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●強化の原理



 (ほめられる)→(ここちよい)→(やる気が出てくる)という、一連の心の動きを、「強化の原
理」(「強化原理」と呼んでいる人もいる)という。



 最近の研究で、こうした(ここちよい感覚)は、脳の中でも、辺縁系と呼ばれる組織の中で、モ
ルヒネ様の物質(エンドロフィン系、エンケファリン系の物質)が放出されるためということが、
わかってきた。



 昔は、この辺縁系という組織は、原始脳で、働きはないと考えられていた。「太古の昔には働
きはあったが、その働は、もうなくなってしまった」と。少なくとも私は、学生時代、そう習った。



 しかしこれはとんでもない誤解だった。



 知的な活動は、脳の中でも、大脳連合野全体でなされるが、基本的な感情は、どうやら辺縁
系がつかさどっているというのだ。



 このことは、二つのことを意味する。



 一つは、イヌや、ネコにも、感情はあるということ。たとえばイヌでも、ネコでも、何かをしたと
き、ほめてやると、やはりモルヒネ様の物質が放出され、ここちよい感覚を生み出すというこ
と。つまり彼らだって、気持ちよいのだ。



 もう一つは、知的活動だけでは、感情は生まれないということ。たとえて言うなら、知的活動
は、コンピュータの働きに似ている。いくら恐ろしい文章を、ワープロに打ちこんでも、コンピュ
ータ自身は、少しもこわがらない。それと同じように、数学の問題を解くとか、作文を書くとかい
うのは、知的な活動だが、それ自体は、感情を生み出さない。



 むずかしい数学の問題を解いたとき、「ああ、おもしろかった」と思うのは、脳の辺縁系の中
で、モルヒネ様の物質が放出されるためである。



 (ただし、反対に、叱られたとき、不愉快になるのは、どういう働きによるものかは、私にはわ
からない。あちこちの本を読んでみたが、それについて書いたのは、なかった。これは私の不
勉強によるものか。そのうち、一度、調べてみて、わかりしだい、皆さんに報告する。)



 そこでこの辺縁系が機能を失うと、感情そのものがなくなることも、考えられる。あるいはやる
気をなくしたり、感情をコントロールできなくなったりする。



 しかし反対に、こうしたメカニズムをうまく利用すると、子どもを、前向きに伸ばすことができ
る。それを心理学の世界では、「強化の原理」という。



 これは多分に、コンピュータの影響かもしれない。私は、二七歳くらいのとき、コモドール社の
PET2000という、コンピュータを買った。それ以来、もう三〇年近く、コンピュータとつきあって
いる。



 そのためものの考え方が、どこかコンピュータ的になってきた。考え方がコンピュータ的にな
ったというよりは、人間の脳の働きも、そのコンピュータによく似ていると思うようになってきた。
(あるいは、同じなのかもしれない。)



 とくに子どもたちを観察していると、そう思う。が、それはそれとして、もしコンピュータに感情
をもたせたかったら、もう一つ、コンピュータ内部に、感情をつかさどる部分を、新設すればよ
い。人間の脳にたとえていうなら、辺縁系に似た部分である。



 処理をスムーズにできたら、コンピュータ内部で、コンピュータ自身が、ここちよく感ずる物質
を放出する、とか。そうすればコンピュータがそれを感知して、「ああ、楽しかった」と思うように
なるかもしれない。



 ずいぶんと回り道をしたが、要するに、子どもを伸ばそうと考えたら、子どもの脳の中で、こ
のモルヒネ様の物質が放出するように、しむければよい。



 方法は簡単。



子どもは、ほめれば、よい。すべては、そこから始まり、そこで終わる。つまり、じょうずにほめ
ること。これが子どもを伸ばす、秘訣の一つということになる。

(030928)














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●不道徳の限界



●殺人の意思



 イノシシだと思って、銃をうったら、イノシシではなく、マツタケを取りにきた、農夫だった。その
ため農夫は、頭に銃弾を受けて死んでしまった。(A)



 一方、燃えるような殺意を覚え、毎晩、近くの神社へ行き、わら人形に、クギを打ちつけた。
相手の人をのろい殺すためである。(B)



 (A)は、過失致死罪に問われる。殺意がなかったからである。一方、殺意はあっても、(B)
は、無罪である。「殺す」という実行行為が、なかったからである。



 これは法学部の学生が、刑法を学ぶとき、そのイロハとして学ぶ、事例である。



●不道徳の限界



 若い新婚ホヤホヤの男が、夜中に、あやしげなサイトを開いて、マスターベーションをしてい
た。これは不道徳なりや、いなや?



 妻子ある経営者が、飲み屋で知りあった若い女性と、金を払い、数時間、ホテルで、セックス
を楽しんだ。これは不道徳なりや、いなや。



 そも、不道徳とは、何か。



 若い美しい女性を見て、頭の中で、あらぬことを想像するのは、不道徳なりや、いなや。もし
不道徳の基準を、きびしくするなら、それも不道徳ということになってしまう。



 しかし不道徳の基準を、ゆるくするなら、あやしげなサイトを見て、マスターベーションをした
り、飲み屋で知りあった女性と、一時の情事を楽しむのは、不道徳ということにはならなくなっ
てしまう。



 さらに、冒頭に書いた、刑法の話を、その上に、重ね合わせると、こうなる。



 不道徳を、心の問題とするなら、心がゆらいだとたん、その人は不道徳ということになる? 
しかしもしそうなら、ワラ人形を打ちつけた人は、、みな、罪に問われる。



 一方、いくらほかの女性とセックスをしても、心さえしっかりともっていれば、不道徳ということ
にならない? しかしもしそうなら、刑法の世界でも、過失致死罪というのは、なくなってしまう。



●結婚によって生まれる束縛



 結婚によって、一組の男女は、愛を誓う。そのとき、たがいに、強烈な拘束力をもって、相手
の自由を奪う。奪うというよりも、奪われる快感を楽しむ。



 仮にどちらか一方が、別の異性とセックスをすれば、即、裏切り行為と、もう一方は、とらえ
る。「不倫」という言葉は、そこから生まれた。



 と、考えると、そもそも、結婚と同時に生まれる拘束力とは、何かということになる。



 ふつう、結婚するとき、「相手を徹底的に自分のものにしたい」という欲求が働く。それが「結
婚」という形になるが、これは、人間が、知的に考えてそうするというよりは、本能に命じられて
そうすると考えるほうが、正しい。



 (自分のものにしたい)という独占欲に、ヒビが入ったとき、(裏切られた)という意識が生まれ
る。



●「性」への欲求



 結婚生活には、同居して、たがいに共同生活をするという目的のほか、セックスを楽しむとい
う重大な要素がある。



 この(セックスをする)という部分が、満たされないとき、その夫婦は夫婦と言えるのか、という
問題がある。



 若い妻がよく訴える事例に、「夫がかまってくれない」というのがある。結婚後、数年目にし
て、セックスレスになる夫婦は、いまどき、珍しくない。



 となると、夫にせよ、妻にせよ、その欲求不満を、何らかの形で、解消しなければならない。
いくら夫婦というワクの中にいても、「性」への欲求は、それ以上のもの。とても個人の理性で、
コントロールできるようなものではない。



 こういうとき、どちらか一方が、ほかの異性とセックスをしたとする。しかしそれも、やはり不道
徳ということになるのか。



●不道徳とは何か



 こうして考えてみると、「そも不道徳とは何か」という問題にぶつかる。



 あるいは、その基準は、どこにあるのか。



 そこで登場するのが、宗教的基準である。ほとんどの宗教では、「セックス」の問題を、厳格
にあつかう。(中に、自由奔放なセックスを奨励する教団もあるにはあるが……。)



 しかし私を含めて、宗教団体に属していない人間は、どうやって、どこに基準を求めたらよい
のか。……ということになる。



●個人の裁量と、事情によって



 私は前提として、宗教的な基準をもうけるのは、まちがっていると思う。それぞれの夫婦に
は、それぞれの事情がある。同時に、それぞれの考え方がある。



 大切なことは、夫婦というワクをこわさないように、その夫婦を、さらに深めること。そのため
の行為なら、それが他人から見て不道徳でも、許されるのではないかといこと。



 いろいろな事例がある。



【Aさん、女性、四五歳】



 Aさんが浮気していることは、みんな知っている。Aさんは、ときどき、料理教室の講師を手伝
っているが、生徒も、みな知っている。Aさんが、それを話すからである。



 相手の男性は、夫と同じ年齢の、B氏。しかも家は、歩いて一〇分も離れていない。



 「夫にバレないのかなねえ?」と、私が心配すると、ワイフは、「ダンナさんも、もう知っている
みたいよ」と。



 (実は、この話は、二、三年前に、ワイフから聞いた話。そこで「最近は、どうなったの?」と聞
くと、「もう別れて、もとのサヤに収まったみたい」とのこと。改めて、「へえ」と感心した。)



【C氏、男性、五〇歳】



 C氏の趣味(?)は、出会い系サイトで、若い女性と知りあって、セックスをすること。「一人若
い女性をつかまえると、あとは、その女性の紹介、紹介で、イモヅル式に(?)、どんどん輪が
広がっていく」とのこと。



 言い忘れたが、C氏は公務員。奥さんも、同じ公務員。「ワイフのほうが、給料がいいよ。ぼく
の給料は、すべて、遊興費に回っている」とも。



【Dさん、女性、五四歳】



 Dさんは、独身。しかし妻子ある男性と月に何度か会って、セックスを楽しんでいる。相手の
男性は、七〇歳だというが、そういう関係が、もう二〇年以上もつづいているという。



 相手の男性の奥さんも、承知の上での交際とか。



 私はDさんから、直接、この話を聞いている。しかしDさんには、まったく罪悪感がないよう
だ。ケラケラと、笑って話してくれた。二〇年もつきあっていると、女性も、そうなるのか。



【E氏夫婦、夫三四歳、妻三二歳】



 E氏夫婦の趣味(?)は、月に一、二度の、スワッピングパーテイ。たいていは東京で。もしく
は名古屋まで出かけていくそうだ。



 全国組織の会にも入っているので、ときどき旅行をかねて行くこともあるという。



 「最初、妻を説得するのに苦労しましたが、今では、妻のほうが、楽しみにしている」とのこ
と。



 同じような集まりだが、「混浴の会」というのもあるそうだ。こちらはセックス抜きだそうだが、
男も女も、その場になると、みんな素っ裸で、泳ぎだすという。E氏も、ときどき参加するという。
「開放感がたまらない」と。



●改めて考える



 大切なことは、その夫婦が、納得の上で、自分たちで考えてするということ。基準を求めるの
も、おかしな話だし、他人から基準を押しつけられるのは、もっとおかしな話だ。



 あるいは世間一般の通俗的な基準で、しばるのもおかしい。



 たいていの男は、そして女は、最初、その通俗的な基準で、自らを苦しめる。罪の意識を感
ずることも多い。



 しかしこんな事例もある。



 ある不倫を一年以上つづけた若い妻が、こう言った。



 「不倫をすれば、たしかに罪の意識は生まれます。最初のころは、夫に顔向けさえできませ
んでした。



 しかしそのうち、その分、夫に尽くすようになりました。申し訳ないという気持ちが、そうさせた
のだと思います。



 おかげで私は、以前よりよい妻になることができました」と。



 どうせ不道徳なことをするなら、このレベルまで、自分をもちあげるような不道徳をすればよ
い。(……といっても、それを奨励しているわけではない。誤解のないように!)



 セックスは、食欲、さらには生存欲と並んで、生きていく上においては、重要な、かつ避けて
は通れない問題である。だからみな、もっと、前向きに考えたらよい。今どき、そういう人は少
ないと思うが、それを「汚いこと」「いやらしいこと」「隠すべきこと」と考えるほうが、おかしい。



●夫婦としての約束



 最後に、この問題には、「誠実さ」の問題がからんでくる。夫婦の約束といってもよい。不倫を
すれば、その約束を破ることになる。



 しかしこれはセックスの問題というよりは、人間対人間の問題である。



 不倫はしなくても、妻や夫に対して、誠実でない人はいくらでもいる。不倫をしながらも、ほか
の面では、きわめて誠実な人もいる。



 セックスには、本能がからんでいるため、理性ではどうにもならない部分がある。たとえば酒
に溺れるように、あるいはパチンコや競馬に依存するようになるように、脳のどこかが狂って、
セックスに溺れる人だっている。



 そういう人をすべて、悪人とすることもできないのではないか。



 それぞれの夫婦が、他人には理解しがたいほど、複雑な事情をかかえている。その事情の
中で、懸命に生きている。その結果としての、不倫もある。こうして考えていくと、何が道徳的
で、何が不道徳的なのか、わからなくなってしまう。



 このつづきは、もう少し、頭を冷やしてから考えなおしてみたい。ここに書いたことが、私の結
論というわけではない。どうか誤解のないように!

(030929)



【追記】



●裸で泳ぐ



 もう二〇年ほど前のことだが、オーストラリア人の友人夫婦を、食事に招待したことがある。
そのとき、夫は、NSW大学の講師をしていた。新婚旅行で、日本へやってきた。



 その夫婦が、食事中、こんな話をした。



 「ヒロシ、日本人は、どうして、そんなにもスケジュールに厳格なのか?」と。



 おかしな話だったので、詳しく聞くと、こう言った。



 車で、箱根をドライブしていたときのこと。美しい川を見つけた。そこで箱根を案内していた日
本人の夫婦に、「みんなで泳ごう」と提案した。



 しかし日本人の夫婦は、「だめだ。一二時までに、○○ホテルへ行くことになっている」と、頑
として譲らなかったという。それで「日本人は、スケジュールに厳格だ」と。



 オーストラリア人の夫婦は、とても残念そうだった。オーストラリアには、日本で見るような清
流がない。だからその清流に感動したらしい。



 そこで、さらに話を聞くと、それはオーストラリア人夫婦の誤解であることがわかった。



 そのとき日本人の夫婦が、「どうやって泳ぐのか? 水着をもってきていない」と言ったらし
い。それに答えて、オーストラリア人の夫婦が、「裸で泳げばいい」と。



 だから私はこう言った。



 「それは日本人が、スケジュールに厳格ということではなく、裸で泳ぐという習慣がないから
だ。それでみんなで泳ぐことを、断ったのだ」と。



 私はそのときほど、日本人の意識と、オーストラリア人の意識の違いを思い知らされたことは
ない。彼らにしてみれば、裸で泳ぐということは、異性がいてもいなくても、私たちが銭湯へ入る
ような感覚に近い。



 「性」の意識というのはそういうもの。考えてみれば、人間はもともと裸だった。全身、毛にお
おわれていたとはいえ、裸だった。



 さらにほんの一〇〇年とか、二〇〇年前には、風呂も混浴だったし、夜這(よば)いなどとい
う習慣も、日常的に認められていた。日本人が、今のような性意識をもつようになったのは、こ
こ一〇〇年くらいのことではないか。よくわからないが……。



 そう言えば、つい数か月前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦も、あちこちへ
行っては、混浴を楽しんできた。



 奥さんに、「恥ずかしくなかった?」と聞いたら、反対に、けげんそうな顔をして、「どうして?」
と、聞かれてしまった。私のもつ意識と、彼らのもつ意識は、まったくかみあわなかった。



●所詮、無の世界? 



