「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」「兄が上、妹は下」と。家父長意識、さらには悪玉親
意識というのもある。平気で親風を吹かす。わずか数歳しか歳がちがわないのに、年上風を吹
かす人となると、さらに多い。人間を、中身を見て判断するのではない。(上下関係)だけで、判
断する。

 実に愚劣な意識なのだが、中には、それが日本人の美徳と説く人もいるから、たまらない。ま
たそういうことを書いた本が、ベストセラーになったりする。

私「ぼくは、あのM町を離れて、本当によかったと思う。もしあの町で、そのまま生きていたら、
ぼくは、まったく別のぼくになっていたと思う」
ワ「そうね」
私「だからぼくから見ると、そういうものの考え方をしている人に出会ったりすると、愚かにに見
える。実際には、相手にしない」
ワ「でも、本人は、そうではないわよ、きっと……。自分では、それが正しいものの考え方だと
思っているはずよ」
私「そう、意識というのは、そういうもの。たとえて言うなら、山登りのようなものかもしれない。
山に登ってみて、はじめて、その山から見た景色がわかる。同時に、それまで自分がいたとこ
ろが、低く見える」と。

 母を見ていると、半世紀前の自分にタイムスリップしたかのように感ずることがある。私にと
っては、母は、まさに化石のような人間ということになる。教えられるというよりは、反面教師と
なって、私の中にある、封建主義的な古い意識を、そのつどえぐり出してくれる。今は、それが
おもしろい。






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【教育の自由化】

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その学校の教頭と学年主任、それに
担任の教師の3人。その3人に加えて、
いじめをしたという、子ども(小5)と、
その両親の計6人が、謝罪のため、
X子(小5)の家を訪問した。

しかしX子の母親は、それを許さなかった。
玄関先で、「うちの子が学校へ行けなく
なったのは、あなたがたのせい!」と、
大声で、泣き叫んだ。

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●あるいじめ事件(?)

 ある小学校(K県、H市)で、こんな事件が起きた。BさんというB子さんの母親からもらったメ
ールによれば、こうだ。

 正月の書初めの授業になったときのこと。和紙が長く大きかったこともあり、班ごとに、時間
をズラして書くことになった。

 そのときX子のグループは、先に書くことになった。が、そのとき事件が起きた。事件と言える
ような事件ではなかったが、ともかくもそれが、事件となってしまった。

 X子はここにも書いたように、先に書初めをした。が、数枚書いてはみたが、うまく書けなかっ
た。交替する時間は過ぎていた。X子は「もう1枚」と言って、もう1枚、書き始めた。

 それを横で見ていたA子(小5)が、X子をとがめた。多分、「もう時間だから、交替してよ」とい
うようなことを言ったのだと思う。X子は、そのときはすなおに、「ごめん」と言って、謝ったとい
う。

 が、翌日、X子の母親が、学校へやってきた。いきなり校長室へ入ってきて、こう怒鳴った。

 「うちの子が、いじめにあっている。いじめているのは、同じクラスのA子だ。そのため、うちの
子が、学校へ行くのはいやだと泣いている。どうしてくれる!」と。

 で、そのときは、いったんX子の母親には、家に帰ってもらった。校長はX子の担任を呼びつ
け、事情を聞いた。ついで、A子にも、事情を聞いた。さらにその周辺の生徒たちにも、事情を
聞いた。

 が、いくら事情を聞いても、X子がいじめられたという事実が浮かびあがってこなかった。担任
は、「そのときは、とくに変わった様子もなく、X子も、なごやかな様子だった」と言った。

 時期が時期である。いじめが理由で、あちこちで子どもが自殺するという事件が、相ついでい
る。校長と担任の2人が、その日の夕方、X子の家を訪問した。そしてX子の母親に、「いじめら
しいいじめは、確認することができなかった」と報告した。が、この報告に、X子の母親が激怒し
た。

 「うちの子は、ウソをつくような子ではない」「うちの子は、いつもA子にいじめられている」「ほ
かにも、いろいろな事実がある」「何とかしろ!」と。

 校長と担任は、平謝りに謝り、X子の家をあとにした。で、その翌日、再度、周辺にいた生徒
たちから事情を聞いた。結果は、同じだった。そこでしかたないので、校長は、A子の両親に電
話をした。「このままでは、X子の母親の怒りは収まりそうにもない。私たちといっしょに、X子の
家まで、謝りに行ってほしい」と。

 A子の両親は、ものわかりのよい人だった。校長が困っている様子を知ると、それに応じた。
A子も、それに応じた。

 その夜、学校側からは、校長と教頭それに担任の3人。その3人に加えてA子と両親の、計6
人が、X子の家を訪れた。X子とX子の両親に謝罪するためである。が、この行為が、かえって
X子の親、とくに母親を激怒させてしまった。

 「いじめはなかったと言ったのに、どうして今日になって、謝りにきたのか」「今さら、謝っても
らっても、しかたない」「うちの子は、不登校児になってしまった!」と。

●学校の先生も、たいへん!

 ……というのが、ここでいう事件である。この話は、A子のそばにいた、B子さんの母親から、
伝えられたものである。B子さんは、そのときの様子を、すべて見ていた。そのB子さんも、「い
じめというようなものではなかった」と断言しているという。が、それはあくまでもA子を擁護した
意見。そういう意味では、私がここに書いたことは、一方的なものかもしれない。もっと事情を
詳しく知るためには、X子自身からも、話を聞くべきかもしれない。

 だからここではどちらの言い分が正しいかということは、私にもわからない。その判断は、くだ
さないでおく。A子には、ささいな行為だったかもしれないが、X子は、それを(いじめ)ととらえて
しまった。そういうケースも、実際には、ないわけではない。

 が、Bさんからのメールを読んで、まず私が感じたことは、「学校の先生も、たいへんだなあ」
ということ。校長と担任は、2度も、X子の家を訪問している。しかし現実問題として、仮にそれ
がいじめであったとしても、学校側に、そこまで子どもたちの世界を監督することは、不可能で
ある。「監督」ではなく、「監視」と言ってもよい。

 前にもどこかで書いたが、険悪なムードだから、(いじめ)ということにはならない。しかしなご
やかなムードだから、(いじめ)でないとも、これまた言えない。さらにいじめる側に、その気は
まったくなくても、受け取る側は、そうでないというケースも多い。悪ふざけが、(いじめ)と誤解
されることも多い。さらにふつう(いじめ)というのは、先生の目をたくみに盗んで、先生の目の
届かないところでなされることが多い。

 加えて、子ども自身の心の問題もある。X子の母親は、「うちの子は、ウソをつくような子では
ない」と息巻いたというが、親が知っている子どもと、実際の子どもとは、まるで別人というケー
スも、少なくない。

ことウソということになれば、子どもだから、ウソをつかないというのは、まったくの幻想でしかな
い。「学校へ行きたくない」という気持ちを合理化するために、「みんなが、私をいじめるから、
行きたくない」と、ウソをつくことは、子どもの世界では、珍しくない。(だからといって、Xさんが
ウソを言っているというのではない。誤解のないように!)

●萎縮する教育

 しかしそれ以上に問題なのは、こうした事件がつづくことによって、学校の教育そのものが、
萎縮してしまうこと。いくら時期が時期とはいえ、学校の「長」たる校長が、家庭訪問までして、
親に謝罪しなければならないというのは、常識で考えても、おかしい。

 なぜ、校長ともあろう人が、そこまでするのか? そこまでしなければならないのか? こんな
ことをしていたら、学校教育そのものが麻痺(まひ)してしまう。現場の教師にしても、こわくて、
授業そのものが、できなくなってしまう。

 実際、ある小学校の校長(I町I小学校)は、こう言った。「現場が、萎縮してしまっています。教
師が少し乱暴な言葉を使っただけで、親たちは、『体罰だ』と騒ぎます。子どもどうしの喧嘩で
すら、『いじめだ』と騒ぎます」と。

 (いじめ)は、たしかに深刻な問題である。(いじめ)によって、心に深いキズを残す子どもも少
なくない。私とて、(いじめ)を是認する意図は、毛頭ない。

しかし(いじめる側)を、一方的に、(絶対的な悪)と決めつけ、また反対に、(いじめられる側)
を、これまた一方的に、(絶対的な善)と決めつけて考えるのも、どうかと思う。子どもの世界と
いうのは、おとなの私たちが考えているより、ずっと複雑。しかも、絶妙なバランスの上に成り
たっている。見た目の様子だけで判断してはいけない。

 X子の母親にしても、X子自身にというより、自分自身に何か問題がないか、反省してみるこ
とも大切なことではないか。親がこうまでピリピリしていて、どうしてその子どもが、家庭で息を
抜くことができるというのか。……と書くのは、たいへん危険なことは、私も承知している。

 しかし家庭が家庭として、つまり子どもの心を休める場所として機能していたなら、仮に学校
で何かのトラブルがあったとしても、ここまで深刻な問題にまでは発展しなかったかもしれな
い。

 では、どうするか? どうしたらよいのか? どう考えたらよいのか?

 私は、こうした(いじめ)は、(あくまでもいじめがあったという前提で考えるなら)、いくら現場
の先生ががんばっても、なくならないだろうと思う。そこで重要なことは、もしそうならそうで、学
校選択の自由、クラス選択の自由を、もっと大幅に緩和したらよいのではないかということ。

 その学校がいやだったら、ほかの学校へ転校すればよい。その先生がいやだったら、別の
先生のクラスに移動すればよい。さらにそれでも問題が解決しなければ、アメリカのホームスク
ールのような制度をつくればよい。そうした選択が自由に、かつ、気楽にできるようになったと
き、こうした問題のほとんどは、そのまま解決する。

 今でも「学校とは、行かねばならないところ」「学校へ行かない子どもは、落ちこぼれ」と考え
ている親は多い。学校神話、学校万能主義を信奉している親となると、さらに多い。つまり教師
も、そして親も、自分の体をがんじがらめにヒモで縛った上で、こうした問題を解決しようとして
いるが、そこにはおのずと限界がある。かえって自らを、袋小路に追いこんでしまう。

 ……先にも書いたように、Bさんからのメールだけをもとに、この原稿を書いたので、何とも
歯切れの悪い文章になってしまった。が、これだけは、忘れないでほしい。

 今、全国、津々浦々の学校で、無数の校長や教師たちが、この種の問題で、悲鳴をあげて
いる。悲鳴をあげながら、教育そのものを萎縮させてしまっている。(いじめ)の問題もさること
ながら、それが理由で、学校教育を萎縮させてしまったとしたら、それもまた深刻な問題という
ことになる。

 だから改めて、私は、主張する。教育を、自由化せよ、と。

++++++++++++++++++

これに関連して、いくつかの原稿(中日新聞
発表済み)を、掲載します。

++++++++++++++++++

●教育カルトに気をつけろ!

教育者が教育カルトにハマるとき  
●教育カルト  
教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信奉
するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それ。教育カルトともいう。

この教育カルトにハマった教育者(?)は、「右脳教育」と言いだしたら、明けても暮れても「右
脳教育」と言いだす。「S方式」と言いだしたら、「S方式」と言いだす。
  親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵の紋
章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。「○×式教育法」
などという教育法を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうする。宗教だってそ
うだ。あやしげな新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。

 教育には哲学が必要だが、しかし宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教
育法もまた皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわから
ない。わからないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけよう
とする。これがこわい。

●自分勝手な教育法 
 教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、
小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化する盲信性
など。

これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという攻撃性も出てくる。自
分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向って、「あなたはまちがっ
ている」と言う。

はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしながら、それにすら気づ
かなくなってしまうこともある。ある教育団体のパンフには、こうあった。「皆さんも、○×教育法
で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏に感動なさったことと思います」「この方式が日本の教
育を変えます」と。

あるいはこんなのもあった。「私たちの方式で学んだ子どもたちが、やがて続々と東大の赤門
をくぐることになるでしょう」(ある右脳教育団体のパンフレット)と。自分の教育法だったら、お
こがましくて、ここまでは書けない。が、本人はわからない。この盲目性こそがまさに教育カルト
の特徴と言ってもよい。

●脳のCPUが狂う?

私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、
「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりや
すい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。進学校や進学塾は、この方法を使う。

それはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから抜け出ることは容易なことではない。
脳のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。が、問題は、先にも書いた攻撃性だ。

一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白がで
きると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけいに抵抗す
る。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育法を批判してみるとよい。「S方式
の教育法に疑問をもっている評論家もいますよ」と。その教育者は、あなたの意見に反論する
というよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。

 結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよい。こ
うした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
カルト)


++++++++++++++++++

6,7年前に書いた原稿ですが、
4作、紹介します。

++++++++++++++++++

●フリップ・フロップ理論(次の安定期へ)

 戦時下のサラエボでのこと。ガレキになった家にいる子どもに、NHKのカメラマンがこう聞い
た。「学校はどうしているの?」と。

戦争で学校どころではないはずだ。しかし日本人は、子どもを見れば、すぐ「学校、学校」と言
う。明治以来、学歴信仰、あるいは学校神話が徹底的に叩き込まれているからだ。

 心理学に「フリップ・フロップ理論」というのがある。私は勝手に「コロリ理論」と訳している。箱
でたとえて言うなら、どちらかの側に倒れているときは、安定している。しかしそれを中途半端
な状態に置くと、たいへん不安定になる。

たとえば有神論の人が無神論に、無神論の人が有神論になるときというのは、心理状態がた
いへん不安定になる。よく「この宗教は絶対正しい」と、大声で叫んでワーワー言っている人が
いる。そういう人は、心理状態がたいへん不安定になっているとみてよい。

ちょっとしたことで、コロリと無神論になったりする。あるいは反対に、いくつかの不幸が重な
り、混乱したりすると、コロリと有神論者になったりする。フリップ・フロップ理論というのは、そう
いう心理を説明した理論だと思えばよい。

 さて本論。子どもが不登校児になったりすると、この日本では、たいていの親は大混乱する。
「進学できなくなってしまう」「高校ぐらい卒業しておかないと」「就職はどうする」「うちの子はダメ
になってしまう」と。

一見、子どものことを心配しているようで、親は自分のことしか考えていない。世間体、見栄、メ
ンツ、それにコースだ。この日本では「学校」というコースから、子どもがはずれることは、親に
とっては恐怖以外の何物でもない。そのため狂乱状態になる人も珍しくない。

が、それも一巡すると、……と言っても、それは簡単なことではないが、ちょうど箱がもう一方
の側に倒れるように、やがて落ち着く。しかもある時期を境に、コロリと倒れる。人間の心という
のは、不安定な状態に対して、それほど抵抗力はない。そしてこう言う。「学校なんて行かなく
てもいいのよ」と。

 どちらの側に箱が倒れているにせよ、一方の側から他方の側を見ると、まったく別世界に見
える。そして互いに、相手を理解できない。学歴信仰を信じている人に、その無用論を説いて
も意味はない。一方、学歴無用論の人に、学歴信仰を信じている人の心理を説明しても、理解
できない。互いに「自分のほうが正しい」と信じて疑わないでいる。

しかし結論から先に言えば、学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、中身はカラッポ。もともと信ず
るほうがおかしい。信ずる価値もない。学歴信仰がいかに愚劣なものかは、台湾へ行ってみれ
ばわかる。

あの国では、いまだに初対面のとき、相手の学歴をあいさつがわりに聞いている。学歴でしか
人を判断しない。20年前の日本でも、あそこまでひどくはなかった。しかし彼らは真剣だ。その
真剣なところが、おかしい。そして悲しい。

 今、日本の親たちは、大混乱している。教育の世界そのものも、大混乱している。しかしこの
混乱を、フリップ・フロップ理論で説明するなら、それは次の安定状態への移行期ともとらえる
ことができる。日本の新しい未来は、すぐそこまで来ている。





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●家族主義と幸福論

●幸福の原点は家庭にある 
ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロシーという女の
子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するという物語である。こんなことがあ
った。
  オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシア軍に襲われ
たらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」と。「おやじの故郷のスコットラ
ンドへ帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 私があきれていると、一人の学生がこう言
った。「ヒロシ、オーストラリア人が手をつないで一列に並んでもすきまができるんだよ。どうして
この国を守れるか」と。
  英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで質問を変えて、
「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞くと、皆血相を変えてこう
言った。「そのときは、命がけで戦う」と。

これだけではないが、私はいつしか欧米人の考え方の基本に、「家族」があることを知った。愛
国心もそこから生まれる。たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日
本語に訳する「愛国者」ということになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパトリ
ス、つまり「父なる大地」という語に由来する。

つまり欧米で、「ペイトリアチズム(愛国心)」というときは、「父なる土地を愛する」あるいは、
「同胞を愛する」を意味する。その映画の中でも、国というよりは家族のために戦う一人の父親
が、テーマになっていた。
  家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは誤解。冒頭に
あげたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そんな遠くにあるのではない。あ
なたのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを、息を潜めて待っている…。ドロシーは長い冒
険の末、それを教えられる。
  明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事第一主義が生
まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。発展途上の国としてやむをえな
かったのかもしれないが、しかし今、多くの人がそうした生き方に疑問をもち始めている。99年
の終わりに中日新聞社がした調査でも、45%の日本人が「もっとも大切にすべきもの」として
「家族」をあげた。日本人は今、確実に変わりつつある。

(注……現在は、80〜90%近い人たちが、「家族」をあげるようになっている。)






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●運命と生きる希望

●希望をなくしたら死ぬ? 