 「性」の問題には、このように、その人の意識の問題が、深くからんでくる。そしてその意識
は、今、私たちがそうであるからといって、それは普遍的なものでも、絶対的なものでもない。



 昔、今東光氏が、病床にありながら、私にこう言った。



 「所詮(しょせん)、性なんて、無だよ、無」と。



 しかしもし性(男女のセックスの関係)が、無なら、生きることも無ということになってしまう? 
あのフロイトも、「生きることにまつわるすべての、エネルギーの根源(リピドー)」に、「性的エネ
ルギー」をおいている。



 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることから生まれ
るというのだ。



 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、その
根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。



 その生きる力が、「無」ということになると、生きていることそのものが、「無」ということになっ
てしまう? あるいは本当に「無」なのかも知れない?



 ただ、こういうことは言える。



私も、キリスト教徒ではないが、禁欲主義的に生きている人を、何人か知っている。しかしそう
いう人は、たとえて言うなら、恋をしたこともない、勉強ばかりしている高校生のような感じがす
る。



 おもしろくもないし、人間的な深みも感じない。生きる力、そのものを感じない。



 むしろ何というか、いつも異性を意識し、それでいて思うようにならなくて、切なさ、わびしさを
一身に背負って生きている人のほうに、私は魅力を感ずる。たとえて言うなら、フーテンの寅さ
んのような人間か。



 ……と考えていくと、わけがわからなくなってしまう。恐らく、読者のみなさんも、そうではない
か。だから、この話は、ここまで。このつづきは、やはり、もう少し頭を冷やしてから、考えてみ
たい。



 本当にまとまりのない文章で、ごめん。この問題は、思ったより、「根」が深いようだ。



+++++++++++++++++



以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を

掲載します。高校生の「性」について

書いたものです。



+++++++++++++++++



●変わった性意識



 うちへ遊びにきた女子高校生たち四人が、春休みにドライブに行くと言う。みんな私の教え子
だ。



そこで話を聞くと、うち三人は高校の教師と、もう一人は中学時代の部活の顧問と行くという。
しかも四人の教師のうち、独身なのは一人だけ。あとは妻帯者。



私はその話を聞いて、こう言った。「大のおとなが一日つぶしてドライブに行くということが、どう
いうことだか、君たちにわかるか。無事では帰れないぞ」と。それに答えてその高校生たちは
明るく笑いながら、こう言った。「先生、古〜イ。ヘンなこと想像しないでエ!」と。



 しかし私は悩んだ。親に言うべきか否か、と。言えば、行くのをやめる。しかしそうすればした
で、それで私と彼女たちの信頼関係は消える。私は悩みに悩んだあげく、女房に相談した。



すると女房はこう言った。「ふ〜ン。私も(高校時代に)もっと遊んでおけばよかった」と。私はそ
の一言にドキッとしたが、それは女房の冗談だと思った。思って、いよいよ春休みという間ぎわ
になって、その中の一人に電話をした。そしてこう言った。



「これは君たちを教えたことのある、一人の教師の意見として聞いてほしい。ドライブに行って
はダメだ」と。するとその女子高校生はしばらく沈黙したあと、こう言った。「じゃあ、先生、あん
たが連れてってヨ。あんたは車の運転ができないのでしょ!」と。



 以来一〇年近くになるが、私は一切、この類の話には、「我、関せず」を貫いている。はっき
り言えば、今の若い人たちの考え方が、どうにもこうにも理解できない。



私たち団塊の世代にとっては、男はいつも加害者であり、女はいつも被害者。遊ぶのは男、遊
ばれるのは女と考える。しかし今ではこの図式は通用しない。女が遊び、男が遊ばれる時代に
なった。だから時折、援助交際についても意見を求められるが、私には答えようがない。私が
理解できる常識の範囲を超えている。



ただ言えることは、世代ごとに性に対する考え方は大きく変わったし、変わったという前提で議
論するしかないということ。避妊教育や性病教育を徹底する一方、未婚の母問題にも一定の
結論を出す。やがては学校内に託児所を設置したり、授業でセックスのし方についての指導を
することも考えなくてはならない。



厚生省の調査によると、女子高校生の三九%が性交渉を経験し、一〇代の中絶者は、三万
五〇〇〇人に達したという(九九年)。しかしこの数字とて、控え目なものだ。つまりこの問題だ
けは、「おさえる」という視点では解決しないし、おさえても意味がない。



ただ許せないのは、分別もあるはずのおとなたちが、若い人たちを食いものにして、金を儲け
たり遊んだりすることだ。先に生まれた者が、あとに生まれた者を食いものにするとは、何ごと
ぞ!、と。



私はもともと法科出身なので、すぐこういう発想になってしまうが、こういうおとなたちは厳罰に
処すればよい。アメリカ並に、未成年者と性交渉をもったら、即、逮捕する、とか。しかしこうい
う考え方そのものも、もう古いのかもしれない。



 かつて今東光氏は、私が東京のがんセンターに彼を見舞ったとき、こう教えてくれた。「所
詮、性なんて、無だよ、無」と。……実は私もそう思い始めている。













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●親どうしの交際



相槌(あいづち)を打つことの恐ろしさ



 たとえばAさんが、あなたに、Bさんの悪口を言ったとする。そういうとき、あなたは、決して、
「私も、そう思う」と言ってはいけない。相槌(あいづち)を打つと、今度は、あなたの言った言葉
として、みなに、広がってしまう。



 ……というようなことは、この世界ではよくある。で、教訓。相槌は打たない。とくに、間に、子
どもがからんでいるときは、打たない。こんなことがあった。



 Aさん(母親)が、Bさん(母親)に、こう言った。



 「Cさん(母親)って、少し、頭がおかしいんじゃない?」と。



 それに答えて、Bさんが、「そうね。私もそう思うわ」と。



 それ以後、Aさんは、ほかの人に、「Cさんは頭がおかしいと、Bさんが言っていたわ」と言い
ふらすようになってしまった。Bさんが、そのあと、いろいろなトラブルに巻きこまれたことは、言
うまでもない。



 ……ということは、私も知っていた。しかし、こうしたトラブルは、思わぬところで巻きこまれ
る。最近だが、こんなことがあった。



 X氏(男性・六〇歳)からある朝、電話がかかってきた。何でも今度、Y氏(男性・四五歳)とい
う男から、共同事業を申しこまれたという。そこでY氏について、何か教えてくれないか、と。



 が、私もY氏については、ほとんど知らない。そこで、「そんなに心配なら、私のほうで、私の
友人に聞いてみましょうか」と提案した。X氏は、それに喜んだ。



 が、数日後のこと。いきなりFAXが、飛びこんできた。見ると、Y氏からのものだった。いわく、



 「私は、こういう人間です」と。見ると、Y氏の経歴が、つらねてあり、最後に、「私はあなたが
考えているようなヘンな人間ではありません」と。ついで、X氏がY氏にあてた手紙まで、FAXで
送られてきた。私は、それを見て、愕然(がくぜん)とした。



 それには、こうあった。



 「Y氏へ。貴殿のことを、私の友人の、林氏が疑っています。一度、貴殿の素性について、調
べたほうがいいと忠告してくれました。それで……。Xより」と。



 私は、そんなことは、一言も言っていない。X氏は、自分の不安や心配を、私の言葉として、
置きかえてしまった。つまり、私がうかつだった。



 話をもどす。幼稚園にせよ、学校にせよ、親どうしのトラブルは、日常茶飯事。しかし間に子
どもがいるため、この種のトラブルは、一度こじれると、とことんこじれる。ほかの世界なら、顔
をあわせないという方法で回避できるが、幼稚園や学校では、それもできない。



 だからほかの親とつきあうにしても、親しくなろうなどとは、考えないこと。コツは、トラブルを
起こさないように、静かにつきあうこと。この世界には、如水淡交(じょすいたんこう)という鉄則
がある。(鉄則といっても、私が勝手に考えたものだが……。)



 「つきあうとしても、淡く、水のようにサラサラとつきあう」という意味である。決して、深入りしな
い。してはいけない。事務的なことだけを、事務的にこなして、それですます。



 はっきり、言おう。



 この世界、その底流では、人間のドス黒い欲望が、渦を巻いている。一〇人のうち、九人ま
でがまともでも、そうでない人が、必ず、一人はいる。その一人にからまれると、それこそ転校
……ということにもなりかねない。



 それでも……ということなら、できるだけ子どもとは、直接関係のない世界で、直接関係のな
い親たちとつきあう。そういう世界で、情報を交換する。あるいはつきあうにしても、慎重の上に
も、慎重につきあう。



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 以前、書いた原稿を転載します。

 一部ダブりますが、許してください。



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●親とのつきあいは、如水淡交



 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、
間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。



数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任
期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。



 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって
もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま)
のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。



しかしこの方法も、ひとつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、でき
るだけ身近でない人のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題
がある。理由はいくつかある。



 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本
では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう
とらえている。



こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」という、利己主義
的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、おかしい。その
ため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもないことになる。



 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 二〇年前、三〇年前には、まだ気骨のある
教師がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師
もいた。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっている
うちに、先生自身が、自信をなくしてしまった。



ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先生たちが萎縮してしまっています」と。こういう状
態をつくったのは、結局は、親自身ということになる。つまり園や学校の先生が、それなりに
(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を責めることもできない。



私にしても、一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。が、今は、むしろ同情す
る側に回っている。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が抜ける場所です」と、こっ
そりと話してくれた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろん、しつけから、道徳、さ
らには家庭問題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほかならない。



 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。
これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。



(8)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して個
人的な問題や、相談はしない。



(9)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちもタ
ブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言って
はならない。



(10)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子ども
の名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。



(11)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう
いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。



(12)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にから
まれると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。



(13)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざか
る。見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。でき
れば、どこか「穴」にこもるとよい。



(14)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、
へたに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだ
けは、何としても避ける。



+++++++++++++++++++++



 さて冒頭の、Y氏とのトラブルだが、こういうケースでは、へたに言いわけをしたり、反論しな
いほうがよい。そんなことをすれば、今度は、X氏と私の関係までおかしくなってしまう。



 こういうときは、静かに時の流れを待つのがよい。あとは時間が解決してくれる。つまり、それ
も解決法の一つということ。



 そう言えば、このところX氏は、どこか「?」になってきた。一〇年前のX氏なら、そんな手紙は
書かなかったはず。これも年齢のせいなのか? これからはX氏とは、如水淡交をこころがけ
ることにする。

(030930)











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●悪人論



 悪人にこわいところは、悪いことを、面白半分にすること。深く考えない。あるいは自ら深く考
えようとしない。考えたら、悪いことはできない。だから面白半分にする。



 だから罪の意識を感じない。たとえば人をだましても、ヘラヘラしている。またヘラヘラするこ
とによって、自責の念から、逃れようとする。



 今、この静岡県でも、おかしな督促状が、届くという事件が頻発している。「あなたの債務の
〜〜が、債権回収機構に回されました」とか、何とか。



 もちろんインチキ督促状だが、こういうことが平気でできる人は、ここでいう悪人である。こうし
た悪人が、ふつうの人と違うのは、ふつうの人プラス、こうした特殊な能力をもっているというこ
と。「特殊な能力」というのは、自分にとって、つごうの悪い事実を、そのつど、別の世界にしま
いこむことができる能力をいう。



 だからこうした悪人は、会ってみると、ふつうの人。ごくふつうの人であって、私やあなたとど
こも違わない。常識もあるし、判断力もある。しかし、その一方で、冒頭に書いたように、面白
半分で、悪いことをする。



 こうした能力(?)は、だれにでもある。



 たとえば人は、自分にとってつごうの悪い思い出や、事実は、無意識のうちにも避けようとす
る。日本語にも、「とぼける」という言葉があるが、それもその一つ。



 つまりそうすることによって、自分の心をできるだけ正常(?)に保とうとする。よくある例が、
加害者と被害者の関係である。



 加害者は、事件をすぐ忘れるが、被害者は、そうではない。たとえば日本人全体をみたとき
も、戦時中、旧日本軍が悪いことをしたと思っている日本人は、あまりいない。(一方、中国の
人や、朝鮮半島の人たちは、いまでも、執拗に旧日本軍の悪業の数々を問題にする。)つまり
これも、ここに書いたような心理の作用による。



 こうした人が本来もつ特性、それが極端になったのが、悪人ということになる。



 こうした悪人は、人をだましたという不快感よりも、それで得た利益のほうを喜ぶ。そしてその
不快感を、記憶の外に追い出すことによって、自分を正当化する。「だまされるヤツが、悪い」
と。



 だから、一度、悪人になると、そういう人を、説教したり、罰しても、意味はない。脳のCPU
(中央演算装置)の問題だから、である。



 大切なことは、そういう悪人をつくらないこと。つまり、そこに教育の意味がある。



 ところでこの善悪の感覚をつかさどるのが、辺縁系の中でも、扁桃体と言われている。よいこ
とをすれば、ここからモルヒネ様の物質が放出され、その人を快感に導くという。そうした積み
重ねが、その人を善人にする。



 が、何かのことで、その部分が変調すると、この善悪の感覚がマヒするようになる。そしてそ
の状態がつづくと、ここでいうような悪人になる? (悪人になるメカニズムは、あまり解明され
ていない。)



 だから、最近、よく道徳が話題になる。知的レベルで、その人を善人にしようとか考えても、あ
まり意味がないということになる。この問題は、もっと「根」が深い。



その人(子ども)を善人にしようと考えたら、日々の生活の中で、その「快感」を味あわせるよう
にする。その実感が、人(子ども)を善人にする。繰りかえすが、もともとこの問題は、頭で考え
て、どうこうなるような問題ではないのである。



 で、かく言う私も、ヘラヘラと笑いながら、悪いことができるようなところがある。そういう部分
がないとは、言わない。もともと私は、邪悪な人間である。つい先日も、アメリカで、列車が襲わ
れ、金塊が盗まれるという事件があった。ああいう事件を見聞きすると、「ほう、なかなか、うま
くやったな」と、思ってしまう。



 しかしかろうじて、そういう悪人と無縁でいられるのは、(本当にかろうじて、だが……)、周辺
にそういう人たちとのつきあいがないこと。生活がそれなりに、安定していること。家族がいるこ
と。それにこうしてものを書きながら、自分自身を、自制していることなどがある。



 もしこれらの要素の一つでも欠けたら、私は、まっしぐらに悪人になるだろうと思う。



 が、悪いばかりではない。そういう邪悪さがあるからこそ、他人の邪悪さを、即座に見抜くこと
ができる。



 よくサブカルチャ(非行などの下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊か
な子どもになるといわれている。そういう現象かもしれないが、ともかくも、私は、他人の邪悪さ
を、即座に見抜くことができる。