不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦ない。まるで運命
がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(45歳)がそうだ。会社をリストラされ、そ
のわすかの資金で開いた事業も、数か月で失敗。半年間ほど自分の持ち家でがんばったが、
やがて裁判所から差し押さえ。そうこうしていたら、今度は妻が重い病気に。検査に行ったら、
即入院を命じられた。家には24歳になる自閉症の息子がいる。長女(21歳)は高校を卒業す
ると同時に、暴走族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無心する…。

2000年、日本での自殺者が3万人を超えた。何を隠そう、この私だって、その予備軍の1人。
最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自殺する人の気持ちが、痛いほどよく
わかる。

昔、学生時代、友人とこんな会話をしたことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に歩いて
いたときのこと。私がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語りかけた。すると
その友人はこう言った。「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思うことは、立
派な希望だよ」と。

Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は何もまちがってい
ない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というのは、社会という大きな歯車の中
で動く。その歯車が狂うことだってある。そしてそのしわ寄せが、Y氏のような人に集中すること
もある。運命というものがあるのかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後のと
ころでふんばるかどうかということは、その人自身が決める。決して運命ではない。

私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてきた。が、今言える
ことは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事実そのものが、希望なのだ。私
のことだが、不運が重なるたびに、その先に新しい人生があることを知る。平凡は美徳であ
り、何ごともなく過ぎていくのは、それなりにすばらしいことだ。しかしそういう人生から学んだも
のは、ほとんどない。
 どうにもならない問題をかかえるたびに、私はこう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たければ来い。お
前なんかにつぶされてたまるか!」と。生きている以上、カラ元気でも何でも、前に進むしかな
いのだ。





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●アスペルガー障害

【YKさんからのメールより】アスペルガー児について(補足)

++++++++++++++++++

アスペルガー児をおもちのNさんより、
YKさんに、意見が届いています。

あくまでも参考、ということで、ここに
掲載させていただきます。

もしASの心配があるなら、専門の診療
機関で、専門医による診断を受けてください。

++++++++++++++++++

【Nさんより、はやし浩司へ】

こんにちは。

私はこのYKさんの記事を読んで、ちょっとこのお子さんは発達障害の可能性があるのではな
いかなと思いました。

もちろん確信はなく、発達障害の子どもを育てたことがある方だと、「ちょっと可能性があるか
な」と思うくらいの程度でしかわかりません。2歳という年齢ですから、まだ判断するのは難しい
のです。

でもよくアスペルガー症候群や、高機能自閉症の親のサイトでは、「外で癇癪が始まると激しく
騒いで、周りから白い目で見られたり親の躾(しつけ)がなっていないと怒鳴られた」というよう
な記事が出ていたりします。

発達障害を診断する医師は、このような、赤ちゃんから今までの様子なしでは診断できないと
言われているくらい、発達過程での様子は大事なのです。

うちの息子も1歳くらいから、暑さ、寒さ、不快さ、などの理由で大泣きし寝転がって両手両足を
激しく動かして抱く事もできないような癇癪から始まり、2歳くらいでは、YKさんのような理由で
の激しい癇癪が多かったです。電車の中でも、自分が思った通りでない事が起こると癇癪にな
ったりしました。その当時はASなどの知識はなかったので、失敗したなと思います。以下は私
の感想です。

【YKさんからのメールより】生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、ま
とめて寝ない子で、起きている時間は抱っこして歩きまわらないと、グズってばかりの娘でし
た。

家の子の場合も、寝かせるのが本当に大変でした。眠いし、寝たいのに無理に目を開けてい
るのです。放っておくと午前1時でも寝ません。しかし、これはBed time storyの定着でかなり解
消されました。Ritualが好きで、それを一通り済ませる事で安心して寝られたようです。

【YKさんからのメールより】2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。
着替えも、ちょっと手を出すと気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張
って
全部脱いでしまいます。

これは私は、OCとかOCDと言われるものが強い、つまりこだわりが強いからだと思います。
誰でも多少は持っています。しかし病的に近いものであると、手を洗うのがやめられない、この
通りの順番でないと駄目、と社会生活に支障をきたしてきます。

OCである子どもの性格を変える事は出来ませんが、緩和する事は出来ます。それはその習
慣の連続性をたまに断ち切るのです。無理強いではなく、あくまで偶然という感じでです。

例えば石鹸を使わないと手を洗った気がせず、いつも石鹸で長い時間洗い続けている場合、
石鹸を求めてきたらそこにあればあげてもいいのですが、たまには石鹸を隠しておいて、「そう
いえば買い忘れたからないわ。今度買っておくね、今日は水だけで洗おうね」という感じでで
す。

一度か2度習慣を断ち切るうちに、その習慣性から抜け出す事が訓練されるようになります。
無理強いは駄目ですが、あくまでさりげなくです。服に関しては自分で着るのは良い事で、やら
せておいてもいいように思います。急いでいても親があせって着せてあげる必要はないかもし
れません。

いつも私は自分に言い聞かせているのは「5分待ってあげたら癇癪にならなかった。5分待て
なかったから癇癪になって半日潰れた。焦ったら駄目」という言葉です。

【YKさんからのメールより】三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1
週間で自分でこげるようになり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真
ん中でも足を踏ん張って動かなくなってしまいます。

多分、この子はお母さんが後ろを押すのが嫌なのではなくて、断りもなしに押されるのが嫌な
のだと思います。発達障害の子は、次に何が来るのか状況から判断するのが非常に苦手な
ので、突然その出来事が降りかかったように思って驚いてしまうのです。だからお母さんが一
言、「押してあげようか?」と聞いたり、他の子を押している場面とか楽しい場面を見せて「こう
やって欲しい?」と聞いてあげれば、やりたいと言ったかもしれません。

【YKさんからのメールより】公園などでは順番や物の貸し借りのルールをすごく理解していま
す。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもちゃを「どうぞ」と貸してあげられたのに、相
手が貸してくれないようなことが何度も重なると、手がつけられないほど暴れて30分以上泣き
止んでくれなくなります。

社会規範、学校校則など、決まりごとはきちんと守るべきと捉え、その枠から少しも外れる事
ができないのは息子も同じです。言葉を文字通りにしか受け取れないからです。

学校で「教室で私語をしてはいけません」と先生が言ったら、休み時間でも私語をしません。人
とのルールも決まった通りにのみ動くと思っていて、そうでない人を軽蔑しています。しかし人
間ですから、そうでない場合もあり、プレイセラピーなどを通して学んでいくのが課題です。

【YKさんからのメールより】お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が狂ったように
泣き出しました。

さっきのと重複しますが、これも突然だったからではないでしょうか。「これこれしたらバイバイ
するけどいいかな?」と聞いて、本人が納得してからバイバイさせるとなんともなくバイバイした
りします。出かける時も、例えば家族で食事の時、今日は映画見に行こうか、なんて話していて
も、本人に「今日は何時に何の映画見に行くけどいいかな?」と確認を取っておかないと、出か
ける時に「言われてない」と癇癪になったりしました。何でも疑問形で聞くので母とかは「子ども
の顔色伺ってる」と批判してきました。

【YKさんからのメールより】ここまで激しいと私まで泣きたくなります。

私もその気持ち、とてもよくわかります。何度も泣きました。

【YKさんからのメールより】相手が泣いていたりすると自分が悪いと思ってしまい、何度も何度
もそういうことが重なると爆発するみたいです。

人間関係の相手の感情とか全く読めないので、目に見えるもの、涙とか怒った言葉の口調な
どで自分が責められたと思う場合が多いみたいです。また聴覚過敏だと、声のトーンが上がっ
ただけで平手ビンタをくらって気持ちになるそうです。

【YKさんからのメールより】こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、
いつもの太陽みたいな笑顔を見せてくれます。

そうです。まるでスイッチがオンになったり、オフになったりしたみたいです。

普通、気分悪かった事、恨みに思ったり、嫌な感情は、その事が過ぎてもなかなか忘れませ
ん。忘れないからこそ、学習したり、次から気をつけたり、同じ事を同じ人にしないようにしま
す。でも発達障害の子の癇癪の場合、その間の記憶があまりはっきり残っていなかったりする
事もあります。

そして癇癪発作が治まると、まるで何事もなかったように、スイッチがオフになったように普通
の子に戻ります。もう少し年齢が進むと、フラッシュバックで再度癇癪発作にならなければ、そ
の理由を話させたり、聞き出す事も出来るようになります。

大切なのは学び続ける事だと思います。

自分の子どもがこういう個性を持って生まれてきて、さて、どうやったら社会で生きていかれる
のか、レッテルを貼る事が必ずしもいいとも限りません。でも親だけはその子の特性を十分理
解してあげて、それに沿った援助をしてあげて欲しいと思います。

【はやし浩司よりNさんへ】

 現在(07年2月)、私も、2人のアスペルガー児を、指導させていただいています。ともに症状
は軽いほうですが、診断基準通りの症状を示しています。

(1)他人と良好な人間関係が結べない。
(2)不器用。(文字、数字が、乱雑すぎて、読めないなど。)
(3)ともに、数の分野で、特異な才能を見せている。
(4)まちがいを指摘されると、パニック状態になる。
(5)キレた状態になると、突発的にかんしゃく発作的な症状を示す、など。

 しかし私の今までの経験では、小学3、4年生ごろになると、症状が急速に収まってきます。
ときに自己意識(=自分を客観的に判断して、自分で自分をコントロールする力)が育ってくる
と、見た目には、わからなくなります。

 私のように幼児期からその子どもを見ている者にはわかりますが、たとえば小学校の先生な
どには、判断できないのではないかと思います。実際、学校の先生に、いつも「字が汚い」と、
叱られている子ども(小学高学年児)もいます。(叱ったところで、どうにかなる問題ではないの
ですが……。)

 もちろん、親の前で、「アスペルガー」という診断名を口にすることは、タブー中のタブーです。
しかしその子どもから、ときどき、そういうケアセンター(名称は、いろいろです)で、指導を受け
ているという話を聞き、そのように診断されているということを、私は知ります。

 (親のほうから、診断名を言うということは、めったにありませんので……。私のばあいは、知
っていても、知らぬフリをして、指導しています。)

 発達障害児の問題は、その子ども自身に問題があるというよりは、親自身にその知識と理
解がなく、強引な指導などにより、症状をこじらせてしまうところにあります。ADHD児について
も、同じです。

 早期に、それと知り、適切な指導で、症状をこじらせないことこそ、重要です。あとは、ここに
も書きましたように、(時)を待ちます。根気のいる作業ですが、終わってみると、「何だ、こんな
ことだったのか」という状態になります。

 ただ小学3、4年生になったから、症状が消えるということではありません。中学生、高校生
になっても、症状は残ります。(ADHD児も同じです。)が、「注意してみれば、わかる」といった
程度まで、症状は、わかりにくくなります。またそうなるよう、指導をつづけます。

 現在指導している、A君(小学高学年児)にしても、そういう子どもであるという前提で、指導し
ています。いろいろ問題点はありますが、A君自身でもどうにもならないことだとあきらめ、私の
ほうが、先に手を引くようにしています。たとえばまちがいを指摘しない、字が乱暴なのを責め
ないなど。

 こまごまと、追いつめないのが、指導のコツです。

 ともかくも、私は、実のところ、乳幼児期(0〜3、4歳児)については、ほとんどといってよいほ
ど、知識も、また指導の経験もありません。貴重なご意見、たいへんありがとうございました。

++++++++++++++++

YKさんからの相談(掲示板への
書き込み)を、再度、ここに転載
させていただきます。

++++++++++++++++

【YKさんより、はやし浩司へ】

生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、まとめて寝ない子(寝
る環境作りはいろいろと工夫しましたが無理でした)で、起きている時間は抱っこして歩
きまわらないと、グズってばかりの娘でした。

寝る子は育つと言うのに、こんなに寝なくて大丈夫なものかと病院に行ったほどでしたが、
至って健康で、人なつっこく男の子顔負けのやんちゃ娘に成長していきました。

好奇心旺盛で、喜怒哀楽がとてもハッキリしていて(嬉しいと興奮しすぎるほど喜ぶし、
怒ると手がつけられないほど泣き暴れます)、活発なので、やんちゃすぎて手はかかります
が、幼い頃おとなしかった私にしてみたら、すごく張り合いがあって自慢の娘です。

でもやっぱり神経質というか、頑固すぎるところがあり、2歳になってどう扱ったらいい
か分からなくなることが増えました。魔の2歳児というほど、2歳は周りの子もみんな反
抗期+何でも自分で!、という時期なので、ある程度は仕方ないと腹をくくって毎日気長
に接していました。

赤ちゃんの頃から手がかかる子だったので、今でも私にベッタリなこともあり、スキンシ
ップはたっぷり取れているつもりでいるのですが・・・。はやしさんのエッセイで、「わが
まま」と「頑固」の違いなどについて書かれていたを読んで、うちの娘は頑固すぎるのか
なぁと思い、相談させていただこうと思いました。

2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。着替えも、ちょっと
手を出すと気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張って全部脱い
でしまいます。

もともと好奇心旺盛な子なので、1歳のころから自分でできることなら、何分でもつき合
ってあげて、危険なことでない限り何にでも挑戦させてあげてきました。でもまだ2歳だ
からどうがんばっても無理なこともいっぱいあります・・・。

三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1週間で自分でこげる
ようになり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真ん中でも足を踏
ん張って動かなくなってしまいます。

また、夫に似て、正義感が強く変に真面目なところがあり、公園などでは順番や物の貸し
借りのルールをすごく理解しています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもち
ゃを「どうぞ」と貸してあげられたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重な
ると、手がつけられないほど暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。

以上に書いたようなことは、2歳児ならみんなあることだとは思うのですが、かんしゃく
を起こしたときの激しさが、ほんとにすごいんです。

今日はおもちゃの貸し借りがうまくできないことが続いて(相手の子が何が何でも自分の
おもちゃは貸さない!と言ってすぐ泣く子でした)、お友だちも娘もお昼寝の時間になり眠
たそうで機嫌が悪かったので、お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が
狂ったように泣き出しました。

「バイバイ嫌!!」と言って、すごい勢いで走り出して、道路に何度も飛びだそうとする
から、阻止して、落ち着かせようと抱きしめてあげたら余計に泣き叫びました。すごく激
しく暴れるので何度も道路や壁に頭を打って大変でした。

パニックになると「ぎゃーー!!」と泣き叫びながら私から離れて、走って行ってしまい
ます。室内など、少々走り回っても大丈夫な場所なら、ある程度落ち着くまで暴れさせて
あげて、落ち着き始めた頃にギューっと抱きしめてあげると少しずつ私に寄り添ってくれ
て、笑顔を見せてくれるます。

が、走り回れない野外だと、私が触れるたびにさらに火がついたように泣き叫んで、いつ
までたっても落ち着いてくれず、親子ともどもどろんこになりながら、1時間近く格闘し
なきゃいけないことになります。あまりに激しいので、街行く人たちも白い目で見るとい
うのを通り越して、どこか病気?にでもなったのかというぐらい怖い物を見るように心配
されたりします。

1歳代の頃から、気に入らないことがあるとしょっちゅう道路に寝転がってダダをこねる
子だったので、それぐらいのことで人目が気になったりはしないのですが、ここまで激し
いと私まで泣きたくなります。

「どうぞ」ができたことをいくら誉めてあげても、相手が泣いていたりすると自分が悪い
と思ってしまい、何度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。気は強いの
で、自分が今遊びたいものを我慢して貸してあげたりすることはなく、今遊んでないもの
をきっちり選んで貸してあげます。なので我慢が爆発するという感じでもないです。

こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、いつもの太陽みたい
な笑顔を見せてくれます。私にギューっと抱きついて、「お母さん、大好き〜」と言ってく
れます。「イヤイヤ!」は思いっきり発散させた子の方が後々いい子になるって聞くので、
反抗期が激しいのはいいことなのかもしれませんが、こんな娘の性格を伸び伸びと伸ばし
てあげるにはどう接していけばいいのでしょうか?

うまく文章に表せたか分かりませんが、アドバイスいただけたらとても嬉しいです。よろ
しくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー 発達障害)






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●いじめ

●いじめ(『負けるが、勝ち』)

++++++++++++++

学校教育法施行令によれば、
市区町村教委が入学先を指定
した小中学校を、保護者の申請
で変更できるとしている。

++++++++++++++

学校教育法施行令によれば、市区町村教委が入学先を指定した小中学校を、保護者の申請
で変更できるとしている。

 つまりある程度の理由づけがあれば、だれでも転校できるということ。「ある程度」というの
は、「同施行規則で各教委がその具体的要件や、手続きを定めている範囲」ということ。実際
には、そうした手続きを踏まないまま、転校を認めているケースも、少なくない。

 だから、子どもがいじめにあい、苦しんでいるのがわかったら、無理をせず、転校も視野に入
れて、解決方法を考えたらよい。言いたいこともあるだろう。不満もあるだろう。親としてのプラ
イドもあるだろう。しかし、この世界には、『負けるが勝ち』という格言がある。子どもの心を守る
ことを第一に考えて、行動したらよい。

 前にも書いたように、「教育」「教育」と気負いすぎると、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。
転校するからといって、それをおおげさにとらえる必要はない。実際、転校することによって、
いじめの問題は、おおかた、そのまま解決する。

 子どもと担任との相性が悪いときも、同じように考えたらよい。ほかの父母との折りあいが悪
くなったときも、同じように考えたらよい。それがあなた自身の問題であるなら、あなたも、がん
ばればよい。しかし間に、あなたの子どもがいるなら、『負けるが、勝ち』。大切なことは、子ど
も自身が、気持ちよく、学校へ通えるという環境を、子どもに用意すること。

 あなたではない。子どもが、だ。

 こうした行動が、ともすれば硬直化した学校教育のカベに、穴をあけることができる。あなた
自身も、あなたをがんじがらめにしているクサリから、解放される。けっして、学校教育を、否定
しているのではない。

 日本人は、あまりにも、「学校」にこだわりすぎる。「学校」という亡霊に、だ。私たちにとって大
切なことは、子どもの教育を、子どもの視点に立って、もっと自由に考えること。自由に組み立
てること。

 以前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いたことがある。この原稿に対する、反響は大き
かった。

+++++++++++++++++

【若者たちが社会に反抗するとき】
 
●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。

「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。

「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、
そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻
とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。

ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえる
ことができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪
放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。

そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめな
んてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が2億円もあるようなニュースキャスターが、
「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけている
テレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は
そのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラス
を壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったの
だろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで200万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、200万枚を超えた(CBS
ソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも
含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、
まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)

●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」
と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。

もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今こ
こに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎
日、机の上に置いてながめている」と。

ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来に
ついて、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意
識に関する基本調査」(01年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(01年4月)。タクシーに
はメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転して
くれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られな
いから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、11人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(01年8月静岡県版)。それをまとめると、次のようで
あった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)

☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)

☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)

☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。

 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。

十七、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
十八、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
十九、施設または設備を損壊する行為。
二十、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。

+++++++++++++++

ついでに、もう1作。
『負けるが勝ち』について
書いた原稿です。

+++++++++++++++
●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に1人はいる。

このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまとも
でない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。

しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」と
なる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が
先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考
えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよ
い。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●文部科学大臣からのお願い

2007年の11月、日本の文部科学省のI大臣は、全国すべての公立学校にあてて、つぎのよ
うな通達文を送った。

++++++++++++++++

文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ
弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。
仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいこと
をしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじめをすぐにやめよう。

いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友
達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆう
きをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域のみなさん
へ、

このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです、いじめられている子どもにも
プライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者等に訴えられないとも言われます。

一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱き取った生命。無限の可能性を持つ子どもたち
を大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化を見つけるためにも、毎日少しでも言葉
をかけ、子どもとの対話をして下さい。

子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡し合い、子どもの生命を護る責任をお互
いに再確認したいものです。

平成十八年十一月十七日

文部科学大臣 伊吹B明

+++++++++++++++++++

 この通達文を読んで、まず気がつくのは、2つのキーワード。「恥」そして「卑怯」。もう一度、
繰りかえす。「恥」そして「卑怯」。

 その部分だけを、もう一度、読んでみてほしい。

 『弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。仲間といっしょに友だちを
いじめるのは、ひきょうなこと。君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になっ
て、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじ
めをすぐにやめよう』と。

 あなたはこの2つのキーワードを読んで、何か、思い当たることはないだろうか? しかしもし
あなたが、220万人の1人なら、思いあたることがあるはず。そう、あの本である。2006年、
日本一のベストセラー書になった、あの本である。

 藤原M氏の書いた、『国家のH格』という、あの本である。藤原氏は、いじめについても、「卑
怯」を教えれば、それで解決できるというようなことを書いている。

 私はこの一文を読んだとき、『国家のH格』が、この通達文書とつながっているのを感じた。
感じたというだけで、それ以上の根拠はない。100%、私の推察。私の憶測? あくまでも、私
の「勘」である。

 しかしもし私の勘が正しいとするなら、『国家のH格』という本と、この文部科学省の大臣の通
達文書とは、どこかでつながっている。仮にもしそうであるとするなら、日本人の心が、私たち
の知りえない、巨大な策謀の中で、だれかによって、よいように操られている?

 しかし、これはあくまでも私の推察。私の憶測?

 そうでないことを願う。もちろんだからといって、藤原氏が、その策謀の片棒をかついだとか、
そういう失敬なことを言っているのではない。藤原氏の本は、あくまでも藤原氏の本。かりにど
こかでつながっているとしても、それは結果論。藤原氏の本は、利用されただけということにな
る。

 そこで改めて、この通達文書について考えてみる。言いたいことは、つぎの4点。

(1)友だちをいじめるのは、恥ずかしいこと。
(2)そういういじめをすると、あとで後悔するということ。
(3)いじめられている子は、だれかに話そう。
(4)それを話すことは、恥ずかしいことでも何でもないということ。

 ……なるほど。ウ〜ン。

 書きたいことは山ほどある。が、しかしここまで。が、あえて言うなら、今どき、「恥」だとか、
「卑怯」だとか……。私には、こういう言葉に、どうしてもついていけない。仮に恥じるとしても、
それは自分に対してのもの。また「卑怯」という言葉にしても、それは「愛」という言葉ほど、あい
まいもことして、つかみどころのない言葉はない。

 だったら、もっと端的に、「友だちを愛しましょう」と、なぜ、I文部大臣は、言わないのだろう。
そのほうが、ずっと、わかりやすい。説得力もあるし、国際的にも通用する。まさかI文部大臣
も、日本式の武士道の信者? もしそうなら、話はわかる。藤原氏の書いた本に、強く感銘を
受けたとしても、私は、驚かない。

 今の日本の動きを見ていると、日本全体が、どこか右へ、右へと流されていくように感ずる。
それとも、私が、左へ、左へと傾いているのか。それはよくわからないが、……というのも、私
は、自分では中立だと思っているので、ともかくも、今、日本は、戦前歩いた、その同じ道を再
び歩もうとしているのではないか。この通達文を読むと、私には、そんな感じがしてならない。

++++++++++++++++++++

批判ばかりしていてはいけないので、
私が書いた文を、ここに掲載します。

++++++++++++++++++++

●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

 この詩の中で私は、善悪の感覚は、乳幼児期につくられることを言いたかった、です。つまり
善悪の判断の基本となる、「ここちよい響き」「いやな響き」というのは、すでに乳幼児期に作ら
れるということです。よく「善悪の判断は、学校で、しかも道徳の時間に学ぶもの」と考えている
人がいますが、それは頭の中で考える「善悪の判断」です。もちろんそれがムダだとは思いま
せんが、その前提として、こうした「響き」があるかないかが、その子どもの心の基本になりま
す。子どもは心豊かで、愛情にあふれた、静かで、思いやりのある環境で心をはぐくみます。
乳幼児期の「心の環境」を大切にしてください。(この詩は、「子どものページ」にも掲載してあり
ます。)




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●生きがいについて

●論理的に、おかしな調査

++++++++++++++++++++++

このほど、東北にある、ある大学大学院系の研究機関が、
こんな調査結果を公表した。

生きがいの(ない)人は、死亡率が高い。
(ある)人の、1・5倍、と。

しかしその調査そのものが、?????。

++++++++++++++++++++++

 このほど、東北にある、ある大学大学院系の研究機関が、こんな調査結果を公表した。いわ
く、「生きがいの(ない)人は、死亡率が高い。生きがいの(ある)人の、1・5倍」と。

 しかしよく読んでみると、調査内容そのものが、へん。おかしい。「?」マークを、20個くらい並
べてもよい。ある大学院系の研究機関がした調査だから、ケチをつけるにも勇気がいるが、と
もかくも、読売新聞の記事を、そのまま紹介する。

++++++++++++++++

●『生きがい「ない」人は病死率高い…「ある」の1・5倍 (読売新聞) 

 生きがいがない人は、ある人に比べ、病気などで死亡する割合が1・5倍に高まる――T大
大学院医学系研究科のT教授(公衆衛生学)の研究グループが、こんな調査結果をまとめた。

 研究グループは、1994年に、宮城県内の40〜79歳の健康な男女、4万3391人の健康
調査を実施。「『生きがい』や『はり』を持って生活しているか」との質問に、「ある」と回答したの
は59%、「ない」は5%、「どちらとも言えない」は36%だった。

 このうち、7年後の2001年末までに病気にかかるなどして死亡した3048人について、死因
を追跡調査したところ、がん(1100人)が最も多く、続いて脳卒中などの脳血管疾患(479
人)、肺炎(241人)などが多かった』と(07年2月12日)と。

+++++++++++++++++

 ここで注意しなければならないことは、つぎの1点。

(1)調査対象としたサンプルの年齢幅が、40歳から79歳までと、広いこと。

 わかるかな?

 40代〜50代というのは、いわば働き盛り。生きがいがあるとかないとか、そういうことを考え
ることもないまま、懸命に働いている。そういう世代の人に、「生きがいはありますか?」と聞け
ば、大半が、こう答えるだろう。「YES!」と。しかし若いから、当然のことながら、死亡率は低
い。

 一方、60代〜70代ともなると、ほとんどが引退している。現職の人は少ない。そういう世代
の人に、「生きがいはありますか?」と聞けば、大半が、こう答えるだろう。「NO!」と。少なくと
も、若い世代よりは、生きがいをもって生活している人は、少ない。しかし老齢である分だけ、
死亡率は高い。

 もうすこし話をわかりやすくするために、こんな例で考えてみよう。

 幼児(4〜6歳)と、老人(77〜79歳)に、「毎日は楽しいですか」と聞く。大半の幼児は、「楽
しい」と答える。一方、大半の老人は、「楽しくない」と答える。しかし現在、幼児の死亡率は、き
わめて低い。

 が、77〜79歳の老人ともなれば、ほとんどがそのあと、7年後には、寿命を迎える。死亡率
はきわめて高い。

 そういう幼児と老人をひとまとめにして、「人生を楽しいと思っている人の死亡率は、低い。人
生を楽しくないと思っている人の死亡率は高い」と。そんな結論を出してよいものか。

 先にも書いたように、この調査をしたのは、天下のT大学大学院の某研究室である。そんな
研究室が、こんな「?」な調査結果を公表した?

 さらにおかしな点は、それを、死亡原因に結びつけていること。いわく、「がん(1100人)が最
も多く、続いて脳卒中などの脳血管疾患(479人)、肺炎(241人)などが多かった」と。

 40歳から79歳までを、ひとまとめにして、こうした病名を並べても意味はない。まったく、な
い。とくに「肺炎で死亡」というのは、老人特有の死亡原因と考えてよい。(若い人は、肺炎では
めったに死なないぞ!)たとえばがん患者などは、がんそのものよりも、がんの治療中に、肺
炎などで死亡するケースが多い。このばあいも、診断名は、「肺炎」となる。

 つまりこの調査結果を、簡単に読むとこうなる。

 40代の若い人は、生きがいがあるから、死亡率は低い。しかし70代の老人は、生きがいが
ないから、死亡率は高い、と。しかしそんなことは、何も、4万人以上もの人を対象に調査など
しなくても、常識でわかること。

 読売新聞だけの記事だから、私はまちがっているかもしれない。ここに書いたことは、あくま
でも、新聞記事の範囲内で、ということ。

実際には、年齢別に、(生きがい)と(死亡率)について調べてあるのかもしれない。たとえば4
0歳〜45歳、45歳〜50歳……、と。もしそうなら、話がわかる。(1・5倍という数字が、どうし
て出てきたかについて、読売新聞は何も書いてないが……。)

 しかしそれでも、病名と結びつけて考えるのは、どうかと思う。読売新聞を一読した人は、きっ
と、こう思うにちがいない。「生きがいのない人は、がんになりやすい」と。

 ちなみに、日本人の死亡原因は、つぎのようになっている(98年・厚生省死亡統計)。

1位=ガン28万3921人【30.3%】
2位=心疾患14万3120人【15.3%】
3位=脳血管疾患13万7819人【14.7%】
4位=肺炎7万9952人【8.5%】
5位=不慮の事故3万8925人【4.2%】、
6位=自殺3万1755人【3.4%】
7位=老衰2万0374【2.3%】
8位=腎不全1万6638人【1.8%】
9位=肝疾患=1万6133人【1.7%】
10位=糖尿病l万2537人【1.3%】

 この厚生省の死亡統計に、T大学大学院のした調査結果を並べてみる。

1位=がん1100人【36・0%……1100÷3048】
2位=脳卒中などの脳血管疾患479人【15・8%】
3位=、肺炎241人【7・9%】

 厚生省の調査結果と、T大学大学院のした調査結果は、ほとんど同じということになる。(ほと
んど同じになるに決まっている。)となると、(生きがい)と、(死亡原因)は、どこでどう結びつくと
いうのかということになる。先にも書いたように、たとえ老衰で死んでも、最後が肺炎であったり
すると、診断名は、「肺炎」となる。その肺炎にしても、割合は、ほぼ、同じ。

 つまりたとえば、「生きがいのない人の自殺率は高い」「生きがいのある人の自殺率は低い」
とか、そういう話なら、まだ私にもわかる。しかしそれとて、何もぎょうぎょうしい調査などしなくて
も、常識でわかること。

 一度、何かの機会にこの調査結果を取り寄せ、再度、この調査に検討を加えてみたい。それ
にしても、「?」な調査ではないか。今は、そういう印象だけを、ここにとどめておくことにする。

+++++++++++++++++++++

ついでに、(生きがい)、つまり(やる気)に
ついて書いた原稿を、添付します。

+++++++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
どうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気のある子供 やる気のない子供 子どものやる気 子供のやる気 やる気論)





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●親離れ、子離れ

●息子のBLOGより

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息子が、最終的な就職試験を受けている。

今日、その試験があった日。
気になる。気になった。

床につくまで、ワイフと、
電話をかけるべきかどうか迷ったが、
やめた。

息子には、息子の人生がある。
ヒナが巣立つように、息子は、
大空に向って、本当に巣立ってしまった。

親としてできることは、ただただ静かに、
そのうしろ姿を見守ることだけ。

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【息子のBLOGより】

明日、僕の操縦する飛行機の後席に、2名のJ社の機長が乗られる。オブザーブという、就職
試験の一環だ。

 緊張していないといったら嘘になるが、できるだけ緊張しないようにしている。僕は緊張しない
ほうが、普段の力が出せるから。

 J社の面接のとき、『緊張してないように見えますが、緊張していますか』という質問をされた。
僕は馬鹿正直に、『緊張していません』と答えた。ありのままを見て、それで採用・不採用を決
めてほしかった。僕がJ社でも通用する人間かどうか、素直に見極めてほしかった。無理して
自分を偽って、それで受かったとしても、この先何十年間偽り続けなくてはいけないし、また落
ちたとしても、諦めがつかない、と思ったからだ。JALの面接会場に入るまでに、僕はこんな心
境に達していた。そして今回も、同じ心境だ。

 結果として、緊張しない方が見栄えが良かったのかもしれない。客席にどんなに偉い人が乗
られても、どんなに難しい試験中であろうとも、またどんな緊急事態が起こっても、動じないパイ
ロット。緊張しているそぶりを見せないことで、自分はそういう人間ですと、何よりも物語れるの
かもしれない。

 僕が緊張しない(しないようにしている)理由はもう一つある。こんなこと言ったら怒られるかも
しれないが、僕はもう、航大生活に満足している。嫌というほど大空を飛べた。綺麗な景色をた
くさん見られた。実家の上も飛べた。教官や同期には、手に余るほどの新しい価値観や生き方
を教えてもらった。間違いなく、今までの人生の中で最も濃く、得るものの多い2年間であった。

 これ以上、いったい何を望むのか。

 就職活動中、僕は何度か、この問いを自分に投げかけていた。いい会社に入りたいだなん
て、おこがましいことなのではないか、黙って与えられた環境を受け入れるべきなのではない
か、と。いい会社に入ることが航大の目的ではない。いいパイロットに、いい人間になること
が、最大の目的である。僕はその目標に向かって、精一杯頑張ってこられたと思う。

 だから、いつも通りやればいいんだと、心から思える。こういう僕が、誰かのお役に立てるの
ならば、喜んでお手伝いしようと思う。これからも飛ぶ機会が与えられるのであれば、命尽きる
までまで飛ばせていただこうと思う。それは、空への恩返しのようなもの。明日は、後ろに試験
官ではなく、『初めてのお客さん』を乗せているつもりで、快適なフライトができるよう、がんばろ
うと思う。

 僕にこんな経験をさせてくれて、空よ、翼よ、ありがとう。


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息子のこの記事を読んで、私は以前、こんな
原稿を書いたのを思い出しました。

『ドラえもん』は、1〜30数巻まで、
読破(?)しましたが、その中でも、いちばん
すきな部分について書いたエッセーです。

それをそのまま紹介します。
(中日新聞掲載済み)

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●親離れ、子離れ

 子どもは小学3、4年を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。気づ
かないまま、親意識だけをもち続ける。またそれをもって、親の深い愛情だと誤解する。つまり
子離れできない。親子の悲劇はここから始まる。あの芥川龍之介も、『人生の悲劇の第一幕
は親子となつたことにはじまつてゐる』(侏儒の言葉)と書いている。

 息子が中学1年生になっても、「うちの子は、早生まれ(3月生まれ)ですから」と言っていた母
親がいた。娘(高校生)に、「うす汚い」「不潔」と嫌われながらも、娘の進学を心配していた父
親もいた。自らはほしいものも買わず、質素な生活をしながら、「あんなヤツ、大学なんか、や
るんじゃなかった」とこぼしていた父親もいた。

あるいは息子(中2)に、「クソババア! オレをこんなオレにしたのは、テメエだ」と怒鳴られな
がら、「ごめんなさい。お母さんが悪かった」と、泣いてあやまっていた母親もいた。

しかし親子の間に、細くとも1本の糸があれば、まだ救われる。親はその1本の糸に、親子の
希望を託す。しかしその糸が切れると、親には、また別の悲劇が始まる。親は「親らしくしたい」
という気持ちと、「親らしくできない」という気持ちのはざ間で、葛藤する。これは親にとっては、
身をひきちぎられるようなものだ。ある父親はこう言った。「息子(19歳)が暴走族の1人になっ
たとき、『あいつのことは、もう構いたくない』という思いと、『何とかしなければ』という思いの中
で、心がバラバラになっていくのを感じた」と。

もう少しズルイ親だと、「縁を切る」という言い方をして、子育てから逃げてしまう。が、きまじめ
な親ほど、それができない。追いつめられ、袋小路で悩む。苦しむ。

 子どもというのは、親の期待を1枚ずつはぎ取りながら、成長する。中には、最後の1枚まで
はぎとってしまう子どももいる。年ごとに立派になっていく子どもを見る親は、幸せな人だ。しか
しそういう幸運に恵まれる親は、一体、何割いるというのだろうか。

大半の親は、年ごとにますます落ちていく(?)子どもを見せつけられながら、重い心を引きず
って歩く。「そんな子どもにしたのは、私なんだ」と、自分を責めることもある。しかしそれとても
とをただせば、子離れできない親に、問題がある。

あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(18巻)。タンポポの種が、タンポポの
母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親は懸命に説得する。