 だからときどき、私のところにも、あやしげな手紙がきたり、電話がかかってきたりする。しか
しそのつど、即座に、相手の邪悪さを見抜いてしまう。だから冒頭に書いたような督促状がきて
も、私は、まずひかからない。



 そう、以前も、大豆商法、金相場商法、ネズミ講などなど。いろいろな悪徳商法が話題になっ
たが、そういったものでも、私はまだ世間で話題になる前から、それを見抜いていた。そういう
ふうには、役立っている。



 そういう邪悪な私が、ゆいいつ罪滅ぼしができることと言えば、そういう力を利用して、善良な
人たちを、善良な世界で、守ることでしかない。恐らく私がもっている邪悪さは、一生、死ぬまで
消えることはないだろう。だからこそ、そういう形で、利用するしかない。



 ついでに、以前書いた原稿を、ここに再掲載する。 



+++++++++++++++++++++++++++



よい子論



 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。



 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。またどのレベルで判断するかによっても、変わって
くる。



たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女
の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がない
ように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面
もある。こんなことがあった。



K君(小五)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出さ
れていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、
私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。



で、そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の三人でたまたま話しあうことに
なった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばか
りの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。



それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうか
ら、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつも
より三〇分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩を
もんでやるよ」と。



 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。



要は子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもってい
ればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方に
なってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言
えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないというこ
とになる。



 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。



+++++++++++++++++++++



 この原稿の中で、最後のところで、「しばらく考えるのをやめる」と書いた。で、それからほぼ
一年になる。



 で、この原稿を改めて読んでみて、今、こんなふうに考える。



 今朝(一〇月一日)の朝刊を見ると、何でもC県の住宅供給公社が、土地を相場よりも、七〇
億円近い高額で買い取っていたという。読売新聞は、つぎのように伝える。



「70億円も高く購入…千葉県住宅公社用地買収疑惑



 実質的な債務超過状態に陥っている千葉県住宅供給公社が、1995年から98年にかけて
同県市原市の山林を購入した際、複数の不動産鑑定のうち、倍以上も高額の鑑定結果を採
用していたことが30日、判明した」と。



「相場の、二倍」だったという。常識で考えれば、その陰で、何かの裏取り引きがあったとみる
べき。



 これからこの事件は、詳しく調査されるのだろうが、本物の悪人というのは、そういうこをする
悪人をいう。



 日ごろは何食わぬ顔で、それなりの地位と立場にいて、それなりに善人ぶっている。そして一
方で、税金を食いものにして、好き勝手なことをしている。



 ……とまで考えたところで、急速に疲れを感じた。本当のところ、こういう問題を考えるのは、
疲れる。どうにもならないという無力感もある。だから、この話は、ここまで。



 私のようなものが、いくら叫んでも、どうにもならない。どうにか、なる問題でもない。だから、
この話は、ここまで。

(031001)

















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●子どもの神経疲れ



 マガジンで少し前、子どもの神経疲れについて書いた。それについて、ある読者の方より、質
問をもらった。



 つぎは、その内容を、要約したもの。



++++++++++++++

 

'神経疲れ,のところが気になったのですが、我が家の中一の長男も時々'疲れた,を口にしま
す。



彼は、自分が気に入っていること以外やる気が薄く、勉強もできないわけではないのに嫌いが
先にたち、どの教科もつまらないと言います。



また、子どもには楽しいはずの運動会や、クラスで力を合わせて取り組むようなものなどもつま
らない、面倒くさいなどと言います。



そして、学校から帰ると'疲れた,と言うのです。



小さい頃から喘息があり、精神的な事やいやな事が発作を引き起こすことも多々あり、小二の
とき、二週間だけですが身体的には症状はないのに、本人がどうしてもぜいぜいして苦しいと
言うので環境を変えるために、病院から学校に通ったこともありました。



その後はだんだんよくなり、薬も飲まなくても良いほどになったのですが、中学に入学しまして'
疲れたを言うようになった最近、発作が出始めています。



これは注意すべきレベルでしょうか? またそうであればどんなふうに対処したらよろしいので
しょうか? (北海道・UKより)



+++++++++++++++



●神経疲れ



 神経疲れも、肉体疲労と同じように、前向きに行動しているときは、それなりに処理できる。
自ら進んで、やる気を出して行動すれば、疲れるということが、むしろここちよい快感となる。脳
の辺縁系の中でも、帯状回が、それをつかさどっているとされる。



 しかし服従を強いられ、無理、強制が加わると、そこで自己意識との葛藤(かっとう)が始ま
る。(したくない)という本来の意思と、(しなければならない)という自己意識が、衝突する。



 これが心理的ストレストなり、神経疲れを、加速させる。



 症状としては、



 不安症状(理由もなく、不安に思ったり、ささいなことを気にして、不安になる)や、抑うつ感
(ふさんぎこんで、ため息をはく。元気がなく、同じことをクヨクヨと悩む)、ぐずる(理由を聞いて
もはっきりしない。行動が緩慢になる)、突発的な興奮性(ささになことで、カッとなって、キレ
る)、恐怖症(何でもないことにビクビクする。特定のことに、恐怖感をもつ)、強迫症状(周囲の
ものには、理解できないことで、おののいたり、こわがったいるする)などがある。



 この神経疲れがこわいのは、多くのばあい、神経症を併発し、それがこじれると、情緒不安、
情緒障害、精神不安、精神障害へと、進行していくことである。学校恐怖症(不登校)の、第一
期の症状(前兆症状)として現れることもある。



 ほとんどの親は、神経症による症状が現れてから、子どもの神経疲れに気づくことが多い。



 神経症による症状としては、つぎのようなものがある。



子どもの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。



@精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。



A身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。



B行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。



 相談のケースの、「ぜん息」も、神経症の症状のひとつに考えられている。(ただし、ぜん息
が、すべて神経症によるものではない。)



+++++++++++++++++



●UKさんのケースより……



 UKさんのケースでは、いくつか気になる点がある。



「勉強もできないわけではないのに嫌いが先にたち、どの教科もつまらないと言います」「また、
子どもには楽しいはずの運動会や、クラスで力を合わせて取り組むようなものなどもつまらな
い、面倒くさいなどと言います」と。



 どこか親のほうで、子どもの心を決めてかかっているような点が見られる。とくに「楽しいはず
の運動会」というところ。



 集団行動が苦手な子どもは、約三〇%(推定)はいる。このタイプの子どもには、運動会や遠
足は、苦痛以外の、何ものでもない。「楽しいはずの……」と決めてかかることは、たいへん危
険なことである。



 世間が狭い親ほど(失礼!)、自分の考え方や、価値観を、子どもに押しつけようとする。そ
の無理が、子どもの心を閉ざす。そのため、親のほうが、子どもの心を見失う。



 さらにこういうケースで心配なのは、親は、その状態を、「最悪」と思い、そこを原点として、
「なおそう」と考える。しかし対処のし方をまちがえると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落
ちていく。UKさんのケースでは、このまま不登校児になることも、じゅうぶん考えられる。



●対処のし方 



 以前書いた原稿(リヨン社、「子育てストレスが、子どもをつぶす」)から、記事を抜粋する。



……子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけ
ればならない。



アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、カボチャの
頭』と書いている。



人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。



わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん疲
れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わった
の」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は
休まらない。



 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。



 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。



なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける……。



++++++++++++++++++



●UKさんへ



 メール、ありがとうございました。



 「嫌い」「めんどくさい」「疲れた」という言葉をよく口にするようであれば、気うつ症を疑ってみ
ます。(ふつうは、気うつ症を疑います。症状がこじれれば、うつ病へと進行します。引きこも
り、家庭内暴力へと進行することも、あります。)



 慢性的な抑うつ感が、子どもの心を、むずばみ始めているとみます。(ただし、口ぐせで、そう
言いながら、ストレスを発散させるケースもあるので、必ずしも、子どもの口グセを、真に受け
る必要はありません。)



 それにあわせて、身体的な症状、たとえば、吐く息が臭い、腹痛、頭痛を訴える。動作が緩
慢に(のろく)なるなどが、あれば、かなり警戒したほうがよいかもしれません。



 方法としては、@暖かい無視、Aほどよい親をこころがけることです。(先に書いた、対処法
を参考にしてください。)



 いただいた文面だけでそう判断するのは、危険なことですが、やや過干渉的な子育てになっ
ていないかも、反省してみてください。「〜〜のハズ」とういう、「ハズ論」で、子どもの心を決め
てかかってはいけません。



 ぜん息がすべて、神経症によるものとは言えませんが、神経症によるぜん息は、決して珍しく
ありません。(熱を出したから肺炎ということにはなりません。しかし肺炎になると熱が出ます。
それと同じように考えてください。)



 ご質問の「これは注意すべきレベルでしょうか?」ということについては、私は「YES!」だと
考えます。じゅうぶん警戒して、思い切って、手綱(たづな)を緩めることを考えてみてください。
学習面、進学面で、子どもの過負担になっているようなら、まず親のほうが、思い切って、「あ
きらめ」ます。



 そしてつぎに、「あなたは、よくがんばっている」「よくがんばったね」と、ねぎらいの言葉をかけ
てみてあげてください。先に書いたように、励まし、脅しは、タブーです。



 当然のことながら、ぜん息という症状そのものについては、ドクターの指示に従ってください。



 以上です。また何かほかに症状があれば、ご連絡ください。

(031003)














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●記憶のメカニズム



 人間の記憶は、認知記憶(読んだり聞いたりしたことを、頭の中にたくわえる)と、手続記憶
(練習して、意識しなくても、ピアノが自然にひけるようになる)の二つに大きく分けられる。



 さらにその内容によって、短期記憶(一時的に記憶する)と、長期記憶(遠い昔のことを記憶
する)に分類される。



 このうち、短期の、認知記憶は、脳の中の辺縁系にある、海馬(かいば)という組織が深く関
係していることがわかっている。この海馬を損傷したり、手術によって切除されたりすると、短
期の、認知記憶ができなくなることもわかっている。



 (一方、手続き記憶は、海馬とは関係なく。小脳を中心とした神経回路で形成されると考えら
れている。)



 が、海馬だけで、認知記憶をするわけではない。現在では、人間の記憶は、大脳連合野全
体で、蓄えられると考えられている。が、ここで一つの問題にぶつかる。



●記憶の想起



 記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という手続きを経て、蓄(たくわ)えられ、必要に
応じて、外に取り出される。



 いくら頭の中に記憶されていても、また保持されていても、(想起)というメカニズムがうまく働
かないと、「忘れてしまう」という現象となって現れる。



 その(想起)をつかさどっているのが、どうやら「海馬」であることも、最近の研究でわかってき
た。健常者を使った事件では、その人にあれこれ思い出させようとすると、海馬が、選択的に
活発になることがわかっている。最近では、リアルタイムに、こうした脳の働きは、PET画像を
使ってそれを知ることができる。



 が、何らかの原因で、この海馬の働きが、損傷を受けると、(想起)そのものが、できなくな
る。脳のどこかに記録はされていても、それをうまく取り出せないという状態になる。手術など
によって切除されたとか、脳に打撲などの衝撃を与えたようなときである。一時的に血流がと
だえたようなときにも、そうなるとされる。



●脳のメカニズムには、個人差がある。



 長野県のGHさんには、折り返し、この点について、質問してみた。「脳に障害が残るような事
故、事件はなかったか?」「乳幼児期に、一時的に、気を失うような事故はなかったか?」と。



 それに対して、「まったくない」とのこと。



 そうなると、つまり脳に機質的な問題がないとすると、今度は、メカニズム的な問題を疑って
みる必要がある。子どものばあい、脳の中で、情報の受け渡しが、うまくできないと、GHさんの
子どものような症状が現れることがある。



 しかしこの先のことは、大脳生理学の分野でも、まだ未開拓な部分であり、「どうしてそういう
現象が起きるのか」、また「どうすれば、そういう現象を回避できるのか」については、まだよく
わかっていない。(これは私の不勉強によるものかもしれないが……。)



 しかし長年、子どもたちと接してきた結果として、つぎのようなことは言える。つまり脳のメカニ
ズムは、決して、一様ではないということ。個人差が大きいということ。さらにこうした個人差
は、脳のメカニズムに起因しているため、指導でどうにかなる問題ではないということ。



 いろいろな例で考えてみる。



【T君、小三の例】



 彼は、ズケズケとものを言う。相手が、そういう言葉で、どのようにキズつくかについては、ま
ったく無関心。無頓着(むとんちゃく)。



 先日も、何かのことで失敗した子どもがいた。それを見て、T君は、「お前、バカだなあ。こん
なこともできないのか。メダカ学級(養護学級)へ行けよ!」と。



 言われた子どもは、学力がかなり劣る子どもだった。私はその言葉に驚いて、かなりはげしく
叱った。しかしT君は、何かにつけて、そういうタイプの子どもである。



 自分のことしか考えず。まわりの者の気持を、ほとんど考えない。視野が狭いというか、気が
回らないというか。そんな感じである。



【私の例】



 この話とは、直接関係ないが、講演(授業)などをしていると、同時に、二つの脳が働くのを感
ずる。



 一つは、話している内容を考えている脳。もう一つは、その上から、自分を客観的に見なが
ら、「あと二〇分だぞ……」「あと一〇分だぞ……」と、自分をコントロールしている脳である。



 こうした現象は、日常的にも経験する。



 たとえば母親から相談を受けていると、話の内容について考えている脳と、「どこまで話そう
か」「どこまで話していいのか」と、自分をコントロールしている脳があることがわかる。



 このとき、もし自分をコントロールする脳が、疲労などによって乱れると、講演などでは、自分
でも、何を話しているか、わからなくなってしまうときがある。(こうし文章を書いているときも、似
たような現象を経験する。)



●自己意識



 自分で自分をコントロールする意識のことを、自己意識という。自意識という人もいる。



 この自己意識が発達してくると、自分で自分を客観的に見ることができるようになる。「こんな
ことをすれば、みなに、笑われるぞ」「こんなことをすれば、先生に叱られるぞ」「こんなことをす
れば、みなに嫌われるぞ」と。



 この自己意識は、だいたい小学三、四年をさかいに、急速に発達し始める。それ以前の子ど
もには、自己意識そのものがない。だからそれ以前の子どもに、「こんなことをすれば、みんな
に笑われるのよ」式の説教をしても、意味がない。



 このGHさんの子どもの例をとると、「忘れ物をすれば、あなたは困るの」式の説教をしても、
意味がないということになる。自分がどういう状況にあり、どう状況に追いこまれるのか、それ
を認識できないからである。



 親(おとな)というのは、どうしても、自分を基準にして、ものを考える。そしてその基準を、子
どもに、あてはめようとする。



 この自己意識についても、そうで、「自分がそうであるから」という理由だけで、子どもに。そ
れを求めたりする。しかしこれは誤解というよりも、無理をすれば、かえって子どもを、より悪い
方向に追いやってしまうことにもなりかねない。



【GHさんへ】



 メール、ありがとうございました。



 いただきましたメールを読むかぎり、この問題は、子ども自身の自己意識では、どうにもなら
ない問題かと思われます。自分に、「忘れ物をした」という意識そのものがないのです。



 メカニズム的には、本文の中にも書いたように、脳の中で、情報の受け渡しが、何らかの理
由で、うまくできないことが考えられます。記憶のメカニズムは複雑で、そのため、(想起)とな
ると、さらに複雑なメカニズムが働きます。そのとき、情報の受け渡しがうまくできないと、ご相
談のような症状が起きるものと思われます。



 つまり、子ども自身の意識では、どうにもならないということです。もちろん、GHさんが、叱っ
たり、説教したりしても、意味がないということです。



 それはたとえて言うなら、ADHD児(多動児)に向って、「静かに視なさい!」と言うようなもの
です。本人自身は、自分では、騒々しいと思っていないのです。



 そこで登場するのが、自己意識です。



 こうした問題では、いかにして、その自己意識を引き出すかが、大切なポイントとなります。つ
まり自分で、自分を客観的に見て、コントロールしようとする意識のことです。



 年齢的には、GHさんのお子さんは、それができるようになる、ちょうどその時期にさしかかっ
ていることになります。つまりこれからだ、ということです。



 逆に言うと、そのため、子どもの問題点が、かえって目立つということにもなります。そして目
立った分だけ、「どうして?」となるわけです。



 こうしたケースでは、つぎのような点に注意すると、よいでしょう。



(1)言うべきことは言いながら、あとは、時を待つ。

(2)「うちの子は、そういう子だ」と、あきらめて、それに合わせた対処をする。

(3)症状を今、以上に、こじらせない。

(4)周囲に迷惑をかけるようであれば、子どもを叱るのではなく、あなたがガードとして、子ども
をカバーする。



 とくに重要なのが、(3)です。この問題は、親が性急になおそとすると、かえって症状がこじれ
てしまい、そのため、その分だけ、立ちなおりが、遅れてしまいます。



 最後に気になる点がいくつかありますので、それについて、書いておきます。



 ひとつは、GHさんが、どうも「家庭(ホーム)」というものを、誤解をなさっているのではないか
ということ。小学三、四年生にもなると、「家庭は、心と体を休める場所」として機能することにな
ります。またそうでなければなりません。



 メールによれば、「トイレの電気を消すことができない」「寝そべってマンガを読んでいる」「風
呂のドアが閉められない」などなど。



 GHさん自身の、過関心が目立ちます。言うべきことは言いながらも、もう少し、手綱(たづな)
をゆるめてみてはどうでしょうか。つまり、GHさん自身が、不安のウズの中で、心配過剰になっ
ている? 「将来、受験票を忘れるのではないか?」と心配なさっておられるのも、その一つで
す。



 やがて子ども自身が、自分の欠点に気づき、自らカバーしながら生きていくようになります。
そういう子どもを信じながら、ここは一歩引きさがってみては、どうでしょうか。つまり子離れの
準備を始めます。



 メールによれば、自ら学級委員に立候補したりする、など、すばらしい面も見られます。何で
も悪いほうに考えないで、「やってごらん。お母さんも応援するから」くらいのことを言ってあげた
らどうでしょうか。



 実のところ、私の二男も、忘れ物のひどい子どもでした。原因は、一歳前後に、歩行器で土
間に落ち、脳を損傷したからではないかと思っています。



 そのため私も、ワイフも、苦労しました。いちいちメモを渡したり、子どもにつけさせたりするな
ど。しかし中学生になるころからは、自分でも、そういう欠陥に気づくようになり、サイフにはヒモ
をつけたりするようになりました。



 で、今は、その二男も、一児のパパです。誠司という孫の父親になりました。



 みんなそれぞれ、何かの問題をかかえておとなになっていきます。問題のない子どもはいな
いし、そのため、問題のない子育てもないのです。またそういう問題があるから、その人を、よ
り大きくします。



 決して完ぺき主義にならないこと、ですね。



 では、また。はやし浩司

(031008)











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●自己犠牲



●子育ては、重労働



 子育てがいかに重労働かは、世の母親なら、みな、知っている。子どもが乳幼児のときは、と
くに、そう。それから生ずる、負担感は、相当なもの。

 

 そこで考える。どうして人間の子育ては、それほどまでに、たいへんなのか、と。ほかの動物
たちの子育ては、もっと楽? 魚の子どもは、卵からかえったとたん、自分でエサを食べ始め
る。犬や、ネコは、数週間から、数か月で、自立する。馬などは、生まれたその日に、立って歩
く。



 しかし人間だけは、最低でも数年。考えようによっては、二〇年以上。



 人間だけが、どこか不自然。子育ての負担が、あまりにも大き過ぎる。つまりその不自然な
部分が、子育てをする母親に、そのまま、のしかかってくる。



 しかし親は、子育てを放棄することはできない。しかも一瞬たりとも、息が抜けない。乳幼児
のばあい、一日だって、母親の世話がなければ、生きることすらできない。



 そこで親は、子育てをする。で、そのときのこと。



●同じ重労働でも……



 望んだ結婚で、望んだ子どもであれば、親は、重い負担を感じながらも、それを前向きに乗り
越えることができる。



 しかし心のどこかに、何かのわだかまりがあると、その重い負担を乗り越えることができな
い。子育てそのものが、苦痛になる。



 実際、約七〇%の若い母親たちが、子育てを苦痛に感じている。また全体の約一〇%の若
い母親は、子どもを愛することができないと、悩んでいる(私の調査より)。



 こうした母親たちは、当然のことながら、自分を犠牲にしながら、子育てをする。そう、ここで
「犠牲」という言葉が生まれる。



 前向きに子育てをしている人は、子育てを、ごく日常的な行為の一つとして、受け入れてしま
う。「子育てをするのが当然」と考えるまでもない。当然とか、当然でないとか、そういうことす
ら、考えない。



 一方、自分を犠牲にして子育てをしている母親は、子育てをしながら、そういう自分と戦わね
ばならない。それはたとえて言うなら、求めてする仕事と、命令されてする仕事の違いのような
ものかもしれない。



 同じ仕事でも、進んでやるときと、イヤイヤやるときとでは、まったく気分が違う。それと同じこ
とが、子育てでも、そのまま起きる。子育てが、どこかうしろ向きになると、親にのしかかる負担
が、何倍も、大きくなる。



●犠牲心



 で、このタイプの母親は、子育てをしながら、「自分が犠牲になっている」という感じから、抜け
出られなくなる。そのため、いつも、子どもに向かっては、「してあげている」という意識をもつよ
うになる。



 印象に残っている女性に、Yさん(六〇歳くらい、当時)がいた。



 もともとYさんは、不本意な結婚をしていた。昔は、親どうしが結婚話を進めるということも珍し
くなかった。Yさんの結婚も、そうして決められた。



 もちろんそれが原因というわけではない。しかし今の若い人たちのように、恋愛し、交際し、
その結果として、結婚したというわけではなかった。そのYさんは、私に会うたびに、こう言っ
た。



 「林さん、息子なんて、育てるもんじゃ、ないですよね。薄情なもんです。あれほどかわいがっ
て、手塩にかけて育ててやったのに、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみしいも
んですわね。大学まで出してやったのに、このザマですわ。私はね、息子が結婚した夜、悔しく
て悔しくて、一睡もできませんでしたわ。林さんもね、息子さんがいるそうですが、どうせ息子な
んてものはね、親を捨てて出ていきますよ。今から、覚悟しておいたほうがいいですよ」と。



 Yさんは、「取られた」という。「薄情だ」という。「親を捨てた」という。



 問題は、なぜ、そういう感情が、生まれるかということ。



 これについては、たびたび書いてきたので、ここでは、話を、もう一歩進めてみたい。



●自分を納得させるための苦労



 おそらくYさんにしてみれば、子育ては、苦労の連続ではなかったかということ。しかしその苦
労というのは、子育てそのものにまつわる苦労ではなく、自分自身の気持ちを納得させるため
の苦労ではなかったかということ。



 不本意な結婚だった。だから不本意な妊娠、出産だった。そのため、子どもはもちろん、子
育てそのものも、いつも、苦痛の連続だった? Yさんはよく、「苦労した」「苦労した」と言った
が、その苦労というのは、自分自身の中の苦痛と戦うための苦労だったとも考えられる。



 前向きに子育てをしている人には、自分が犠牲になっているという意識すら、ない。そういうこ
とすら、考えない。しかしYさんのように、うしろ向きになっている人は、いつも自分が、犠牲にな
っていると感ずる。



●独特の考え方



 このタイプの人は、独得の考え方をするようになる。たとえば子どもに向かっては、「産んでや
った」「育ててやった」「大学まで、出してやった」と言う。つまり子どもに対して、いつも恩着せが
ましくなる。



 ことさら親孝行を息子や娘に強要したり、またそういう面でしか、息子や娘を評価しなくなる。
子育てそのものが、功利的で、打算的になることもある。ある父親は、ことあるごとに息子にこ
う言っていた。「大学を出すために、オレは、お前に、三〇〇〇万円も使ったからな」と。



 そこで私は、こう考えるようになった。「親が子どものために犠牲になるのは、決して美徳では
ない」と。もう一歩進めると、こうなる。「親孝行は、決して美徳ではない」と。



 親は、子どもを育てる。しかしそれは、当然のことではないか。子どもを産んだ以上、それは
親の責任である。その当然のことをしながら、「産んでやった」「育ててやった」は、ない。いわん
や、そのことで、子どもに恩を着せてはいけない。



 一方、親孝行するかしないかは、あくまでも、子どもの問題。親がそれを求めるのも、期待す
るのも、まちがっている。この日本では、親孝行を、ことさら美化する風潮が、いまだに根強く
残っている。「孝行論」を、教育の「柱」に置いている人もいる。



●どうせするなら……



 親子といえども、たがいの間は、純然たる人間関係で決まる。親が子どものために犠牲にな
ったり、子どもが親のために犠牲になったりするのは、美徳でも何でもない。本来、親子関係で
は、(犠牲)という意識すらないのが、ふつう。「犠牲になっている」と感ずること自体、その時点
で、親子関係がすでにおかしくなっていることを示す。



 子育ては、決して楽ではない。まさに苦労の連続。それは冒頭に、書いた。しかしその子育て
を、前向きにするか、あるいはうしろ向きにするかで、その苦労も、軽くなったり、重くなったり
する。



 そこでもし今、あなたが子育てをしていて、どこか重荷に感ずるようなら、まず、自分の中に
潜む、わだかまりをさぐってみる。



 それは勇気のいることでもある。しかしこの問題は、そのわだかまりがわかるだけでも、大半
が解決したとみる。そのあと少し時間がかかるが、その時間が、問題を解決してくれる。



 まずいのは、そのわだかまりに気づかず、いつまでも同じ失敗を繰りかえすこと。ほかの問
題なら、いざ知らず。しかしこの問題だけは、子どもの心に大きな影響を与える。それを避ける
ためにも、まず自分の心の中をさぐる。



●子育ては、自分のため



子育ては、子どものためにするのではない。どこまでいっても、あなたのためにする。あなたが
望んだから、あなたは、妊娠した。あなたが望んだから、あなたは子どもを産んだ。あなたが望
んだから、あなたは子育てを始めた。



 その子育ては、あなたに、うるおい豊かな思い出と、人生のすばらしさを与える。親が子ども
を育てるのではない。子どもが、あなたという人間を育てる。



 いつかあなたの子どもも、あなたから巣立っていく。それはあらゆる動物がもつ、宿命であ
る。しかしそのとき、あなたがここでいうような姿勢を貫くなら、あなたは、きっとこう言うに違い
ない。



 「ありがとう。あなたのおかげで、私は人生を楽しく過ごすことができた」と。



 あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。



タンポポの種が、タンポポの母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親
は懸命に説得する。しかし一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポ
の種が、どこでどのような花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。



しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできること
がどうしてできないの」と。



 それについて書いた原稿(中日新聞掲載済み)が、つぎである。内容が少しダブるが、許して
ほしい。



+++++++++++++++++



親離れ、子離れ



 子どもは小学三、四年を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。気づ
かないまま、親意識だけをもち続ける。またそれをもって、親の深い愛情だと誤解する。つまり
子離れできない。親子の悲劇はここから始まる。



あの芥川龍之介も、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」(侏儒の言
葉)と書いている。



 息子が中学一年生になっても、「うちの子は、早生まれ(三月生まれ)ですから」と言っていた
母親がいた。



娘(高校生)に、「うす汚い」「不潔」と嫌われながらも、娘の進学を心配していた父親もいた。



自らはほしいものも買わず、質素な生活をしながら、「あんなヤツ、大学なんか、やるんじゃな
かった」とこぼしていた父親もいた。



あるいは息子(中二)に、「クソババア! オレをこんなオレにしたのは、テメエだ」と怒鳴られな
がら、「ごめんなさい。お母さんが悪かった」と、泣いてあやまっていた母親もいた。



しかし親子の間に、細くとも一本の糸があれば、まだ救われる。親はその一本の糸に、親子の
希望を託す。しかしその糸が切れると、親には、また別の悲劇が始まる。



親は「親らしくしたい」という気持ちと、「親らしくできない」という気持ちのはざ間で、葛藤する。
これは親にとっては、身をひきちぎられるようなものだ。ある父親はこう言った。



「息子(一九歳)が暴走族の一人になったとき、『あいつのことは、もう構いたくない』という思い
と、『何とかしなければ』という思いの中で、心がバラバラになっていくのを感じた」と。



もう少しズルイ親だと、「縁を切る」という言い方をして、子育てから逃げてしまう。が、きまじめ
な親ほど、それができない。追いつめられ、袋小路で悩む。苦しむ。



 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ取りながら、成長する。中には、最後の一枚ま
ではぎとってしまう子どももいる。年ごとに立派になっていく子どもを見る親は、幸せな人だ。し
かしそういう幸運に恵まれる親は、一体、何割いるというのだろうか。



大半の親は、年ごとにますます落ちていく(?)子どもを見せつけられながら、重い心を引きず
って歩く。「そんな子どもにしたのは、私なんだ」と、自分を責めることもある。しかしそれとても
とをただせば、子離れできない親に、問題がある。



あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。タンポポの種が、タンポポ
の母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。それを母親は懸命に説得する。しかし
一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味する。タンポポの種が、どこでどのような
花を咲かせるか、それはもう母親の知るところではない。



しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ! みんなにできること
がどうしてできないの」と。



 子どもの人生は子どもの人生。あなたの人生があなたの人生であるように、それはもうあな
た自身の力が及ばない世界のこと。言いかえると、親は、それにじっと耐えるしかない。



たとえあなたの息子が、あなたの夢や希望、名誉や財産、それを食いつぶしたとしても、それ
に耐えるしかない。外から見ると、どこの親子もうまくいっているように見えるかもしれないが、
それこそまさに仮面。子育てに失敗しているのは、あなただけではない。



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同じようなテーマですが、こんな原稿を

書いたこともあります。どうか参考にし

てください。(中日新聞発表済み)