しかし一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポの種が、どこでどの
ような花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。しかし母親はこう言って、子ど
もを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできることがどうしてできないの」と。

 子どもの人生は子どもの人生。あなたの人生があなたの人生であるように、それはもうあな
た自身の力が及ばない世界のこと。言いかえると、親は、それにじっと耐えるしかない。たとえ
あなたの息子が、あなたの夢や希望、名誉や財産、それを食いつぶしたとしても、それに耐え
るしかない。

外から見ると、どこの親子もうまくいっているように見えるかもしれないが、それこそまさに仮
面。子育てに失敗しているのは、あなただけではない。





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●武士道

●武士道

トム・クルーズの『ラスト・サムライ』がヒットしたこともある。NHKの『新撰組』もそうだ。そのせ
いか、今、日本は、武士道一色といってもよい。O女子大教授の、FM氏などは、「日本が誇る
べき民族精神である」(「文言春秋」04・05)などと、賞賛している。

 しかし武士道とは、いったい何なのか。たとえば今、話題の、『新撰組』。

 あの新撰組が、京都の町に現れたとき、京都の町は、恐怖のどん底に叩き落された。新撰
組は、我がもの顔に刀を振り回し、自分たちの意に沿わない者を容赦なく殺していった。

そういう連中が、いかに恐ろしい存在であったは、数年前に佐賀県で起きた『バス・ハイジャッ
ク事件』を思い出してみればわかる。あのときは、刃渡り40センチ足らずの包丁をもった少年
に、日本中が震えた。

 そこで武士道。

 江戸時代には、士農工商という、明確な身分制度がしかれていた。この身分制度でいう、
「士」が、武士ということになる。つまりは、刀をもった、為政者。日本人全体としてみれば、数
パーセントに満たない人たちであった。

 大半の日本人は、その武士の圧制、暴力の影におびえながら、細々と生活をしていた。つま
り江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代
であった。私たちがいう武士とは、そういう時代の「武士」であったことを、忘れてはならない。

 こんな話を、15年ほど前、山村に住む90歳(当時)くらいの女性に聞いた。

 明治時代の終わりごろ。江戸時代が終わって、20〜30年近くもたっていたというが、そのと
きですら、まだ、旧武士たちは士族と呼ばれ、刀をさして歩いていたという。

 その人が歩いてくると、遠くからカチャカチャと、鞘(さや)が、当たる音がしたという。すると、
皆は、道の脇により、頭を地面にこすりつけるようにして、ひざまづいたという。

 「私が子どものころはそうだったよ」と、その女性は笑っていたが、武士道には、そういう側面
がある。

 私たち日本人は、こういう話を聞くと、自分の視点を、武士の目の中に置いて、考えがちであ
る。「頭をさげた平民」ではなく、「頭をさげさせた武士」の目を通して、日本を見る。

 これは日本人独特の、オメデタさと考えてよい(失礼!)。今でも、つまり2004年の今でも、
「私の先祖は、旧M藩の家老でした」「私の先祖は、官軍の指揮官でした」などと、自慢する人
は多い。残りのほとんどの先祖は、町民や農民であったことについては、目をつぶる。

 「私の先祖は、武家だった」と主張するのは、その人の勝手。またそれを誇りに思うのも、そ
の人の勝手。しかしそれがどうしたというのか? あるいは、そんなことは、そもそも、誇るべき
ことなのか。

 江戸時代が終わって、140年近くもたったいるのに、いまだに、そういうことを言うというの
は、つまりは、それくらい、あの江戸時代という時代が、恐怖政治の時代であったということを
意味する。民衆は、骨のズイまで、魂を抜かれた。一つの例をあげよう。

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●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所という
ことだが、それほど大きさを感じさせない関所である。

江戸時代という時代のスケールがそのまま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「き
びしさ」。

関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわかる。つかまれば死罪だ
が、その関所破りを助けたもの、さらには、その家族も同程度の罪が科せられた。

新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、そこで
さらにはりつけに処せられたという記録も残っている。移動の自由がいかにきびしく制限されて
いたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いたことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その中の
随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでいた」とい
うような記述があったことである。

当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事はいっさいなかった。私と女房
は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまった。「江戸時代が自由な時代だ
ったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつ
とは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あの北朝鮮の人たちだって、「私たちは
自由だ」(報道)と言っている。あの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家
だ」と主張している。(北朝鮮の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)

現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコメン
ト)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことである。

私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかということ。
新居の関所はその象徴ということになる。たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡
崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであ
ったのが気になる。

関所がそれくらい身分の高い人(?)によって守られ、新居町が特権にあずかっていたというこ
とだが、批判の対象にこそなれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そういう
意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関所をと
おして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じてみるとよ
い。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して美化して
はいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所の中には、これ
また美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のように美しかった。

私がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。

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もう一つ、こんなエッセーを書いたことがある。
(中日新聞、投稿済み)

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「偉い」を廃語にしよう
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言う。よく似
たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。

日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう
言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信
長は天下を統一したから」と。

中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打ちこわし、……関所を廃止し
て、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読む
と、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?   
 

実際のところ、それから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ
恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生
活を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。

由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は関係
者はもちろんのこと、親類縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)安部川近くの
小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と書いている。

家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の悪い事実は、
これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた
自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが
地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心
のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。

「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人をめざす出世主義がは
びこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだしも、政治にそれが利用さ
れると、とんでもないことになる。

少し前、幼稚園児を前にして、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらいた。そういう意識
がある間は、日本の民主主義は完成しない。

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●武士道とは

 武士道を信奉する人たちのバイブルとなっているのが、新渡戸稲造が書いた、『武士道』(明
治32年)である。新渡戸稲造といえば、5000円札の肖像画にもなっているから、知らない人
はいない。明治時代の終わりごろ活躍した人物で、ほかにも『随想録』(明治40年)に書いたり
している。

 もともとは、幕末の南部藩(岩手県)の武士の子弟として生まれ、札幌農学校を卒業したあ
と、アメリカにも留学している。

 その武士道でもっとも重んじるのが、「名誉」ということになる。新渡戸稲造も、『武士道』の中
で、こう書いている。

 「武士は、命よりも高価であると考えられることが起きれば、極度の平静と迅速をもって、命
をすてる」と。

 要するに、名誉のためには、死をも覚悟せよ、と。

 新渡戸稲造が、いつの時代の武士を念頭に置いたのかはしらないが、幕末の武士たちは、
堕落し放題。権威と権力の座に安住し、その中身と言えば、完全にサラリーマン化していた。
サラリーマン化が悪いと言っているのではない。「名誉のために、死をも覚悟した」というのは、
あまりにも大げさ。

 もっともこの心は、やがて日本の軍国主義の精神的根幹にもなっていった。「死して虜囚(り
ょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」とういう、あれである。しかしその言葉の裏で、いかに多
くの日本人が、犠牲になったことか。あるいはいかに多くの外国人が、犠牲になったことか。

 もっとも愛国主義が最初にあり、それから生まれた名誉のために死ぬというのであれば、ま
だ納得できる。正義、あるいは、自由や平等のために死ぬというのであれば、まだ納得でき
る。しかし武士道でいう『名誉』とは、まさに主君もしくは、「家」に対する、忠誠心をいった。

 ほかにも、武士道には、「義」「勇」「仁」という三つの柱があり、さらに「礼節」「誠実」「名誉」
「忠義」「孝行」「克己」の、人が守るべき、徳目として、並べられている。「名誉」それに、それか
ら生まれる「恥」の概念も、こうした徳目から、生まれた。

 もちろんある側面においては、武士道は魅力的であり、それなりに納得できる部分もある。し
かし武士道が、封建時代というあの時代の「負の遺産」を支えたもの事実。「影の部分」と言っ
てもよい。もっとわかりやすく言えば、武士道がもつ「負の側面」に目を閉じたまま、武士道を、
一方的に礼さんするのは、たいへん危険なことでもある。

 たとえばここでいう「義」「仁」にしても、つきつめれば、「仁義の世界」。つまり、現代風に言え
ば、ヤクザの世界ということになる。

 また、名誉についても、『武士は食わねど、高楊枝(ようじ)』(武士というのは、食べるものが
なくて空腹でも、満腹のフリをして、名誉を守った)という、諺(ことわざ)も、ある。

 果たしてそういうメンツや見栄にこだわることも、武士道なのだろうか。武士道を礼さんする
人は、武士道を知らなければ、「人の正義」はないようなことを言う。しかしこの私などは、武士
道とはまったく無縁。しかしそんな私でも、礼節もあれば、名誉もある。誠実、忠義、孝行、克
己についても、自分なりに考えている。

 たしかに、今の世相は、混乱している。それはわかる。しかしそれは当然のことではないか。

 日本は、江戸時代という封建主義時代。明治、大正、昭和という軍国主義時代。そして戦後
の官僚主義時代。こういった時代を、それぞれ経験しながら、そのつど、過去の清算をしてこ
なかった。反省もしなかった。

 だから、今の若い人たちを中心に、「わけのわからない世界」になってきた。

 それはわかるが、で、こうした世相に対する考え方は、二つある。

 一つは、過去にもどるという考え方。よくても悪くても、そこには、一つの「主義」がある。最近
もてはやされている武士道も、その一つかもしれない。

 もう一つは、新しい主義を、創造していくという考え方。当然のことながら、私は、この後者の
考え方を、支持する。またそのために、こうしてモノを書いている。それについては、これからも
追々書いていくが、ともかくも、今の段階では、そういうことになる。

 最後に、忘れてならないのは、私の先祖も、あなたの先祖も、その武士階級にしいたげられ
た、町民や農民であったこと。もし仮に今でもあの封建時代がつづいていたとしたら、私やあな
たも、今でも、ほぼまちがいなく、町民や農民であるということ。

 そういう私やあなたが、武士のまねごとをして、どうなるというのか? 武士でもない私やあな
たが、武士道を説いて、どうなるのか。そのあたりを、じっくりと考えなおしてみてほしい。

今でこそ、偉人としてたたえるが、新渡戸稲造にしても、武士という特権階級に生まれ育った人
物である。アメリカから帰ってきたあとも、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京女子
大の初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任している。まさにエリート中のエリート。時の
権力や権威をほしいままに手に入れた人物である。その事実を、忘れてはならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 武士
道 新渡戸 義 勇 仁 仁義の世界 仁義)

【恥・名誉論】

 懸命に生きる。それがすべて。
 恥なんて、考えるな。そんなもの、クソ食らえ!
 あなたは、あなた。どこまでいっても、
 あなたは、あなた。

 懸命に生きる。それがすべて、
 名誉なんて、考えるな。そんなもの、クソ食らえ!
 あなたは、あなた。どこまでいっても、
 あなたは、あなた。

 恥や名誉があるとするなら、
 それは、自分に対してのもの。
 懸命に生きなかったことを恥じろ。
 懸命に生きたことを、名誉に思え。

 これからに私たちは、そういう生き方をしよう。
(040418)

【追記】

 現在の今でも、こうした武士道の片鱗(へんりん)は、ヤクザの世界に見ることができる。そこ
は、まさに仁義の世界。

 ここにも書いたように、武士道の世界にも、それなりのよさもある。それは否定しない。しかし
同時に、あの封建時代がもっていた、負の側面にも、目を向けねばならない。武士がいう、武
士道とやらの陰で、いかに多くの民衆が、しいたげられたことか。恐怖におののいたことか。一
部の特権階級を守るために、犠牲になったことか。

 決して、武士道を、無批判なまま美化してはいけない。それが私の考えである。







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●家庭内暴力

【家庭内暴力】

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激しい家庭内暴力を繰りかえす子ども。
そのたびにお金を巻き上げられ、その
お金は、ゲームセンターへと消えていく。

そんな息子(15歳)をもつ母親から、
「どうしたらいいか」という相談が届いて
います。

みなさんと、いっしょに、この問題を考
えてみましょう。

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【京都府にお住まいのKさんより、はやし浩司へ】

家族は、私(母親)と、息子(15歳)の、2人住まいです。息子が生まれるとまもなく、夫が事故
で他界。以来、14年になります。

で、先生のHP(=はやし浩司のHP)に出会って、毎日繰り返し読んでは、反省したり、気持ち
を切り替えたりしています。私の置かれた状況は、かなり深刻な状況だと、内心不安でいまし
た。が、心のインフルエンザで、いつか必ず治るという言葉には、とても慰められました。もう少
し早く出会っていればもっとよかったと思います。

HPに書いてあることを、ひとつひとつ実践してはいますが、我が家の置かれている状況は、な
かなか手ごわいものです。

私自身、勉強をして、いい学校に入って幸せになりたいと、まじめにやっていた子だったため、
息子の心がわかってあげられませんでした。が、息子は勉強嫌いで、高望みはしないまでも、
なんとか高校にはいって欲しいという気持ちだけで、苦労を乗り越えてきた気がします。

現在は、学校へはほとんど通っていません。その怠学はともかくとして、ゲーセン通いがつづい
ています。で、そのたびに息子は、激しい暴力と嫌がらせで、私から、お金を巻き上げようとし
ます。そうした息子との戦いは本当に苦しいものです。

トイレにわざと、牛乳をまき散らしたり、家のものを全部、ひっくりかえしたり、殴る蹴るの連続
です。暮れから何度もそんな激しい暴力が繰りかえされ、ひどいことをされました。息子という
人間が破滅していくような感じがし、それに耐えられなくて、何度もお金をあげてしまいました。

ゲーセンのことで頭がいっぱいだと、人はこんなにも、ひどいことができるのかと思って悲しくな
ります。もう、そんなときの息子は、獣のようです。手がつけられません。暖かい無視を繰り返
し、空気のように関わることを願ってはいますが、私に対する暴力がつづくと、関わらないでい
ることもできません。

状況をこれ以上わるくしないためにできることって、なんでしょう。どうか、どうかアドバイスをく
ださい。二番底、三番底に向ってまっさかさまに落ちているようで、不安です。唯一の親として、
いつか無償の愛で、心が満たされるために、今してやれること、しなくてはいけないことはなん
でしょうか。アドバイスを何度読んでも、ここまできてしまった我が家でも、それでいいのかわか
らなくなってしまっています。

【はやし浩司より、Kさんへ】

 今朝(07年2月20日)は、花粉症もあって、早朝に目をさましました。起きると同時に、たて
つづけにクシャミの連続です。目もかゆいです。

 相談のメールを数回、読みました。私自身は、Kさんの気持ちもよくわかりますが、息子さん
(=U君としておきます)の気持ちも、これまたよく理解できます。U君自身も、行き場のない袋
小路の中で、もがき、苦しんでいます。

 まず、最初に申しあげなければならないのは、症状からして、U君は、(心の病気)にかかっ
ているということです。病気は病気です。おとなの世界にも、「ギャンブル依存症」というのがあ
ります。これは立派な病気で、うつ病に準じて考えられています。「依存うつ」とも呼ばれていま
す。

 何かに依存することによって、自分の中の(うつ状態)を解消しようとするところから、そう呼
ばれています。

 傍から見ると、本人の意思の問題のように見えるかもしれませんが、今の状況では、本人の
意思では、どうにもなりません。本人の意思を超えたところで起こる、心の病気だからです。
で、問題を整理してみます。

(1)子どもの怠学
(2)家庭内暴力
(3)ゲーセン通い

 お気づきのように、U君は、学校恐怖症による不登校児ではなく、怠学と判断されます。学校
恐怖症と怠学の大きな違いは、学校へ行かない間、家に引きこもるかどうかという点です。「学
校をサボッて、遊び歩くというのであれば、怠学です。私のHPに、アメリカの内科医学会のレ
ポートを収録しておきましたので、またいつか、読んでみてください。

 家庭内暴力については、うつ症状のひとつと考えられます。ゲーセン通いについても、そうで
す。

 一見、バラバラな症状に見えますが、基本的には、(うつ病)が基盤にあって、それが怠学に
なり、家庭内暴力になり、ゲーセン通いにつながっていると考えられます。

 が、この種の問題で、いちばんやっかいな点は、子ども自身が、そうした心の病気をかかえ
ていることではなく、(1)親が、心の病気と理解できないケースが多い。(2)本人自身が、それ
に気がつかないという点、です。

 もうひとつつけ加えるなら、心の病気は、外からはわかりにくく、そのため安易に考える傾向
がありますが、(治療)を考えるにしても、半年単位、1年単位という時間がかかるということで
す。

 インフルエンザのように、1週間単位で治るということはありません。

 精神療法の中には、認知療法というのがあります。心のインフルエンザにしても、自分でそう
いう自分であると気がつくだけでも、病気のほとんどが治ったと考えます。あとは時間が解決し
てくれます。

 しかし先に書いたギャンブル依存症にしても、本人が自分でそれに気づくことは、まずありま
せん。「自分は正常だ」「オレは、どこもおかしくない」と考えて、家族や他人の指摘をはねのけ
てしまいます。医院へ足を向かせるだけでも、たいへんということです。

 そこで問題は、どうすれば、本人自身に、それを気づかせるかということです。そんなわけ
で、これは教育の問題ではなく、またKさんが、家庭の中で悶々と悩むような問題ではなく、す
でに医療の問題になっているということです。

 お近くに心療内科の医院があれば、一度、Kさん自身が足を運び、そういうところで相談なさ
るというのも、一つの解決法かと思われます。ケースとしては、いまどき珍しくもなんともない。
つまりごくありふれたケースです。(Kさんにしてみれば、「どうしてうちの子だけが……」と思っ
ておられると思いますが……。)

 今ではたいへんよい薬も開発されていて、精神を安定させるだけではなく、こだわりを取り除
く薬もあります。そのためにも、本人自身に、自分がそうであると気がつかせることが大切だと
いうことです。しかし、ここがむずかしいです。

いただいたメールを読む範囲では、一触即発といった感じがします。どなたか、間に入ってもら
うのがよいかと思います。京都府内にも、同じような子どもをもち、相談しあうような会がありま
すので、一度、保健所か、市の相談窓口、あるいは教育委員会の相談窓口に相談なさってみ
てはどうでしょうか。

 「こういう会がありますよ」「こういう相談窓口がありますよ」という形で、相談にのってもらえる
はずです。

 あるいは、インターネットで、「京都府 家庭内暴力 相談」「ギャンブル依存症 相談」など
で、検索されますと、お近くにある「会」をヒットすることができるはずです。

 今、Kさんが悩んでおられるような問題は、「許して忘れる」とか、「親の愛」とかいうような大
げさな問題ではありません。またそれで解決する問題ではありません。まさに(心のインフルエ
ンザ)です。わかりやすく言えば、心がウィルスに侵され、発熱しているような状態です。発熱し
て、自分で自分がわからなくなっているような状態です。

 そんなわけで、

(1)心の病気と、はっきりと割り切ること。
(2)ひとりで悩んだり苦しんだりしないで、「会」へ顔を出すこと。
(3)心療内科(もしくは精神科)のドクターに相談すること。
(4)「治療」を考えた行動に移すこと、です。

 ただそのばあいでも、つぎのことを守ってください。

(1)ぜったいに、U君を突き放すような言動をしてはならないということ。
(2)「どんなことがあっても、私はあなたを守る」という姿勢を貫くこと。

 そういう意味では、今、まさにあなたの愛の深さが試されるときと、心得てください。親として
の、正念場ということです。というのも、ここから先が、U君の置かれた立場の問題ということに
なります。

 あなたが悩んでいるのと同じくらい、U君自身も、自分で何をしたらよいのか、自分がどうある
べきなのか、わからないでいるのです。このタイプの子どもは、不安の上に不安を増幅させて
しまいます。妄想がそれに重なることもあります。それが自分の将来への不安とつながり、自
暴自棄になっていく……。自らにダメ人間というレッテルを張ってしまい、そこから抜け出すこと
もできません。

 家庭環境にも、問題がありました。溺愛と甘やかし。期待と強要。U君にいてみれば、「こんな
オレにしたのは、お前のせいだ」となるわけです。Kさんがお気づきのように、Kさん自身が、U
君の心の様子を知ることもなく、一方的に親の価値観を押しつけてきたという点も、見逃せま
せん。(が、それは、過去のことですから、この際、忘れましょう!)

 Kさんは、2番底、3番底の話をされましたが、しかし同じうつ病でも、(これはあくまでも一般
論ですが)、引きこもりを起こすタイプ(私はマイナス型と呼んでいますが)、そのタイプよりは、
家庭で暴れる子どものほうが、治療もしやすいということになっています。

 回復期間も早く、治ったあとも、立ち直りが早いと言われています。さらに治ったあと、ふつう
の人よりも、よき常識人となることも知られています。今は、苦しいかもしれませんが、いつか
笑い話になると信じて、ここを乗り越えてください。

 「ぼくの母は、どんなときでもぼくを見捨てなかった」という思いが、やがて、あなたとU君の間
の、太い絆(きずな)になります。そういうときが必ず、やってきます。

 で、その一方で、U君が本当は何をしたいのか、それをさぐりつつ、U君といっしょに、(U君さ
がし=自分さがし)を、したらよいかと思います。

 なおこの種の家庭内暴力の特徴として、子どもは暴力的行為を繰りかえしながらも、ある一
線を越えるということはありませんので、不必要におびえる必要はありません。わかりやすく言
えば、暴力的行為を繰りかえしながら、U君は、あなたの愛情の深さを試していると考えてくだ
さい。

 つまり、自分を支配するマザーコンプレックスと、母親から受ける呪縛感という、相矛盾する
心理状態の中で、はげしく葛藤している状態と考えます。絶対的な愛を求めながら、それを求
めきることもできない。しかし母親の強い呪縛感(=家族自我群)のはざまで、もがいている。

 「お母さん、何とかしてくれ」という甘えと、「もうぼくのことは放っておいてくれ」という、自我の
芽生えの中で苦しんでいると考えるとわかりやすいでしょう。

 今のU君の心理状態は、そういう状態です。(原因は、Kさん自身が、子離れできていないこ
と。さらには、U君の親離れを、うまくさせてこなかったことなどが考えられますが、それも過去
の話ですから、ここではあまり考えないでおきましょう。)

 以上を参考にして、内に引きこもって悩むのではなく、ここに書いたことを参考に、行動に移
してください。そういう意味では、この日本は、すばらしい国ですよ。みんな、心暖かく、あなたを
迎えてくれますよ。そういう人たちを信じて、足を一歩、前に踏み出すのです。

 なお、今回のこの問題は、私の電子マガジン(無料版)の、3月19日号(予定)で、再度取り
あげて考えてみたいと思っています。よろしかったら、購読を申しこんでください。私のHPのトッ
プページからできるようになっています。

 繰りかえしますが、今、U君は、あなたに何か尊いものを教えるために、そこにいるのです。
あなたはU君を通して、「愛」の深さというか、すばらしさを教えられつつあるのです。

 勇気を出して、友として、横に立ちなさい。問題のない子育ては、それ自体、美徳かもしれま
せん。が、そんな子育てからは、何も生まれません。あなたがこの問題を乗り越えたとき、あな
たは、そこにすばらしい(あなた)を発見することでしょう。ついでに、世の母親たちが、みな、愚
かで、つまらなく見えてくることでしょう。

 親は、子どもを産んで母親になりますが、真の母親になるには、幾多の山や谷を越えなけれ
ばなりません。今が、その山や谷を越えるときだと心得てください。つまり運命を受け入れるの
です。さからわないで、ね。応援します!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家庭
内暴力 ゲーセン 怠学)





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●荒れる子ども

●荒れる子どもたち。

+++++++++++++++++

はっきり言おう!

受験塾へ通い始めただけで、
子どもの心は殺伐としてくる。
ゆがんでくる。冷たくなる。

やさしい先生にだと、
「テメエ、このヤロー!」と、
長いものさしをもって
飛びかかってくる。

そんな子どもの変化を、世の親たちは、
気づいているのか?

+++++++++++++++++

 心の内面化が充分できていない子どもを、受験競争に駆り立てるのは、愚かなこと。実に愚
かなこと。

 私が住むこの地方でも、ほんの7、8年前までは、無風地帯だった。高校入試が受験競争の
関門になっていた。が、今は、ちがう。都会並みに、中学入試が受験競争の関門になってしま
った。

 そこでほとんどの受験塾では、それまで中学生にしていた受験競争を、そっくりそのまま小学
生に対してするようになった。

 定期テストをし、順位を出し、合格率(?)を算定して、あとは、親や子どもをおどす。分厚い
問題集を与え、宿題にし、競争でしぼる。

 とたん、子どもの心は破壊される。こなごなに破壊される。

 たった1か月、受験塾の主催する夏期講座に参加しただけで、ガラリと様子の変わる子ども
となると、いくらでもいる。以前、10人中、3、4人はそうなると書いたが、それとて控えめな数
字。実際には、7、8人がそうなる。

 このタイプの子どもは、相手がやさしい先生とわかると、容赦なく、暴力を振るう。暴力と言っ
ても、子どもらしい、やさしさのある暴力ではない。「テメエ、このヤロー!」と叫んで、長いもの
さしをもって飛びかかってくる。足蹴りをしてくる。頭をスリッパで殴ってくる。

 すごんだ目つき。すさんだ表情。スパスパと動く体。

 そういう子どもでありながらも、ほとんどの親は、「うちの子も、やっと気構えができてきたよう
です」と、喜んでみせる。あるいは「すさんだ態度をとるのも、家の中だけ」と思いこんでいる。

 しかし決して、家の中だけではない。昨夜も、そのことで、ある小学校の先生と、電話で話し
た。その先生は、こう言った。

 「おそらく、親たちは、自分の子どもがそうであるということに気づいていないでしょうね」と。

私「親に話したら、どうなりますか?」
先「自分の子が、先生に嫌われたと判断するでしょうね」
私「結局は、だまっているしかないのですね」
先「そうです。ヤブヘビになりますから」と。

 こういうケースのばあい、子どもを「君の態度を、親に告げる」と脅すのはタブー。子どものほ
うが先手を取って、親に、先生の悪口を言い始める。つまり親をして、先に、先生のほうっが悪
いと思わせてしまう。

 私も、そういう場面をよく経験する。暴力を振るわれるのは、日常茶飯事。たいていは、冗談
めかしながら、その場をやりすごす。しかしそれでも足蹴りをしてくる子どもは、多い。ふつうの
足蹴りではない。まともに蹴ってくる。本気で蹴ってくる。

 ときにしばらく息もできないこともある。で、あまりにも暴れ方がひどいときには、私のばあい
は、即刻、退塾させる。が、親は親で、そういう私のほうを、うらむ。気持ちはよくわかる。しかし
それ以上に、自分の子どもの心の状態が、今どうなっているか、親は知らない。気がついてい
ない。

 あとは、この悪循環。結局は行き着くところまで行かないと、親は気がつかない。子どもの心
がこなごなにこわれても、(いい学校?)へ入れば、それでよいと考える。どこまでもさみしい、
親心。どこまでも悲しい、親心。

 考えてみれば、みな、受験競争が悪いのだ。それで金儲けをする受験塾が悪いのだ。いや、
その前に、この世にはびこる不公平社会が悪いのだ。そういうものをいっぽうで野放しにしてお
いて、何が教育だ!

 小学校の5、6生といえば、まさに心ができてくる時期。その時期に、「勝った」「負けた」「受か
った」「すべった」と、そんなことばかりしていたら、子どもは、どうなる? 少し冷静になれば、そ
んなことはだれにだってわかるはず。

 それに受験競争にしても、うまくいく例よりも、うまくいかない例のほうが多い。一度、ボロボロ
になってしまった心は、2度ともとには戻らない。戻らないことは、その受験勉強で成功した
(?)人たちを見ればわかるはず。ひょっとしたら、あなた自身も、そうかもしれない。

 しかし、こんなことでよいのだろうか?

 やさしく、穏やかな先生が、子どもたちに足蹴りにされ、罵声を浴びせかけられる……。殴ら
れることから身を守るため、手で頭を覆う。こんな世界であってよいのだろうか。

 世の親たちよ、もう少し、目を開け!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 荒れ
る子供 荒れる子ども 子どもの暴力)






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●万引き

●万引きを繰りかえす子ども

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掲示板のほうに、万引きを繰りかえす
子どもについての相談があった。

++++++++++++++++

 掲示板のほうに、万引きを繰りかえす子どもについての相談があった。それをそのまま紹介
する。

【UK様より、はやし浩司へ】

中2の娘(一人っ子)の万引きについての相談です。

化粧に興味を持ち始め、昨年(06)の夏頃から化粧品を買うようになりました。もともとオープ
ンな性格でない上、校則で禁止、親にも反対されることはわかっているため、コソコソと隠れて
買っていました。

私は時々娘にわからないようにチェックしていました。小遣いのわりに化粧品の数が多い?、
と心配していたところ、先日じんじょうでない量の化粧品を見つけました。問いただすと、万引き
をしていたことを認めました。

5つの店で10数点。とても出来心でとはいえない数です。翌日学校を休ませてお詫びにまわり
ました。もうやらないとうなだれていた娘でしたが、その一週間後に、また返し渋ったと思われ
る化粧品を見つけました。

が、証拠(?)をつきつける前に娘は、それを隠してしまいました。あの時の涙は何だった
の?、と娘が信じられません。そしてそのわずか数日後、買い物に行くという娘をドキドキしな
がら送り出しました。

娘が帰ってきてから調べてみると、所持金、レシート、購入品、残高が合いません。レシートの
ない商品がふたつ。4000円ほど。これをどう娘に切り出せばいいか、今後どのようにすれば
いいか、わからないでします。

学校でのことなど、当たり障りのないことは話しますが、そのほかのことについては、秘密主
義。小さい頃からのこともあって、私は気になってしかたありません。それが今回の万引き発
覚に繋がった訳ですが、娘にしてみれば、私はこそこそ嗅ぎまわる母親でしかなく、たがいに
不信感は募るばかりです。だから娘は、余計隠す・・・の悪循環に陥っています。

心のうちをなかなか明かしてくれないので、というより、鎧を着込んでかたくなになるばかりの娘
の心をときほぐし、良好な親子関係を築き、二度と万引きをしないようにするにはどうしたらい
いのでしょうか。

娘は、インターネットや雑誌の情報が世の中全てと思い、自分の生活との違いに不満ばかりを
もらします。使いもしないのに持っていたいという、欲張りなところもあります。

●子どもの行為障害

 病的な万引きということであれば、まず疑ってみるべきは、「行為障害」ということになる。(U
Kさんの子どもがそうであるというのではない。こうした相談を受けたときには、最悪なケースか
ら考え、消去法で問題を考えていくのが、筋道だからである。)

 行為障害の診断基準は、つぎのようになっている(「心理学用語辞典」かんき出版)。

(1)他人に対するいじめ、脅迫、威嚇
(2)取っ組み合いのけんか
(3)凶器を使用して他人に重大な身体的危害を加える
(4)他人の体に対して残酷な行為をする
(5)動物の体に対して残酷な行為をする
(6)強盗
(7)性行為を強いる
(8)放火
(9)器物損壊
(10)他人の住居、建造物、自動車の中への侵入
(11)ウソをつく
(12)万引き、侵入盗以外の窃盗、偽造
(13)親の監視にもかかわらず、深夜の外出がしばしばある
(14)外泊が2回以上
(15)不登校(13未満)

 以上、15項目のうち、3項目以上があてはまる場合、行為障害となる(同書)。

 多くは、児童期にADHDを示した子どもが、思春期(中学生)以上になって示すことが多いと
される(同書)。

 が、ADHD児が、すべてこうした障害をもつようになるというわけではない。ADHDに対する
不適切な対応、たとえば、(1)身体的、性的虐待、(2)攻撃的なモデル(身近で、暴力的な行
為を見聞きして育つ)、(3)不安定な愛着(同書)などが重なったときに、思春期以後、行為障
害を誘発すると考えられる。

 病的な万引きのばあいには、つぎのような特徴が見られる。

(1)無作為、無目的に万引きする
(2)同一物を万引きする
(3)衝動性が強く、罪悪感を覚えることなく万引きする
(4)咎(とが)められると、そのときは、しおらしく謝罪したりする

 (そのものを使いたいから、万引きする)というよりは、(そのものがほしいから、万引きす
る)。また同じものをもっていても、万引きする。で、万引きするのは衝動的で、得をしたという
快感が、陶酔感を呼び起こす。

 咎められると、そのときは反省した態度を示し、しおらしく謝罪したりはするものの、ほとん
ど、効果はない。周期的、習慣的に万引きを繰りかえす。

 わかりやすく言えば、(心の病気)が基本にあって、その(心の病気)を代償的に解消するた
めに、万引きを繰りかえすと考えるとわかりやすい。つまり万引きだけを問題にして、それを叩
いても、あまり意味はないということ。病気にたとえるなら、対症療法だけを繰りかえしても、根
治療法にはならないということ。

 さらに児童期にADHDを経験したような子どものばあい、管理能力、自制力、善悪の自己判
断力が弱く、ふつうの子ども以上に、ていねいで、静かな指導が必要である。頭ごなしに、ガミ
ガミ叱っても意味がないばかりか、かえって症状をこじらせてしまうことになるから注意する。

 ただし、掲示板の相談のあった子どもが、ここでいう行為障害のある子どもというわけではな
い。(これだけの内容では、判断はできない。)しかしもしここでいう行為障害の疑いがあるな
ら、(心の病気)を疑ってみる。たとえば依存うつなど。

 解決方法としては、子どもの心を抑圧している重荷を、解放させることを第一に考える。とくに
この相談をしてきた親子のばあいは、すでに親子関係が危険なレベルに達していると思われ
る。相互の不信感が、親の過干渉、過関心へとつながっている。子どもの側からみて、息が抜
けない家庭(親子)環境になっている。

 中2の子どもというのであれば、本来なら、たがいにその存在すら感じないという家庭環境が
望ましい。しかし(一人っ子)という環境では、それもままにならない。おそらく、子どもが生まれ
たときから、UKさんは、過関心ぎみの子育てをしてきたものと考えられる。またその時期(小3
〜4)に、親ばれをしようとする子どもを、適切に親離れさせなかったということも考えられる。
今は、すでに子離れしてなければならない時期であるにもかかわらず、UKさん自身が、無意
識のうちにも、それを拒んでいる。

 UKさんにはたいへん辛らつな言い方になるが、UKさんは、子どもの万引きを心配しながら、
それでいて、娘を自分の支配下におき、自分という親の存在を、娘の前で、誇示しようとしよう
としているのではないのか。そういうケースは、多い。たとえば子どものことになると、「心配だ」
「心配だ」を繰りかえし、子どもをかえって、その(心配な子ども)にしてしまうケースがある。

 一見、この問題は、(万引きをする子どもの問題)のように見えるが、実は、(子離れができな
い親の問題)と考えてよい。

 もしここでいう行為障害、もしくは病的な万引きでなければ、UKさんは、冷めた目で、一度、
子どもを突き放してみること。簡単なことではない。それはわかっている。それこそ、今の子ど
もを妊娠したときからつづいている、親子のリズムを、ここで変えなければならないからであ
る。

 というのも、(万引き)そのものは、この時期の子どもにとっては、(はしか)のようなもの。もっ
と言えば、熱病のようなもの。万引きを是認するわけではないが、たいていの子どもは、それを
経験する。掲示板に書かれた様子からみるかぎり、それほど、大げさな万引きでもないように
思われる。「5つの店で、10数点」というのは、やや多いかなという程度である。

 それよりも気になるのは、UKさん自身が、子どもを連れ、それぞれの店を回って、謝罪した
ということ。このあたりは意見の分かれるところだとは思うが、「ふつうなら、そこまではしない」
というのが、私の印象である。