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子育てのすばらしさ



 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。



 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓に映る自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。



そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことが
ある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに
死んだ父がいるような気がしたからだ。



いや、姿、形ばかりではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私
のものであって、誰(だれ)のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父が
いて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たち
にも流れているのを、私は知る。



つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生
命の流れのようなものだ。



 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何物でもない。死は
すべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」
とも言う。



そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあ
ざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。
しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。



自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返している
と、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人
に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対
してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で
実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。



 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもをよ
い学校へ入れることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることに
まつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。



それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の
心に問いかけてみれば、それがわかる。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに
命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。



いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫(ごう)にわたって、伝えてくれる。
つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏
からの使者と言うべきか。



いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がす
ばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。



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さらにこんな経験もしました。

この原稿も、中日新聞に掲載

してもらったものです。

これは連載、第100回を記念

して、書いたものです。



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無条件の愛



●「子どもの世界」一〇〇回目を記念して



 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。



しかしそれは可能なのか…? その方法はあるのか…? 一つのヒントだが、もし私から「私」
をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれ
ない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。



 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。



息子「アメリカで就職したい」

私「いいだろ」

息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」

私「いいだろ」

息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」

私「いいだろ」と。



その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。



息子「アメリカ国籍を取る」

私「日本人をやめる、ということか…」

息子「そう」「…いいだろ」と。



私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。



 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。



「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。



死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。
その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。



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 子どもは今、あなたに何かを教えるために、そこにいる。あなたが子どもを育てるのではな
い。子どもが、あなたに何かを教えるために、そこにいる。それにあなたが気づいたとき、あな
たは、きっとこう言うにちがいない。



 「ありがとう!」と。



 その一言が、あなたの苦労を吹き飛ばしてくれる。そしてそのとき、あなたは自分の過去を振
りかえり、子どもにこう言うようになる。



 「親孝行? バカなこと考えないで、あなたは前だけを向いて、前に進みなさい。お父さん、お
母さんの心配などしなくていい。家の心配? こんなちっぽけな家にこだわってはいけない。こ
の世界は、もっと広い。あなたこの広い世界を、思う存分、はばたきなさい。だって、人生は一
度しかないのだから……」と。



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補足として、もう一つ、中日新聞に書いた

原稿を、転載しておきます。

この原稿については、あちこちから反論が

ありました。



どうして反論があったか、マガジンの読者

の方なら、わかっていただけると思います。



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親のうしろ姿は見せない



 子育てのために苦労している姿。生活のために苦労している姿。そういうのを、この日本で
は、「親のうしろ姿」という。こうしたうしろ姿は、親が見せたくなくても、子どもは見てしまうもの
だが、しかしそれを子どもに押し売りしてはいけない。



よい例が、窪田聡という人が作詞した、「かあさんの歌」である。「♪かあさんは夜なべをして、
手袋編んでくれた……」というあの歌である。



しかしあの歌ほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。そういう歌が、日本の名曲に
なっているところに、日本の子育ての問題点が隠されている。ちなみに、歌詞は、三番まであ
るが、三、四行目は、かっこつきになっている。つまりその部分は、母からの手紙の引用という
ことになっている。



「♪木枯らし吹いちゃ、冷たかろうて、せっせと編んだだよ」

「♪おとうは土間で、ワラ打ち仕事。お前もがんばれよ」

「♪根雪も溶けりゃ、もうすぐ春だで。畑が待っているよ」と。



 あなたが息子であるにせよ、娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、それこそ羽ば
たける羽もはばたけなくなってしまう。たとえそうであっても、親が子どもに手紙を書くとしたら、
「村祭りに行ったら、手袋を売っていたから、買って送るよ」「おとうは居間で俳句づくり。新聞に
もときどき、載るよ」「春になったら、みんなで温泉に行ってくるからね」である。



 日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言って、恩を
着せる。子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言って、恩を着せられ
る。そしてそういう関係の中から、日本独特の親意識が生まれ、親孝行論が生まれる。



しかし子どもが親のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。いわんや親がそれを子ど
もに求めたり、期待してはいけない。親は親で、自分の人生を前向きに生きる。そしてそういう
姿を見て、子どもは子どもの人生を前向きに生きる。



親子といえども、その関係は、一人の人間対一人の人間の関係である。一見冷たい人間関係
に見えるかもしれないが、一人の人間として互いに認めあう。それが真の親子関係の基本で
ある。



あのイギリスのバートランド・ラッセル(イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)もこう言って
いる。



「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれども、
決して限度を超えないことを知っている、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。



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●終わりに……



 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。繰りかえすが、「あなたの人生
はあなたのものだから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だか
ら、思う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心
配……? そんなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親
としての義務を果たしたことになる。



親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけな
い。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであ
れば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 

……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には日
本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。



 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなこと
をしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%
にまで低下)しかいない。



自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%であ
る。(ほかにフィリッピン八一%(一一か国中、最高)、韓国六七%、タイ五九%、ドイツ三
八%、スウェーデン三七%、日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答
えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが…
…。)



欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきてい
るとみるべきではないのか。



 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。

(031011)

















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●子どものやる気



●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。



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……2才の娘がいます。



「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思い
ます。



今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりまし
たが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょう
か?



つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるま
でにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?



個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちな
ので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。



金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価とし
て得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大
変難しいと思いました。



お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難
しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。



「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを
買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親
がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしま
いました。



(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)



以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。



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 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなか
った」「説明不足だった」という思いである。



 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、
結論だけを話し、それで終わってしまう。



 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく
気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、@子どものやる気
と、A金銭感覚について、考えてみたい。



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@子どものやる気



子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定
されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。



 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足
させられること」。この二つで、決まる。



 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹
感を満足させる。……子どもは、それで満足する。



 これが主体性のはじまりである。



 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たと
えばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不
安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方
に、大きな影響を与えると言われている。



 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができ
る。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。



 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自
分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。



 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこ
む日光によって、明るくキラキラと輝いている。



 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて
乳を求める行為である。



 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽
しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。こ
れが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。



 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引
き出される。



 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができ
る。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。



 これをチャート化すると、こうなる。



 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、
と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出して
いく。



 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大
するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる
気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。



 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは
言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。



 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子
どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」
が介在する余地があるということになる。



 それについては、また機会があれば、説明したい。



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A子どもの金銭感覚



子どもの金銭感覚については、以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに掲載しておき
ます。参考にしてください。



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子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ!



●年長から小学二、三年にできる金銭感覚



 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。



●一〇〇倍論



 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。



●やがてあなたの手に負えなくなる



子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。



先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。



●この話はどこかおかしい



 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。



●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け



 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。



●モノに固執する国民性



日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。



 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。



++++++++++++++++++++++



参考までに、子どもを伸ばす方法について

考えた原稿を、二作、添付しておきます。



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好子(こうし)と嫌子(けんし)



 何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうのよいことや、
気分のよいものであったりすると、人は、そのつぎにも、同じようなことを繰りかえすようにな
る。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「好子(こうし)」という。



 反対に、何か新しいことをしてみる。そのとき、その新しいことが、自分にとってつごうの悪い
ことや、気分の悪いものであったりすると、人は、そのつぎのとき、同じようなことをするのを避
けようとする。こうして人間は、自らを進化させる。その進化させる要素を、「嫌子(けんし)」とい
う。



 もともと好子にせよ、嫌子にせよ、こういった言葉は、進化論を説明するために使われた。た
とえば人間は太古の昔には、四足歩行をしていた。が、ある日、何らかのきっかけで、二足歩
行をするようになった。そのとき、人間を二足歩行にしたのは、そこに何らかの好子があった
からである。たとえば(多分)、二足に歩行にすると、高いところにある食べ物が、とりやすかっ
たとか、走るのに、便利だったとか、など。あるいはもっとほかの理由があったのかもしれな
い。



 これは人間というより、人類全体についての話だが、個人についても、同じことが言える。私
たちの日常生活の中には、この好子と嫌子が、無数に存在し、それらが複雑にからみあって
いる。子どもの世界とて、例外ではない。が、問題は、その中身である。



 たとえば喫煙を考えてみよう。たいていの子どもは、最初は、軽い好奇心で、喫煙を始める。
この日本では、喫煙は、おとなのシンボルと考える子どもは多い。(そういうまちがった、かっこ
よさを印象づけた、JTの責任は重い!)が、そのうち、喫煙が、どこか気持ちのよいものであ
ることを知る。そしてそのまま喫煙が、習慣化する。



 このとき喫煙は、好子なのか。それとも嫌子なのか。たとえば出産予定がある若い女性がい
る。そういう女性が喫煙しているとするなら、その女性は、本物のバカである。大バカという言
葉を使っても、さしつかえない。昔、日本を代表する京都大学のN教授が、私に、こっそりとこう
教えてくれた。「奇形出産の原因の多くに、喫煙がからんでいることには、疑いようがない」と。



 体が気持ちよく感ずるなら、好子ということになる。しかし遺伝子や胎児に影響を与えること
を考えるなら、嫌子ということになる。……と、今まで、私はそう考えてきたが、この考え方はま
ちがっている。



 そもそも好子にせよ、嫌子にせよ、それは「心」の問題であって、「モノに対する反応」の問題
ではない。この二つの言葉は、よく心理学の本などに出てくるが、どうもすっきりしない。そのす
っきりしない理由が、実は、この混同にあるのではないか?



 たとえば人に親切にしてみよう。仲よくしたり、やさしくするのもよい。すると、心の中がポーツ
と暖かくなるのがわかる。実は、これが好子である。



 反対に、人に意地悪をしてみよう。ウソをついたり、ごまかしたりするのもよい。すると、心の
中が、どこか重くなり、憂うつになる。これが嫌子である。

 

 こうして人間は、体型や体の機能ばかりではなく、心も進化させてきた。そのことは、昔、オー
ストラリアのアボリジニーの生活をかいま見たとき知った。彼らの生活は、まさに平和と友愛に
あふれていた。つまりそういう「心」があるから、彼らは何万年もの間、あの過酷な大地の中で
生き延びることができた。



 言いかえると、現代人の生活が、どこか邪悪になっているのは、それは人間がもつ本来の姿
というよりは、欲得の追求という文明生活がもたらした結果ともいえる。そのことは、子どもの
世界を総じてみればわかる。



 私は今でも、数は少ないが、年中児から高校三年生まで、教えている。そういう流れの中で
みると、子どもたちが小学三、四年生くらいまでは、和気あいあいとした人間関係を結ぶことが
できる。しかしこの時期を境に、先生との関係だけではなく、友だちどうしの人間関係は、急速
に悪化する。ちょうどこの時期は、親たちが子どもの受験勉強に関心をもち、私の教室を去っ
ていく年齢でもある。子どもどうしの世界ですら、どこかトゲトゲしく、殺伐としたものになる。



 ひょっとしたら、親自身もそういう世界を経験しているためか、子どもがそのように変化しても
気づかないし、またそうあるべきと考えている親も少なくない。一方で、「友だちと仲よくしなさい
よ」と教えながら、「勉強していい中学校に入りなさい」と教える。親自身が、その矛盾に気づい
ていない。



 結果、この日本がどうなったか? 平和でのどかで、心暖かい国になったか。実はそうではな
く、みながみな、毎日、何かに追いたてられるように生きている。立ち止まって、休むことすら許
されない。さらにこの日本には、コースのようなものがあって、このコースからはずれたら、あと
は負け犬。親たちもそれを知っているから、自分の子どもが、そのコースからはずれないよう
にするだけで精一杯。が、そうした意識が、一方で、またそのコースを補強してしまうことにな
る。恐らく世界広しといえども、日本ほど、弱者に冷たい国はないのではないか。それもそのは
ず。受験勉強をバリバリやりこなし、無数の他人を蹴落としてきたような人でないと、この日本
では、リーダーになれない?



 ……と、また大きく話が脱線してしまったが、私たちの心も、この好子と嫌子によって、進化し
てきた。だからこそ、この地球上で、何十万年もの間、生き延びることができた。そしてその片
鱗(へんりん)は、今も、私たちの心の中に残っている。



 ためしに、今日一日だけ、自分にすなおに、他人に正直に、そして誠実に生きてみよう。他人
に親切に、やさしく、家族を暖かく包んでみよう。そしてそのあと、たとえば眠る前に、あなたの
心がどんなふうに変化しているか、静かに観察してみよう。それが「好子」である。その好子を
大切にすれば、人間は、これから先、いつまでも、みな、仲よく生きられる。













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●自己嫌悪



 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。



 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春
期には、よく見られる現象である。



 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。
が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。



 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心理的葛
藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。



 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあるのは、暴力的、攻撃的に
なること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。たとえば暴走族の集団非行な
どがある。



 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。



 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。



 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまっ
た。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、
それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテス
トの中でも、最悪の結果となってしまった。



 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことで
は○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識が
なかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へ
と追いこんだ。



 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。



 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。



 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。



心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題
ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふ
つうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、@今の状態
を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。A今の状態が最悪ではなく、さらに二番底、
三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、B一年単位で様子をみる。「去年
の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、
親は一喜一憂してはいけない。



 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。本来なら、
さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わり、それも思
うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」(自分をマイナ
ス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。



 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを
前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年
齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましな
どは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉
強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しな
い。



 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環
境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最悪のケースで、めったに
ないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口
にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなと
きには、警戒する。



 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというより
は、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそ
うであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。えてしてほとんどの親は、子ど
もに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをなおそう」とする。しかしこういう
姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスのストロークをかけても、それが
ムダになってしまう。



 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうしたやさしい語りかけ
(自己開示)が、子どもの心を開く。



++++++++++++++++



 たった今、MT氏に、これだけの回答を、メールで送った。時間にすれば、(返信)(コピー)
(送信)で、一〇秒足らずでできたのでは……。改めて、インターネットのすごさに驚く。昔なら、
つまりこんなことを手紙などでしていたら、数日はかかったかもしれない。

(031014)











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●かん黙児(子どもの心)



●茨城県のWさんより……



 茨城県のWさん(現在四〇歳、母親)から、娘のかん黙についての、相談をもらった。それに
ついて、考えてみたい。



「現在八月で満六歳になった、一人娘のいる四〇歳の主婦です。



数年前、私の母の介護のため 娘(当時、三歳)を保育園に入園させました。

三か月間泣き、四か月間給食を、一切食べませんでした。



そのうち嫌がらず行けるようになりましたが、約半年後くらいから、あまりにも

嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず連れて来るように」とのこと。

で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました。



そのうち様子がおかしくなり(長くなるので内容は省略します)、 

そのあと、保育園から幼稚園に、転園しました。



ここでも三日目から嫌がり 休ませ 小児精神科に連れて行くと、「場面かん黙」との診断。

その時から、各週に箱庭療法と、二か月に一度カウンセリングを受けています。



ドクターは、私と娘との三人のカウンセリングでは 「娘の話す内容、態度を見る限

り、私との適度な距離がとれているので、私から離れられない、幼稚園に行けないと

は考えられない」と言っています。



昨年は休園させましたが、幼稚園の先生の協力と理解のもと、行事など、本人

の興味のある時だけ、私と一緒に参加させてもらい、今年の四月に、年長組になったの

をきっかけに、本人が「毎日行く」と言って、登園するようになりました。

(ほかの子どもたちとは一切話さず、関わりも、なかなかもてないようです)



お弁当は持っていけず、基本的には昼までに、降園していますが、出席シールだけ

貼って帰ったりと、その日に応じて臨機応変にしています。

最近は、部屋の前の靴箱から、なかなか教室に入れません。



私は本人の納得するまで、つまり子どもが、

帰っていいよと言うまで、その場で待っています。

時には降園までそこで待つときもあります。 

私はこれでいいと思っていますが、これでいいのでしょうか?

昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています。



今一番困っているのが、田舎なので年配の方との関わりが多く、なかなか理解されず

「この子は、おかしな子やな」、と娘に聞こえるように言われます。

その時の対処法に困っています。



かばうようなことを言うと私が責められ、それを見て、娘は大泣きします。

こっそり、「何にも悪いことはないよ。今で充分ですよ」と言っても大泣き。

かといって、知らぬ顔で済ますと、傷ついてしまうようで、それも心配です。



みなにからかわれることもあるようです。



絵日記を見ると、 



『いちりんしゃにのれるようになったよ 

いっしょうけんめいれんしゅうして 

のれるようになったよ 

でも どうして あのこはのれないんだろう』



と書いていました。



そんな、心のやさしい子です。

何かアドバイス頂ければ幸いです。



    茨城県M町、Wより」



●Wさんの問題



 一〇年ほど前までは、「学校へ行けない」というのが、大きな問題だった。が、今では、「幼稚
園へ行けない」というのが、問題になり始めている。それも、三歳や四歳の子どもが、である。



Wさんの問題を考える前に、「どうして三歳や四歳の子どもが、幼稚園へ行かねばならないの
か」「行く必要があるのか」「行かなければ、何が問題なのか」ということを、考えなければならな
い。



あるいはあと二〇年もすると、二歳や三歳の子どもについて、同じような相談をもらうようにな
るのかもしれない。「どうしてうちの子は、保育園へ行けないのでしょうか」と。



 Wさん自身が、「保育園は、行かねばならないところ」「幼稚園は、行かねばならないところ」
という、固定観念をもちすぎているところが、気になる。



 私は正直に告白するが、幼稚園にせよ、保育園にせよ、行くとしても、適当に行けばよいと考
えている。「適当」という言い方には、語弊があるかもしれないが、この時期は、あくまでも、家
庭教育が主体であること。それを忘れてはならない。



 ずいぶんと昔のことだが、ある幼稚園の先生方の研究発表会に、顔を出したことがある。全
員、女性。男は、私一人だけだった。



 一人の女性教師が、誇らしげに、包丁の使い方を教えているという報告をしていた。「私は、
ダイコンを切るとき、本物の包丁を使わせています」と。



 で、そのあと、意見を求められた。が、私は、思わず、こう言ってしまった。「そんなことは、家
庭で、母親が教えればいいことです」と。



 会場が、シーンとなってしまったのを覚えている。



●小学校の問題が、幼稚園で 



 Wさんは、こう書いている。「あまりにも嫌がるので休ませようとしましたが、園の方は、「必ず
連れて来るように」とのこと。で、一か月間、泣いているのを抱えて連れて行きました」と。



 当時、その子どもは、三歳である。たったの三歳である。あるいは、あなたは三歳の子ども
が、どういう子どもであるか、知っているだろうか?



 いくら保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言っても、一か月もの間、泣いている子ど
もを抱えて連れていってよいものだろうか。Wさんには悪いが、私はこのメールを読んで、この
部分で、いたたまれない気持になった。



 もちろんだからといって、Wさんを、責めているのではない。Wさんも書いているように、「母
の介護」という、やむにやまれぬ事情があった。それにWさんは、それが子どものために、よ
かれと思って、そうした。そういうWさんを、だれも責めることはできない。



 私が問題としたいことは、Wさんをそのように動かした、背景というか、社会的な常識である。



 私がこの世界に入ったときは、幼稚園教育も、二年、もしくは一年がふつうだった。浜松市内
でも、幼稚園(保育園)へ行かないまま、小学校へ入学する子どもも、五%はいた。



 それが三年保育となり、さらに保育園自身も、「預かる保育」から、「教える保育」へと変身し
ている。



 こういう流れの中で、三〇年前には、小学校で起きていた現象が、幼稚園でも起きるようにな
った。たとえば今では、不登校ならぬ、不登園の問題が、あちこちの幼稚園で起きている。Wさ
んの問題は、まさにその一つということになる。



●もっと、おおらかに! 

 

 はっきり言えば、子どもが、そこまで嫌がるなら、幼稚園や保育園へ、行く必要はない。まっ
たく、ない。



 少し前まで、(今でも、そう言う先生はいるが……)、幼稚園を休んだりすると、「遅れます」と
か、「甘やかしてはダメです」と、親を叱る先生がいた。



 しかしいったい、何から、子どもが遅れるのか? 心が風邪をひいて、病んでいる子どもを、
保護して、どうして、甘やかしたことになるのか?



 乳幼児期は、家庭教育が基本である。これは、動かしがたい事実である。この時期、子ども
は、「家庭」について学ぶ。学ぶというより、それを体にしみこませる。



 夫婦とは何か。父親や母親とは何か。そして家族とは、何か、と。家族が助けあい、守りあ
い、励ましあい、教えあう姿を、子どもは、体の中にしみこませる。このしみこみがあってはじめ
て、自分がつぎに親になったとき、自然な形で、子育てができる。



 それにかわるものを、幼稚園や保育園で、どうやって教えることができるというのか。ものご
とは、常識で考えてほしい。



 だからといって、幼児教育を否定しているのではない。しかし幼児教育には、幼児教育とし
て、すべきことが山のようにある。包丁の使い方をい教えるのが、幼児教育ではない。ダイコン
の切り方を教えるのが、幼児教育ではない。



 現にオーストラリアでは、週三日制の幼稚園もある。少し都会から離れた地域では、週一回
のスクーリングだけというところもある。あるいは、アメリカでは、親同士が、交互に子どもを預
かりあいながら、保育をしているところもある。



 幼児教育は、幼稚園、あるいは保育園で、と、構えるほうが、おかしい。今、この「おかしさ」
がわからないほどまで、日本人の心は、道からはずれてしまっている。



●かん黙児?



Wさんの子どもを、ドクターが、どのようにみて診断したのか、私は知らない。しかしその前提と
して、かん黙児の診断は、しばらく子どもを指導してみないと、できない。



 ドクターの前で、黙ったからといって、すぐかん黙児ということにはならない。ただ単に緊張し
ていただけかもしれないし、あるいは対人恐怖症、もしくは、集団恐怖症だったかもしれない。



 私は診断名をつけて、診断をくだすことはできないが、しかしかん黙児かどうかを判断するこ
とくらいなら、できる。が、そのときでも、数日間にわたって、子どもを指導、観察してみて、はじ
めてわかることであって、一、二度、対面したくらいで、わかるようなことではない。そのドクター
は、どうやって、「場面かん黙」と判断したのだろうか。



 このWさんのメールを読むかぎり、無理な隔離が原因で起きた、妄想性をともなった、集団
恐怖症ではないかと思う。……思うだけで、何ともいえないが、それがさらにこじれて、学校恐
怖症(幼稚園恐怖症)になったのではないかと思う。



 もっとも恐怖症がこじれて、カラにこもるということは、子どものばあい、よくある。かん黙も、
何かの恐怖体験がきっかけで起こることは、よく知られている。かん黙することにより、自分が
キズつくのを防ごうとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。



 しかしもしそうなら、なおさら、無理をしてはいけない。無理をすればするほど、症状がこじ
れ、立ちなおりが遅れる。子どもの立場で、子どもの心をていねいにみながら、対処する。



 保育園の先生が、「必ず連れてくるように」と言ったというが、私には、とんでもない暴言に聞
こえる。あるいは別に何か、先生には先生なりの、理由があったのかもしれない。この点につ
いては、よくわからない。



 なお場面かん黙については、つぎのようなポイントを見て判断するとよい。



●かん黙児



(1)ふとしたこと、あるいは、特定の場面になると、貝殻を閉ざしたかのように、口を閉じ、黙っ
てしまう。



(2)気が許せる人(限られた親や兄弟、友人など)と、気が許せる場所(家)では、ごくふつうに
会話をすることができる。むしろ多弁であることが多い。





(3)かん黙している間、心と表情が遊離したかのようになり、何を考えているか、わからなくな
る。柔和な意味のわからない笑みを浮かべて、ニンマリとしつづけることもある。



(4)かん黙しているとき、心は緊張状態にある。表情に、だまされてはいけない。ささいなことで
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする。私は、(親の了解を得た上で)、そっと抱いてみるこ
とにしている。心を許さない分だけ、体をこわばらせる。反対に抱かれるようだと、症状も軽く、
立ちなおりは、早い。



 詳しくは、「はやし浩司のサイト」の「かん黙児」を参照してほしい。



 で、こうした症状がみられたら、軽重もあるが、とにかく、無理をしないこと。そういう子どもと
認めた上で、半年単位で、症状の推移をみる。一度、かん黙症と診断されると、その症状は、
数年単位でつづく。が、小学校に入学するころから、症状は、軽減し、ほとんどの子どもは、小
学三、四年生くらいを境に、何ごともなかったかのように、立ちなおっていく。



 ある子ども(幼稚園児)は、毎朝、幼稚園の先生が、歩いて迎えにきたが、三年間、ただの一
度もあいさつをしなかった。その子どものばあいは、先生と、視線を合わせようとすらしなかっ
た。視線をそらすという、横視現象は、このタイプの子どもによく見られる症状の一つである。



 しかしかん黙症の子どもの、本当の問題は、親にある。家の中では、何も問題がないため、
幼稚園や保育園での様子を見て、「指導が悪い」「先生が、うちの子を、そういう子どもにした」
などと言う。私も、何度か、経験している。



 子ども自身では、どうにもならない問題と考える。いわんや、子どもを説教したり、叱っても意
味はない。



 子どもが自分で自分を客観的に判断できるようになるのは、小学三年生以上とみる。この時
期を過ぎると、自己意識が急速に発達して、自分で自分の姿を見ることができるようになる。そ
して自分で自分を、コントロールするようになる。



 かん黙児は、かん黙するというだけで、脳の働きは、ふつうか、あるいはそれ以上であること
が多い。もともと繊細な感覚をもっている。だから静かに黙っているからといって、脳の活動が
停止していると考えるのは、まちがいである。



 反応が少ないというだけで、ほかに問題は、ない。だから教えるべきことは教えながら、あと
は「よくやったね」とほめて、しあげる。先にも書いたように、この問題は、本人自身では、どう
にもならない問題なのである。

 

●Wさんへ



 メールによれば、「昨年と比べると、別人のように良い方向に変わっています」とのこと。私
は、まず、ここを重要視すべきではないかと思います。



 いただいたメールの範囲によれば、かん黙症状があるにせよ、対人恐怖か、集団恐怖が、
入りまざった症状ではないかと思います。一つの参考的意見として、お考えくだされば、うれし
いです。



 ふつうこの年齢では、かん黙症については、「別人のように……」という変化は、ありません。
その点からも、かん黙症ではなく、やはり何らかの妄想性をともなった、恐怖症が疑われます。
もし恐怖症であれば、少しずつ、環境にならしていくという方法で対処します。



 私自身も、いくつかの恐怖症をもっています。閉所恐怖症。高所恐怖症など。最近では、スピ
ード恐怖症になったこともあります。恐怖症というのはそういうもので、中味があれこれと変わ
ることはあります。つまり「恐怖症」という入れ物ができ、そのつど、その中味が、「閉所」になっ
たり、「高所」になったりするというわけです。



 下のお子さん(弟か妹)のことは書いてありませんが、もしいるなら、分離不安がこじれた症
状も考えられます。



 どちらであるにせよ、「別人のように……」ということなら、私は、もう問題はほとんど解決して
いるのではないかと思います。



●最後に……



 心に深いキズを負った人は、二つのタイプに分かれます。



 そのまま他人の心のキズが理解できるようになる人。もう一つは、心のキズに鈍感になり、今
度は、他人をキズつける側に回る人です。よく最悪のどん底を経験した人が、そのあと、善人
と悪人に分かれるのに、似ています。



 ほかにたとえば、はげしいいじめにあった子どもが、他人にやさしくなるタイプと、今度は、自
分も、いじめる側に回るタイプに分かれるのにも、似ています。



 今、Wさんのお嬢さんは、何かときびしい状況におかれていることは、「大泣き」という言葉か
らも、よくわかります。Wさんが、かばうと、また大泣きということですが、遠慮せず、かばってあ
げてください。無神経で、無理解な人たちに負けてはいけません。お嬢さん自身は、何も、悪い
ことはしていないのです。またどこも悪くはないのです。



 お嬢さんは、日記からもわかるように、たいへん心のやさしいお嬢さんです。回りの人に、そ
ういう目で見られながらも、自分をもちなおしています。理由は、簡単です。あなたという親の愛
情と理解を、たっぷりと受けているからです。つまりここでいう善人の道を、すでに選んでいる
わけです。



 事実、『愛は万能』です。親の愛がしっかりしていれば、子どもの心がゆがむということは、あ
りえません。最後の最後まで、その愛をつらぬきます。具体的には、最後の最後まで、「許し
て、忘れます」。その度量の広さで、親の愛情の深さが決まります。



 長いトンネルに見えたかもしれませんが、もう出口は、すぐそこではないでしょうか。いろいろ
つらいこともあったでしょうが、そのつらさが、今のあなたを大きく成長させたはずです。このこ
とは、もう少し先にならないとわからないかもしれませんが、やがてあなたも、いつか、それに
気づくはずです。



 幸運にも、Wさんは、たいへん気が長い方のように思います。よい母親の第一の条件を、も
っておられるようです。「(子どもが私に)、帰っていいよと言うまで、(いつまでも)、その場で待
っています」などということは、なかなかできるものではありません。尊敬します。



 結論を言えば、今のまま、前向きに進むしかないのではないかと思います。まわりの人を理
解させるのも、あるいはその流れを変えるのも、容易ではないと思います。それ以上に、ここに
も書いたように、もう出口に近いと思われます。あと少しのがまんではないかと思います。いか
がでしょうか?