 「親がしない」というのではない。「子どもがしない」ということ。

 謝罪するなら、親だけが行ってすればよい。「子どもを連れて……」というところが気になる。
UKさんの子どもは、それに従順に従ったのだろうか。ふつうなら、子どものほうがそれに抵抗
するはず。「イヤダ!」とか「行かない!」とか、など。

 もし従順に従ってというのなら、親の威圧的な過干渉のもとで、どこか萎縮している子どもの
姿が、浮かんでくる。

 さらにUKさんは、「不信感がつのるばかり」と書いている。しかし大切なことは、子どもを信ず
ること。仮に悪いことをしているようであっても、見て見ぬフリをする。「まあ、どんな子どもでも、
万引きくらいはする」「万引きして、補導されたら、そのときはそのとき」というおおらかさが、子
どもの心に風穴をあける。(もちろん、それが発覚したときは、叱らなければいけないが…
…。)

 私がUKさんの子どもなら、UKさんのことを、「うるさい親だな」と思うだろう。あるいは私なら
耐えられない。UKさんの子どもには、はたしてそういう反発力はあるのだろうか。

 さらに親に連れられて、5店を謝罪して回ることによって、子どものプライドは、ズタズタにされ
てしまった。もともと萎縮した子どもであれば、さらに萎縮し、自信をなくしてしまったはず。

 私がこの相談から受けた印象としては、そんなわけで、UKさん自身が、完ぺき主義の母親
ではないかということ。その完ぺき主義が、UKさんの子どもの心を、かえって閉ざしてしまって
いるのではないかということ。繰りかえすが、小学生ならまだしも、中学2年生で、そこまで従順
な子どもは少ない。その(従順すぎる)というところが、どうしても気になる。

 今のUKさんと子どもの置かれた状況から思うに、UKさんがカリカリしても、かえって逆効果
ではないかということ。この問題の「根」は、もっと深いところにある。さらに言えば、UKさんは、
子どもの問題点ばかりを指摘しているが、UKさん自身については、問題にしていない。もっと
言えば、自分がかかえている問題点について、気づいていない。

 子どもが化粧品をほしがるようなら、どうしていっしょに、買い物に行ってやらないのか。化粧
品選びを手伝ってやらないのか。押してだめなら、思い切って引いてみる。これは子どもを指
導するときのコツでもある。「あら、すてきな化粧品ね。お母さんも使ってみたいな。でも盗むの
は悪いことだから、今度、いっしょに買いに行かない?」とかなど。

 以上、おおざっぱに思いつくまま書いたので、不適切な表現もあるかもしれないが、UKさん
の参考になればうれしい。

【はやし浩司よりUKさんへ】

 以上、ほとんど返事を書いたようなものです。きびしい意見も並べましたが、UKさん親子の、
よりよい関係作りに役立てば、うれしいです。(ご立腹なさっておられるかもしれませんが…
…。)

 この種の問題は、「今の状況をこれ以上悪くしないこと」だけを考えて、対処するのがコツで
す。子どもを直してやろう(?)と考えて、無理をすればするほど、逆効果。子どもを追いつめる
ことになってしまいますから、ご注意ください。追いつめれば追いつめるほど、症状はこじれ、さ
らに二番底、三番底に子どもは落ちていきます。

 とくに今は、子どもは、思春期という、たいへんむずかしい時期に入っています。子ども自身
も、内なる世界からわきおきてくる、性的エネルギー(フロイト)を、自分でどうコントロールして
よいかわからないでいる時期です。今ほど、UKさんの冷静な、判断力、指導力が必要なとき
はありません。

 あまりカリカリしないで、肩の力を抜いてください。そしてUKさん自身が、子離れの準備をして
ください。つまり子どものことは忘れて、あなた自身が、1人の人間として、したいこと、やるべ
きことを追求します。その結果として、子離れをします。

 子どもの横に友として立ち、手をつなぎながら歩くのです。決してたがいに見つめあわないよ
うに! いっしょに前だけを見て、前に進みます。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供の行為障害 行為障害 子供の万引き 盗癖)





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【一口メモ】

●子どものリズムをつかむ 

子ども自身がもつ、学習のリズムは、みな、ちがう。数分きざみに、騒いだり、しゃべったりする
子どももいれば、5分くらい静かに作業したあと、1〜2分、休んだりする。勉強にとりかかるま
でに、10分以上かかる子どももいれば、すぐ、勉強に入れる子どもいる。大切なことは、それ
ぞれのリズムに合わせて、指導するということ。とくに子どもが小さいうちは、そうする。


●ささいなミスは、許す

たとえば20問、計算問題をする。そのとき、1、2問くらいなら、まちがっていても、何も言わな
い。「よくがんばったね」と、ねぎらう。そして大きな丸を描いてすます。とくに子どもが、懸命にし
たときは、そうする。正解よりも、この時期大切なのは、達成感。その達成感が、子どもを伸ば
す。こまごまとした神経質な指導は、一見、親切に見えるが、かえって子どもの伸びる芽をつん
でしまうこともあるので注意する。


●テーマは、一つ

子どもに何かを教えようとするときは、いつも、テーマは、一つにする。あれこれ、同時に指示
を与えても、意味がないばかりか、かえって、「二兎を追うもの、一兎……」ということになりか
ねない。たとえば作文練習のときは、作文の内容だけを見て、文字のまちがいなどは、無視す
る。作文の内容だけを見て、判断する。


●子どもを伸ばすのは、子ども

子どもを伸ばすのは、子ども。しかしその子どもをつぶすのも、これまた子ども。とても残念な
ことだが、「質」のよい子どももいれば、そうでない子どももいる。質がよいというのは、おだや
かで、知性的。自己管理能力もしっかりしていて、もの静か。そういう子どもは、そういう子ども
どうし集まる傾向がある。で、もしあなたの子どもが、そういう子どもであれば、努力して、そう
いう子どもどうしが集まれるような環境をつくってやるとよい。あなたの子どもは、さらに伸び
る。
(はやし浩司 子供の冴え)


●冴(さ)えを伸ばす

子どもが、「アレッ」と思うようなヒラメキを示したときは、すかさず、それをほめて、伸ばす。こ
の時期、あとあと子どもほど、思考が柔軟で、臨機応変に、ものごとに対処できる。趣味も多
く、多芸多才。興味の範囲は広く、何か新しいことを見せると、「やる!」「やりたい!」と食いつ
いてくる。この時期、することと言えば、テレビゲームだけ。友だちも少ないというのは、子ども
にとっては、望ましいことではない。


●一歩手前で、やめる

子どもが30分ほど、勉強しそうだったら、20分くらいのところで、やめる。ワークを10ページく
らいしそうだったら、7〜8ページくらいのところで、やめる。子どもを伸ばすコツは、無理をしな
い。強制をしない。もしあなたが、「子どもというのは、しぼればしぼるほど伸びる」とか、「子ど
もの勉強には、きびしさが必要」と考えているなら、それは、とんでもない誤解。どこかの総本
山での、小僧教育ならともかくも、今は、そういう時代ではない。


●バカなフリをして伸ばす

おとなは、決して、おとなの優位性を子どもに、見せつけてはいけない。押しつけてはいけな
い。子どもにとって、最大の喜びは、父親や、母親を、何かのことで、負かすことである。親の
立場でいえば、子どもに負けることを、恥じることはない。反対に、ときには、バカな親のフリを
して、子どもに自信をもたせる。「こんな親では、アテにできない」と子どもが思うようになった
ら、しめたもの。


●集中力も「力」のうち

よく、「うちの子は、集中力がありません。集中力をつけるには、どうしたらいいでしょうか」とい
う質問をもらう。しかし集中力も、「力」のうち。頭をよくする方法が、そんなにないように、集中
力をつける方法というのも、それほど、ない。あれば、私が知りたいくらいである。ただ指導の
し方によって、子どもを、ぐいぐいとこちらのペースに引きこんでいくことはできる。しかし集中力
のある・なしは、子どもの問題ではなく、指導する側の問題ということになる。
(はやし浩司 子供の集中力)


●一貫性

内容がどうであれ、よき親と、そうでない親のちがいといえば、一貫性のある、なしで、決まる。
権威主義的なら権威主義的でもかまわない。(本当は、そうでないほうがよいが……。)親にそ
の一貫性があれば、やがて子どものほうが、それに合わせる。私の叔父の中には、権威主義
のかたまりのような人がいた。しかし私は、その叔父は叔父として、認めることで、良好な人間
関係をつくることができた。それなりに尊敬もしている。子どもの前では、いつも、同じ親である
こと。それが子どもの心に、大きな安定感を与える。
(はやし浩司 一貫性)


●子育ては工夫

 子育ては工夫に始まって、工夫に終わる。わかりやすく言えば、知恵比べ。この知恵比べに
よって、子どもは、伸びる。が、それだけではない。何か問題が起きたときも、同じ。家庭環境
は千差万別。状態も状況も、みなちがう。子どもについて言うなら、性格も性質も、みなちがう。
能力もちがう。そんなわけで、「子育ては知恵くらべ」と心得る。この知恵比べを、前向きにでき
る人を、賢い親という。


●内政不干渉

 たとえ親類でも、兄弟でも、内政については、干渉しない。相手が相談をもちかけてきたとき
は別として、こちらからあれこれアドバイスしたり、口を出したりしてはいけない。相手を説教す
るなどということは、タブー中のタブー。ばあいによっては、それだけで、人間関係は、破壊され
る。それぞれの家庭には、人には言うに言われぬ事情というものがある。その事情も知らない
で、つまり自分の頭の中だけで考えてものを言うのは、たいへん危険なことである。


●受験についての話は、タブー

 「受験家族は、病人家族」と心得るべし。受験生をもつ親に向かって、「どこを受験するの?」
「合格したの?」と聞くことは、病人に向かって、「病名は何?」「寿命はどれくらい?」と聞くのと
同じくらい、失礼なこと。相手のほうから話題にするばあいは、べつとして、そうでなければ、そ
れについて触れるのは、タブー。出身校、学歴についても、同じ。


Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司

【付記:世界の教育格言】

●種を蒔いたように……

As you sow, so we shall you reap. 「あなたが種を蒔いたように、あなたはそれを刈らねばなら
ない」。イギリスの教育格言。つまり因果応報ということか。子育てについて言えば、ほとんどの
親は、子どもに何か問題が起きると、「子どもをなおそう」とする。しかしなおすべきは、子ども
のほうではなく、親のほうである。そういう視点から、子どもの問題を見つめなおしてみる。


●引いて、発(はな)たず

孟子(紀元前3世紀ごろの、中国の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典のひとつとされる)が
残した言葉である。子どもに矢の射り方を教えるときは、矢の引き方までは教える。しかし、そ
の矢を放つところまでは見せてはいけないという意味。教育といっても、やりすぎはよくない。た
とえば手取り、足取り教える教育法がある。一見、親切な指導法に見えるかもしれないが、か
えって子どものためにならない。


●子どもは人の父

The Child is Father of the Man. 「子どもは人の父」、イギリスのワーズワースの詩の一節であ
る。子どもが成長し、やがておとなになっていくのを見ていると、この感を強くする。つまり、子ど
もは、人の父、と。子育てというのは、子どもを育てることではない。子どもに、子育ての仕方を
見せておく。見本を見せておく。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育てるのです
よ」と。それが子育て。


●食欲がないときに……

『食欲がないときに食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこ
ない、また記憶されない』。Studying without an inquiring desire will be not retained in ones' 
memory. レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の言葉である。子どもの学習指導の常識と
言ってもよい。日本では教育というと、「教え育てる」が基本になっているが、それは昔の話。子
どもから意欲を引き出し、それをじょうずに育てる。あとは子ども自身がもつ「力」に任せればよ
い。


●忠告は密かに……

Give advice secretly, and praise children openly. 「忠告は密かに、賞賛はおおやけに」。古代
ローマの劇作家、シルスの言葉である。子どもを叱ったり、子どもの名誉をキズつけるような行
為は、だれもいないところでせよ。しかし子どもをほめるときは、みなの前でせよ、という意味で
ある。子育ての行動規範のひとつとして覚えておくとよい。


●教育の秘法

あのエマーソン(アメリカの詩人、思想家、1803〜1882)は、こう書いている。『教育に秘法
があるとするなら、それは生活を尊重することである』と。欧米では、「自立したよき家庭人」を
育てるのが、教育の柱になっている。とくにアメリカでは、デューイの時代から、より実用的なこ
とを教えるのが、教育の柱になっている。生活に根ざさない教育は、そも役に立たない。生活
を尊重してこそ、そこに真の教育があるというわけである。


●かわいくば……

『かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ』(二宮尊徳、江戸時代後期の農
政家、1787〜1856)と。「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼吸おいて、まず
よいところを三つみつけて、それをほめる。そしてそのあと、二つくらいの割合で、叱れ」という
意味。子どもをほめる、子どもを叱る……。それは家庭教育の要(かなめ)と言ってもよい。


●最初に受けた印象が……

First impressions are most lasting. イギリスの教育格言。つまりものごとは、第一印象が大切
ということ。とくに子どもの教育では、そうである。その第一印象で、すべてが決まるといって
も、過言ではない。だから子育てをしていて、「はじめの一歩」を感じたときは、とくに慎重に! 
コツは、叱らない、おどさない。「小学校はきびしいのよ」「先生はこわいわよ」と教えたため、学
校へ行きたがらなくなる子どもは少なくない。


●玉、磨かざれば……

『玉、磨かざれば、器(うつわ)ならず。人、学ばざれば、道知らず』(礼記、中国五経の一つ)。
脳の健康は、肉体の健康と似ている。究極の健康法などというものはない。同じように、究極
の思想などというものはない。運動を怠ったら、その日から、健康はくだり坂に向かう。同じよう
に考えることを怠ったら、その日から、脳は老化する。人は、日々に研鑽(けんさん)してこそ、
人でありえる。学ばない人、考えない人は、それだけで、大切な人生を無駄にしていると言え
る。


●馬を水場に……

A man may lead a horse to the water, but he cannot make it drink. 「馬を水場に連れて行くこ
とはできても、その馬に水を飲ませることはできない」。イギリスの教育格言である。子どもを伸
ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。楽しむことによって、自発的行動(オペラント)が生ま
れ、それが強化の原理となって、子どもを伸ばす(スキナー)。しかし無理は禁物。無理をして
も、意味がない。それがこの格言の意味ということになる。


●ビロードのクッションより……

It is better to sit on a pumpkin in the field rather than to sit on the soft velvet cushion of 
the palace. 『ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうがよい』(ソロー、アメリカ
の随筆家、1812〜1862)。子どもにとって家庭とは、すべからく、カボチャのようでなくてはな
らない。子どももある程度の年齢になったら、家庭は、しつけの場から、心を癒す、憩いの場と
なる。またそうでなくては、いけない。


●教育は、母のひざに始まり……

I・バロー(17世紀のイギリスの数学者)は、こう言っている。「Education starts in mother's lap 
and what children hear in those days will form their character.(教育は母のひざに始まり、幼
年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する)」と。この時期、母親の子どもへの影響
は、絶対的なものであり、絶大である。母親が、子どもの方向性のすべてを決定づけると言っ
ても過言ではない。子どもの教育は、子どもをひざに抱いたときから始まると、バローは言って
いる。






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●子どもの鉛筆

++++++++++++++++++

鉛筆は、きわめて危険な道具である。
事故も多い。

鉛筆を口にくわえる。
鉛筆をもって手をあげる。
鉛筆をもって歩く、走る。

どれもそのまま事故につながる。

私も、この30年の間に、
数回、あわや……という事故を経験している。
徹底して注意していても、そうである。

いわんや、両端を鋭く削った鉛筆を
子どもにもたせるというのは、
危険というより、愚かな行為と考えてよい。

++++++++++++++++++

 T県のHさんより、こんなメールが、届いている。そのまま紹介させてもらう。

【Hさんより、はやし浩司へ】

教えて欲しいことがあります。

二女(4才)年中の幼稚園のことです。

先日保育参加に行ったのですが、子供たちが鉛筆を使っていました。それだけなら良いのです
が、HBのおろしたての鉛筆の両側を鋭くとがらせた物でした。

みんなで使えるようにそれが10本くらい、ペン立てに立ててあり、思い思いに使っていたので
すが、使っていたのは一部で、それ以外は、紙飛行機を飛ばしたり、ままごとをしたりしていま
した。

ときおり、その活動的な子供がまわりに来たり、近くを子供が通ったりしていたのですが、使っ
ている子たちも結構無防備で、持ち歩く子もいたので何だか危険な気がしました。

私の心配しすぎなのかもしれませんが何かあってからでは遅いので、先生に電話で片側だけ
削った物にしてもらえるようお願いしようと思っているのですが、ちょっと私が過保護過ぎるでし
ょうか。

幼稚園では鉛筆の扱いは両側を削るのは一般的ですか。教えてください。

+++++++++++++++++

【はやし浩司より、Hさんへ】

 詳しく調査したわけではありませんが、今、ほとんどの幼稚園では、鉛筆の使用をひかえてい
ます。とくに年中児以下はそうです。年長児になり、指導が行き届くようになってから、鉛筆の
使用を始めています。つまり、鉛筆は、それだけ危険な道具だからです。

 私も、何度か、あわや……と思うような事故を経験しています。

 ある女の子が、(男の子だったかもしれません)、鉛筆をもったまま、「ハ〜イ!」と言って手を
あげたときのことです。幼児は、まっすぐ上に手をあげないで、ななめ横にあげる子どもも少な
くありません。

 そのとき、横にいた別の女の子(その子は、女の子でした)が、その声に驚いて、鉛筆をもっ
た子どものほうを振り向いたのです。そのとき、鉛筆の先が、その女の子の頬を突き刺してし
まいました。頬の中で、芯(しん)が折れました。

 頬だからよかったものの、あれがもし目だったら……と考えると、今でも、ぞっと、します。

 鉛筆を、口にくわえるというのも危険です。だれかが、どんと体をぶつけたときのことを想像し
てみてください。あるいはころんだりしたときのことでも、結構です。ゾッとしますね。

 さらに両端を削った鉛筆ともなると、使っているときですら、危険にさらされることになります。
子どもにとって、20センチの長さの鉛筆でも、おとなの身長に換算すると、30センチということ
になります。そういう鉛筆を、顔と机の間に立てるというのは、まさに危険極まりない行為です。

 さらに、こわいのは、実は、鉛筆のキャップです。

 鉛筆のキャップをはずすと、たいていの子どもは、鉛筆のキャップを、鉛筆のお尻にかぶせ
ます。そこまでは、問題はありません。

 が、今度は、そのキャップをはずして、もとのほうにかぶせようとします。そのとき、事故が起
きます。

 子どもは両手で、鉛筆とキャップをにぎります。そして力いっぱい、それを両手で広げるように
して、はずそうとします。子どもの体はやわらかいため、そのまま両手が、左右、ほぼ180度
に広がってしまいます。そのとき、鉛筆の先で、隣の子どもの顔を、突き刺したりします。

 私のところでも、(結構、広い机を使っていても、ですが)、そういう事故が、何度か、起きてい
ます。そこで教訓。

(1)鉛筆の指導は、親に任す(年中児まで)。
(2)鉛筆は、使わないときは、筆箱に、もどす。徹底して、そう指導する。
(3)キャップは、使用禁止。
(4)両端を削った鉛筆は、厳禁。見つけしだい、とりあげて、捨てる。

 鉛筆を口にくわえたまま歩いたり、走ったりする子どももいますが、とんでもない行為であるこ
とは、今さら言うまでもありません。Hさんならずとも、だれでも、ゾッとして当然です。私なら、そ
の場で、先生に、注意を促します。事故が起きてからでは、遅すぎるからです。

 忘れてならないのは、鉛筆の芯は、「金属」であるということ。とがった刃物と同じであるという
こと。そういう視点を、いつも忘れないようにします。


Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司

●先生への苦言

++++++++++++++++++

鉛筆をもったまま、教室の中を走り回る……。
そういう光景を見て、T県に住んでいるHさんは、
ゾッとしたという。

ゾッとして、当然!