 仮に、かん黙症であっても、率直に言えば、箱庭療法程度の療法で、その症状が改善すると
は、とても思われません。かん黙症について言えば、半年単位で、その症状を見守ります。



 で、このとき大切なことは、無理をして、今の症状をこじらせないこと、です。時期がくれば、
大半のかん黙症は、なおっていきます。



 「時期」というのは、ここにも書いたように、小学三、四年生前後をいいます。それまでにこじ
らせると、かえって恐怖心をいだかせたり、自信をなくさせたりします。「あなたは、あなたです
よ」という、暖かい理解が、今、大切です。子ども自身には、自分が(ふつうでない)という意識
は、まったくないのですから。



 最近、「暖かい無視」という言葉が、よく使われています。お嬢さんを、暖かい愛情で包みなが
ら、そうした症状については、無視するのが一番かと思います。だいたいにおいて、問題のな
い子どもなど、いないのですから、そういう視点でも、一度、おおらかに見てあげてください。



 なお、「幼稚園とは、行かねばならないところ」と考えるのは、バカげていますから、もしその
ようにお考えなら、そういう考え方は、改めてください。決して、無理をしないこと。「適当に行け
ばいいのよ」「行きたいときに行けばいいのよ」と、です。



 ただこれから先、ふとしたきっかけで、学校などへ行きたがらないことも起こるかもしれませ
ん。それについては、私の「学校恐怖症」(はやし浩司のサイト、症状別相談)を参考にしてくだ
さい。そういう兆候が見られたら、むしろ親のあなたのほうから、「今日は、学校を休んで、動物
園へでも行ってみる?」と、声をかけてみてください。そういうおおらかさが、子どもの心に、風
穴をあけます。



 つぎにスキンシップです。このスキンシップには、魔法の、つまりはまだ解明されていない、不
思議な力があります。子どもがそれを求めてきたら、おっくうがらず、ていねいに、それに答え
てあげてください。



 あとは、CA、MGの多い食生活にこころがけます。海産物を中心とした、食生活をいいます。



 またかん黙症であるにせよ、恐怖症であるにせよ、できるだけそういう状態から遠ざかるの
が、賢明です。要するに、思い出させないようにするのが、コツです。あとは、その期間を、少し
ずつ、できるだけ長くしていきます。



 最後に、子育ては、楽しいですよ。すばらしいですよ。いろいろなことがありますが、どうかそ
れを前向きにとらえてください。仮にあなたのお嬢さんが、かん黙症であっても、そんなのは、
何でもない問題です。先にも書きましたが、それぞれの人が、いろいろな問題をかかえていま
す。が、こと、かん黙症については、時期がくれば、消えていく、つまりは、マイナーな問題だと
いうことです。どうか、私の言葉を信じてください。



 ついでに、できれば、私の電子マガジンをご購読ください。きっと、参考になると思います。無
料です。

(031017)

















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●子どもの表情



 豊かで、自然な表情は、子どもの財産である。心がまっすぐ伸びている子どもは、表情が、豊
かで、自然。



 「自然」というのは、うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔を
する。



 ……そんなことが?、と思う人がいるかもしれないが、実は、今、その表情のない子どもがふ
えている。表情が、とぼしい子どもや、不自然な子どもも含めると、約二〇%が、そうではない
か。



 今週は、その表情をテーマに、演技の勉強をした。顔の運動、動作など。



 私の教室では、大声で笑い、大声で話すことを、指導の「柱」にしている。心が開放されると、
表情は、自然な形で、あとからついてくる。



 しかし……。



 幼児教育の世界でこわいのは、「仮面」。いわゆるいい子ぶる。そのため何を考えているか、
わからなくなる。



 この仮面がさらにひどくなると、心と表情が、遊離する。さらにその遊離が長期化すると、二
重人格性をもつようになり、それにショックが加わると、多重人格という人格障害者になること
もある。



 決して、安易に考えてはいけない。



 レッスンでは、喜怒哀楽の表現、その動作。動物のまねと進む。コツは、教える側が楽しむこ
と。教える側が恥ずかしがったりしていたら、指導はできない。私は、しかし、そういうことが平
気でできる。



 私の得意芸は、有名人のマネ。オカマや暴力団のマネも、うまい。「先生の頭には、スイッチ
があって、こわい先生も、やさしい先生もできるよ」と言うと、子どもたちは、それを本気にす
る。



 そこで頭のスイッチを動かしたフリをしながら、こわい先生や、やさしい先生を演じてみせる。
こわい先生を演じてみせると、子どもたちは、ゲラゲラと笑う。



 一一月から、年中児のクラスを一クラス、ふやすことにした。何かと、たいへんな時期だが、
ここはがんばるしかない。

(031018)



【補足】心の遊離



教師が子育ての宿命を感ずるとき



●かん黙症の子ども



 かん黙症の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。そ
の無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間にわたって、指導した。



指導といっても、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神
経をつかう。疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。



が、その年の年末になり、就学前の健康診断を受けることになった。が、その母親が考えたこ
とは、「いかにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談
してきた。



「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心
理療法士にかかることにしました。ついては先生(私)のところにもいると、パニックになってし
まいますので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者
が二人では、私の頭が混乱します」と。



●経過は一年単位でみる



 かん黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽か
ったことに気づく。あとはその繰り返し。



私が「三か月は何も言ってはいけません。何も手伝ってはいけません。子どもと視線を合わせ
てもいけません」と言った。が、親には一か月でも長い。一週間でも長い。そういう気持ちはわ
かるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出す。



一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情緒障
害は、半年、あるいは一年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「一年前は、どうだっ
たか」と。



一か月や二か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、親にはそれもわからない。
最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってし
まう。



初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれば、「障害」という
言葉を使うこともないまま終わる。が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えてい
た。



●「そんな冷たいこと言わないでください!」



 はじめて母親がその子どもを連れてきたとき、私はその瞬間にその子どものかん黙症を、私
は疑った。母親も、それを気づいていたはずだ。しかし母親は、それを懸命に隠しながら、「音
楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言っていた。



それが今度は、「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえ
ます」と。母親自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだ
わっている。



もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判断なさってくだ
さい」と言うと、母親は突然取り乱して、こう叫んだ。「そんな冷たいこと言わないでください! 
私を突き放すようなことを言わないでください!」と。



●親は自分で失敗して気づく



 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、家庭にある。親を責めているのではない。たいてい
の親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化
させる。



それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状態になっ
ている。つまり親自身が自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい言い方だ
が、子育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。



【参考】



●かん黙児



 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。



 ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。



 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。



 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。



かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。















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●許して忘れる



●「許す」ことのむずかしさ



 人を許すことのむずかしさ。それを、私はいつも、実感する。



 で、その先というか、「許しあと、どうするか」という問題もある。許したからといって、そのあ
と、ベタベタつきあうということでもない。許したあと、そのまま、その人と、交際しなくなるという
こともある。また交際しなけばならないということでもない。あとは、自然体でいけばよい。



 問題は、親子や、兄弟。さらには親類である。



 A氏(四五歳)は、弟のB氏(四四歳)と、絶縁関係にある。遺産相続にからむ、金銭問題が
原因であった。弟のB氏が、詐欺師に近い人物で、逮捕歴も一度ある。暴力団とも関係したこ
とがある。



 A氏は、B氏に、一〇〇〇万円近い、お金を貸している。「返してほしい」と言うと、そのつど、
あれこれ、とぼけて、まったく取りあおうとしないという。



 そういうB氏を、A氏は、何度も許した。「恥もかきました」「女房の親戚には、いつも肩身の狭
い思いをしています」と。



 で、A氏は、B氏とかかわりたくないと思っているが、B氏のほうは、そうではない。何かと、実
家の問題にかこつけては、A氏のところにやってくる。母親は、今年、七〇歳になるという。元
気である。



 「こういうケースでも、許さねばならないのか」と。



 しかしA氏は、すでに許している。今でも、兄弟関係をつづけているということ自体、その証拠
である。



 ただその先、つきあうかどうかは、別の問題。許したからといって、つきあわねばならないと
いうことではない。つきあいたければ、つきあえばよい。つきあいたくなければ、つきあわなくて
もよい。無理をしてはいけない。無理をする必要はない。たとえ弟でも、「つきあいたくない」とい
うことであれば、それでよい。



 今でも、親子、兄弟、親類の、つまりはドロドロのしがらみの中で、もがき苦しんでいる人は、
五万といる。関係が、良好な人のほうが少ないのでは? 他人なら、そのまま別れることがで
きるが、血縁関係にあると、それもできない。世の中には、親をだます子どももいるが、子ども
をだます親だっている。決して、きれいごとばかりでは、通れない。



 しかし許すということは、自分の心を掃除するということにもなる。うらみ、つらみは、いわば
心のゴミのようなもの。そういうものが多ければ多いほど、心は腐る。私もある時期、数か月に
わたって、ある人をうらんだことがある。



 しかしそういうときというのは、あとから思い出しても、いやなもの。ワイフに言わせると、当
時、私の顔まで、醜くなったという。



 だから許す。どうせ人生は、短い。あの小泉さんも、ブッシュさんも、金XXも、あと三〇年をま
たずして、この世から、消える。私も消える。この文を読んでいる若い母親にしても、あと五〇
年で消える。みんな消える。



 だったら、「今」というときを、できるだけ充実させて、生きるほうがよい。うらみ、つらみは、そ
ういう人生にとって、マイナスになることはあっても、プラスになることは、何もない。



 ……といっても、人を許すということは、むずかしい。本当にむずかしい。毎日が、その戦い
であるといってもよい。私が望まなくても、問題は、そのつど、向こうから、打ち寄せる波のよう
にやってくる。そしてそのつど、その波に巻きこまれてしまう。



 今日も、がんばるしかない。「許す」というのは、まさに「生きることにまつわる、避けて通れな
い問題」ということになる。

(031019)



【追記】



 この「許す」についで生まれる問題が、「忘れる」ということである。



 許すことはできても、忘れることができないということは、いくらでもある。ここに書いたA氏に
しても、許してはいるが、忘れてはいないということになる。この「忘れる」という部分について
は、また、別の機会に考えてみたい。



+++++++++++++++++++++



これについて、以前、書いた原稿を添付します。

中日新聞に発表したものです。

子育てで行きづまりを感じたようなとき、

どうかご一読ください。



+++++++++++++++++++++



子育てのすばらしさを教えられるとき



●子をもって知る至上の愛  

  

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。



●自分の中の命の流れ



 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。



そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことが
ある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに
死んだ父がいるような気がしたからだ。



いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私の
ものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そし
て祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れ
ているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自
分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。



●神の愛と仏の慈悲



 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。



が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがあ
る。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返してい
ると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万
人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに
対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場
で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。



●神や仏の使者



 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。



が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもとい
うのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜び
を教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝え
てくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。



子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づい
たとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教
えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。





Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●バラバラになっていく家族



 家族も、いつか、バラバラになっていく。息子たちも、一人去り、また一人と去っていく……。
気がついてみると、家庭から笑い声が消え、台所のテーブルには冷えたおかずと、食べかけ
たパンが並ぶようになる。



 いくら電気を明るくしても、もうあのころの華やかさは、戻ってこない。しかしいくら「時よ、止ま
れ」と叫んでも、時は、手のひらからこぼれる砂のように、そのまま流れていく。



 私は、必死で、家族を呼び止める。しかしそこにあるのは、秋の乾いた風。いつしか、息子た
ちの心も離れ、私から去っていく。私の知らない歌を歌い始め、私の知らない人物の名前を語
り始める。そして私の知らない世界へと、飛び立っていく。



 生意気になる息子たち。勝手なことし始める息子たち。しかしそんなとき、私は、ただひたす
ら「許して、忘れる」。それだけを、心に念ずる。何を言われても、何をされても……。ただひた
すら、許して忘れる。



 これが家族なのか? これが私が求めてきた家族なのか? 親の愛だけで、家族は守りき
れるものなのか?



 二〇歳をすぎたころから、私とは、ほとんど口をきかなくなった、長男。七年前に、アメリカへ
旅立った、二男。大学へは入ったものの、中退してパイロットになると言い出した、三男。



 それぞれが、私の願いを、どこかで踏みにじりながら、自分の道を歩み始めた。そういう息子
たちを見ながら、「これが私が求めてきた家族か?」と、自分に問いかける。



 昨日、二男の結婚披露パーティを開いた。アメリカ人の嫁さんに、あなたはみんなに歓迎され
ているということを、伝えたかった。それにワイフの兄弟たちが、協力してくれた。で、山荘で、
そのパーティを開いた。兄弟の家族など、二〇名近くが集まってくれた。



 嫁さんと二男は、和服を着た。嫁さんは、振袖。二男は、袴。最初は、「そんなの、いやだ」と
言っていた二男だが、当日は、うれしそうだった。みなが、「すてきだ」「美しい」とほめたから
だ。



 ワイフの兄弟は、みな、心のやさしい人たちだ。お祝いのごちそうを、重箱にして届けてくれ
た人。手作りのプレゼントを作ってくれた人。ケーキを作ってくれた人など。



 庭での会食のあと、部屋で、宴会を開いた。そのときのこと。長男が、ホタテ貝をむいて、私
のところにもってきてくれた。二男は、あれこれとみなに、給仕してくれた。三男は、もっぱら、
接待係。



 そして私たちは、全員で、あの「Sailing」を合唱した。



 一番を、三人の息子が歌い、二番を二男、三番を嫁さん、四番を、ワイフと私。五番を長男
のハーモニカのソロ。三男が、ギターを弾いた。



 そして六番、七番は、全員で合唱。二男と嫁さんが、それにハーモニーを添えてくれた。あの
バラバラだった家族が、あのどうしようもないほど、バラバラだった家族が、そのとき、一つにな
った!



 私はその歌を歌いながら、何度もこみあげる思いで、声がつまった。だから歌が歌えなく、口
だけを動かした。



 ……その夜、寝る前に、ワイフに、「今日は楽しかったね」と言うと、ワイフもうれしそうだっ
た。さらに床についてから、「今日は、ありがとう」と声をかけると、「いざとなったら、みんな、力
になってくれるわよ。だって、私たちは、みんな家族だから」と。



 人生に最良の日があるとするなら、まさに昨日が、そうだった。私は、何度も、ふとんで顔を
おさえながら、鼻歌で、「Sailing」を歌った。



 ワイフよ息子たちよ、ありがとう!

 兄弟のみなさん、ありがとう!

 日本のみなさん、ありがとう!

 アメリカのみなさん、ありがとう!

 世界のみなさん、ありがとう!

 この命をくれた、宇宙のみなさん、ありがとう!



●みなさんへ、



 どんなに、今、家族がバラバラで、その心がバラバラでも、許して、忘れる。決して、あきらめ
ては、いけませんよ。あとは、根くらべです。負けても、負けても、ただひたすら負ける。



 許して、忘れる。ただひたすら、許して、忘れる。その道は、決して楽な道ではありません。し
かし、ただひたすら、許して、忘れる。そのハバの広さが、結局は、親の愛の深さになるのです
ね。そしてその愛は、子どもの、心を、必ず、溶かします。どんなかたい心でも、溶かします。そ
れを信じて、ただひたすら、許して、忘れる。



 がんばりましょう!