そこでHさんは、それを先生に告げるべきか
どうかで、迷ったという。

先生にも、プライドがあるだろう。そんな
思いが、ふと、Hさんの口を重くした(?)。

しかし、こういうケースのばあい、親は、
どう対処したらよいのだろうか?

++++++++++++++++++

 親の指導方針と、幼稚園(保育園)の先生との指導方針が、くいちがうというケースは、多
い。そういうとき、子どもを預かってもらう親のほうは、どう対処したらよいのか。当然、任すとこ
ろは、任す。しかしそうでないケースもある。

 たとえばT県に住んでいるHさんは、こんな経験をしている。幼稚園の参観日に行ったときの
こと。先が鋭くとがった鉛筆を手にもったまま、教室の中を歩き回っている子ども(年中児)がい
たという。

 それを見て、Hさんは、ゾッとした。そしてそれを先生に言うべきかどうかで、迷った、という。

 こういうケースでは、できるだけ早い時期に、先生に自分の気持ちを伝えたほうがよい。園長
に言うという方法もないわけではないが、こういうばあいは、直接、担任の先生に言うほうがよ
い。

 問題は、その言い方。

 間に子どもがいるため、言い方をまちがえると、あとあと(しこり)を残すことにもなりかねな
い。先生には、先生のプライドというものがある。自分の指導法を注意されたりすると、不愉快
に思う先生も、多い。

 そこでこういうばあいは、まず、家で、かがみに向かって、練習するとよい。コツは、にこやか
に、おだやかに、そしてやわらかく……。いきなり唐突に言うのではなく、ワンクッション置い
て、ものを言う。

 「あのう、先生、ちょっと気がついたのですが……。いえ、事故でも起きてからでは、遅いの
で、で、先生にお伝えしておいたほうがよいかと思いまして……」

 「実は、うちの子、先のとがった鉛筆をもったまま、歩いたり、走ったりすることがあります。私
は、それがあぶないと思って注意しているのですが……。先生は、どう思われますか……?」
とかなど。そのあと、ゆっくりと、「そう言えば、教室でも、そういう光景を見かけました。あれ
は、先生、あぶないですね……」と。

 私も、実は、こうした経験を、そのつど、何度かしている。

 たとえば新幹線の中などで、騒いでいるおばちゃんやおじちゃんたちを注意するとき。
 駐車場でないところに駐車している人たちを見かけたとき。
 道路にゴミやタバコの吸い殻を捨てている人を見かけたとき、など。

 最初は、勇気がいる。が、2度、3度とそれを重ねていると、うまく言えるようになる。コツは、
こちらがニコニコ笑いながら、相手の警戒心を解きながら、注意するということ。相手によって
は、こちらが、バカに見えるように演技することもある。とくに若い人たちを相手にするときは、
そうである。若いだけに、何かを注意したりすると、すぐカリカリする。

 で、大切なことは、「こちらが迷惑しています」とだけ言い、それ以上のこと、たとえば、「こん
なところに駐車してはいけません」「あちらに移動してください」などとは、言わないこと。あくまで
もそのあとの判断は、相手に任す。

 新幹線の中で騒いでいる、おばちゃんやおじちゃんに対しては、やはりにこやかな表情で、こ
う言う。「せっかく、お楽しみのところ、たいへん申しわけないのですが、もう少し、静かに話して
いただけると、ありがたいのですが……。よろしくお願いします」とか。少し間をおきながら、つ
まりどこか間(ま)の抜けた言い方をするのが、コツ。早口で、ガミガミ言ってはいけない。

 何度もそれを繰りかえしていると、やがてうまく言えるようになる。私のばあい、めったに相手
を怒らせることはない。ほとんどのばあい、相手に、「すみません」と言わせることができる。

 が、それには練習が必要。「かがみを見ながら、練習する」というのは、そういう意味。Hさん
も、ぜひ、試してみてほしい。




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【スタンフォード大学の監獄実験】

+++++++++++++++++++

今から、15年ほど前、アメリカの
スタンフォード大学で、興味ある
実験がなされた。

「スタンフォード監獄実験」というのが、
それである。

この実験を通して、改めて、人間のもつ
弱さというか、本来的な欠陥が明らかに
なった。

+++++++++++++++++++

 ウィキペディア百科事典から、直接、そのまま原稿を引用する。

【スタンフォード・監獄実験】

1971年8月14日から1971年8月20日まで、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理
学者フィリップ・ジンバルドー(Philip Zimbardo)の指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人
が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとし
た実験が行われた。模型の刑務所(実験監獄)はスタンフォード大学地下実験室を改造したも
ので、実験期間は2週間の予定だった。
新聞広告などで集めた普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看
守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を
作って演じさせたところ、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の
被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。
+++++++++++++++++++++++

●実験の内容

ジンバルドーは役割を与えられた者達に自ら与えられた役割をよりリアルに演じさせるため、
逮捕から始まり、囚人役に対して指紋をとり、シラミ駆除剤を拭きつけ、屈辱感を与えるために
下着を着用させず、トイレへ行くときは目隠しをさせ、看守役には表情が読まれないようサング
ラスを着用させたり、午前2時半などに囚人役を起こさせたりした。

次第に、看守役は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始める。反抗した
囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便
するように強制され、耐えかねた囚人役の一人は実験の中止を求めるが、ジンバルドーはリア
リティを追求し、「仮釈放の審査」を囚人役に受けさせ、そのまま実験は継続された。

精神を錯乱させた囚人役が、1人実験から離脱。さらに、精神的に追い詰められたもう1人の
囚人役を、看守役は独房に見立てた倉庫へうつし、他の囚人役にその囚人に対しての非難を
強制し、まもなく離脱。

離脱した囚人役が、仲間を連れて襲撃するという情報が入り、一度地下1階の実験室から5階
へ移動されるが、実験中の囚人役のただの願望だったと判明。

 ●実験の中止

ジンバルドーは、実際の監獄でカウンセリングをしている牧師に、監獄実験の囚人役を診ても
らい、監獄実験と実際の監獄を比較させた。牧師は、監獄へいれられた囚人の初期症状と全
く同じで、実験にしては出来すぎていると非難。

看守役は、囚人役にさらに屈辱感を与えるため、素手でトイレ掃除(実際にはトイレットペーパ
の切れ端だけ)や靴磨きをさせ、ついには禁止されていた暴力が開始された。

ジンバルドーは、それを止めるどころか実験のリアリティに飲まれ実験を続行するが、牧師が
この危険な状況を家族へ連絡、家族たちは弁護士を連れて中止を訴え協議のすえ6日間で中
止された。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したという。

後のジンバルドーの会見で、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態であると認
識できなかったと説明した。ジンバルドーは、実験終了から約10年間、それぞれの被験者をカ
ウンセリングし続け、今は後遺症が残っている者はいない。

●実験の結果

権力への服従 
強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理
性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまうのである。 

非個人化 
しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。 

+++++++++++++++

 以上が、『スタンフォード・監獄実験』
と呼ばれる実験の概要である。この実験
記事を読んで、私は、かなり前に書いた
原稿のことを思い出した。それをそのま
ま紹介する。

+++++++++++++++

自分の中の敵と戦え!

子どもに平和を語るとき 

●私の知人は七三一部隊の教授だった 

平和教育について一言……。

私の知人、(知人といっても、近所に住んでいた、男性だったが)、その知人は関東軍第七三
一部隊の教授だった。残虐非道な生体実験をした、あの細菌兵器研究部隊である。そのこと
がある本で暴露されたとき、知人の妻はその本を私に見せながら、人目もはばからず、大声で
泣いた。「父ちゃん(知人)が死んでいて、よかったア〜」と。知人はその少し前、脳内出血で死
んでいた。

●「貴様ア! 何抜かすかア!」

 ドイツのナチスは、1100万人のユダヤ人絶滅計画をたて、あのアウシュビッツの強制収容
所だけで、400万人のユダヤ人を殺した。そういう事実を見て、多くの日本人は、「私たち日本
人はそういうことをしない」と言う。しかし本当にそうか? ゲーテやシラー、さらにはベートーベ
ンまで生んだドイツですら狂った。この日本も狂った。狂って、同じようなことをした。

それがあの七三一部隊である。が、知人は私が知る限り、どこまでも穏やかでやさしい人だっ
た。将棋のし方を教えてくれた。子ども会の長もしていたので、よく遊びにも連れていってもらっ
た。いや、一度だけ、こんなことがあった。

ある夜、知人と一緒に夕食をとっていたときのこと。知人が新聞の切り抜きを見せてくれた。見
ると、知人がたったひとりで中国軍と戦い、30名の満州兵を殺したという記事だった。当時とし
てもたいへんな武勲で、そのため知人は国から勲章をもらった。記事はそのときのものだっ
た。

が、私が「おじさん、人を殺した話など自慢してはダメだ」と言うと、知人は突然激怒して、「貴様
ア! 何抜かすかア!」と叫んで、私を殴った。その夜私は、泣きながら家に帰った。

●敵は私たち自身の中に

 もしどこかの国と戦争をすることになっても、敵はその国ではない。その国の人たちでもな
い。敵は、戦争そのものである。あの知人にしても、私にとっては父のような存在だった。家も
近かった。いつだったか私は子どものころそういう知人と仲良くしていたことを知り、自分の胸
をかきむしったことがある。

時代が少し違えば、私がその教授になっていたかもしれない。いや、戦争が知人のような人間
を作った。知人を変えた。繰りかえすが、私の知っている知人は、どこまでも穏やかでやさしい
人だった。倒れたときも、中学校で柔道の指導をしていた。

知人だって、戦争の犠牲者なのだ。戦争という魔物に狂わされた被害者なのだ。つまり戦争に
は、そういう魔性がある。その魔性を知ること。その魔性を教えること。そしてその魔性と戦うこ
と。敵は私たちの中にいる。それを忘れて、平和教育は語れない。

(付記)

●戦争の責任論

 日本政府は戦後、一貫して自らの戦争責任を認めていない。責任論ということになると、その
責任は、天皇まで行ってしまう。象徴天皇を憲法にいだく日本としては、これは誠に都合が悪
い。

そこで戦後、政府は、たとえば「一億総ざんげ」という言葉を使って、その責任を国民に押しつ
けた。戦争責任は時の政府にではなく、国民にあるとしたわけである。が、それでは「日本はま
すます国際社会から孤立し、近隣諸国との友好関係は維持できなくなってしまう」(小泉総理大
臣)。

そこで、2001年の8月、小泉総理大臣は、「先の大戦で、わが国は、多くの国々、とりわけア
ジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」(第56回全国戦没者追悼式)と述べ、「わが
国」という言葉を使って、その戦争責任(加害主体)は「政府」にあることを、戦後はじめて認め
た。

が、しかし戦後、60年近くもたってからというのでは、あまりにも遅すぎるのではないだろうか。

(参考)

 この「平和教育を語るとき」の原稿と同時に書いたのが、次の「杉原千畝副領事のビザ発給
事件」である。

●杉原千畝副領事のビザ発給事件 
 
「1940年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫害か
ら逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人6000人に対して、ビザ(査証)を発給した。こ
れに対して1985年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられる勲章、
『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行20世紀デザイン
切手第九集より)。

●たたえること自体、偽善

 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、1100万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュビッ
ツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約400万人ものユダヤ人が
虐殺されたとされる。杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたもの
だが、日本人はこの事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。郵政省発行の記念切手にも
なったことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっては偽
善そのものと言ってよい。

●杉原副領事のしたことは、越権行為?

 当時日本とドイツは、日独防共協定(1936年)、日独伊防共協定(37年)を結んだあと、日
独伊三国同盟(40年)まで結んでいる。

こうした流れからもわかるように、杉原副領事のした行為は、まさに越権行為。日本政府への
背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定違反の疑いすらある。杉原副領事のした行為を
正当化するということは、当時の日本政府がしたことはまちがっていると言うに等しい。その「ま
ちがっている」という部分を取りあげないで、今になって杉原副領事を善人としてたたえるの
は、まさに偽善。

いやこう書くからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。問
題は、その先と言ったらとよいのか、その中味である。

当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になっても、その体質はほとんど
変わっていない。どこかで日本があの戦争を反省したとか、あるいは戦争責任を誰かに追及し
たというのであれば、話はわかる。そうした事実がまったくないまま、杉原副領事のした行為を
たたえるというのは、「今の日本人と戦争をした日本人は、別の人種です」と言うのと同じくら
い、おかしなことなのだ。

●日本はだいじょうぶか?

 そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。仮にこの日本に、100万人単位の外国人不法入
国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日
本の経済を動かすまでになったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口
の何割かを占めるようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし
始めたとしよう。

もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼らは日本に同化
せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと払わないとする。そ
のとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? あなた自身のこととして考えてみてほし
い。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、まさ
にそういう状況だった。

つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂ったということ。この日本が狂わないという保
証はどこにもない。現に2000年の夏、東京都の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議
をかもした。そして具体的に自衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(2000年9
月)。石原都知事のような日本を代表する文化人ですら、そうなのだ。

●「日本の発展はこれ以上望めない」

 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。「日
本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。そしてそれを受け
てその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移民を認める」と宣
言した。

日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果論。チグ
ハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。石原都知事の発言は、「私たち日本人
も、外国で同じように差別されても文句は言いませんよ」と言っているのに等しい。

多くの経済学者は、2015年には日本と中国の経済的立場は逆転するだろうと予測している。
そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならない。そういうことも考え
ながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石原都知事の発言を考える必要
があるのではないだろうか。

++++++++++++++++++

 『善人も悪人も紙一重』。大きくちがうようで、それほど、ちがわない。子どもの世界もまた、し
かり。問題のある子どももいれば、そうでない子どももいる。大きくちがうようで、それほど、ち
がわない。

 置かれた環境、育てられ方、受けた教育で、よい子は、よい子になり、そうでない子は、そう
でなくなる。

 もしあなたが今、善人なら、それはたまたまそうであるにすぎない。もしあなたが今、悪人な
ら、それはたまたまそうであるにすぎない。

 『スタンフォードの監獄実験』は、心理学の教科書にもよく出てくる話である。この実験の内
容、経過を読めば読むほど、人間の心がもつ、本来的な魔性がよくわかる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 監獄
実験 スタンフォード大学 監獄 個性 権力への服従 非個人化)






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●英語教育

++++++++++++++++

外国人の客が、私の家にいるときは、
みな、英語で話すようにしている。

ワイフも、カタコト英語だが、懸命に
英語で話す。

それは客に不安感を与えないための、
最低限のマナーではないのか。

++++++++++++++++

●英語教育に「待った!」をかけた、文科相

 I文科相は、こう言った。「私は、(小学校での英語教育を)必修化する必要は、まったくないと
思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と。

 こういうのを、パラドックスという。わかるかな?

 『張り紙を刷るな』という張り紙を張る。
 『私は逆らっていない』と言って、相手に逆らう。

 『美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ』と言って、きたない日本語を
話す。

 「外国の言葉をやったってダメ」? ……美しい日本語では、「外国の言葉を学んでも、意味
がありません」という。

 もう10数年も前から、同じような論理で、小学校での英語教育に反対している教授がいる。
しかし今どき、「英語教育が必要ない」なんて……!!

●予定では…… 

中央教育審議会の外国語専門部会は、2006年3月、「小学5年生から、週1時間程度、英語
教育を必修化する必要がある」という提言をまとめた。が、それに「待った」をかけたのが、ほ
かならぬ、I文科相だった。それが冒頭に書いた言葉である。

「やったって、ダメ」と。

 そこで各小学校では、総合学習の時間を利用して、英語教育というよりは、英語活動をする
ようになった。英語でゲームをしたり、リズム運動をしたりしている。結果、文科省の調べによ
れば、公立小学校の93・6%が、何らかの(英語の活動)を、授業の中に取り入れている。

 しかし現実には、過半数の学校では、月1回か、それ以下だという(以上、「朝日キーワード」
2007)。

●現実はどうか?

 日本が国際社会で勝ち抜き、生き残るためには、国際語としての英語教育は、MUST! 
数年前に書いた原稿を、そのままここに転載する。

++++++++++++++++++

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数は
ピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2002年に入って、マクドナルド社やスイスの
ネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今
どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ2を争うしま
つ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績
は、一六五か国中一五〇位・九九年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正
解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析
方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、1つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(2002年時)。

ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本
の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗
末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小
1)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でし
た」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。日本では
大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり
何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊す
る。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査で
も、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よ
りも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねば
ならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以
上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイ
ツ語、インドネシア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。もちろん数学、
英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目も
ある。

芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう一つ
「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと
(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減して
いるという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。
「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあ
ります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任
す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。
日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさ
に世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められ
るためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもし
れない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本
語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。

つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日
本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていない
のに、火星に探査機を送るのはムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで
英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くは
ない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子
どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている
知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べてい
る。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会
会合の席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が
終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要は
ない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こう
いう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそ
うだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分
の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりに
こだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学一年の入学時に
は、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、
「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。こう
した教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。

「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」
と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもた
ちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調
査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こ
ういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教え
たい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから
学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要
はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくし
てしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押しつけられ
て、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。ある教師(小学5年担任、女性)はこう言っ
た。

「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、
何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができ
る環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で
考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は
学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が
徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない(バンクーバー
市)。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとし
ばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかにつ
いては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れては
いけない。

++++++++++++++++

 「英語を学んだから、日本語がおろそかになる」というのは、根拠のない、まったくのデマ。ウ
ソ。たしかに乳幼児期に、バイリンガルの環境で子どもを育てると、言語中枢そのものの発達
に、支障をきたすという報告は、しばしば耳にしている。しかし満5、6歳以上の子どもには、そ
うした影響はない。むしろこの時期のほうが、発音にせよ、感覚的に言語をとらえるため、すな
おに身につけてくれる。

 さらに言えば、「美しい日本語」というのは、母親の会話能力によって決まる。母親が、子ども
に向って、「テメエ、殺すぞ!」(実際、ある人がコンビニで耳にした会話)というような言い方を
していて、どうして子どもが美しい日本語を話すようになるというのか。

 文章能力(=作文力)にいたっては、英語を学ぶことによって、よい刺激を受けることはあっ
ても、それで文章がへたになるということは、ない。

 I文科相の発言を聞いていると、「日本もこの程度」と思うと同時に、「日本も、ここまでだな」と
思う。

 ちなみに、現在、アジアの経済の中心地は、東京から、シンガポールに移動している。アメリ
カでも、日本の経済ニュースですら、シンガポール発で、配信されている。

 ついでに日本の子どもたちの学力について。5年前に書いた原稿だが、その後、日本の子ど
もたちの学力が、よりさがったという話は聞くが、あがったという話は、聞いていない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
英語教育 日本の英語教育)

++++++++++++++++++

【公立小中学校・放課後補習について】

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大
学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から
導入する方針をかためた(〇二年八月)。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、
全国でモデル校二〇〇〜三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を
行う」(読売新聞)という。「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一
石二鳥の効果をめざす」とも。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらい
だという。具体的には、つぎのようにするという。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、(1)授業の理解が遅れている児童、生徒
に対する補習を行う、(2)逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学
力に応じて指導するという。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗する。理由は、現場の教師なら、だれ
しも知っている。順に考えてみよう。

第七、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔か
ら「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、
子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子
どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、
なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためであ
る。

第八、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニ
ックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって
受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験
勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという
問題が、同時に起きてくる。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえない
でほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうし
てそういうウソをつく! 新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく
言えば、今まで小学四年で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。

しかし一方、私立の小中学校は、従来どおりのカリキュラムで授業を進めている。不利か不利
でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利である。だから親
たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高
校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東
京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませ
んよ」と。こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不
信感をいだき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる
天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中で
もダントツに多い。文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、
死ぬまで優雅な生活を送れる。……送っている。そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆ
とり学習」など考えるほうがおかしい。

この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところ
にメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。ああ、私だって、この年齢になっ
てはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就職先と、年金が保証さ
れている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやというほど、思い知らされてい
る。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配
する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボ
ロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。その教育改革にしても、ドイツやカナ
ダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は自由選択制の単位制度にして、午後
はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体にカリキュラム、指導方針など任せれ
ばよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(アメリカ)。いくらでも見習うべき見本
はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オースト
ラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しか
し検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけ
ないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後
の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもち
ろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。なのになぜ日本の
文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐れるのか? あるいは自分た
ちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいのか?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」と
いうよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育は
にっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教
育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校
の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強
などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。そ
の文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教育
学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。い
わんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう
言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受
験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の
学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方
向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふ
えた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」
(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。オースト
ラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数え
るほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人
もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。

(33)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(34)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(35)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(36)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(37)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(38)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(39)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(40)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといって
よいほど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社
会の温床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状
態で教育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活すること
になる。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師の
インターン制度を導入して、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父
母の教育補助制度を導入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、
こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。
で、ここにあげた(1)〜(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、
こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の
将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。
(02−8−28)※
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子ども
が、二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。

反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいな
い。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていな
い。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というの
は、もはや幻想でしかない。

+++++++++++++++++++++

(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学力
 日本の子どもの学力 子供の学力 英語力)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの英語教育(2)

++++++++++++++++++

中央教育審議会での話し合いなど、
どこ吹く風。

親たちの英語教育に対する関心は、
たいへん大きい。

公民館などでなされるプレスクール・
英会話教室などは、月謝が安いことも
あって、どこも満員。

英語だけで一日をすごす、英語プレ
スクールは、06年11月現在で、
214校(朝日新聞)もあるという。

この数は、01年の18校の約10倍
以上!

++++++++++++++++++

 中央教育審議会での話し合いなど、どこ吹く風。親たちの英語教育に対する関心は、たいへ
ん大きい。

公民館などでなされるプレスクール・英会話教室などは、月謝が安いこともあって、どこも満
員。

英語だけで一日をすごす、英語プレスクールは、06年11月現在で、214校(朝日新聞)もあ
るという。この数は、01年の18校の約10倍以上!

 で、私の意見。

 たとえば(海外留学)にしても、留学することの価値は、留学したものでなければわからない。
留学したことがない人に向って、留学することの価値をいくら説いても意味はない。中には、
「日本の中でも知らないことが多い。まず日本を知るべきだ」「日本語も満足に話せないのに、
外国語など学ぶ必要はない」などと反論する人もいる。

 こんな論理がまかり通るなら、こうも言える。

 「アジアの中でも知らないことが多い。まずアジアのことを知るべきだ」と。反対に、「この町の
中でも知らないことが多い。まずこの町のことを知るべきだ」でもよい。

 こうした意見が、トンデモナイ意見であることは、留学したことがある人なら、わかる。つまり
留学することには、想像以上の価値がある。観光客の立場で、旅行するのとは、わけがちが
う。

 そんなわけで、私の息子たちのばあい、3人とも、それぞれ、みな、外国に留学させた。半ば
強引に留学させた。「私の知らない世界を、見てきてほしい」と。

 そんなわけで、私は、子どもの英語教育についても、同じように考えている。ただ、だからとい
って、幼児期の英会話教育が役にたつとは思っていない。長い間、この問題を考えてきたが、
もっともよいのは、ある程度、英語の基本を学んだあと、高校生か、大学1、2年生のころに、
英語国で、1、2年の留学を経験するという方法である。

 それ以前でもあまり効果はないし、それ以後でも、あまり効果はない。ムダではないが、効率
という点を考えるなら、時期的には、そのころがもっとも適切ではないか。(異論、反論もあるか
と思うが……。)

 それに適性の問題もある。留学といっても、外国生活になじめる子どもと、そうでない子ども
がいる。その割合は、2:1くらいではないか。つまり3人に1人は、外国生活になじめないま
ま、はじき飛ばされてしまう。

 こう書くと、民族主義者たちの反感をかうと思うが、留学してみると、「日本は、本当に小さい
国」ということが、よくわかる。よく「日本は島国」というが、その「島国」であることを実感する。

 おそらく留学したことがない人は、「島国」と言われても、ピンとこないのではないか。反対に、
「島国で、何が悪い」と居直ってしまう人も多い。

 さらに言えば、留学したことがある人は、たとえば日本を考えるときも、いつも、日本の外から
見た日本を考える。日本の中から日本を考える人と、ばあいによっては、180度、ものの考え
方がちがうことさえある。

 話が脱線したが、子どものころから異文化に触れるということは、とても重要なことである。そ
ういう意味での英語教育ということであるなら、反対しなければならない理由など、どこにもな
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 英語
教育 子供の英語教育)

(補記)

 中央教育審議会のみなさんは、頭の中だけで教育を考えるのではなく、今、現状はどうなっ
ているか、それを前提に、ものを考えたらよい。「英語教育をやる・やらない」の議論だけで、0
2年から、5年間も議論をつづけていることのほうが、お・か・し・い。バカげている!

 現状は、審議会の討論など、どこ吹く風。もうとっくの昔に、ずっと先を進んでいる。





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●高齢者受難の時代

++++++++++++++

年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。

これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。

++++++++++++++

 私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババ
への風当たりが強くなってきている。

 若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののし
る表現が、最近、目につくようになってきた。ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOG
には、こんな書きこみすらあった。

 「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。おかげで、こちらは2週間も入院。そのジ
ジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。あんなジジイに、何度も見舞いに来られ
て、うるさくてしかたねえ。こっちは、迷惑している」と。

 その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。

 つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。そんな感じがする。老人医
療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。加え
て、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。若者たちは、程
度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。

 これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。「現在の日本の繁栄を築きあげ
たのは、私たちの世代だ」と。

 しかしこれは、ウソ。団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。

 たしかに結果的には、そうなった。つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝
手な論理にすぎない。私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきた
だろうか。私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。結果として
日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。

 そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。

 しかしこれは深刻な問題でもある。

 これから先、高齢者はもっとふえる。やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上にな
るとも言われている。そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろう
か。そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。

 ジジ・ババは、ゴミ。
 ジジ・ババは、臭い。
 ジジ・ババは、ムダな人間、と。

 そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、
たいへん住みにくい国ということになる。そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるよう
になるかもしれない。

 では、どうすればよいのか。

 ……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということ
になる。が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。親
たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言っているう
ちに、そうなる。

 中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。反
対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いになる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみ
ればよい。

 「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。「親の恩も遺産次第」と考えている若
者は、もっと多い。たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答え
ている。つまり「余裕がなければ、みない」※と。数年置きに、総理府が調査しているので、そ
のうち、これについての全国的な調査結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。

 私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。そこでは、30〜40人の老
人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をしている。見た目には、のど
かで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからない。

 すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。補助金を
削減し始めている。10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。単純
に計算しても、今は30〜40人だが、それが90〜120人になる。

 そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。また
どのように考えるだろうか。

 老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。ケア・センターでは、老人たち
が、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。ああい
うのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。

 高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。そういう人たちが、手をたたいて、カ
ラオケで童謡を歌っている! つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。ま
た、そうであっては、いけない。

 わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。社会とかか
わりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。そういうかかわりあいとい
うか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それなりにの(人間)として認
められるようになる。

 「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄できた
か、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていはいけない。

 私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に! 姿勢を低くして、若者
や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。その努力を今から、怠ってはいけない。

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古い原稿を再掲載します。

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●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私
が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでに
うんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金
を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者
がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめん
どうを、あなたはみるか」と。

それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%! この数字がい
かに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者たちの、80
〜90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字よ
り、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化は、ますます
進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均2
7万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に
灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨
大な遊園地で、遊びまくっている! 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母
親がいた。春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけで
も、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何を
いまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、
行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。

大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランド
だけで、大学を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学
生もいる(新聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私た
ち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。

私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらに
こう言った。「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費
用だけでも、月に4万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができる
だろうか。

(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約26・6万円。毎月
の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均
年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万
円。99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●高齢者への虐待

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やはり高齢者への虐待が
ふえているという。

これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。

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 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護
サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11
月〜04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があっ
たということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。

 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。夫が虐待
するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということ
になる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

(5)殴る蹴るなどの、身体的虐待
(6)ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(7)食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(8)財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。こうした虐待
は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。最近の若者のうち、「将来親の
めんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理府、内閣府の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っ
ている世代はいない。飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。本来なら、親に
感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こ
んなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う。(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言
うのだが……。)子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場では
ない。心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。これはもう、立派な
虐待と考えてよい。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだい
ている。それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。子どもの心は、その受験期をさかいに、急速
に親から離れていく。しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。あなたの周辺には、心の暖かい人も
いれば、そうでない人もいる。概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、
今、心の暖かい人であることを、あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、
連続して教えたことがある。そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期に
またがって、大きく変化するのを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライ
で、合理的になる。はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え
方を、平気でするようになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えな
い。つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろう
か。……言うことができるだろうか。あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目
で、あなたの子育てをみてみてほしい。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

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少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

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●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子
どもの心にあてはまる諺はない。きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続
くと、子どものものの考え方は、まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも
他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつう
の子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」と
か、「殺」とかいう文字もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血が
タラタラと流れていた。ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノ
ルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり
出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事
件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。一人の子ども(小二男
児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったというのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。ネコやウサギをお
もしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊ん
でいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつけて、殺してしまった子ども(小3男児)もい
た。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干
渉が原因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で
発散させようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲には、心が温かい人も
いれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいと
いうことを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、
それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れてはならない。

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。それは事実だが、破壊された子ども、あるい
はそのままおとなになった(おとな)が、それに気づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。本当の問題は、「では、なぜ、親たち
は、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。学歴のある人は、とことん得をし、
そうでない人は、とことん損をした。こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通し
て、いやというほど、思い知らされている。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。意識を変え、制度を変
え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。おかしいことは、「おかし
い」と言う。そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。しかしこれだけは言え
る。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、遅い
ということ。そのとき、気づいたのでは、遅いということ。今ここで、心豊かな親子関係とは、ど
んな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよう。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●老人医療(終末期医療)

+++++++++++++++++

要するに政府は、

高齢者の医療費を、もうこれ以上、
負担できないということらしい。

はっきり言えば、お金がナ〜イ。

高齢者医療制度もそのひとつ。

75歳以上の高齢者でも、保険料を1割
負担するということになっているが、
実際には、そのお金は、家族が支払うこと
になる。

+++++++++++++++++

 母を介護してみて、いろいろ気がついた点がある。一見すばらしく見える制度だが、中身は、
矛盾だらけ。75歳以上の高齢者が1割支払うという、高齢者医療制度にしても、結局は、その
家族が支払うことになる。一方で老齢年金を受け取りながら、その一方で、保険料を払う?

 さらに(流れ)をみると、負担増に苦しむ国が、抑制策に四苦八苦している姿が、浮かびあが
ってくる。たとえば05年末に、政府は、突然、「介護病床を廃止する」と発表した。

 それまでは、高齢者の長期入院医療が可能だったが、それができなくなった。これについて
は、私も、「しかたない」と思っていた。どこの大病院も、長期入院を繰りかえす高齢者で、あふ
れかえるようになったからである。つまり病院そのものが、行き場を失った高齢者の養護施設
のようになってしまった。

 しかし一律、廃止してしまったのも、どうかと思う。それまで38万床もあった、介護保険、医療
保険の適用病床が、15万床の医療病床だけになってしまった。つまり長期入院を繰りかえし
ていた高齢者たちは、そのまま介護施設に移された。

 わかりやすく言えば、パンク状態だった医療保険を、国は、こうして救済した。さらにわかりや
すく言えば、国民に、医療保険と介護保険の2本立てで、負担を強いることによって、医療保険
を救済した。

 つまりその分、国民は、負担増を強いられることになった。現に今、若い世代は、医療保険と
介護保険の、両方の保険料を、支払わねばならない。さらにここにきて、高齢者医療制度であ
る。

 一応建て前は、75歳以上の高齢者ということになっているが、実際に支払うのは、その家
族。私の家庭でいえば、私ということになる。その上、医療費の3割負担!

 要するに国は、こう言いたいのだ。「お金が、ナ〜イ」と。

 では、どうすればよいのか。

 私の母にしても、寝たきりの状態になるのは、時間の問題。そうなれば、私ではもう世話はで
きない。特別擁護老人施設への入居ということになるが、それも簡単ではない。「緊急性の高
い人から入居できます」ということだが、言いかえると、「緊急性」とは、「終末性」ということにな
る。

 死ぬ間際でないと、入居できないということらしい。つまり、「それまでは、在宅で世話をしろ」
と。

 施設で過ごさせるよりも、在宅で世話をしたほうが、高齢者にとってもよいことはわかる。しか
し在宅医療制度も、今、始まったばかり。在宅医療制度に対応した診療所にしても、ひどいとこ
ろ、たとえば富山県では、5000人につき1か所しかない。

 わかるか?
 
 75歳以上の高齢者5000人につき、1か所しかないのだぞ! どうやって、1か所の診療所
が、5000人もの高齢者のめんどうをみることができるというのか?

 これから先、ますます住みにくくなる、この日本。とくに私たちの世代は、そうだ。この先のこと
を想像すると、ぞっとする。心暖かな家族に恵まれ、たがいに世話をしあうような家庭環境があ
れば、まだよい。しかし実際には、そういう家庭は、さがさなければ見つからないほど、少ない。

 少し前にも書いたが、私たち高齢者が、社会の粗大ゴミになる時代は、すぐそこまできてい
る。

 どうすればいいのだ! どうしたらいいのだ!、と叫んだところで、この話はおしまい。要する
に、自分の老後は、自分で守るしかないということ。国なんて、まったく、アテにならない!

(補記)

 育児BLOGが、いつの間にか、老人介護BLOGになってしまった。おかしなことだ。


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