+++++++++++++++++++++++++



親が子どもを許して忘れるとき



●苦労のない子育てはない



 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。



よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。



親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。



しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるよ
うに、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。



●子どもは下からみる



 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。



 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。



私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。



私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか
った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から
二男を助け出すところだった。



●「こいつは生きているだけでいい」



 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。



私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。



●子育ては許して忘れる 



 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。



同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思
う。が、ある日。その意味がわかった。



 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。



つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛
の深さが決まる。



もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども
をあるがままに認めるということ。



子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題
を自分のものとして認めるということをいう。



 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。



※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。

(031020)











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●園の方針



はじめまして。

はやし先生にぜひご相談したく、メールさせていただいています。



私はH市に住んでいます、EAと申します。



はやし先生のことは中日新聞の連載を読みとても共感でき、勉強にもなり、

S町で、行われた講演会にも参加させて、いただきました。



今は、三年生の二男が、月刊雑誌「ファミリス」をもってきています。



今回ご相談したいことは。幼稚園の園長先生のことなのですが、

私には三人の子が、いますが、上の子が、幼稚園に通っている時と、園の雰囲気が、

あまりにみかけ離れてしまいました。公立の幼稚園にもかかわらず、ものすごく

かたくるしくて、息苦しい感じになってしまい、残念でしかたがありません。



そのため、これで、子どもたちは、大丈夫なのだろうか?、という不安にかられます。



具体的に言いますと、まず、外遊びが、とてもへってしまったこと。

どろんこ遊びなどは、ほとんどなく、砂場も二つあるうちのひとつは日陰で、

今では、物置になってしまいました。



いままで、何年もの間、使えたものが、です。



また、小さな池が作ってあり、水遊びもでできましたが、それも今では

そこも危ないということで、水が抜いてあります。



そのほか、以前は、小動物も何匹か飼っていましたが、それもなくなりました。



プロレスのような遊びも、禁止です。友だちとの物の取りあい、

もちろん喧嘩など、もってのほか。すべて危ないからだそうです。



私はこういったことから、ものすごく大切なものを幼少期時代に

学べると思っているのですが、あれはだめ、これはだめ、とがんじがらめなのです。



不満を感じているお母さんたちもかなり多いのですが、

直接園長先生の話しても結局言い訳ばかりで、何となくはぐらかされてしまい、

話にならないという感じです。



現状をわかっていただこうと息子の学校の先生にも、相談してみました。

こちらの幼稚園にくる前にも、何かと、問題のあった園長のようです。



こちらの方も今年で三年目なのですが、色々な園長先生がいると、

それは、それで、対応していった方が良いのでしょうか?



子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活を送り、

今経験しなくては、いけないことをしなかったことに

よって、一〇年後の友だちとのかかわり方など、問題はおきないのだろうか、

と真剣に悩んでいます。



そこまで、心配しなくても、他のことで、学んでいくのでしょうか?



もう少しのびのびした園生活をおくらせてあげたいのですが……

突然のメールでながながと愚痴を書いてしまい、申し訳ありません。



ぜひ、はやし先生のお考えを聞かせていただきたいと思います。

よろしくお願いいたします。



++++++++++++++++++++++++



【EAさんへ……】



 家庭教育の主導権は、だれがもつかという問題に、行きつくと思います。「家庭」か、それとも
「園」か?



 EAさんのご質問を読んで、最初に気になったのは、「何でも、幼稚園で……」という姿勢で
す。「その幼稚園が、願ったような教育をしてくれないから、不満」というわけです。



 しかし、ね、EAさん。家庭教育の主導権は、あくまでも、家庭にあります。保育園にせよ、幼
稚園にせよ、その家庭教育を支える、補助的な存在でしかありません。もともと「教育」というの
は、そういう目的から出発しました。



 全体主義国家、軍事国家、貴族国家では、教育は、「民づくり」の道具として使われ、また使
われています。残念ながら、この日本には、いまだにその亡霊が、はびこっています。教育を
受ける側にも、その亡霊が、はびこっています。



 そこでどうでしょうか、発想を、少し変えてみるのです。



 家庭でできないことを、園でしてもらう。園でしないことは、自分でする、とです。これは、欧米
人の発想です。



 アメリカでは、公立の小学校でも、カリキュラムは、その学校の先生と、親たちで決めていま
す。先生を、親たちが雇って、自分で開いている学校も、少なくありません。「チャータースクー
ル」というのが、それです。



 そういう学校を見ていると、「では、日本の学校は、いったい、何か?」ということになります。
事実、私は、そう思いました。



 日本では、いまだに学歴信仰が、ハバをきかせています。それを学校神話が支えています。
「学校は絶対」という考え方です。



 以前は、それが「学校」でした。が、今は、それが低年齢化し、「幼稚園」や「保育園」となった
わけです。「幼稚園は絶対」「保育園は絶対」と、です。EAさんのメールを読んでいると、そんな
感じすら、します。



 つまりEAさん自身が、「幼稚園はそういうところ」と思い込んでいる?、のではないか、という
ことです。まちがっていたら、ごめんなさい。



 こうした依存性は、実は、日本人独特のものと言ってもよいでしょう。「何でも、お上(かみ)に
してもらう」という姿勢です。そのために、お上には、従順に従う。命令なら、何でも聞くというよ
うに、です。



 事実、一方で、砂場の不衛生問題、紫外線問題、いじめ問題など、学校のみならず、園に
も、山積しています。こと野外活動について言うなら、紫外線については、日本人も、もう少し慎
重になったほうがよいのではないでしょうか。紫外線というのは、言うまでもなく、人体にきわめ
て有害な、放射線です。



 オーストラリアでは、その時期になると、紫外線情報を流し、子どもたちに外出禁止命令が出
されます。ふだんでも、ツバの広い帽子をかぶり、サングラスをしています。



 けんかや、いじめについては、先生もたいへん苦しい立場にあると思います。EAさんのよう
な方がいらっしゃる一方で、そういうことを絶対に許さない親たちもいます。先日もある小学校
(I町I小学校)で講演をしましたが、その学校の校長先生が、こっそりと、こう話してくれました。



 「今、現場の先生たちが、みな、萎縮してしまっている」と。



 ささいな暴力事件でも、ことさら大げさに考えて、学校の責任を追及する親たちがいるからで
す。で、その結果、「萎縮してしまっている」と。



 こうした問題の原因は、何かというと、冒頭に書いた、「何でも学校で」という、学校神話です。
話はそれますが、不登校の問題にしても、その流れの中にあります。「学校とは、絶対に行か
ねばならないところ」という発想です。そういうがんじがらめの発想が、不登校の問題を、ことさ
ら大きくしてしまいます。



 EAさんのご意見について、否定的なことばかり書きましたが、そこでどうでしょう。ここは、ほ
んの少しだけ、発想を変えてみられては……。



 「幼稚園でできないことは、自分でしてみよう」「幼稚園でしてくれないことは、自分でしてみよ
う」と、です。



 そうすれば、ずいぶんと、荷が軽くなるはずです。また幼稚園に対する不満も、消えるはずで
す。ドイツやイタリアでは、親たちは、そう考えて、子どもの教育に当たっています。クラブ制度
が発達し、たいていの子ども(中学生)たちは、午前中で授業を終え、それぞれのクラブに通っ
て、好き勝手なことをしています。本来、個性を伸ばす教育というのは、そういう教育を言うの
ですね。



 幼稚園の園長が、何かと、はぐらかしてしまう……というのは、そのあたりに理由があるよう
に思います。つまり一方で、「それを望まない親たちがいる」ということです。しかしそういう親が
いることは、言えない。また批判もできない。そこで「何となく、はぐらかされてしまい……」とな
るのですね。



 多分、私が園長でも、同じような、あいまいな説明をするしかないと思います。



 また、これは私の経験ですが、私は、以前は、よく生徒たちを連れてキャンプに行ったりしま
した。しかし事故が起きたら、それこそ、たいへんです。



 知りあいの先生が、自分の教え子たちを、キャンプに連れていったことがあります。もちろん
無料。ボランティア。しかしそのキャンプをしているとき、がけの上から、大きな岩が落ちてき
て、その中の一人が死んでしまいました。これはG県I村で、実際に、起きた事件です。



 この事件は新聞にも載りましたが、その先生は、当時、三〇〇〇万円も、慰謝料などを請求
されました。二〇年近く前のことですから、今のお金になおすと、一億円近い金額になります。



 ボランティアということで、当然(?)、保険には入っていませんでした。その先生は、そのあと
どうなったか? ここに書くのもつらいですが、自己破産、離婚……など。しかし、その話を聞
いからというもの、私は、生徒たちを、キャンプに連れていくのを、やめました。



 他人の子どもを預かるというのは、本当に、たいへんなことです。園長をかばうわけではあり
ませんが、それこそ毎日、目が回るほどの、忙しさです。相手が幼児となると、さらにたいへん
です。



 私も、この三週間、たった一人の孫(一歳)に、朝から番まで、翻弄(ほんろう)されました。ほ
んの少し目を離したとたん、倒れて、テーブルの角で頭をぶったりします。自分の子どもなら、
こうまで疲れないだろうなというほど、疲れました。



 で、こういう問題は、たとえば教育委員会レベルまでもちあげても、解決はしないだろうと思い
ます。問題の「性質」そのものが、教育委員会で、どうこうなる種類のものではないからです。
そこでその方針を、どうやって、縁側に伝えていくかですが、実のところ、ここにも大きな限界が
あります。私立幼稚園ならまだしも、公立幼稚園となると、なおさらです。



 そこで視点を大きく変えて、では、そういう指導法が、子どもにどのような影響を与えるかにつ
いて、考えてみます。EAさんは、「子どもたちにとって、三年間この園長先生の方針で、園生活
を送り、今経験しなくては、いけないことをしなかったことによって、一〇年後の友だちとのかか
わり方など、問題はおきないのだろうか」と書いておられます。



 人の基本的な人間関係は、母と子の間で、形成されます。しかもその時期は、かなり初期
で、〇歳から一、二歳にかけてです。これは発達心理学の世界でも、常識です。その基本的な
人間間系が、やがてワクを広げて、先生と子ども、子どもと子どもとの関係へと、応用されてい
きます。ですから、この点については、EAさんのご心配は、まったく、無用かと思います。



 つまりこの時期、友人関係が制限されたからといって、交友関係が結べなくなるとか、あるい
は反対に、制限されなかったからといって、交友関係が結べるようになるとか、そういうことは
ありません。子どもの交友関係は、もっと別のところで、別の形で、論じられるべき問題です。



 そこでもう少し深く、「今、経験すべきこと」について、考えてみます。昔、フルグラムという人
は、「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」と書いています。それについて書いた原稿
を、二作、ここに添付します。少し脱線するかもしれませんが、お許しください。



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●遊びが子どもの仕事



 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらず
とも、はずれてもいない。



「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。



日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。また
「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外
で身につける。実はこの私がそうだった。



 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅拒否
の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。けんか
のし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。



……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。それまで
は私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。い
わんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。しかしやはり
私という人間は、あの寺の境内でできた。



 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみあいもあ
った。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離さ
れていたということ。



たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわしたら最
後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリンチもしたし、つか
まればリンチもされた。



しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手ではないが、し
かし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺の境内とそれを包
む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がな
い。



つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。



 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い子ど
もや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、子分の関
係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。仲
間意識もあった。



仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。しかしそれは日本という
より、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だから今、世界で起きている紛争や事件
をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解すること
ができる。



もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の
境内で学んだ」と。



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●ギャング集団



 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学ぶ。そ
ういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集団教育」と
いう言葉が、まちがって使われている。



 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団教育に
遅れます」と言うこと。このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中にお
いて、従順な子どもにすることをいう。



日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本になっている。その「民づくり」を
すること、つまり管理しやすい子どもにすることが、集団教育であると、先生も、そして親も誤解
している。



 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでなければ
ならない。たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいこ
とをしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、がんば
って、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせてするとき、な
ど。



そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学んでいくの
が、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集団教育は可能な
のである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。もともと「遅れる」とか、「遅
れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。



 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはならな
い。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、自分勝手で、
わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子どもたちの遊び方に
も、現れている。



 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、みな
が、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えられなかった
光景である。



 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令で、バ
ケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何かをするにし
ても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、それがない。



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【EAさんへ……】



 そこでどうでしょうか、つぎのように考えてみたら……。



 幼稚園でできること。幼稚園がしてくれること。そして一方、幼稚園でできないこと。幼稚園で
してくれないこと。これらを、しっかりと頭の中で、分けてみたらどうでしょうか。



 一つの参考例を、ここにあげてみます。



 埼玉県にある、ある幼稚園では、親どうしが相談して、子どもを預かりあうという活動をしてい
ます。Aさんが、BさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をする。つぎに今度は、Bさんが、
AさんとCさんの子どもを預かり、一晩、世話をするという活動です。



 「他人の家の釜のメシを食べさせることによって、自分の家の釜のメシの味が、よくわかるよ
うになる」という、園長の方針で、それが始まりました。



 しかし問題は、すぐ起きました。プライバシーが、筒抜けになってしまうというわけです。「そこ
までプライバシーを開示していいのか」という異論も出ました。生活レベルの違いもあるからで
す。



そこでその幼稚園では、ごく親しい人たちの間で、たがいに納得できる人どうしの間で、子ども
の世話をしあうという方針に変えたそうです。



 しかし方法としては、おもしろいですね。EAさんも、幼稚園から離れたところで、独自の姿勢
と方針で、こうした活動をしてみたら、いかがでしょうか。また最近では、野外活動を積極的に
するクラブも、あちこちに生まれています。そういうクラブを通して、子どもに、いろいろ体験さ
せるという方法もあります。



 最後に、子育ては、親がするものだということ。幼稚園でも、学校でもありません。どこでどの
ように学び、成長していくかは、子どもの問題ですが、それを助け、励ましていくのは、親だとい
うことです。そういう原点に立ちかえって、幼稚園のあり方を、もう一度、さぐってみてください。



 ただし、EAさんのように、子育てや、教育、子どもを包む環境に関心をもつことは、とても大
切なことです。決して、EAさんが、まちがっているとか、そういうことではありません。



 こうした問題意識を、より多くの親たちがもつことによって、日本の教育も、よくなります。私も
ある時期、何でも学校で……、何でも幼稚園で……という発想で、学校や幼稚園を批判したこ
とがあります。しかしそれも一巡すると、そういう発想そのものが、おかしいと、気がつきまし
た。



 そして今は、この回答の冒頭に書いたように、家庭教育の主導権は、だれがもつかという問
題に、行きつきました。「家庭」か、それとも「園」か?……と、です。



 最後に、決して、EAさんのお子さんが通っている幼稚園を擁護しているわけではありません
が、(また擁護しなければならない立場にもありませんが)、こと幼児教育について言えば、あ
る程度の「適当さ」も、大切だということです。



 「行きたければ行けばいいのよ」「適当に行けばいいのよ」「あなたなりに、楽しんできなさい」
と、です。そういうおおらかさが、一方で、子どもを伸ばすのも事実です。こと、人間関係につい
ては、一〇年後のことは、悩まないこと。それを決めるのは、あなたではなく、子ども自身だか
らです。もうすでに、年齢的に、あなたの子どもは、少しずつですが、親離れの準備を始めてい
るはずです。いかがでしょうか?

(031022)